Monthly Archives: 3月 2020

【25】連立政権参加前夜の波乱ー平成10年(1998年)❸

竹入元委員長の回顧録と市川氏の批判

平成10年の晩夏に、党にとって極めて残念なことが起こります。8年前の1990年に政界を引退していた竹入義勝元委員長が朝日新聞紙上に回顧録を発表したのです。その中で、創価学会と公明党との関係について、あたかも「政教一致」であったかのごとく、歪曲して中傷する一方、対中国問題での成果をほぼ自身の手柄であるかのごとく語ったのです。タイトルは、「秘話 55年体制のはざまで」。8月26日から9月18日までの間に、12回にわたって連載されました。発表と同時に、「これは一体どういうことか」との反響が党内、支持者の間から巻き起こりました。直ちに、公明新聞紙上で強い批判の声が連日のごとく掲載されていきます。

そんな中、10月28日付け朝日新聞紙上に、市川雄一元書記長(「新党平和」常任顧問)へのインタビュー「公明の竹入氏批判、なぜここまで?」が掲載されました。このインタビューは同紙の梶本章記者によるもので、批判が強すぎるのではないかとして、微に入り細にわたって問いただしています。市川氏は、それに対して一つひとつ丁寧に答えていました。例えば、「公明党と学会の関係は、政党と支持団体の関係で、それ以外の何物でもない。それを『従属』とか、『支配』と表現している点が問題だ。憲法がいう政教分離の原則は、国家と宗教の分離だ。政党と宗教の分離をいっているわけではない。同時に、憲法は宗教団体の政治参加の権利を保障している。支援団体が党に意見や注文、アドバイスをするのは当然だ。その声に党が耳を傾けるのも、これまた当然。要は、党の主体性がどこまで貫かれているかだ」と、いったように。

私は実は竹入元委員長を団長とする「第12回公明党訪中団」の随行記者として、北京を皮切りに、天津、大連、上海、広州、深圳など中国5都市を訪問したことがあります。その際に同氏のいささか首を傾げざるを得ぬ赤裸々な実態を見てしまいました。中でも、中国要人との接見の前夜に、聞くに堪えない、我が耳を疑う発言を聞いたのです。また、異常なほどのお金を使ったお土産購入の姿も見ました。つまり、同委員長の表の堂々たる言動とは別の、怪しげな裏の姿も見て、この人物に大いなる疑問を抱いたのです。

勿論、彼の功績を私は全否定するつもりはありません。梶本氏が云うように「政治外交史的には竹入氏が果たした役割は評価されうる」との指摘には首肯するところがありました。市川氏の「竹入外交とは、本質的には『御用聞き外交』だった」と云うのは少々キツすぎると思ったものです。この辺りは、私の物の見方、人物観の拙さのなせる業かもしれませんが。

当時、この事件は実に様々な波紋を呼びました。私にとって忘れられないことは、親しくしていた毎日新聞のある記者が赤坂の議員宿舎にやってきた時のことです。彼は憤懣やるかたないといった口調で、竹入さんを批判、攻撃する公明新聞の論調はおかしいと、まくし立てました。普段はどちらかといえば、おとなしい学究肌の記者だっただけに、驚きました。「竹入さんは親分肌で、いい人だった」との言い振りだったのです。公明党の番記者の間ではこういう竹入評が専らでした。ここは、記者をバカにすることが多かったとされる矢野元委員長とは違うところでしょう。尤も、中国での〝竹入裏面姿〟を思い起こすにつけ、その演技力の逞しさのなせる技かもと、思わざるをえませんが。

政治改革の嵐、新たな展開へ

ところで、私が初めて衆議院に挑戦し、落選した年ー1991年(平成3年)ーあたりから吹き始め、私が当選した年である1993年(平成5年)頃にはピークを迎えていた政治改革の嵐も、20世紀の終焉である平成10年後半には転機を迎えます。小選挙区比例代表並立制の導入や、二大政党制への胎動としての新進党結成などを経て、自民党の変質が余儀なくされていくのです。ある意味で、その象徴的出来事が額賀防衛庁長官の辞任でした。5年前の細川護熙首相の誕生で、38年間単独政権についていた自民党がその座を追われていましたが、ようやく橋本政権から小渕政権にバトンタッチされ、単独政権復帰となりました。しかし、参議院議員の議席の過半数割れで、先行き覚束ない実態を暴露したのです。

一方、公明党は、新進党に参加したものの、衆議院議員のみ全員参加で、参議院議員は半分だけ、地方に至っては全て元のままでした。その後、新進党の分裂にあって、新党平和と公明に分かれるという不規則な分裂状態にありました。こうした状況はなにかと不都合であり、元の鞘に戻ろうという動きが強まり、平成10年11月7日に、「公明」に「新党平和」が合流して、「新しい公明党(New Komei Party)」が誕生します。代表に神崎武法、代表代行に浜四津敏子、幹事長に冬柴鐵三の三氏がつきます。ちなみに、市川雄一元書記長は副代表に就任します。私は副幹事長の任命を受けました。従来の委員長、書記長というポスト名が代表、幹事長になったことに新たな時代の到来を感じさせました。

神崎公明党の新たな出発

新出発をした公明党の最初の仕事は、緊急経済対策でした。地域経済の活性化を図るために、総額7000億円規模の地域振興券(商品券)構想の実現を掲げました。これにはバラマキの極致ではないかとの批判が寄せられたものの、戻し減税的効果の意味も強く、最終的には公明党ならではの大衆福祉政策として、地域住民の支持が得られていきます。また、将学金制度や児童手当制度の拡充に加えて、緊急の少子化対策など次々と政府自民党に対しての要求を実らせていきました。予算編成権を持たない野党でありながら、掲げた「合意形成型政治」の名に恥じない闘いを展開していったものです。

また、当時大きな課題として浮上した日米防衛協力のための指針(ガイドライン)関連法に対して、修正要求を求めて、成立に協力する方針をとりました。これは国内政治最大の緊急課題であった金融早期健全化法の成立と共に、青息吐息だった小渕自民党を救う救命ボートの役割を果たすことになったのです。加えて、組織的犯罪防止対策のための通信傍受法についても、ステロタイプ的な反権力の旗のもと旧来的な野党の反対一辺倒の姿勢を横目に、修正案を提出して成立に協力しました。こうして、国旗・国歌法や改正住民基本台帳法など国家統治の観点から重要な意義を持つ法案の修正成立など、〝合意形成の見本〟を天下に示していったのです。(2020-3-29 公開=つづく)

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【24】「金融二法」成立に公明が頑張るー平成10年(1998年)❷

新政権発足直後も銀行破綻相次ぎ、波乱止まず

小渕内閣がスタートして程なく、日本長期信用銀行の経営危機が浮上、一時国有化されたのちに、10月には経営破綻が表面化します。また、日本債券信用銀行も同じ轍を踏み、12月には経営破綻に陥ります。この年には、第二地銀の国民銀行、幸福銀行、新潟中央銀行の破綻も相次いで起きました。この当時、実は速水優日銀総裁が金融政策を決定する会合(9月9日)で、大銀行ですらデフォルト(債務不履行)を起こしかねない旨の発言をしていました。10年後の2009年1月に日銀が公開した議事録で分かったものです。

このように、金融危機は深刻化を深め、アジアの通貨危機から、火の手はアメリカに達し、ブラジルなど中南米にも波及して、「日本発の世界金融恐慌」の恐れすら懸念されていたのです。小渕内閣発足直後から10月まで開かれた臨時国会は、金融危機克服を最大のテーマに「金融国会」と称されて大騒ぎとなっていきました。この国会には、金融再生法案と金融早期健全化法案の二法案が提出されます。前者は、金融機関の破綻後の混乱を防ぐことが狙い。後者は、未然に破綻を防ぐために公的資金を投入するものでした。まず、前者については、自民党が、平和・改革(当時の公明党の衆議院での会派名)と、民主党、自由党の野党三党案を丸呑みする形で修正され、10月12日に成立しました。後者については、平和・改革の修正要求を自民党が取り入れて修正し、自民党をかなめにした与野党三党で共同修正したものを合意することができました。4日後の16日のことです。結局、野党第一党の民主党は反対に回ってしまいました。

功を奏した公明の積極果敢な政策対応

この二つの法案、とりわけ金融早期健全化法案の成立を巡る平和・改革(公明党)の動きは、紛れもなく日本の危機を救ったものとして、専門家の間で高く評価されていきます。当時、大蔵省財務官として、国際社会で〝ミスター円〟との異名をとった榊原英資氏は、後に放映されたテレビ番組で「(98年の金融早期健全化法案成立について)これが自民党と公明党の妥協で成立するんです。あそこで、平和・改革がいち早く賛成して(中略)、これで日本は救われたと思います。あれがなければ、日本はあそこで、ドーンと恐慌に近い状況に落ちていたと思います」(99年7月18日のテレビ朝日「サンデープロジェクト」)と語り、公明党の対応を高く評価しました。

さらに、翌2000年の4月9日放映の同じ番組で、より具体的にこう発言しています。「98年の9月から10月というのは、世界恐慌直前だったと思います。日本も金融国会をやっていたのですが、あの時の行き方では、日本が金融恐慌に突入する可能性が極めて高かった。(中略)公的資金を破綻前の金融機関に早急にすべきだということで9月22日の日米会談を受けて、小渕さんは方針転換です。自民党はそれで行くのですが、公明党は野党共闘を組んでいたのですが、自民党に賛成するんです。今の自公体制の原型がここにある。(中略)自公が中心になって60兆円(金融システム安定に向けた資金枠)を用意した。これによって日本は救われたと思います。そこで、日本が金融恐慌に突入することが救われた(避けられた)んだ、ということは歴史的にきちっと検証されると思います」と。同氏はその後民主党のブレーンとして活躍されたことは周知の通り。その見通しの不具合ぶりを指弾する向きがないわけではありません。ですが、この公明党への評価は率直に事実関係を見抜いたものとして、私は彼を高く評価したいと思います。

本会議や安保委で質問。額賀長官を辞任に追い込む

この年、9月初め北朝鮮が弾道ミサイルを発射させるという事態が起こり、日本中を驚かせます。金融危機の最中でしたが、日本防衛の盲点を巡っても議論が闘わされました。さらに、装備品の調達を巡って防衛庁が背任事件を引き起こします。私は安保委員会や本会議で質問に立ち、小渕首相や額賀防衛庁長官の責任を追及しました。このうち、9月18日の本会議では、大手通信機器会社4社による装備品購入の製造原価水増しで、約20億円もの巨額のお金を防衛庁調達実施本部が受け取っていた問題を取り上げました。この背任及び証拠隠滅事件は、防衛庁の内部告発から表沙汰になったもので、同庁内部に巣くう問題の根の深さを想起させて余りあるものでした。

小渕首相は真摯な姿勢で詫びを表明する一方、再発防止に向けて最善の取り組みをすることを約束。額賀長官も低姿勢に終始しました。しかし、事態はそんなことでは収まらず、結局は額賀長官が詰め腹を切らせられることになりました。野党提出(10月16日)の問責決議案が参議院で可決、一ヶ月後には長官辞任に追い込んでいくのです。つい少し前まで、防衛庁長官だった人物を野党が一致して辞任に追い込むという、独特の〝爽快な達成感〟を味わってしまいました。私自身、額賀長官の責任を強く主張していただけに、手応え十分でした。(2020-3-25公開 つづく)

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【23】未曾有の金融危機の中、小渕氏が首相にー平成10年(1998年)❶

予算委で初の対首相質問

金融危機の真っ只中に、大蔵省の不祥事が続発しました。このことは庶民感情として全く許せないことでした。そうした空気を背景に、私は衆議院予算委員会で首相に質疑をすることになります。議員生活5年にして初の経験でした。テレビ中継もあり、緊張すると共に大いに気合を入れて準備したものです。1998年2月5日のことです。

質疑ではまず、バブル崩壊の過程の中で、政府の経済失策、そして大蔵省の護送船団方式の失敗をあげていきました。更には、金融機関の経営の失敗などのツケが全部弱い年金生活者にしわ寄せされているといった現状を述べました。また、30兆円もの公的資金の投入をするための法案の成立を図ろうとしていることについての問題点を追及しました。金融機関が自らの失敗を覆い隠すために、政府自民党と結託して不良債権の穴埋めに必死となっているではないか。金融業界からの「政治献金」を自民党が受け取っていることはおかしいではないかと、攻め立てたのです。

しかし、橋本さんは「首相」と「自民党総裁」という二つの立場の違いを使い分け、のらりくらりの答弁を繰り返すばかり。こちらは、政官財の癒着の実態を具体例をあげて追及したのですが、金融業界からの政治献金の使途については、経理区分した上で自粛することを強調するにとどまりました。十分に資料を集め、市川先輩のアドバイスを受けつつ質問への準備は、進めたのです。ですが、結果は空振り三振とは言えぬまでも、いい当たりのファウルを繰り返したのち、平凡な内野ゴロに仕留められた感じでした。この後、大蔵委員会でも松永光蔵相に対して大蔵省の不祥事を追及(4月28日)しました。このような政治不正、腐敗追及が出来たことは、野党ならではの貴重な議員経験といえましょう。やせ我慢めいて聞こえるかもしれませんが、正直そう思います。

自民党過半数割れの責任とり橋本氏辞任へ

橋本首相は生真面目な人で、群れるのを嫌う一匹狼的側面がありました。一般的には、能吏みたいで、お役所の課長よりも実務に詳しいと、揶揄されたものです。慶應義塾大学法学部出身の戦後最初の首相(吉田茂は中退、戦前は犬養毅ひとり)ということもあり、後輩にあたる私は大いに関心を持ち、正直期待もしました。だが、何かにつけて巡り合わせが悪かったといえるように思えます。行政改革の面では、今に至るまで影響を及ぼしている「官庁再編」を実施し、それなりの業績をあげました。ただ、経済対策については、 中々効果的な施策が打てず、結果的に海外からも「ツーリトル、ツーレイト(小さすぎて、遅すぎる)」と批判される政策を小出し、後出しにしたに過ぎませんでした。平成における「失われた10年」を決定づける「政策不況」を拡大させただけだったのです。また、ある中国人女性との間での機密漏えい問題についても、一部メディアで騒がれました。ハニートラップ(女性スパイによる色仕掛け諜報活動)に引っかかった典型例として、その著作に取り上げる著名な外交評論家もいます。失意のうちに2006年に67歳の若さで亡くなられたのは残念なことでした。

こうした背景もあって、98年7月に行われた参議院選挙では、自民党は改選議席61に対して45議席しか獲得出来ず、非改選議席と合わせても103議席という大敗を喫しました。過半数の126議席には遠く及ばなかったのです。尤も、このひと月前の6月1日に、自社さ連立政権は解消されていました。というのも、離党議員の復党などで、自民党はようやく衆議院における単独過半数の回復に漕ぎ着けていたからです。ただし、橋本首相は選挙大敗の責任をとって辞任。代わって小渕恵三氏が新首相に指名されました。7月30日のことです。

長銀救済をめぐり〝火の消し方〟を火事場で議論

小渕恵三氏といえば、平成の幕開けの際に、その命名の発信人として知られています。竹下政権の官房長官としての役回りでした。それいらい10年を経て、同じ派閥から橋本氏の後を継いで首相となりました。と、書けば簡単になったように思われますが、実は大変でした。参議院で、過半数議席に足らない自民党は、103票の小渕恵三氏よりも、野党民主党の菅直人代表が142票も獲得し、首相指名されるのです。衆参で違った結果が出たのですが、衆議院の指名を優先させる憲法の規定に則って小渕氏が首相になりました。田中角栄元首相の流れを組む、竹下登氏譲りの気配り、調整型の政治家との評価が専らでした。小渕氏の登場は、実に長銀の株価が額面割れに陥るという未曾有の金融危機の中でのことでした。蔵相に宮澤喜一元首相を登用するなど、必死の構えを見せて立ち向かおうとしたのです。

7月末から10月まで開催された臨時国会は、長銀救済をどうするかのテーマで、「金融国会」と呼ばれます。宮澤蔵相を中心に、公的資金の導入をしてまで長銀を延命させたいとする流れと、破綻させ国有化に持って行きたいとする野党民主党との間でせめぎ合いになりました。この争いで、特徴的だったのは、自民党の若手グループがベテラングループと対立し、民主党と組む動きを見せたことです。この連中は「政策新人類」と呼ばれるようになります。このあたりのことは、金融危機で燃え盛っている現場で、あたかもどう火を消せばいいかを議論しているようなものでした。この後、更に一段と、大蔵省の機能不全状態が鮮明になっていくのです。 (2020-3-22 公開=つづく)

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【22】新進党の分裂で「新党平和」へー平成9年(1997年)❷

小沢氏の急進的手法が災いし、新進党分裂へ

さて、新進党党首の小沢一郎氏は結成時点こそ海部俊樹元首相に党首の座を譲りますが、その後は羽田孜、鹿野道彦両氏らと闘って、いずれも破っています。そのくせ、党内求心力はその都度衰えを増し、弱体化が顕著になっていきます。この人は自民党という政党のど真ん中で政治家として大きくなりながら、その在り様に我慢できなかったようです。政治における官僚支配を許し続けてきた自民党政治がその不満の最大のものだったと思われます。

外から自民党を見続け、「55年体制打破」を志向した公明党にとって、その理念部分は小沢氏と共有できました。彼と力を合わせることで、古い自民党を壊すことが出来ると確信出来たのです。しかし、その手法が急進的過ぎることから、やがて人が離れていくことは避けられませんでした。公明党も平成9年(1997年)11月に、それまで新進党との合流が棚上げ状態であった、参議院議員(一部)と地方議員が正式に袂を別つ決断をします。翌年夏の参議院選挙では独自の闘いをすることになったのです。

12月の新進党の党首選挙では私たちは鹿野道彦氏を応援することを決めました。同氏とは個人的に懇意でもあり、発奮したものです。ただし、結果は敗退でした。小沢氏は勝利したものの、深刻な党内事情から、純化路線へと転進を決め、年の暮れも押し詰まった27日の両院議員総会の場で、新進党の分党と、自由党の結成を自ら宣言します。この結果、新進党は6つのグループに分かれることなり、私たち旧公明党衆議院議員グループは「新党平和」(参議院議員グループは「黎明クラブ」に)を結成することになります。この時点で、旧公明党から権藤恒夫、二見伸明、東祥三、久保哲司、石垣一夫氏らは小沢氏率いる自由党への参加を決め、分裂の試練を味わうことになりました。政治家・小沢一郎氏はなかなか魅力溢れる人物です。この時から20有余年。様々の毀誉褒貶を経て、今なお、打倒自民党に向けて野党結集の影の仕掛け人たろうとしています。驚嘆するしかありません。

新井将敬氏からの「公明」離脱の勧め

この頃のことで今になお印象深いエピソードを披露しましょう。とっておきは、今は亡き新井将敬氏(元衆議院議員)との会話です。新井氏は大蔵省出身の政治的センス溢れる風雲児。当時の政局の中で、自民党から新進党に転身、私とも親しくなりました。ある時、彼から話があるので、自分の議員会館の部屋に来てくれないかとの呼び出しを受けました。何事やらんと駆けつけたところ、彼はおもむろに「赤松さん、貴方は『新党平和』になんかにいないで、この際離党して、我々の党に来ないか」というのです。いやはや、いかに私が飛び跳ねていたとはいえ、公明グループからの離脱を勧められるなんて。そんな風に自分はみられているのかと、内心大いに慌てました。

勿論、そういう素ぶりは見せずに、やんわりとお断りしましたが。当時の新井氏は、柿沢弘治、太田誠一氏らと共に新たな党を起こそうと、画策している最中だったため、私に誘い水を持ちかけたものと見られます。柿沢氏とは、門前仲町の自宅にもお邪魔したり、太田氏とは同年齢でもあってそれなりに懇意にしていましたから、彼らの間で私のことを話題にしたものと思われます。新井氏は、その後しばらくしてあの大蔵省をめぐる汚職事件に巻き込まれ、結果的に自死されてしまったことはまことに残念なことでした。

金融破綻が一段と鮮明に

一方、平成9年(1997年)4月に、橋本政権は次々と国民への負担増を求めるようになります。まず、消費税率を3%から5%に引き上げたことが特筆されます。そして医療費の本人自己負担を1割から2割へ、さらには2兆円の特別減税の廃止など、合計9兆円の負担増です。その結果、景気が大きく失速する羽目になってしまいました。加えて、そこにタイの通貨危機(7月)が起こって、インドネシア、韓国に波及して、アジア通貨危機にまで拡大してしまうのです。更に、ロシアの財政危機がまたも顕在化。日本の製造業にとって命綱とも見られたアジア地域への輸出に黄信号が点滅することになり、不況が一段と深刻化してしまいます。

そこへ、三洋証券の倒産、北海道拓殖銀行の経営破綻、更には、山一証券の自主廃業などが連鎖的に起こり、日本は未曾有の金融危機を迎えてしまいます。このうち、山一証券の野澤社長の「社員らは悪くありませんから。みんな私たちが悪いんです。お願いします。再就職できるようにお願いします」との涙の記者会見は、とりわけ印象深いものがありました。このように、いわゆるバブル崩壊から5年余りが経ち、当時の無謀な投資や融資が不良債権となって、一連の経営破綻の引き金となっていきました。ここから、日本長期信用銀行、日本債権信用銀行の一時国有化へと、事態は一段と深刻になっていくのです。(2020-3-18 公開=つづく)

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【21】日本経済を襲う嵐の前の静けさー平成9年(1997年)❶

政治風刺漫画にまで登場

1997年の幕開けは、新進党の混迷を世間に印象づける形で始まりました。基本政策構想が全議員会議の場で小沢一郎党首から示され、すったもんだのやりとりが行われたのです。朝日新聞がその概略を1月15日付けで報じており、面白い内容になっていました。いわゆる右も左も混じり合った政党ですから、みんな勝手なことを言ってることがよく分かります。とくに安全保障基本法を制定するかどうかで、意見が分かれました。岡田克也、野田毅、細川護熙、小池百合子氏らの発言に交じって、私も「安全保障基本法案は憲法改正にかかわる問題で、時期尚早だ。沖縄の米軍基地撤去に向けた議論をした方が現実的ではないか。創価学会のメンバーは強い関心を持っている。用心してほしい」などと偉そうに聞こえる発言しているのです。今から振り返ると、小池氏の「行革だとか、株価が上がったり、下がったりしているときに、新進党は安全保障論議ばかりやっているとなると、『違うんじゃないの』という受け止め方しかされない」との指摘がぐっと刺さってきます。彼女の政治感覚の鋭さはここでも出色です。

それで、翌日の朝日新聞の針すなおさんの政治漫画に、なんと私とおぼしき四角い顔の男が描かれているのです。小沢一郎党首が「基本政策構想」と上書きされた箱からマスクを配っている場面。ゴホゴホとせきをしながら、「多国籍軍参加反対」と言いつつ、それを受け取っている描写なのです。てまえに細川護熙元首相も「ゴホゴホ、反対」と。添え書きには「マスクつければ多酷せき問題が鎮まるとは思えないが」と。なんだかよくわからない漫画ですが、後にも先にも私が政治風刺漫画に登場したのはこの時だけ。それなりに、公明党を代表しての反対が針さんには印象的に映ったに違いありません。

脳死問題で独自の行動

1997年の国会で浮上した課題は、脳死を人の死と認めるかどうかという大きなテーマでした。臓器移植の是非を巡って紛糾したのです。他人の臓器を必要とする人にとって、脳死状態の人から提供を受けることは、蘇生に繋がるために、本人は勿論家族も喉から手が出る出るほど欲しがられることは十分に理解できます。しかし、それは見方を変えると、人の死を待望することになります。幾ら客観的な基準を設けるとはいえ、勇み足的判断も引き起こさないとは限りません。人それぞれが持つ「生死観」によって考え方は分かれました。

党議拘束のもとに政党としての縛りをかけることには無理があったのです。それゆえ、個人ごとの判断に委ねられました。悩んだ末最終的に私は、臓器移植そのものに反対する態度を選択しました。人間の持つ宿業は、その臓器にも及ぶものであり、違う個体の中では馴染み得ないのではないか、との判断を優先させたのです。これは正しかったかどうか。生命倫理の根幹にかかわる問題だけに、今なお後味の悪さは引きずっています。大勢に赴かず、自身の独自のものの見方に固執しがちな私の特徴が見事なまでに出た態度でした。

さらに、香港が中国に返還されたのもこの年です。これによって自由・香港が、共産化する懸念が問題視されました。一方で、中国の香港化が期待できるとの見方も出るなど、かなり錯綜していました。あれから20年余。香港における自由を求める学生たちの暴動騒ぎが世界を震撼させました。同時に区議選における民主勢力の圧勝もあり、「一国二制度」なるものの不安定さが際立ってきています。これは即台湾にも影響を及ぼすことは必至(総統選挙での民進党勝利)で、固唾を飲んで対岸から見ることになったものと思われます。

財政金融特委から2週間の米英独旅行へ

この年の夏。7月9日から2週間の日程で、財政金融特別委の米欧州旅行が実施され、私も委員の一人として参加しました。団長は自民党の原田昇左右氏(故人)。団員には、伊吹文明、村上誠一郎、大出俊(旧社会党=故人)らの面々。自民党筋からは、うるさい連中ばかりだと、煙たがられる向きがありました。だが、私にとっては、気の合う素晴らしき先輩・仲間たちでした。現に今もなお、伊吹、村上両氏とはしっかり繋がっています。この旅の目的は「金融ビッグバン」を現地に見るというもので、米、英、独の三カ国に足を運びました。

英、独には生まれて初めての訪問。見るもの聞くもの珍しく、興奮の連続でした。旅の最後は、それぞれ自由にということになり、私は学生時代からの付き合いが続くドイツに長く住む友人のところに立ち寄りました。南ドイツのワイン畑やらヨーロッパ史の秘密が刻印された地・バーデンバーデンにも連れて行って貰い、得難い経験を積んだものです。

とりわけ、戦後半世紀が経つにもかかわらず、ドイツが先の大戦で蹂躙したポーランドやチェコとの間で、共通の歴史認識を持つべく歴史学者が集まって討論しているという事実には強い感動を覚えました。また、私が歩きながらヒトラー云々と口にすると、友人から声が大きいとたしなめられたことには、未だその傷跡の大きさを思わずにはいられませんでした。(2020-3-15公開=つづく)

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小選挙区比例代表制のもとで初の総選挙ー平成8年(1996年)❷【20】

堂々たる朝寝坊

大前研一さんといえば、「平成維新」を掲げての政治活動で有名でしたが、当時は既にそれも頓挫してしまっていました。周りに集まっていた政治家たちも潮の引くように姿を消してしまっていたのです。そんな折に全く違った角度から市川雄一さんとの〝出会い〟がありました。あるテレビの討論番組で同席した両氏。そこで、大前さんを市川さんが厳しく嗜める場面があったのです。断定的な物言いが特徴的な大前氏ですが、少しばかり突出した発言を市川さんは聞き逃しませんでした。観ていてハラハラする一方、ある種溜飲を下げた思いがしました。大前さんは、その直後に国会の議員会館の市川部屋に挨拶に来られました。隣の部屋の住人として、大いに気になりました。同席したわけではないのですが、清々しい出会いとなって市川さんは満足しておられた風が伺えました。大前さんは、公然と自身の非を指摘されながら、むしろそれをきっかけに相手の存在を認めようとされたものと思われます。大前さんはこのように中々度量の大きな人でした。

そういう繋がりを基に始まった関係だけに、先に述べた海外経済事情調査は魅惑的なものとなりました。その旅の行程の最終盤。宿泊先はゴールドコースト。明日は帰国という夜のこと。市川さんから明朝は早い出発になるので、起こしてくれないかと依頼されました。著名な海岸を見ながら早朝にランニングを、と期していた私は二つ返事で引き受けたのです。ところが、なんということか。翌朝、大幅に寝坊をしてしまいました。出発の時間が近づいているのに、起きてこない私を気にしながら、自前で起きていた市川、大前のお二人はあれこれと話の花を咲かせていました。冷や汗100斗もので、恥ずかしさで消え入りたくなりながら、「申し訳ありません」と言うほかありませんでした。「君は本当に元秘書だったの?寝坊するなんて」と大前さんに呆れられたものでした。普段は何かにつけ厳しい市川さんでしたが、この失敗には敢えて拘泥されなかったことが、かえってずっしりと重く迫ってきました。若かったというべきか、能天気なのか。大失敗の巻でした。

比例名簿4位の座り心地

平成8年10月。衆議院が解散、小選挙区比例代表並立制での初の衆議院選挙となりました。私にとっては初当選から三年余が経っていました。残念なことに、小選挙区ではいかに新進党からといえども出馬は叶わず、他党出身の後輩にその座を譲りました。姫路市内の兵庫11区からは五島たけし氏。相生、赤穂、龍野市など兵庫12区からは山口つよし氏の二人です。私の近畿比例区名簿の順番は公示日当日に発表され、4位でした。正直、発表と同時に当選が決まったようなもので、嬉しいような信じられないような感じでした。足掛け5年もかかった過去二回の総選挙での死闘を思うにつけ、まるで狐につままれたような気がしました。贅沢言うわけではありませんが、こんなことで当選していいのかとのある種のモラルハザードを実感した次第でした。

この総選挙では、❶加藤自民党幹事長の不正献金疑惑❷消費税率5%アップの不当性ーこの二つが主な焦点となりました。結果は残念ながら新進党は解散時の議席を上回ることさえ出来ませんでした。政権を自民党中心の政権に再び委ねることになります。政治改革の嵐の中で誕生した新進党ー自民党に対抗するもう一つの政権交代可能な政党でしたが、あえなく潰えさりました。

「橋本行革」がスタートへ

11月7日召集の特別国会で第二次橋本内閣が成立しました。橋本首相はここから先、省庁改革に取り組むことになります。「橋本行革」の名で呼ばれる省庁再編は、それまでの1府22省庁を1府12省庁にするもので、2001年1月から施行されました。中央省庁等改革基本法のもとに、省庁のスリム化、公務員の削減、予算の節減を目指し、大蔵省の財務省、金融庁の分割が最大のポイントです。当時の腐敗しきった大蔵省への国民の怨嗟の声が背景にありました。

ペルー日本大使館の人質事件、病原菌O157騒ぎなどや広島原爆ドームの世界遺産認定などが話題となったこの年の暮れ。

押し詰まった12月26日の日経新聞の「あの人 この人 消息」欄に、「走り続けた一年間」というタイトルで私のことがコラム記事に取り上げられました。書き出しは、一年前の定期健康診断の結果、主治医から運動不足を指摘され、元日から走り始めた、とあります。国会で忙殺される時は、議員会館隣に併設されたトレーニングジムで汗を流す一方、皇居周辺5キロを約30分で走った(地元では姫路城周辺2キロ半を2周した)。その甲斐あって、体重が一年で5キロ落ち、「出ていたお腹も引っ込んだ。走る前の憂鬱さと走り終えた後の爽快さの〝落差〟がたまらない」と嬉しそうに語っています。51歳の冬のことでした。(2020-3-11公開=つづく)

小選挙区比例代表制のもとで初の総選挙ー平成8年(1996年)❷【20】 はコメントを受け付けていません。

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「住専」抗議で予算委室前に座り込むー平成8年( 1996年)❶【19】

村山・奇策政権から橋本・本格政権の誕生へ

平成8年は新年早々の村山首相の退陣表明から始まりました。驚天動地の自社さ政権がやっと終わる、との安堵感とともに、よくぞここまで持ったなあとの思いが錯綜したものです。

38年間続いた自民党単独政権が細川連立政権の誕生(平成5年)で崩れ、自民党は野党に転がり落ちました。この時に同等幹部が骨の髄まで身にしみて痛感したに違いないと思われたことが二つあります。一つは、ことここに至る原因を作った小沢一郎氏への恨みであり、もう一つはそれを支える公明党、創価学会への辛みです。その自民党が何が何でも政権への復帰を果たそうと画策した手立ては何だったか。いわゆる「55年体制」下(昭和30年=1955年に出来上がった日本統治の枠組みの俗称)にあって、不倶戴天の敵であったはずの社会党と手を組むという奇策でした。そして、その奇策に乗って担ぎ上げられたのが村山氏でした。朝起きた時に空を見て辞めようと思ったとか。奇妙なセリフを吐いて退陣の決意をした首相の姿を見て、私は心底から快哉を叫びました。変わって登場したのが橋本龍太郎氏です。必ずしも自民党内で圧倒的な支持があったわけではありませんが、満を持しての実力派への首相交代劇でした。

予算委員室前で座り込みながらの議員交流

橋本内閣は誕生と同時に厳しい試練に直面します。「住専」(住宅金融専門会社)の経営失敗に6850億円もの税金を充てることにしたことから、新進党など野党の激しい反発を招きました。自社さ政権与党への世論の批判を背景に、抗議の座り込み活動を衆議院予算委員室前でやることになりました。国会内の実力行使に疑問を感じないわけにはいきませんでしたが、「みんなでやれば怖くない」との下世話な勢いがあったことを告白します。

当選一回の新人にとって、この機会は色んな意味で鮮烈なインパクトを受けることになりました。記憶に残っているのは、審議するために予算委員室に入ろうとする橋本首相の姿です。座り込んでいる私たち野党議員の前に現れた同首相は怒号の中に一瞬怯んだようにように見えました。当然ながら入れずに引き返すわけですが、衛視たちの後ろに、同僚議員たちの背中の合間から見えた同首相の困惑そのものの表情は今になお忘れられません。

また、この頃の座り込み仲間で印象深かったのは、小池百合子さんです。ご存知、今をときめく東京都知事ですが、当時は参議院から鞍替えしたばかりの新顔代議士でした。彼女とは選挙区が同じ兵庫県ということもあって面識があり、選挙区のことやら、経済動向など、あれこれと隣り合わせに座って話したこんだことを思い起こします。とりわけモバイル通信に彼女は関心を強く持っていて、電話機能の飛躍的拡大を当時から予測していたのは流石に慧眼だったと感心します。

なお、この「住専国会」をどう打開するかを巡って、読売新聞が衆参20人の議員に緊急インタビューを(3-8付け)展開しました。その際に私は新進党の一人として、細川元首相や同僚だった石破茂氏らと共に登場したものです。「追加措置は税金投入への批判をごまかすトリックだ。6850億円を予算案から削除し、法的手続きに委ねるべきだ。金融システム崩壊論は脅迫に過ぎず、政治システム崩壊を恐れるべきだ。加藤自民党幹事長のヤミ献金疑惑解明しか打開の糸口はない」と、「べきだ」「べきだ」と繰り返し、偉そうに語っています。

また、薬害エイズ問題では、後に民主党政権で首相になる菅直人氏が厚生大臣として奔放な活躍をします。尤も、ないといってきた資料が突然発見されたり、和解が成立したと思ったら、直後にまた違う資料が出て来るなど、大臣と官僚のミスマッチは目を覆うばかり。特に、今に続く官僚の杜撰さは酷いものでした。かつてこの問題の渦中にいた厚生省の元課長が、のちに東大教授に栄進していたことには驚いたものです。

安保委質疑が船橋洋一氏の著作に引用

新進党小沢一郎党首の誕生と共に、党内の態勢が一新され、私は副幹事長から明日の内閣の安全保障分野の副担当になりました。当時、クリントン米大統領の訪日もあって、「日米安保」の再定義が課題として浮上。有事対応や集団的自衛権行使問題が改めて喧しい議論を引き起こしていました。そうした空気を背景に、4月9日の衆議院本会議で私は質問に立ち、橋本首相に対して、憲法の明文改正でしか集団的自衛権の行使は出来ないことを改めて確認しました。つまり、拡大解釈は許されないことを再確認したのです。この私の本会議初質問は、のちに、「日経」「毎日」「選択」など新聞や雑誌に報じられ、一定の波紋を呼びました。

また、4月11日には衆議院安全保障委員会で、外務省の情報操作問題を取り上げました。作家・麻生幾氏の『情報官邸に達せず』を引用しながら、それなりの工夫を凝らした内容でした。この質問は、翌年11月に岩波書店から発刊された船橋洋一氏の『同盟漂流』という大河ノンフィクションで言及されることになります。重要なテーマなのに、突っ込んだ議論が殆どなかったなかで、「情報官邸に達せず」の実例を示したとして、評価をくだしてくれました。名だたるジャーナリストの著作に明記され、満更でもない思いになったことはいうまでもありません。

大前、市川氏らと共に3カ国訪問

この年の5-27から6-1までの一週間、大前研一、市川雄一両氏らと共に、シンガポール、マレーシア、オーストラリアの三カ国を訪問しました。かねて市川氏の呼びかけで、大前氏を講師に、金融・財政問題の勉強会を新進党有志でやってきましたが、この旅はその勉強会の延長として、アジア・太平洋地域で発展著しいこれらの国に実際に足を運ぼうということになったものです。特に大前氏は、シンガポール、マレーシアの政府顧問的役割を担っていた人物だけに、 様々な意味で印象深い旅になりました。特に情報立国ともいうべき新たな国づくりに取り組むマレーシアの活気溢れる姿には驚きました。マハティール首相と会談した際には、70歳を超えてパソコンに取り組んだという老宰相の心意気に圧倒(つい先日まで90歳を超えて現役でした)されました。オーストラリアには大前氏のコンドミニアムがあり、そこに宿泊させていただきました。そこで、生涯忘れ得ぬ失敗をしてしまい、大前さんを驚かせてしまいます。その辺りは次回に。(2020-3-8公開 つづく)

 

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「宗教法人法改正」への不可解な動きー平成7年(1995年)【18】

発端はオウム真理教への対策

平成7年という年は社会的に極めて不穏な一年でした。年明け早々の阪神淡路の大震災に続き、オウム真理教の地下鉄サリン事件が起きたのです。巨大自然災害と超極悪犯罪。前者は一瞬にして兵庫県を中心に未曾有の大災害をもたらしました。後者は、人工的に首都機能を中心に地上世界を壊滅的に破壊しようとしたテロだったのです。我々の日常を根本から覆すこれらの動きに、為政者、多くの政治家はただただ戸惑い、為すすべを知らなかったというのが率直な印象でした。この二つの出来事がもたらした〝負の世情〟を背景に、政治的には奇妙な動きが蠢動します。「自社さ」という野合そのものの組合せの政権が、もう一つの政権勢力を目指した新進党の中核をなす公明党・創価学会を潰そうとしたのです。

それが顕著に現れたのが「宗教法人法の改正」という問題でした。これはあくまで表向きはオウム真理教による地下鉄サリン事件の再発を防止することが狙いでした。宗教者の仮面を被ったテロリスト集団を封じ込めるにはどうすればいいかが問われた法改正の発端でした。

宗教法人法改正の動きの背景

もともと宗教法人法という法律は、宗教法人に法人格を付与することを唯一の目的とする法律です。宗教法人が財産を取得したり、契約を結ぶなどといった法律行為を行う能力を得るためのものに限定したものです。端的に言ってみれば、団体にとっての出生届、戸籍登録に匹的するもので、それ以上でも以下でもないのです。宗教法人の宗教活動を規制したり、監督するためのものではありません。しかし、オウム真理教という集団が宗教法人の名を冠した存在であることから、一気にこうしたものを規制し、監督しようとする狙いが浮上してきたのでした。

政府が出してきた改正法案の骨子は、❶複数の都道府県で活動する宗教法人の所轄庁を都道府県知事から文部省に移す❷所轄庁への書類提出を義務化する❸信者、そのほか利害関係人から請求があった時には情報開示をする❹所轄庁に対して、報告聴取と質問権を付与するーなどというものでした。明らかに法の運用次第では「信教の自由」を侵すものでした。同法の基本的な性格を変えてしまい、宗教法人を監督、管理するために「宗教法人管理法」「宗教法人統制法」的なものへと質的に変更するものと見られたのです。まさにこれは羹に懲りて膾を吹くの例えそのもの、といえましょう。

拙速極まりない審議と露骨な公明党攻撃

当然のこととして宗教団体、関係者から一斉に反対の声が上がりました。しかし、自社さ政権の性急で強引な国会運営によって、10月31日の衆議院での審議開始から、わずか6日間で11月10日には衆議院宗教法人特別委員会で強行可決。同13日には与党・自社さ三党と共産党の賛成で衆議院本会議での可決となったのです。強行可決となった委員会審議の最終場面での新進党草川昭三氏(公明党・国民会議出身)の質問は、実に印象的なものでした。島村文部相の「(法案成立後には)創価学会を徹底的に身体検査してやる」との暴言を巡る追及でした。草川さんは、公明党の中でも際立って追及ものが旨い議員でしたが、とんでもない大臣発言を徹底的に暴き、聴くものの溜飲を一気に下げさせたのです。

参議院に舞台が移り、一段と政権側の姿勢は露骨になります。参考人質疑を要求してきたのです。最終的に秋谷栄之助創価学会会長(当時)が呼ばれることになり、12月4日の参議院宗教特委に他の5人と共に出席しました。この場で、秋谷会長は、「今回の法『改正』の背景にあるのは次期総選挙対策であり、対立政党の支援団体を攻撃しようという党利党略である」と強く批判した上で、この法案には「宗教団体の国家管理を狙う意図が隠されて」おり、「『信教の自由』を脅かしかねない性格である以上、絶対に許してはならない」と強調。財務関係書類の提出義務や所轄庁の「質問権」などが、政教分離原則に違反するものだとの認識を示しました。

さらに、秋谷会長は宗教が政治に関与する際の前提として❶国家権力を使って布教しない❷国家からの特別の保護や特権を求めない❸支持する政党や候補者が政治的に中立であることを求めるーとの三項目を挙げ、これまで一貫した姿勢であることを明確化するとともに、創価学会としてこれまで政党に対する献金は一切なかったことを改めて表明したのです。

この参考人質疑では、自民、共産党の委員は持ち時間のすべてを使って、秋谷会長のみに質問を集中、あたかも創価学会の選挙支援活動が違法であるかのように描き出すことに躍起となりました。しかし、会長はこれらの質問一つひとつに明快に答え、政教一致批判の誤りを明快に論破していく陳述をきちっと行っていきました。秋谷会長は普段から落ち着いた物腰の方ですが、この時ほど堂々たる姿を私自身は見たことはなく、心底から頼もしく思えました。(2020-3-4公開=つづく)

 

 

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