「住専」抗議で予算委室前に座り込むー平成8年( 1996年)❶【19】

村山・奇策政権から橋本・本格政権の誕生へ

平成8年は新年早々の村山首相の退陣表明から始まりました。驚天動地の自社さ政権がやっと終わる、との安堵感とともに、よくぞここまで持ったなあとの思いが錯綜したものです。

38年間続いた自民党単独政権が細川連立政権の誕生(平成5年)で崩れ、自民党は野党に転がり落ちました。この時に同等幹部が骨の髄まで身にしみて痛感したに違いないと思われたことが二つあります。一つは、ことここに至る原因を作った小沢一郎氏への恨みであり、もう一つはそれを支える公明党、創価学会への辛みです。その自民党が何が何でも政権への復帰を果たそうと画策した手立ては何だったか。いわゆる「55年体制」下(昭和30年=1955年に出来上がった日本統治の枠組みの俗称)にあって、不倶戴天の敵であったはずの社会党と手を組むという奇策でした。そして、その奇策に乗って担ぎ上げられたのが村山氏でした。朝起きた時に空を見て辞めようと思ったとか。奇妙なセリフを吐いて退陣の決意をした首相の姿を見て、私は心底から快哉を叫びました。変わって登場したのが橋本龍太郎氏です。必ずしも自民党内で圧倒的な支持があったわけではありませんが、満を持しての実力派への首相交代劇でした。

予算委員室前で座り込みながらの議員交流

橋本内閣は誕生と同時に厳しい試練に直面します。「住専」(住宅金融専門会社)の経営失敗に6850億円もの税金を充てることにしたことから、新進党など野党の激しい反発を招きました。自社さ政権与党への世論の批判を背景に、抗議の座り込み活動を衆議院予算委員室前でやることになりました。国会内の実力行使に疑問を感じないわけにはいきませんでしたが、「みんなでやれば怖くない」との下世話な勢いがあったことを告白します。

当選一回の新人にとって、この機会は色んな意味で鮮烈なインパクトを受けることになりました。記憶に残っているのは、審議するために予算委員室に入ろうとする橋本首相の姿です。座り込んでいる私たち野党議員の前に現れた同首相は怒号の中に一瞬怯んだようにように見えました。当然ながら入れずに引き返すわけですが、衛視たちの後ろに、同僚議員たちの背中の合間から見えた同首相の困惑そのものの表情は今になお忘れられません。

また、この頃の座り込み仲間で印象深かったのは、小池百合子さんです。ご存知、今をときめく東京都知事ですが、当時は参議院から鞍替えしたばかりの新顔代議士でした。彼女とは選挙区が同じ兵庫県ということもあって面識があり、選挙区のことやら、経済動向など、あれこれと隣り合わせに座って話したこんだことを思い起こします。とりわけモバイル通信に彼女は関心を強く持っていて、電話機能の飛躍的拡大を当時から予測していたのは流石に慧眼だったと感心します。

なお、この「住専国会」をどう打開するかを巡って、読売新聞が衆参20人の議員に緊急インタビューを(3-8付け)展開しました。その際に私は新進党の一人として、細川元首相や同僚だった石破茂氏らと共に登場したものです。「追加措置は税金投入への批判をごまかすトリックだ。6850億円を予算案から削除し、法的手続きに委ねるべきだ。金融システム崩壊論は脅迫に過ぎず、政治システム崩壊を恐れるべきだ。加藤自民党幹事長のヤミ献金疑惑解明しか打開の糸口はない」と、「べきだ」「べきだ」と繰り返し、偉そうに語っています。

また、薬害エイズ問題では、後に民主党政権で首相になる菅直人氏が厚生大臣として奔放な活躍をします。尤も、ないといってきた資料が突然発見されたり、和解が成立したと思ったら、直後にまた違う資料が出て来るなど、大臣と官僚のミスマッチは目を覆うばかり。特に、今に続く官僚の杜撰さは酷いものでした。かつてこの問題の渦中にいた厚生省の元課長が、のちに東大教授に栄進していたことには驚いたものです。

安保委質疑が船橋洋一氏の著作に引用

新進党小沢一郎党首の誕生と共に、党内の態勢が一新され、私は副幹事長から明日の内閣の安全保障分野の副担当になりました。当時、クリントン米大統領の訪日もあって、「日米安保」の再定義が課題として浮上。有事対応や集団的自衛権行使問題が改めて喧しい議論を引き起こしていました。そうした空気を背景に、4月9日の衆議院本会議で私は質問に立ち、橋本首相に対して、憲法の明文改正でしか集団的自衛権の行使は出来ないことを改めて確認しました。つまり、拡大解釈は許されないことを再確認したのです。この私の本会議初質問は、のちに、「日経」「毎日」「選択」など新聞や雑誌に報じられ、一定の波紋を呼びました。

また、4月11日には衆議院安全保障委員会で、外務省の情報操作問題を取り上げました。作家・麻生幾氏の『情報官邸に達せず』を引用しながら、それなりの工夫を凝らした内容でした。この質問は、翌年11月に岩波書店から発刊された船橋洋一氏の『同盟漂流』という大河ノンフィクションで言及されることになります。重要なテーマなのに、突っ込んだ議論が殆どなかったなかで、「情報官邸に達せず」の実例を示したとして、評価をくだしてくれました。名だたるジャーナリストの著作に明記され、満更でもない思いになったことはいうまでもありません。

大前、市川氏らと共に3カ国訪問

この年の5-27から6-1までの一週間、大前研一、市川雄一両氏らと共に、シンガポール、マレーシア、オーストラリアの三カ国を訪問しました。かねて市川氏の呼びかけで、大前氏を講師に、金融・財政問題の勉強会を新進党有志でやってきましたが、この旅はその勉強会の延長として、アジア・太平洋地域で発展著しいこれらの国に実際に足を運ぼうということになったものです。特に大前氏は、シンガポール、マレーシアの政府顧問的役割を担っていた人物だけに、 様々な意味で印象深い旅になりました。特に情報立国ともいうべき新たな国づくりに取り組むマレーシアの活気溢れる姿には驚きました。マハティール首相と会談した際には、70歳を超えてパソコンに取り組んだという老宰相の心意気に圧倒(つい先日まで90歳を超えて現役でした)されました。オーストラリアには大前氏のコンドミニアムがあり、そこに宿泊させていただきました。そこで、生涯忘れ得ぬ失敗をしてしまい、大前さんを驚かせてしまいます。その辺りは次回に。(2020-3-8公開 つづく)

 

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