Monthly Archives: 4月 2020

【37】鈴木宗男氏の証人喚問に立った日ー平成14年(2002年)❶

●不審船事件めぐり国交委で大議論

平成13年(2001年)の暮れに九州南西沖でいわゆる不審船事件なるものが起こりました。これについて新年早々の10日に閉会中審査(国会が休会中の時に開くこと)を行うことにしました。7党から9人の質疑者が立ち4時間かけての大議論になったのです。
不審船に対して、海上保安庁がとった行動をまとめると、次の5段階になります。①外見から外国漁船と判断②日本の排他的経済水域内において、いわゆるEEZ漁業法第5条第一項に違反して無許可で漁業等を行った恐れがあると判断③海上保安官が事実関係を確認するためにEEZに適用される漁業法74条第三項に基づき検査をするべく停船命令を繰り返した④当該船はこれを無視して、逃走したので、漁業法141条第二項に基づく検査忌避罪が成立、逮捕するため、巡視船及び航空機で追跡⑤なお、日中中間線を越えて、日本の排他的経済水域外に逃走したが、巡視船と航空機は、国連海洋法条約111条の二項及び第三条第一項第四号に基づく追跡権を行使した。

少々鬱陶しい書き方になりましたが、海上保安庁の行動がいかに法に基づいてのものであるかを改めて確認するために、詳しく記しました。これを見ますと分かりますように、海保が動いた法的根拠は殆どが漁業法違反との名目です。委員会では、これでは十分な対応は困難であるがゆえ、新たな法整備を急げとの提案やら❶領海外でも危害射撃をすべき❷海上警備行動発令前に準備命令ができるように法改正せよといった勇ましい問題提起がなされました。さらに、防衛庁と海保との共同対処についても積極的な意見が出た次第です。
私が国交委員長当時の議論ではこの問題が一番世の中の話題になりました。この時の議論で印象に残ったのは、海上保安庁の縄野克彦長官、防衛庁の首藤新悟防衛局長、北原巌男運用局長らの活躍です。

●予算委で鈴木宗男氏への証人喚問質問に立つ

この年大きな話題になっていったのが、自民党の鈴木宗男氏(当時衆議院議院運営委員長)の国後島における施設の建設工事の入札、個別事業者選定に絡んで関与したのではないかとの疑惑です。様々な経緯を経て、3月11日に予算委員会で同氏に対する証人喚問が行われ、私が公明党を代表して質問に立つことになりました。持ち時間は10分間です。この時のやりとりは5問5答だったのですが、実はその喚問に入る前提として、私は重要なことを述べています。この質疑は後々重要な意味を持つことになりますので、導入部を全文明らかにしておきます。

ー私は先の参考人質疑(2-20)における鈴木証人のお話を聞いておりまして、二つの大きな勘違いをされていると思います。それが今貴方が直面されている状況と非常に関係していると思うのです。一つは「ロシアやアフリカなどに取り組んだ政治家は自分以外にいないはずだ」と言われました。もう一つは、「自分は叩き上げであって、古いタイプの政治家だ」と言われました。しかし、これは2つながらに、ご自身誤った自己イメージを持っておられると思います。そこに、悲劇の原因があると思います。

前者については、確かにアフリカ、ロシアに関して、一所懸命にやっておられる政治家は貴方をおいていないかもしれない。しかし、同時にご自身の利権というものに対して強い関心を持っておられる。そこを優先されてるっていう政治家は他にいないだろうと思います。それから、叩き上げ、とおっしゃり、古い政治家のタイプだと言われました。ですが、貴方は、外務省の報告書を見る限り、人を叩いて上がってこられたんではないか。ご自身を叩き上げたというよりも、周りにいる人を叩いて上がってこられた人ではないかと、そういう風に言わざるを得ないのです。

こう発言したのですが、自身を叩き上げたのではなく、周りを叩き上げて上がってこられたというくだりで、予算委員室は爆笑に包まれました。本題に入って、私は様々な要職についてきた鈴木氏が人事の介入などを通じて、越えてはならない一線を越えたのではないか。感覚が麻痺してしまったのではないかとの観点からの質疑をしました。鈴木氏は終始一貫、真摯な答弁を展開しました。最後に、「ご指摘をしっかり受け止めないといけないと思っています。(中略)外から見れば、もたれあいだ、さらには癒着だと言われる構造があるかもしれません。この点重々私自身反省しながら、今後対応していきたいと思っています」と述べられたのは、印象に強く残りました。

実は鈴木宗男氏は、私の選挙の応援に陰ながら支援の手を差し伸べてくれていました。気に入った人間とは党が違っても関係構築を惜しまないという、度量の大きい政治家ではありました。また、当選後にも幾たびか懇親の機会を持つなど、私とは個人的に親しい関係にあったのです。それだけに、証人喚問をするというのはやり辛さは否めなかったのですが、手ごころを加えず、厳しい追及をしました。このやりとりは後々今に至るまで、尾を引くことになるのですが、それはまた追って触れることにいたします。

●「有事法制」巡って与党内や憲法調査会で議論

2002年の通常国会は、「有事法制」を巡って本格的な議論が展開されることになります。私はこの分野の担当政調副会長として、活発に動きました。政府当局がまとめた法案は、国会提出する前の段階で、自民、公明の議員で構成されたプロジェクトチームで揉むわけです。三月下旬に開かれた同チームの定例会では、有事(災害時も含む)に際して、国が地方自治体に指示する権限やら、物資の保管命令など私権制限にあたって罰則を設けるかどうかなどで、議論が白熱しました。加えて、大規模テロや不審船対策が盛り込まれていないことにも言及されました。この辺りのことについて、3月21日付けの讀賣新聞「スキャナー」欄で、「有事法制 はや異論」「国の権限 自×公対立の構図」などと書きたてました。しかも、「危機対応に穴」ー「『テロ』盛らず、与党内から批判相次ぐ」などの見出しで、いささかオーバーに書いています。「テロへの対処をどうして考えないのか」との自民・石破茂氏の発言と並んで、私の「小泉首相は武力攻撃に至らない事態を含めて考えろと言っていたはずだ」とのコメントも掲載されていました。

また、この案件は衆議院の憲法調査会でも取り上げられました。この当時(3月末から4月にかけて)、衆議院では4回の小委員会が開かれたり、沖縄県での公聴会を開くなど活発な議論が展開されました。とりわけ5月3日の憲法記念日の前に全委員による自由討論は盛りあがりました。この時に、「有事法制は現行憲法と相いれない」と、社共両党の議員が発言。これに対して、私は「九千九百九十九まで平和構築の努力をしても万が一、有事に直面したら努力は水泡に帰す。万が一の準備をするのが政治の責務」と、強調したのです。これは4月30日付けの朝日新聞「憲法を考える」欄に掲載されました。(2020-4-30公開 つづく)

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【36】「9-11」同時多発テロと「新しい戦争」の時代ー平成13年(2001年)❹

●生映像で見た「9-11」の衝撃

2001年の9月11日(日本時間でいうと、前日の午後9時頃)。私はNHKテレビの特集番組を観ていました。ちょうど姫路城の心柱を取り替えることの大変さを、事細かにやっていました。姫路城が築城400年で修理を始めるということで、歴史的な経緯を追っていた番組でした。なかなか見応えがある中身でした。世界文化遺産としての姫路城がいかに作られ、そしてそれを維持していくことがいかに重要で大変かを思い知った、その直後のこと。画面に突然、あのニューヨークのビルに飛行機が激突するシーンが映し出されたのです。あたかも映画の一シーンのように。何が起こっているのか。にわかに信じられない一瞬でした。これが虚構でなく、まさにリアルタイムでの実況中継になっていることに気付いて、ことの重要さに驚愕したのは少し時間が経ってからでした。「破壊は一瞬、建設は死闘」という人生の師・池田先生からいつも聞かされてきた、重みのある言葉がつい浮かんできました。

あの巨大ビルが航空機の体当たりで破壊される姿を観ていて、衝撃的で未だに脳裏に焼き付いているような場面があります。ビルから逃れるために、階段を懸命に降りて行く人々と、真逆に下から上に向かって消火活動に向かう消防士たちの交錯する映像です。暫くしてのちに、巨大なビルが崩れ落ちて行くわけですが、ほんの少し前に、誇らしげ(そう見えました)な顔つきで、登っていった勇者の姿が今もなお瞼から消えない気がします。仕事とはいえ、犠牲を厭わぬ献身的な勇姿に胸詰まる思いがしました。米国本土がこんな形で空爆の対象となるとは。本当に驚くとともに、誤れる宗教的信念に基づく、一部のイスラム教徒たちの自己破滅的行為に心底から恐怖感を抱きました。21世紀が始まっていきなりのこの恐怖。「新しい戦争の時代」の幕開けを実感したものです。

●大沼保昭先生宅でジェラルド・カーチスさんと

この「9-11」の衝撃はその後の国際政治に大きな影響を与えていくのですが、私的には、ジェラルド・カーチスさんと、大沼保昭元東大教授との懇談会が忘れられません。大沼さんとは、中嶋嶺雄先生及び市川書記長とのご縁もあり、大変に親しくさせていただきました。残念ながら先年帰らぬひととなられたのですが、東大での最終講義を聴講させて頂いたり、ご夫人や娘さんらと共に親しいお付き合いさせていただきました。この懇談会は杉並の大沼宅で事件の一ヶ月後の10月10日に開かれたのですが、当初市川さんも参加される予定でしたのに、急遽都合がわるくなり、私一人の参加となりました。

カーチスさんは、周知の通り、『代議士の誕生 日本保守党の選挙運動』で著名な米国コロンビア大学教授などを歴任した政治学者です。東大でも教鞭をとったこともあり、大沼先生とは懇意でした。お会いした三ヶ月ほど前にも『永田町政治の興亡』という新刊本を出したばかり。ここでの懇談で、極めて印象深かったことは、カーチスさんの圧倒的な怒りでした。冷静たるはずの学者とはとて思えぬ異常さでした。日本人の立場ーというか私個人のスタンスからすると、米国が狂信的イスラム教徒に狙われる理由はそれなりにわかるのですが、そんなことはとても言い出せない剣幕でした。米国の強いナショナリズムのあり様を思い知った一幕でした。大沼先生はその時も讀賣新聞からコメントを求めておられており、ファックスを通じて原稿のやりとりをされていましたが、いつも通りのこの人らしい鋭い見方を提示されていたことを思い出します。

●同時多発テロを受けて各紙のインタビュー受ける

「9-11」の米国発の同時多発テロを引き起こした事態を受けて、私は讀賣新聞と東京新聞のインタビューを受けました。10月8日、11月6日の両紙の紙面を飾ります。どちらも今なお、新鮮味を失っていない中身だと自負できます。
まず讀賣から。

ー公明党は今回、湾岸戦争当時と対応が違うが?
赤松)現代文明の利益を享受しているすべての民族に攻撃を仕掛ける相手に立ち向かうことは必要だ。実力行使には抑制的でなくてはいけないが、なおかつ国際社会で名誉ある地位を占め、一国平和主義の落とし穴に陥らないために、どうすべきかを一生懸命考えている。反文明、反法治のテロに、『ノー』という意思を早く示す必要がある。緊急対応するための特別措置法を作ることには支持者も納得してくれると思う。
ー武器使用要件の緩和と憲法の兼ね合いは?
赤松)武器の使用は重要な懸案で、同じ場所にいる外国人要員を守れない国連平和維持活動(PKO)協力法の規定は少し縛りすぎだ。(中略)憲法が禁止しているのは、国権の発動としての武力行使であり、(武器使用要件の緩和を集団的自衛権の行使と結びつけるような)厳密な『縮小解釈』は問題だ。国と国という伝統的な戦争概念を超えた『新しい戦争的犯罪』と言うべき今回の同時テロに対し、従来の自衛権に関する解釈にとらわれすぎると対応が難しいのも事実だ」ー以下略

ここで注目して欲しいのは、私が「縮小解釈」なる言葉を使っていることです。昔も今も憲法の「拡大解釈」を問題視する向きは多いのですが、「縮小解釈」という表現を使う人はいないようです。適正な解釈をせずに、厳しく縛りすぎるのは〝過ぎたるは及ばざるが如し〟のようだと、私は言っているのです。この時の讀賣新聞のインタビュアーは、穴井雄治記者。この人当時は公明党番記者でしたが、あれから20年。今では、雑誌『中央公論』の編集長になっています。

次に東京新聞。

ーテロ対策法は周辺事態法より武器使用範囲が拡大した。平和外交を掲げる公明党は変わったのか?
赤松)自衛隊員が自己の管理下に入った者を守ったり、同じ場所にいる他国の要員を助けるというのは自分の身を守るのと同じ次元の話だ。(中略)」はっきり言って公明党も変わってきている。『こんな政党じゃあなかったのに』というのは固定した見方。政党は時代に合わせて進化していかなければならない」
ー公明党が与党内で果たすべき役割とは?
赤松)紛争を起こさせないための『予防外交』に力点を置く。非政府組織(NGO)を活用したり、米国一辺倒ではなく、多方面の外交に目配りしたり、公明党が貢献する分野はいくらでもある」ー以下略

この時のコラムは、「政治家に問う『新しい戦争』と日本」というタイトル。私のものの凸版見出しは、「時代に合わせ進化する平和の党」でした。主見出しは、「武器使用縛りすぎは酷」。袖見出しは「『予防外交』で歯止め役に」。当時、ここまで言い切る公明党の人間はいなかったはず。それなりに注目されました。この時の東京新聞のインタビュアーは、高山晶一記者。やはり番記者でしたが、今は、同社政治部長。私が付き合った記者の皆さんは、みんな優秀だったなあと改めて感じ入っています。(2020-4-28公開 つづく)

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【35】国交委員会の顔として国の内外へー平成13年(2001年)❸

●衆院国土交通委員長としての闘い

衆院国土交通委員長の仕事として、通常の委員会の仕切りとは別に、道路建設をめぐる会合に出席することがしばしばありました。5月末の一週間には三回も出ました。22日に日本道路建設業協会懇談会、23日に全国道路利用者会議、25日には道路整備を求める全国大会といった具合です。それぞれ、道路舗装などの関連業者、トラック輸送などの運輸業者、地方自治体関係者によって構成された会合です。

小泉純一郎首相は就任直後から道路特定財源の使途見直しを打ち上げていました。つまり、道路を作るってことを特別視しないで、他のものにも使えるように一般財源化しようというのです。これでは道路整備を求める関連業者、自治体、そしてそれに連なるいわゆる道路族といわれる国会議員たちも困ります。勢い、私が出た三つの会合でも「首相発言何するものかは」とばかりに、従来通りの道路建設に全力あげますとの発言が相次ぎました。どういうわけか、公明党には道路建設のエキスパートが多く、22日の会合には、森本晃司、太田昭宏、井上義久氏と三人もの有力議員が来ていました。この三人も力強い発言をされたことはいうまでもありません。

23、25日の会合は、いわゆる総会方式の会合で共に委員長としての挨拶を求められました。とりわけ、25日に砂防会館で開かれた道路整備大会は熱気溢れる雰囲気の中、扇千景大臣と私の揃い踏みとなり、少なくとも私の気分は盛り上がりました。

●ユーモア忘れぬ挨拶で自己満足

扇大臣は、15本もの政府提出法案が国土交通委員長によって生殺与奪が握られているなどと、私への気配りを混ぜた、かなり長い話でした。かつてある総理大臣が「皆さん、スピーチは短く、幸せは長く、そして道路はしっかりと、です。以上、終わり」とやって大受けしたとかという小話をつい思い起こしました。私は「出来ることとと、出来ないこと」をはっきりさせる姿勢の扇大臣ですから、首相の目指すところに、どう対応されるか、固唾を飲んで見守っているとの言い方で、政府中枢に下駄を預ける無難な話をするに留めておきました。

尤もそれだけでは、私の気分はおさまりません。ちょうど同席していたのが大石久和道路局長と、この大会の新しい会長が私の地元の赤穂の北爪市長でしたから、こう締め括りました。「もし、道路建設をめぐる動きが皆さんの意に添わないものなら、大石さんのもと、赤穂の討ち入りといった事態も起こりかねないと存じます」と、ユーモア混じりのサービスも忘れずに付け加えておきました。他愛もないエピソードですが、ちょっとしたスピーチにもウイットとユーモアを忘れぬ私の姿勢を出せたことに、自己満足したものです。

●扇千景国交大臣との出会い

2001年の小泉純一郎第一次内閣では、様々な意味で話題を呼ぶ人の入閣がありました。公明党的には坂口力さんが厚生大臣と労働大臣の兼務(2000年末)から、初代の厚労大臣に就任したことが大変重要な意味がありました。医師の資格を持つ人が大臣になるのは坂口さんが初めてです。自民党的には医師会との関係から、従来医師資格を持つ人は遠ざけられた経緯があったようですが、公明党ということで実現したものと見られます。坂口さんはこのあと、縦横無尽の活躍をされていきますが、それはまた後で触れることにします。

小泉内閣の〝目玉閣僚〟の一人は、紛れもなく、女優出身の扇千景さんでした。この人は参議院議員でもあり、これまで私とは特に深い関係にはなかったのですが、実は委員長主催の懇親会で、私はこういう話をしました。

実は、私が昔に見た印象深い映画に、皆さん御覧になったかどうか、『36人の乗客』というものがあります。36人の乗客が乗っているバスの中に、犯人がいる(乗客35人と犯人1人)というもので、なかなかスリル満点の面白い映画でした。小泉博さん主演で、志村喬さんらの名優も出ていたサスペンス映画でしたが、実はそのバスの車掌役が誰あろう扇千景さん、今の大臣だったのです。その時は誠に可愛い女優さんでした。ずいぶん若い時に観たのですが妙に覚えているんです。それは脚本の出来栄えもあったのでしょうが、やっぱり扇千景さんが‥‥。

扇大臣は、「まあ、あの映画を赤松委員長は観てくださったの?」と、その場で声を上げてニコニコ。ただそれだけの話ですが、一場の座興としては上出来だったと自負しています。なお、今ではこういう委員長主催の懇親会は、予算の都合上取り止めになっていますが、当時は未だやっていました。引き出物まで出すしきたりがあり、その中身を何にするかを考えるのが委員長の役目だったのです。通常地元の名産にすることが多かったのですが、私はそれを地元とは全く関係のない「赤玉ポートワイン」にしました。何故かっていうと、与党の筆頭理事が赤城徳彦氏(後の農水相)、野党の筆頭理事が玉置一弥氏だったからです。つまり、赤城の赤と、玉置の玉と、二人の頭文字を取ったしだい。これまた一座興ではありました。従来からの慣例に身を任せるだけで、無駄使いはやめようということに気がつかず、戯れ言にうつつをぬかしてた、至らない身を恥かしながらここで告白しておきます。

●団長としてフランスからスペインへの視察旅に

国会の委員会は、数年に一度海外視察の機会が巡ってきます。実は私が委員長に就任したこの年がたまたま国土交通委員会に当たる年でした。どこへ何を調査に行くか、全て委員長に決める権限があります。私は、都市の再生に向けて街づくりをどう進めるか、高速道路網や高速鉄道網の実態はどうなってるかーこうしたことを目的に、フランスとスペインに8月24日から31日までの7泊8日の日程で行くことを決めました。

フランスは日本の新幹線とあらゆる面で競うTGVと呼ばれる高速鉄道網を持っています。そして首都パリは歴史と伝統に輝く建造物をあまた持ちつつそれを保存し、かつ同時に新世紀に相応しいものにすべく、再開発に取り組んでいる都市です。また、スペインでは、港湾都市のバルセロナは万博やオリンピックなどのイベントを通じて街づくりを巧みに展開してきた都市です。さらにこの国はAVEなる高速鉄道網を持ち、フランスと並ぶ欧州での一大観光国です。当時の日本はまだまだインバウンドにはほど遠い国だっただけに、この両国から多くを学ぼうと勢い込んで向かいました。

この視察旅は、フランスではパリのほかに、高速鉄道で2時間離れたディジョンのアルケ・スナン(サリーヌ・ロワイヤル=世界文化遺産の製塩工場)を訪れました。また、スペインではバルセロナの他に、マドリードから車で1時間かけてトレドにも行きました。ここは街全体が世界文化遺産です。この地はまさに中世そのもので、時間と空間を超えて、タイムマシンに乗って到着した素晴らしい場所でした。

この視察旅をした際の私の新国会リポートは帰国後の9月3日、6日、7日と上中下の三回に渡って報告を克明に発信しています。一番最後に、「都市再生が小泉政権にとって重要な課題に浮上している今日、様々な意味で刺激を受けることが出来ました。日本らしさや各地域の個性を生かしながら、政、官、民すべての知恵を結集してこの課題に取り組みたいと決意しています」と。(2020-4-26公開 つづく)

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【34】産経「書架」朝日「窓」欄などに次々登場ー平成13年(2001年)❷

●出版の余波あれこれ

2001年に発刊した『忙中本あり 新幹線車中読書録』は、新聞メディアが相次いで取り上げてくれました。掲載順でいくと、最初は産経新聞月曜版の書架欄(2月5日付け)。「HPの『読書録』で問題提起」との見出し、写真付きでデカデカと。13字詰め79行も。「本を読むことで幾重もの人生を経験できる。書店に並ぶ大量の本をみて『こんなにあるんだから読みきれない』といった友人もいましたが、だからこそ読まなければ、と思ったんです。五十代のいま、失われた四十代を取り戻しているところです」とのコメントが我ながらまぶしい。ついで、東京新聞「大波小波」欄。「見識を国政に」が見出し(5月2日付け)。ここでは、最後の数行が私にはきつくこたえました。「この人の読書領域は実に広い。駅頭などで見かけるそんじょそこらの議員センセの自己宣伝用国会報告よりも、肉声が聞かれて親近感がわく。ただし、その豊かな見識を国政に生かせなければ、本物の読書とはいえまい」ーおっしゃる通りです。

次に朝日新聞夕刊の「窓」(論説委員室から)欄(5月21日付け)。タイトルは「読書家議員」。「政界では市川氏に忠実に支えてきたというイメージが強かったが、最近は「読書家」の方が通りがよいようだ」「書評が評判になるにつれ、『本業に差しつかえる』などと心配する声が党内から出る。それには党外の知人らが『政治家こそ言葉を大事にすべきだ』と逆に励ます」ーどちらも有難いご指摘でした。エコノミストの「著者に聞く」7月24日号にも。「僕の読書録は、本を通じた『現代』の切り取り」ー「自分がどんな本を読み、そこから何を得て、何を考えているかとくことをさらけ出すことは、政治家にとって究極の情報公開だと思っている」と、聞き手の小松浩毎日新聞記者に語っています。この人は後に同紙論説委員長になる敏腕記者。彼はまた、翌年の毎日新聞「人」欄にも私を取り上げてくれました。

●日経新聞「交遊抄」や週刊紙にも登場

日経新聞エンドページの『私の履歴書』欄の下に掲載される「交遊抄」は、様々な人たち相互のお付き合いが窺える面白いコラムですが、この年の5月2日付けでは「アジア通に学ぶ」と題して、私の担当となりました。ここでは「アジア・オープン・フォーラム」を通じての恩師・中嶋嶺雄先生から始まって、一緒に台湾に行った曽根泰教慶大教授、伊豆見元静岡県立大教授らとのつながりを紹介しました。最後4人目には我が級友の小此木政夫慶大教授。「アジア研究の第一人者である方々の話は知的刺激にもなり、政策を考えるうえで参考にさせていただいている」と結んでいます。思えば、他にも朝鮮半島問題を専門とする学者や、台湾問題、中国問題に熟達した友人が私の周りにはなぜか多いのです。

中嶋嶺雄先生といえば、中国問題の碩学ですが、この頃、ある週刊紙の『私の週間「食卓日記」』なる連載コラム(5月31日号)に、私のことを書いてくださいました。その内容はある意味で衝撃の中身(笑)でした。「4月26日(木)(前略)虎ノ門パストラルで公明党代議士赤松正雄君の傑作『忙中本あり』の出版記念会。同君は私が慶応大法学部に出向していた時の教え子である。小泉新内閣に知人が何人か入閣した夜で、政界の面々や山崎正和氏、石川好氏らの旧知も多かったが、今夜は私が発起人代表なのでパーティではサンドイッチを少々つまんだ程度。帰宅後は明朝渡さねばならない新著の校正が深夜までかかり焼菓子で空腹を満たす」と。ー先生、すみません。何か持って帰って貰う気配りをするべきでしたのに。

●参議院選挙での「連合5党協」の動き

この年の夏の参議院選挙では、兵庫選挙区にちょっとした異変が起きました。1992年までは定数3だったのですが、1995年からは定数が2となってしまい、公明党は挑戦が難しくなりました。ところが、その次の1998年の選挙では共産党が一議席を奪取。このため、公明党は、2001年の選挙ではなんとしても共産党を通させまいとして、自民党を推す一方、一部民主党にも支援の手を差し伸べたのです。新進党結成当時から、自民党にとって代わる勢力の構築をということで、労組連合との相互協力も進んでいました。いわゆる「連合5党協」と呼ばれた仕組みがそれです。その背後には兵庫県の労組「連合」のリーダー・石井亮一さんの存在が大きかったといえます。彼は我が母校・長田高校の大先輩。私の同期の石井道信君の兄貴ということもあって、親しみを感じるところがありました。その上、兵庫県民主党のトップ本岡昭次さんとも私は妙にウマがあいました。というようなわけで、この年の民主党の候補者・辻泰弘氏に部分的支援をした次第でした。

そうしないと、共産党にまたもや一議席を奪われかねない恐れがありました。こんなことで、選挙直前の新聞(朝日新聞7-20付け)には、「兵庫で公明、民主に協力」ー「見返り狙い敵に塩」「非共産で利害一致」などと大きく報じられました。そこでは私の「民主というより、昨年の衆院選で支援を受けた連合兵庫が推す候補を応援するという意識が強い」とのコメントが紹介されています。選挙制度の変更で小選挙区に出られず比例区に回った私とは違って、兵庫では2区赤羽一嘉、8区冬柴鐵三の二人の小選挙区候補が、厳しい選挙を余儀なくされていました。水面下では一票でも欲しい壮絶な闘いが展開されていたのです。

こうした兵庫県独自の闘いに揉まれていく中で、のちのち花開く多くの付加価値を得ることが出来たのです。                                  (2020-4-24公開 つづく)

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【33】衆院国土交通委員長に就任。「読書録」出版の会も開くー平成13年(2001年)❶

●天皇陛下を議事堂広間でお出迎え

2001年が年明けて直ぐに、衆議院の国土交通委員会の委員長の任命を受けることになりました。国会の委員会の委員長というポジションは、テレビで予算委員会の中継などで、委員室の中央に座って「〇〇君!」と呼びかけ、質問者が「委員長!」と手を挙げて発する、あれです。強行採決などといった場面で、委員長席に駆け寄る野党委員とそれを阻止する与党議員にもみくちゃにされながらマイクを必死で掴む姿でも知られます。ただ、そういうことは滅多になく、通常は行司役のようなもので、与野党の調整が専らの裏方です。とは云うものの、立法府の重要な構成員として、大きい役割を担っています。

就任したのは1月31日です。天皇陛下が国会召集日に衆議院に来られますが、その際に玄関脇で衆参の全委員長が並んでお出迎えをすることが恒例になっています。少し脇道にそれますが、衆議院の正面玄関入ったところの天皇陛下のお休み処に通じる階段の下に中央広間があります。そこには、四隅に銅像台があり、そのうち3箇所には、伊藤博文、板垣退助、大隈重信の銅像が立って(昭和13年に憲法50年を記念して設立)います。もう一箇所は台座だけ。これは将来の議会を担う人物のために、敢えて空白にしてあるとのこと。そこに佇むとあたかも明治時代に戻ったような気分になり、私が一番好きな国会のスポットです。

橋本行政改革の結果、この年から省庁の集約化が行われました。国土交通省は、それまでの建設省、運輸省、北海道開発庁、気象庁など旧4省庁を統合した巨大な官庁となりました。委員長になるにあたって、まずは所管の業務を脳裏に畳み込むために、関係部局ごとにレクチャーを受けました。その際に気付いたのは、私と同世代の局長がいたこと。特に大石久和道路局長、竹村公太郎河川局長は昭和20年生まれとあって親しみを一段と抱きました。この二人は退官後も大活躍をしていますが、とりわけ竹村さんは文明評論家として著名な存在です。この人の様々の持論の展開はまことに面白い。読まれてない方には是非読まれることをお勧めします。

●森首相退陣で、小泉対橋本の総裁選

この頃、森首相は極めて不人気で支持率は10%台を低迷する有様。自民党内に、これでは夏の参議院選挙が闘えないとの空気が充満してきました。それを受けての同党総裁選は、新たな風を求める陣営から小泉純一郎氏を推すグループと、旧来的な、数を頼むグループが押す橋本龍太郎氏の再登板をかけた闘いになっていきました。結果は新しい空気を望む側の勝ち。ここから自民党は新たな出発をします。

小泉首相が誕生した時の市川雄一さんの反応にはかなり微妙なものがありました。二人は選挙区が同じ神奈川二区。お互いに、その人間の何たるかが分かっていたはずです。市川さんの小泉首相に対する評価はあまり高くなかったと記憶します。尤も自民党でもその評価は別れていました。私にとって極めて印象深かったのは、組閣直後に国会の廊下を歩いていて、後ろから声をかけられたことです。当時、女性閣僚を一挙に5人も登場させたり、民間から竹中平蔵氏らを登用するといった大胆な人事が話題を集めていたのですが、「どうだ?今度の人事は?」って、まるで社長が中堅社員に話すかのように、得意満面に声がけされたのです。「いやあ、中々ですねぇ」と応じつつ、しばらく一緒に並んで歩きました。私とは特に委員会で一緒だったとか、海外視察で同行したわけでもありません。その気さくさに驚いたものです。

●姫路と東京で出版記念パーティーを開く

私は新幹線で姫路と東京を往復する車中で、雑誌、新聞もさることながら本を片っ端から読む習慣がありました。当選して以来、いわゆる〝金帰火来〟や〝土帰月来〟といった、週末に地元に帰り、週明けに上京するパターンの中で、一往復7時間(当初は片道3時間半かかった)は格好の読書アワーでした。幾ら忙しくても、列車の中ではジタバタ出来ません。動く読書室になりました。最初のうちは読みっ放し。そのうち、情報端末機器(シャープの「ザウルス」)を活用することにしました。今のようなアイパッドで発信、スマホなどで直接見てもらうのとは違って、支持者や有権者のお手元には、ファックスで活字を見てもらう形式をとりました。「新幹線車中読書録」と銘打ち、3冊ほどを三題噺風に2000字以内に一回分としてまとめたものと、国会での時々の動きを追った「国会リポート」の二枚看板にしました。

1999年ぐらいから開始したものが、徐々に溜まっていきました。週一回としても年間50週ですから、二年で共にほぼ100回分です。せっかく書いて発信したのだから、それを本にして出版しようということを思いつきました。政治評論はともかく、政治家が何をどう読んだのかを世に問う意味で「読書録」には意味ありと判断しました。それを今度は一冊の本(『忙中本あり』=〝忙中閑あり〟をもじって)にまとめてみようと、思い立ち、2000年暮れから論創社さんに出版をお願いして作業を進めました。そして、国交委員長になったことのお披露目を兼ねて、出版記念を祝う会もやることにしました。しかも、地元姫路は4月13日に、東京は同月26日に、と連続開催です。衆議院議員になって8年、初めての試みでした。準備や進行など、秘書君たちを始め多くの仲間、関係者の皆さんにお世話になりました。

姫路開催の日は実は自民党総裁選挙のさなか。そんな忙しい状況を割いて、野中務自民党幹事長が来てくれました。この人は、橋本さんの仲間。小泉さんをこき下ろす挨拶をされたのが印象に残っています。地元の4市6郡21町の市長や町長さんたちがこぞって来てくれたり、商工会議所会頭ら姫路の名士の皆さんもずらり顔を揃えてくれました。有り難く嬉しい思いで一杯になりました。

一方、東京でのパーティーは、東京外語大学長の中嶋嶺雄先生を発起人に、演劇評論家の山崎正和さん、『ストロベリーロード』で著名な作家の石川好さん、慶應義塾大での恩師・小田英郎先生、同じく慶大教授で同級生だった小此木政夫君、『元首の謀反』で直木賞を受賞した作家の中村正軌さんら著名な学者、文化人の皆さんに世話人になってもらい壇上花を添えていただきました。当日は残念ながら顔を見せていただけなかったのですが、アサヒビールの社長で高校・大学の先輩・瀬戸雄三氏、朝日新聞の編集幹部・船橋洋一氏らにも世話人に名を連ねていただきました。この人たちに壇上に上がって貰った風景は、政治家のパーティーとしてはかなり異色でした。何しろ登壇した政治家は市川雄一さんのみでしたから。演壇の脇にずっといた中山太郎さんが「いやあ驚いたねえ、赤松さんは政治家というより文化人だねえ」との感想を後に述べてくれましたが、確かにその雰囲気が場内には漂っていました。(2020-4-22公開  つづく)

【33】衆院国土交通委員長に就任。「読書録」出版の会も開くー平成13年(2001年)❶ はコメントを受け付けていません。

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【32】森首相ら閣僚と予算委でIT論議ー平成12年(2000年)❹

●右足親指付け根に激痛で、途中帰国へ

ドイツからスイスを経てイタリア・ローマに入った頃から、なんだか私は右足親指に異変を感じだしていました。これまで、全く経験したことがない痛さでした。ローマの日程は、日中の視察も林大使との夜の懇談会も、前回に述べた塩野七生さんとの会見もなんとかこなしていました。しかし、段々痛くなってきて、次のフランス・パリに行くことは一行に迷惑をかけてしまう予感がしてきたのです。中山団長に不調を訴えました。団長は、すぐさま私に靴、靴下を脱ぐように言って、右足親指付け根を自分の指で触ってみてくれました。「私も医者の端くれだからね」と言いつつ。暫くすると、指で触るのを止め、鉛筆の先端に替えられるのです。「先生、どうして」と訊くと「汚いから」とにやり。これには痛いのを通り越して、笑いました。

大使館には医務室があり、医師がいます。そこで緊急に診ていただいた結果、「通風」だとの見立て。応急の薬を処方していただきました。無理をしたら最終行程をこなせるとは思いましたが、パリ行きを断念して帰国をすることにしたのです。というのも、一人だとなにかと難しかったのですが、なんと、辻元清美さんが「私も党の政調の会があるので、帰国する必要があります。サポート役しますから、ご一緒に」と。ご好意に甘えることにしました。これは助かりました。(彼女はその後天下周知の出来事に直面、2002年3月に議員辞職します。)怖いもの知らずの気が強い女性のイメージですが、日常的には実に優しい人でした。帰国後、主治医に診てもらいましたが、数値も普通。あの症状はローマでだけ。今に至るまで一切再発なし。まるでローマでキツネにつままれたような「通風騒ぎ」でした。

●閣僚に「HPやってる人、手を挙げて」と呼びかけ

森喜朗首相は内閣発足に当たって、IT(情報技術)革命を掲げて出発していました。それを受けて自民党の中にもIT議員連盟なるものが作られる雰囲気が次第に高まっていました。そんな折、9月28日の予算委員会で首相や全閣僚を相手に質問する機会を得ることが出来ました。そこで、私は森首相始め、全閣僚にHP(ホームページ)の開設をしているかどうかを冒頭に聞いたのです。「HPやってる人は手を挙げて下さい」と。予め調べたところでは、19人の閣僚のうち、6人が活用していると判明していましたが、テレビ付きの質疑でもあり、問うことにしたのです。すると、手を挙げた人は5人。一人足りません。森首相は「家族じゃあダメか」などと口にしていました。HPをやってるのに、手を挙げていないのは宮澤さんでした。「宮澤大臣はやってるでしょ」というと、慌てて挙げる始末。人任せがハッキリした面白い場面でした。

IT革命の首謀者がHPを持たないのはおかしいと思うのは自然な感情です。私はそれをネチネチといじめるつもりでした。森首相は、答弁の中で、個人での意見を公表するのはなにかと後に尾を引くことになったりして問題を招くとか、あれこれと言っていました。確かにそういう側面は否定できないのですが、やりようによってはいくらでも発信できるはずです。現に次の首相になる小泉さんはうまく活用していましたし、今では米国のトランプ大統領のツイートが世界で取り沙汰されたりするなど話題を提供、物議を醸す原因になったりもしています。私のいうようなことを受けて、やってれば森首相も良い意味での話題の人になったはずなのですが。

公明党は当時「電子立国」に向けた取り組みとして、衆参国会議員にはHPの開設を義務付け、都道府県議会の議員や政令指定都市議員にも早期に持つように拡大する予定でした。こうしたことを背景に自信を持って質問に使ったしだいです。神戸新聞はこの時の私の質問を取材して、10月4日付けに報道。私のコメントも「政治家にとって、IT革命を進めるというのは情報公開をするということ。そう思って、閣僚に自信のほどを聞いたのに、たった六人とは」と紹介する一方、「拍子抜けの様子」だと伝えてくれました。

●政治腐敗防止に向けて次々と改革が実現

森喜朗首相という人物は、体躯堂々としたいかにも〝太っ腹〟という印象です。彼が首相になって半年余りした頃、11月4日に公明党は党全国大会を開催しました。その時のエピソードを披露しますと、当日壇上脇で、同首相のお相手をする役割を私が仰せつかったのです。壇上の椅子に着席してもらうまで、いささかゆとりがありました。私は「総理、立たせっぱなしで、申し訳ありません」と述べました。すると、彼は「いやあ、僕は学校時代からいつも立たされていたからねぇ、立ちっぱなしは平気だよ」と。本当かどうか知りませんが、こういう一言がこの人の魅力なんだろうと思った次第です。

また、後年、赤坂の議員宿舎で、珍しく上京していた妻と宿舎の食堂で夕食をしたあと、ばったりと森さん夫妻と出くわしました。すかさず彼は、「奥さん、こんなところで食事せずに、もっといいところに連れて行ってもらいなさいよ」と。余計なことを言うと思いましたが、これが彼の真骨頂なんでしょう。要するに一言多いのです。尤も、私も人のことを言えた義理ではありませんが。

小渕政権では、公明党が連立を組んだ証しとして、自民党の積年の病弊である政治腐敗の防止に向けて、公明党は一連の改革を実現するべく主張を強めました。そのうち何と言っても大きいのは政治家個人に対する企業・団体献金の廃止です。それまで、一企業・団体当たり年間50万円まで受けられるようになっていた政治献金を、廃止するよう強く求めました。その結果、2000年の初っ端から実現を見たのです。また、森政権になってからも、あっせん行為(いわゆる口利き)による見返りを、政治家や秘書が得ることを禁止する「あっせん利得処罰法」を制定することが出来ました。同年11月22日のことです。(2020-4-20 公開 つづく)

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【31】憲法調査でドイツ、スイス、イタリアへー平成12年(2000年)❸

●頻繁に憲法改正をしてきたドイツ

実はこの年ー2000年の1月20日に衆参両院に憲法調査会が設置されました。初代の衆議院調査会長は中山太郎元外相です。私もそのメンバーの一員となり、様々な論議に加わっていくことになります。その活動の中で、忘れがたいことの一つは、9月10日からの17日までの7日間のドイツ、スイス、イタリア、フランスの四カ国に憲法改正の経緯事情を視察する旅に加わった(私は故あってフランスには行けず三ヶ国のみ)ことでした。メンバーは、中山太郎団長、鹿野道彦副団長、団員に葉梨信行、石川要三、中川昭一、仙谷由人、春名真章、辻元清美そして私の9人。随行には衆院憲法調査会事務局の橘幸信氏ら。そしてメデイアからは、NHK と産経新聞の記者が同行するという大掛かりなものとなりました。

調査活動で最も印象深かったのはドイツでのこと。1949年の憲法制定以来、2000年の時点で、46回に及ぶ憲法改正を経験していたという歴史的事実には驚きました。日本と同様に第二次大戦後、敗戦国としての出発を余儀なくされたドイツですが、その後の歩みは大きく違いました。一行をドイツ連邦議会で迎え、対応してくれたアルフレッド・ハルテンバッハ氏(ドイツ社会民主党=SPD法務部会長)は、ドイツにおいて頻繁に憲法改正が行われてきた最大の理由として、「国家を現実に適合させる必要があった」ことを挙げました。冷戦下に東西両陣営の最前線に立たされて、自らの国は自らで守らねばならない現実に直面して、その都度憲法を改正せざるをえなかった事実経緯を述べてくれました。

彼が語った過去のドイツが経験した三大改正とは、一つは、1956年の北大西洋条約機構(NATO)加盟の際の再軍備に伴う兵役の義務化です。更に、1968年の国家的緊急事態における防衛体制の整備が必要とされた時のこと。そして、三つ目は、東西ドイツの統一の際の改正でした。いずれも過酷な国際政治の現実の中での重要な選択だったのです。

●中山団長が挙げた三つの検討課題

中山団長はドイツ、スイス、イタリアの調査を終えた段階で、同行記者団を前に懇談して、「各国において、憲法は神聖不可侵のものではなく、社会情勢の変化に応じて、改正が極めて普通のこととして行われており、日本においても改正を念頭においた本格的な憲法論議が進められるべきです」と述べました。

その上で、ドイツとイタリアが独立機関として設置している憲法裁判所について、「議会制民主主義よりも良い判断が行われた面もあり、日本でも設置するかどうか十分議論していきたい」と強調しました。さらに、三カ国が憲法において、国民に兵役の義務とそれを拒否した場合の福祉活動など代替勤務を課していることに関連して「社会保障における労働力や個人の社会全体に対する義務を考える上で、検討に値する」と述べました。加えて、スイスが世界で初めて、憲法に遺伝子技術に関する「生命倫理規定」を憲法に盛り込んだことも、大いに参考にすべきだと発言しました。

ここに挙げた三つの発言はいずれも中山団長の個人的なものではありましたが、私を含め団員の間でも興味を惹いた内容でした。同行記者団の一人、産経の高橋昌之記者(姫路出身。先年急逝)は、9月18日付同紙に、大きくこの時の懇談内容を書いています。❶独立した憲法裁判所❷「奉仕活動」の義務化❸生命倫理規定の創設が憲法調査会の検討課題に、と。その記事には各党の代表のコメントが掲載されていますが、私も「憲法を良い方向に変えるべく、できるだけ早い機会に公明党の憲法草案を作るべきだ」とまで、勢い込んだ発言をしているのです。旅先でもあるからでしょうが、突出した高揚感が伝わってきます。同世代の仙谷由人(のちの民主党政権の官房長官)や中川昭一氏(のちの金融担当大臣)らと幾たびも議論を交わしたものです。(この二人も、もう亡くなってしまいました。)

●ローマでの塩野七生さんとの出会い

この旅での重要なイベントは、ローマ在住の作家・塩野七生さんとの懇談(9-14)でした。これは中山団長のたっての希望で、同地の大使公邸で行われました。塩野七生さんといえば、畢生の大作『ローマ人の物語』全15巻を始めとするローマ帝国に関する歴史著作で有名です。同時に歯に衣着せぬ明快な物言いで知られる人でもあります。私は少し以前に国会で彼女を招いて講演会があった際に、同僚議員が仲間を「先生」と呼んだことに対して、「国会議員がお互いを先生と呼ぶのはやめなさいよ」とビシッと指摘されたことに強烈なインパクトを受けていました。その通りだと共鳴したのですが、同時にその舌鋒の鋭さにタジタジとなったのです。これは、私一人だけではなかったはずです。

この夜も塩野さんは、「私を先生と呼ぶのはやめてくださいね。皆さん方もそうですが」と冒頭切り出され、「わざわざイタリアまで日本の国会議員の皆さん方がやってきて、私のような日本人に会おうなんて、一体どういうことでしょう。栄誉あることだと私は受け止めますが‥‥」と皮肉混じりと受け止められる言い方をされたものです。憲法については、改正に必要な国会議員の三分の二というハードル(憲法第96条の規定)を下げて、過半数にすべきだということが唯一最大の注文だと述べられたことが強く印象に残っています。

私は別れ際に、玄関先までついて行き、こう述べました。「日本の男性の多くは塩野さんのローマ人の物語を始めとする著作が大好きです。しかし、女性の多くは須賀敦子さんの著作に興味を持っている人が多いですねぇ」と述べました。実は、須賀敦子さんも塩野七生さん同様にイタリア人男性と結婚し、ローマにかつて住んでいた女流作家です(今は故人)。私はこの人の著作をある女性から勧められてほぼ全てのものをこの時までに読んでいました。それ故に、チョッピリ皮肉を込めて一矢報いたつもりでした。これくらいのことを言わねば、大作家の心を惹かないと思ったからです。しかし、あに計らんや「私も須賀敦子さんのように日本の女性に読まれないといけませんねぇ」との答え。意外でした。役者が違うというべきでしょうか。

こうして憲法調査会の欧州旅は過ぎて行ったのですが、私はローマで、またまたとんでもないハプニングに見舞われます。それが冒頭に述べた四カ国歴訪が、私は三カ国になったことに繋がるのです。これまた自業自得というのでしょう。次回のお楽しみに。(2020-4-17公開 つづく)

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【30】森政権の危うくおかしな滑り出しー平成12年(2000年)❷

●産経「私にも言わせて」欄に登場

自自公政権下、自民党、自由党との間で防衛問題の協議を進める中、4月6日付け産経新聞「正論」欄に、政治評論家の屋山太郎氏が「自民党に公明党化の恐れはないか」とのタイトルの論考を寄せました。歯切れのいい論陣をはる、名うての論客です。そこでは、自由党の政権離脱によって、安保政策の牽引車が消えてしまい、ブレーキ役の公明党が影響力を増すことから、安保議論が姿を消すのではないかと、書かれていました。論考のなかで、公明党の安保政策が、あろうことか旧社会党の非武装・中立論と似ているとの文言のくだりがありました。これは黙っておれないと、この「私にも言わせてほしい」欄に寄稿したのです。この文章全七段のぶち抜き、13字詰め104行の結構大きなたたみ記事でした。「『自民の公明化』に反論 ー安保論議消失の心配無用」という見出しです。

屋山さんは、新進党の新人コンテストで面接を担当したようです。その際に、公明党出身者が異口同音に「平和と福祉をやります」と、答えたというのです。それで、「平和はどうやったら守れるのですか」と、いたずらっ気を出して訊くと、また異口同音に「こっちがじっとしていれば安全です」といったといわれるのです。この辺り創作の匂いがふんぷんとしますが、それを受けて、彼は「公明党の平和観というのはいってみれば念仏平和」だ、と書いていました。

●屋山太郎氏の「念仏宗教観」

これに対して、私はー「念仏平和」って言葉、初めて聞きました。念仏を唱えて、戦をした人々のことではないでしょうね。居酒屋談義じゃああるまいし、こういう「いってみれば」は名だたる評論家のなさることではありませんね。(中略) 自分で勝手に、公明党の安全保障政策をかつての社会党のそれと似ていると決め、(屋山さんは)「日本は平和をいつまでも享受できると思っているのか」「解に危険なのは念仏宗教観を現実政治の中に取り入れてしまうことである」と述べています。こういう論法には、大いに疑問を感じますーと続け、公明党は、北東アジアに平和をもたらすべく、予防外交の限りを尽くす一方、必要な抑止力を持つことは当然だとの考えを披瀝しています。そして、公明党が賛成したればこそ、周辺事態法が成立したではないか、その事実をどう見られるのか説明してほしいとたたみ込みました。

この文章の最後では、「屋山さんは、いたずらっ気を出して書いたら、まんまと乗ってきたと、ほくそ笑まれているかもしれません。もっとも、連立を組む前まで、『次々と右傾化政策に賛成する公明党 』と、産経を除くメディアから攻撃されてきましたから、『正論』でのご批判は、格好の中和剤だと、私こそ喜ぶべきなのでしょう」と結んでいます。今読み返しても中々面白い文章展開だと自賛しています。いかがですか?

ところで、この後、市川さんと一緒に屋山さんとお会いする機会がありました。あれこれとお二人が議論をされていたことが思い出されますが、細かなことは忘却の彼方です。その折は流石に「うちは念仏じゃあなく題目ですよ」とも言えず、借りてきた猫ならぬ、飼い主に連れられた犬のように、大人しくしていました。

●森喜朗首相のもとで世紀末から世紀明け

小渕さんの脳梗塞入院による森喜朗さんへの交代は、4月5日。それからほぼ1年間だけ森政権は続きます。世紀末から新世紀明けまでの貴重な期間をこの人が日本の命運を担うことになったのです。自民、公明・改革クラブ、保守の実質3党による連立政権でした。公明党は、この間に①アレルギー性疾患対策を求める署名集め(約1464万人分)②中小企業全国実態調査(調査総数約22000社分)の結果を踏まえての中小企業対策ーなどを首相に提出すると共に、実施を要求しました。併せて、5月には交通バリアフリー法、児童虐待防止法、ストーカー規制法、循環型社会形成推進基本法などを矢継ぎ早に成立させることにも貢献したのです。いずれも公明党ならではの視点のもので、連立政権の一翼を担う政党らしい闘いぶりに、支持者は勿論、有権者は大いに賛意を抱いてくれました。

●衆議院解散総選挙(6-25)で、三回目の当選果たす

森喜朗首相の登場は、〝密室の交代劇〟といった批判を浴びましたが、滑り出し直後の5月15日に神道政治連盟国会議員懇談会の場での発言が大騒ぎの原因となります。同首相はそこで「日本の国は、まさに天皇を中心とする神の国であるということを国民のみなさんにしっかりと承知していただく。そのために我々(神道政治連盟関係議員)は頑張ってきた」とのいわゆる「神の国発言」をしました。これに対して、共産党をはじめとする野党は猛烈に反発し、総理大臣に不信任決議を出そうとします。これを逆手にとって首相は衆議院解散を断行しました。

当時の公明党の受け止め方は、「いかにも」という空気でした。「言わずもがな」の発言に呆れたというのが本音だったのです。神道政治連盟という集団内部での心情は確かにそういうことでしょう。ですが、それをわざわざ時の首相が、日本は神の国であると表明するというのは、不用意極まりない失言というほかありませんでした。これによって、この国の起源を巡る侃侃諤諤の議論が一時的に生み出されました。この騒ぎの直後に、テレビ朝日の人気番組「朝生まテレビ」に私は初出演しました。

総選挙は、前回の小選挙区比例代表並立制の選挙制度における初の選挙に続くもので、2回目。新進党の解体で公明党は久方ぶりの独自の選挙となりました。前回は近畿比例ブロック定数33のなかで、新進党の名簿四位で、悠々当選を果たしましたが、今回はそうはいきません。公明党としての単独名簿の当選圏内ギリギリと見られた名簿五位でした。投票日当日、最後の最後までヤキモキする危ない闘いでようやく滑り込みました。これで当選三回となったわけですが、きわどい結果に胸撫で下ろしたものでした。(2020-4-14公開 つづく)

【30】森政権の危うくおかしな滑り出しー平成12年(2000年)❷ はコメントを受け付けていません。

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【29】安保・防衛論義で歯止め役果たすー平成12年(2000年)❶

連立参加の具体的証しとしての神崎代表挨拶

年が明けて、2000年の1月19日。神崎公明党代表は初めて自民党の党大会に招かれて挨拶をしました。「公明党は90年代に入って、野党という立場でありながら、湾岸90億ドル追加支援やPKO問題、金融不安の解消など、日本の進路を決める局面で重要な役割を果たしてきた」「日本の危機を乗り越えて、政治の安定を果たす中で改革を断行する必要があるので、連立に参加する政治的決断をした」と、強調したのです。

こうした事実を報じるメディアを追うにつけ、昭和39年の立党から36年ほどが経って、遂に自民党との連立政権を構成するに至ったことに深い感慨を覚えました。神崎代表は検事出身ですから、統治機構の一部を元々形成していた存在の一人だったわけですし、冬柴鐵三さんや山口那津男さんを始め衆参の公明党議員には弁護士出身も多く、今ある法律を解釈する仕事に従事してきたメンバーとして、権力の側に身を寄せることにさしたる違和感はなかったかもしれません。ですが、私のような自民党政権批判一筋の政党機関紙記者出身者(昭和44年から18年間)としては、大いなる戸惑いを感じたものです。

自自公三党連立は、その後早々と4月5日になって、自由党が連立を解消するに至ります。そして、同党を離党した扇千景参議院議員をはじめとする人たちが保守党を旗揚げすることになりました。結果として、保守党には26人が参加、自由党には24人が残り、同党は分裂をしたのです。自自公連立は、自公保連立へと衣替えすることになりました。このかたちは03年11月まで続き、保守党が保守新党を経て自民党に合流してからは、自公連立となっていくわけです。一方、小沢自由党は民主党と合併する道を選んでいきます。

与党安保PTで自自両党に攻められる

2000年の春先、私は党の外交・安保委員長として多忙を極めていました。一つは、防衛庁の省への昇格問題であり、二つ目は有事法制化問題です。さらに三つ目は、PKFの凍結解除問題です。いずれも、自自両党が進めたいとするものでしたが、公明党としては慎重にならざるをえないテーマでした。問題の性質上、産経新聞が熱心に取材をしてきて、幾度か同紙の紙面を飾りました。自由党が未だ連立政権に加わっていた時は、とりわけ自自両党の間に挟まれて苦労しました。防衛省昇格問題では、3月8日の与党安保PTで、久間章生元防衛庁長官が自民党の国防部会で了承されたとの報告をしました。これについては、前年の自自公三党の政権合流に伴う政策協議で、自由党から強く「盛り込み」を求められたという経緯があります。しかし、公明党は最後まで認めませんでした。従って、私はその場で勝手に色よい話をするわけにもいかず、難しい事情を述べたものです。3月9日付の産経新聞は、この辺りについて大きく報じました。

また、有事法制化については、外国からの武力攻撃を受けた場合、つまり1分1秒を争う緊急時に、防衛のために超法規的な行動を取ろうとしても、難しいことは当然想定されます。一般市民の立場に立てば、いざという時だから、あなたの土地、家屋を自由に使わせてくれと言われても、おいそれとは同意出来ません。そういう一般大衆の側に立って、憲法に規定するさまざまな権利擁護の観点を重視するのが公明党のスタンスでした。「官邸の決断を待つしかない」(坂口力政策審議会会長)というのが精一杯でした。

PKFというのは、国連平和維持活動(PKO)の中で、軍事的行動を伴う活動をする主体を意味します。ピース・キーピング・フォースつまり国連平和維持軍です。PKOはあくまで平和的に物事を進めようとするためのもの。それに対して、PKFは軍事的役割を重視するものです。ですから、日本政府はPKFについては、初めから凍結することにしたのです。しかし、自由党はそれでは、国際基準と合わないとして、執拗に凍結の解除を迫ってきていました。公明党はそれは受け入れられないので、自民党と共同歩調をとりつつ、慎重な姿勢を固持したのです。

つまり、与党三党の安保プロジェクトチーム(PT)での私の役割は一貫して、自自両党に歯止めをかけることでした。前に前に行こうとする自由党を抑え、自民党には公明党の立場を理解してもらうことに意を注ぎました。この頃の安保関係議員の自民党の中心にいた久間章生さんや、額賀福志郎さん、そして石破茂さんらとは様々な交流をする機会に恵まれました。自由党の担当の一人は元公明党、公明新聞の大先輩であった二見伸明さんでした。この人は公明党と袂を分かってから離れてしまわれ、最近は共産党シンパのような存在です。

小渕首相、脳梗塞で死す

橋本龍太郎首相からバトンを引き継いだ小渕恵三首相は、金融危機の嵐が吹き荒れるなか、自由党との連立、そして公明党をも引き込むなど、日本の安定のために 必死の闘いを挑みます。この間の無理がたたり、結局2000年の4月1日に脳梗塞で倒れそのまま帰らぬ人となりました。その直前に小沢自由党党首の連立離脱の動きがあったことから、様々な憶測が流れたことは忘れられません。政局はこのことから一気に流動化しました。当時の官房長官・青木幹雄氏が、野中務、村上正邦、亀井静香、森喜朗の各氏を集め、次の首相に森氏を決める流れを作ります。いわゆる「密室談合」と呼ばれる一幕です。現職の首相が病に倒れるケースは、戦後ではこれまで石橋湛山、池田勇人、大平正芳の三人です。選挙最中に逝った大平首相とはまた違った意味で、小渕氏は「殉職」とでも表現したくなるような悲劇的な死でした。

衆議院本会議などで一度ならず議論をした小渕首相ですが、個人的に会うことは、エレベーターの中で偶然に会うことぐらいしかありませんでした。「政治家と健康」という普遍的なテーマを突きつけられ、自らの行く末に誰しも思いをいたさざるをえませんでした。尤も、こういうことは直ぐに忘却の彼方に忘れ去られがちです。このあと、10年ほど経って、私も同じ病に襲われることになりますが、もちろん、この時は神のみぞ知ることでした。(2020-4-11日公開 つづく)

【29】安保・防衛論義で歯止め役果たすー平成12年(2000年)❶ はコメントを受け付けていません。

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【28】自民と「連立」という画期的決断ー平成11年(1999年)❸

自自公連立政権誕生の経緯について

7月24日の臨時公明党大会で、公明党は連立政権に参加する方針を決定しました。それを踏まえて、神崎・小渕の両党首は26日に党首会談を持ち、大筋の決着を見ることになりました。ただ、小渕首相が進める、自公の連立の動きー結果的に自自公連立になるのですがーについては、自由、自民双方の中から、不協和音が聞こえなかったわけではありません。まず、自由党からは、衆議院の比例区の定数を50削減を実施すべきで、それが飲めなければ、連立離脱も辞さずとの態度が示されたのです。これは小渕・小沢会談で次国会まで継続審議とし、冒頭処理することで決着を見ました(定数削減は、最終的には20削減で決着)。一方、自民党内から一部議員が、公明党との連立に反対する強硬な姿勢を示したり、加藤紘一前幹事長や、山崎拓前政調会長ら幹部が、公明党とは閣外協力に留め置いた方がいいとの主張がなされたりしました。
そうした動きがありましたが、最終的には三党間における政権・政策協議は、10月4日に合意書を交わすに至りました。正式には5日に自自公連立政権がスタートし、公明党からは続訓弘参議院議員が総務庁長官に就任することになったのです。この間の小渕首相の苦労たるや並大抵のものではなかったことが後で分かります。公明党にとっても、長きにわたって批判の対象としてきた政党と、政権を一緒にするとの選択をした画期的な決断でした。

意味深い連立参加のインタビューに登場

当時、公明党の兵庫県本部長をしていた私に、神戸新聞社から「自自公連立 県内関係者に聞く」とのインタビューの依頼が舞い込み、9月1日付けの同紙に掲載されました。(全文は以下の通りです)

ー世論調査などで、自自公に対する有権者の否定的な見方が目立つ。
「半分は当たっているが、半分は当たっていない。自民は比較第一党の支持を得ているが、過半数ではない。他党と組まざるを得ない。どの党と組むかが(選挙などで)示されていないという批判はある。しかし、有権者は比較第一党の自民に、その選択権をあたえているとも言える」

ー公明は変わった、との見方もある。
「かつては野党結集の中核的役割を果たしたのにーという見方だ。事実、新進党という形で結実したが、内部的な問題で崩壊した。今、自民に対抗する勢力をつくるには、非常に手間と時間がかかる。仮にできたとしても、新進の二の舞になりかねない。公明は自民と組むことで、公明の主張を実現する道を選んだ。基本的には変わっていない。中道左派から中道右派へのシフトだと思っている」

ー先の国会で、重要法案が自自公の数の力で次々に通ったとの印象がある。
「自民案をそのまま通したとすれば批判もあるだろう。しかし、嫌がる自民に大幅な修正を認めさせた。公明が施した修正にこそ意味がある。中身を見てほしい。数で何でも押し通すことはしない」

ー解散・総選挙の時期は
「なるべく早く有権者の判断を仰ぐ必要はある。しかし、来年度予算編成でわれわれの政策を反映させることを考えると、最も早いケースで来年一月の通常国会冒頭だろう」

ー非自民・非共産を掲げる連合・五党協の枠組みは維持できるか
「これまでの枠組みを大事にしようという点では一致している。ただし、非自民を旗印にするのは難しい。『自民単独過半数を許さないための選挙協力』であれば矛盾しないと思う」(西海 恵都子)

この西海記者は、今では神戸新聞編集局長になっています。女性初のポジションです。このやり取りでの私の発言はなかなか良くできていると思って、自画自賛していますが、いかがでしょうか。

東ティモール問題でのインタビューにも

この頃、東ティモール問題が浮上。党外交安保委員長として、産経新聞のインタビューを受けたものが、10月30日付同紙に「PKO、PKFで5原則重要」との見出しで大きく取り扱われました。
要旨を抜粋しますと、記者から、東ティモールへのPKO 参加はあるのかと問われ、「当事国の同意がPKOの一つの精神で、紛争当事者の一方を支援することはできない。参加は難しい。PKO、PKF活動で五原則は重要だ。五原則を外せば、紛争が起こりかねない状況で出動することが可能になる」と述べ、どこまでも五原則にこだわる考え方を強調しています。その上で、どう東ティモールの復興に貢献するかについては、「傷病者治療、紛争後の国土開発への貢献が第一。第二に火の粉が降りかからない地域で避難している難民などへの人的支援だ。紛争を鎮火させるための人的貢献はすべきではない」と、同地域の平和構築のための人的支援に!どこまでもこだわる姿勢を明確にしています。

多国籍軍への自衛隊の派遣を公明党が認めるのかどうかが当時最大の(今も同様だが)焦点だったので、記者は執拗に訊いてきました。それに対して私はどこまで慎重な態度に終始しています。「武力で武力を鎮圧することに加担するのが、21世紀へのメッセージとして妥当なのか。自衛隊が多国籍軍に参加しないことがグローバルスタンダード(国際的な基準)ではないと、批判されることに国民が負い目を感じることはない」と述べたり、多国籍軍参加につながるような法整備には同意できないと強調し、あくまで憲法の枠内での後方支援の方法を模索すると訴えています。

東ティモールに私は行ったことはないのですが、この後、同国に深い関係を持つ二人の人物と大変に親しくなります。一人は元防衛施設庁長官で東ティモール大使になった北原巖男氏。もうひと方は国連職員として世界の紛争現場で調停者として活躍してきた伊勢崎賢治・東京外語大教授。北原氏が2008年(平成20年)に大使赴任する直前に三人で会って、あれこれと意見交換をしたことが懐かしく思い起こされます。北原氏は大使を辞めた後も、東ティモール日本友好協会の責任者として懸命の努力をされています。(2020-4-8公開 つづく)

【28】自民と「連立」という画期的決断ー平成11年(1999年)❸ はコメントを受け付けていません。

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