Monthly Archives: 7月 2020

【76】総務委員長として経済危機乗り切りに全力ー平成20年(2008年)❻

●「緊急保証制度」と「定額給付金」打ち出す

9月29日に麻生太郎首相は衆議院本会議で所信表明演説をして、その施政舵取りのスタートを切ります。同じ日に私は衆議院総務委員長に選任されました。2001年の省庁再編成で、旧自治省、郵政省、総務庁が一体化され総務省になりましたが、その役所に関わる課題を議論する常任委員会の中心者となったのです。新しい委員会が出来て7年、ずっと自民党の委員長が続いていましたが、初めての公明党所属の委員長ということになりました。総務行政のトップは、鳩山邦夫大臣。この人はご存知、後に首相となる由紀夫氏の実弟。鳩山一郎首相、薫子さんのお孫さんです。私は当選以来なにかとご縁があって、親しい関係にありました。

厳しい経済情勢の中での出発となった麻生首相のもとで、公明党は「非常時の経済対策」を訴えます。与党一体となって次々と政策を打ち出していくことに貢献したのです。最大のものは中小企業の資金繰りを助ける「緊急保証制度」の創設でしょう。10月16日に成立をみた、この年最初になる第一次補正予算に盛り込みました。実際には10月31日にスタートを切るのですが、融資の相談、申し込みが凄まじい勢いで全国に広がっていきます。太田代表を先頭に、公明党の全議員が一体となって、地域の零細・中小企業者のもとに足を運んで、この新たな制度の活用を訴えました。

公明党主導のもう一つの柱となる政策が「定額給付金」です。10月30日に発表された「緊急生活対策」の目玉でした。これは、総額2兆円規模で、全世帯を対象に①ひとりあたり12000円を支給する②18歳以下と65歳以上には8000円を加算するーというものでした。こちらの方は、第二次補正予算に盛り込まれ、現実には翌年1月27日の成立を待たねばなりませんでした。生活者の家庭に行き届くのはさらに遅れ、2009年3月から半年ほどの期間になります。

この一連の作業を扱うのが総務省。私が委員長を務める総務委員会で11月13日に集中して議論をしました。そこでは、野党とりわけ民主党の委員から、この定額給付金が最終的に地方自治体に丸投げになったのはけしからんとの批判が相次ぎました。同党はこの定額給付金構想それ自体を認めず、最後まで反対をするのですが、委員長席でやきもきする日が続きました。

●麻生首相批判をブログで

ちょうどこの頃、麻生首相が3年後に消費税引き上げを明言するとの記者会見(10月30日)をしました。このことへの波紋は少なからずあり、地元でもあれこれと批判の対象となりました。11月2日、午前中は建設会社の安全大会から、特別擁護老人ホームの秋祭りに出た後、午後には母校長田高の同期会に出席しました。そういう場で聞いた「麻生批判」をも受けて、その日のブログで私は以下の様に書いたのです。

【先日の記者会見で麻生首相が、3年後に消費税を引き上げるとしたことの波紋は少なくない。至るところで、批判めいた意見を頂くことが多い。麻生さんも、明確に決めたわけでもないくせに余計なことを言うものだ。太田代表は、少なくとも3年は消費税をあげないととらえるべきだと言っているようなのだが、いささか苦しい。首相自身の口から、もっときちっとしたメッセージを発信すべきだろう。こうした政策課題にせよ、肝心の選挙に期日にせよ、麻生さんは、公明党幹部との意思の疎通を正直欠きすぎだ。ここまで連立のパートナーを裏切っては、関係基盤も先行き不透明なものになりかねない。】

このブログにメデイアは飛びつきました。朝日、毎日、読売三紙が「連立パートナー 裏切った」「公明・赤松氏、ブログで首相批判」と書いたのです。私としては普通の当たり前の思いを発しただけなのですが、いささか本音を正直に言い過ぎたかもしれません。とくに身内の太田代表にもちょっぴり刃を向けたことのリアクションが党内にありました。意思疎通を欠いていたのは、むしろ私と代表、幹事長との間であったろうことを後々反省することになります。

●熊森協会の青年たちと環境相へ要望に行く

日本最大の実践自然保護団体である「日本熊森協会」に私が出会った経緯などについては既に述べました。1997年に設立されましたから、もう20年を超えており、会員数も20000人になろうとしていました。私は一段とこの会及び姉妹団体の公益法人「奥山保全トラスト」の守護者たらんことを深く決意しています。そんな私がその意思を固めるに至ったのにはそれなりの訳があります。それは2008年12月5日のことでした。

同協会の森山マリ子会長(当時)から、このまま狩猟、有害駆除の対象にクマがされ続けていると、一気に絶滅に向かってしまうので、ぜひ所轄官庁である環境省に要望に行きたいとの希望を聞いていました。偶々斉藤鉄夫環境相は、公明党出身の仲間でもあるので、ちょうどいい機会とばかりに、この日、仲立ち役を引き受けました。同会長以下熊森協会の青年部6人ほどと一緒に斉藤大臣及び黒田大三郎自然環境局長らと会うことが出来たのです。

今、山奥から人里にクマが降りてくるのは、森がクマの生息地として相応しくなくなってきていることが原因です。森が荒れていることは、保水力をなくしていることの現れであり、昨今の大雨による鉄砲水の出現に見られるように、やがてはすべての集落、都市が破滅に向かうというのが熊森協会が抱く危機意識です。この日の面談で、青年たちはこうした問題意識のもと、必死に「国がすぐにクマの狩猟禁止に向けて動いてくれないと、クマが滅びてしまう」と訴えました。

しかし、斉藤さんは「これからいろいろな人に議論してもらおうと思います」と、だけ。そのため、青年たちは「今、緊急事態なのです。その地域にとって、取り組みが半年、一年遅れると、取り返しのつかない結果を引き起こしかねません。今や狩猟は、スポーツ、レジャーなど遊びの道具になっています。まずはそれだけでも禁止してください。今日、ここで大臣の見解を聞かせていただかないと帰れない」と食い下がりました。

すると、斉藤さんは困った顔をして、黒田局長の顔を伺います。同局長は、「クマを狩猟獣から外すかどうかは、環境相の権限ですが、西日本のように、個体群の存続が危ぶまれているところもあるが、そうでないところもあるので、難しい」と、否定的見解を述べました。そこで、森山さんが、「熊森協会のように、多数の優秀な研究者の指導のもと、17年もの間、必死にクマと森の問題に取り組んできた本気の団体を国の審議会などに呼んで意見を聞いて欲しい」と強調しました。斉藤大臣は「検討します」と言ったのに、横あいから黒田局長が「ご意見はパブリックコメントでお願いします」と全否定する始末。森山さんは、これまで何回も応募したが、全く聞き入れられない状況を説明、「国が意見を聞いたというポーズのために、我々に無駄な労力を使わせて疲れさせないで欲しい」と厳しく返しました。

私は黙って終始聞いていましたが、これまでの政治家生活で最も屈辱感を味わった場面でした。(2020-7-31公開 つづく)

 

 

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【75】リーマンショックの嵐の中での麻生内閣ー平成20年(2008年)❺

●首相問責決議から持ち直したかに見えるも‥‥

先に見たように、衆参両院がねじれている状況は次々と困難な事態を福田政権にもたらしました。ついにそれは、「首相問責決議案」の提出、可決にまで至ったのです。現行憲法施行下で初めての出来事は6月11日に起こりましたが、与党側は直ちに衆議院での信任決議を可決し、民主党の狙う政治的効果に水をかけました。7月7日から9日までの北海道洞爺湖サミットを無事に乗り切った福田首相は、8月2日に内閣改造に踏み切ります。この内閣は、留任、再入閣が多くて新鮮味はないものでしたが、公明党の斎藤哲夫氏の環境相と自民党参議院議員の林芳正氏の防衛相の初入閣に、私は注目しました。二人とも政治家としては若く優秀な逸材で、大いなる期待が持てました。特に林防衛相は、私の親しい防衛官僚が「これまで幾人もの防衛庁長官や大臣を見てきたが、こんなに頭の回転が早く、防衛問題についての蓄積も豊富な人は初めてだ」とベタ褒めしていたことが強く記憶に残っています。

また、8月29日には、政府与党は「安心実現のための緊急総合対策」という名の緊急経済対策を打ち出します。この中では、「定額減税」の年度内実施、老齢福祉年金の受給者などに対する「臨時福祉特別給付金」の支給などが盛り込まれていました。ところが、その僅か三日後の9月1日に福田首相は辞任を発表してしまうのです。実はこの日は、朝から神戸市内で開かれた全建総連兵庫県本部の大会に出て挨拶をする機会がありました。出席者は民主党関係者ばかりで与党からは私一人。そこで、私は「早く追い立て民主党」との持論のさわりを述べたりして、上京しました。

この日の夜は、東ティモールに大使として赴任することが決まった北原巌男(前防衛施設庁長官)さんと、紛争調停人の異名を取る東京外語大の伊勢崎賢治教授を引き合わせる懇談会を持っていました。東ティモールで任務にあたったことのある伊勢崎さんから、同地の状況を聞くことが狙いでした。ところが、赤坂宿舎に帰り着くやいなや待ち構えていた記者たちから、福田首相辞任というビッグニュースを聞きます。慌てて会見をテレビで確かめると、同首相はあの「私は貴方とは違うんです。客観的に見れるんです」との後に物議を醸す発言をしていました。

その発言までの流れを追うと、記者団からは、唐突な辞任について幾度も繰り返しなぜかを問うていました。仕方なきことと思います。それに対して、首相は熟慮の末、そうすることが日本にとって一番適切だと思ったとの意味のことを繰り返し述べています。これまた、福田首相としては、あらゆる観点から考えてそれしかないとの決断だったと思われます。そこへ、最後に手を挙げた記者が、「(発言が)他人ごとみたいだ」と言ったことに対して、飛び出した発言です。首相の決断を巡っては、米国の執拗な要請に業を煮やした結果だとか、民主党の攻勢の前にほとほと疲れた果てたからだとか、選挙の顔としてはいかがとの突き上げが自民党内にあったとか、さまざまな憶測が流れましたが、全ては謎のままです。

●麻生氏が後継の総理・総裁に

謎に包まれた部分が少なからずあった福田首相辞任のあとを受けて、9月24日に首相の座についたのは麻生太郎氏でした。そこに至る自民党総裁選挙には、麻生氏の他に石破茂、石原伸晃、小池百合子、与謝野馨氏ら5人が出馬しました。同日の衆参両院の本会議では、衆議院では麻生氏を、参議院では小沢一郎氏を首相に指名する(2回目の決選投票の結果)というねじれ結果を招きましたが、憲法の規定に則り、衆議院の議決に基づいて麻生氏が首相に選ばれたのです。

この時の空気で忘れられないのは、公明党の中から浜四津敏子代表代行が早々と麻生氏支持を打ち上げたのには驚きました。北側一雄幹事長も同じような支持発言をしたのにも戸惑いを感じた人は党内に少なからずいたのは事実です。恐らく、麻生氏の明るさというプラス面を買ったのでしょうが、公明党としては珍しいフライング発言でした。その分だけ、早晩行われる総選挙への期待感と焦りがない混ぜになっていたものと思われます。

これと合わせて、総選挙の時期を巡っての憶測が飛び交いました。10月下旬から11月初旬にかけて総選挙が必至だとの情報が乱れ飛んだことは、私でさえ信じたものです。具体的に名を挙げることは差し控えますが、年内総選挙間違いなしと見込んだ人もいました。ともあれ、公明党にあって、今なお失敗談として語られるほど、この頃は皆浮き足立っていたのです。

●リーマンショックの嵐吹き荒れる

さて、米国の四大証券会社四番目のリーマン・ブラザーズが経営破綻をするという事態が起きたのは9月15日のこと。サブプライム住宅ローン危機に端を発した米国の金融情勢はこの日を機に急速に悪化、さらに第三の証券会社・メリルリンチがバンク・オブ・アメリカに吸収合併されてしまう始末。また米国最大の保険会社AIGの経営危機説まで急浮上しました。米下院が金融危機の拡大を防止するための公的資金投入の緊急経済安定化法案を否決するに至って、ニューヨーク株式市場は一気に大暴落してしまいます。2週間後の9月29日(現地時間)の終値は、前週末比777ドル安で、史上最大の下げ幅を記録。「1930年代に起こった世界恐慌の再現」とまで言われました。

これを反映して、東京の10月16日の株式市場は、日経平均株価の終値が前日比1089円2銭安の8458円45銭となり、「ブラックマンデー」(1987年10月)に次ぐ、史上二番目の11.41%の下落率を記録しました。10月28日には株価は一時6000円台に下落し、1982年10月以来の26年ぶりの安値を記録しました。日本経済は以降、消費の落ち込みや急速なドル安・円高が進み、輸出産業が打撃を受けて、大幅な景気後退過程へと突入してしまうのです。

麻生首相は10月30日に、世界的金融危機に対応し、景気対策を最優先させるため、衆議院解散総選挙を正式に先送りすると表明しました。

ところで、リーマンショックについては、当時から12年後の今に至るまで、種々の論評がなされていますが、注目されるのは、当初喧伝された「米国経済の破綻」論や、「資本主義の機能停止」論の不具合ぶりです。現実には、米国はその後、急速に金融危機を克服し、5年後の2013年末にはほぼ影響を払拭。米国経済は見事に急回復を示すのです。野口悠紀雄氏(一橋大名誉教授)らによれば、その背景には、米国が古いタイプの製造業依存からの脱却に成功したことが挙げられます。それに比して、日本は米国の住宅価格バブルに乗っただけの「偽りの回復」だったことに気付かず、古い産業構造に依存したままで、改革を怠ってしまったというのです。このことが今になって深い傷となって響いてきているのだと思われます。(2020-7-29 公開 つづく)

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【74】医療制度で毎日「発言席」に。産経「本棚」にもー平成20年(2008年)❹

●毎日新聞の「発言席」に寄稿

「高齢者医療制度」については、二年前の小泉政権の最後で私も厚生労働副大臣の立場で改革に尽力したことは既に触れました。その後動き出した新制度をめぐり、様々な意見が飛び交い運用に混乱の様相を呈してきたのです。このため、制度樹立時の責任の一端を担うものとして、改めて世に問う必要性を感じました。その思いを込めて「毎日新聞」発言席に寄稿。8月10日付けに「骨格の変更は許されない」との見出しで、掲載されました。

以下全文を転載します。読みやすさを考えて小見出しは新たにつけました。

【 □米国医療の暗部と日本の近未来像□

失業中の患者が治療費を払えないため、足の傷を自分の手で縫うー米国医療の暗部を衝くマイケル・ムーアの映画『シツコ』の冒頭シーンだ。以前に観た映画「ジョンQー最後の決断」は、心臓移植を息子に受けさせたくとも、医療保険が使えぬとあって、病院を占拠してしまう父親の姿を描いていた。世界最高の医療技術を持ちながら、貧しい人々は無保険中であえぐ。日本の近未来像だと恐れる人は少なくない。

発足から半世紀。国民皆保険制度を誇ってきた日本の医療も危うい。この4月に導入された高齢者医療制度は起死回生の一打はずだった。2年前に副厚生労働相としてかかわった私は、批判の嵐のなかで原点への回帰に思いを馳せたものだ。

貧しい老人は死を待つだけとの時代を経て「老人医療費無料化」から「老人保健制度」の導入へ。この流れから「病院待合室のサロン化」「ハシゴ受診」「検査・薬漬け」などと称される課題が浮き彫りになってきた。各種の病に見舞われがちな老人世代に、どう手立てを講じるか。老健制度に代わる制度を模索する中で様々な議論がなされた。散漫な治療から、集中的に一人の医者がひとりの患者をかかりつけで診ていく。病院へ、医療機関へとやみくもに向かいがちな老人を、地域社会、在宅での診療に振り向けられないか。過剰な医療費投入を抑制しながら、老人が人間らしい尊厳を持って最終章を迎えるにはどうすればいいか。

□三つの骨格□

長期的な視点に立った理想が勝ち過ぎて、現実に受け入れられるかとの懸念もあった。だが、生死を見据えた医療のビジョンを育て、定着させたいとの思いがまさった。今回の制度の骨格は三つ。すなわち、世代間不公平(加重する現役世代の負担増)、世代内不公平(一人暮らし老人と被扶養者老人の差)、地域間不公平(住む市町村による違い)を公平なものに近づける狙いを持った骨格である。75歳以上を切り捨てる発想などでは毛頭なく、現役世代とOB世代とが手を携えて、共に自立を目指す仕組みである。これらの構想の本質が正面から語られることなく、「姨捨て山にするのか」「75歳以上の高齢者は死ねというのか」などとのヒステリックな感情論が目立つのはまことに残念だ。法成立以後、年金をめぐる社会保険庁のずさんな体たらくが発覚した。このため、不信と不満の渦中に、新制度も巻き込まれた不幸があるにせよ、骨格の理念の方向性はもっと強調されてよい。

ー□余りに無責任な反対勢力□

例えば、諏訪中央病院名誉院長の鎌田實氏は、総合雑誌上で、全体的には辛辣な批判を展開しながらも、かかりつけ医制度や出来高払いから包括払い制度への転換が、「医療崩壊」を乗り切るための「大きな仕掛けになりうる」し、「救世主」になる可能性を論じていた。このくだりには干天の慈雨を感じ、我が意を得た思いがした。

老人保健制度に代わる新たな制度の創設をかつて唱えた勢力が一転、先の国会の最終盤で、自ら否定したはずの元の制度に戻せとした。あまりの無責任さに呆れ果てた。ともに、声高な反対論を前に、法律を作った側にたじろぐ姿勢が散見されたのはいささかみっともない。制度の運用改善は当然なされるべきだ。ただし、骨格にかかわることまでが変更されてはならない。新しい制度導入にあたり、政治家の本領は、確たる信念を持って国民にあるべき道を提示することに他ならぬと銘記したい。】

この原稿を寄稿するにあたり、倉重篤郎・毎日新聞編集委員(当時。その後政治部長、論説委員長などを経て現在はサンデー毎日特別編集委員)にお世話になりました。彼の厳しいチェックを経て、いい文章になったものと思います。この「発言」には厚労省で一緒に仕事をした辻哲夫元次官をはじめ、関係者のみなさんからからよくぞ書いてくれたとの言葉をいただきました。

●産経「私の本棚」には読書日記が

一方、同じ年の9月7日付けの産経新聞の【読書・私の本棚欄】には、私の読書録が掲載されました。ここでは抜粋します。見出しは、遠藤誉『中国動漫新人類』「アニメ隆盛と反日解く鍵」。

【8月24日 元秘書の結婚披露宴のため上京。新幹線車中で、芥川賞、楊逸の『時が滲む朝』を読む。天安門事件と青年の社会変革への挫折を、中国人が日本語で描く。少々薄味が気になるのは、当方がユン・チュアン的な〝際物〟に毒されているからか。芥川賞とくれば、柴田翔『されどわれらが日々』を思い起こす。東京五輪の年、私は18歳。革命が未だ現実味を持つ中で、「政治と文学」に身を焦がした。あれから44年。世界から共産主義は後衛に退き、ついに五輪が北京で。その閉会式が夜に。テレビ中継を横目に、遠藤誉『中国動漫新人類』を読む。日本のアニメの隆盛ぶり。反日のはざまを解くカギが綿密に。産経新聞連載中に読み飛ばしていた伊藤正『鄧小平秘録』も「剛腕の独裁者」を克明に描き、飽きさせぬ。併せ読み一段と面白さが増す。「嫌中」と「親中」の葛藤。

8月25日 地元への車中で、浅羽通明『昭和30年代主義ーもう成長しない日本』と橋本治『日本の行く道』を併読。浅羽も橋本も昭和30年代以降の日本に懐疑的。橋本に至っては、高層ビルを壊せとまでいうから驚く。作家・半藤一利の「日本社会40年周期説」に私はかねてはまっている。その時代認識と分析は興味深い。明治維新から「日露」勝利、大戦の敗北、バブル絶頂から崩壊と40年周期で興亡は繰り返す、と。だから戦前の富国強兵から戦後の経済至上主義と続く国家目標に替えて、「文化立国を目指せ」は、私の持論。「もう成長しない」のだからGNPをGNH(国民の総幸福度)に変えよなどと、今枝由郎『ブータンに魅せられて』でのブータン国王のようなことは言わない。しかし、日本経済は「凋落の10年」(堺屋太一)に向かうとの予測もあるのが現実だ。

8月29日 地元への車中で福田和也『昭和天皇』第一部を。近代日本の核心に迫る心意気。国民の目線と、国家の枠組み、と。古くて新しい命題に思いをはせる。『悪の読書術』での彼の水先案内人ぶりは出色だ。「コンサバなワンピースとしての須賀敦子。最高最強のドレスは白洲正子。そして星のごとき存在としての塩野七生」ー言い得て妙と感心する。それぞれの代表作もいいが、須賀『遠い朝の本たち』、白洲『おとこ友達との会話』、塩野『人びとのかたち』も印象深い。】

こんな調子では、政治家としての仕事はどうなっているのか、との心配をされても仕方ないかもしれませんでした。先日、国会の本会議場や委員会室で読書をしている不埒な議員の批判が書かれていました。私は読書は、新幹線車中にこだわり続けたことを改めて断っておきます。(2020-7-27 公開 つづく)

 

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【73】クラスター弾をめぐる福田首相と公明の連携ー平成20年(2008年)❸

●去年の熱気は何処へやら今年の憲法記念日

ねじれ国会が続いていることもあって、平成20年の憲法記念日は、国民投票法の成立を経た後の一年前と違ってすっかり低調でした。メディアも「政界改憲熱 今は昔」「首相抑制 民主も乗らず」「打開へ再編期待の声も」(朝日新聞5-2付け)と書き立てました。首相が安倍さんから福田さんへと代わったことの影響です。

福田首相は施政方針演説で、憲法については「全ての政党の参加のもとで真摯な議論が行われることを強く期待している」というだけで、明らかにトーンは前任者に比べて低いものでした。中山太郎自民党憲法審議会長は、「『私の内閣で改憲を目指す』とした安倍前首相は間違っていた」と明言したうえで、「福田首相はよくわかっていて、発言も過不足ない」と改憲にはやるのではなく、じっくり国民の意見を聞くことの大事さを指摘しています。

公明党は5月1日に、新宿駅前で街頭演説会を開き、太田昭宏代表が「憲法3原理を堅持し、環境権やプライバシー権など新しく提起された問題を加えて補強していく」と、加憲の立場を強調していました。そんな中で、私は朝日新聞にコメントを求められて、以下のように発言しています。

【国会での憲法論議は開店休業状態。解散・総選挙でもなければ、この事態は打開できないのではないか。選挙後に与党と民主党が伯仲すれば、双方ともじっとしていられなくなる。リトマス試験紙は憲法。それぞれの改憲派が衆参で一気に3分の2の党派を形成するとは思わないが、憲法にどう向き合うかは、再編の焦点になるだろう】

一方で、中山太郎氏も「政界再編の可能性だってある。このままでは終わらない」と述べていたり、前原誠司前民主党代表も安全保障をめぐる超党派の会合で「憲法改正を経ずに、政府見解の変更を積み重ねてきたのはもうそろそろ限界。与野党関係なく議論していかなくてはいけない」と発言したと報じられています。こうした当時の空気を反映して私のコメントも出したのですが、改憲論者と見られる危険性が付き纏いました。昔も今も私の基本姿勢は、今に生きる日本人がより良きものを求め続けて憲法を議論することにあり、不磨の大典の如くただ護りぬけばいいというものではないのです。

●クラスター弾禁止での見事な連携と首相の洞察力

コロナ禍中にある今では〝クラスター〟なる言葉がよく使われています。意味はぶどうの房のような、小さいかたまりを指します。兵器におけるクラスター弾とは、通称親子爆弾ともいわれるように、通常のケースに小型の爆弾が多数入っていて、爆撃と共に多方面に弾が飛び散るもので、殺傷力も高い危険な兵器を意味します。第二次大戦でも使われ、戦後長きにわたって紛争の現場で使われてきていました。日本でも自衛隊は所持していました。

しかし、大量の不発弾がいついかなる時に爆発して市民を被害に巻き込むかもしれない危険性がありました。このため軍縮交渉の中で、全面禁止をすべしとの声が高まってきていたのです。世界における流れを受けて非人道的な兵器を排除せよとの主張が公明党でも存在していました。その空気を受けて、軍縮会議で決着することになる一週間前の5月23日に、浜四津敏子代表代行が福田首相に「日本がリーダーシップを発揮して、将来的にも全面禁止に持っていけるようにすべきだ」と、電光石火の申し入れを行いました。

実は日本政府の外交・防衛当局は当初、同盟国アメリカが参加していないこともあり、慎重な姿勢を崩していなかったのです。自民党も同様の空気が支配的でした。公明党における外交・安保分野の責任者たる私も、どちらかと言えば現状肯定論者で、腰は重かったことを認めざるをえません。福田首相への申し入れに同行した際に、談半ばで首相は私の方を向いて「赤松さんはいいの?こういうことで」と言われたのです。同首相特有の皮肉を感じて、私は苦笑いしつつ「ええ、もちろんです」と答えたのです。私の心の葛藤を見抜いたかのような首相の洞察力に驚きを禁じえませんでした。こうした公明党の提案に対して福田首相は、「私がうまく軟着陸させますので、お任せください」と答えていました。

最終的に2008年5月30日にアイルランドのダブリンで行われた軍縮交渉の結果、世界110カ国が全会一致でクラスター弾を即時全面禁止する条約が採択されました。この結果に対して、新聞各社は、「首相指示で一転」(毎日新聞5-30付け)と大きな報道をしたり、その背景として公明党の申し入れの影響力が大きかったことを指摘しました(朝日新聞同日付け)。公明党が連立与党に参加したことのプラスイメージを一貫して強調してきた福田首相らしい好判断でしたが、これまでの流れと違って、唯一わたし的にはそれに乗り切れなかった事例だったのです。

余談になりますが、一つ付け加えますと、当時、前述したような「新学而会」に、福田さんをお誘いしたことがあります。すると、彼は直ちに「いや、お断りします。(新学而会は)古い学者ばかりでしょ」と断られたのです。その時は意味があまりわかりませんでしたが、同首相のその後の「親中国」的姿勢を見るにつけ、なるほどと納得したものでした。学者のみなさんもさることながら、政治家の肌合いが合わなかったこともあったのだと思われます。

●クールアースデー制定を公明党が提案

公明党青年局はユニークな提案を様々に展開してきていますが、中でも特筆されるのが7月7日を「クールアース・デー」に制定し、地球環境の大切さを認識する日にしようというものです。「ユースポリシー2008」で提案を発表、全国で署名活動を展開しました。具体的には、この年の7月7日に北海道洞爺湖で主要国首脳会議(サミット)が開催されることに合わせて、各地でCO2(二酸化炭素)を削減するべく一斉に消灯(ライトダウン)し、天の川を見ながら地球環境の大切さを全国民が認識しようというものです。

6月9日に、太田代表と青年局の代表メンバーが福田首相に署名簿と要望書を手渡しました。首相は即座にその場で採用を決断。その日の記者会見で発表しました。環境省が呼びかけ、第一回目となる2008年7月7日は、東京タワーや横浜ベイブリッジなど全国7万に及ぶライトアップ施設で一時消灯が実施されました。

提案そのものはいかにも公明党らしいものでしたが、地球温暖化にストップをかけるための一大運動のきっかけには至っていないようなのは、残念なことです。(2020-7-25 公開 つづく)

 

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【72】癒しの環境作りをテーマにさわやか対談ー平成20年(2008年)❷

●癒しの環境を広げよう

私の学校時代の友人は多彩な分野で活躍しています。70歳になった年に、私は一計を案じて、小学、中学、高校、大学で共に学んだ仲間とそれぞれ対談を試み、それを電子本(キンドル版)に5冊にまとめました。小学校時代が、住友ゴムの元会長の三野 哲治君、中学校時代が元東京モード学園校長で臨床心理士の志村 勝之君。高校時代が、内科医の飯村六十四君と元日本医大准教授で小児外科医の高柳 和江さん。そして大学時代が慶應義塾大学名誉教授の小此木政夫君と元日本航空取締役の梶明彦君たちです。

この電子本を紙の本にしたいというのが私の夢です。本のタイトルは『現代古希ン若衆』と決めています。もちろん『新古今和歌集』をもじっているのですが、一人反対する者がいます。この中で、たった一人の女性である高柳女史です。曰く「貴方と高校同期って分かると私の歳がバレちゃうわよ。嫌よ、そんなの」。この一言で私の企みはオジャン。電子書籍のままの状態で眠っているしだいです。それぞれ売れてはいますが、微々たるものです。

彼女は、1977年から10年間、中東のクウェートで小児外科医として仕事をし帰国後、1994年に「癒しの環境研究会」を立ち上げ、2005年には「笑い療法士」の認定を始めたり、現在では笑医塾塾長として全国で講演活動を展開しています。「笑いが人間の免疫力を高め、健康になる」と訴え続けているのです。あるとき、良いアイデアを思いつきました。公明新聞日曜版で浜四津代表代行との対談を企画したのです。色々準備をしたうえで、2008年3月16日付けで実現しました。

この対談はそれなりに反響を呼びました。さわりの部分を紹介します。

高柳)クウェートから帰国して日本の医療現場があたかもコンクリートジャングルのような現状であることに驚きました。この現状を変えたいと「癒しの環境研究会」を設立しました。病院に一歩入っただけで、病気が良くなるに違いないと思える、いればいるほど元気になる、そんな「癒しの環境」が必要です。癒しの環境において、「笑い」はとても重要です。

浜四津)本来、「患者のための医療」のはずが、日本では患者の苦痛や苦悩が置き去りにされがちで、病気を治す技術だけが進んできた結果、医療に歪みが生じたのではないでしょうか。人間を大切にする視点を見失いがちなのは、介護も教育も、政治も経済も同じです。公明党は「患者のための医療をめざし、懸命に取り組んできました。

高柳)今まではリラックスする方の癒しが主に言われてきました。しかし、これからは自然治癒力を高める、さらには「絶対に治ってみせるぞ」との言わば「自然治癒力」が重要です。(中略) 病院はサポートするところで、患者自身が医療に関する基本的な知識を高め、治すのは自分だと自覚し、強くなることが基本です。

浜四津)医療も福祉も教育も、そして政治や経済も人間を幸福にするためにあります。その視点から社会の制度を見直していけば、社会の質を大きく変え、より豊かな社会にできると確信しています。

私はこの時は司会役に徹しましたが、さわやかな対談の実現に大いに笑い、喜びました。後に、高柳さんを交えての電子本で行った鼎談のタイトルは『笑いが生命を洗います』です。お読み頂ければ幸いです。

●くまが住める森づくり

国会議員になって間もない頃に、三宮駅前で街宣車の上で演説をしていましたところ、前方に「熊森協会」という見慣れぬ旗が何本か翻っていました。その旗のもとで青年たちがビラを配っていたので、あとで近づき、どういう団体なんですかと聞いてみました。すると、「森林の荒廃の予兆は熊の行動に表れます。熊を大事にすることが森林を大事にすることに繋がることを世の中に訴えている団体です」との答え。「ご興味おありでしたら、ぜひ一度一緒に森林を見に行きませんか」と、迫られました。爽やかな青年たちの姿勢にほだされて、しばらくたってから宍粟市千種町の杉林(針葉樹林)と、岡山県西粟倉村の若杉原生林(広葉樹林)を比較ツアーに行くことにしたのです。

そこで見たものは大袈裟のようですが、私のその後の人生を少なからず変えました。針葉樹林の方は、昼なお暗い杉林。陽のあたらぬ状況下で、ひょろ長い樹木が全く間隔も空けずに幾重にも折り重なるように存在していました。一方、広葉樹林の方は、ブナやナラの木が明るい陽を浴びながら、谷川のせせらぎをバックミュージックのようにして豊かな佇まいで広がっていました。前者の風景は今や日本中に広く見られるもので、こんなところには大型野生動物は生息出来ず、人里に舞い降りてくるのです。後者の地域では、昔絵本で見た熊が遊ぶ〝まほろば〟を連想しました。

この時を契機に、私は一般財団法人「日本熊森協会」に強い関心を持ち、やがて顧問に就任し、熊を大事にすることが森の荒廃を防ぎ、豊かな森林作りに貢献出来るのだとの信念を持つに至りました。さらに、姉妹団体として発足した公益財団法人「奥山保全トラスト」の理事にもなり、多彩な活動の応援をしています。国会の予算委員会分科会などでの質疑の機会にも、森林を生かすためには熊を大事にしようとの主張を展開しました。そんな私の闘いを見た日経の記者が「記者手帳」というコラムに、「こだわりの政策ー赤松正雄氏(公明)  」とのタイトルのもと、「クマが住める森づくり」との見出しで紹介してくれました。同年4月10日付けの夕刊です。全文紹介します。

【なぜクマは山を下りるのか。公明党の赤松正雄衆議院議員(62)が国会内外で問いかけを始めたのは七年前からだ。衆院予算委員会で農相にただしたこともある。「理由は日本の森林政策なんだよ」。謎解きの端緒は、クマの好物、ドングリ。広葉樹の木の実であるドングリが減った結果、餌を求めてクマが人里に下りてきた▲広葉樹の減少はスギやヒノキなどの針葉樹ばかりを植えてきた国の政策に原因があるという。建材需要を見込んだが、今は輸入建材に押されて手つかず。日差しが差さない暗い森は草木が育ちにくく、保水力が低い。土砂崩れの遠因になるだけでなく、「スギ花粉」でも悪名をとどろかせる▲問題意識を抱いたのは兵庫県西宮市に本拠を置く自然保護団体「日本熊森協会」を知ってから。今は自民党の保利耕輔議員らと共に顧問に就任し「クマが住める森」を合言葉に広葉樹の森づくりを訴える。山から下りたクマは田畑を荒らすことがあるため「クマと人間とどっちが大事なんだ」との声もしばしば。「クマは森の豊かさの象徴」と理解を得るのに一生懸命だ。(理)】

書いたのは、当時公明党担当の佐藤理記者。現在は政治部次長、総合デスクとのこと。彼との付き合いも今なお続いています。信頼する敏腕記者の一人です。

なお、昨年(2019年)5月、毎日新聞「発言」欄(2日付け)に「放置人工林の天然林化」と題した論考、神戸新聞「見る思う」欄(26日付け)に「豊かな森を取り戻すために」との論考を続けて寄稿。二つの団体のサポーターとしての役割を果たしました。(2020-7-23公開 つづく)

 

 

【72】癒しの環境作りをテーマにさわやか対談ー平成20年(2008年)❷ はコメントを受け付けていません。

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【71】いち難さってまた一難苦難続きの福田政権ー平成20年(2008年)❶

●ガソリン税騒ぎのてんまつ

出発直後の福田内閣が塗炭の苦しみを味わった法案が、もう一つあります。ガソリン税の暫定税率維持などを盛り込んだ租税特別措置法改正案でした。テロ特措法案を2007年秋から臨時国会でようやく処理(1-11)したのも束の間、一週間後の17日から開幕した通常国会で、「ガソリン税」問題が火を吹きます。内外両面で、まさに彼方(あちら)と思えばまた此方(こちら)と言った風に、前門の狼、後門の虎の如く苦しめられます。

この法案の狙いは、ガソリンにかかる揮発油税の暫定税率(1リットル当たり48.6円)などを10年間延長するものでした。これに対して、民主党は通常国会を「ガソリン値下げ国会」と銘打って、暫定税率廃止を真正面に掲げたのです。暫定税率廃止が実現すると、その分の税収(国税1兆7千億円、地方税9千億円)が吹っ飛びます。道路の維持、補修・建設に充てられる道路特定財源が消えてなくなると、経済の混乱やら住民サービスに大打撃がもたらされます。

国会はテロ特措法に続き、またしても与野党全面対決の修羅場と化しました。民主党始め野党の徹底抗戦の前に、衆参両議長による斡旋も功を奏しません。結局は年度内成立の期限日である2月29日に、野党三党が欠席する中、自公与党は租税特別措置法改正案の衆院採決に踏み切って可決し、参院に送ります。しかし、参院では野党側はまたもこれを棚ざらし状態に放置したのです。民主党の審議拒否戦術は、予算委員会始め徹底して貫かれました。これは3月末の暫定税率を期限切れに追い込むという当初の方針を一歩も譲らぬ意志の現れだったのです。この間に首相や与党側は、翌年度からの道路特定財源を廃止して、一般財源化するとの譲歩姿勢を示しました。さらに、修正協議を呼びかけたり、暫定税率を2ヶ月延長する「つなぎ」法案の準備もしました。にもかかわらず、民主党などは一切耳を貸そうとしませんでした。

その結果、民主党などが主張した「ガソリン値下げ」(1リットルあたり25円ほど)が遂に実現したのです。ただし、それはたった一ヶ月の間だけ。結局は租税特別措置法改正案は、政府与党の意思通り、4月30日には憲法の「みなし否定」規定によって、衆院で再可決され、再び暫定税率が復活しました。しかも5月1日からのガソリン価格は、世界的な原油高も加わり、暫定税率上乗せ分どころか一気に大幅な上昇になってしまったのです。切り替わりの4月末は、各地で誰も彼もガソリン買い溜めに走る大騒ぎとなりました。

この動きの背景には、08年から09年へと、政権奪取に向かって上潮状況にあった民主党の押せ押せムードがありました。規定方針に沿って値下げを実現させたことで、民主党の株は確かに上がったのです。道路を巡って旧来的な路線にこだわる自公与党と、多少の混乱は引き起こしてでも新たな路線を模索した民主党とでは、国民目線は後者に強い息吹を感じて軍杯を上げたというほかなかったと思われます。束の間にせよ、やれば出来るじゃないか、と。尤も、それは中期的観点の見方でした。政権獲得後には民主党はガソリン税率を廃止したものの、同時に本則税率を引き上げたのです。このため国民の実質的負担は変わりませんでした。長期的には民主党の稚拙さが、あたかも田舎演劇での役者のように馬脚を現してしまったのです。

●日銀正副総裁人事でもひと苦労

租税特別措置法改正案で揉めている最中に、もう一つの難題が政権を襲います。3月20日に任期切れを迎える日銀の福井総裁の後をどうするかの問題でした。政府与党は3月7日に正副総裁人事案(武藤敏郎総裁、白川方明、伊藤隆敏副総裁)をだしたものの、衆議院では通りましたが、参議院では民主党の不同意で挫折してしまいます。元大蔵事務次官を日銀総裁に充てるのは疑問あり、との反対意見でした。擦ったもんだの挙句、総裁空席という前代未聞の事態を招いてしまいます。4月には日銀金融政策決定会合や先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)が予定されており、切羽詰まってきていました。

このため、政府は窮余の一策として、承認されたばかりの白川副総裁を3月20日に総裁代行として指名しました。また、いつまでも「代行」で行くことは、日本の金融政策にとって不利であるとの判断も加わり、4月9日に白川氏を総裁に昇格させる案を出して、やっと認められたのです。綱渡りでした。福田首相は、内外の法案の不調整もさることながら、この日銀総裁人事の不如意には、心底から疲れたように私の眼には写りました。

●防衛省再生への提言

私が直接担当する安全保障分野でも、滑り出した防衛省の改革をめぐり喧しい議論がなされていました。石破茂防衛相が制服組と背広組の機能別再編を提案をしていました。一方、公明党でも太田昭宏代表が、中期防の見直しの中で、防衛費の削減を盛り込ませる手立てを講じようとしました。そんな頃に、世界日報4月20日付けで、「防衛省再生への提言」との連載二回目に私が登場しています。「大臣の補佐体制強化を」という見出しです。

石破大臣の提案をどう思うかとの質問に、「今回のイージス艦『あたご』の事案で運用企画局長が説明にやってきた。こういうケースで政党に説明にくるのは運用企画局長だが、詳細を知らなかった。知らずして運用の企画が出来るのか。石破さんが日常的に感じているのはそういう点だろう。参事官については、それぞれラインの仕事を持っているため、防衛大臣をサポートするスタッフとしての役割は薄くなりがちだ。参事官制度本来の役割を果たしていないということだろう。その意味で石破さんの言うところの混在させた形でやると言うのは発想としてはいいと思う」と答えています。

また、自衛隊の憲法上の位置づけをどうするか、との質問には、「必要最小限の自己防衛のための軍事力を持つのはいい、それを称して自衛隊といい、その存在を、憲法にきちっと書く。それによって自衛隊員に引き起こしているだろう葛藤を除くことになるし、様々な解釈が生まれてくることも防げるのではないかと私は思う。現状追認なら、今のままでいいとの考えが党内では主流だが‥‥」と、憲法9条3項に自衛隊明記をとの持論を展開しています。

これがのちに、安倍首相が投げかけてきた「憲法改正案」に入ってくるのです。(2020-7-21公開 つづく)

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【70】薬害C型肝炎救済で患者の皆さんと共にー平成19年(2007年)❺

●テロ特措法での混乱

私が福田首相に対して先に質問をした場がテロ特措法を審議する特別委員会であったように、この頃同委員会の理事として多忙を極めていました。このテロ特措法とは、あの2001年9月11日に起こった同時多発テロがきっかけとなって、制定されたものです。アフガニスタンを根城にするタリバンやアルカイダなどの国際テロ集団との戦いが始まり、「テロとの戦争」という時代が始まったことは周知の通りです。国連安保理事会は、直ちに安保理決議1368号を満場一致で採択しましたが、これは加盟国の個別的、集団的自衛権を前文で確認。その上で、この攻撃を国際の平和と安全に対する脅威と認定し、テロの防止、抑圧のために国際社会が一致協力することを求めたものでした。

それ以後、不朽の自由作戦(OEF)、国際治安支援部隊(ISAF)、地方復興チーム(PRT)と、大きく三つの活動がアフガニスタン及びその周辺で展開されており、OEFについては、アフガニスタン本土への派遣と海上での阻止活動(OEF-MIO)とに分かれています。日本は、このうち、海上阻止活動(当時8カ国が参加)に、インド洋上で取り組む各国艦隊に対し、燃料や水を補給していました。その実態は、純然たる対テロ警察活動への支援であり、軍事的掃討作戦や治安維持にあたるものではありません。OEF活動になんらかの協力を行なっている国は75カ国にものぼり、まさに、国際社会が一致協力して取組む貴重な試みと言えました。

それに対して「戦争に加担するものだから、参加すべきではない」という民主党を始めとする野党の態度は、「一国平和主義」の域をでない、自分勝手な振る舞いと言わざるを得なかったのです。テロ特措法は11月13日に衆議院では可決され、参議院に送付されました。しかし、民主党は露骨な審議引き延ばしで、法案は野ざらし。このため、臨時国会は二度も延長され、14年ぶりの越年国会となりました。結局、参議院に送付されてから、60日目に当たる08年1月11日に、憲法の規定に則り衆議院で再可決され、ようやく成立したのです。

このように、衆議院で可決されたものが、参議院で否決、そして衆議院で再可決されたというのは、1951年(昭和26年)以来、実に57年ぶりのことだったのです。既に11月1日にテロ特措法は、期限切れで失効していましたので、新しいテロ特措法の成立を固唾を飲んで見守る各国注視のもとの出来事でした。

●被災者生活再建支援法と政治資金規正法改正で与野党合意形成果たす

ねじれ国会の中にあって、公明党が与野党政策協議での合意形成に向け、懸命に努力して橋渡し役を果たしたケースが二つ挙げられます。一つは、11月に成立を見た「被災者生活再建支援改正法」です。自公民三党による修正協議で最終的に与党案をベースにした修正案がまとまったのです。その与党案も、また修正案もいずれも公明党の考え方が基になったものでした。被災者の救済を最優先に考えたのは、赤羽一嘉衆議院議員をはじめとする阪神淡路大震災を身をもって経験した公明党議員の政策判断力によるところが大きいといえるものでした。

またもう一つは、「政治資金規正法改正」です。これは、それまで、5万円以上の支出に限られていた政治資金の公開制度を、最終的に、人件費を除いて、一円以上の全ての支出の領収書公開をすることにしたのです。福田内閣の発足時に交わした自公連立政権合意に盛り込んだもので、自民党との協議でもこだわり続け、与野党協議でも合意への牽引役を果たしました。清潔な政治の実現に向けての公明党の面目躍如たる動きでした。

●薬害C型肝炎救済法での立ち回り

2007年の夏から秋にかけて、血液製剤「フィブリノゲン」などを投与されC型肝炎ウイルスに感染した人々が国と製薬会社を相手に起こした訴訟への判決が相次ぎました。この訴訟にあって、薬害肝炎全国原告団(山口美智子代表)の皆さんや弁護団のメンバーの要請を受けて、幾たびも国会内やそれぞれの地元でお話を聞く機会を設けました。私は厚労副大臣を辞したのち、党内の肝炎対策プロジェクトチームの座長をつとめることになり、積極的に動きました。

そんな中で、9月7日のブログでは、「治療費への公的助成に大反響」と題して以下のように綴っています。

「昨6日の公明新聞に『C型肝炎に公費助成』とのトップ記事が出たため、嬉しい反響がありました。今まで長い間議員をしていますが、こんなに喜んでもらえたファックスも珍しいともいえるものを西宮市の女性から頂きました。この方は、統一地方選挙の直前にC型肝炎が発見され、インターフェロン治療を医師から勧められたといいます。しかし、選挙が終わってからの治療開始にしたため、4月から導入された高額医療費の立て替え払いが不要になり、大助かりになったことも触れられていました。ご自身もさることながら、周辺にも肝炎で悩む人が多いことから、こうした治療に関わる費用に対して公的な助成がなされることに、多大の期待をされていることがうかがわれました。どの範囲にまで助成の手が及ぶかはこれからですので、しっかりと目配りをしていきます」

ここではC型肝炎にかかって訴訟を起こした原告だけではなく、同様の被害にあった方々も含めて全員を一律に救済すべきかどうかという問題がありました。全員一律だと、対象者が大変に多くなり、国の責任をどこまで認めるかで対応が分かれる問題が発生するわけです。渋る厚労省との間で、協議が二転三転しました。そんな中で、12月19日に太田昭宏代表が福田首相に直談判した結果、首相は議員立法で一律救済に踏み切ると決断(12月23日)しました。最終的には翌年1月11日に救済法が全会一致で成立するのですが、この年末から年明けにかけての急転直下の解決には公明党の力が大きく、後々まで関係者の間で語り草になっています。

原告団代表の山口美智子さんは「公明党は一昨年6月から何度も独自のヒアリングを開き、真剣に私たちの被害に耳を傾けてくれました。(中略) 福田首相への直接、働きかけていただいたおかげで、ここまでこぎつけられたと思っています。(一律救済へ道筋をつけたことを)本当に嬉しく思います。」(公明新聞08年1月12日付け)と、語っていました。私もプロジェクトチームの座長として、太田代表と連携を取りつつ、福田首相にアタックした身として印象に残る闘いとなりました。

であるからこそ、この時の原告団や弁護士団のグループ代表と今もなお、時々集まって思い出話に花を咲かせています。結果として、いかに壮絶で愉快な闘いだったかが分かるといえましょう。(2020-7-19 公開 つづく)

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【69】「大」の前に「小」を、と福田首相と連立論争ー平成19年(2007年)❹

●追い詰められた安倍首相、体調悪化で辞任

参議院選挙で自民党は大敗を喫し、衆参ねじれ現象を招いてしまいましたが、安倍首相は政権継続の意向を示し、8月27日には内閣改造を行いました。しかし、改造内閣発足直後に、遠藤武彦農水相の独立行政法人からの不正受給が発覚したことを始め、大小取り混ぜた閣僚の不祥事が次々と明らかになりました。9月10日の臨時国会召集時点では早くも内閣の前途に赤信号が点滅してしまう状況となっていたのです。首相は所信表明演説を行ったものの、12日の代表質問を前に、突然辞任表明をするに至ってしまいました。前代未聞のことで、私たちも驚きました。

首相自身によれば、潰瘍性大腸炎という難病が原因で、これから先の政権運営が難しいとの判断をしたものでしたが、一般的には政権投げ出しとの印象が濃いことは否めなかったのです。9月25日に内閣総辞職となり、後継首相に福田康夫さんが選ばれました。と、こう書くと簡単に運んだように思われますが、もちろんこの間に様々な動きがあり、私もほんのちょっぴりながら福田首相誕生に関与したのです。こういうと、何を戯けたことをと思われるかもしれません。しかし、実はこれまで述べてきたことでお分かりのように福田さんとは親しい関係にありました。それだけに、個人的に心の底から励まし、ハンカチを振り続けたのです。

発足した福田内閣は衆議院は3分の2の多数を擁しながら、参議院では過半数に満たず、発足後から極めて厳しい事態の連続を余儀なくされてしまいました。予算案は、衆議院の議決優先と憲法で定められてはいますが、それ以外の法案は、民主党も賛成する法案か、それとも、与野党協議によって合意形成が可能となる法案か、あるいは、参議院で否決されても衆議院で再議決して成立させるかのいづれかしかないのです。この状況の中で、福田さんは、民主党との間で、「大連立」構想なるものを模索していきます。10月30日に第一回目、ついで11月2日に二回目の福田・小沢党首会談が行われました。

●テロ対策特委で福田新首相に疑問提起

福田首相と小沢民主党の間での「大連立」構想がメディアで騒がれている状況下で、11月12日にテロ対策特別委員会が開かれました。テレビ放映付きでした。私は実は10月26日の予算委員会でも質問に立ち、こういうねじれ国会の時であるからこそ、徹頭徹尾丁寧な国会運営をすることが大切だと強調していました。そんな私には、その後の「大連立」構想騒ぎはいかにも拙速な妥協策に見えたのです。このため、この日の質問の冒頭で、大要以下のように、首相との間でやり取りを行いました。(議事録から抜粋し編集)

赤松)未だかつてない厳しい政治状況の中です。さあこれからじっくり議論をしなければという時に、与野党のトップがいきなり会談をされたというのは、ボクシングに喩えるとゴングがなると同時にリング中央で二人がクリンチする、抱きつく状態になるようなものではないでしょうか。これではあまりにも堪え性がないというほかありません。

福田)ねじれ現象では、何事も進まない状況がこれからずっと続く。だからと言って、もちろん、全て省略して連立すればいいなんてものではない。これから政策協議をするなど詰めていこうとしているのです。

赤松)「大連立」構想なるものが飛び交っていますが、大連立の前に現実に小連立が存在しているのです。地元では今でも連立のあり方に批判の声があります。4年前に私の質問に官房長官当時の首相は、公明党との連立で大いに自民党は助けられていると答弁されました。その思いは今も変わらないのでしょうか。

福田)実にもう、関係は深まっていますよ。公明党のお考えを十分に汲み上げて行こうと、自民党は常に思っています。公明党にすり寄って行っているんです。

こんな風に本音のやり取りが行われた直後、一本の電話がかかってきました。西口良三創価学会関西長からでした。西口さんは「さっきの君の質問を、今在阪中の池田先生と一緒にテレビで見てたんだよ。先生が『赤松なかなかやるじゃあないか。面白いじゃあないか』って、言っておられたよ、良かったなあ」と弾んだ声で伝えてくれました。いやあもう嬉しい限りです。国会で質問に度々立ち、様々な経験をしましたが、これほど感激したことは後にも先にもこの時だけでしょう。

新聞ももちろん取り上げてくれました。朝日新聞は、「公明やきもき 大連立『こらえ性ない』」「首相すりすり ❤️❤️ 自公連立『深まってる』」とのハートマーク付き見出しです。「『大連立』という前に、『小連立』の現在をしっかりと認識していただきたい」ー12日の衆院テロ対策特別委員会の質疑で、公明党の赤松正雄氏が福田首相にこんな注文をつけた。自民、民主両党の「大連立」構想が浮き沈みする中、「自公連立」への危機感をあらわにした形。首相は「ご心配なくお願いしたい」と火消しに躍起だったーという感じでした。

日経も、「大連立」構想公明当てこすり、との見出しで、私の質疑を紹介したうえで、「赤松氏は、『大連立』の前に『小連立』の現在をしっかり認識してほしい。地元には連立を見直すべきだとの声もある」と食い下がり、納得していない様子だった」と書き立てました。

この「大連立」構想騒ぎは結局、民主党内で小沢氏への批判が高まり、辞任を申し出る格好となります。ですが、周辺からの慰留もあり、最終的には踏みとどまりました。

●「医療崩壊」巡って小松秀樹医師と『公明』誌上で対談

この頃、私は突然、背中の腰上部分の痛みが続いたうえ、大量に血尿が出てしまいました。慌てて医師に診てもらうと、腎臓結石とのことで、直ちに入院手術をすることになりました。入院先は虎の門病院。担当医は同病院の泌尿器科部長をされていた小松秀樹先生です。彼とは退院後に理論誌『公明』で対談をすることになりました。「医療崩壊をどう防ぐか」とのタイトルで、12月号の誌面を飾りました。

この先生は当時、『慈恵医大青戸病院事件』とか、『医療崩壊』といった著作を出版され、単なる医師を超えた言論活動を展開されていました。この対談では、医療費抑制や国民の医師や病院に対する安全要求が高まっている中で、勤務医たちの「立ち去り型サボタージュ」という現象が起きていることに焦点を当て、密かに進行する「医療崩壊」を食い止めるのはどうすればいいかという問題を議論しました。

この中で小松先生は「低コストとアクセスを確保して、なおかつ高い医療の質を実現するのは難しいところに、皆が『安全、安全』と言い始めた。時間とお金を出さないで、安全をとなると、結局、勤務医にしわ寄せがきて、軋轢でいやになってやめていくというのが現状です。コストを下げるなら、アクセスを制限するか質を下げるか、あるいは医療の一部はやめるとかしないともうだめだ」と警鐘を乱打しています。

あれから事態は本質的には解決していないことに加え、新型コロナ禍の発生で、益々深刻化を深めています。お互いに日常的忙しさの中で疎遠になってしまいましたが、ピュアでハードな小松先生の切り口が医療現場や厚生労働行政との間で、軋轢を深めているやに聞いており、懸念しているところです。(2020-7-17  公開 つづく)

【69】「大」の前に「小」を、と福田首相と連立論争ー平成19年(2007年)❹ はコメントを受け付けていません。

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【68】「時間の政治学」をめぐる一考察ー平成19年(2007年)❸

●朝日新聞「政態拝見」に再び登場

この年(2007年)は参議院選が予定されていました。投票日は当初は7月22日の公算が大きいと見られていましたが、国会の会期延長という事態が起こり、7月29日にずれ込みました。こうしたことから、どう影響が出るか、メディアは大いに注目していました。そんな時、6月26日付けの朝日新聞4面の大型コラム『政態拝見』欄に再び私のことが取り上げられました。タイトルは「延びた参院選」。文章の書き出しから、いきなり私の名前が出てきます。以下にそのまま引用します。

【公明党衆議院議員の赤松正雄氏がときどき使う言い回しに、「時間の政治学」というのがある。例えばこんな具合だ。全面改憲を目指すという安倍自民党と現憲法の骨格はそのままにするという公明党の関係が、「時間の政治学のなかで、どのように変貌を遂げていくか。これこそ21世紀初頭における自公連立の最大の課題である」(同氏のブログから)。時間の積み重なりが政治の展開に与える影響を予想することは難しい。そんな意味で使っていると、赤松氏は言う。

その典拠は国際政治学者、永井陽之助氏の「時間の政治学」にある。古い本だが、「政治的資源」としての時間を多面的に論じて示唆に富む。為政者の方は時間を思いのままに利用したい。しかし、時間の方がそれを許すとは限らない。さまざまに応用できそうなものの見方である。】

このコラムは前回同様に根本清樹編集委員によるものですが、「衆院総選挙の周期と、自民党総裁選挙の周期が時間的に一致していないため生じる事態」として、05年の郵政選挙で圧勝しながら、自民党総裁任期切れのため退陣した小泉前首相と、総選挙を経ずに後継首相となった安倍首相のことを対比して挙げています。「『時間』の扱いに筋を通せ」との主張です。「政治のルールの見直しは差し迫っている」と結んでいますが、安倍首相周辺は総裁任期を延長してまでルールをねじ曲げこそすれ、見直さずにその後も時間が経ってきています。現在も、自民党総裁選挙と衆院解散総選挙の時期が依然として気になるところです。

なお、引用された私のブログの課題提起も、以来15年を経て基本的に、「連立維持」の政態は変わっていないのも興味深いことではあります。尤も、安倍首相は、再登板後も改憲に意欲を見せてきていますが、公明党の山口代表が加憲派から護憲派に先祖帰りしたと揶揄されるほどの抵抗ぶりで、微妙な変貌が見られます。ここでも「時間の政治学」が働いていると言えましょう。

●参議院選挙での与党敗北という厳しい結果

安倍さんが首相に就任して、参議院選挙を迎えるまでの一年足らず、当初は支持率が70%近くあったものの、その後急速に低下しました。その最大の理由は、郵政民営化法案に反対して除名された議員を11人も復党(06年11月27日)させたことにあると見られました。小泉さんの改革路線を否定するものだと、一般の人の目には映ったのです。加えて、閣僚の不祥事(佐田行革相)やら失言問題(久間防衛相、柳沢厚労相)、事務所費問題(松岡農水相=自殺、赤城農相)などが相次いで起きました。

しかも、07年の春から夏にかけて、年金記録漏れという一大問題が発生して、日本中が大騒ぎとなってしまいました。これは安倍首相の失政というよりも、長年の社会保険庁の不作為と怠慢によるものでしたが、国民の怒りは収まらず、選挙直前の6月には30%台にまで内閣支持率は落ち込んできました。

この間、公明党は改正官製談合防止法(談合に関与した公務員への罰則を創設)に尽力したり、耐震強度偽装事件を受けての建築士制度の改革で資格区分を見直した改正建築士法成立に貢献しました。また、救急医療用ヘリコプターを用いた救急医療に関する特別措置法(ドクターヘリ法)の成立にも力を注ぎました。太田、北側の新たなコンビで精一杯頑張ったのです。それもあって、4月の統一地方選では、全員当選を見事に果たす(二回連続)結果を生み出していました。

ただ、7月29日の参議院選では、自民党は6年前の64議席から37議席へと、歴史的敗北を喫し、非改選と併せて83議席になってしまいました。一方、公明党も選挙区2、比例区7の合計9議席で、6年前の13議席から4議席減となり、非改選と併せて20議席に目減りしてしまいました。これで自公両党で103議席となり、過半数の120を大きく割り込む結果となったのです。

民主党は、6年前は26議席でしたが、今回は60議席を獲得。非改選と併せて109議席になり、参議院で比較第一党になりました。自民党が他党に参議院で第一党の座を奪われたのは1955年の結党以来のことです。しかも、自公併せた与党勢力が民主党議席に及ばず、衆参ねじれ国会の構図を余儀なくされてしまいました。安倍首相は一気に苦境に立たされ、公明党も自民党の数々の問題に連帯責任をとらされてしまったのです。

●公明党の全国県代表協議会で参院選を総括

自公連立のスタートから7年が経っていました。小渕、森、小泉、安倍と4代に渡っての自民党政権との共闘も、急速な野党・民主党の追い上げもあり、かなり揺らいできていたのです。安倍首相が保守色の強い傾向を露わにしていた分、公明党内には「暮らし」をなおざりにされてはならないとの空気が漲ってきていました。

8月22日に開かれた公明党全国県代表協議会の場で、太田代表は、「閣僚の不祥事、失言が相次ぐ中、危機への対処は適切さを欠き、極めて悪いものでした。有権者は民主党に投票することで、政権の危機管理能力に怒りと不満の意思を示したのです」「国会運営では、国民の目には与党の採決強行の連続と映ってしまった。公明党も自民党と一体だと思われてしまいました」などというように述べて、頭を下げました。

さらに、参議院選について「小泉改革から派生して起きた地域格差や負担増といった『影の部分』への不満や怒りが溜まり広がっていきました」と分析し、「安倍政権は、生活者重視の政策の実現のために、これまで以上に力を注ぐ必要があります。政府や自民党に対して、もっと強くよりはっきりした意見を申し上げて参りたい」と強調したのです。

このあと、質疑応答の場面で、私は苦言を呈しました。「『言うべきは言う』というのでは弱いのではないか。言ったけれども受け入れられず、結局は何も変わらなかったというのではどうしようもない。『やるべきことはやらせる』ということが必要だと思う」と述べ、政府、自民党に結果責任を問うまで厳しく要求するべきだと力説したのです。私以外にも多くの意見が出されました。

この日のやりとりを巡っては、翌日の朝日新聞朝刊が「公明、『直言路線』に転換」「参院選総括ー『くらし』優先求める」との4段見出しで、報道しました。その記事では、私の発言が「党内には不満が強く、注文も飛び出した」との注釈付きで紹介されました。

こうしたことも、言うはやすく行うは難しで、結局は不十分なままの状態が続いていくことは、如何ともしがたかったと言わざるを得ません。(2020-7 -15公開 つづく)

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【67】「国民投票法」成立に尽力した日々と人々とー平成19年(2007年)❷

●加憲と改憲とのはざまでの変わらぬ発信

安倍晋三氏が首相になっていらい、一段と憲法改正に向けてのトーンが高まってきました。尤も世の中一般には格差是正への関心の方が高く、首相の改憲・前のめり姿勢には強い批判が付き纏っていました。2007年2月15日には、「どうするどうなる憲法9条」とのシンポジウムが東京第二弁護士会主催で開かれ、私は自民党の保岡興治さんや民主党の仙谷由人さんらと一緒に出席しましたが、ヤジが飛び交う中でのものとなりました。

実は、安倍政権発足の直後の衆議院予算委員会(2006年10月5日)で、私は先に第64回で披露したように、アメリカでの視察をもとにしたがん治療などの医療関連の質問をしました。しかし、その質問の最後に、憲法についても首相の考え方を質すことをも、あえて付け加えておきました。憲法の取り扱いを巡ってはあくまでも丁寧に運ぶべしとの主張を展開したのです。それから半年も経ってから共同通信配信の『改憲論議の底流』という連載が地方紙(神奈川新聞、岩手日報、千葉日報、山陰新聞など)を賑わしました。

【(10月5日の衆院予算委員会で)質問に立った公明党憲法調査会座長赤松正雄は、首相安倍晋三にくぎを刺した。『憲法への考え方が合わない。私たちは加憲と言っている』『護憲政党』を掲げてきた公明党。与党として改憲論の一翼を担う今も、9条見直しには慎重論が根強い。だが、独自の立場を貫けば自公連立の維持は難しくなる。『連立か、9条か』赤松のつぶやきは、現実との板挟みに悩む護憲派の一つの現状を浮き彫りにしている】

新聞記事の最後の5行(ここでは最後の1行)は、掲載当時にはいささか違和感がありました。ただ、あれから15年が経った今、赤松のところを山口に置き換えると、一段とリアルに迫ってくるのは面白いと言えましょう。

●讀賣の「憲法フォーラム」での頑張り

一方、この年も讀賣新聞社主催の記念特別フォーラムが、4月27日に東京・内幸町のプレスセンターであり、自民党・船田元、民主党・枝野幸男氏と共に参加しました。タイトルは「日本の決断ー憲法のあり方を考える」。基調講演を中山太郎さんがされ、北岡伸一東京大教授がコーディネーターでした。

ここでの議論は讀賣新聞5月3日付けで詳報が掲載されました。集団的自衛権を巡っての各党の考え方が注目され、自民党の船田氏が、「憲法を改正して限度のある集団的自衛権とするのが真っ当な方法だ」と指摘したのに対して、枝野氏は「現行憲法の条文でも問題はない」として、改憲の必要性を否定しました。私は、「集団的自衛権の行使は解釈ではならず、改正が必要」としたうえで、「行使は認めない」との公明党の姿勢を強調しました。

ただ、有識者会議が検討課題にしていた「4類型」については、「個人的には」と断ったうえで、「今の憲法解釈でも認めていいのではないか」と述べています。これは後々の「安保法制」における落ち着き先を見据えた、先駆的見解だったと自負できるものでした。

なお、基本的な公明党の憲法の考え方について述べる場面で、加憲に決めた経緯に触れたあと、「戦前、戦後といった問題を乗り越え、21世紀をにらむ未来レジーム(体制)を志向すべきだ。『普通の国』(自民党)、『一国平和主義』(民主党)ではなく、『地球平和主義』の観点でいくべきだ。9条の平和主義と前文の『国際社会において、名誉ある地位を占めたい』という方向性を両立させていきたい」と、強調しました。

中道主義の理念に基づく「地球平和主義」の重要性を訴えたのです。このフォーラムでは一般参加者も募っており、私の地元での支援者の娘さん(現在、歯科医)も姿を見せてくれていたのは嬉しいことでした。それもあって、いつにも増して気合いを入れたのです。

●「国民投票法」成立の舞台裏で

現行憲法の最大の課題は、「改正」することが可能であるはずなのに、その手続きに触れられていないことです。このため、改正の是非とは全く別に、法のルールとして改正の仕方を規定する必要性が当初から求められてきました。これは例えてみれば、旅行鞄を開けたいのに、鞄の鍵の番号が作られていず、開けられなようなものです。憲法改正をさせないためにわざと改正手続の規定を置かず、しかも長きにわたってそれでよしとしてきたのは政党、政治家の怠慢だったといわれても仕方ありません。

先に述べたように、衆参両院の憲法調査会は5年間の調査活動を終えて、報告書をまとめました。次に憲法調査特別委員会を作って、手続法を決める論議に入ったのです。2006年10月26日から国民投票法の与党案と民主党案の審議が始まっていました。私は遡ること約一年の間、厚労省に行っていましたので、与党案作成には関わっていません。公明党からは斎藤鉄夫さんが担当してくれていました。審議が始まった同日、早速私は質問に立ちました。ここでは、調査会→特別委員会→審査会の三段階の流れの中で、憲法改正草案が提出、検討されるのは少し早すぎないかとの問題を提起したのです。つまり、更にもう一段階おかねば、揉める原因になると睨んだからです。答弁に立った斎藤氏のこの辺りの認識が弱いと見て、嗜めました。その場面を見ていた旧知の専門家のひとりが「公明党内の人同士でもバトルするのですねぇ」と、驚いていました。

ともあれ、それ以来半年あまりかけて審議が進み、2007年5月14日に国民投票法は成立しました。この間、再び私は斎藤さんからバトンタッチを受けて特別委員会の公明党幹事となり、自民党の保岡興治、船田元、加藤勝信、葉梨康弘氏らと共に与党案の成立に尽力し、答弁をも担当しました。衆議院では最後の最後の場面で採決を妨害しようとした民主党議員の抵抗で危うい場面がありましたが、何とか成立に漕ぎつけた時は本当に嬉しい思いがこみ上げてきました。議場で中山太郎さんを囲んで喜び合う場面は彼の著作の扉写真に使われていましたが、感激が伝わってきます。これでようやく、「不作為の謗り」を免れた喜びに浸ることが出来たのです。

一連の作業のあと、船田元さん宅で祝宴の機会がもたれ、関係者が集まりました。船田夫人は元参議院議員の畑恵さん。元新進党で一緒だったので懐かしい人でした。畑さんとの談で偶々、白洲次郎、白洲正子の夫婦のことに及び、彼らの武相荘や兵庫県三田市にあるお墓などを巡って大いに語り合いました。こうした機会を経て憲法論議が大きく前進すると思いきや、結局は暗礁に乗り上げたまま。今の政治家たちの体たらくには、幻滅するしかありません。(2020-7-13 公開 つづく)

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