【92】涙の中での冬柴元幹事長の葬儀ー平成23年(2011年)❼

●中山太郎氏が参考人として憲法審査会に

元衆議院の憲法調査会長の中山太郎さんが参考人として、国会に帰ってきました。11月17日の憲法審査会で、これまでの経緯を詳しく語られたのです。中山さんは2年前の政権交代の総選挙で落選されましたが、この時は他にも自民党の幹事がほぼ全員落選するという憂き目を見たのです。4年前の国民投票法成立時の提案者は、私を除き誰も議場から消え、あの選挙結果の厳しさを改めて思い知りました。

中山さんの発言で注目したのは、先の衆議院での採決に伴う与野党間のしこりについて、でした。幾重にも心配りをし、議論の調整をしたにもかかわらず、最後の土壇場で挫折をみたことへの悔しさがにじみ出ていました。私もこの3年間を文字通り、現行憲法を審査する期間として捉えたいと考えていました。当初2年だった凍結期間が一年延長されたのは私の発案からでした。審査作業をするためです。

しかし、あろうことか、逆に一年長い4年にも及ぶ歳月が無為に過ぎてしまったのです。その責任は、民主、共産、社民の三党にあるという他ありません。

●ブータン国王の演説を本会議場で聴く

同じ17日にブータン国王が来日、衆議院の本会議場で演説をされました。この国は人口70万人というアジアの小さな小さな国ですが、先の国王が「国民総幸福」との斬新な旗印を掲げたことで、一躍脚光を世界で浴びました。経済成長のみを追いがちな現代国家の生き方に対して、小気味いいインパクトを与える、小さいけれどキラリ輝く国なのです。

一介の若者に過ぎない自分の演説を日本の国会議員に聞いて貰えることは、光栄だと謙虚に切り出された国王。明治維新以来アジアの中での目を見張る近代化、戦後の復興における驚異的な足跡など、終始一貫、日本への信頼感を讃えた内容で、聴かせました。大震災に負けずに再び雄々しく立ち上がってほしいとの期待感が横溢していましたが、私には「国民総幸福」の面への価値観の転換を促されたようにも聞こえてきました。

先王の後を受けて就任した新王は結婚されたばかり。清楚で可憐な雰囲気を備えた王女が終始寄り添っておられました。新婚旅行に大震災後の日本を選ばれた心優しさに、私を始め多くの議員は感動を覚えていました。

●外務委員会での原子力協定質疑に待ったをかける

この頃、私の関わった議論では「原子力協定」が最大のものでした。11月30日の外務委員会では玄葉外相と、12月2日は野田首相の出席も得て、ヨルダンとの協定締結をめぐっての大議論が行われました。民主党政府のスタンスは、原子力発電を求めてくる国々には、日本は協力を惜しまないというもので、従来からの自民党政府の立場を引き継ぐものでした。しかし、福島第一原発の事故以降、局面は様変わりしたと捉えるべきだというのが私の主張です。

二日間の質疑では、原発事故の収束すら覚束ない状況の中で、しかも原子力政策が確立していないのに、外国に原発を輸出(ヨルダン以外にもベトナム、ロシア、韓国も対象に)することは時期尚早であるとの一点で厳しく再考、見直しを迫りました。

ただ、この問題は党内的にも賛否両論がありました。前日の外交安保部会でもあれこれ議論の末に、「部会長一任」という結果になりました。珍しいケースです。政務調査会の全体会議で、私は「反対」の意思表明をして、会議の了承を得ました。

この動きは急なものだったために、各党間の連携に齟齬をきたしました。外務委員会では、民主、自民両党の賛成多数で可決したのですが、公明党が反対と知って、自民党が2日の本会議に緊急上程することを渋りました。公明党と歩調が一致しないことに、国対幹部が難色を示したものと思われます。私としては、前日に党内手続きをそれなりにとったうえでのことですから、翻意などありえません。結局、週明け6日に本会議上程は持ち越しになったのですが、2日の党代議士会で顛末を説明する際に、自民党は公明党が賛成すると思い込んでいたことを伝えました。

原発をめぐっては、未だに国民的合意が得られていないのですが、そんな状況で他国に輸出するとの決断に待ったをかけたことは、注目に値するものだと、私は思っています。ここでも私独自のこだわりを示したのです。

●冬柴鐵三大先輩との出会いと別れと

冬柴鐵三元幹事長と私の初めての出会いは、衆議院選挙に兵庫2区から初めて出られるとのことで党本部に挨拶に見えられた時でした。昭和61年(1986年)初め頃。理論誌「公明」の編集部室(2階)に立ち寄られた時だったと記憶しています。柔和そのものの笑顔を満面に湛えて「冬柴鐵三です。兵庫でお世話になります」と丁寧な迫力漲る挨拶をいただきました。いらい、18星霜。ある時は優しく、またある時は厳しくご指導を頂くことになります。初対面の際には、あの岡本富夫代議士の後を務められるとは大変だなあ、と思ったものです。

翌昭和62年初めに私は市川雄一代議士の秘書になり、議員会館に勤めることになりますが、最初の頃は隣の部屋が冬柴さんでした。一年余りで私も総選挙に出ることになり、苦節足掛け5年の末に同じ兵庫の議員として共闘することになりました。遅れること7年、私が初当選時には既に冬柴さんは3期目の堂々たる中堅議員でした。後に、公明党の幹事長になられたり、国土交通相も務められます。往時は、「自民党顧問弁護士」と呼ばれるほど、自由自在に力量を発揮されました。ところが、民主党に政権を奪われた平成21年の総選挙で、残念なことに落選の憂き目を見られてしまうことになるのです。

落選中でも、東日本の大震災の地にしばしば足を運ばれて、弁護士の資格を活かしての市民相談をされるなど縦横無尽の活動をされていました。ところが、この平成23年の初冬に突然倒れられ、12月5日に帰らぬ人になられてしまいました。西口良三さんから、ぜひ君に葬儀委員長をと言われ、直ちにお引き受けしました。同じ公明党兵庫県本部の人間として、ご一緒した大先輩です。まことに光栄なことでした。

この葬儀で、何と言っても印象深かったことは、冬柴さんの生涯を称え、慕ってやまない大勢の人が参列されたことです。とりわけ、尼崎じゅうの党員や支持者が来られたかと見紛うほど、後から後へ、延々とお焼香をする人達が続きました。お一人お一人が冬柴さんとのかけがえのない物語を持っていると見受けられました。仮にこちらが問いかけると、とめどなく言葉が出てきそうな雰囲気の人ばかり。堪えきれずに涙が溢れ出すのも構わず、列をなしておられたのです。落選中だったことが一段と無念さを誘ったものと思われます。

2020年春、市川さんのご長男伸一郎さんを伴って、大阪・東梅田の「牡蠣鐵 」に行き、次男の冬柴大さん(社長)と、三人で歓談しました。この店は安倍晋三首相も訪れたことがあり、もう一店の北新地の「鉄板ステーキ鐵」共々、グルメの間で有名です。お世話になった亡き両先輩を思い起こしながらの珠玉の時間を過ごしました。 (2020-9-1公開 つづく)

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