Monthly Archives: 1月 2021

【2】元中核派幹部や円教寺住職との出会いー平成25年(2013年)❷/1-31

●「地下に潜伏」していた旧友との50年ぶりの再会

1960年代半ばに大学生活を送った私の世代は、学生運動との縁がそれなりにあります。私の高校時代の友人では、京大や早稲田大に進んだ連中に若干ながら活動家らしき仲間がいました。なかでも水谷保孝君は早稲田大中核派の一方の旗頭として名を馳せた存在です。勿論、そのことを知ったのはずっと後になってからですが、彼の活動が世間を騒がせたのは、あの米原子力空母エンタプライズの佐世保港入港阻止運動で逮捕されたことでした。しかし、新聞報道で驚きを持って知っただけ。長きにわたって気にはしていましたが、遠い存在として記憶のかなたに浮遊していました。

そんな彼が60歳の還暦を迎え、その道から〝足を洗った〟らしいとの噂が私が議員を辞める少し前に入ってきたのです。社会主義革命に殉じる人生を若き日からほぼ一貫して過ごしてきたかつての友と会うのは面白かろうと思いました。人づてに聞いた連絡先に電話を入れて、行きつけの溜池の居酒屋で会うことにしたのは1月半ばのことでした。その経歴からは全く類推出来ない普通の風貌には拍子抜けするばかり。娑婆世界に戻って8年ほどの歳月が過去の残骸を洗い流したのだろうと勝手に思うことにしました。40年近い「地下生活」のあと、友人の世話で編集者の仕事をしているとのことでしたが、落ち着いた優しい佇まいは昔のままでした。それは代議士生活20年を感じさせない普通のおっさんの私とて同じこと。客観的に面白いはずの二人の出会いは、平凡な語らいに終始したのです。彼の内心はいざ知らず、私はそれなりに熱く燃えていましたが、自制を利かした次第です。

ただ、それからしばらくして、彼が岸宏一氏と共に出版した『核共同政治局の敗北 1975-2014』は、流石にその道の活動家らしい〝筋金入り〟を感じさせる中身でした。尤も、読み物としては全く面白くなく、およそ〝革命の遺物〟そのもの。私は早速にその感想を読書録ブログに公表しています。題して「ある左翼革命家の敗北と新たなる旅立ち」。これは2015年6月17日に書いたものですが、彼への挑発の趣きもある中身でした。

【(この本では)沈黙を破って普通の人間としての生の声を書いているものと期待した。なぜ自分たちが左翼革命運動に挺身し、夢破れたかを赤裸々に明らかにしている、と。だが、ここには彼らの主たる敵である革マルへの徹底した糾弾の声のみが際立つ。革マルは「世界史的にも類例のない『現代のナチス』と呼ぶべき存在」だと口を極めて罵ることの連続なのだ。鎮魂の書ではなく、新たなる告発の書なのである。】

このほかあれこれと私は書き連ねているのですが、紙数の都合で残念ながら割愛します。ともかく、正直に彼の書いたものを遠慮会釈なく断罪しているのです。これに対して、彼は「書いてくれてありがとう」というだけで、それ以上の言及はなし。反発ぐらいしてほしかったのですが。残念なことでした。

●書写山円教寺・大樹住職さんとの出会い

姫路の観光地といえば、国宝・世界遺産の白鷺城と並んで書写山円教寺が「西の延暦寺」ともいわれるように有名です。映画『ラストサムライ』のロケ地になった経緯において、監督のエドワード・ズウイック氏が「ここには千年前の空気がそのまま残っている」とのコメントで絶賛したことが伝えられています。それだけ空気が清浄であり、静かで厳かな雰囲気が漂っていて、観光地ずれがなく「現代」に汚されていないということでしょう。現役時代は殆ど行く機会がなかったのですが、引退してからは、遠来の友を案内する機会も増え、しばしば足を運ぶことになりました。そこで、もう一つの珍しい出会いをすることになります。

その出会いのきっかけは、姫路慶應倶楽部の仲間である村瀬利浩さん(姫路経営者協会前専務理事)が、円教寺の大樹孝啓住職(第140代長吏)の娘婿だと分かったことでした。同住職とは姫路市内での重要な会合の際に袈裟衣姿を時折りお見かけしたこともあり、一度きちっとご挨拶をするべくお山に登ろうと決めていました。地元の著名な存在に会わねば、との単純な思いからです。秘書役ともいうべき村瀬さんにお願いしたところ、快諾していただき、ご対面は春3月の25日に実現しました。

大樹住職は、その名の通り大きい樹木のような人でした。しかもただ大きいだけでなく、天台宗全体のNo.2という大変な地位を感じさせない、爽やかで柔和な方でした。微笑みながらの「私に会いたいと言ってここに来た創価学会、公明党の人はあなたが初めてですねぇ」との発言から始まって、世事万般にわたっての会話をさせていただきました。今に印象深く残っているものから二つに絞ってみます。一つは我が宗派は鷹揚(おおよう)というか、いい加減なところがあってねぇ、朝お題目で夜はお念仏を唱えるんですよ、とのお言葉。心底驚くと同時にこの人から聞くと妙に納得するところがあったしだい。もう一つは、私はお風呂に入るたびに、身体中の関節を揉みほぐすのですよ、との健康法。なるほど、と感心しました。相手するものを包み込む、温かな人物の大きさを味わったのです。96歳の現在もお元気で活躍されていることは嬉しい限りです。

●次に何をするかー夢は荒野をかけめぐる

国会議員を辞めて、さて何をするかーこれには悩みました。68歳は立派な老人ですが、使いよう、動きようによってはまだまだ働けます。諸先輩、仲間も色々苦労されていますが、再就職にあたって難しいのは、やはり「元衆議院議員」という肩書きです。これが陰に陽に邪魔をしてうまくいかないのです。私の親しい創価学会の大幹部は、議員を辞めたら、ひたすらお世話になった方々のために、広宣流布のために、ご恩返しを考えて動くんだよ、とアドバイスしてくれました。それには全く異論はないのですが、その流れに専ら入るのはもう少し先でもいいと思ってしまいます。当面はやはり社会的価値のあることに従事したいし、それなりの報酬も得ないと、先行きが不安だとの思いもちらつきます。

若い人たちのために青年塾を開設してみようか、いや、大学の教員の肩書きを得て物書きをしようかなどと、文字通り「夢は荒野を駆け巡る」のですが、生来の無趣味、不器用さが災いして的が定まりません。そんな時に「小説、エッセイ募集」の記事を新聞で見るのです。心が動きました。(2021-1-31)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【1】お世話になった人々、忘れ得ぬ恩人たちー平成25年(2013年)❶/1-30

●再び与野党逆転。自公が政権に復帰

2012年の年の暮れも押し迫った12月26日。第46回衆議院総選挙は投票日を迎えました。結果は、自民党が119議席から294議席へと地滑り的大勝利。一方民主党は230議席から57議席と壊滅的敗退。再度政権交代が起こり、民主党は僅か3年で下野することになりました。この間、野党になっていた公明党も与党の座に返り咲きます。21議席から10議席増の31議席になりました。この選挙では、日本維新の会が11議席から54議席になったことも特筆されます。そして、安倍晋三元首相が復活、第二次政権を担うことになりました。

この一連の動向を一市民、一前議員として見ることになった私は、先の大戦直後の衆議院選挙でひとたびは政権につきながらも、直ぐに政権を去った日本社会党を思い出していました。民主党も「一度やらせてみては」との声を背景に、政権を奪取したのですが、その政権運営の稚拙さから下野せざるを得なかったのです。これで、民主党は再び政権の座につくことは難しかろうと思いました。尤も、戦後まもない当時と今とでは選挙制度が違うので、必ずしもこの見立ては正しいかどうかは分かりません。ただ、多くの国民が抱いた失望はそう簡単に取り戻せないと思ったのです。かくいう私は、二大政党制の実現を待望し、「早くおいたて民主党」と敵にエールを送ってきただけに、少々残念な思いを持ったことは正直否めなませんでした。

新年からは、旧兵庫4区つまり姫路市を中心とした播州地域を始め、兵庫県全域へのご挨拶まわりを始めました。各地の公明党の市議、町議の皆さんの車に乗せてもらい先導していただきながら、一軒一軒回ったのです。といっても、ほぼ25年前の初挑戦の時のようなわけにはいかず、かなり間引きした形でのお礼回りになったことは残念なことでした。

●お世話になったあの人、この人に挨拶回り

平成の初めに選挙活動に入り、初当選まで足掛け5年。当選から引退までの20年、合計25年の間にお世話になった人々は膨大な数になります。引退したことをお伝えし、直接お礼を述べるべく、まずは姫路市を中心にした旧中選挙区を回りました。その行為の中で、過去の様々な出来事が思い浮かんできました。姫路市での忘れ得ぬ出来事は、婦人支持者の代表的な存在だった長瀬昭子、西本時代さんのお二人が活動の最中に車中で信号待ちされているとき、後ろからきた車に激突されたことです。幸い最悪の事態には至らずに済みましたが、この時は肝を潰しました。と同時に姫路市、兵庫県の選挙での「宿命転換」をしたのでは、と大袈裟ながら思ったのです。

と言いますのも、これまで選挙戦の最中に、候補者が交通事故で亡くなったり、事故死されたケースが散見されたからです。特に姫路市から県議に出ていた今井さんが選挙期間中に自転車で走行中に車に跳ねられて亡くなり、急遽ご夫人が出馬されたことは聞かされていました。事故にあわれたお二人は、候補者たる私の身代わりになられたと思わざるをえなかったのです。それが無事だったことは、本当に「守られた」とホッとする思いでいっぱいになりました。

姫路の県議選というと、いつも大激戦でしたが、故北川東作さんが僅か7票差で当選したことは今もなお語り草です。この人は誠実そのものの人で、車を運転されず、どんなに遠くでも自転車で移動されたようです。私の初の選挙では事務長をしていただきました。公明党の地方議員のお手本のような真面目そのものの方でした。また、元県議では難波功さんも挙げねばなりません。この人は元山陽電鉄労組幹部で、私の叔父・保男の後輩でもありました。労組で鍛え抜かれた論客でしたが、心底からの優しさを持った人です。多くの人々が選挙中に「声は高いが、腰は低い難波いさお」と称えていたのも、むべなるかなと思ったしだいです。私よりひと世代上の大先輩ですが、ありとあらゆる面で助けていただき、今もそれは続いています。

●今も瞼に残る光景の数々

姫路での選挙戦ー中選挙区での2回の選挙ーは今もなお語り継がれる大激戦でしたが、瞼に残る様々の光景から一つだけ印象深いものを挙げてみます。遊説カーで走っていたときに、遠くの道路を車イスで動いていた青年が私の姿を見て、手を振り不自由な足を上げて、文字通りころがらんばかりの振る舞いをしてくれたことです。故福田佳之助市議のご長男・佳弘さんでした。涙ぐましい応援をありとあらゆる人々から頂いたのですが、その象徴的な場面として、今もなお目と心に焼き付いています。

また、お世話になった関係者とのお別れ懇親会も数次に渡りました。例えば外務省の皆さんとは、総選挙の終わった翌12月27日にやりました。木寺昌人官房長の音頭で親しい仲間数人が集まってくれたのです。有り難いことでした。木寺さんはその後中国大使を経て、現在フランス大使をされていますが、先年私がフランス、ドイツ、ベルギーに友人と共に旅をした際に、再会できました。女性として初の同省・局長級ポジションについた佐藤地(くに)さん(当時ユネスコ大使、前ハンガリー大使)も、交友深いものがあり、パリの大使館に駆けつけてくれて、束の間の旧交を温めることになったのも忘れ難い一コマです。

人との出会いと別れについては、色々な思いが絡むのですが、積極的に出会いを求めて動きに動いてきた私です。とくに対人関係では「衆議院議員」のくびきから解き放たれたこともあって、自由奔放さが輪をかけたのかもしれません。偶然もそこに重なって、我ながら驚きのご対面をすることになりました。(2021-1-30一部修正)

 

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第三部 始めるにあたって

平成24年(2012年)末の衆議院選挙に出馬せず、引退をしてから8年ほどが経ちました。この回顧録もその時点(平成24年末)で終了することにしていました。しかし、平成の残り期間を放置していては、『回顧録』も尻切れ感は否めないと指摘される向きもあり、続きを読みたいとのお声もそれなりにあって、方針を変えることにしました。第一部が衆議院議員選挙に出るまでの40数年間、第二部が初出馬から落選を経て政治家として生きた25年間を対象にしていました。第三部は、とりあえず、平成の終わりまでの残りの6年ほどを描くことになります。

この期間はちょうど安倍第二次政権とほぼ重なっています。年齢的には68歳から74歳まで。いわゆる前期高齢者から後期高齢者までの時代です。衆議院議員を公明党の内規によって定年退職してからの時間をどう過ごしたか。一般的には興味を持っていただくだけのものではないかもしれません。しかし、「日常的な奇跡」はそれなりに続いています。政治家として第一線は退きましたが、その後の動きへの興味は当然ながらあり、消えた老政治家のその後の軌跡を描き留めおくのも一興か、と思い直しています。

新型コロナ禍の蔓延は、現代文明を根幹から動かそうとしています。その一大転換期に立ち会えたことを、喜びたいとの思いが私には否定できません。この壮絶な時代を知らずに、一足先に今世から来世へと、〝あちらの世界〟に行ってしまった、親しかった先輩や仲間たちに、伝えたいとの思いもあります。その辺りは、令和編になるのでしょうが、とりあえず、平成最後の数年間をどう生きたのか、をありのままに残す責務が、ジャーナリストの端くれから政治家になり、そしてまた自由なもの書きの立場に戻った私にはあるように思われます。

現役政治家時代を扱った第二部と違って、手元に十分な資料もないので、執筆、公開にはいささか時間がかかるかもしれませんが、何卒ご容赦をお願いします。(以上 2021-1-10記す)

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★お知らせ

回顧録『日常的奇跡の軌跡』については、昭和20年(1945年)から、平成24(2012年)までを書いて、終わりにしていました。衆議院議員を引退し、公的な役割を終えたから一区切りだと思ったのです。ただ、平成の時代はその後7年ほど続いており、この期間を空白にしておくことは、おさまりが悪いとの思いもありました。続きを読みたい、もっと書けとの親しい友人たちの声もあり、新しい年から再び、我が「軌跡」を追うことにしました。現在、新型コロナウイルスの蔓延という事態が地球を襲っています。人類にとって、文明にとって大きな転換期だと思われます。心騒ぐものがあります。しばらくの準備期間を経たのちに、改めて執筆を開始します。このコーナーにお目見えするのはいささか時間がかかると思いますが、お待ちいただければ幸いです。

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