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もっと大きなことで悩みたいとの呻き (28)

恐れていた父の反応は全く違っていました。母の死に至るまでの過程の中で、多くの近所の学会員さんの心温まる激励、池田先生のご配慮などに応えないわけにはいかない、と言うのです。加えて「お前ら子どもたち4人全員が南無妙法蓮華経と唱えとる。だあれも先祖からの仏壇に念仏を唱えへん。ワシの死んだ後も見えとる。これじゃあ、お前らと一緒にやるしかないやないか」と言うのです。浄土真宗のお寺にはその旨断り、お墓も新たに作り直しました。赤松家の完璧なまでの改宗が、母の死と引き換えに実現したのです。この時ほど、親父が頼もしく立派に見えたことはありません。

一方、重度の身体障害を持っていた子どもの死は、入会前から私の抱いていた人間の絶対的不平等がどこから来るのかという課題にひとつの答えをくれました。この世における宿命の転換を瞬時に果たして、あの娘は新たに健康な生命を得るに至ったに違いないと、確信することができました。

しかし、悩みはそれだけでは終わりません。御書に「生死をいで仏にならむとする時には・かならず影の身がそうがごとく・雨に雲のあるがごとく・三障四魔と申して七の大事出現す」(三沢抄)「三障四魔憤然として競い起る」(開目抄)とある通り、今度は、妻の父が仕事のうえのことで、他人の保証人になったことが裏目に出て、相手の借財が一気にこちらに及んできてしまったのです。連日借金取りが押しかけてきて厳しい事態になりました。私は仕事に、学会活動に汗を流し、我関せずでいい気なものでしたが、妻はそういうわけにはいきません。結果として、妻の実家の借地を半分手放すことになりました。つまり、義理の親が住んできた妻の実家部分(生まれた家)が、借金のかたとして人手に渡ってしまったのです。建て増しした私の家とわずかな庭を残して。母屋を壊し、増築部分を残したため、無残にも壁がむき出しになってしまいました。そこを隠す青い色のビニールシートが風の吹くたびにパタパタと私を嘲笑うかのように靡く様子には、胸を締めつけられるばかりでした。

義父母は近くのアパートに引っ越すことになりました。およそ厳しい現実にほとほと弱り果てました。容赦なくやってくる借金取りの撃退に妻も義母も取り組みながら、懸命に題目をあげて生命力をつけて乗り切ろうと健気な戦いをしたのです。この頃、私は自分のことや、家族のことといったちっちゃな悩みではなく、もっとでっかいことで悩む自分になりたい、とただ呻くばかりでした。

しかし、なんとか家族一丸となっての数ヶ月。懸命の戦いのすえに、借金問題も解決。家も幾ばくかの銀行ローンを組んで、立て直すことにしました。義父母を引き取って再び一緒に暮らすことになったのです。やがて、地獄の苦しみがパッと消えました。

そんな折、中野兄弟会の第5回総会(昭和52年2月4日)が開かれました。結成の日からちょうど4年ーあの時は整理役員。今回は区男子部長としての参加です。先生の前で、手短にこの4年間の皆の思いを代表して述べました。横合いから先生が「やるじゃあないか」と声をかけて下さった瞬間は忘れません。この会合で先生は「一人の心をつかむは万人に通ずる」との指導をしてくださいました。一人の心をつかむことの大切さは、今に至るまでの私の重要な指針になっています。

昭和52年の3月には、やっと元気な娘が誕生しました。この初めての子の出産にあたっては、かつて私が肺結核の時に池田先生から紹介して貰った産婦人科医の石川先生に取り上げて貰いました。死産の時は実は近くのキリスト教の病院でした。反省したのです。当時、ますます忙しい日々を過ごしていました。子どもが無事に誕生したというのに、とうとう産院にも行かぬうちに退院してしまいました。父親が一向に赤子の顔を見に来ないというので、本当に切なかったとの妻の苦情を後々まで聞くことになってしまいました。

【昭和52年(1977年) 5月成田空港反対派と機動隊衝突  7月  第11回参議院選挙 9月 米軍機、民家に墜落。日本赤軍日航機ハイジャック 11月福田改造内閣】

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妻の死産と母の死に至る病が直撃 (27)

そこには、「市川雄一」という名があったのです。川崎市、横須賀市などを擁する神奈川二区(旧選挙区)からの出馬です。衆議院初進出から約10年、後方での党の理論的支柱として、その力量を縦横無尽に発揮していた人がいよいよ表舞台に登場するというのです。当のご本人は、その話を時の委員長から聞いた時に「仰天した。まさか選挙に出るとは思ってもいなかった。またジャーナリストの世界で生きたいという気持ちもあった。物書きになりたいとも思っていた」とのちに、雑誌の取材に対して語っています。入社して7年半余り、様々な意味で率先垂範の後ろ姿を見せて来ていただいた大先輩の大変身。嬉しくもあり、正直寂しいことでもありました。

ところで、こうした事態の起こる前、昭和50年代に入って、私の身辺にはいくつかの大きい問題が発生してきていたのです。一つは、妻が身籠った結果、無事に十月十日経ったすえに、死産をしてしまったことです。子どもは作るもんと違う、授かるもんやと口癖のように言っていた母も、なかなか授からない状況が続くので、心配していました。そこへ、受胎し、なんとか流れずに持ちこたえ、喜んでいたのに、結局死産に終わりました。重度の障害を持っていた女の子でした。誕生と同時の死亡です。ささやかなお葬式を出しました。あの時ほど白い布が残酷に見えたことはありません。帝王切開の末のことです。妻の落胆も大きいものがありました。

二つは、その過程の中で、母が胃がんを発病、医者から「余命半年」と宣告されたことです。父は「どないしたらええんや。母さんが川の向こうにどんどん流されてしまいよる。そやけどどないもしてやられへん」と言います。「そりゃあ、信心するしかあれへん。きっと治るから」「ほうか。そんならわしも拝む。治ったら信心ずっと続ける。そやけど治らんかったら、もうせえへんで」こういうやりとりの結果
、遂に父は拝み出しました。我が家の一家全員の入会が「母の生と死」をかけた危機的状態の中、私の入会後10年余りで実現しました。しかし、残念なことに、母は医者の見立て通り、闘病生活半年の末に亡くなってしまいました。私の子も見ずに。

子どもの死に対しては、ある大先輩が「受胎は女の福運、安産は男の福運。妻が身籠ったからと言って喜んでいるだけではいけない。夫は無事生まれてくるまで、しっかり祈ることだ。人間ひとりの生命を授かることは、女にとって命がけのことだけれど、夫もそれを傍観していてはいけない」と指導してくれました。それまで、良い加減に考えていたわけではないのですが、心底これは堪えました。

母の死については、ともかく悲しかった。葬儀の席で号泣してしまいました。19の歳に別れて暮らすようになっていらい、10年余り。ロクな親孝行もしないまま。死の直前に帰神して、病院で痩せ衰えた母を抱き上げたときのその軽さに驚きました。なんともしてやれなかった我が身の無力さにただただ泣けました。父は、様々な病院に足を運んで医師にあったり、民間療法に伴う色々な薬を求めるなど八方に手立てを尽くしました。ベッドのそばに布団を引いて寝起きし、母をお風呂にも入れ、看病の限りを尽くしたと言います。

こういう風になってしまったら、父は約束通り、信仰を辞めると言い出すに違いない。困った。どうする。泣きっ面にハチとはこのことだ、とひたすら恐れました。

 

 

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ロッキード事件の嵐吹き荒れる (26)

中野兄弟会に頂いた先生の激励で、中野区男子部も意気天を衝く勢いでした。この頃の中野区の中心者は村井康一さん。文字通り「荒れた原野に道を切り拓く人」(富岡勇吉元潮出版社社長の言)でした。会合の進め方も、皆の士気を鼓舞せんと、演台の机の上にあがって学会歌の指揮を取ったり、円形で中心に立って語る態勢をとるなど変幻自在。何かと型破りの人でした。この人には師弟の道のありよう、信仰の基本への挑み方など色々なことを教えて頂きました。

昭和50年12月20日。中野兄弟会第四回総会が創価大学体育館で開かれ、先生が再び出席してくださいました。この時の「必死の一人は万人万軍に通ずる」との指導を聞き、何事にも真剣に取り組むことの大事さを痛感しました。結成からやがて満3年を迎える前年に、創価大学に呼んで頂いたのは本当に嬉しいことでした。既に全国各地に移転する仲間もいましたが、この日ばかりは勇んで先生の元に駆けつけてきたのです。このように中野兄弟会が信頼されるものとなり得てきたのは、ひとえに藤井達也、藤井壮介の二人の兄弟に代表される裏方に徹する仲間たちのおかげです。まさに中野兄弟会の象徴(シンボル)ともいえる二人です。

明けて昭和51年(1976年)2月。米国多国籍企業小委員会で、ロッキード航空機会社の対日売り込み30億円の工作費が発覚しました。ロッキード事件の嵐です。この事件の推移を克明に追い、見事なタッチで事の本質を暴いていった公明新聞記者が岩切隆司、加島幸路の二人でした。一年先輩の岩切さんと数年後輩の加島君のコンビは政党機関紙であってもここまで出来るという先駆の闘いを示してくれました。それまでも、公明新聞はイタイイタイ病を始めとする公害問題での追及で他党の追従を許さぬ闘いを示していました。先輩仲間たちもその報道で幾つものスクープを勝ち取っていましたが、いよいよ舞台は世界へ、との広がりを感じさせたものです。

この年の6月に河野洋平氏らが自民党を脱党し、新自由クラブを結成します。そして翌7月には田中角栄前首相が逮捕されることに。いわゆる〝55年体制〟のもと、強固さを誇ってきた自民党に、激震が走りました。一方、我々世代を長く悩ませたヴェトナム戦争は前年に終結し、この年の7月にはヴェトナム社会主義共和国が成立するに至っていました。そして、中国では、周恩来首相が1月に逝去した後を追うように、9月には毛沢東主席も亡くなりました。10月には晩年の毛主席の権威を傘に猛威を振るった「4人組」が失脚し、華国鋒首相が党主席に就任しました。

〝今太閤〟田中角栄氏を巻き込んだロッキード事件で荒れまくった年、昭和51年。小派閥から昇りつめた三木武夫首相は文字通りボロボロの様相を呈するに至っていました。そんな年の晩秋ー俄かに衆議院解散・総選挙の機運が高まっていきました。昭和42年に衆議院に公明党が初挑戦して25議席を得てから10年、4たび目の総選挙です。そして、その候補者のリストを見て、私はあっと驚いたのです。

【昭和51年(1976年) 2月 ロッキード事件発覚  6月 民法・戸籍法改正(離婚後の姓の自由等 )7月 田中角栄前首相逮捕  9月 ソ連戦闘機 強行着陸  12月第34回総選挙 自民惨敗 公明党29から56議席へ】

 

 

 

 

 

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整理部へ、印刷工場での新聞作り (25)

【昭和50年(1975年)  3月 山陽新幹線開通  4月  統一地方選、東京、神奈川、大阪で革新知事誕生  サイゴン政府崩壊、ベトナム戦争終結 8月 日本赤軍クアラルンプール米大使館等占拠  9月  天皇 皇后初の訪米】

昭和50年(1975年)。社内人事移動で整理部へ。浜松町にある東日印刷の工場に通うことになりました。国会の赤絨毯という華やかな場所ではなく、また学者・文化人と接触するのでもありません。新聞発刊の最終過程における重要だが地味な仕事をするのが整理部です。原稿を新聞に載せる上で誤りがないかどうかをチェックする校閲部と並んで、記事をどう配置するか、割り付けを考え、実際に活字を組み込む整理部は、サッカーにおけるゴールキーパーのようなものといえるかもしれません。

入社時の研修のくだりで触れたように、私は新聞を印刷するインクのにおいがとっても好きでした。加えて、決められた時間に向かって、必死になって単純な作業に汗を流すというのも妙にウマが合います。例えば子どものころにやったクレペリン検査なども好きだったのです。全ての工程を終えて、新聞の降版ギリギリの、あの緊張した瞬間。無事全て終えたあとの安堵感はなかなかのものでした。

新聞記者という職業に携わった中で、工場で過ごした時間は唯一と言っていいくらいの物作りの現場に立ち会った機会だったともいえます。貴重な経験でした。お世辞にも上手いとは言えなかった割り付けは、先輩の黒沢昭捷、立石清明さんらの電光石火の早業に見とれるばかり。結局はものにならないままでしたが‥‥。

この頃、仕事を終えた夜は、まっすぐ家に帰ることなく、ほぼ毎日、高等部活動や男子部活動に精を出していました。家族団欒の記憶はありません。高等部では、当時人材育成に集中的に取り組むため、藍青会(のちに御書研究会)というグループが結成されていました。一年目は東京、次の年は東北、そして更に翌年は北海道を私は担当し、月に一回、日蓮大聖人の御書講義をしながら、自分なりの激励に力を注いだものです。先生からお預かりした〝未来からの使者〟に精一杯接触することが大いなる喜びだったのです。

男女合わせてそれぞれ100人(東京)から30人(東北、北海道)のメンバー。その中から広宣流布に各地で汗を流す庶民のリーダーが次々と誕生しています。また、大新聞社の編集局長(東北)、衆議院議員(北海道)、大学教授、高級官僚、医師や弁護士(いずれも東京)など、各界で活躍する人材も。先生と彼や彼女らとの絆を強めるための補助線の役割を果たせたことは、私の青春の証であり密やかな誇りとなっています。

一方、男子部活動も、中野区北部・野方方面を主戦場として、真剣に熱心に取り組みました。野方地域は東北に哲学堂、南に新井薬師などといった名所旧跡を抱えた、下町と住宅街の混在したところです。当時、車の免許を取得してなかった私は、JRや西武線を乗り継いで歩いたり、後輩の運転する車で西に東に走りました。地方から出てきて、苦労しながら頑張る仲間たちを激励し続けました。

 

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時代を画した共産党との「憲法論争」(24)

これまで述べた経緯の後に突然、日本共産党が公明党に対して、「公明党への公開質問状」なるものを、一方的に提出してきました。昭和48年(1973年)12月17日のことです。25問からなるものでした。これに対して、公明党は、翌昭和49年(1974年)12月8日に、全てに回答。さらに、同年6月18日、7月4日に二つに分けたうえ、連続して日本共産党中央委員会に対して「公開質問状」(憲法三原理をめぐる日本共産党への公開質問状)として、70項目200余問を提出しました。しかし、これに対して共産党は正式回答を一切せず、ずーっと回答回避の状態を今に至るまで続けてきています。最初は喧嘩をふっかけてきていながら、あとは完全なる腰砕けです。[この辺りについては『日本共産党批判』(公明党機関紙局編)及び『公明党50年の歩み』(公明党史編纂委員会)に譲ります。]

この「公開質問状」の作成いっさいを陣頭指揮し、実際にペンを握って書きまくったのは市川雄一主幹と、辺見弘さんらごく少数の先輩だけでした。入社5年程度の私なんかにはもちろん出る幕はなく、固唾を飲むように遠巻きにして見ていただけです。この憲法をめぐる問題の共産党への公明党の指摘は、のちに、東西両ドイツの壁の崩壊、ソ連邦の瓦解などをもたらした社会・共産主義の破綻を見るにつけ、先鞭をつけたものとして燦然と輝いています。

市川主幹はのちに、あの一年ほどの壮絶な闘いを振り返って  、共産党の知的欺瞞と、目を覆うばかりの知的退廃ぶりに全く驚いたと語っていました。「当時、共産党みずからが、マルクスやレーニンの著作を引用して熱っぽく訴えていたマルクス・レーニン主義の原則や革命路線は、いまどういう位置付けになっているのかまったくわからない。本を絶版にしたからといって、本は消えてもそこに書かれた内容が消えたわけではあるまい。間違っていたから捨てたのか。まさかそうではあるまい」(「第三文明」04年9月号)とも。

一方、多くの識者が極めて印象深い感想を述べていましたので、代表的なものの一部を紹介します。(肩書きは当時のものです)

「(この質問状を読んで得た私の印象は)従来日本の政党でこれだけ詳細かつ論理的に日本共産党を批判した党があるだろうかというものであった。感情的な反共主義に走らず、相手の資料を豊富に用いて相手の論理的矛盾を鋭く追求するというのが論争の正道であるが、この質問状はまさしくこの論争ルールに忠実に従っている」ー志水速雄 東京外語大助教授

「自分のもっていないものを、いくら約束しても、権力の座についてたとき、これを人民に頒け与えることはできない。だからこの質問状の質問に対しても、肝心なことに答えず、反共とか自民党の手先とか得意の悪罵と一方的なレッテル張りとで応じる以外にはないにではなかろうか」ー作家・杉浦民平

「公明党は、まさしくこうした国民多数が抱いている疑問点を、国民に代わって公然と、かつ徹底的に明るみに出したのである。ここに公明党の、公党としての責任感が認められるのである」ー勝田吉太郎京都大学教授

このほか、佐藤昇氏(岐阜経済大教授)や安東仁兵衛氏(「現代の理論」編集長)ら社会主義の名だたる論客たちがこぞって、共産党の敗北ぶりと公明党の勝利を褒めそやしてくれていたことが脳裏に蘇ります。

他方、この年、昭和49年1月9日に慶大会総会が開かれていました。あの日から、6年ほどが経っていました。会場は民主音楽協会(当時は大久保にあった)でした。これには幅広い卒業生からなる「三色旗の会」も代表が合流して参加し、私も。池田先生はご長男の博正さんをお連れになって出席してくださいました。慶應義塾創設者としての福沢諭吉を心から尊敬していると言われたのが強く印象に残っています。

【昭和49年  3月ルパング島で小野田寛郎さん発見 8月 三菱重工ビル爆破事件  ニクソン辞任  フォード昇任  12月 田中首相辞任、三木武夫内閣へ】

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中道革新連合政権構想への共産党の攻撃(23)

「先日こんな体験を聞いたのよ」との明るい切りだし。参加者に優しい口調で信仰体験のすごさを語りかける柏原ヤスさん。本部幹部会などで、全国婦人部長だったこの人と、必ず話の中に自分の読んだ本について語り、そこから広布の展望を開くヒントを与えてくれた市川雄一さん。今では故人となってしまったこの二人の話に、とりわけ感動することが多かった。信仰体験と読書。高等部担当幹部時代に、この二つを車の両輪として自分を励まし、後輩たちをも激励したものです。

この頃、日本の政治は、自民党に変わりうる勢力を野党間でどう作るかという課題が、選挙協力などを巡って取り沙汰されてきていました。昭和39年(1964年)に結党され、昭和42年には衆議院に進出していた公明党は、社会、民社、共産党の野党三党それぞれと独自の関係を模索していました。そのうち、日本共産党は、各地の現場で、選挙のたびに公明党候補者のポスターへの嫌がらせから始まって、政策実績の横取りとか、様々な軋轢を公明党との間で起こしていました。

そうしたことを背景に、昭和48年(1973年)9月18日、19日に共産党の機関紙「赤旗」が公明党批判の論文を掲載しました。「公明党大会が残した『疑惑』ー問われるその革新性」というものです。ここでいう公明党大会とは、第11回党全国大会のこと。「中道革新連合政権構想の提言」というものをそこで決定していました。提言のポイントは、現日本国憲法の三原理(①国民主権主義②基本的人権の保障③恒久〔絶対〕平和主義)を将来にわたって、革新連合政権の基盤にすべきだというものでした。

さらに、共産党は「民主連合政府綱領についての日本共産党の提案」というものを出し、政権共闘の前提条件には、憲法問題などで先行きのことをいっさい国民に約束しないで、まずは政権につこうではないかと提案してきたのです。これはきわめておかしなことです。共産党は、本来の目標として、現憲法を変え、今のものとは根本的に違う国家機構、制度を作り、日本を「人民共和国」に変えるとの絶対的方針を決めており、党綱領上にも明記していたからです。

いつ、その憲法を改変するかは、民族民主統一戦線政府が軍隊、警察、裁判所、監獄などの国家暴力装置をはじめとする国家権力を実質的に握った時だとしていました。そこへ新たに提案してきた「民主連合政府」というものは、その憲法を改変する民族民主統一戦線政府の成立を「促進するため」の過渡的な政府とすると、明確に位置付けてきたのです。冗談じゃあありません。革新連合政権というものを一政党の都合で決められてはたまったものではないのです。

公明党は公明新聞紙上で、反論することになりました。10月1日、2日の両日付けで、「共産党は『政権共闘』で憲法問題を回避するな」とのタイトルのもと、共産党への批判を展開しました。憲法問題という国民の関心が一番強い問題で、先ゆきのことを約束しないまま、ともかく政権につくというはおかしいではないか、と。当時の公明新聞編集室は俄かに活気を帯び、慌ただしい雰囲気が漂ってきました。

 

 

 

 

 

 

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「中野兄弟会」で〝30年後の目標〟を決意 (22)

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降りしきる大雨の中での結婚式 (21)

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入社3年が経つまでは、結婚なんか… (20)

入社3年間は記者としての基本を身につけることに全力を集中せよー市川主幹の私たち新入社員への厳しい指導でした。そんな中で、とりわけ印象深かったのは、文章における「書き出しの研究」という話です。書き出しの特色として「最初から読者に興味をもたせること、全体がスラスラと効果的に書き出せる糸口であること、主題の方向を暗示していること」などを挙げて、文章の書き方の手ほどきをしてくれました。ご自身が28歳の時に『編集研究』なる小冊子に書かれた以下の文章が、見事な実例です。

ーロシアの文豪・トルストイも「アンナ・カレニナ」の書き出しには、まったく手を焼いていた。こんな逸話がある。彼が書き出しに苦しんでいたころ、彼の育ての親ともいうべき大おばが死の床についた。(中略)  かくて「アンナ・カレニナ」の書き出しの一句ーオブロンスキイの家庭は何もかもがめちゃくちゃであったーが決まった。

グイグイ惹きつけられる書き出しです。この文章の副題には、「会社の受け付けが〝企業の顔〟なら 書き出しは〝文章の顔〟といえる」とあります。早稲田大学を出た後、日経広告社を経て、聖教新聞社に転職。29歳で公明新聞の編集長に抜擢されるまでのわずかな期間に、文字通り刻苦勉励の限りを尽くしての到達域です。また、それから3年後には『週刊言論』誌上に[言論講座]なる連載を書いています。「やさしい文章教室」とのタイトルで5回にわたって。①書くことによって読書と思索が完成②借りものの文章と自分の文章③模倣から自分の文章へ④主題の決定から構想を練るまで⑤文章はしめくくりが大切ー激務のさなかに書き残された大いなる遺産です。

「入社3年」といえば、もう一つの忘れられない市川語録は、「入社3年は結婚するな」です。言われずとも、相手もいないし、当時、結婚は考えていませんでした。だいたいからして、給料が初任給26000円。帝人に就職した親友の志村 勝之など、ほぼ50000円とのことでしたから、倍です。これでは私の方は、したくても出来ません。遠い昔に初恋の人がいましたが、高校卒業の時点で夢は破れていました。その後は人並みに好きになった人は何人かいて、それなりに付き合ったのですが、何しろ肺結核を病みましたので、それどころではなくなり、付き合うのはやめました。女性と別れるのは、会わなければ自然消滅する、とのどこかから仕入れた鉄則を遵守したのです。

そこへ、社会人になって職場の最高責任者から事あるごとに、3年間はお預けと言われると、従わざるを得ません。何事もないまま、2年が経ち、やがて3年という頃になりました。ある時、聖教新聞外報部の先輩・外川進さんから声をかけられました。この人は東京外語大出身のクレバーな人で、国会の中で仕事で一緒になる機会が幾度かあったのです。「君、付き合ってる人はいる?」「いいえ、今は特に」「そうか、じゃあ、いい娘がいるから一度紹介するよ」となりました。胸騒ぎがしました。物事はタイミングです。大先輩の〝お達し〟を守った頃合いの時に、良き先輩からの声がかり。約束の日が待ち遠しかったのはいうまでもありません。

港区青山一丁目の交差点の角にあるビルの二階。指定された喫茶店で待っているところに、先輩に連れられて入ってきて、前の椅子に座った女性を一目見て、もう本当に驚きました。大袈裟に言えば驚天動地とはこのことです。

【昭和47年1月 ⚫︎日米繊維協定  ⚫︎グアム島で元日本兵 横井庄一さん発見  2月 ⚫︎米ニクソン大統領訪中 ⚫︎連合赤軍  浅間山荘事件 5月 沖縄の日本復帰  7月  佐藤栄作内閣から田中角栄内閣へ 9月 田中首相訪中 日中共同声明(国交正常化)】

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日中国交回復前夜に公園で徹夜で議論 (19)

【昭和46年  4月  大阪府で革新系知事誕生。8月 米、ドルと金の交換停止(各国、変動相場制へ)  9月 天皇と皇后、初の訪欧。10月 国連総会、中国招請、台湾追放案可決。12月 10カ国蔵相会議で円の大幅切り上げ  1ドル308円に】

昭和46年(1971年)は日本と中国の間における国交回復を願う空気が大きく高まってきていました。私は大学時代に中嶋嶺雄、永井陽之助両講師から現代中国論や現代政治学の講義を受ける一方、池田先生の昭和43年(1968年)における学生部総会での「中国問題」をめぐる講演を聞いて、中国や米国への関心を強く持つに至っていました。国際政治の動向について解説する本を片っ端から読み漁り、国会における外交・安保論戦にも注目する日々が続いていたのです。

そんななか、公明党の訪中団が中国に行き、周恩来総理と日中関係で議論を重ねる場面がありました。野党外交の先駆的展開として注目を集めましたが、団員の一人として参加された市川雄一主幹から直接、「訪問談」を聞く機会がありました。夏のある夜のこと。党本部から少し東に離れたところに公園があったのですが、そこに市川主幹と私と新田健吉さんの3人で行きました。初めて訪れた中国という国について、市川さんはあれこれ語ってくれたのです。

中国文化大革命を礼賛する気運が強かった当時の日本で、批判の論陣をほぼ一人で張っておられた中嶋嶺雄先生の影響をモロに受けていた私は、生意気にも「対中懐疑論」とでもいうべきものを受け売りしてしまいました。市川さんはそれはそれで聴いてくれながらも、あらゆる意味で〝大きい中国〟をつぶさに丁寧に描いて見せてくれました。今となっては、その中身の詳細は忘却の彼方ですが、飲まず食わずで立ったままの3人での会話。公園の電灯の明かりのもとでのシルエットがくっきりと浮き上がってきます。気がついたら白々と夜が明けようとしていました。20代の若者の書生論にトコトン付き合ってくれた大先輩の熱い思いが蘇ってきます。この時を契機に私は市川さんを一段と尊敬するようになりました。

その後、政治部から日曜版編集部に移動しました。文化欄を担当し、学者・文化人に原稿を依頼する機会が増えました。「公明党の機関紙?そんなところに書かないよ」とのっけから断られたり、頼んだ原稿を取りに伺うと、「ん?公明新聞?神戸新聞かと思っていた」と、某大学教授の〝恐るべき反応〟に驚愕したことも。勿論快く引き受けてくれた人が大半ですが、誰にどういうテーマで書いてもらうか、で散々悩みました。画家に絵でなく、文章を書いて貰う連続企画は成功談のケースです。失敗談では、頂いた原稿を紛失するという恥ずべきこともやってしまいました。現在の電子化の時代では考えられないことですが、その時ばかりは身も心も凍えました。

 

 

 

 

 

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