【21】辿り着いた地もまた地獄━━スタインベック原作、フォード監督の『怒りの葡萄』を観て/1-23

1940年上映の『怒りの葡萄』は、ジョン・スタインベックの同名の小説が映画化(ジョン・フォード監督)されたものである。1930年代の経済恐慌が背景に、干ばつも加わり、農家は農地の拡大を目指す大きな資本に飲み込まれる。失業の嵐の中、職を求め、生活再建を目指して、故郷オクラホマから新天地カリフォルニアに向けて家族全員が家具一切を大きなボロ車に乗せて移動する物語である。そして勿論、その流れは一家族だけでなく集団の動きであった。向かった先には素晴らしい新土地は待っていず、結局は搾取されるだけの失望の地でしかなかった。人々の希望は潰されて、怒りが胸中に渦巻く。その地には、生きる糧は全くなかった。聖書の流れを汲むこの映画のタイトルはそれらを象徴したものだ。80年も前の映画ではあるが、この世における社会と人間の関係、自由と拘束、家族の絆と生き方、男と女といった重要なテーマが満載されていて、極めて重要な問題提起をしてくれている。とくに私は性の違いの持つ深い意味に改めて気付かされた。実に味わい深い秀作だ◆「ロードムービー」と言われる一連の作品がある。米大陸を車で横断する過程における様々な物語を描く。それは同時にストーリーの展開の中で、通り過ぎる街々が重要な役割を果たす。『イージーライダー』『俺たちに明日はない』『真夜中のカーボーイ』などを始め、この半世紀以上の映画史の中で枚挙にいとまがないほど。その先駆を行くものがこれだ。この映画の主人公のひとりを演じるヘンリー・フォンダは後に大成するが、この映画では初々しい青年だ。1930年代が描かれた時代と道を親父ヘンリーが、1960年代を描いた舞台とロードを息子ピーター・フォンダが共に駆け抜けたというのも面白い対比ではある。前者は経済恐慌で失業に抗う労働者の姿、後者はコカインの密売に関わる反体制の若者たちという風に、時代背景も担い手も違う。『怒りの葡萄』での旅立ちの場面は、大型トラクターが家を押し潰す衝撃的シーンから始まり、筆舌を尽くせぬ苦労を経て漸く到達したカリフォルニアの風景も内実も、想像していたものとは全く違う◆現在只今の日本にあっては大地が割れ、家屋が押し潰され、集落が孤立するとの能登半島大地震の襲来による悲劇が、この映画と重なる。また戦争で難民と化した人々のウクライナやパレスチナのガザ地区での悲劇を即思わせる。食べるものがなく、寝る場所にも事欠く映像は、全く今の世界と二重写しなのだ。故郷を去るのを嫌がった老父母が旅の始めと終わりに相次ぎ倒れ死に、身籠った妻を見捨てて若い男は姿を消し、やがてお腹の子は流産する運命に。胸詰まらせ心痛ませる場面の連続だが、心優しい人の子どもへの配慮の場面も挿入される。とりわけ、住民自身の自治で固めたキャンプに行き着いたところでは、まさに地獄に仏といった様相だった。が、それも束の間のこと。やがて追い払われる羽目に。途中自警団的動きとトラブって人を殺めたり、週末のダンスという楽しい企画も暗転する危機に遭遇したり、ハラハラどきどきの連続で手に汗握る◆そんな映画はハッピーエンドでは終わらない。ラストシーンの車中での母の強さ漲るセリフが胸を撃つ。一家の長が夫ではないことは映画の展開でも明白であるが、当の本人が「お前が家族を引っ張ってくれ。ワシはもうだめだ」と心情を吐露した後の、母親役のジェーン・ダウエルのセリフが際立って印象深い。彼女はアカデミー助演女優賞にこの映画で輝いたが、その大黒柱そのものの存在感たるや、堂々たる体つきや目つき顔つきだけではない。「女は男より変わり身が上手だ。男はものごとにすぐとらわれる。人の生死、農場の事、何にでもすぐとらわれる。逆に、女は川のように、流れている。滝もあれば、渦もある。けど、流れが止まったりしない。それが女なんだ」──ここは痺れた。私の50年余連れ添った家人も「いちいち身の回りに起こる出来事に一喜一憂しない。起きたことは仕方ない。色々あっても気にしない」と言う風な物言いを決まってする。その都度どうも腹がすわっているのは、俺よりこいつ(男より女)だなあと思ってきた。それを実感させられたラストシーンだった。この場面は小説の終わり方と全く違っている。映画のリアルなインパクトに杯を上げたい。(24-1-23)

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