【22】西部劇の真骨頂に痺れる一方で懸念も━━フォード監督『駅馬車』を観て/2-2

 アパッチ族の襲撃を受けて危機一髪という場面で、遠くから聞こえてくる騎兵隊のラッパ。お決まりの西部劇のシーンだが、私もかつて子どもの頃に何度も興奮して胸ときめかしたものだ。映画『駅馬車』(1939年製作)はその典型に違いない。ジョン・フォードが監督で、ジョン・ウエインが登場する。その古典的名作を改めて観た。そこで幾つかの記憶違いというか、我が幼稚さゆえに見落としていたことから、新たな気づきに出会った◆一つは、主演はジョン・ウエインではなく、女優のクレア・トレヴァーであったこと。確かに映画のポスターを見ても、トップに出てくるのはジョン・ウエインではない。当時のふたりは格違いだった。正確には彼はこの映画でスターの座を獲得して、以後ジョン・フォード監督のもとで活躍したというべきなのだろう。この映画でも登場するのは、ぐっとあと。駅馬車に乗り合わす7人の客(ほかに御者と保安官)の最後である。乗客の中心は、出発の場所アリゾナ州トントを追い出され、ニューメキシコ州ローズバーグへ向かう男女2人(1人が主演の娼婦役。もう1人が酔っ払いの医者)。あとは、若い貴婦人、小心者の酒商人、曰く付きの銀行家、賭博師といった怪しげな面々。そこへ途中で乗り込むお尋ね者の銃の使い手であるリンゴ・キッドというのがジョン・ウエインの役回り◆この道中での人間模様が描かれていくのだが、映画の流れは専ら、いつ、ジェロニモが襲って来るのかにあり、それをリンゴが無事に追い払うことができ、到着地にいる3人の悪漢兄弟をうち倒すかにあった。町を追い出された2人の背景に女性の民権運動と禁酒法があるなどということは預かり知らず、映画の冒頭場面でこれらの動きが挿入されていても、子どもの頃には気づかなかった。一方、この映画を観ていて昔は気付かなかったが、時代の流れの中で、気付くのが、先住民への配慮が全くないこと。容赦なく殺されるだけの襲撃場面を観て、いささか哀れを感じざるを得なかった。手に汗握って観終えて、やがて悲しきインディアンというわけなのだが、そこは仕方なかろう。加えて、悪漢たちとの1対3の決闘シーンもあまりにあっけない。もうひと工夫有れば(例えば『第三者が介入した『リバティ・バランスを射った男』のように)と思わないでもない。決闘シーンは銃の音だけというのはいかにも寂しい。などと思うのは、無い物ねだりと言うべきか。この映画のいかにもハリウッド風のハッピーエンドを観て、昔はほっとして、今は物足りなく思うのは、年を重ねたせいかどうか◆ジョン・フォードはアカデミー賞を4つ取っているが(①男の敵②怒りの葡萄③我が谷は緑なりき④静かなる男)、西部劇ではなぜかゼロ。この監督は、かつて、マッカーシズム(赤狩り)が全米を吹き荒れた時に、共産主義的立場を肯定も否定もせず、当時合い争った両者をともに庇ったことで知られる。そして、映画人が集った場において、自身のことを「私はジョン・フォードです。西部劇を撮ります」と単純明快に述べたことでも知られている。政治的立場に固執せず、気取らず素朴に映画を愛し抜いた人だったと言えるのだろう。『市民ケーン』や『第三の男』で有名なオーソン・ウエルズは、『駅馬車』を40回以上も観て映画作りに役立てたことを公言して憚らなかった。それだけ、映画の基本が満載されているということだと思われる。(2024-2-2)

 

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