【50】大学卒業から50年、「平成」終わるー平成31年(2019年)❹/9-12

●50年前の卒業時を思い起こすイベント

慶應義塾大学は、卒業してから50年が経つ者を、その年の新入生の入学式典に招待をするという伝統があります。孫の世代にもあたろうかという若者のフレッシュな息吹に触れさせようとの粋な計らいです。いつ頃から始まったのか存じませんが、とうとう順番が回ってきました。昭和40年に私たちが入学した時に、仮に50年前の先輩たちが参列してくれていたら、大正6年ぐらいの卒業のメンバーでしょうか。明治30年前後に生まれた人たちということになります。

そんなことを考えながら4月2日に、建築工事中だった「日吉記念館」のそばにある会場の校舎に向かいました。竣工にはあと一年かかるとのこと。50年前に別れた人に会いにきたのにお預けをくったようで、残念な思いは否めませんでした。この時の式典では、長谷山彰塾長(当時)の演説も聞きごたえがありましたが、我々「108年三田会」の代表・麻生泰君(麻生セメント会長)の挨拶が冴えていました。彼はいきなり、「新入社員の皆さーん」と切り出したのです。これには場内大爆笑。新入生を前にわざと間違ったフリでしょうが、いいノリで、一気に場内は和みました。更に、英語に加えもうひとつの外国語を学ぶ必要やら、いい友を持つことの大事さへと繋いでいきました。OB席からは「兄貴(太郎)より、弟の方がいいね」とか、「やっぱり似てるなあ」といった声が聞こえてきました。

50年を超えての「式典参加」の試みは、翌年(2020年)から新型コロナ禍の影響で、2年連続で自粛されてしまっています。日吉記念館も2020年3月に竣工したものの、大きなイベントには使えない事態が続いているようです。私たちの年次の開催は、ぎりぎりセーフだったのです。ラッキーなことというほかなく、胸撫で下ろしました。

●『熊森協会』と『奥山保全トラスト』への支援

毎年4月末のゴールデンウィークがスタートする頃、私が顧問を務める一般財団法人『日本熊森協会』の定例総会がありました。平成の最後の年になるこの年は、尼崎市内のホテルで4月27日に盛大に開かれました。この少し前に、国会では「森林環境税法」の審議が注目を浴び、私も側面から色々と応援をしました。その結果として、同協会の要望が付帯決議に盛り込まれ、関係者からは大層喜ばれたのです。総会での挨拶の中で、これまでの経緯を含め、私自身の思いを心込めて語りました。

実はこの辺りの戦いの経緯を世に知らせ、同協会及び姉妹団体である公益財団法人『奥山保全トラスト』への関心を持ってもらおうと、私は新聞への寄稿を考えました。まず毎日新聞に狙いを定め、動きました。その結果、同紙5月2日付9面に「放置人工林の天然林化を」との文章が掲載されたのです。これまでの取り組みを中心に、森林保全に向けての一般国民の強い関心の喚起が必要であることを精一杯強調しました。勇退後、あれこれと取り組んできましたが、結局は自然保護のためのこの活動と、安保政策研究会のリポート誌への執筆が一番自分に合っているもののように思えます。

●平成から令和へ、コロナ禍前の静けさ

平成は、この年の4月末日で終わりを告げ、5月から新たに「令和」の時代が始まりました。平成天皇は30日の「退位礼正殿の儀」で、国民への感謝の意を述べられ、皇太子へ皇位継承がなされました。昭和から平成への交代の際には、時の官房長官・小渕恵三氏が年号公表役を果たしましたが、今度は菅義偉氏(現首相)です。

4月1日に発表になってから、1ヶ月の間、年号「令和」の決定への経緯が取り沙汰されました。最終的に万葉集学者の中西進先生が名付け親と分かり、私たちは本当に誇らしい思いを持ちました。言うまでもなく、一般社団法人「瀬戸内海島めぐり協会」の代表で、陰に陽にお世話になった人です。「令和」に、「うるわしき和の精神を世界に広めていく」との意を込めたと、ある新聞のインタビューに応えて語っておられました。

中西先生とご縁をいただき、お付き合いさせていただいた、この7年。改めて感謝の思いでいっぱいです。天皇交代に伴う一連の行事が12月末で無事に全て終わりました。そして、新型コロナ禍に伴うパンデミックの発生という令和2年(2020年)が始まるのです。(完)

追記 これで平成24年(2012年)末に衆議院議員を引退した後の7年間の回顧録を終えます。ご愛読ありがとうございました。(2021-9-12)

 

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【49】姫路、明石市長選に取り組むも〝連敗〟ー平成31年(2019年)❸/9-7

●美波町での国際色豊かな活動に参加

瀬戸内海島めぐり協会の運営が難航しているのをよそに、〝地域おこし〟に関わる私の行為は気まぐれ的要素を持ちつつ前向きに続いていました。そのうち、徳島商と美波町を結ぶ仕事は「観光人材の育成」と「地域おこし」の双方を賄うケースとして注目されます。

春の訪れが本格的に感じられる3月25日のこと。前年12月初めに続き徳島入りして、美波町に行きました。この時は、神戸山手大の山下沙矢佳講師(現・武庫川女子大)の率いるゼミ生たち8人ほども合流して、同町の山あいにある地域を訪問したのです。このひとは兵庫県立大の教授だった故佐竹隆幸先生(前関学大経営戦略研究科長)の門下で、中小企業研究の専門家。観光にまつわるマーケティングなども手がける気鋭の学者です。この日は、ベトナムからの留学生4人も一緒でした。国際色豊かでユニークな課外講座を見る機会に。徳島商の生徒たちも合流して阿波踊りを即席で披露し、おまけに指南までしてくれました。参加者は大喜び。楽しいひとときへと大いに盛り上がりました。

●自治会報も活用、姫路市長選挙に入れ込む

この4月は統一地方選挙が行われたのですが、兵庫県では私の住む姫路市と娘家族が住む明石市とで市長選挙もありました。共に大きな話題を含む激突型選挙になったのです。姫路市は、私が衆議院総務委員長をしていたころ、同省消防庁防災課長で、後に同市副市長になった飯島義雄氏が、この選挙で現職市長の引退を受けて出馬しました。出馬に至る経緯は少々複雑なものがありました。市組織内部での評判も割れ、石見市長(当時)も厳しい見立てに終始。遡ること4年前の前回選では、「後継の人材育たず」との理由で、彼に禅譲するどころか、突き放した末に、ご本人が出る始末。そして、今回は、元県議の息子で、医師の資格を持つ清元秀康氏を後継に選び、保守陣営が二分される戦いになりました。

私は偶々彼が城西小学校の後輩であり、井戸知事の東大、自治省の後輩であるとの単純な世俗的理由に加え、尊敬する石川病院院長の石川誠先生(県の民間病院協会会長)が後援会長という浮世の義理もあって、応援する羽目になりました。公明党は自主投票と思いきや、かなり積極的に相手方支援に回るという面倒なことになってしまったのです。

●明石市長選挙では娘夫婦の反発にあう

地域では自治会長を既に退いていましたが、候補者が我が自治会地域内出身で、彼の母親が元城西小学校の教員だったこともあり、「義を見てせざるは勇無きなり」とばかりに、結構前のめりになりました。私が編集長も兼ねていた自治会ニュースに写真付きで同候補のインタビュー記事や市政に挑む方針を連載するなど、かなり入れ込んだのです。結果は、敢えなく惨敗。後味の悪いことになってしまいました。首長選挙は昔も今も下手に関わると危険と知りながらも、この体たらく。大いに反省しましたが、後の祭りでした。

一方、明石市長選挙は、全国にパワーハラスメントの当事者として浮名を流した泉房穂市長が一旦やめた上で、再登場する離れ業をやってのけました。ここでも、県議の座を蹴って出た対立候補の元市長を応援する側にまわってしまいました。この時は、娘夫婦の「子育て世代にとって、子どもを大事にする市長の方が大事」との反発にあい、敢えなく撃沈させられる始末。この年春の選挙は連続で散々な目にあってしまいました。(2021-9-7)

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【48】やはり淡路島DMO構想は幻にー平成31年(2019年)❷/9-3

●兵庫県知事との調整折り合わず

瀬戸内島めぐり協会はスタートから5年目に入っていましたが、新年になって台湾行きを実現させたものの、もはや挫折が歴然としてきました。専務理事としての私の能力不足が災いしたと言う他ありません。元々資金ゼロで、親会社であるジェノバラインに〝おんぶに抱っこ〟という台所事情でしたから、当然と言えば当然の帰結です。DMO法人になれば、公的資金も導入可能になる、との虫の良い考え方が支配的でしたから、尚更です。

観光人材を育成する仕組みを淡路島を拠点にして作り上げようとの構想が、この1〜2年に強まり、兵庫県との間で調整を進めてきたつもりでした。しかし、最終的に井戸知事の考え方と折り合いがつかず、私的には投げ出したい思いが強まっていきました。とはいうものの、現実的には地方創生交付金も頂く流れが進んでいたので、進むも地獄、引き返すもならずの膠着状態が続いていきました。結局は、新型コロナの直撃を観光業界も受け、私たちの試みも内外併せての不都合で沈没する始末になるのですが、その結末はもう少し先のことになります。

●胸打った大沼保昭さんの偲ぶ会

大沼保昭さん(東大名誉教授)が亡くなったとの連絡が舞い込んできたのは前年の10月18日のことでしたが、偲ぶ会が2月21日に東京神田の如水会館で行われることになり、私も参列しました。長年の学者としての風格もおありで、私より相当歳上に見えたのですが、実際には同い年。ということもあって、晩年は親しくさせていただきました。特に、娘さんの瑞穂さんが参議院選挙に挑戦することになってからは、失礼ながらいわゆる〝親バカ〟を地でいかれ、何かと私にもアドバイスを求めてこられたのです。市川さんと力合わせて、それなりに陰の応援をさせていただいたのも懐かしい思い出です。

偲ぶ会の段取りも生前に全て本人が企画されたとかで、凝りにこった内容でした。安藤忠雄、橋本五郎、渡辺浩氏ら弔辞を読むメンバーの選定から、中身に至るまで口を挟まれた(橋本氏の弁)というから驚きでした。清美夫人のご挨拶がまた感動を誘うものでした。「大沼は、『自分の人生思い残すことはない。これも自分を支えてくれたみんなのおかげ。幸せな人生だった』と心から感謝しておりました」「長きにわたり完璧主義でなんとも我儘な大沼とお付き合いいただいたこと心から御礼申し上げます」と。自分もこういう風でありたいと、心に誓ったものです。

●元米海兵隊員との論争が遂に決着へ

元米沖縄海兵隊の中心の一人だったロバート・エルドリッジ氏と、「異業種交流会」で偶然再会したのは驚きでした。いらい、この場で、棚上げになっていた〝日米防衛論争〟を繰り返してきたのです。二人の間の溝は煎じ詰めると、「日米地位協定の改定の是非」に帰着するのですが、それぞれの立場が絡み、ぶつかってきました。私の持論は、日本がホスト国として、ゲスト国の米国にいわゆる〝思いやり予算〟など便宜を図っているのだから、もっとマナーを守れというもの。一方、エルドリッジ氏は、沖縄のジャーナリズムは、イデオロギーに支配されすぎだとの考えに強く支配されているように見えました。

この二人、2月22日の同定例会で、またしても激論を交わしました。ところがこの時は少々趣きが違っていたのです。彼が、沖縄は米国のやることなすことに対して、全く、ノーばかり、これでは、「NOKINAWA」ではないか、といいました。これに対して、私は、米国だって、沖縄に対しては似たようなもの、これでは、「ダメリカ(ダメアメリカの略)」だとやり返したのです。この〝駄洒落の応酬〟は大いなる和みをもたらしました。

それから暫く経って、彼が、米軍兵士の乱暴によって傷ついた女性たちを救うために影で奔走していることを知りました。何のことはない。彼は個人としての善行を隠して、建前として自国擁護にこだわっていたのです。さすが大和撫子を妻に持つ〝洋風さむらい〟だと分かり、すっかり打ち解けた関係になりました。(2021-9-3)

 

 

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【47】観光客誘致に向けて台湾に飛ぶー平成31年(2019年)❶/8-31

●相手の観光ニーズ探る新しい手法

新しい年・平成31年が明けました。(一社)瀬戸内海島めぐり協会も発足以来5年目。なんとかDMO法人たらんと、実績積み上げに躍起となってきました。兵庫県観光局の支援を得て地域創生交付金を支給されることもでき、インバウンド客誘致に向けて東南アジア各国に飛ぶことにし、まず台湾をめざすことになりました。ジェノバラインの観光事業部のメンバーと、勝瀬典雄さんとの激論の末に、現地でニーズを探り、台湾人の望む訪日プランを考えさせるとの新たな手法に着手することにしたのです。

1月21日から三泊四日の日程で私と勝瀬氏を含む3人でチームを組み、台湾の観光業者を11社ほどを訪問しました。日本への呼び込みをする商談は私にとって初体験の連続で、戸惑うことばかり。観光事業の専門家兼通訳の福井智氏の卓越した能力に助けられ、なんとか仕事はこなせましたが、正直言って前途多難は否めないと言うのが実感でした。

●日台双方の旧友との懐かしい出会い

他方、この旅では、観光誘致の仕事もさることながら、私は他に三つの目的も持っていました。一つは、台湾総督府の幹部と会うことです。台湾にはアジア・オープンフォーラムの一員として、中嶋嶺雄先生と一緒に台北、台中、高雄と訪れたことがあり、その際に、許世楷さんとご縁が出来ていたのです。後に彼が駐日事務所代表(台湾の大使に相当)になられた時に、姫路城から夢前町へとご案内しました。天守閣までの狭い階段の昇り降りに、とても苦労をおかけしたこと覚えています。この時に同行されていた秘書官の陳銘俊さんが、その後栄進され、台湾民進党政権の中枢を占めておられます。訪台の際には是非、総督府へとお招きを頂いていたのです。

李登輝総統が健在だった頃に、ここには一度入ったことがありますが、今回はまた違った味わいがありました。久闊を叙するいとまももどかしく、日台双方の懸案、課題をあれこれと話題にしました。蒋介石総統の胸像が安置された場所の下に位置する階段で、記念撮影が出来ました。これには同行の勝瀬さんも、とても喜んでくれました。

二つは、この地の毎日新聞支局長として赴任している福岡雅哉記者に会うことでした。彼とは、番記者時代からの繋がりです。香港と台北をカバーする極めて大事なポジションにいるだけに、現地でホットな情報に接することがとても楽しみでした。案の定、重要な視点を様々に伝授してくれました。

●台湾大使から観光の教えを受ける

三つ目が、台北事務所長である沼田幹夫大使に会うことでした。明治維新の志士を思わせる気骨漲る外交官で、様々な啓発を受けることが出来ました。この時は、日台両国の観光をめぐる話題が中心で、台湾の富裕層が日本を訪れるにあたって、ガイドを自前で連れて行くとのこと。現地の日本人ガイドでは飽き足らぬものを、提供してくれるというのです。なるほどと感心すると同時に、優秀な観光ガイド育成の重要性を痛感しました。

中国が観光を台湾との経済コントロールに使っているとの話も意味深長なものがありましたが、日本からの台湾への観光客が低減していること、日本の政治家に台湾軽視が見受けられることなどへの不満めいたものを洩らされたことは、気掛かりでした。(2021-8-31)

 

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【46】地域おこしで美波町から吉野町へー平成30年(2018年)❼/8-29

●観光庁との打ち合わせ後、徳島へ

 11月30日に上京する機会を作り、観光庁の地域振興課長らと、観光人材育成に向けての実務者協議を行いました。当方からの参加者は、地域おこしのプロ・勝瀬典雄さんと、鈴鹿剛(徳島商)、大日向樹(岩倉高)という実業高校での「観光人材育成」に取り組む二人の教師です。この協議で驚いたのは、徳島商の校内模擬会社COM COMのメンバー二人(女子高生)が、カンボジアとの交流活動の一端をプレゼンとして披露してくれたこと。それによると、この模擬会社は、カンボジア・日本友好学園と連携協定を結び、椰子砂糖の商品開発やカッシュナッツの加工輸入化などに取り組んでいるといいます。業務的には、NPO法人・雪花菜工房(東丸慎太郎代表=同商OB)が介在して進めているのですが、高校生たちも現地に飛び、それなりの役割を果たしているというのです。

 翌日は、空路、徳島に移動。地域おこしの対象にしている美波町に入りました。途中、「地域活性化伝道師」の異名を持つ榎田竜路(アースボイス代表・北京電影学院客員教授)や、北海道士幌高校の教頭らと合流。現地で、森林の中での遊びの空間やログハウス作りのモデル地を見学しました。ここでは美波地域活性化協議会の鈴木健宏代表らが対応してくれました。この日はまさに同地域へのアプローチの集大成場面となり、大いに満足出来る結果となりました。

 実はこの日、奈良県の吉野高の教諭と生徒も徳島に来ており、夜は合流して意見交換をすることになったのです。生徒は生徒同士、大人は大人同士でしたが、個性豊かでパワー漲る吉野高の教師たち4人に感銘を受けました。

●徳島商と吉野高の交流を見る

 翌朝は、吉野高生たちと共に徳島商に足を運び、高校生たちの課外授業風景を見学しました。腹式呼吸の実践に始まり、発声練習や、プレゼンの具体的展開など実に見事な活動ぶりには目を見張るばかりでした。私は、別れ際に、高校生たちがカンボジアとの交流に取り組むことの重要性に言及。かつて、かの国が内戦で疲弊しきっていた時に、日本がPKO(国連平和維持活動)に初めて手を染め、応援した経緯を述べ、激励としました。

 あれから、ほぼ30年が経った今、日本の高校生たちが国境を越えた地域おこし活動に手を差し伸べることは大いに意義深いと。地域活性化、観光振興に向けて、高校生たちが積極的に汗を流す姿は極めて頼もしく、もっと世間に宣揚されるべきだと思ったものです。

●吉野高校にも足運ぶ

 一転、今度は12月18日に奈良県吉野町に行きました。榎田竜路さんの吉野高校生たちへの指導の現場を見せて貰うためです。吉野町はいうまでもなく木材の町であり、中世の雰囲気を今に湛える歴史感溢れる町です。そうした個性豊かな地域をどう世に知らせるか、榎田さんお得意の〝映像による見せ方〟の訓練の実地風景を見学させて貰いました。

 この訪問には、旧知の地元紙の記者であった女性(奈良県在住)にも同行して貰いました。この人はかつて、流通科学大学准教授だったZ氏の教え子。同氏が衆議院選に出た時に秘書兼事務員兼運動員として八面六臂の活躍をしたのを、私はつぶさに見ました。ただものでない彼女のパワーに感動、折角の機会だからと思い、榎田氏に引き合わせることにしたのです。こうした有能な若者と、才能溢れる有為の指導者との出会いの場を積極的に作ることも、私の大いなる喜びです。(2021-8-29)

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【45】偲ぶ会での番記者たちに万感の思いー平成30年(2018年)❻/8-26

●市川さんを偲ぶ番記者たちの集い

 市川雄一元公明党書記長が亡くなられてほぼ一年が近づく頃、誰からともなく、偲ぶ会をしようとの声が上がりました。当然です。あれだけ一世風靡した政治家が、引退後とはいえ、お葬式も何もないというのはあまりに切ないからです。親しい番記者を中心に、各社の先輩筋にも声をかけて、しっかりした会をしようと企画しました。

11月2日に都内のささやかな会場で、20人足らずの新聞記者たちが集まりました。市川さんが出席されたら喜ばれる集いに、との思いで私はいっぱいでした。ご本人を偲ぶ懐古談では、政治改革への凄まじいまでの執念、PKO(国連平和維持活動)への情熱、共産党との徹底した論争、党の安保政策の一大転換などでの立ち居振る舞いぶりなどが次々に披露されました。市川さんのお陰で、培うことが出来た〝記者人脈総集編〟の赴きがあり、私としては、万感胸に迫って胸も頭もいっぱいでした。

市川さんが自ら生前にまとめられた私家版『市川雄一の軌跡』なる「論文・インタビュー集」(2013年1月25日発刊)があります。私は今も座右に置いて、事あるごとに開いています。この集いのあと、ほとぼりさめやらぬ頃にも紐解きました。その時、紙背から「相変わらず好きなことをやってるなぁ。足下に気をつけろよ」との声が聞こえてきた気がしました。思わず、「みんな会いたがってましたよ、よく集めてくれたなあって、褒めてくださいよ」とつぶやきそうになりました。

●大光会全国県代表者会で、参院選への決意を披歴

 翌日11月3日は、公明党の元議員たちで構成される大光会の県代表者会が、党本部で行われました。翌年(2019年)夏の参議院選挙に向けて、必勝を期す会でした。全国屈指の激戦区兵庫選挙区を代表して、私が選挙情勢を述べた上で、自らの戦いを披歴しました。引退後、自治会長として青年部結成やら地域新聞の発行などに取り組んでいること、「異業種交流ワインを飲む会」を毎月開き、そこに毎回新たな友人を参加させて、合計300人ほどにもなることなどです。多くの仲間たちから称賛を受けました。

 大光会の全国代表は、神崎武法元党代表。最高顧問が黒柳明元党副代表です。お二人ともかねて尊敬する大先輩であり、党の大功労者です。黒柳さんは、ひとまわりも歳の差があるはずですが、神崎さんを立てられる姿は極めて印象的です。国会での勇猛果敢かつド派手な質問ぶり、時局講演会での天衣無縫な演説ぶりなど、本当に豪快そのものの人でしたが、今も「老将未だ健在なり」と、いつも勇気と強気をいただいています。

●甥っ子たちの集い「おいとこ会」を開く

私には子どもはひとり、娘だけ、残念ながら息子がいません。ただ、姉弟の子どもたちのうち、男の子つまり甥っ子が東京に3人います。この3人(それぞれは、いとこ同士)をいつの頃からか、年末に上京した際に集めて、懇親会をすることにしました。名付けて、「おいとこ会」。それぞれの名前から一字づつとると、「い・と・こ」になり、私の「お」を載せたのです。この発想は、中国の周恩来元首相にあやかったものです。彼は自分に子どもがいなかったので、甥や姪を大事にして、自分の子ども同様に接したということをあるテレビ番組から知るに至りました。それを真似たわけです。

姪っ子もいるので、その会もやりたくて、名前まで「みけの会」と用意しています。二人の姪と私の娘の名前が3人とも「み」で始まり、家内が「け」で始まるからです。残念ながら、皆子育てに忙しく、とても乗ってこないのは残念なことです。(2021-8-26)

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【44】佐竹関学大教授との熱い交流ー平成30年(2018年)❺/8-23

●兵庫県大の教え子たちとの楽しい語らい

 2016年に兵庫県立大から関学大に移っていた佐竹隆幸教授から、姫路で自分とゆかりのあるみなさんと懇談会をやるので、参加しませんかとのお誘いを受けました。6月5日、姫路西二階町の蕎麦屋が会場です。元たつの市長(落選中=元兵庫県議)を始め、姫路界隈の地場産業の経営者たち5人ほどが集結されていました。激務の企業経営に取り組みながら、県立大で学問に取り組んできたメンバーです。本人たちの向学の精神の旺盛なこともさることながら、よほど佐竹さんに魅力があるに違いないのでしょう。集まった席で皆さんの顔を繁々と見つめながら、改めて感心しました。

 佐竹さんには『「知的」経営のすすめ』と『「財的」経営のすすめ』の2冊の中小企業経営に関する著作があり、私もこれらを読書録『忙中本あり』に取り上げました。体験談集なので、とても読みやすく、印象的なものでした。独特の話術で聞く人を惹きつけてやまないスピーチ力の持ち主ですが、兵庫県下の様々の分野の人々とのネットワークを構築しており、オルガナイザーとしての能力も定評があります。地元テレビ局の時事経済解説なども好評を博しているとのことでした。

●関学梅田サテライトでの講演で熱弁

  佐竹さんには夢があり、ある時に私に打ち明けてくれました。全国ネットのテレビ番組に出たい、出来れば読売テレビ系の『そこまでいって委員会』に、とのことでした。貴方の力で何とかならぬか、と言われるのです。口八丁手八丁の手練れの中に割って入るのは難事と思いましたが、折角の申し出です。私が親しくしている常連出演者に持ちかけました。「自薦他薦いっぱいで難しいです」が答えでした。そうでしょう。良しにつけ悪しきにつけ、相当売れてないと無理です。彼に伝えるのは辛いものがありました。

 そんな佐竹さんから、関学の梅田サテライト校舎で、「サスティナブルツーリズム」をめぐるシンポジウムをやるので、スピーカーの一人として出てくれないかとの誘いを受けました。「瀬戸内海島めぐり協会」を基盤に取り組むDMOなどの周辺を話してくれとのこと。嬉しい限りでした。11月10日に、自分自身の政治家時代のことから、引退後のことまで、面白おかしく喋りまくったのです。持ちネタの限りを尽くし、ギャグも満載し、我ながらよく言うよとの話法で。聞き手がよく笑ってくれるので、脱線しまくり。途中で、ディレクター役の佐竹さんが口を挟むのが疎ましかったことを覚えています。後にも先にも特筆されるべき私の講演でした。

  • ●党総支部講演会の後、「聖教」「公明」勧める

 実は、佐竹さんには、政治家、とりわけ地方自治体の首長になりたいとの志がありました。学んだ学問を実際の政治の現場で生かしたいとの思い、切なるものがあったのです。私に打ち明けてくれました。テレビ云々もその流れ上のことです。私が学者への憧れを言うと、学者なんて面白くないですよ、それより政治家の方が、と。「なんだか二人は真逆ですねえ」と笑い合ったものです。

 翌年姫路での公明党の総支部大会に応援弁士として特別講演をしていただいた後、二人だけでレストランで卓を囲んだことを思い出します。話題は森羅万象に及び、私は日蓮仏法のこと、池田先生のことなど語りました。結果として、聖教新聞と、公明新聞の購読をお願いした私の要求を、彼が受け入れてくれたのはとても感激したのはいうまでもありません。

 この佐竹先生も今は故人(2020-9-23逝去)。寂しいことです。(2021-8-23)

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【43】一年で休航に追い込まれた関空航路ー平成30年(2018年)❹/8-18

●関空航路が僅か一年で休業へ

 関西国際空港と淡路島・洲本港を結ぶ関空航路が「ジェノバライン」の手でスタートしてから一年。当初の目論見とは大きく違って、インバウンド客を呼び込めぬまま、悪戦苦闘が続きました。7月にはとりあえず休業状態にせざるを得なくなったのは残念なことでした。10年ぶりにこの航路を再開するにあたって、もっと種々の観点からの検討を加えて意見具申すべきだったと思ったものの、全て〝後の祭り〟だったのです。

 傘下の一般社団法人「瀬戸内海島めぐり協会」としては、非力さを感じつつも、DMO法人に向けての実績を積み上げるべく、頑張るしかありません。複雑な思いで、8月4日には神戸港花火祭りを船上から見物する企画を立て、実施に持ち込みました。些細なことですが、将来への繋がりを意識して、思いを一つにするみんなで盛り上げました。

●徳島商での「観光教育」の実践的展開

 そんな状況の中で、全国の職業高校の教員有士による「観光教育」現場の取り組み状況や課題などをめぐって意見交換やら研修をする機会がありました。8月20日に会場の徳島商に私も向かいました。この試みは、同校の鈴鹿剛教諭が中心になって、同じ問題意識を持つ他校の教員に呼びかけられました。「観光」を通し、高校生の持つ力を引き出したいとの思いを持つ人たちが意気投合、文字通り手弁当で取り組んできたのです。その情熱たるや大変なものです。私は淡路島での初めての鈴鹿さんとの出会い以来、微力ながら支援を思い立ち、しだいにのめり込んできました。

 これまでにも幾度か触れてきた勝瀬典雄(関学大講師)さんがこの集いの影の仕掛け人であり、私もこの営みの〝助っ人〟として参加するようになってきていました。観光人材を職業高校の中から育む仕組みを作るべく、国交省や文科省などに働きかけよ、というのが私に求められた命題です。この日は、私が淡路島を中心に瀬戸内海観光に手を染めようとしている経緯を披歴するミニ講演をしました。職業高校の先生たちを前に、精一杯の話をした次第です。

 徳島商の校庭の片隅には、三木武夫元首相の胸像がありました。案内してくれた校長に聞くまで、彼が卒業生とは知りませんでした。尊敬する政治家の一人であり、またその昔、ここから彼は兵庫の県立尼崎北高校に転校したことも知り、ご縁を感じた次第です。

●お世話になった官僚たちの栄進を喜ぶ

 私の20年間の現役時代の仕事の大半は、外交・安全保障に向けられたことは幾度も触れてきました。そのうち、1年だけ厚生労働省で副大臣をしていたことも。この二つの分野では、多くの官僚と一緒に議論し、また専門的なことについてはサポートも受けました。実は8月にお世話になったこの二人がそれぞれ栄進したのはとても嬉しいことでした。

 一人は、厚生労働省の宮崎淳文課長。もう一人は高橋憲一防衛事務次官です。もちろん二人はお互い全く関係はないのですが、たまたま同じ時の人事で昇格されたのが私には愉快に感じられたのです。宮崎課長とはわずか1年だけでしたが、10年分くらい一緒に仕事をしたかのごとき手応えがありますし、その後も今に至るまで付き合っています。一方、高橋次官とは防衛関連のありとあらゆることで意見交換をしました。彼はその後、内閣官房副長官補に就いた(2020年)ことが話題になりました。次官を官僚人生の終わりとしないところが彼らしいと感心したものです。

 彼以外にも世話になった防衛官僚は大勢いますが、そのシンボルとして、彼を位置付けたい思いでいます。(2021-8-18)

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【42】ブラジルとの縁で親友を参院選候補に繋ぐー平成30年(2018年)❸/8-15

●上京し、旧交を温めたり懸案を処理する

 6月20日からは二泊三日で上京、いつもながらの強行スケジュールで10人ほどの人に会い、古い友人と旧交を温めたり、懸案を解決していきました。中でも元防衛施設庁長官だった山中昭栄氏や、法政大学の川成洋名誉教授との面談(21日と22日)は楽しいものでした。山中氏とは現役時代に大変親しくしていました。今は息子さんが兵庫県庁財政課に勤めておられ、親子お二人との付き合いです。川成先生は公明新聞時代に原稿を書いて頂き、今は後輩たちがお付き合いしています。「スペイン」の専門家で、最新情報を教えて頂いたり、意見交換をしました。

 また、全国自治体病院協議会会長を長年務めた邉見公雄(赤穂市民病院名誉院長)さんが旭日中綬章を受賞されたお祝いの会が21日に椿山荘であり、高柳 和江さん(笑医塾塾長)とともに出席しました。邉見、高柳のお二人は共に「癒しの環境研究会」のメンバーで、私とも因縁浅からぬ仲です。この会は邉見さんのお人柄を反映して、医療の世界から大勢の人たちが揃って大賑わいでした。その中で、現役時から昵懇にしていただいた森英介衆議院議員と出会い、かつてクゥエートで小児医療に携わっていた高柳さんを紹介できたのはラッキーでした。彼は日本と同国の親善協会の会長をしており、お二人から大層喜ばれたしだいです。

●参議院選挙の新たな候補との繋がり

 翌年(2019年)の参議院選挙に向けて候補者が決まり、7月2日に県庁で記者会見がありました。高橋光男という外務省でブラジル・サンパウロに駐在する外交官です。近畿エリアでは、石川博崇、山本かなえ両氏に次ぎ当選すれば三人目の参議院議員になります。かつて宝塚に住んでいて、親父さんと面識はありましたが、本人とはこの時が初めて。大阪外大出身の長身で爽やかな好青年でした。優秀な人材が次々公明党から出馬するとあって、外務省としても痛し痒しと言うところだろうと想像しました。

 ブラジルというと、私の小学校時代からの親友である三野 哲治(住友ゴム会長を経て相談役)氏が、日伯協会の会長をしています。前回の伊藤孝江さんの時にも、私との縁の濃い友人(高校同期の蔵重弁護士)が同じ弁護士事務所同士で、繋がっていました。連続です。公明新聞から「期待します」の声を求められたので、早速彼に依頼し、快諾を頂きました。7月11日には神戸の高台にある日伯協会の本部にお邪魔して二人を引き合わせたり、また住友ゴムの本社にも案内しました。ブラジルの縁で二人を繋ぐことができ、幸先のいいスタートを切ることができたのです。

●旧友に家庭訪問受け、励まされる有難さ

 7月14日のこと。古くからの友人である杉野正幸氏の家庭訪問を受けました。この人は聖教新聞の販売店をしていた人で、もうリタイアしています。初めて私が選挙に出た時に、親戚との連携をとってくれる役割を果たしてくれました。その後も姫路市内、特に夢前町に集中する家々をときどき訪ねて、安否を訊いてくれたりしているのです。その彼が久方ぶりに我が家を訪問してくれるというので、何事やらんと身まがえました。

 彼は二人で一緒にあちこち家庭訪問をしませんか、と言います。「赤松さんが引退して5年、このあたりでお世話になった方々に挨拶回りをしては」と。自治会活動にかまけて、創価学会の地域活動への取り組みが疎かになっていたことを私も自覚していました。自動車の免許も返上して、遠出も出来ない私の事情をも見抜いて、一緒に車で、との申し出です。有り難いことでした。創価学会に入って53年ほど、人のお家を訪問しても、逆に訪問されることはあまりありません。この訪問は後々忘れ難いものとなりました。

これいらい、週3回ほどの日程で、二人で市内北西部を一日4-5時間かけてまわりました。懐かしい方々との出会いに加えて、新たな出会いも付け加わり、家庭訪問の醍醐味を改めて味わうことが出来たのです。(2021-8-15)

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【41】ブログで「テロ」「憲法」論を書き安保研リポートにー平成30年(2018年)❷/8-11

 ●思い残すことのない3年間の自治会長

 自治会長になって3年。2年の任期を1年オーバーしたこともあり、この年には交替せねばと思って新しい年を迎えました。しかし、肝心の後任の人が見つからず、困りました。就任以来、青年部結成、地域新聞の発刊、地域内に住む有為の人材による講演会、餅つき大会の開催、ミニ・バス旅行など次々と新しい試みに挑戦してきました。しかし、いつまでもやるわけにいきません。こんな楽しい仕事を独占してはいけないーこれが半ば正直な思いだったからです。

 自治会内には4つのエリアがあり、会長職をはじめ、副会長、会計など基本的に2年任期で、順次エリアごとに候補を選び、回してきた伝統があります。既に副会長をしていただいてきた、町内で長年着物商を営むYさんに最終的に目を付けました。ご近所のご婦人たちの人気は抜群。商売柄、女性の気持ちを掴むのは圧倒的に上手いのです。加えて、男性との付き合いも巧みとくればいうことはありません。もちろん、仕事を始めあれこれと理由を挙げて渋られたのですが、日参して、拝み倒しました。代わって私は相談役に就きました。

●ブログに「テロ」「憲法」論考を次々と書く

 一方、この年の春は、ほとばしる思いを刻み込むようにブログに次々と論考を書いて、それをまとめて、「安保研リポート」に寄稿していきました。その代表的なものが『テロとの戦いは終わらない』(2月27日号)と、『憲法9条をめぐる改正試案』(4月11日号)です。『テロ』については、2001年9-11の米国同時多発テロをきっかけに、私が議員時代に一番考えさせられたテーマでした。「新しい戦争」と命名する論者もいて、喧しい議論と対策が話題になりました。17年も経って、私がこれを取り上げてみようと思ったのは、トランプ大統領の登場でした。

「前門の核、後門のテロ」との見出しで書き始め、新冷戦の時代を経て世界は大混乱に入ったとの認識を披歴。その遠因を現代文明が羅針盤を見失っているからだと、位置付け。そして結論は、創価学会の池田大作先生がこの1月26日に発表された43回目のSGI提言に求めたのです。「安保研リポート」には、様々な考え方の専門家が寄稿しているだけに、綿密な注意を払いながら、「創価の思想」を滲ませることをも心がけています。

 一方、憲法改正試案特集号は、9人の同研究会所属メンバーが私論を競い合うものでした。私は「領域保全に限定した自衛隊ー憲法9条加憲についての私案」と題した論考を書きました。既に前年3月に『加憲と改憲のあいだ』との論考を公表しており、それをあらためて整理し直したものです。当時、安倍晋三首相が自衛隊の存在を9条2項に明記する案を示していました。私は我が狙い当たる、との思いで、この論考を読んで貰えば、その背景がわかるはず、と力を込めて書いたのです。

●慶大仲間との50年前の信州旅を再現

 この年のゴールデンウイークは、信州鬼押し出しから、上高地を経て、飛騨高山への二泊三日(4-30〜5-2)の旅をしました。メンバーは慶大44年卒の5人。その昔一緒に信仰を深めあった仲間です。実は50年前に同じメンバー(全部で9人。今回不参加者は4人)で、ほぼ同じコースを回って(飛騨高山は今回初)いました。卒業を控えた前年に、記念の旅をしたのですが、それを再現しようとの試みでした。池田先生のもとに集い、激励を受けた大学会一期生です。先生のもと、この仲間あったればこそ、今の自分があると確信する私の発想による旅の再現でした。忙しい5人が集まっての懐かしい旅が出来たことに、心から感謝する思いでいっぱいでした。(2021-8-11)

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