Monthly Archives: 3月 2019

突然の会長交代に驚きと無念さと (32)

昭和54年という年は個人的には入社10年目で、中野区青年部長として活躍出来た記念すべき年ではありましたが、一方では衝撃的なことが起こり、生涯忘れ得ぬ年ともなりました。それは、池田先生が会長を辞任されることになったのです。昭和54年4月24日付けの聖教新聞一面の所感を通じて、私たちは知るに至りました。そこには、「『七つの鐘』終了に当たって」と、あったのです。

「戸田前会長逝いて二十一年、私もおかげさまで会長就任から満十九年、あしかけ二十年に及ぶ長き歳月を、皆様方と共に苦難と栄光の歴史を綴り、今日にいたりました」との書き出し。「ここで大事なことは、広宣流布は、不断の永続革命であるがゆえに、後に続く人びとに、どのように、この松明を継承させていくかということであります。一つの完結は、次への新しい船出であります」と続けられ、「広宣流布は『大地を的とするなるべし』との日蓮大聖人の御金言を深く深く心に刻み、たゆまざる信行学の前進を再び誓い合っていきたい」と結ばれていました。

翌日付けの聖教新聞で、先生は名誉会長に、後任の会長には北条浩理事長が就任される、との発表がありました。先生は未だ51歳になられたばかり。会長職を退かれることには、宗門との軋轢があると見ざるを得ませんでした。ことここに至るまで、何やかやと不穏な動きがあったことはそれなりに知ってはいましたが、よもや先生が会長をお辞めになられるとは。不肖の弟子の一人として、ただただ自分の呑気さ加減に呆れ果てるばかりです。力の無さと、至らなさ、申し訳なさでいっぱいでした。

私としては、19歳の時に入会し、22歳の春に初めてお会いして、病気を治す力を頂き、就職の面倒まで見ていただき、折に触れ何かにつけて激励をいただくばかりの12年でした。ご勇退には深い意味があるとしか思えず、いや増して信心の力を奮い起こしてご恩返しをしていこうとの決意を強く抱きました。私の場合は前線の一幹部でしかなかったのですが、師匠のお心を慮ることの出来ないだらしない人間でした。後年になって、我々世代の至らなさを思うにつけ、身の竦む思いです。

私の身近なところで、池田先生に敵対していった恩知らずの幹部には、元教学部長のHと元弁護士のYがいました。前者は、高等部の人材グループである東京藍青会の御書講義を担当しており、私が副担当でした。後者は中野学生部の担当幹部として、幾たびか言葉を交わしたことがあります。不知恩の輩を横に見て、私が誓ったことは、高等部や学生部の後輩たちに、同じ道を歩ませないということでありました。自分こそ成長して、模範の先輩たろう、と。その熱い思いは今に至るまで続いています。

その頃、先生がご蔵書を整理されるにあたって、何人かでお手伝いをさせていただいたことがあります。膨大な本の数々が部屋の床のうえにところ狭しと並べられていました。ほんの少しだけ、足手まといのようなことしかできませんでしたが、嬉しい限りでした。二冊好きなものを持って行っていいと言われ、英書を頂いたことを思い起こします。

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入社10年ー仕事場、中野青年部でも中核に(31)

早いもので、昭和54年というと、公明新聞に入社してから10年が経っていました。社から10周年を記念しての置き時計を頂いたのが忘れられません。これを機に同期の仲間を中心に記念旅行をしようと、伊豆半島の西海岸・戸田に行きました。平子瀧夫、井関正晴、菅井正昭君らです。平子君や菅井君は入社前は共に神奈川の学生部幹部、井関君は高等部副高等部長として活躍していました。学生部のグループ長だった私とは格が違う〝大物〟でした(他の同期の連中も皆幹部ばかり)。しかし、記者となれば関係ないと、私も頑張った甲斐あって、その当時には彼らと充分肩を並べる存在になっていました。ただ、平子君は神奈川・川崎市在住だったこともあって、市川さんの衆議院議員当選と共に、秘書になっていました。彼だけは入社8年で、違う世界に引き抜かれていたのです。

平子記者は現役当時、かねて映画評論家として名を馳せていた小森和子さんと取材や執筆依頼を通じて親しくなっており、彼女のアメリカ行きに同行するなど、文化部映画担当記者として鳴らしていました。公明新聞は政治報道もさることながら、今に至るまで、文化、学芸欄にも定評があり、のちに演劇評論家の山崎正和さんが公明新聞の文化性を高く評価してくれたものですが、私たち関係者にとっては大変な誇りです。当時は既に市川主幹は代議士として、新聞編集の現場からは離れていましたが、党機関紙局長としての実権は握っておられ、大所高所から睨みを利かせていたのです。

公明新聞社的には市川主幹の後を受けて、土師進さんが編集長で、陣頭指揮を取っていました。この人は大阪出身で、関西学生部の草分けです。市川さんを支えて八面六臂の闘いをされていました。後に衆議院議員になる田端正廣さんも同じ関西学生部出身で、二人は後輩の我々から見るとライバル同士。何かにつけて競い合う雰囲気があり、好ましくもあり、ハラハラする場面もありました。私はご両人それぞれから影響を受けて記者として成長することが出来たと自負しています。この頃は政策部というポジションで、党の政策を論じる仕事に奔走していました。

一方、組織活動としては、54年には中野区の男子部長から、青年部長になっていました。後任には漆原良夫さんが就きました。彼は弁護士で、見るからに大物然としており、後輩からも慕われる素晴らしい人材です。先に述べた村井さんが目をつけ、引き上げたという意味では私と同じ穴の貉で、何かと切磋琢磨する仲でした。後年、彼が私よりも遅れること二期程で、衆議院議員になり、国対委員長にまで上り詰めたことは、この頃は神のみぞ知るところでした。

【昭和54年(1979年)1月 米中国交正常化 5月 本州四国連絡橋、尾道・今治ルートの第三島橋開通 10月 第35回総選挙自民党敗北 12月 ソ連軍アフガニスタン侵攻】

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初めての中国訪問。復帰後の沖縄初取材にも(30)

昭和53年の暮れ。池田先生によって架けられた中国との〝金の架け橋〟を、弟子たちが渡って、日中友好の絆を深めようと、創価学会青年部訪中団が結成されることになりました。中日友好協会(廖承志会長)の招きによるものです。全国の県青年部長たちと一緒に、私もメンバーの一員に加えて頂きました。北京と石家荘への旅でした。万里の長城や故宮などを見学したり、共産主義青年団の幹部たちと意見交換をするなど、有意義な一週間の旅でした。

学生部総会の時に池田先生の中国講演を聞いて以来、私は学問としての「中国問題」に研鑽を深める一方、日中国交回復への貢献に意を注いできました。その努力の中で、いつの日か大陸中国に渡り、この目で天安門広場に立ち、中国民衆と言葉を交わしたいとの思いを抱いてきました。それが遂に実現する、しかも創価学会青年部の代表の一人として。十分に眠れぬほど気分が高揚する中で、出発の日昭和54年1月12日を迎えました。

北京空港で私たちが乗った飛行機が着陸後、滑走路を回遊しているときに、空港そばの畑で、鍬や鋤を手にした農夫たちが物珍しそうに見ていたことが目に焼き付いています。厳寒の北京で、万里の長城に行ったときには、警備に立っていた兵士の眉毛が白い氷で凍てついていたのも印象に残っています。譚震林氏(元国務院副総理)が、団長(山崎尚見副会長)以下の我々一行に会ってくれました。この旅には、中野区男子部の後輩・黒羽邦彦君(国際局勤務)が団の通訳として加わっていました。北京から石家荘(「長征」の途上にあって、中国共産党に貢献した病院)へと列車で移動し色々と見聞する機会がありましたが、彼のおかげでわたしは随分と得をしたものです。持つべきは有能な友です。ともあれ中国初訪問の私の率直な印象は、〝清く貧しくでっかい国〟というものでした。今から40年ほども前の中国はそんな風だったのです。

一方、沖縄が日本に復帰(昭和47年/1972年)したことを受けて、この年の夏に交通ルールが変わることになりました。6年間は従来通りの「人は左、車は右」だったのですが、漸く本土並みに車は左側通行ということになったのです。これを実施するのが7月30日からだったことから、「ナナサンマル」と呼ばれました。この大きな試みを取材するため、先輩記者とカメラマンと一緒に3人で訪沖しました。前夜から8時間かけて、全沖縄で6時を期して、一斉に変わったのですが、面白い経験でした。

その取材もさることながら、一つ妙なことがありました。朝ホテルで目を覚まして、先輩の部屋に行こうとすると、ドアが半開きになっていて、そこからベッドの上に4本の足が見えるのです。驚きました。ただ、それは先輩記者が持病の発作で苦しみ、カメラマンを助けに呼んだ末のことだったのです。つまり、背中をさすったりしながら、添い寝をして貰っていた、と。笑い話に終わって、ホッとしたものです。そんなハプニングもありましたが、初の沖縄取材はなんとかうまくこなせました。この先、沖縄には幾たびとなく行くことになりましたが、いつもこのエピソードが頭をよぎります。

 

 

 

 

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「与野党伯仲」のなか政界再編を模索 (29)

【昭和53年 (1978年)5月 新東京国際空港(成田空港)開港。8月 日中平和友好条約締結10月 日中平和友好条約批准書交換式 12月 大平内閣発足】

1970年代後半から80年代にかけて(昭和50年代)の政治状況は、「与野党伯仲」の状態でした。きっかけは、既に触れたようにロッキード事件の結果、自民党が衆議院選挙(1976年12月)で大敗し、保守合同いらい初の単独過半数割れを招いたことです。自民党は選挙前には271議席でしたが、249議席になり、保守系無所属議員をかき集めてようやく、過半数を超える260議席としました。一方、野党は社会党が118議席から123へ。公明党は29から56議席へと大躍進。民社党は20から29議席に、共産党は38から17議席に半減以下になったものの、衆議院初挑戦の新自由クラブが5から18議席になりました。公明党が結党から12年、衆議院進出から10年余で56議席も獲得したことには、まさに興奮しました。

こうしたことから、国会では自民党に代わりうる野党勢力の結集、つまり「政権の受け皿」づくりが急務とされてきました。ただ、その内幕は共産党の取り扱いを巡って混迷を続けます。公明党は憲法論争の結果として連合政権構想のパートナーに共産党はしない、と決めており、民社党も「共産除外」の選択は明解です。野党第1党の社会党だけが左派の成田知巳委員長のもと、共産党を含めた「全野党路線」に固執していたのです。

ただ、そうした状況の中で、76年2月に松前重義東海大総長を代表に、社会党・江田三郎副委員長、公明党・矢野絢也書記長、民社党・佐々木良作副委員長らが名を連ねた「新しい日本を考える会」が設立されていました。巷間、「江・公・民」路線と呼ばれたものです。社公民中軸による保守勢力も含めた形での政界再編が模索され始めたのです。尤も、この動きは進むかのように見えて、開店休業状態に陥るなど、一進一退をよぎなくされていました。

一連の動きの中で障害となり続けたのは社会党の煮え切らぬ態度だったのです。これが77年7月の参議院選挙で表面化します。「与野党逆転」が期待されながら、蓋をあけてみると、実現しませんでした。社会党は、改選32議席に対して5減の27議席、共産は改選9から5議席へと減らしたのです。逆転の中核たる社共勢力の惨敗です。一方、改選議席126に対して、自民党は公認63に加え、推薦3の66議席となって、逆転を食い止め、踏みとどまりました。これに対して、公明党が改選10に対して4増の14議席獲得する躍進。民社党は1増やして6議席、参院初挑戦の新自由クラブは3議席と、非社共の中道勢力は着実に議席を伸ばしました。

この結果、社会党では成田執行部が退陣し、飛鳥田一雄横浜市長が委員長になったのです。ここから従来の「全野党路線」が後退し、「公明寄り中道路線」が少し陽の目を見るようになりました。一方、「新しい日本を考える会」に代わって、中道勢力を軸にした幅広い勢力を結成するものとして「二十一世紀クラブ」が公明、民社、社民連、新自由クラブの参加のもとに結成されます。このように、中道主義の公明党が世の注目を浴びていきました。当時、中堅記者としての私にも、意気軒昂なるものがありました。

そういう状況の中で、昭和53年(1978年)の暮れに、私にとって願ってもないとても嬉しいニュースが飛び込んできました。

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もっと大きなことで悩みたいとの呻き (28)

恐れていた父の反応は全く違っていました。母の死に至るまでの過程の中で、多くの近所の学会員さんの心温まる激励、池田先生のご配慮などに応えないわけにはいかない、と言うのです。加えて「お前ら子どもたち4人全員が南無妙法蓮華経と唱えとる。だあれも先祖からの仏壇に念仏を唱えへん。ワシの死んだ後も見えとる。これじゃあ、お前らと一緒にやるしかないやないか」と言うのです。浄土真宗のお寺にはその旨断り、お墓も新たに作り直しました。赤松家の完璧なまでの改宗が、母の死と引き換えに実現したのです。この時ほど、親父が頼もしく立派に見えたことはありません。

一方、重度の身体障害を持っていた子どもの死は、入会前から私の抱いていた人間の絶対的不平等がどこから来るのかという課題にひとつの答えをくれました。この世における宿命の転換を瞬時に果たして、あの娘は新たに健康な生命を得るに至ったに違いないと、確信することができました。

しかし、悩みはそれだけでは終わりません。御書に「生死をいで仏にならむとする時には・かならず影の身がそうがごとく・雨に雲のあるがごとく・三障四魔と申して七の大事出現す」(三沢抄)「三障四魔憤然として競い起る」(開目抄)とある通り、今度は、妻の父が仕事のうえのことで、他人の保証人になったことが裏目に出て、相手の借財が一気にこちらに及んできてしまったのです。連日借金取りが押しかけてきて厳しい事態になりました。私は仕事に、学会活動に汗を流し、我関せずでいい気なものでしたが、妻はそういうわけにはいきません。結果として、妻の実家の借地を半分手放すことになりました。つまり、義理の親が住んできた妻の実家部分(生まれた家)が、借金のかたとして人手に渡ってしまったのです。建て増しした私の家とわずかな庭を残して。母屋を壊し、増築部分を残したため、無残にも壁がむき出しになってしまいました。そこを隠す青い色のビニールシートが風の吹くたびにパタパタと私を嘲笑うかのように靡く様子には、胸を締めつけられるばかりでした。

義父母は近くのアパートに引っ越すことになりました。およそ厳しい現実にほとほと弱り果てました。容赦なくやってくる借金取りの撃退に妻も義母も取り組みながら、懸命に題目をあげて生命力をつけて乗り切ろうと健気な戦いをしたのです。この頃、私は自分のことや、家族のことといったちっちゃな悩みではなく、もっとでっかいことで悩む自分になりたい、とただ呻くばかりでした。

しかし、なんとか家族一丸となっての数ヶ月。懸命の戦いのすえに、借金問題も解決。家も幾ばくかの銀行ローンを組んで、立て直すことにしました。義父母を引き取って再び一緒に暮らすことになったのです。やがて、地獄の苦しみがパッと消えました。

そんな折、中野兄弟会の第5回総会(昭和52年2月4日)が開かれました。結成の日からちょうど4年ーあの時は整理役員。今回は区男子部長としての参加です。先生の前で、手短にこの4年間の皆の思いを代表して述べました。横合いから先生が「やるじゃあないか」と声をかけて下さった瞬間は忘れません。この会合で先生は「一人の心をつかむは万人に通ずる」との指導をしてくださいました。一人の心をつかむことの大切さは、今に至るまでの私の重要な指針になっています。

昭和52年の3月には、やっと元気な娘が誕生しました。この初めての子の出産にあたっては、かつて私が肺結核の時に池田先生から紹介して貰った産婦人科医の石川先生に取り上げて貰いました。死産の時は実は近くのキリスト教の病院でした。反省したのです。当時、ますます忙しい日々を過ごしていました。子どもが無事に誕生したというのに、とうとう産院にも行かぬうちに退院してしまいました。父親が一向に赤子の顔を見に来ないというので、本当に切なかったとの妻の苦情を後々まで聞くことになってしまいました。

【昭和52年(1977年) 5月成田空港反対派と機動隊衝突  7月  第11回参議院選挙 9月 米軍機、民家に墜落。日本赤軍日航機ハイジャック 11月福田改造内閣】

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妻の死産と母の死に至る病が直撃 (27)

そこには、「市川雄一」という名があったのです。川崎市、横須賀市などを擁する神奈川二区(旧選挙区)からの出馬です。衆議院初進出から約10年、後方での党の理論的支柱として、その力量を縦横無尽に発揮していた人がいよいよ表舞台に登場するというのです。当のご本人は、その話を時の委員長から聞いた時に「仰天した。まさか選挙に出るとは思ってもいなかった。またジャーナリストの世界で生きたいという気持ちもあった。物書きになりたいとも思っていた」とのちに、雑誌の取材に対して語っています。入社して7年半余り、様々な意味で率先垂範の後ろ姿を見せて来ていただいた大先輩の大変身。嬉しくもあり、正直寂しいことでもありました。

ところで、こうした事態の起こる前、昭和50年代に入って、私の身辺にはいくつかの大きい問題が発生してきていたのです。一つは、妻が身籠った結果、無事に十月十日経ったすえに、死産をしてしまったことです。子どもは作るもんと違う、授かるもんやと口癖のように言っていた母も、なかなか授からない状況が続くので、心配していました。そこへ、受胎し、なんとか流れずに持ちこたえ、喜んでいたのに、結局死産に終わりました。重度の障害を持っていた女の子でした。誕生と同時の死亡です。ささやかなお葬式を出しました。あの時ほど白い布が残酷に見えたことはありません。帝王切開の末のことです。妻の落胆も大きいものがありました。

二つは、その過程の中で、母が胃がんを発病、医者から「余命半年」と宣告されたことです。父は「どないしたらええんや。母さんが川の向こうにどんどん流されてしまいよる。そやけどどないもしてやられへん」と言います。「そりゃあ、信心するしかあれへん。きっと治るから」「ほうか。そんならわしも拝む。治ったら信心ずっと続ける。そやけど治らんかったら、もうせえへんで」こういうやりとりの結果
、遂に父は拝み出しました。我が家の一家全員の入会が「母の生と死」をかけた危機的状態の中、私の入会後10年余りで実現しました。しかし、残念なことに、母は医者の見立て通り、闘病生活半年の末に亡くなってしまいました。私の子も見ずに。

子どもの死に対しては、ある大先輩が「受胎は女の福運、安産は男の福運。妻が身籠ったからと言って喜んでいるだけではいけない。夫は無事生まれてくるまで、しっかり祈ることだ。人間ひとりの生命を授かることは、女にとって命がけのことだけれど、夫もそれを傍観していてはいけない」と指導してくれました。それまで、良い加減に考えていたわけではないのですが、心底これは堪えました。

母の死については、ともかく悲しかった。葬儀の席で号泣してしまいました。19の歳に別れて暮らすようになっていらい、10年余り。ロクな親孝行もしないまま。死の直前に帰神して、病院で痩せ衰えた母を抱き上げたときのその軽さに驚きました。なんともしてやれなかった我が身の無力さにただただ泣けました。父は、様々な病院に足を運んで医師にあったり、民間療法に伴う色々な薬を求めるなど八方に手立てを尽くしました。ベッドのそばに布団を引いて寝起きし、母をお風呂にも入れ、看病の限りを尽くしたと言います。

こういう風になってしまったら、父は約束通り、信仰を辞めると言い出すに違いない。困った。どうする。泣きっ面にハチとはこのことだ、とひたすら恐れました。

 

 

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ロッキード事件の嵐吹き荒れる (26)

中野兄弟会に頂いた先生の激励で、中野区男子部も意気天を衝く勢いでした。この頃の中野区の中心者は村井康一さん。文字通り「荒れた原野に道を切り拓く人」(富岡勇吉元潮出版社社長の言)でした。会合の進め方も、皆の士気を鼓舞せんと、演台の机の上にあがって学会歌の指揮を取ったり、円形で中心に立って語る態勢をとるなど変幻自在。何かと型破りの人でした。この人には師弟の道のありよう、信仰の基本への挑み方など色々なことを教えて頂きました。

昭和50年12月20日。中野兄弟会第四回総会が創価大学体育館で開かれ、先生が再び出席してくださいました。この時の「必死の一人は万人万軍に通ずる」との指導を聞き、何事にも真剣に取り組むことの大事さを痛感しました。結成からやがて満3年を迎える前年に、創価大学に呼んで頂いたのは本当に嬉しいことでした。既に全国各地に移転する仲間もいましたが、この日ばかりは勇んで先生の元に駆けつけてきたのです。このように中野兄弟会が信頼されるものとなり得てきたのは、ひとえに藤井達也、藤井壮介の二人の兄弟に代表される裏方に徹する仲間たちのおかげです。まさに中野兄弟会の象徴(シンボル)ともいえる二人です。

明けて昭和51年(1976年)2月。米国多国籍企業小委員会で、ロッキード航空機会社の対日売り込み30億円の工作費が発覚しました。ロッキード事件の嵐です。この事件の推移を克明に追い、見事なタッチで事の本質を暴いていった公明新聞記者が岩切隆司、加島幸路の二人でした。一年先輩の岩切さんと数年後輩の加島君のコンビは政党機関紙であってもここまで出来るという先駆の闘いを示してくれました。それまでも、公明新聞はイタイイタイ病を始めとする公害問題での追及で他党の追従を許さぬ闘いを示していました。先輩仲間たちもその報道で幾つものスクープを勝ち取っていましたが、いよいよ舞台は世界へ、との広がりを感じさせたものです。

この年の6月に河野洋平氏らが自民党を脱党し、新自由クラブを結成します。そして翌7月には田中角栄前首相が逮捕されることに。いわゆる〝55年体制〟のもと、強固さを誇ってきた自民党に、激震が走りました。一方、我々世代を長く悩ませたヴェトナム戦争は前年に終結し、この年の7月にはヴェトナム社会主義共和国が成立するに至っていました。そして、中国では、周恩来首相が1月に逝去した後を追うように、9月には毛沢東主席も亡くなりました。10月には晩年の毛主席の権威を傘に猛威を振るった「4人組」が失脚し、華国鋒首相が党主席に就任しました。

〝今太閤〟田中角栄氏を巻き込んだロッキード事件で荒れまくった年、昭和51年。小派閥から昇りつめた三木武夫首相は文字通りボロボロの様相を呈するに至っていました。そんな年の晩秋ー俄かに衆議院解散・総選挙の機運が高まっていきました。昭和42年に衆議院に公明党が初挑戦して25議席を得てから10年、4たび目の総選挙です。そして、その候補者のリストを見て、私はあっと驚いたのです。

【昭和51年(1976年) 2月 ロッキード事件発覚  6月 民法・戸籍法改正(離婚後の姓の自由等 )7月 田中角栄前首相逮捕  9月 ソ連戦闘機 強行着陸  12月第34回総選挙 自民惨敗 公明党29から56議席へ】

 

 

 

 

 

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整理部へ、印刷工場での新聞作り (25)

【昭和50年(1975年)  3月 山陽新幹線開通  4月  統一地方選、東京、神奈川、大阪で革新知事誕生  サイゴン政府崩壊、ベトナム戦争終結 8月 日本赤軍クアラルンプール米大使館等占拠  9月  天皇 皇后初の訪米】

昭和50年(1975年)。社内人事移動で整理部へ。浜松町にある東日印刷の工場に通うことになりました。国会の赤絨毯という華やかな場所ではなく、また学者・文化人と接触するのでもありません。新聞発刊の最終過程における重要だが地味な仕事をするのが整理部です。原稿を新聞に載せる上で誤りがないかどうかをチェックする校閲部と並んで、記事をどう配置するか、割り付けを考え、実際に活字を組み込む整理部は、サッカーにおけるゴールキーパーのようなものといえるかもしれません。

入社時の研修のくだりで触れたように、私は新聞を印刷するインクのにおいがとっても好きでした。加えて、決められた時間に向かって、必死になって単純な作業に汗を流すというのも妙にウマが合います。例えば子どものころにやったクレペリン検査なども好きだったのです。全ての工程を終えて、新聞の降版ギリギリの、あの緊張した瞬間。無事全て終えたあとの安堵感はなかなかのものでした。

新聞記者という職業に携わった中で、工場で過ごした時間は唯一と言っていいくらいの物作りの現場に立ち会った機会だったともいえます。貴重な経験でした。お世辞にも上手いとは言えなかった割り付けは、先輩の黒沢昭捷、立石清明さんらの電光石火の早業に見とれるばかり。結局はものにならないままでしたが‥‥。

この頃、仕事を終えた夜は、まっすぐ家に帰ることなく、ほぼ毎日、高等部活動や男子部活動に精を出していました。家族団欒の記憶はありません。高等部では、当時人材育成に集中的に取り組むため、藍青会(のちに御書研究会)というグループが結成されていました。一年目は東京、次の年は東北、そして更に翌年は北海道を私は担当し、月に一回、日蓮大聖人の御書講義をしながら、自分なりの激励に力を注いだものです。先生からお預かりした〝未来からの使者〟に精一杯接触することが大いなる喜びだったのです。

男女合わせてそれぞれ100人(東京)から30人(東北、北海道)のメンバー。その中から広宣流布に各地で汗を流す庶民のリーダーが次々と誕生しています。また、大新聞社の編集局長(東北)、衆議院議員(北海道)、大学教授、高級官僚、医師や弁護士(いずれも東京)など、各界で活躍する人材も。先生と彼や彼女らとの絆を強めるための補助線の役割を果たせたことは、私の青春の証であり密やかな誇りとなっています。

一方、男子部活動も、中野区北部・野方方面を主戦場として、真剣に熱心に取り組みました。野方地域は東北に哲学堂、南に新井薬師などといった名所旧跡を抱えた、下町と住宅街の混在したところです。当時、車の免許を取得してなかった私は、JRや西武線を乗り継いで歩いたり、後輩の運転する車で西に東に走りました。地方から出てきて、苦労しながら頑張る仲間たちを激励し続けました。

 

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時代を画した共産党との「憲法論争」(24)

これまで述べた経緯の後に突然、日本共産党が公明党に対して、「公明党への公開質問状」なるものを、一方的に提出してきました。昭和48年(1973年)12月17日のことです。25問からなるものでした。これに対して、公明党は、翌昭和49年(1974年)12月8日に、全てに回答。さらに、同年6月18日、7月4日に二つに分けたうえ、連続して日本共産党中央委員会に対して「公開質問状」(憲法三原理をめぐる日本共産党への公開質問状)として、70項目200余問を提出しました。しかし、これに対して共産党は正式回答を一切せず、ずーっと回答回避の状態を今に至るまで続けてきています。最初は喧嘩をふっかけてきていながら、あとは完全なる腰砕けです。[この辺りについては『日本共産党批判』(公明党機関紙局編)及び『公明党50年の歩み』(公明党史編纂委員会)に譲ります。]

この「公開質問状」の作成いっさいを陣頭指揮し、実際にペンを握って書きまくったのは市川雄一主幹と、辺見弘さんらごく少数の先輩だけでした。入社5年程度の私なんかにはもちろん出る幕はなく、固唾を飲むように遠巻きにして見ていただけです。この憲法をめぐる問題の共産党への公明党の指摘は、のちに、東西両ドイツの壁の崩壊、ソ連邦の瓦解などをもたらした社会・共産主義の破綻を見るにつけ、先鞭をつけたものとして燦然と輝いています。

市川主幹はのちに、あの一年ほどの壮絶な闘いを振り返って  、共産党の知的欺瞞と、目を覆うばかりの知的退廃ぶりに全く驚いたと語っていました。「当時、共産党みずからが、マルクスやレーニンの著作を引用して熱っぽく訴えていたマルクス・レーニン主義の原則や革命路線は、いまどういう位置付けになっているのかまったくわからない。本を絶版にしたからといって、本は消えてもそこに書かれた内容が消えたわけではあるまい。間違っていたから捨てたのか。まさかそうではあるまい」(「第三文明」04年9月号)とも。

一方、多くの識者が極めて印象深い感想を述べていましたので、代表的なものの一部を紹介します。(肩書きは当時のものです)

「(この質問状を読んで得た私の印象は)従来日本の政党でこれだけ詳細かつ論理的に日本共産党を批判した党があるだろうかというものであった。感情的な反共主義に走らず、相手の資料を豊富に用いて相手の論理的矛盾を鋭く追求するというのが論争の正道であるが、この質問状はまさしくこの論争ルールに忠実に従っている」ー志水速雄 東京外語大助教授

「自分のもっていないものを、いくら約束しても、権力の座についてたとき、これを人民に頒け与えることはできない。だからこの質問状の質問に対しても、肝心なことに答えず、反共とか自民党の手先とか得意の悪罵と一方的なレッテル張りとで応じる以外にはないにではなかろうか」ー作家・杉浦民平

「公明党は、まさしくこうした国民多数が抱いている疑問点を、国民に代わって公然と、かつ徹底的に明るみに出したのである。ここに公明党の、公党としての責任感が認められるのである」ー勝田吉太郎京都大学教授

このほか、佐藤昇氏(岐阜経済大教授)や安東仁兵衛氏(「現代の理論」編集長)ら社会主義の名だたる論客たちがこぞって、共産党の敗北ぶりと公明党の勝利を褒めそやしてくれていたことが脳裏に蘇ります。

他方、この年、昭和49年1月9日に慶大会総会が開かれていました。あの日から、6年ほどが経っていました。会場は民主音楽協会(当時は大久保にあった)でした。これには幅広い卒業生からなる「三色旗の会」も代表が合流して参加し、私も。池田先生はご長男の博正さんをお連れになって出席してくださいました。慶應義塾創設者としての福沢諭吉を心から尊敬していると言われたのが強く印象に残っています。

【昭和49年  3月ルパング島で小野田寛郎さん発見 8月 三菱重工ビル爆破事件  ニクソン辞任  フォード昇任  12月 田中首相辞任、三木武夫内閣へ】

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中道革新連合政権構想への共産党の攻撃(23)

「先日こんな体験を聞いたのよ」との明るい切りだし。参加者に優しい口調で信仰体験のすごさを語りかける柏原ヤスさん。本部幹部会などで、全国婦人部長だったこの人と、必ず話の中に自分の読んだ本について語り、そこから広布の展望を開くヒントを与えてくれた市川雄一さん。今では故人となってしまったこの二人の話に、とりわけ感動することが多かった。信仰体験と読書。高等部担当幹部時代に、この二つを車の両輪として自分を励まし、後輩たちをも激励したものです。

この頃、日本の政治は、自民党に変わりうる勢力を野党間でどう作るかという課題が、選挙協力などを巡って取り沙汰されてきていました。昭和39年(1964年)に結党され、昭和42年には衆議院に進出していた公明党は、社会、民社、共産党の野党三党それぞれと独自の関係を模索していました。そのうち、日本共産党は、各地の現場で、選挙のたびに公明党候補者のポスターへの嫌がらせから始まって、政策実績の横取りとか、様々な軋轢を公明党との間で起こしていました。

そうしたことを背景に、昭和48年(1973年)9月18日、19日に共産党の機関紙「赤旗」が公明党批判の論文を掲載しました。「公明党大会が残した『疑惑』ー問われるその革新性」というものです。ここでいう公明党大会とは、第11回党全国大会のこと。「中道革新連合政権構想の提言」というものをそこで決定していました。提言のポイントは、現日本国憲法の三原理(①国民主権主義②基本的人権の保障③恒久〔絶対〕平和主義)を将来にわたって、革新連合政権の基盤にすべきだというものでした。

さらに、共産党は「民主連合政府綱領についての日本共産党の提案」というものを出し、政権共闘の前提条件には、憲法問題などで先行きのことをいっさい国民に約束しないで、まずは政権につこうではないかと提案してきたのです。これはきわめておかしなことです。共産党は、本来の目標として、現憲法を変え、今のものとは根本的に違う国家機構、制度を作り、日本を「人民共和国」に変えるとの絶対的方針を決めており、党綱領上にも明記していたからです。

いつ、その憲法を改変するかは、民族民主統一戦線政府が軍隊、警察、裁判所、監獄などの国家暴力装置をはじめとする国家権力を実質的に握った時だとしていました。そこへ新たに提案してきた「民主連合政府」というものは、その憲法を改変する民族民主統一戦線政府の成立を「促進するため」の過渡的な政府とすると、明確に位置付けてきたのです。冗談じゃあありません。革新連合政権というものを一政党の都合で決められてはたまったものではないのです。

公明党は公明新聞紙上で、反論することになりました。10月1日、2日の両日付けで、「共産党は『政権共闘』で憲法問題を回避するな」とのタイトルのもと、共産党への批判を展開しました。憲法問題という国民の関心が一番強い問題で、先ゆきのことを約束しないまま、ともかく政権につくというはおかしいではないか、と。当時の公明新聞編集室は俄かに活気を帯び、慌ただしい雰囲気が漂ってきました。

 

 

 

 

 

 

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