昭和63年春。それまで糖尿病や膀胱癌などを併発していた父の病状が悪化してしまいます。そして、とうとう4月2日に亡くなってしまいました。78歳でした。母の時と同様、またしても今際のときに間に合いませんでした。まさに親不孝者です。母の時とはまた違った深い悲しみで、しばし呆然としてしまいました。ただ、父は信仰を見事に貫いての足かけ13年間を過ごしました。その道に誘った息子の私として、いささかの満足感はありました。「お父さん、長い間一人で頑張ったな。これでようやく母さんと会えるね」と。地域の同志の皆さん始め多くの人に見送られての大往生でした。
その後、8月の後半だったでしょうか。事務所に一本の電話がかかってきました。市川代議士からです。党と学会の連絡会議に出ておられたはずでした。その時の声は珍しく興奮気味に聞こえました。
「赤松君、大変だよ。今日の会議で、君の名前が衆議院議員の候補にあがったよ。兵庫4区の新井彬之さんが体調悪く、次回は出られないので、そのあとだ。びっくりしたよ、ともかく知らせておくが、詳しくは帰ってからだね」
秘書として悪戦苦闘していた私にそんな話が舞い込むなんて。まさに青天の霹靂以外の何ものでもありませんでした。
議員会館の部屋で市川代議士と向き合いました。そのとき、こう言われたのです。
「君を私の秘書にしたのは、そばに置いて訓練するつもりだった。せっかく今日まで支えてくれたのに、君を衆議院候補に取られるのは正直言って、困る。だが、君の人生において、衆議院議員になれるかもしれないという、こんなチャンスは滅多にない。チャンスは前髪を捕まえろという。一回限りの君の人生だ。ようく考えて自分で決断しろ。繰り返すけど、私はこのままそばにいて欲しいというのが本心だ」
この優しい呼びかけに対して、私は迷うことなく、即座に答えました。
「ありがとうございます。出させてください。大した力はありませんが、生まれ故郷姫路を中心とする選挙区から衆議院議員に出られるなんて、願っても無いことで、本望です。よろしくお願い申し上げます」
無鉄砲というか、お調子ものというべきか。逡巡などせず、これはチャンスだと思ったのです。苦笑いしていた市川さんの顔が印象に残っています。「そうか、出るか。いなくなるんだな。仕方ないな」
こうして〝市川学校〟をわずか一年半ほどで中退することになってしまいました。私を代議士候補に推薦してくれたのは、野崎勲副会長(元青年部長)だったと聞きました。かつて、野崎さんから「太田君と井上君という君の仲間を二人とも本部に引っ張って、君を引っ張らず、悪いな」と言われたものですが、その時に私は、「いえいえ、私は公明新聞が向いています。それに何より市川さんが好きですから」と即座に答えていました。このことが頭に浮かんできました。
ここから、半年間。候補として、姫路に帰るまでは準備に大わらわとなりました。まず、選挙区で動くには車の免許を取得せねばなりません。43歳の年まで、自動車の運転はおろか、恥ずかしながら自転車にさえ乗ったことがありませんでした。まずは自動車教習学校へ通わせてもらうことになりました。武蔵小金井の尾久自動車学校へ通いました。ところが、実地はともかく、実は筆記試験に苦労するのです。二回落ちてしまい、市川さんから「お前、本当に学校出てるのか。うちの家内でさえ一回も落ちずにパスしてるぞ」と叱られました。11歳の娘にも笑われたのですが、車の筆記試験は難しかったというのが本音です。ともあれ年齢分だけの43万円かかって、ようやく晩秋には免許取得にこぎつけました。
一方、妻の慧子も遅れて免許を取るために、同じ自動車学校へ。こっちはすんなりと通りました。彼女は元々3歳の頃から、ピアニストになるべく、英才教育を受けて育ちました。桐朋音大付属高校に入学し順調にその道を歩んでいましたが、私との結婚でその後の道は閉ざされてしまっていました。辛うじて、ピアノの家庭教師をしてはいましたが‥‥。前途多難の私の選択に、妻も不承不承でしたが、未だ知らぬ夫の故郷姫路へと、旅立つ決意を固めてくれたのです。
東京創価小学校での秋の行事に、私たち夫婦が珍しく参加したときのことです。池田先生の奥様に思いがけずにお会いでき、お話を交わす機会に恵まれました。「この度、兵庫・姫路に帰ることになりました。娘は残念ながら、卒業しても関西創価中学には進学出来そうにないのです」とご報告しました。「そうねぇ。姫路じゃあ遠くて無理よね」と言ってくださり、「頑張ってね」と激励の言葉まで頂きました。
こうして、昭和63年の暮れに、私はひとまず単身で(翌年家族も)帰郷しました。新しい人生の船出に向かうことになるのです。
【昭和64年(1989年)1月 昭和天皇没 皇太子明仁親王即位、平成と改元】
※これで私の回顧録第1部昭和編は終わります。第2部平成編は、元年1月から衆議院選挙に立候補する準備をスタートするところから始まります。いよいよ、政治家としての回顧録に取り掛かります。しばらく、執筆の準備に時間をいただき、夏の終わりにも連載を開始する予定です。引き続きご愛読のほど宜しくお願い申し上げます。