Monthly Archives: 11月 2019

いきなり不祥事のラッシュに直面ー平成元年(1989年)❷【2】

党首の不祥事露見で前途に暗雲

平成元年(1989年)という年は、公明党の歴史にとって最悪の年でした。何しろ党首の不祥事(明電工株取引疑惑)が露見して、辞任に追い込まれた(5月17日)のですから。かつて30歳代半ばに颯爽と登場し数々の実績を挙げてきた矢野絢也氏でしたが、長年の政治家生活で結局は庶民大衆の代表ということを忘れてしまい、健全な金銭感覚を失ったというほかありません。総選挙に向けて私が挨拶回りを始めた矢先に、頭の上から泥水を浴びせられたようなもので、誠に残念無念の極みでした。

実は、公明党をめぐる不祥事は、政界全体を巻き込んだリクルート事件での衆議院議員の逮捕者も出していました。おまけに、地元・姫路市の男鹿島の砂利船汚職でも参議院議員が逮捕(88年1月)されていました。加えて他にも党に叛旗を翻す輩が散出されるなど、結党から25年の節目を過ぎて、綻びが目立ってきていたのです。「政界浄化」を旗印にした大衆の党・公明党のイメージは一旦地に落ち、泥まみれになってしまいました。世間の目は、「公明党よ、お前もか」との厳しいものとなり、党の信用は大きく失墜してしまったのです。逮捕された人には、私が若き日に憧れた先輩たちもいました。なぜ彼らが堕ちてしまったのか。今に至るまで考える課題であり続けています。

5月18日に公明党は緊急の中央執行委員会を開き、石田幸四郎委員長、市川雄一書記長の新体制を決めます。翌19日の昼過ぎに急遽党県本部で開かれた議員総会で、そのことを私は知るに至ります。とんでもない時に市川さんは重職を引き受けられたんだなあと、思うとともに、我が身の前に横たわる受難の定めとでもいうような厳しい前途を予感したものです。

石田・市川新体制に都議選、参院選のダブルパンチ

この年7月23日には参院選が行われました。竹下登首相がリクルート事件の直撃を受けて退陣したうえ、その後を担った宇野宗祐氏が女性スキャンダルに見舞われるという自民党にとっても悪条件の重なる中での選挙でした。しかも、竹下首相が導入を決断した消費税上げも当然ながら有権者に評判悪く、三つの悪い条件が重なったのです。
その結果、この選挙では自民党は、36議席しか獲得出来ず、66の改選議席から30も減らしてしまい、非改選の73を合わせても109議席にとどまるという大惨敗でした。一方、野党側は初の女性党首となった土井たか子氏の人気やら、マドンナ旋風などで社会党は、改選議席21をなんと倍以上も伸ばす52議席を獲得しました。加えて社会党系の野党統一候補の「連合」の当選者も加えると63議席になり、非改選組22議席と合わせると85議席の大躍進です。

こうした状況の中で、公明党は「竹入・矢野」体制の積年の病弊を払拭すべく、「石田・市川」の清新なイメージで挑もうとしました。しかし、結果は選挙区は4議席、比例区は6議席と、共に1減となって10議席に止まりました。改選前と合わせて21議席になったのです。特に注目される比例区票は、前回に獲得した743万票から134万票も減らしてしまいました。参院選前の7月2日に行われた都議選でも、29から26議席に減らし、25選挙区中22選挙区で得票減という、厳しい結果となってしまっていました。

参議院ではキャスティングボート握る

ただ、この選挙は後々に至るまでの大きな分水嶺になります。これを境に参議院の与野党逆転の構造が定着してしまうのです。つまり、衆院で法案が可決されても、参院で否決されれば、両院協議会で成案を得られなかったり、衆院で出席議員の3分の2以上の多数で再議決されない限り(首相指名や予算、条約承認は除く)、いかなる法案も成立しないという全く新しい事態が生まれたのです。

この参議院の新しい状況の中で、公明党の21議席は大変な重みを持つことになります。予算を伴う法律案を提案出来るだけではなく、参議院で自民党が過半数に17議席ほど足りない構造の中で、キャスティングボート(決定票)を握ることになったのです。つまり、公明党の政治決断で日本の政治が決定づけられることになりました。泥沼に喘ぐ公明党でしたが、一筋の光明が差し込む画期的な展開の兆しともなりました。

人生万事塞翁が馬と言うのでしょうか、はたまた毒薬変じて薬となるとでも言うべきでしょうか。ともあれ、この平成元年はのちのち市川さんが「航海中にマストが折れたような」と表現したように、とてつもない逆境に直面しましたが、公明党は「疾風に勁草を知る」を生涯にわたって座右の銘とした市川雄一という人物を舵取り役に得て、見事に乗り切っていくのです。(続く)

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それは記者会見でのハプニングから始まったー平成元年(1989年)❶【1】

兵庫県庁記者会見の場で

平成元年2月17日。兵庫県庁記者クラブでのことです。私は来るべき衆議院総選挙に先輩の新井彬之さん(当時55歳=故人)の後を受けて衆議院兵庫4区(旧中選挙区)から出馬することになり、記者会見に挑みました。実は、その場所に県庁職員として私の高校同期のM君が報道機関担当者としていたのには驚くと同時に心和む思いがしました。一通りのやりとりのあと、最後になって後方に座っていたある記者が突然手を挙げてこう言ったのです。
「あんたのことはよう知らんけど、応援したるわ。姫路で電器店を営んでる親父と弟の店で、電気製品を色々と買うてくれたみたいやから。お返しせんとなあ」
記者会見場がどっと笑いに包まれたのはいうまでもありません。この記者こそのちに神戸新聞の社会部長になった中野景介氏です。NHKの今をときめく堂元光副会長と県立山崎高校で同期の強者ですが、当時は知る由もありません。いきなりこんな有難い言葉を投げてくれるなんて、嬉しい限りです。無事に兵庫県庁に詰める記者たちとの出会いが終わってホッとしました。

姫路の住まいをどこにするか。悩んだ末に新井さんの家のすぐそばにあった戸建ての建売住宅を購入することに。亡父の遺してくれたお金を当てました。城北新町です。姫路競馬場の南西に位置した静かな住宅街です。新井先輩ご自身もかつて神戸市議から衆議院議員に転身(昭和44年初当選後6期)。二度の落選を経験されるなど、大変な苦労をされました。俳優・池部良風の2枚目で一世風靡の活躍を約20年間されたのですが、体調が思わしくなく引退を余儀なくされたのです。まさに燃え尽きたとの印象でした。ご自分の体験をあれこれと教えて頂きました。そばに住むことにしたのも先輩の政治的遺産を引き継ぐ上で好都合との判断からでした。

家族は一人娘・峰子の小学校卒業の3月を待って転居してくることに。3月20日に私も上京して、昭和47年から18年近く住んだ家の引越し作業をやりました。家内は40年、義母は60年あまり住み慣れた東京中野区白鷺の家とおさらばした(後は借家として活用)わけです。その心中たるや察して余りありましたが、当時の私はひたすら自分の初挑戦・当選しか念頭にありません。生まれて初めての地・姫路の新居に移り、二週間後に広峰中学校に入学をすることになった娘や妻の心境はそれはそれは大変だったと思いますが…。

ご挨拶回りの会話を全てメモに

新天地での私の戦いは、ひたすらご挨拶回りです。地域の創価学会の会員の皆さんのお宅を一軒一軒回る一方、大きな会合での幕間のご挨拶から、少人数での語る会での懇談やら会社訪問に至るまで、まさに疾風怒濤の日々が始まりました。最初の頃は、ただ闇雲にご案内頂いたところに行ってご挨拶するだけでしたが、やがて私は一軒ごとに回った先のお宅の特徴、相手と交わした会話をメモにして、帰宅後深夜にそれを整理していきました。一つひとつ覚えていったのです。次に会った時に、話す材料にするためです。やがて、メモを取らずテープに吹き込みもしました。なかなか大変な労苦でしたが、これがのちに大きく花開くはずと思えば楽しくもありました。

もう一つ忘れられないことは、実は私はそれまで、自転車に乗ったことがありませんでした。小学校2年の時に、小高い丘の上の家に住んだだため、その必要がなかったのです。選挙に出るとなると、当然ながら自転車を乗り回さざるを得ません。いい歳をして自転車の練習を始めることになりました。家の前の空き地でゴトゴトやってると、二階の窓から中学生の娘が「お父さ〜ん。背筋をもっと伸ばして〜。傾いてるわよ〜」と大きな声で注告してくれるのです。恥ずかしいやら、みっともないやらでした。一度だけ転びましたが、無事に〝免許を取得〟できたときの喜びは、恥ずかしながらとても大きいものがありました。(続く)

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「喪失」との戦いの末ー第2部平成編の はじめに

「平成」の始まりは印象的でした。昭和64年の新年になってすぐ、昭和天皇の容態が悪化し、とうとう一週間で身罷られたのです。つまり1月7日に。翌8日から新しい年号が始まりました。あの「平成」と書かれた色紙を持った小渕恵三官房長官(当時)と共に新時代は始まったのです。それから31年(正確には30年と4ヶ月ほど)続いた「平成」とは、どんな時代だったのでしょうか。極端に否定的な捉え方は、「失われた30年」というものに尽きます。また、昭和が「戦争の時代」だったことに比べて、戦争はなかったが、「大災害の時代」との規定づけもあります。確かに、阪神淡路の大震災から、あの福島第一原発の大被災をもたらした東北関東大地震に及ぶまで、数多い地震災害が日本列島を襲いました。そうした負の流れを食い止めるかのように、国民に寄り添われる天皇、皇后のお姿が目に焼き付いています。
そうした時代を私は政治家として駆け抜けました。新時代の到来に符節を合わせたように、平成元年(1989年)2月に記者会見をして出馬宣言をし、一年間走り回ったのですが、翌年の総選挙では次点の憂き目を見てしまいました。その後、苦節足掛け5年の末に沢山の皆さんの真心の支援を頂いて、ようやく当選を勝ち取ることが出来ました。平成5年(1993年)7月のことです。以来、6期20年にわたって衆議院議員を務めていくことになります。平成24年(2012年)暮れの引退までの25年間、四分の一世紀の自分の足取りをこれから回顧していきます。

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