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【27】自自公連立の舞台裏でネットを駆使ー平成11年(1999年)❷

インターネット上にコラムを掲載

平成11年(1999年)という年は、私にとって(いや、よほどの幼な子でない限り、誰でもでしょうが)極めて重要な年でした。20世紀末(正確には2000年がそうであるにせよ)、やはり1999という四桁は、その世紀の末尾を思わせたからです。この年の劈頭から私はインターネット上にホームページを開設して、週に一回、国会の状況を報告するコラムや新幹線車中において読んだ本の読書録を掲載することにしました。これは元新聞記者として、やむにやまれぬ性(さが)とでもいうべきものでしょうか。本来、政治家としてやるべき政策立案や調査活動をそこそこにして、〝書くこと〟を優先させてしまったのですから。しかも、そのコラムの字数を2000としたことにも企みなしとしません。1999年という世紀末に始めたからです。2000字以内という制限に記者としての矜持を持ち込んだ(今は制限なし)つもりです。ともあれ、この試みは結構話題を呼び、様々な媒体に紹介されました。

新聞各紙に紹介される

最初に登場したのは、讀賣新聞の「取材メモ」(5月18日付)。長くなりますが全文転載します。
ー 国会議員の多くは「金帰火来」と言われるように週末ごとに地元へ帰る。飛行機や新幹線での移動時間は、ひたすら眠る人、後援者へのはがき書きに追われる人、パソコンで電子メールを送る人など様々だが、ちょっと変わっているのが公明党の赤松正雄衆議院議員。
地元・兵庫県姫路市との間の往復7時間の新幹線で毎週二、三冊の本を読み、政界のこぼれ話や、時事問題に絡めて約二千字の書評に仕立て、「新幹線車中読書録」と題してインターネットの自分のホームページで毎週、公表している。登場するのは、政治や外交・防衛などの専門書からスパイ小説まで幅広い。
十七日付けの最新版では「裁かれるのは誰か」(中坊公平・錦織淳著、東洋経済新報社)などを題材に「裁判官のオタク度は高い?」との題名で裁判官の閉鎖性などを論じた。
「自自公連携」で本業も一段とあわただしくなっているが、書評執筆は「つかの間の現実逃避」で、気分の切り替えには欠かせないそうだ。(柴田岳)
これを書いた柴田記者は、当時は公明党番記者でしたが、後にアメリカ総局長から政治部長などを経て、今では同社編集局の最高幹部になっています。今も私は大変親しく付き合っています。

その他『夕刊フジ』では、「政治家もHPで情報発信」との凸版付きのもと、「達人のPC利用術」「ザウルスで秘書に原稿送信→週二回更新」「新国会リポートに新幹線車中読書録」などの見出しもふんだんに折り込んでの大きなたたみ記事となりました。8月11日付けです。また、9月20日付けの日経新聞の「あの人 この人 消息」欄にも紹介されました。そこでは「私の読書録を参考に本を買うという人や、逆に『これを読んだら』と薦めてくれるメールもあり、双方向の交流を実感している」と述べています。

「自自公」連立の流れ

この年、政治の表舞台では、後々までの流れを決定づける大きな動きが本格化していました。先に動いた自民、自由のいわゆる自自連立に加えて、公明党にも閣内協力を求めようとの流れです。最初の兆候は、5月2日の訪米中の小渕首相の同行記者団に語った発言でした。「公明党は日米防衛協力のための指針(ガイドライン)関連法案をめぐり現実的対応をした。(中略)今回のことを通じ、自自、自公、もっと言えば、自自公という形で協力して究極の国民に対する責務を負うことができれば、これは大変大切なことだと思う」というものです。

その後、6月いっぱいの瀬踏みとでも言うべきやり取りの後、6月28日の自民党役員会で正式に小渕首相は公明党に閣内協力を求めることを表明したのです。そして7月7日に小渕、神崎両党首によるトップ会談がもたれ、首相から公明党への連立政権参加への要請がなされました。そこでの首相の発言は「昨年来の未曾有の不況の中、公明党の協力を得て、金融関連法案の成立、予算の早期成立を図ることができたこと。公明党の果たした役割の大きさは、今日の経済の回復傾向に顕著に現れていることを見れば歴然である」というものでした。

これを受けて公明党は、7月中に各種、各段階での党内手続きや支持母体の創価学会との調整を続けます。最終的に同月24日の臨時党大会で連立政権参加の方針を正式に決めました。ここで神崎代表は「日本の政治には、未曾有の難局を乗り越える政治的リーダーシップ、それを遂行するためには政治の安定が何よりも必要」と述べるとともに、「政権協議が整えば、堂々と連立政権に参画し、内閣の一員として、その責任を共有すべきだと考える」と発言しました。こういった発言に対して、党大会の席上、かなりの異論や懸念する声が出されました。

例えば、「唐突過ぎる。公明党が目指す新しい政権のパートナーにふさわしい自民党に変革したのか」「従来型の是々非々でいいのではないか」「自社さ政権の社会党の二の舞になるのではないか」「なぜ閣外協力でなく、閣内協力の選択肢を取ったのか」ーなどといった風な厳しいものばかり。聴いていてそれなりに共感を抱いたものです。神崎代表は、「公明党の中道政治を実現するいいチャンスだ。真正面から受け止め責任を分かち合うべきだ」「公明党は基本政策を明示した上で、自民党との政策協議を進めていくので、社会党の二の舞にはならない」などと、誠意を込めて、保守中道政治の展望を語っていました。

私も早速地元紙からインタビューを受けました。今振り返ると、なかなか良いこと言ってます。
(2020-4-5公開 つづく)

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【26】楽しんだ宮澤蔵相との初顔合わせー平成11年(1999年)❶

念願の宮澤蔵相に質問のチャンス

ところで、私はこの時まで自民党の橋本、小渕の両首相には本会議や委員会で質問をする機会はありましたが、宮澤元首相とは相まみえたことはありませんでした。38年間続いた自民党単独政権の最期の首相としての宮澤喜一氏は、しばしば徳川最期の将軍・徳川慶喜になぞらえられたものです。私としては、公明新聞記者時代に歴代総理大臣の予算委員会での答弁を聴いていてー佐藤栄作首相から中曽根康弘首相までー、その卓越した答弁力に深い感銘を受けることがままありました。新聞記者を辞して秘書になり、自分が候補者となり、そして落選を経て代議士になる間の首相たちー竹下首相から宮澤首相までーとは、縁がなかったのです。そんな私にとって、小渕内閣で、副総理兼大蔵大臣になった宮澤氏は、ある意味で憧れの的でした。一度は委員会質疑をしたいものだと思っていたのです。

そんな折についにチャンスが巡ってきました。平成10年12月2日。財政構造改革に関する特別委員会でのことです。今、この時の質疑を議事録で振り返りますと、冒頭に私は、小沢一郎氏と宮澤喜一氏との間の安全保障観の違い(海外における自衛隊の武力行使問題を巡っての法解釈について)といったことを訊いているのです。財政構造改革を問う場面で、その時点での同氏の所管外の問題を持ち出すとは、ホットなイッシューとはいうものの、中々大胆なことでした。で、そのやりとりたるや如何に。

宮澤さんは「小沢さんとは何回となく議論をしながら、非常に裨益をして(役に立つ、助かるという意味) まいったものですが、私自身は、我が国は外国において武力行使をしてはならないというふうに考えております」と答える一方、「小沢さんは武力行使ということについては、同じく慎重」だが、「国連ということなら別の問題だと考えておられる」と答弁されたのです。で、それ以上は踏み込まないで、「将来における日本のあり方を巡って二人の政治家がディベートしたものとして理解してほしい」と軽くいなされました。

二兎を追うもうまくいかず

本題の財政構造改革についての質問の要点は、景気悪化の状況の中にあって、いかに財政の改革を成し遂げるかという問題でした。私は、景気浮揚策と財政の構造改革という二つの課題解決を双方とも目指す、つまり二兎を追うことは難しいのだから、景気浮上という一兎に絞るべきとの観点で質問しました。宮澤さんは、これには「二兎を追うことは無理だった。そういうことでは甘さがあった」とあっさり認める答弁をしました。拍子抜けしたことを覚えています。思えば、この課題は今に引きずっているわけで、事態は一向に改善されぬままにきたっているのは困ったものです。

なお、この当時の経済企画庁長官(今で言う経済財政担当大臣)に、堺屋太一さんがついていました。経済評論家として著名な人を小渕首相は投入したわけですが、この日の委員会に出席していました。私は当時話題の「地域振興券」について、その政策的効果を問いました。堺屋さんは、「大変高度な政治判断によるものだと承知している」が、「地域振興にも期待は持てるのではないか」とのいささか含みのある答弁をしました。経済の専門家としてはしぶしぶだったことがみえみえの答弁でした。私は公明党発の発想によるものだっただけに、あまり政治判断云々を強調されるべきではない、とチョッピリ嗜めることを忘れませんでした。

統一地方選で取りこぼす

4月の統一地方選挙では、県議選で二箇所(垂水区と兵庫区)、神戸市議選で一箇所(東灘区)の合計三箇所で落選をしてしまいました。懸命の応援をしていただいた支持者の皆さんには本当に申し訳ないことになりました。垂水区の候補者は市議会議員からの転出(市議を辞めて新たに県議に挑戦)でありましたが、涙を飲むことになったのです。次回も挑戦することになるかどうか見通しは立ちません。無収入になると、たちどころに生活に困ってしまいます。当面私の地元私設秘書として働いてもらうことにしました。政治家は落選すると地獄だということを改めて痛切に味わったものです。

「朝日」にコメント、テレ朝の「サンプロ」に出演

この年の春先には新聞やテレビに登場する機会が増えました。まず、3月25日の朝日新聞には、不審船事件の「発言録」として「必要最小限の有事法制必要」とのコメントが掲載されます。また、4月1日付の朝日新聞にも、ガイドライン法案の「他党の主張をこう見る」とのタイトルで、自民・中谷元、民主・岡田克也氏らとともに、登場しています。「日本の自主性保てるか」の見出しで以下のように発言しています。

「自民党の議論は、米国を全面的に信頼することを前提にしている。これまでの日本の外交・安保政策が米国のいいなりだったという伝統からして、日本が米国に引きずられないか、自主性が保てるかどうか、疑問だ。「後方」がたちどころに「前線」になって、一歩間違うと日米安保条約の枠どころか、憲法の枠さえ超えかねない危険を感じる。米国に配慮するばかりでなく、日本国民への配慮を忘れないようにすべきだ。自由党は、船舶検査の前提とされている国連安保理決議を外すとの主張に見られるように、憲法が禁じている集団的自衛権の行使に踏み込みかねない。共産党は、安保条約否定の立場から『自動的に参戦する法案だ』などの角度から攻撃しているが、それほど米国をこけにしていいのか。社民党の主張も先祖帰りの印象で無責任で気楽な議論が目立つ」

また、5月2日の朝、テレビ朝日の人気テレビ番組「サンデープロジェクト」に出演しました。田原総一郎氏の司会です。ここでは概ねいい感じで、初出演を無難にこなしたのですが、番組の途中で、田原氏が私に向かって「冬柴さん」と呼びかけたのです。私個人の存在を認めず、幹事長の名前を呼ぶことで、公明党は誰も同じ意見だろうとの挑発を受けたという風にとれました。

コマーシャルの短い時間に、私は色をなして「似てないでしょ。いい加減にしてくださいよ」と文句をいいましたが、後の祭りでした。彼は若い議員を、時にいたぶり、時におちょくって、鍛えるという側面があるようです。真っ正直な私はその手に乗らず、その後一二回彼の番組に出演しましたが、結局は彼とは遠い関係のままに終わったようです。(2020-4-2公開=つづく)

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