Monthly Archives: 6月 2020

【60】さい帯血バンクの活動支援に関与ー平成18年(2006年)❹

●腰痛とのたたかいー階段とカイロと

5月に入って厚労省の一階エレベーターホールにポスターが貼り出されました。「始めてますか?階段利用」というポスターです。エレベーターを使わず、階段を使って歩くことで生活習慣病を予防しようという狙いが込められていました。

私も厚労省に通うようになって、10階の副大臣室まで歩くことを心がけました。云うは簡単ですが実行するのは大変でした。この頃、私は若き日に痛めた腰がよくなく、身体にいいからとジョギングを暫くしても、すぐに腰痛を併発する有様でした。丁度そんな時に、遠山清彦代議士の紹介で、日本カイロプラクターズ協会の村上佳弘事務局長が副大臣室にやってきました。「カイロは欧米や豪州、アジア各国で正式な医療に位置づけられ、大学医学部の教科にも組み入れられているのに、日本ではそう扱われていない。このため豪州の大学の分校という形をとっている。何とか日本でもカイロが市民権を得られるようにして欲しい」ーこれが要望内容でした。

私はそれまで、腰痛が起こると、鍼灸、整体、整骨院などのお世話になっていましたが、カイロについては全く無知でした。そこで、まずはものは試しに、と村上さんの治療を個人的に受けるようになりました。60歳を迎える年のことです。いらい、多少の紆余曲折を経たものの、腰痛は完治しました。のちに、予算委員会分科会で質問に立ってカイロの効用を説くまでになり、やがて、村上さんと一緒に『腰痛にはカイロが一番』という電子版小冊子まで出版するようになったのです。

●さい帯血バンクの諸活動を支援

さい帯血バンクに関する動きを支援したのも副大臣時代の仕事の一つです。兵庫県には有田美智世さんという永年にわたってこの問題に取り組んできたリーダーが在住しています。彼女は当時、NPO法人兵庫さい帯血バンク(理事長=芦田長司元県副知事)の副理事長でもあり、様々な運動を展開し、公明党が最も支援してくれているとの率直な発信をしてくれていました。

私も搬送ボランティアの皆さんたちと一緒に、採取病院(久保みずきレディースクリニック=神戸市)から、兵庫臍さい帯血バンク(西宮市)まで搬送を体験したうえで、同バンクの視察に行ったりしました。この体験談めいたものを、同バンクの機関紙に寄稿していますので、以下に掲載してみます。

【さい帯血の搬送にボランティアの方々と同行して、三つの感動をした。一つは、生まれたばかりの赤ちゃん7人と会えたこと。みずみずしい生命に無限の活力感じた。二つ目は、雨の日も風の日もたゆまず続けてこられたボランティアの女性たちの努力。持続は力を実感した。三つは、何もないところから今日までに、さい帯血バンクの運動を盛り上げてきた有田さんの努力。当初から知っているが、そのエネルギーには感服した。

搬送に同行させて貰った後、NPO法人兵庫さい帯血バンク理事長芦田長司氏の要望を受け、東京さい帯血バンク理事長の青木氏から保険適用に向けての具体的提案などを聴く一方、厚生労働省の臓器移植対策室長からさい帯血の現状を聞くとともに、さい帯血バンクの運営状況などの報告を受けた。11のバンクの収支状況は、人件費が多大のウエイトを占めていることや、保険適用をめぐる問題の所在が理解できた。引き続き多方面から問題の所在を探っていきたい。】

この運動は、その後10年(2014年に終了)に渡って続けられました。山本香苗、古屋範子、高木美智代さんら公明党出身の女性の厚生労働副大臣たちが先頭に立って、私が関わった仕事を受け継いでくれて確実に実績を残してくれていることは大きな誇りです。

実は、有田さんは「へその緒通信」なるコラムを雑誌『灯台』に連載していました。この年の10月号に、微に入り細にわたって、私のことを書いてくれました。これは、さい帯血事業をめぐっての私に対する厚生労働省の担当官の説明がずさん(同事業は全てうまくいっているという捉え方)であることを見抜き、的確な対応をアドバイスしてくれたことがベースになっています。このあたりについて、以下のように書いています。

【私は公明党の現場第一主義の強みは、現場の人間と直接対話をしているからこそ、官僚にごまかされないということを実感しました。赤松さんにとって、さい帯血の問題は、山のようにある厚生労働省の仕事のほんの一部分でしょう。でもそうした仕事に対しても、正しい情報を手に入れ、素早く矛盾点を糾し、的確な行動をしようという姿勢を貫いてくれています。私は、こうしたフットワークの軽さが公明党の議員の身上だと思うのです。】

有田さんのいうがままに動いた結果に過ぎず、私がボーオッとしていて、危うく騙されそうになったところを彼女に助けられた(見出しは、「現場第一主義であれば官僚にだまされない」となっていました)に過ぎません。恥ずかしい限りの顛末でもありますが、ここは素直に喜ぼうと思いました。

●朝日新聞のコラム「政態拝見」に登場

当時、朝日新聞のオピニオン面に『政態拝見』なる大型コラムがありました。6月6日付けには、「ヤジと怒号」というタイトルのもとに、「『国家』を論じる作法とは」との見出しで、ヤジと怒号ばかりの若い自民党議員たちの態度を嘆き、嗜める一文を、根本清樹編集委員が書いていました。そのコラムの最後の部分に私のことがしっかりと書かれていました。以下にそのくだりを引用します。

【小泉政権最後の通常国会も、会期末が迫ってきた。耐震強度偽装やライブドア事件など「4点セット」が今国会の焦点だと言われていたころ、もう一つの重要な4点セットが存在すると力説していたのは公明党の赤松正雄氏だ。憲法改正国民投票法案であり、教育基本法の改正であり、防衛庁の「省」昇格法案である。

現在は厚生労働副大臣だが、憲法や安全保障を専門とする赤松氏らしい着眼だった。民主党の「偽メール」問題で、本来の4点セットは後景に退いた。赤松版4点セットも、軒並み先延ばしになりそうである。赤松氏はいま、「いずれも簡単に片付けていい話ではない。じっくり腰を落ち着けて議論すべきだ」と話す。

毎年の予算や、時々の政策課題を、政治は日常的に処理していかねばならない。しかし、憲法など「国家のありようそのものに関する問題」については、別途、「恒常的に議論していく場」が必要だという発想である。こうしたテーマを扱う場合には、少数政党の意見によく耳を傾けていくべきだとも言う。「この点、私は共産、社民びいきだ」そのような議論の進め方に、日本の政治が習熟しているとは言い難いが、赤松氏は「ここ数年にわたる憲法論議がひとつのトレーニングになった」と希望を語る。当選一回とおぼしきヤジ議員たちのトレーニングは、これからか。】

これを書いた根本編集委員は、その後政治部長を経て、天声人語子となり、論説委員長となっています。公明党担当、憲法担当として長く付き合いました。私が深く尊敬する言論人のひとりです。(2020-6-29公開 つづく)

【60】さい帯血バンクの活動支援に関与ー平成18年(2006年)❹ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【59】ベトナムでの鳥インフルエンザ会議へー平成18年(2006年)❸

●ベトナムでの貴重な体験

鳥インフルエンザの問題で、ベトナムのダナンで国際会議が行われることになり、5月3日から四泊五日の予定で出張することになりました。10ヶ月の副大臣時代に四度も海外出張を経験することになったのですが、その皮切りがこのベトナムへの旅です。中島正治健康局長を始めとするメンバーと一緒でしたが、3日はハノイに入り、服部則夫・駐ベトナム大使と懇談することにしました。同大使は2002年から赴任。この年で既に4年経ておられ(最終的に5年半駐在)、日越関係の深い部分をあれこれと教えていただいたしだいです。

ハノイでは翌日、ホーチミン廟を見学したり、同国労働副大臣と会見した後、市内を見学。夜にダナンに移動して、翌日の会議の準備を皆で打ち合わせました。5日は終日ダナンでの会議に臨みました。翌6日は旧サイゴン(現在のホーチミン)に移動するなど、短い期間に同国の三大都市を全て見たことになります。駆け足の旅でしたが、随所で活力溢れる人々の動き、街並みの強かさに感じ入りました。鳥インフルエンザの対応を議論する会議の場でも、進行役から裏方を仕切りつつ、同国担当者は熱心な取り組み姿勢を示していたと記憶しています。今回のコロナへの対応も台湾などと並んでアジア、世界でも出色の見事な振る舞いをベトナムは見せたと認識しますが、むべなるかなとの思いです。

アメリカとの戦争に一歩も引かず、超大国を苦しめ抜き、ついには追い出すことに成功したり、巨大な隣人中国との間断なき中越紛争にも決して負けない強国ぶりを発揮してきたベトナム。まさに世界で最も強い国と言っても過言ではないかもしれません。空港に送ってくれた大使館勤務の現地人青年とあれこれ言葉を交わしましたが、極めて謙虚なうえ、自民族に対する深い誇りの念を感じることが出来、爽やかな印象を持つことができました。

この時のチームで一行の公式通訳を担当してくれたのが田中祥子さん。この人は著名な英語通訳者で、初めて会った瞬間からとても打ち解け、一気に親しくなって、この旅に貴重な彩りを添えてくれました。ロシア語通訳者で作家の米原万理さんと親友ということでした。かねて彼女の著作を殆ど総なめにしていた私は、大いに興味を持ち、「ぜひ一度お会いしたいですねぇ」「会わせますから」ということになったのです。楽しみにしていました。ところが、米原さんは私たちの帰国直後に大病を患われ、6月25日にあっという間に不帰の人になられてしまったのです。本当に残念なことでした。

●エイズキャンペーンでの新宿西口駅前でのできごと

私の副大臣時代の様々のできごとの中で、閑話休題的なエピソードで最たるものは、小泉首相を囲んでの初の副大臣懇談会があった時のこと。官邸の地下でお酒を飲みながらの場だったのですが、この席でまことに楽しいやりとりが私と小泉首相との間であったのです。その話には伏線、前提がありました。順序としては、それから触れないと、意味が分からないので、まずそれからお伝えします。

それはGW中のこと。キャンディーズのスーちゃんこと、田中好子さんと一緒に、エイズキャンペーンを街頭でするので、副大臣も一緒にお願いしますとの依頼を受けました。新宿駅西口の駅頭に1時間あまり立って、ビラや、コンドームを道ゆく人に配るというものでした。私は恥ずかしながら、スーちゃんが、かねてこの反エイズのイメージキャラクターとして有名だったことは知りませんでした。むしろ、このタレントが西播磨名産の揖保乃糸のイメージキャラクターであることは、東京駅などで見かけるポスターで知っていました。

そんなことから、当日、初めて会って、名刺交換した際に、「田中さん。私は、姫路、西播磨を選挙区としています。私と貴女は赤い糸ならぬ白い糸で結ばれていますよね」との軽口を叩いたのです。つまり、選挙区が揖保乃糸の名産地であることから、二人は〝白い糸〟で結ばれている、との洒落れです。彼女は一瞬怪訝な顔をしましたが、殆ど間髪入れず、ニッコリ。「いやあ、そうですねえ」と、嬉しそうに応えてくれました。

●副大臣懇談会での小泉首相とのやりとり

さて、ほぼ一ヶ月後の5月30日のこと。副大臣懇談会が行われました。その場に臨んだメンバーには官房長官だった安倍晋三をはじめ、総務副大臣・菅義偉(現官房長官)、法務副大臣・河野太郎(現防衛大臣)、外務副大臣・塩崎恭久(後の官房長官)ら錚々たる面子が顔を揃えていました。開口一番。小泉首相から「今日は、日頃のそれぞれの仕事で報告すべきことをしてくれるか」とありました。皆真面目に、きちっと話し始めました。私は本来天邪鬼的気質が強くありますので、こういう場面ではつい、悪戯心で面白い話をしたくなるのです。

私の番が回ってきました。いきなり、私は「総理。この間、エイズキャンペーンで、私はスーちゃんと一緒に新宿の西口でコンドームを配りましたよ」と言ったのです。すると、総理は、「ん?スーちゃんって誰だ」と聞き返してきました。それには私が答える前に、周りから、あれこれ口を挟む声があがり、キャンディーズという女性3人の歌手グループの一人だと説明してくれました。総理はすると、「なんで赤松がエイズキャンペーンでそのスーちゃんとやらと一緒にコンドームを配るのだ」ときました。そこで、私が「二人は赤い糸ならぬ白い糸・揖保乃糸で結ばれていまして。これって、直ぐに切れますけど」とやったのです。

首相は、今度は「揖保乃糸ってなんだ?」訊いてきます。驚きです。この有名な素麺の銘柄を総理はご存知なかったのです。私は即座に、「河本さん。総理に説明をして差し上げて」と、ふりました。河本三郎文科副大臣は龍野という揖保乃糸の本場出身だからです。そんなこんなのやりとりが繰り返されて一呼吸経ったとき、一転、小泉さんの逆襲が始まりました。「よし、分かった。じゃあこっちから聞くが、コンドームって何語だ?」ときたのです。皆口々に、英語に決まってるでしょ!ン?フランス語?いやスペイン語かな?って、ひとしきり飛び交いました。小泉さんは、ニヤリ笑いつつ「日本語だよ。今度産むっていうだろ」と。場内大笑いで、幕となりました。

他愛もない笑い話で、官邸の地下でこんな話が副大臣会議で出たというと、まずいと思いましたが、翌日のスポーツ紙にしっかり出ていました。誰かがリークしたのでしょう。尤も言い出しっぺの名前には触れられていず、ほっとしないでもなかったのですが、このことの責任はひとえに私にあります。(2020-6-27公開 つづく)

【59】ベトナムでの鳥インフルエンザ会議へー平成18年(2006年)❸ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【58】評判悪かった「後期高齢者」の名称ー平成18年(2006年)❷

●委員会での答弁から

厚労副大臣として、通常国会において、厚生労働委員会などでの答弁を担当する一方、各種の会合で挨拶をしたり、その合間に多くの陳情を受ける機会があり、当然のことながら大変に忙しい日々を過ごしました。

例えば、今は愛知県知事をしている大村秀章氏が質問にたち、後期高齢者医療制度の考え方を述べよと、訊いてきたことに対して以下のように答えています。

【急速な高齢化のなか、大胆な制度改革が求められています。従来の老人保健制度は、保険者間の共同事業として構成されているために、一つは運営主体が不明確であること、もう一つは、高齢世代と現役世代の費用負担が不明確であるとの問題点が指摘されています。そうした中で、負担のあり方について、国民の納得と理解が得られるようにするため、高齢世代と現役世代の負担を明確化し、わかりやすい制度にする必要があるのです。

また、財政運営の責任主体を明確化するとともに、高齢者の保険料と支え手である現役世代の負担の明確化・公平化を図ることを狙いとして、後期高齢者医療制度の創設を考えました。さらに、後期高齢者の心身の特性等に相応しい医療が提供できるよう、新たな診療報酬体系を構築したいと考えています】

短い発言の中に、明確、不明確という言葉が4箇所も出て来ますが、そのわりにはわかりにくいかもしれません。本格的なやりとりは大臣との間でこのあと行われており、私は概括的な説明役でした。

●健保連総会での挨拶から

2月17日には健保連総会が開かれましたが、そこに来賓として出席して、政府が考える「医療制度改革大綱」に基づいて提出された「健保法改正案」のポイントを三つに絞って説明しています。

第一は、生活習慣病対策の充実や、平均在院日数の短縮といった中長期的な医療費適正化対策を計画的に進めようとしていることです。その一環として、平成24年度までに、療養病床の再編成を進めていきたいと考えています。さらには、現役世代並みの所得のある高齢者の患者負担の引き上げなど、短期的な医療費適正化対策をも同時に進めることにしています。

第二は、世代間や保険者間の負担の公平化、明確化を図るため、安定的な高齢者医療制度を創設することにしています。ここで、75歳以上を後期高齢者と定め、そのひとたちの加入する医療制度については、保険料、現役世代からの支援及び公費を財源として、都道府県単位の広域連合が運営することにしています。また、前期高齢者の医療費については、保険者間で財政調整を行うことにしています。

第三は、この制度を進めるにあたっては、都道府県単位を軸とした保険者間の再編、統合を進めていきます。健康保険組合については、再編・統合の受け皿として地域型健康保険組合の制度化を盛り込んでいます。

これら一連の改革及び今回の診療報酬改定によって、健保組合全体で見れば財政負担の軽減が見込まれています。それぞれの健保組合にとって、過大な負担とならないように、個別の健保組合の状況に応じて、高齢者に係る納付金を軽減するなどの措置を合わせて講じる構えです。

●死に至る準備をする年齢として

この制度改革をめぐっては、まずなによりも「後期高齢者医療制度」というネーミングがいけないという批判が巻き起こりました。75歳以上を後期高齢者、65歳以上を前期高齢者とするのは、年寄りを差別し、線引きするもので、死に追いやるつもりかという風な感情論だったと思われます。

実はこの名称をめぐってはもちろん厚労省の中でも事前に議論がありました。特に、私は、辻哲夫事務次官との間で以下のような会話をしたものです。「自分自身の死を我が身の問題として捉えるという当たり前のことが昨今、忘れられていませんか」「あたかも無制限に生き続けるかのような錯覚がありますね」「やはり、人は一定の年齢になったら、皆死への準備をする必要があるよね」「その年齢としては75歳が相応しいね」といった会話をし、互いに共通の認識がありました。正直、当然のように、「後期高齢者医療制度」との名称はそのものズバリで問題なしとしていたのです。

ですが、法案審議が始まって、色んなところで、説明をしたりするにつけて、率直な反発を受けるに及んで、変更を余儀なくされていきました。問題は本質的なことではなく、むしろ名称にみる厚労省の高齢者への感性を疑うというようなことが強くあったようです。そんなことから、では「長寿医療制度」ではどうか、ということになり、別名併記となったように記憶しますが、ほとんど今では使われていないように思われます。

●介護保険制度をめぐって

今でこそ介護保険制度は定着していますが、スタートして5年余だった私の副大臣時代は未だよちよち歩きの状態でした。日本シニアリビング新聞という業界紙にインタビュー記事が掲載(4-20付け)されましたので、紹介します。

ー厚生行政の柱の一つが介護ですが、どのように見ていますか?

赤松)介護保険の総費用は、2004年度に3兆6000億円だったのが、06年度予算では7兆1000億円になっています。65歳以上の人は約2500万人。このうち、75歳以上は、約1100万人です。認知症の方は約170万人。介護サービスを利用している人は、00年に97万人だったのが、05年には251万人(在宅)にもなっています。改めてこういう数字を見ると、「この6年間で家族任せだった問題が社会全体の問題になったんだなあ」という印象を受けます。

ー介護保険制度は4月から大きく変わりました。

赤松)予防重視型システムへの転換です。これは重要だと思います。私は60歳になりましたが、週末に約10キロ走っています。最初は無理かなと思ったんですが、続けているうちに楽ではないけど走れるようになりました。介護予防も同じではないでしょうか。長寿はますます進みます。「平均寿命100歳時代になる」という人もいます。介護とは、「健康で長生きする」ためのものです。

ー具合が悪くなってからではなく、具合が悪くならないようにする、ということですか。

赤松)そうです。

ー「介護保険にはまだまだ問題がある」という指摘があります。第一号被保険者の保険料が高過ぎるという声はよく聞きます。

赤松)4月から全国平均で4090円です。確かにこのまま増え続けたら、大変なことになるかもしれません。

14年前のこのやりとりを今、後期高齢者寸前の私が読みますと、複雑な心境になります。つい先日住んでいる地域の市当局から、介護保険料の向こう一年の予定額が届きました。ずっしりと重い金額です。家族三人全員が70歳以上の高齢世帯ですが、今のところ払う一方の立場です。恩恵に浴しているものは95歳の義母を含めてゼロというのは、やはり喜ぶべきことなのでしょう。(2020-6-25公開 つづく)

 

【58】評判悪かった「後期高齢者」の名称ー平成18年(2006年)❷ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【57】手探りで厚労行政への出発ー平成18年(2006年)❶

●厚生労働省というお役所

厚生労働省の副大臣室は霞ヶ関の中央合同庁舎5号館の10階にあります。上層部分には環境省が入っていて、二つの役所が同居しています。私の上司たる大臣の席についたのは川崎二郎さん。三重県選出のベテランであの自転車事故で倒れた元財務相の谷垣禎一さんの片腕とも言われた大物です。同じ大学出身で、私の方が歳上。ただし、政治家歴ではずっと後塵を拝してきました。副大臣は二人いて、私は厚生業務担当。もう一人労働行政を担当する副大臣は中野清さん。埼玉県川越を地盤とする中堅代議士です。政務官は西川京子さんと岡田広さんでした。事務次官は、辻哲夫さん。歴代の次官の中でも特筆されるべき切れ者との評判の逸材でした。この人は、兵庫県出身で後々まで深い関係を結びます。そして、私を助けてくれた秘書団は宮崎淳文課長補佐(当時)を中心に全部で男女5人。他に専属の運転手も付いてくれました。ほぼ一年の間、このスタッフには本当にお世話になりました。〝チーム赤松〟は15年経った今も続き、これからも続くはずです。

元々医療分野の厚生省と働く人々にまつわる分野の労働省と、大きく二つに分かれていたのが2001年の行政改革で合併されることとなりました。この時点で5年が経っていました。厚生行政は天皇家始め宮家との関係が深く、就任直後の挨拶回りは、普段は全くご縁のない高貴な場所に行くことから始まったことが印象に残っています。

●記者会見と就任の挨拶から

副大臣に就任した11月2日の夜、厚労省記者クラブで就任会見を行いました。その中では「厚生労働省としては、年金改革に一区切りがつき、障がい者自立支援法にも区切りをつけて、来年のテーマは、医療制度の改革であると認識しています。その課題解決に向かってしっかりと取り組んで参りたい」と述べています。

また、4日には、厚生労働省の職員を前にして、以下のような挨拶をしました。

【人間の安全保障ともいうべき分野に取り組んでいる皆さんと、このたび一緒に仕事をすることになりました。厚生労働省の仕事は、現実生活そのものに深く関わっています。これまで直接的には関わってきませんでしたが、今後の日本の政治の大きな軸である「福祉」には、非常に大きな関心を持っています。この分野は今、大きな転機を迎えているのではないでしょうか。厚生労働省の仕事にあまり習熟していない政治家の登場に対して、色々な想いが皆さんにあろうかと思いますが、私たちも大臣中心にチームを組んで精一杯取り組んでいきますので、よろしくお願い申し上げます】

なんだか意味不明ですが、よく読むと意味深長なくだりもあります。聞いていた職員の受け止め方は定かではありませんが、「変わった副大臣だなあ。まあ、俺たちは自分の仕事をすればいいので、あんた達もしっかり頑張ってよ」といったところだったのであろうと思います。

●佐藤製薬でイチロー、星野監督と出会う

就任後の様々な出会いで印象に残っているのがプロ野球・イチロー選手と星野仙一元監督との出会いです。どうしてって、思うでしょうね。佐藤製薬主催の会合に呼ばれたのですが、彼らは共に同社の販売する薬のイメージキャラクターでした。イチローさんはユンケル、星野監督はストナの担当です。主催者側の計らいで、催しの始まる前に、わざわざイチローさんとのツーショットの場面を作ってくれました。「ユンケルって効きますか」「もちろん。いつも飲んでますが、最高です」ーこんな他愛もないやりとりを交わす間にカシャ、カシャっとシャッターが切られました。色々聞く間も無く、後で待っている次の人と交替となってしまいました。

一方、星野監督とは懇親会の場面で同じテーブルを囲んであれこれ会話を交わしました。実は私と彼とは同じ時代を共有しています。星野さんは東京6大学リーグの明治で鳴らした有名選手。私は当時、神宮球場に通って主に早慶戦を見物したりするだけの平凡な学生。ただし、私はこの頃から有名だった谷沢健一、田淵幸一、山本浩二選手らのことをよく知っていました。特に、私のクラスには後にプロ野球選手になった藤原眞選手(兵庫県西脇市出身)がいましたので、そんなよもやま話ですっかり盛り上がってしまったのです。楽しいひと時でした。

●ついでに、大相撲・鶴竜とのご縁も

スポーツ関連の話題でいいますと、もう一つ、大相撲があります。私の地元姫路にあるゼネコンの平錦建設の前社長が私を大層可愛がってくれていました。本来は自民党びいきでしたが、公明党の私も随分と取り立ててくれました。毎年行われる傘下の企業従業員を一堂に集めての安全大会の来賓にも呼ばれ、挨拶の機会をくれていたのです。実は、この企業、大相撲との関連が深く、そもそも企業名の「平錦」は明治時代に活躍した姫路出身の元大関の四股名です。引退後起こしたのが前身の会社といいます。元関脇・逆鉾率いる井筒部屋一行のタニマチとして毎年春場所が開かれるときに、姫路商工会議所で懇親会を開いて、同部屋所属の力士や行司や呼び出しら関係者を激励していました。その場に私も呼んでくれたのです。この部屋には当時・新入幕(同年11月)直前の鶴竜関(現在は横綱)がいました。副大臣として初めてあった時はまだ十両でした。力士は総勢10人にも満たない小部屋でしたから、聳え立った存在で、将来が嘱望されていました。

逆鉾親方は、技能力士の元関脇・鶴ヶ嶺の次男(弟は現在は錣山親方の寺尾)です。私の世代がこよなく愛した昭和30年代の大相撲を巡っていつも話題はつきませんでした。同親方はアルコールは殆ど口にされず、常に2リットル入りのお水のペットボトルを持ち歩いていました。残念ながら先年亡くなられてしまいましたが、愛弟子鶴竜の横綱の晴れ姿を見てからだったのがせめてもの慰めです。また、平錦建設の社長もほどなく後を追われたのは残念なことでした。

肝心の鶴竜関は極めて寡黙でこちらが話しかけても、ニッコリするだけで、全くと言っていいほど話にのってきません。辛うじて父親がモンゴルでも著名な学者であることは聞き出せましたが、それ以外はあまり分からずじまい。後で調べると母親も超エリートで、本人も4カ国語が堪能とか。おっとりした性格で、今となっては、鶴竜後援会の端っこにいたということが誇らしく感じられます。

厚労副大臣就任直後の話がいきなり閑話休題めいたものになりました。人間の健康を取り扱うお役所の仕事を始めるということで、スポーツ関係の話題となったこと、ご容赦頂ければ幸いです。(2020-6-23公開 つづく)

 

【57】手探りで厚労行政への出発ー平成18年(2006年)❶ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【56】第三次小泉改造内閣の厚生労働副大臣に就任ー平成17年(2005年)❹

●幻に消えた安全保障担当副大臣

衆議院総選挙が終わって暫く経ってから、冬柴鐵三幹事長の部屋に呼ばれました。何事やらんと駆けつけたところ、改造内閣で厚生労働副大臣に推薦したいということでした。率直に言って、私は副大臣にしていただけるのなら、防衛庁か外務省にお願いしたいと言いました。これまで殆ど取り組んだことのない厚生労働行政に、当選5回もの人間が行くのは、いささか戸惑いがあったからです。同じやるなら、安全保障分野で、と。慣れぬ分野で、一から勉強するというのでは、適材適所と言えず、迷惑をかけたくないとの思いがありました。

当選3-4回の人間が副大臣の適齢期でしたから、いかにも遅咲きといえます。冬柴さんは逡巡された挙句、「分かった。うまくいくかどうかわからんが、自民党に掛け合ってみる」と言われました。結果はノー。自民党筋は、国家の根幹に関わるポストは公明党に渡せないというのです。あまり納得いく説明ではなかったのですが、ごねるのも大人気ないと判断して、受けることにしました。結果的に、この時公明党に回ってきた副大臣ポストはひと枠多く回ってきました。私の要求は受け入れられなかったものの、私のことを取引材料にして、公明党は得をしたのかもしれません。

既に小泉首相も就任から4年以上経っており、恐らくこれが最後の組閣と思われました。初当選以来12年、ついに政府の側に立って仕事をすることになったのです。これまで、野党精神旺盛な私だけに、与党の一員とはいえ、結構批判的スタンスを強く持っていたので、緊張する日々がこのあと続くことになります。同時に憲法に関する特別委員会などは離れることになりました。10月31日に天皇陛下から認証を受けて、政治家としての新しい出発となりました。

●大前研一さんを姫路に呼ぼうと講演会を企画

この頃、経済評論家の大前研一さんを講師に呼んで、姫路で講演会兼パーティーをやろうと計画していました。既に書いたように、大前さんとは一緒に勉強会をしたり、オーストラリア、シンガポール、マレーシアと旅行も一緒にしていました。是非、これからの日本経済の展望を喋って欲しいと頼んだところ、すぐにオッケーしてくれました。副大臣になったことでもあり、地元の皆さんに喜んで貰える良い機会になると思ったのです。

ところが、当初、40分話して貰うつもりだったのですが、あれこれ検討するうちに、難しくなってしまい、半分の20分になってしまったのです。ご本人に恐る恐るそれでいいかと訊ねると、即座にノー。「そんなんなら行かない。だから政治家主催の講演会はダメなんだ。私に20分しか喋らせないとは、とんでもない」と取り付く島もありませんでした。さあ、困った。既に地元には大前さんが来るとの触れ込みで、パーティー券も各方面に無理をして購入して貰っていたのに。代わりを探さねばとんでもないことになる、と焦りました。

あれこれ悩んだ挙句、思いついたのが福田康夫前官房長官。この人は官房長官を辞任されてから憲法調査会で幹事としてご一緒する機会があり、親しくさせていただいていました。公明党のおかげで連立内閣がうまくいっているという答弁もくれた人です。時間が切迫する中、なんとかきてもらえないかと頼むと、いいよと二つ返事で快諾してくれました。本当に、嬉しかった。大前さんもとびきり上玉の講師でしたが、経済通ではない、普通の市民にとっては、福田さんの方が有名で、インパクトは強いものがありました。

おまけに、大前さんは、日本人で一二を争う高額の講演料を海外でもとると聞いており、私如きのパーティーでもそれなりのものを払うつもりでした。それが結果的に要らなくなったということは助かりました。福田さんは政治家ですから、交通費も要らず、全くの友情出演で済ませていただいたのです。本当に感謝に絶えませんでした。

●姫路の戦没者慰霊塔に現れた福田康夫さん

さて、12月12日の月曜日の夕刻。会場で待っていると、福田さんは約束の時間ギリギリに登場されました。いつものあのクールで、政治家からしからぬ雰囲気をたたえて飄々と。で、「赤松さん、行ってきたよ。例のところに」と言われるのです。驚きました。ひょっとすると、とは思っていましたが、本当に行かれるとは。それは、姫路市手柄山にある全国戦没者慰霊塔(正式には太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔)にお参りに行かれて、その佇まいを視察されたというのです。嬉しいというか、ありがたいというか、心底から感謝の気持ちが起こってきました。

これには訳があります。戦後まもなくに姫路市長を5期務めた石見元秀さんは、大戦において全国各地の空爆で犠牲となった人々の御霊を慰めるための慰霊塔を作ることに尽力されました。昭和27年にこの地に建設されてから、毎年8月15日を記念して、全国から戦没者の遺族たちが集まっての式典が行われてきました。私は地元選出の議員として毎回参加するようにしてきましたが、気がかりだったのは、この施設はあまりメジャーの存在でなく、国も総務省、内閣府の関係者が参加する程度だったのです。そこで、あれこれと宣伝に務め、予算委員会分科会でも質問したりしました。福田前官房長官にも一度見てほしいと言った経緯があります。

靖国神社への公式参拝が話題になるたびに、脱宗教施設でそれに代わりうるものがあればいいのにとの思いが浮上してきました。千鳥ヶ淵の戦没者墓苑もそれなりに役割を果たしていますが、既に戦没者の慰霊を慰める施設として存在しているものを流用しない手はないと思いました。そこで、私は福田さんに密かに相談したのです。今回のパーティーにわざわざ姫路まで来ていただくのなら、是非違った目的も合わせ持ってほしい、と。ダメもとで投げていたのですが、きちっと覚えておいていただき、事前の時間を活用し、見てくださったのです。

最終的には、やはりここは様々な意味で私の狙うようなものに転身させることは難しいとの結論に至っているのですが、その流れの中で、この日の福田さんの訪問は、それなりに重要な役割を果たしていただいたのです。(2020-6-21公開 つづく)

 

 

 

【56】第三次小泉改造内閣の厚生労働副大臣に就任ー平成17年(2005年)❹ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【55】郵政解散の突風吹き荒れ、5期目当選ー平成17年(2005年)❸

●「やっぱり本屋が好き」ー『論座』に登場

朝日新聞の雑誌『論座』がこの年の8月号に「やっぱり本屋が好き」とのタイトルで、識者にアンケート調査をしたものを特集で掲載しました。「私が通いたい書店 理想の書店 115人に聞く」との見出しで、書店と書物をこよなく愛する各界の方々に思いをつづっていただいた、と前文には書いてありますが、巌谷國士(文学者)、堺屋太一(作家)、佐野眞一(ノンフィクション作家)、小山薫堂(放送作家)氏らと並んで、私の名前と文章が登場しています。好きな書店の名前と、書店への注文、不満。さらには、書店に対する提案を述べてほしいという注文でした。

私は、東京にいる時は、赤坂宿舎に入っていて(建て替え時は、河田町のマンションに転居)、夜な夜な3丁目にあった「文鳥堂」という書店に顔を出していました。偶々、そこの主人が大学の先輩だったこともあり、本の話に始まり世事万般に及ぶ話題を交わした楽しい思い出があります。元はといえば、大先輩・市川元書記長のお気に入りの書店で、二人して深夜ここを訪れることも少なくなかったのです。残念ながらすでにこの書店はなく、今では飲食店に替わってしまっています。この雑誌の問いかけに私は、「ここはいつも本の配置に気を使っていて、決して広くはない空間を精一杯使っていた」と褒めています。

すでに何度か触れてきたように、私は本好きの政治家で通っていました。さまざまな媒体で本に関することが取り上げられてきましたが、この企画のように、「ネット書店が盛んな時代に、書店でしか味わえないあの悦楽を知ってるのだ」(編集部)という触れ込みのもとに、名を連ねるのは珍しいことでした。昨今、アマゾンの進出で通販万能の時代となり、各地で個性的な小さな本屋が姿を消したり、苦戦を強いられているのは残念なことです。

●郵政民営化問題ですったもんだの大騒ぎ、衆議院解散へ

自民党は確実に潰れかけているー郵政民営化関連6法案が採決された7月5日の衆議院本会議場での私の実感です。自民党の議員が反対の青票を投じるたびに、民主党席がどっと湧き、拍手が高まる情景を見つつ、つくづくそう思いました。正直言って、ここまで反対票が多いとは思っていませんでした。最終的には小泉首相も修正に応じ、反対派も妥協を図るものと見ていた私の誤算でした。「自民党を変える。変えられなければ、自民党をぶっ潰す」こう公言して憚るところがなかった小泉首相。この法案審議の過程でも、その答弁の一人よがりぶりが際立っていました。衆議院では51人もの自民党議員が造反する中、五票差で辛うじて通過しましたが、参議院では否決されてしまい、首相は公言していた通り、衆議院解散総選挙の道を選択しました。

公明党は郵政民営化については、一貫して賛成の立場でした。中央から地方へ、官から民へ、といったことを主軸にした小泉構造改革は曲がりなりにも進んできており、郵政民営化はその欠かせない柱だったからです。郵政三事業はやがて経営が厳しくなるのは目に見えており。一日も早い民への経営主体の移行が望まれていて、27万人にも及ぶ公務員を民間雇用にすることや、郵貯、簡保への政府保証をなくすことによる経済への波及効果は大きいと見ていたのです。

この国会の最終盤では、55日間の会期延長がなされ、すったもんだの自民党の内輪揉めー自民党史上初めての総務会での全会一致が崩れ、多数決による決定ーが白昼の元に晒されました。8月8日に衆議院は解散され、8月30日公示、9月11日の投票となりました。真夏の総選挙となったのです。結果は自民党だけで296議席。公明党の31議席(3議席減)を加えると、与党全体で327議席となって、三分の二を軽く超えてしまいました。民主党は64議席も減らして113議席になり、野党勢力は大幅に後退しました。結局、小泉首相の派手なパフォーマンス(自民党内の〝刺客騒ぎ〟など)のみが際立ち、小泉劇場で聴衆が巻き込まれてしまうなか、他の政党は全部吹き飛ばされたというのが実情でした。私は近畿比例ブロックで前回に続き、名簿順位二番で当選しました。前回の総選挙から僅か2年足らず。これで5期目になったわけです。

●憲法改正のための「国民投票法」の審議がスタート

先に、憲法調査会は5年間の報告書がまとめられたことを区切りにして、終わりました。衆議院議員選挙を経て、新たな国会からは、憲法改正のための手続き法としての国民投票法を審議する特別委員会が設けられたのです。10月6日に開かれた第一回目の委員会でこれからの方向性を議論しました。いよいよ第二段階の始まりです。私は党を代表して、この日発言しました。

これまでの憲法調査会は、予め憲法改正を意図するものではなく、広範囲な観点から現行憲法の実施状況をつぶさに調査したものでした。その結果、幾つかの項目において憲法を変えた方が望ましいとの意見が多数を占めたことは事実です。このため、調査結果を踏まえてこれからどう具体化するかの議論の場が必要です。しかし、それは第三段階であって、その前の第二段階としては、これまで現行憲法が制定以来用意してこなかった改正のための手続きとして国会法改正やら、改正手続き法としての国民投票法についての取り決めをせねばなりません。新しくできた委員会はそれを議論する場ということでした。

私は、最初の発言の中で、憲法の全面改正を国民有権者に問いかけるのは、煩雑さゆえに不可能に近いとの認識を示しました。このため、国民に直接改正を問いかける場合は、一括方式か、あるいは数点に絞り込んだ上での重点方式とならざるを得ない、と述べました。さらに、そうであるからこそ、公明党が主張しているように、数点に絞ったうえでの新たに加える方式としての加憲が好都合ではないか、と述べたのです。

この日を皮切りに国民投票法の議論が始まったのですが、最後までこの委員会に所属して、法案作成の作業をやり切るつもりだったのですが、そうはいかない事態が急にこのあと起こってきたのです。(2020-6-19 公開 つづく)

 

【55】郵政解散の突風吹き荒れ、5期目当選ー平成17年(2005年)❸ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【54】安保専門議員たちと訪米ー平成17年(2005年)❷

●交通機関の「安全神話」崩壊の悲劇

阪神淡路の大震災から10年が経ったこの年。今度は文字通りの巨大な人災事故が私の住む兵庫県で起こってしまいました。平成17年4月25日月曜日の午前9時過ぎ。JR福知山線の上り快速電車が塚口駅と尼崎駅の間で脱線事故を起こしてしまったのです。通勤時間でもあり、大勢の乗客が乗っており、107人の死者と562人の重軽傷者を出す大惨事になってしまいました。

実は前日の日曜日に私は同線のJR川西駅から乗車し尼崎駅まで移動していました。「ウイークエンド街頭演説会」と称してJR伊丹駅や阪急・川西能勢口駅の駅頭などで演説をしたあと、姫路での囲碁連合会の祝賀会に出席するべく動いていました。その翌日にこの事故が起こってしまい、直ちに県本部内に事故対策本部を立ち上げました。すぐに現場に駆けつけるのが当然だったのですが、残念ながら25日は東京・中目黒にある防衛研究所で幹部候補生への講演が予定されていました。このため、翌日の26日の朝、憲法調査会や安全保障委員会の参考人質疑を行ったあと、空路伊丹空港から尼崎へと向かいました。

同僚の赤羽一嘉代議士らと一緒に現場に向かい、一昼夜を跨いで続けられていた救出作業を確認したり、鉄道事故調査委員会のメンバーに声をかけたり、JR西日本の南谷昌二郎会長とも話を交わしていました。そのあと、伊丹市と川西市在住の犠牲者のご家庭に弔問に訪れました。震災や水害の事故死者の弔問もそうですが、列車事故死に遭われた皆さんの遺族への激励は胸塞がれる思いがします。伊丹市の犠牲者は27歳のOL。通勤途上でした。結婚を6月に控えておられたと云います。一方、川西市の死者は、54歳の主婦。偶々親の介護をするために、大阪へ行くところでした。ご主人の優しい物腰での対応ぶりには返って哀しさを募らせられました。

この日の動きを書いた当時の私のリポートには「かねて日本は交通や治安・警察の分野で日本ほど安全な地域はないとの『安全神話』が確立していましたが、残念ながら最近はそこに揺らぎが見られます」と懸念しています。冬柴鐵三幹事長の地元でもあるため、事後の救済活動に筆舌に尽くせぬご苦労をおかけしたご活躍も忘れえぬ思い出です。

●日米安保専門交流訪米団に参加して

一昨年に続きこの年(平成17年)のGW も、安全保障を専門にする議員団の一員として訪米しました。今回は12人の与野党議員と一緒でした。連日さまざまな日程をこなしましたが、私として強い印象に残っていることを取り上げてみます。まず第一に、ヘリテージ財団におけるシンポジウムに参加して発言をしたことです。今回は、自民党の額賀福志郎、久間章生の両氏に加え民主党の前原誠司氏の3人と一緒に出ました。私は日米関係における、直近の日本の防衛の仕組みをめぐる対応について述べました。加えて、自衛隊の平和的活用だけでなく、NGOといった民間パワーやODAとの組合せによる非軍事・経済・文化面での複合的な日本独自の貢献ーつまり「行動する平和主義」こそ日本の進むべき道であり、望まれる役割だと強調しました。

この時の訪問では、様々な米側要人と会いましたが、興味深かったのは、ドナルド・ラムズフェルド国防長官、ローレス国防次官補、リチャード・アーミテージ前国務次官、スタンレー・ロス前国務次官補らと懇談をしたことです。それぞれ短い時間でしたが、私らしくあれこれと話題を選び、対話を楽しみました。特に面白かったのは、ラムズフェルド氏に、当時日本で話題になっていたジェームズ・マンの『ウルカヌスの群像』を持ち出し、「貴方のことが書かれていましたね」と水をむけたのですが、全く通じなかったのです。通訳との間でしばし揉めた後、「OH! RISE of the Vulcans」と彼が叫びました。要するに、ウルカヌスとはラテン語。英語ではバルカンと云うと知って赤面しました。同長官は続けて、あっさり「あんまりよく読んでいないよ」と交わされてしまいました。

尤も、別な場面で、アーミテージ氏に同じ本のことに触れて、「群像に取り上げられている人々(パウエル、ウルフォウィッツら)は元気でやってるのか」と訊いてみました。すると、「個人でなくチームでやってるから大丈夫。心配ない」「パウエルは元気だ。そのうち日本にも行くはず。彼が再び米国の表舞台に登場したら、国中の皆んなが歓呼の声で迎えるに違いない」との答え。大いに満足したものです。

●防衛専門誌『セキュリタリアン』に登場

防衛専門誌『セキュリタリアン』の7月10日号の「わたしの目線」という欄に、「〝新しい言葉〟で時代を切り取る」との見出しで、わたしの日々の活動の中での想いが紹介されました。冒頭、編集者の「〝ゲストネーション・マナー〟〝忙中本あり〟これらの言葉は、赤松正雄・衆議院議員のオリジナルである。政治家にとって大きな力となる「言葉」。かつて新聞記者として活躍した経歴を持つ赤松氏は、その言葉に強いこだわりを持っているという」とのリードで書き出されています。

まず、政治の世界に身を置いて約12年、一貫して取り組んでいるテーマは外交・安全保障。この分野に取り組む理由はどこにあるのだろうか、との問いかけがあり、それに答えています。高校時代に講演会で聴いた国際政治学者の猪木正道京都大教授、毎日新聞の大森実記者の迫力あふれる話に感激したこと。そして、大学時代に聴いた中嶋嶺雄、永井陽之助といった二人の講師の講義に深い感銘を受けたことなどを熱っぽく語っているのです。この4人は私が青春期に触れた学問上の恩人でしたから。

この話の最後には「国会議員になったら外交・安全保障をやらない手はない。県会議員や市会議員の皆さんは、地方の問題で頑張っているけれども、外交・安全保障だけは国会議員の専任事項だと思うんですね。国会議員にさせて頂いたからには、外交・安全保障とか憲法をやらないともったいない」ーこれはズバリ本音です。こう思っていても中々担当できずにいたり、担当してもすぐに変えられたりするケースが少なくないのに、私はずっと居座り続けさせて貰いました。恐らく他に能力がなかったのでしょうが、ラッキーではありました。

GWの訪米で米高官に「ゲストネーション・マナーを守って欲しい」と強調したことについて、その意味するところを訊かれました。これは私の持論で、折りあるごとに国の内外で発信してきましたが、米国の地でローレス国防次官補という向こうの高官に述べたのは初めてです。

「その時印象的だったのは、ゲストネーション・マナーは私の造語なので、彼は分からなかったと見え、通訳にどういう意味だと聞き返していて‥‥(笑)。でもすぐ分かったようで、『大事な指摘をいただいた。我々としては十分に気をつけているんですけれどね』という答えが返ってきました」ゲスト・ネーションマナーという言葉は、国民からすれば、まさに「我が意を得たり」という気がするのだが、見事に一本、という感じだったのだろうか。「まあ、小手ぐらいですかね。めーん、というわけにはいかなかったかな(笑)」ーこんな風に綴られていました。

(2020-6-17公開 つづく)

【54】安保専門議員たちと訪米ー平成17年(2005年)❷ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【53】衆議院憲法調査会の報告書まとまるー平成17年(2005年)❶

●『BIG tomorrow』に私の「司馬遼太郎論」が掲載

平成17年(2005年)という年は、私が生まれた年からちょうど60年。明治維新(狭義には1868年を指す)からほぼ140年が経っていました。明治維新前夜から明治にかけての歴史を語ることは、団塊の世代を含む私たち戦後第一世代にとってとても楽しいことではあります。その際に欠かせぬ語り部が作家の司馬遼太郎さんです。現在では何かとその歪み(「司馬史観」として)も取り沙汰されていますが、21世紀に入ったばかりの頃には司馬さんはもてはやされていた感が強くします。市川元書記長は『燃えよ剣』がとても気に入っていて、公明新聞時代から政治家としての現役時代にかけて、よく「司馬遼太郎論」や土方歳三をめぐる話を聞かされました。

市川さんは小説で気にいっているところは暗唱されており、『燃えよ剣』の末尾のくだりは何度もなんども繰り返し聞かされたものです。時代の大転換期にあって新選組という小集団のナンバー2として、鉄の規律を守り抜いた智勇兼備の猛将をご自分に重ね合わせていたのかもしれません。思えば、公明党の書記長というポジションと新選組副長とは似てなくもないと、後輩雀たちは時に応じて囀ったものですが、ご本人も満更ではなかったようです。その話題を持ち出すタイミングしだいで、座は殊の外盛り上がりました。

ちょうどこの頃、わたしのところに『BIG tomorrow  』(1980創刊-2017廃刊)っていう雑誌から3月号の取材依頼が来ました。テーマは、「経営者はなぜ司馬遼太郎を読むのか」でした。シリーズの四回目。「義に殉じた、河井継之助の大志とは何だったのか」という主題のもとに、見開きで登場しています。

私は「河井継之助は優れた合理主義者であると同時に、動乱の時代にどう行動すれば人は美しいのか、そしてそれがいかに公のためになるかを真摯に追求した信念の人。司馬さんは『峠』のなかで、継之助が箸の上げ下ろしから、物の言い方、人とのつき合い方、酒の飲み方、遊び方など、毎日の生活を彼の理想とする男のかたちとして実践していくさまを描いています。僕自身があまりさまになっていない人間だけに、サムライの抑制をきかせた立ち居振る舞いには今でも強く惹かれます。」などと、語っているのです。恥ずかしげもなく、『峠』を語り、「河井継之助」を論じていますが、市川さんからの受け売りも多かったことを正直に告白しておきます。

●作家・半藤一利さんとの出会いと「40年周期説」

この頃の私は、事あるごとに「日本社会40年周期説」なるものを口にし、様々な機会に時代を読み解くよすがとしていました。ざっとこれをまとめてみましょう。一言でいえば明治いらい40年ごとに、大きな歴史の転換期が訪れているというものです。つまり、明治維新から40年間、「富国強兵」で突き進んだ日本は、40年後に日露戦争でピークを迎えました。その後更に、40年かけて軍事列強入りを目指した挙句、あの大戦の敗北という、どん底を味わいます。一転、それからまた40年、今度は経済至上主義の坂を駆け上がり、1985年に頂上を極めるのです。そうすると、今はバブル崩壊以後の景気低迷の途上にあり、恐らく40年後の2025年まで続くということになります。その時は少子高齢化のピークという、新たなどん底を迎えるわけです。

実はこの説、歴史家・半藤一利さんの唱えたものを私なりにアレンジしています。彼だけでなく、多くの識者、知識人がこれに類する諸説を展開していますが、私は当時よく借用して「国家目標を掲げる大事さ」を語ることにしていました。実は半藤一利さんの娘婿が元産経新聞の記者で、後に政治部長を経て、今は自民党参議院議員になっている北村経夫さんです。彼とは大変親しく付き合っていましたが、ある時にぜひ岳父・半藤一利さんに会わせてくれと頼み込みました。

遂にそれが実現した夜のこと。半藤さんはいきなりこう言われました。「いやあ、貴方は〝くだらない本〟を実に沢山読んでる人ですねぇ」。流石の私もチョッピリむかっときました。笑いつつ「そうですかぁ。先生の本も入っているのですが、ねぇ」と嫌味含みで切り返した上で、「ですが、政治家が本をどう読んだかを公開することは、資産公開よりも大事な情報公開だと思いますが」と述べたのです。半藤さん、それには「全く仰る通りです」と同意されました。あれから10数年、本を読むたびに思い起こし、銘記しています。もっと〝くだらなくない本〟を読まねば、と。

●憲法調査会報告書に党を代表して

国会に憲法審査会が出来てから、早いもので5年余が経ちました。当初から5年を目処に現行憲法を巡ってあらゆる角度から調査検討をし終えるということになっていました。衆議院は中山太郎氏を中心にして5年間で450時間ほどかけて徹底的に調査しました。その報告書がこの年、平成17年4月15日に中山会長から河野洋平衆議院議長宛に提出されたのです。これは実に大きな出来事でした。私はほぼ全ての期間、この調査会に属して様々な議論に参加、発言をしてきました。時に応じて報道されたり、話題になったことはこれまで触れてきた通りです。

この報告書の冒頭に各党の代表がそれぞれの党の立ち位置、主張を表明していますが、公明党は私がその任に当たったのです。大変に光栄なことでした。衆議院議員になって、ある意味最大の仕事がこれだったと言っても過言ではありません。最も私が言いたかったくだりを抜粋します。

「明文の改正を必要とされる項目はそう多くはない。明文を変えさえすれば、事態に対応出来るとの考え方はいささか短兵急ではないかと思われます。これを受けて、公明党としては、憲法上の明文を改めなければならないものがあるとすれば、それは何か。また、何か付け加えねばならないものがあるとすれば、それは何か。憲法を変えずとも、法律や行政で対応出来るものは何か。こう言った観点から今後徹底的に洗い出す作業をしていくことが必要ではないかと考えています」

この時から、すでに15年が経ちました。その間に、特別委員会で国民投票法を作り、私もそれに貢献することが出来ました。そして憲法審査会が出来ました。しかし、それ以後今に至るまで全くと言っていいほどそれは作動していません。実は、憲法調査会ができて20年経ったということから、昨年産経新聞、今年は毎日新聞からインタビューを受けて、元憲法調査会に身を置いた人間として発言をしました。あまりにも残念な現状に私は幻滅すると発言したり、公明党を含む各政党の態度を批判しました。ただ口撃するだけでなく、具体的な打開策も提言しています。様々な状況から勘案すると、安倍晋三首相が退き、中山太郎さんのような与野党議員から信頼されるリーダーが出てくれば、議論を前進させることは十分に可能だと思うのですが。(2020-6- 15 公開 つづく)

 

 

 

【53】衆議院憲法調査会の報告書まとまるー平成17年(2005年)❶ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【52】防衛大綱に伴う予算攻防の夜の衝撃ー平成16年(2004年)❺

●自衛隊富士学校での浜四津さんの勇姿

自衛隊が持つさまざまな施設に私は担当者として積極的に出かけました。9月のある日、静岡県駿東郡小山町の陸上自衛隊富士学校と山梨県にある北富士演習場に視察に行ったのですが、いつもと全く様子が違いました。私が部長を務める外交・安保部会と、女性局の合同視察だったのです。しかも浜四津敏子代表代行も参加しました。自衛隊のあるがままの姿を知っておきたいとの浜四津さんの意向もあり、女性隊員との懇談なども企画され、実り多いものになりました。

当時発売されたばかりの総合雑誌『文藝春秋』10月号に「大和撫子 イラクで奮戦す」という女性隊員三人の座談会が掲載されていて、興味深いものがありました。浜四津さんとの懇談の場では残念ながら本音トークは聞けませんでしたが、その代わりに、この時大変珍しい場面を見ることができたのです。それは、富士学校の校庭で、96式装輪装甲車、90式戦車への試乗を迫られ、浜四津さんが受け入れて、なんと車上の人になったのです。

最初、私は代表代行はよもや乗るまいと、思っていました。もし、週刊誌などの知るところとなると、いいように揶揄られ、自衛隊アレルギーを持つ婦人層からも批判されるのではと、懸念したからです。自衛隊の装甲車の助手台に颯爽と立って、走りゆく車上の姿。つくづく度胸があるなあと思いました。昭和42年ごろ慶大で後輩として出会って以来、いつもチャーミングな先輩でした。その浜四津さんが見せた全く別人のような勇姿。今なおぼんやりながら思い浮かんできます。このことは一切当時のメディアでも党内でも語られていません。私自身黙っていました。今、はじめて明かします。15年ほど経っていますからもう時効でしょう。

●尖閣列島を空から訪問する

国土交通委員会の一員として、尖閣列島を上空から視察をしようとの話が持ち上がり、11月17日に私も参加しました。日本の領土であるのに、中国、台湾もその領有を主張するという異常な事態が続いている中で、様々な課題もあるので、現地を見ておこうということになりました。視察を決めた直後に偶々原子力潜水艦の侵犯事件もあり、一層意義深いものになりました。これより数年前、石原慎太郎氏や西村慎吾氏らの衆議院議員有志が海路この島々に来たものですが、石垣島から北へ130-150キロほど離れており、ヘリコプターでほぼ1時間ほどもかかる行程でした。

一機につき定員は7人。乗組員が4人でしたから議員は2-3人。午前と午後の二回に分けて乗り組みました。魚釣島を中心に北小島と南小島の三つの島から成り立っていますが、魚釣島を見た印象は大きいなあというもの。幅3-5キロにも及ぶ堂々たる島です。かつて明治の頃には、この島でアホウドリの羽を加工したり、カツオ漁の拠点があって、工場を営んだ人々が住んでいたといいます。今は勿論無人島ですが、ヘリで20分ほど接近、旋回して見たところ、研究用にと放たれた山羊が数頭走ってるのが見えました。また、かつて右翼団体が岩に描き残した日の丸の旗もくっきりと見えました。またその側に、小さな灯台と思しき建造物も見えましたが、日本の領有を示すもっとしっかりした建物を作る必要を感じたしだいです。

●防衛大綱めぐる予算攻防にしのぎを削った夜に

この年の暮れは、新しい防衛計画の大綱と次期中期防衛整備計画が決定されるに至りましたが、私は与党プロジェクトチームの副座長を務めました。座長は自民党の額賀福志郎さんです。元防衛相も務めたベテランです。約一ヶ月の間に、合計8回ほどの議論を展開して、大綱や中期防の中身をめぐる詰めの作業をしたあと、陸上自衛隊の定員についての交渉に関わりました。

この時の経緯については、12月9日付けの日経新聞が詳しく報道しています。

新たな「防衛計画の大綱」の焦点だった陸上自衛隊の編成定数は15万5千人で決着したのですが、定数削減に難色を示した自民党、防衛庁。大幅な圧縮を求めて譲らない財務省。そして目に見える防衛力縮小を求めた公明党というように、三者の立ち位置がぶつかり合ったのですが、最終的に「三方一両損」に落ち着いたとの見方を示しました。当事者としてもその見方が的確だろうと思います。

この時の大綱の編成定数は16万人ですが、常備自衛官は14万5千人。予備自衛官は1万5千人で構成されていました。これを予備自衛官を8千人減らして7千人にして、常備自衛官は3千人増やして14万8千人にするという形で決着させました。それぞれのメンツが立つことになったのです。

この経緯を日経はさらに詳しく解説していますので、その部分をまるごと引用します。

「中期防と大綱を絡ませ、利害を調整するために登場したのが、自民党の額賀福志郎元防衛庁長官と公明党の赤松正雄氏だった。関係閣僚と与党幹部による異例の折衝を落としどころに導くには、官僚ではなく『政治家の関与』が欠かせない。七日夜。額賀氏と赤松氏は『防衛庁と財務省が激突していてはどうしようもない。「常備」は十五万人を割り込ませ、十四万八千人にしよう』と申し合わせた。八日、日中の閣僚折衝は決着に至らず、額賀氏と赤松氏は三度にわたって財務省に出向き「十五万人5千人」で合意した。どの関係者も『満点』とは言えないが、誰もが『実』をとったー。これが陸自編成定数の結末だった」

この顛末は勿論、額賀福志郎さんのリードによるもので、私は呼吸をうまく合わせただけでした。で、全てがうまくいった夜遅く、額賀さんが二人だけの打ち上げをしようと、とある赤坂見附のお店に連れて行ってくれました。ドアを開けた途端、目に入った風景に私たちは度肝を抜かれました。カウンターに10人足らずほどの男性客がずらり並んで座っていたのですが、全員坊主頭だったのです。壮観というか異様というべきか。後で、北陸地域の某宗派の理事を務める僧侶の皆さんの集いだと分かったのですが、後ろ姿を見つめながらの二人だけの会はイマイチ弾まず、盛り上がりに欠けてしまったのは否めませんでした。(2020-6 -13公開 つづく)

【52】防衛大綱に伴う予算攻防の夜の衝撃ー平成16年(2004年)❺ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類

【51】結党40周年の節目の党大会を前にー平成16年(2004年)❹

●自衛隊中部方面隊と県伊丹高の合同演奏

昭和39年に結党された公明党も、早いもので、この年11月18日に40周年を迎えました。記念すべき日の一ヶ月ほど前に、兵庫県伊丹市にある自衛隊中部方面隊の創立44周年の会合に出かけました。この時、自衛隊の音楽隊員と地元の県立伊丹高校吹奏楽部の男女高校生による合同演奏がありました。チャイコフスキーの『序曲1812年』です。少し以前にイラクで犠牲になった外務省の奥克彦さんの後輩(彼は同高卒)たちによる演奏だと思うと、一層胸に染み込みました。

この時のレセプションでスピーチに立った私は、こう述べました。

今日は載せ上手な方が多いと見えて、タイミングよく拍手が出ていますが、私の話はすぐに終わります。自衛隊中部方面隊が誕生したのが44年前の昭和35年といいます。その年は日米安保条約改定の年です。いわゆる60年安保の年で、私はちょうど中学3年生でした。実に感慨深いものがあります。(ここで拍手が一部から出たものですから、「まだちょっと早い」とつい言ってしまい、場内大笑いに)。ところで、私は自衛隊を我が国の憲法にきちっと位置付けるべきだと考えるひとりです。以上、おわりっ。

こう述べたものですから、場内、大拍手。 短いことに喜んだか、その内容の歯切れの良さに感激してくれたのかはわかりませんが、恐らく両方でしょう。後に、交歓の時間になって元陸将で方面総監、富士学校の元校長だったという人物がやってきて、こう話しかけてきました。

「貴方のようなはっきりとものをいう公明党議員がいるとは驚いた。今の政治はことごとく公明党が自民党の足を引っ張っている。要するに(公明党は)何をしたいのか、はっきりしない。なんとかならぬかと思っていましたが‥‥」ーこう言われたので、私は以下のように言い返しました。

「自民党の足を公明党が引っ張ってるとおっしゃるが、政権を一緒に組んで5年。むしろ公明党のお陰で、自民党が助かってることが多いのですよ。貴方のようなことを言われる方に会うと、『それなら連立を解消しましょうか』っていうことにしているのです」と。これって、「売り言葉に、買い言葉」だったでしょうか。

●讀賣新聞が私の発言を引用して『変革の岐路』と書く

実はこのやりとりを国会リポートに書きました(10月12日号)ところ、讀賣新聞が「公明 結党40年」というたたみ記事を10月31日の党大会当日の朝刊で書きました。見出しは、「〝第三党〟変革の岐路」とありました。

そこでは、公明党がこの40年というもの 「イデオロギーにとらわれない庶民の党を標ぼうし、福祉重視で存在感を示した」うえ、「中小政党でただ一つ、生き残りに成功した形である」と評価する一方、「その間に連携相手を何回も変えた」ことは「政治のリアリズムだと言うのならそれまでだが、『場当たり的で一貫性がなさ過ぎる』と見る有権者も少なくない」と批判の矛先をこちらに向けていたのです。

そのあとで、私の国会リポートでの先に紹介したやりとりを引用した後に「赤松氏はこう語る。公明党のおかげで自民党が助かってることだって多いと反論したんだ。ただ、かつてのように国連中心主義を掲げていれば済む時代ではない。国内外の変化に応じるため、党はもっと自己変革をしていかなければならないとは思う」と続けています。

この記事は最後に、「公明党は自民党や民主党のような形で党首選を行ったことがない。『政党文化の違い』『団結優先の結果』とされるが、疑問に思う議員はいないのだろうか。公明党は今岐路に立っている。今回の党大会は四十年の歳月を振り返り、政党としてのありようを問い直す好機だ」と結んでいます。胸にグッと突き刺さってきました。

書いたのは飯田 政之記者。当時最も親しかった番記者のひとりです。彼はその後北海道の札幌支局編集部長になったり、讀賣交響楽団の事務方のトップを経験したあと、福岡放送取締役を経て、現在は広島テレビの専務取締役をしています。『北の日曜日』『オーケストラ解体新書』などの著作もあり、剣道を嗜み、ヴァイオリンの演奏も巧みな文武両道に長けた、なかなかの才人です。

●自民公3党の憲法調査会座談会(讀賣新聞)に登場

この年の11月4日付けの讀賣新聞14面、15面見開きで、衆院憲法調査会3党座談会が掲載されました。前日の3日が日本国憲法の公布日であり、翌年春に衆参両院におけるこれまでの同調査会の最終報告書をまとめるにあたってのものでした。自民党から保岡興治、民主党から枝野幸男(共にそれぞれの党の調査会長)、公明党からは党の事務局長をしていた私でした。司会は、御厨貴東大教授(当時)でした。

この座談会では、論議の現状と評価、国家と個人・家族、政治と行政、憲法9条と自衛権、日米関係と安全保障、今後の取り組みの6つの角度から自在に三人が語っています。冒頭のテーマでは、枝野氏が「なにをどう変えるのかというテーマ設定なしに、『護憲か改憲か』などという論議はあり得ない」と述べたので、私は「私流に言えば、全面的に変えるのか、それとも全く変えないのかという議論は設定の仕方がおかしい。(中略)『何をどう変えていくのか』という収束のさせ方をしていないから、いろいろな形で(憲法調査会の)話が飛んでしまっているという感じがする。今のような漠たるやり方ではなく、新しい人権では何が必要かとか、内閣と地方自治の部分も新しくするにはどういった点が必要かなどと、議論を整頓していくべきではないか」と述べました。枝野氏の主張をより具体的に言い換えた格好になっています。

国家と個人・家族については、「国家の責任、個人の責任、共同体の責任、家族の責任などについて、『権利対義務』という捉え方ではなく、『責任対無責任』という角度で、憲法上の大枠で捉えてはどうかと感じている」と述べています。家族の大切さを憲法に入れるべきだと考えているという保岡氏に対して、「憲法の中に家族の位置づけを規定する必要はない」として、これも枝野氏と同じ立場でした。

憲法9条と自衛権についても、枝野氏の「(集団的自衛権を巡っては、)どこまでやって、どこからはやらないという線を明確にする必要がある」という主張に対して、賛成の意を表明しています。その上で、「どう整理するかと言えば、先ほどの日米近海における日米共同対処の部分は、集団的自衛権の範ちゅうには入れない。一方、アフガン空爆やイラク攻撃など、海外における直接戦闘行動や武力行使にかかわるものは、日本はやらない。こういうことを明確にしていくことによって、国連平和維持活動(PKO)における武器の使用と、一般的な武力行使を混同するような議論も整理できるようになる」と述べました。

こういう風に見ると、この時点から15年以上経っていても、枝野氏と公明党の憲法における立ち位置はそう大きな隔たりはないように見えます。こうした点で、公明党が立憲民主党との合意を形成する努力をもっとすべきだとの私の持論は生きてくると思えます。(2020-6-10 公開 つづく)

 

 

【51】結党40周年の節目の党大会を前にー平成16年(2004年)❹ はコメントを受け付けていません

Filed under 未分類