Monthly Archives: 6月 2020

【50】憲法論点整理、イラク対応などこなし参院選勝ち抜くー平成16年(2004年)❸

●公明党の憲法についての「論点整理」がまとまる

参議院選が近づくにつれて、憲法の論点整理を急ぐべきだとの空気が各党の間で加速してきました。6月16日に開かれた党憲法調査会で、我が公明党もまとめることが出来ました。以下に大事なところに絞って抜粋します。

〈前文〉敗戦直後の歴史的背景を色濃く反映しすぎているとし、前文としてふさわしいか、疑問視する向きがある。日本語らしからぬ表現も多く、書き直されるべきだとの指摘もある。その際にあらためて憲法三原則を明確に盛り込むべきとの主張がある。

〈天皇〉象徴天皇制は維持していく。国事行為については現行に異論はない。女性天皇については認める方向で検討したい。

〈戦争の放棄〉9条の現行規定を堅持すべきとの姿勢を覆す議論にはいたっていない。集団的自衛権の行使は認めるべきではないとの意見が大勢。個別的自衛権の行使について明確に示すべきではないか、自衛隊の存在を認める記述をおくべきではないかとの意見がある。ただ、違憲と見る向きは少数派であるゆえ、あえて書き込む必要はないとの考えもある。

〈国民の権利及び義務〉環境権、プライバシーの権利、知る権利を積極的に明示すべきとの主張がある。

以上を、太田座長が中心になってまとめてくれました。質量ともにいささか不満足は否めませんでしたが、多様な意見がありますから、仕方ありません。私個人としては様々な媒体で、積極的に発言を重ねていきました。かなり露出度は高かったと思いますが、そんな中で特筆できたのは、『週刊金曜日』の「憲法激論」シリーズで、行動する哲学者・高橋哲哉さんと対談(7月2日号に掲載)したことです。

高橋さんは、「憲法論議で何もタブーを設ける必要はないが、加憲や論憲の立場は限りなく改憲派の流れに取り込まれていって」しまうとの立場で、繰り返し私を攻め立ててきました。それに対して、私は「憲法を何も改革しないというところからは、何も生まれないという確信がありまして、必ず、僕の考えている方向に日本国は行く」し、「今に生きる僕らがこの憲法をどうするのかということを真剣に議論することから、日本のこれからが拓けていく」と言い切っています。この辺りについては今もなお変わらぬ私の確信です。

●参議院選で民主党が大躍進するも、与党が安定多数確保

陸自のイラク派遣、年金制度の抜本的な改革など一般的に与党側に受けの悪い課題が取り沙汰される中、参議院選挙が行われたのは7月11日。しかも、この選挙直前に、年金保険料の未納問題が発覚したのです。先に述べたように、福田康夫官房長官は保険料未納の責任をとって辞任するのですが、実は民主党の菅直人代表も最初は批判の急先鋒だったのに、自らも未納だったことが判明し、代表を辞任する羽目になりました。また遅れて、小泉首相も年金未加入期間があったことやら、議員になる前に、勤務実態のない会社から年金保険料を納付してもらっていたという厚生年金違法加入の事実も指摘されました。

国会議員相互の間で、後ろ指をさしたり、さされたりする一方、最高首脳が正面から指弾される事態となって、まさに上も下へもの大騒ぎとなりました。そんな時に、小泉首相は、島倉千代子の歌謡曲『人生いろいろ』をもじって、「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」と答弁の中で発言しました。当然ながらこれは、はぐらかし、開き直り答弁と見られて、世の顰蹙を買いました。

これより少し前に、イラクに陸上自衛隊が派遣される際に、野党から安全な地域はどこかと聞かれて、「そんなこと、俺がわかるわけないだろ」と答えたものです。この時に限らず、答弁の際にこのように開き直る総理大臣は、長く国会で取材したり、議員としても多くの人を私は見てきましたが、小泉さんがまさに初めてです。しかし、この人は妙に憎めないところがあって、それ以上に問題が拡大しないのです。この参議院選挙でも自民党は改選51議席に対し、49議席とマイナス2に留まりました。

公明党は選挙区3は完勝、比例区でも過去最高の862万票を獲得して8人が当選して、合計11議席となって改選議席に1議席上乗せしました。一方、民主党は菅氏に替わった岡田克也代表のもとで、3年前の前回にとった26議席から、ほぼ倍増の50議席を獲得しました。また、共産党は改選前の15を大きく割り込んで4に、社民党も13から2に激減しました。こうした数字だけを見ると、じわり二大政党制に近づく結果となったのです。

●イラクから帰国した第一次派遣の自衛隊員を前に挨拶

8月10日に東京・市谷の防衛庁で、イラク復興業務支援隊第一次要員帰国報告ならびに慰労会が開かれました。わたしは自民、民主、公明の約20人ほどの議員と共に参加して、党を代表して挨拶に立ちました。そこでは、二つの点から以下のように話したのです。

一つ目は、13年前の第一次湾岸戦争ともいうべき戦いに、日本は多国籍軍に参加すべしとの動きが高まり、国連平和協力法案という法案が出されました。公明党はこれは武力行使と一体化する危惧があるとして、反対したのです。しかし、13年経った今度のイラク戦争(第二次湾岸戦争)では、後方の非戦闘地域に限定して、自衛隊を参加させる法案(イラク人道復興支援特別措置法)に、公明党は賛成を(後に中身はそのままで、形として多国籍軍参加へ移行することも容認し)しました。政党として、唯一公明党だけが(武力行使には)反対から、(後方支援には)賛成へ、と変化したのです。実はこれは、ずっと賛成の自民、ずっと反対の民主とは違うと言いたかったのです。

二つ目は、今年(2004年)は、自衛隊が誕生して50年の佳節ですが、同時にあの木下恵介監督の名作映画『二十四の瞳』が世に出て50年とのことです。あの映画の中で、小学校6年に成長した男の子5人に高峰秀子さん扮する大石先生が将来の希望を訊く場面が出てきます。昭和8-9年あたりの時代設定ですから、男の子たちは口々に軍人になりたいといいます。それに対して、先生はなんで軍人になんかなるの?家業の米屋さんや漁師を継げばいいのに、と嘆くわけです。恐らく、死に急ぐことはないとの思いからだったと思います。

あれから50年が経ち、今回のイラク復興支援という大きな仕事を無事に成し遂げて帰ってこられた皆さんのおかげで、恐らく今の学校現場では、子供たちが「自衛隊に入りたい」と言っても、先生たちは反対しない(むしろ、大いに国際社会で役立つ仕事をする自衛隊員になりなさい)ものと、私には思われます。50年経って、自衛隊を取り巻く環境もこのように変化してきたのです。皆様のご努力、ご苦労に、深い敬意を表するものです。

このように挨拶を致しました。今振り返ってもいい挨拶だったと思う次第です。なお、この時の隊員たちのリーダーは、ヒゲの隊長こと、現在参議院議員の佐藤正久さんでした。(2020-6- 7  公開 つづく)

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【49】「国民年金の未納問題」が発覚し大騒ぎー平成16年(2004年)❷

●「一級のミリタリーは一級のシビリアン」

3月の21日の日曜日、私は念願だった防衛大学校の卒業式及び関連行事に参加しました。同大学校は、神奈川県横須賀市走水にありますが、この日は第48期生の卒業式でした。国会議員になって、外交・防衛分野を担当してきた身として、一度は行きたいものと思っていたのですが、ようやくその機会がめぐってきました。この催しに参加したいと思った理由には二つあります。一つは、先輩市川雄一元書記長から、常々防衛大学校の卒業式には行っておいた方がいいと聞かされていたことがあります。もう一つは、たまたまこの時の防衛大学校の学長が西原正さんであり、この年の送辞を担当したのが元外務省高官だった岡崎久彦さんだったからです。このお二人とは中嶋嶺雄先生が主宰される私的勉強会(新学而会)でご一緒している仲間だったのです。

市川さんからしばしば聞かされたのは、1993年の卒業式の時のことです。この年の来賓代表は作家の塩野七生さんで、その送辞が市川さんの心を捉えて離さなかったというのです。実はその内容が、この年の雑誌『文藝春秋』3月号の巻頭文「日本人へ・十」に紹介されていたので、ポイントになるところを挙げてみましょう。

この日の挨拶は、一言で要約すると、「一級のミリタリー(軍人)は、一級のシビリアン(市民)でもある」ということに尽きます。塩野七生さんは、「一級のシビリアンでなければ、戦場でも勝てないから」だとして、幾つかの理由を挙げています。勇敢で、人望があっても充分ではないとして、必要な要素を列挙しています。

補給線の確保(部下たちの腹具合への注意)、良き味方を作ること、部下たちをやる気にさせる心理上の手腕、柔軟な思考法などを挙げた上で、「軍事とは全く政治と同じに、いや他のあらゆる職務と同じに、各分野で求められる資質が総合的に発揮されてこそ良い結果につながるのです」と言うのです。「コントロールなど必要としない、一級の武人になってください。そうすれば、アレキサンダーもハンニバルもスキピオも、カエサルも考えなくてすんだ最高の難問、戦争をしないで、どうやって勝者であり続けるかとく難問の解決への道も、自ずから開けてくるのではないか」と続け、「あなた方も、明日シビリアンの世界に放り出されても、一級のシビリアンで通用するミリタリーになってください。そしてこれが、古今東西変わらない、一級の武人になる唯一の道だと信じます」と結んでいます。

この挨拶に市川さんはぞっこん参ったようで、当日の式典のあとの懇親会の場で、高く評価するスピーチをしました。さぞや懇親会では盛り上がったに違いありません。なお、私の出た卒業式で岡崎さんは、「米英というアングロサクソンとの協調の重要性」「集団的自衛権の行使が喫緊の課題」といったかねての持論を展開されました。74歳の同氏が50歳ほど年下の卒業生に、50年後の日本を託す思いが鮮烈に伝わり、これはこれで大変に印象深い中身でした。

●国民年金の未納、未加入問題で大騒ぎ

この年の国会での大きなテーマは年金改革問題でした。大型連休も終わって、関連の法案審議が本格化しようという矢先に、閣僚の国民年金の未納という問題が明らかになってきたのです。発端は3人の閣僚(中川昭一経産大臣、麻生太郎総務大臣、石破防衛庁長官)でした。当初はその3人だけが槍玉に上がっていましたが、そのうち、激しく追及していた民主党の代表、そして前代表、さらには首相、元首相ら与党の最高幹部から、果ては共産党の議員まで与野党を問わず続々と国会議員の中から国民年金未納者が明るみに出てきたのです。公明党ははじめの頃は誰も名前が出ず、ほっとしていましたが、やがて残念ながら一人、二人と出てきてしまい、みんな同じ穴のなんとやらという格好になってしまったのです。私の場合は、約18年間の公明新聞記者時代を経て、ほぼ2年間の国会議員秘書から党地方本部嘱託と都合291ヵ月間、厚生年金に加入。その後、議員になった時点から国民年金に加入(この時点で、131ヵ月間加入中)しており、問題はありませんでした。

ことの発端は、国民年金の加入を呼びかける役回りを担った女優の江角マキコさん自身の未加入問題が話題になったことにありました。やがて、国会議員はどうなんだということになって、閣僚から始まったわけです。いわゆる刑事問題などといった次元では勿論ないのですが、国民に年金加入を求める側の議員がそうした問題に無関心だったことが白日の下に晒されたわけで、何とも格好のつかない不始末でした。最終的に福田康夫官房長官が事態の責任をとって辞任することになった(2004-5-7)のです。

実はこの問題は私の周辺でも小さな波紋を引き起こしました。5月14日に姫路で「赤松正雄と夢を語る会」を開く予定にしていて、その講師に石破防衛庁長官を呼ぶべく、ご本人から内諾を得ていました。ところが土壇場になって、私の周囲の婦人層から「石破さんは、国民年金未納の3人のうちの一人だから、まずいのでは」との声が上がってきたのです。当時話題になっていた「だんご三兄弟」をもじって「年金未納三兄弟」と、石破氏も揶揄られていました。そんなことから、彼に姫路訪問を断らざるを得ないことになってしまいました。別に犯罪を犯したわけでもなく、呼んでも良かったのですが、時の空気とは怖いものと改めて思い知りました。

●「年金制度改革」で公明党が活躍

前年の衆議院選挙ではマニフェストが話題を集め、各党共に、目玉政策を組み込むことに懸命になりましたが、公明党は年金制度改革に取り組んだことは先に述べた通りです。そうしたことを受けて6月5日に年金改革法が遂に成立しました。日本の社会保障制度は、この年金改革に続き、2005年には介護保険改革、2006年は医療保険改革と三年続けての一大改革を成し遂げることになるのですが、そのトップを切った年金制度改革は、公明党が主導的役割を果たしたのです。その舞台回し役は、厚労大臣だった坂口力さんが果たしたのです。

この公明党の働きには、多くの専門家が高い評価を下しましたが、特に印象に残っているのは、堀勝洋上智大教授の「従来なら、政治が避け、先送りしてきた〝国民に不人気な政策〟を、しかも参院選前に断行した。私はこれは大英断だ、非常に勇気のあることだと思っています。この決断に果たした公明党の役割は非常に大きかった」というコメント(公明新聞2004-7-2付け)です。負担が増えて、受給が減ってしまうこうした改革については、どうしても政治は先送りしてしまうものです。それをむしろ逆手にとって、『年金百年安心プラン』と銘打って、積極的に国民にプラスイメージで投げかけたのは、身内ながら大したもんだと、その戦略の巧みさを褒めたいと思ったものです。(2020-6-4 公開  つづく)

 

 

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【48】「陸自海外派遣」「女性天皇」等で見解示すー平成16年(2004年)❶

●イラクへの陸自派遣めぐり独自の見解

イラクへ陸上自衛隊を派遣する問題は、党員、支持者の間でも強い疑念や反発が強く起こりました。特に婦人層に訝しく思う向きが多いので、わかりやすく、なぜ自衛隊がいかねばならないのかということについて説明してほしいとの声が強かったのです。当時、政府の説明も、自衛隊のいるところは安全だなどと、分かったような分からないような言い回しがなされたこともあって現場は混乱していました。そこで、私は平成16年(2004年)の新年未だ明けやらぬ頃に、公明新聞紙上で説明(2-2、2-3付け)をしたり、国会リポートで繰り返し解説しました。

とくに、公明新聞紙上に党外交・安保部会長として寄稿した論考では、「公明党はもはや平和主義を捨てた」との的外れな党内外からの批判について、「三つの勘違いと一つの思い込み」がある、との指摘をしました。

世の中の勘違いの一つ目は、イラク戦争を個別のものと見てしまってることです。湾岸戦争以来13年間続いていると見るべきだとしました。二つ目の勘違いは、仏独が米国と距離を置いているのに、日本は米国に肩入れし過ぎだという点です。対北朝鮮の視点から、日本が日米同盟の絆を強めることは自然だとしました。三つ目は、戦闘状態の再発が懸念される地域に自衛隊を出すことは、憲法の禁じる武力行使に追い込まれる可能性があるという点です。これは、もしそうなれば、任務を中断したり、活動地域を変えればいいと主張しました。一つの思い込みとは、国際貢献は、PKO(国連平和維持活動)までで、それ以上は踏み込み過ぎだとの捉え方です。直接戦闘が行われていない地域での人道復興支援は憲法の枠内であり、踏み込み過ぎというのは錯覚だとしました。

以上の議論をもとに、「多少危ないところであっても、秩序破壊の国際テロは断じて許さない、との決意のもとに人道的見地から、イラク復興へと行動することを、公明党は平和主義と決して矛盾するものとはとらえていないのである」と結論付けました。これで、現場は理解してくれるとの見方は、今となっては甘かったという他ありません。やがて、大量破壊兵器についてはとうとう見つからず、英国では政権が自己批判してしまいました。「どさくさ紛れにフセインが処分したか、どこかに隠した」との私の議論の破綻も自ずとハッキリしてしまいました。それでもイラクで不測の事態が起こらなかったことは、僥倖だったというべきでしょう。この辺についての〝落とし前〟は、やがて私の責任としてつけざるをえなくなるのですが、それはもう少し後になってからのことです。

●憲法調査会で女性天皇肯定論を発信する

2月5日に開かれた憲法調査会ー憲法のあり方調査小委員会では、象徴天皇制と憲法の関係を巡って議論がなされました。冒頭、参考人として招聘された横田耕一九州大名誉教授は、「伝統重視に立つとしても、過去に『女帝』は実在している。国民感情からも認める意見が多い。女性天皇を認めないのは合理的根拠がなく、憲法違反だ」との意見を表明されました。このあと、委員からそれぞれ、女性天皇をどう考えるかについての意見開陳がありました。自民党の船田元、森岡正宏氏らが反対論を述べたものの、他の政党の委員は私を含めてみな容認姿勢を示しました。

自民党の反対論者は、日本の伝統、歴史に基づく天皇制と基本的人権を同次元で議論する考えは受け入れられない」「男子の皇位継承者がいない一時的な場合を除き、女性天皇を認めるのは時期尚早」というものでした。いわゆる男系男子でなければ、日本の歴史と伝統にそぐわないというのでしょう。私は天皇制そのものが持つ理念として、女性天皇を排除することはおかしいとの立場です。ただ、小委員会の場であれこれ深入りすることは避けて、女性天皇を容認する短い発言にとどめました。

天皇制を巡っては歴史と伝統を強調すればするほど、古代から中世にかけて、天皇をめぐる血腥い権力闘争をどう見るのか、との疑念も起こってきます。勿論、時代状況のなせる業で、今とは全く時代背景が違うと言えるのですが、保守派の皆さんがあまり男系にこだわると、余計なことも想起せざるを得なくなってきます。その後、秋篠宮家に男子が誕生されたことから一時の切迫感が遠のいたやに見受けられますが、事の本質は変わっていないだけに、詰めた議論を踏まえた上での的確な対応が求められます。

●憲法9条も加憲論議の対象にすべしとの提案

憲法調査会が開かれた前日の4日に、公明党内でも憲法をめぐる議論が行われました。今と少し違って、かなり活発に党内議論を公明党もやっていたのです。座長を太田昭宏幹事長代行(当時)がやっていたこともあり、かなり賑やかに様々な学者や文化人を呼んで、意見を聞いたうえで、お互いの議論を交わしたりしていました。公明党は、当時、環境権やプライバシー権など、現行憲法施行当時には組み入れられてなかった権利についてのみ加えようとの「加憲」の方向性を打ち出していました。太田さんを中心に熱心にそのあたりについての必要性を発信したものです。

この日の党調査会では、太田座長から「加憲の対象として、環境権や、プライバシー権、知る権利に加えて、憲法裁判所や首相公選制も議論の対象としたい」との発言がありました。これに対して、私は、「憲法9条のあり方についても加憲の対象にすべきではないか」「国際貢献の必要性について、憲法に明示した方がいいのでは」といった発言をしました。これについては、翌5日付けの読賣新聞が「改憲論議本格化」との主見出しで、民主、公明両党の党内論議をめぐる話題として提供しましたが、それを基に点描すると、こうなります。

公明党については、「『加憲』9条巡り賛否」とのそで見出しで、私の9条加憲賛成論に対して、太田さんが私の意見は、個人的なものだとしたうえで、「党としては9条には手を加えないという考えでやっていきたい」と述べたと報じています。この辺については、神崎代表が同日夕刻の記者会見で、「党の従来の9条堅持という考え方があるということを踏まえながら、タブーを設けず議論する」と述べ、「(9条の条文を)変えない場合もあるし、変える場合もある」と付け加え、方向性を示すことは避けたとも伝えています。

私は加憲を言うなら、9条も含めるべきで、いつまでも議論さえしない、アンタッチャブルではおかしいとの意見でした。公明党のウイングを右に少し広げるには欠かせないと思ったのです。もちろん、左の方からの批判は覚悟の上ですが、男性諸氏には大いに受けたことも付け加えておきます。(2020-6-1 公開 つづく)

 

 

 

 

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