Monthly Archives: 8月 2020

【91】東大で院生前に謎解きクイズー平成23年(2011年)❻

●漁業、農業、中小企業関係者たちとの交流

兵庫県は、阪神工業地帯や播磨工業地帯など瀬戸内沿岸部に位置する重化学工業に依拠する県だと見られますが、その実、南北二つの海域、中央部は山村部が大半を占める農漁業県です。この10月、漁業と農業にまつわる二つの重要な会合に出てあれこれ発言する中で、考えさせられることもありました。

一つは、10月12日に明石市民会館で開かれた県内漁業者の集まった決起大会です。漁業用船舶や農業用機械が燃料とする軽油に課せられる軽油引取税の免税措置が3年間の期限切れを迎えるが、これを恒久化せよとの声が満ち溢れました。「漁師はもう海に出るなということか」「なんで、道路特定財源に、海の上を走る我々の燃料税が充てられるのか、理解に苦しむ」ー次々と壇上に立つ関係者らの意見です。2008年までは、道路整備に充てる目的税だった、軽油購入時にかかる地方税としての軽油引取税。それが2009年度の税制改正で普通税となり、軽油1リットル当たり32円強もの値上がりが生じることになったのです。

当時の麻生政権は、臨時措置として3年間の免税措置を講じました。急場凌ぎをしたわけです。それがこの年で終わるため、その対応が問題となり、漁業者たちはこの際恒久化せよとの一致した要求となったのです。民主党の代表は挨拶の中で、一定期間の免税措置を解くことに対して、いちいち反対するために行動を起こしてきた従来の政治のあり様を批判しました。この後に立った私はその発言を評価したうえで、言ったからには実現せよと、釘を刺しました。同党は自民党政治を槍玉にあげながら、結局は改革できずに踏襲することが多かったからです。

もう一つの会は、10月17日に開かれた、党と日本商工会議所との懇談会です。ここで、中小企業の代表から、「民主党内部のTPPに関する煮え切らない論議には全く納得がいかない。農業への過保護ぶりには腹わたが煮え返る思いすらする」との声が上がりました。中小企業関係者にとっては、農業従事者がいかにも甘えていて、政治がそれを助長しているかに見えて仕方がないと思われるとの発言が相次ぎました。超円高、空洞化の現状に悲鳴にも近い声が上がったのです。

政治はいつの時代もあちらを立てて、こちらを立てないと、一方から怒りを買うことになるため、ややもすると、どちらも立てるか、双方ともいい加減にすることになりかねないことが多いのです。その意味で政権交代はある意味で、変わらぬパターンを揺さぶる効果が期待できる局面だったのですが‥‥。

●玄葉外相へ〝福島の叫び〟ぶつける

玄葉光一郎外相に外務委員会で質問をする機会が10月中旬にありました。岡田、前原、松本の各氏に続いて早くも4人めの外相です。彼は福島県の選出。今、震災で喘ぐ県民を尻目に外相の仕事をするゆとりなんかないはずだと思った私は、それをストレートにぶつけました。「外相になるべきじゃあなかったですよ」と。

玄葉大臣は所信表明でも「(原発事故は)着実に収束に向かって進んでいる」とのいささか能天気な認識を述べていましたが、この日の他の議員との応酬でも、被災県民の代表としての当事者意識に欠けるとの思いを抱かざるを得なかったのです。選挙区が、福島第一原発のある地域から約40キロほど離れた地域であることも影響しているのでしょうか、仁王立ちになって福島県民の立場を守ろうとの激しい気迫が伝わってこなかったのは残念なことでした。

TPPについても「しっかりと議論して出来るだけ早くに結論を出したい」と述べるので、「誰と議論をするのか」と聞くと、「国民」という漠たる答弁が返ってくるだけ。まず第一に、福島の農業者の声を聞かずして、国民の誰の声を聞くというのでしょうか。ここでも被災地・福島を軽視する姿勢が見えました。

●東大院生を前に考え抜いたジョーク

東京大学の大学院生を前に講義するー一度はやってみたいと思っていたことが遂に実現しました。同大学大学院法学部政治学科では、谷口将紀教授、根本清樹客員教授(現朝日新聞論説委員長)のもとでの「政治とマスメディア」の連続講義が行われていましたが、その講義のゲストとして11月14日に私が招かれたのです。1時間話したのち、30分ほど質問を受けましたが、冒頭部分で私が当時様々な講演の場で喋っていた〝謎解きクイズ〟を使いました。話はまず笑いをとるジョークから、との私のモットーに基づくものです。

ソ連からロシアへ、百年に及ぶこの大国のリーダーは、全部で10人(レーニン、スターリンからメドベージェフ、プーチンに至るまで)だが、この人たちには一定の法則がある。それは何かと問うもの。これは一般紙にも出ていて話題になったので、ご存知の方も多いと思います。答えはハゲとふさふさの髪の毛の人が交互に登場するというものです。

これは導入部。本題は、私が考えたオリジナル。日本は自民党一党支配が潰えた平成5年(1993年)から、民主党政権が誕生する平成21年(2009年)までのわずか約15年間に登場したリーダーが何と10人(細川、羽田から福田、麻生に至るまで)です。さて、この10人には一定の共通点があります。さて何でしょうというクイズ。これは中々わかる人がいません。やれ、全員二世ばかりとか、メガネをかけていないとか言いますが、皆間違い。この時も正解なし。種明かしはよしておきます。私は「東大卒や官僚出身」が幅を利かせていた時代が終わったのです、と結び、皆さんが頑張らないから、今日本の政治が揺らいでいると発破をかけておきました。

●ひとり一人の政治家を緊張させることこそ

さて、それなりの笑いをとったあと、本題に入りました。私の主張はただ一つ。だらしない政治家を鍛えるには、国会で活動する政治家の全ての情報が公開されるべきだというもの。とりわけ国会審議の実態をメディアはすべからく報道すべきで、それには一定の基準がある、と強調したのです。基準を考える上での参考例として、かつて朝日新聞が予算委員会の質疑について、二日間だけだが採点していたことをあげました。それは、質問の出来がいいとか悪かったとか、かなり辛辣な内容でした。ただし、この企画は一回こっきり。後が続かなかった。恐らく関係者から抗議がきたのでしょう。記者の主観で採点されてはたまらん、やめてくれ、と。

しかし、そこまでやらないと、政治家は緊張しないのです。彼らの質問の背後に、どこまで研鑽をした後が伺えるかを探る必要があります。新聞記事を参考にしただけなのか、現場に行って調査したのか、あるいは国会図書館などでの調査研究の後が伺えるのか、などと言ったことが考えられると私は述べました。尤も、これは現実にはとても大変な作業を伴います。しかし、それでもなお一人ひとりの政治家の日常を公平な形で情報公開する試みが必要であり、それこそが政治家を鍛えることになり、結果として日本の政治の質を高めることになる、と述べました。東大院生を前に少々こちらのテンションが高くなりすぎました。ちょっと無い物ねだりをしてしまったかもしれません。(2020-8-30公開 つづく)

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【90】超円高のなか、民主党最後の野田政権へー平成23年(2011年)❺

●震災と民主党政権と史上最高の円高

民主党政権は、リーマンショック対応と共に始まり、東日本大震災への対応と共に吹き飛んだというのが偽らざる実態です。この間、約3年余り。「悪夢」とも「人災」とも言われる時代です。経済の観点からすると、為替市場の異常な展開があり、超円高が日本経済を苦しめます。

大震災直前の平成23年(2011年)の2月時点で、82.5円というかなりの円高でした。遡ること3年前のリーマンショック以前には、110円台でしたから、その異常さが分かります。そこへ、未曾有の大震災。その反動で相当な円安に振れると思いきや、更なる円高に向かいます。やがてこの年の10月には、75.3円の戦後最高値にまでいくのです。これはドルに対してだけでなく、ユーロに対しても、日本の円は切り上がっていきました。

この原因は、アメリカと欧州にあったのです。2010年ごろから顕在化してきた、リーマンショックの後遺症とでもいうべき欧州金融危機。これが一気に震災後の日本に壮絶なまでの影響を与えていきます。その象徴が、アメリカ国債の格付けが「AAA」から、一段階引き下げられ、「AAプラス」になったことでした。歴史上初の最上級の格付けから滑り落ちました。8月5日のことです。国債基軸通貨ドルへの信認が大きく揺らいだわけです。ここから円高がさらに加速度を増して行きました。

震災禍に喘ぐ日本の円は、昔日の面影のないドル、ユーロの弱さのために、「避難通貨」の性格をかえって強めていったとの指摘がなされます。こうした状況を、経営学者の伊丹敬之氏は「日本の経済の実態とはまるで逆行する超円高の進行は、日本の産業にとって大きな痛手となったはずだが、日本の輸出は千鳥足ながらも大きな落ち込みはせず、日本の生産は震災後にV字回復することができた」とし、それは「日本の産業の底力」がもたらしたものだと評価しているのは興味深いことです。

●大金持ちから市民活動家、そして松下政経塾出身者へ

そうした経済の動きを横目に、菅首相の震災後から退陣までの半年はまことに惨めなものでした。6月2日には野党提出の内閣不信任決議案が、民主党内からの同調者も出そうな状態で、「可決寸前」となりました。直前の同党代議士会で、「震災対策にメドがついた段階で、若い世代に引き継ぐ」と辞意への意思を表明して、辛くも「不信任決議」を回避しました。しかし、その直後に延命意図を露わに前言を翻します。このため、身内の鳩山前首相から「ペテン師」、「嘘つき」とまで罵られます。それでもなお首相の座に居座り続け、結局、8月26日に正式に退陣表明をすることになるのです。

このあと行われる同党代表選挙には5人も出馬し、野田佳彦氏がその座を射止めました。昭和32年生まれ、私より一回り下の酉年です。この時54歳。彼が民主党代表に選出され、翌日は首相に指名されることが確実になった8月29日のブログに私はこう書いています。

【宇宙人と呼ばれる保守政治家の係累でもない、ペテン師と呼ばれた市民活動家出身でもない、新しいタイプの総理の誕生である。この人は松下政経塾の一期生出身であるから、松下幸之助氏門下初の総理ということになる。同塾出身といえば、中央政界だけでなく、地方議会にも少なくない。公明党兵庫県本部で幹事長を務めてくれている吉田謙治神戸市議は同政経塾の一期生で、野田佳彦氏とは極めて親しい間柄だ。

菅政権の財務相といえば、内閣の大番頭であり、その責任はとてつもなく重かった。だが、出鱈目の限りを尽くした菅総理を嗜めた場面など記憶にない。というよりも財務官僚のいいなりと指摘されたことなど、野田氏を批判することは山ほどあるが、ご祝儀の面もあって、今日は一応最小限に控えておく。】

松下政経塾は、前原誠司、玄葉光一郎氏ら清心なイメージを持つ人材群を擁する集団ですが、果たして現実政治を動かす力たりうるかどうか。「玉石混交」ともいえ、国民の間では期待と不安は相半ばする未知数のものでした。

●内田樹さんとの京都での印象深い出会い
9月17日と18日の両日、京都の国際交流会館で、日本カイロプラクターズ協会主催の恒例のシンポジウムがあり、私もパネリストとして招かれました。厚労副大臣に就いた年いらいのご縁で、同協会のアドバイザーのような役割を果たしていることもあり、しかも開催地が京都ということもあって、参加する気になったのですが、もう一つ大きな理由がありました。それはメインゲストが思想家の内田樹さんだったことです。この人は、その頃、神戸女学院大学を退職されたばかり。『街場の現代思想』や『日本辺境論』などの著作を愛読してきた私は、ご本人に会えるのは願ってもない好機と、出かけた次第です。

この人は合気道の達人で、神戸にある凱風館道場の道場主でもあります。かつて大学時代に、合気道を志しながら、わずか3ヶ月ほどで辞めた私。その理由がランニングばかりさせられたことだと打ち明けると、内田さんは「それは残念でしたね。そんな指導者はけしからん」と大層気の毒がってくださいました。事前の打ち合わせでは、時ならぬ「合気道談義」に花が咲き、なかなか楽しいものとなったのです。

この日のシンポジウムのテーマは、「心と身体」。武道をめぐっての内田さんのお話はまことに味わい深く、興味は尽きないものになりました。なかでも、明治維新と先の大戦の敗戦時と二回に亘って、文部省が日本の武道を捨てたことは許しがたいとの主張ー学校体育における武道の位置付けーは迫力があるものでした。

また、人間は危機的状況に追い込まれぬように、状況を瞬時に判断する直感力が大事だとされたのです。具体的に「9-11」テロ事件に巻き込まれそうになりながらも、直前にその場から逃げた人の例を挙げ、そういう人の後追い調査や科学的リサーチをすると面白いとの指摘には、興味深い示唆をいただきました。

●やっと動き出したかに見えた憲法審査会

衆議院憲法審査会は、調査会の後継として2007年8月に設置されたのですが、以来全く動く気配はなく、4年余り開店休業状態が続いてきました。それがこの11月17日になってやっと開かれたのです。この日の審査会では、各党の意見表明で基本的立場を披瀝し合うにとどまりましたが、民主党の幹事が「政治の場では、震災復興が最優先。(憲法議論は)相対的に優先順位としては下がる」と述べたことが象徴的で、先行きの暗い見通しを想起させました。

民主党は、党内に改憲派と護憲派を抱えており、07年に安倍政権が国民投票法案を成立させたのが「強行」だったとして、以後審査会の開催に否定的でした。審査会が同年8月に設置されたにもかかわらず、名簿すら出さない状態が続いてきたのです。今回も社民党は応じてこず、議論進展の期待はおぼつきません。

私はこの日の審査会で、環境権やプライバシー権などを加憲するとの党の公式見解を表明するとともに、国民投票法に関わる宿題の解決には前向きの立場を表明しました。(2020-8-28公開 つづく)

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【89】被災地回りの後、脳梗塞で緊急入院ー平成23年(2011年)❹

●『「巨大災害の時代」と日本文明』ー『公明』9月号で安田喜憲さんと対談

環境考古学の巨人・安田喜憲さんを初めて知ったのは公明党の総務部会の場です。NHKの会長人事を巡ってのトラブルの説明に経営委員が来るというので、普段は殆ど出ない同部会に私が顔を出しました。というのは慶應大元塾長の安西祐一郎さんが絡んだ会長人事が、NHKの不手際で幻に終わったからです。安西さんは学部は違えども大学の同期。経営委員とやらに文句の一つも言おうというのが私の魂胆でした。

全て終わって別れ際に、後輩の稲津久代議士が改めて経営委員の安田さんを紹介してくれました。そこで初めて安田さんが著名な学者のうえ、私の友人で北海道創価学会の責任者・浜名正勝さんと親しいということも判明しました。縁は異なもの味なもの、友達の友だちはおともだちということで、それいらい一気に私との関係も深まることになるのです。

大震災の余燼くすぶる東北を5月6日に訪れた際に再会しました。そこで『公明』で対談をしようという運びになり、京都の伏見稲荷の料理屋で7月3日に実現するのです。9月号で『「巨大災害の時代」と日本文明』のタイトルで掲載になりました。この時の裏話になりますが、まことに変な「対談」でした。スタートから暫くの間、殆ど安田先生が私に信仰の体験を聞かれるばかり。ようやく1時間余り経ってから、災害をめぐる話になる始末。「公明」編集部の中嶋健二記者に、とんでもない苦労をかけた対談となってしまいましたが、彼が見事にまとめてくれました。

この時の話で最も印象に残ったのは、「明治維新の罪」ということでした。私が明治維新、昭和の敗戦に続いて、今が「第三の開国」との歴史家の松本健一さんの受け売りをすると、安田先生は、「開国」ではなく、「漂流」だといわれるのです。「近代日本が経験した三つの転換期に、日本(生命文明)は、強力な西洋(物質エネルギー文明)によって押し切られ、日本文明が大事にすべき文明のエートス(心性)を見失ったと捉えています」と述べて、「大量生産・大量消費・使い捨て型にどっぷり浸かった現在の日本社会から、その日本人の精神性を見つめれば、赤松さんたちが『開国』と言われるほど、好意的には受け止められません」と、キッパリ。この時、私はまさに日本近代史に開眼する思いになりました。ともかくスケールの大きな人です。

●気仙沼での「被災者なんでも相談会」に出席

これより先、5月7日には気仙沼での党宮城県本部主催の「なんでも相談会」に参加しました。一面瓦礫の大海原とでもいう変わり果てた姿で、大きな漁船がいくつもあらぬ場所に巨体を持て余している風が無惨でした。会場近くの階上(はしかみ)中学校の体育館を避難所にしている被災者の皆さんたち数人からあれこれ聞かせていただきました。

「階上漁港で牡蠣やワカメの養殖で生計を立てていたが、漁港、漁船、養殖地の壊滅的被害の中で途方に暮れている。なんとか立ち上がれるような手立てを講じて欲しい」「被災漁民も要求・要望をバラバラでなく、一本化する。国も早急に復旧港湾、養殖漁場の一本化を図り、対応を急いで貰いたい。一箇所でいいから、仕事に取り組めるような糸口を作って」などと、堰を切ったように、色んな要望が次々と繰り出されます。

また、「避難所生活には耐えられない。親類縁者や知人を頼って県外や他地域に一度は出た。しかし、いつまでも甘えてはおられず、いたたまれずに舞い戻ってきた」「民間住宅や貸間を借りたが、公的補助を受けられるかどうか不安だ」「避難所に救援物資が集中する。避難所に入っていない避難民が行くと、欲しければ並べ、と言われる。もっときめ細やかな対応は出来ないのか」「自治会組織が確立していて、自治会長さんが発動しているところはいい。いい加減な自治会長のところには救援物資が届かない」などといった苦情や要望も次々と出されました。

5月9日付けのブログには、以上のような要望を受けたことを記したあと「巨大な大津波に襲われてやがて2ヶ月。瓦礫の片付けで僅かなアルバイト料を稼いではいるものの、先の見通しが立たないと訴える被災者。生活苦と闘わねばならず、悲しむこともままならぬ日々が小さな津波のように押し寄せている。彼らにも私たちにとっても、本当の闘いはこれから始まる」とあります。

確かに心忙しく飛び回る〝怒涛の日々〟が続きました。

●危うく〝真夏の夜の惨劇〟免れる

その日の夜は親しい大学の先生(阿部憲仁横浜桐蔭大准教授=当時)と新大久保で懇談する予定でした。7月29日のことです。夕刻近く、国会での動きのリポートをアイパッドに向かって書いていました。すると、どうも指元がおかしい。ボードに指をおいても、その通りにはいかないのです。流れるというか、定まらないというべきか。幾たびか試みても、どうにも指が頭脳のいうことを聞かないという他ありません。事務室にいる小谷秘書に声をかけました。

「おーい、小谷くん。どうもアイパッドがうまくいかないよ」ー今度はその自分が発した言葉がおかしいのです。呂律定まらぬ感じがありあり。瞬時、これは脳に異常をきたしているのでは、との思いがよぎります。ただ、一方で大したことはなかろう、との勝手な見立ても頭がもたげます。予定をこなし、明日病院に行くか、とも考えました。ですが、ここはまず衆議院内にある医務室へ行こうと思い直し、直ちに向かいました。当直の医師は、私の事情説明が終わらぬうちに、「すぐ入院しましょう、救急車で慈恵医大病院に行ってください」と言われるのです。

私はそれを制して、「入院するなら東京女子医大病院にします。かかりつけ病院ですから」と言い、直ちに主治医の佐藤麻子先生(現同大教授)に電話を入れました。通常は出られぬことが多いのに、この時に限って直ぐに電話口に。「えーっ、私今から地方講演で出かけるところなんですよ。困りましたねぇ。‥‥。分かりました。直ぐに来てください。ベッド用意しますから」。救急車を断り、小谷秘書の運転で向かいました。この間、異常に気付いてから10分間ぐらいです。この素早い対応が全てでした。それに、主治医と即繋がれた幸運も。

「ほら、見てください。貴方の脳内ですよ」ー担当医が見せてくれた写真には転々と白い粒が写っていました。脳梗塞の症状です。翌日、医師との会話で「脳が詰まってる」と言われるのに対し「いたって詰まんない男なのに、脳は詰まってるんですねぇ」と言って笑わせたり、「常日頃身体に気を使って、運動もしてるのにどうしてこんな病に罹るんでしょうねぇ」と、それこそ詰まらぬことを口にしました。女性副院長は「何言ってるの。色々やってても(病気に)なる人はなるし、何もしていなくても、ならない人はならないの!」と嗜められました。

いらい、約2週間入院することに。大事に至らず8月12日に無事に退院できたのですが、無理して出かけていたりして、対応が遅れていたら‥‥。〝真夏の夜の夢〟ならぬ、「真夏の夜の惨劇」になったのに違いありません。震災対応は別にして、国会の仕事にも比較的影響はなくて済みました。幸運に恵まれて、何の後遺症もなく、今日まで過ごせていることに、命の奥底から感謝の思いで一杯になります。(2020-8- 26 公開 つづく)

 

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【88】身も心も凍る「原発専門家たちのSOS」ー平成23年(2011年)❸

●福島第一原発をめぐる専門家たちの「緊急建言」

今回の東日本大震災がもたらした大津波の影響で、絶体絶命のピンチに立たされた福島第一原発。それいらい、原発の危険性については、数多の学者、専門家から意見を聞きました。その中で、身も心も凍る思いがしたのは、3月31日に公表された、「福島原発事故についての緊急建言」という文書です。

「はじめに、原子力の平和利用を先頭だって進めて来た者として、今回の事故を極めて遺憾に思うと同時に深く陳謝します」という一文で始まる16人の学者たちによる約1000字程の文章。これを4月12日の公明党の「福島第一原子力発電所災害対策本部」の場で配布されて読んだときのショックは忘れ難いものがありました。

「度重なる水素爆発、使用済み燃料プールの水位低下、相次ぐ火災、作業者の被爆事故、極めて高い放射能を含む冷却水の大量漏洩、放射能分析データの誤りなど、次々と様々な障害が起こり、本格的な見通しが立たない状況にある」との厳しい認識を述べた上で、「既に国家的事件というべき事態に直面して」いるので、国を挙げた強力な体制を緊急に構築することを求めているのです。要するに、原子力の安全な平和利用に取り組んできた専門家たちが、今回の事故処理は、もはや私たちの手に負えません、と恥も外聞もかなぐり捨てて、「助けてぇ」とばかりに、SOSを発信したのです。

この時の原発事故を巡っては、様々な人が色々な見方、考え方を提起してきていますが、私としては、ノンフィクション作家の門田隆将氏が書いた『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発』が最もインパクトが強いものと思われます。この本を原作として描かれた映画『Fukushima  50』はエンディングの不可解さを始め物足りなさが残るものではありましたが、菅直人首相役に扮した佐野史郎の演技の迫真性には妙に感心します。

また、神戸大学の石橋克彦名誉教授が4月半ばの国会での緊急院内集会で行った「福島原発震災の彼方にー原発主義の暗い時代を抜け出して」という講演は極めて興味深いものでした。原子力安全委員会を構成する学者など原子力の専門家たちの見解がいかにずさんで、いい加減なものかを完膚なきまでに解き明かされていたのです。最も感銘を受けたのは「現代日本における原子力は、敗戦前の帝国軍隊に似ている」との指摘でした。戦前の軍国主義が戦後は経済至上主義に変わった、と私も認識してきましたが、それを言い換えると原発主義だというわけです。確かにエネルギーを原発に依存させてきた戦後日本の過程は酷似しているといえます。

●病院船をめぐる公開シンポで早稲田大学へ

震災をめぐる様々の事後対応で、今なお実現の陽の目を見ていない懸案の一つに「病院船問題」があります。東日本大震災から3ヶ月ほどが経った6月半ばに、大型病院船建造推進超党派議員連盟が、自民党の衛藤征士郎代議士(元防衛庁長官)の呼びかけで立ち上がり、私は副会長になりました。既に阪神淡路の大震災発生の時にもその必要性が論じられたのですが、結局は沙汰止みになり、そうしているうちに今回の東日本大震災となったのです。実はこの問題、早稲田大学先端科学・健康医療融合研究機構(浅井茂隆機構長)が、神戸大学と合同で「最新鋭国際健康医療支援船プロジェクト」を作っており、機運醸成に尽力されてきました。

6月20日に早稲田大学大隈小講堂で開かれた公開シンポジウムには、議連所属の各党代表と共に、私も参加しましたが、高揚感が漲る会合でした。何しろ、タイトルが「明日見ゆ、日本!明日見ゆ、早稲田! ー最新鋭国際健康医療支援船プロジェクトー」というのですから。中心者の浅井茂隆氏は著名な医学者で、極めて魅力あふれる方です。私も、自民、民主の代表に続き挨拶に立ちました。

まず、早稲田大学と自分の個人的思い出を語り、病院船についての思い入れを語りました。阪神淡路大震災の直後に機運がひとたびは盛り上がりながら、災害時以外での使い方や、予算経費を巡って慎重論が勢いをまし、結局は見送られてきたのです。私はその経緯を述べ、今度こそ実現させないと大きな後悔が残ると強調しました。「第三の開国」と、日本文明の再興が重なり合うことの可能性を指摘しつつ、病院船を通じてのアジア地域における国際貢献がその機縁になるとの主張を披歴したのです。

この会で印象深かったのは、天児慧早稲田大学教授(現代中国論)からの「アジア非伝統的安全保障機構と国際人材育成の推進を!」という基調講演でした。この中で、同教授は、感染症、環境、大自然災害、エネルギー資源などの非安全保障分野にまず特化して「アジア連合」を作ることの重要性を強調されたのです。私はこれに対して、異なった時代を同じ地域で生きる、日本、中国、韓国、北朝鮮が連合体を形成するにはどれくらいの時間がかかるかと訊いてみました。同教授の見立ては、「20年」でした。

それはともかく、結局この病院船問題は、デッドロックに乗り上がってしまい、難破状態になっています。この時から8年が経ち、今や新型コロナウイルスという大感染症の蔓延を見ていますが、一向に状況は進まないのは残念という他ありません。浅野先生は議員連盟の非力さを嘆いておられましたが、船頭多くしてなんとやらの如く、数多の議連が辿ってきた流れと同様に「開店休業状態」なのは、困ったものです。

●復興に向けて際立つ公明党の取り組み

5月19日を皮切りに、東日本大震災の復興・復旧を目指す復興基本法案の審議が始まります。ここでの自民党、公明党など野党が、対応の遅すぎる民主党政府に強烈な批判を浴びせかけました。公明党は、復興基本法案の骨子案の考え方として①人間の復興を基本理念とする②地方公共団体は国が定めた復興理念・基本方針を踏まえて、復興計画を策定、実施する③内閣に施策を一元的に実施する復興庁を設置する④首相は復興庁を所管する担当相を任命する⑤復興財源を確保するために歳出の徹底した見直しと削減を図る⑥国会の議決を経て復興債を発行する⑦被災地域を復興特区に指定するーなどというものを盛り込みました。我田引水でなく、個性ある公明党らしい出色のものであると思ったものです。

政府の案については、復興庁の創設についてはあいまいで、附則のなかに、一年以内に検討するというだけ。また、復興特区の言及はなく、そもそも財源の規定すらない、などと問題だらけ。さらに、被災自治体ではなくて、国が復興理念や基本方針を決めるとしており、被災地の意向がなおざりにされかねないものだったのです。

さらに、5月末に開かれた党首討論の場で、山口代表が菅首相に対して、大地震から3ヶ月足らず。今なお避難所を転々としている人たちの思いが分かっているのか!震災担当専門の大臣もいまだにおかず、全てが遅すぎる!いったいあなたはやる気があるのか!と舌鋒鋭く追及しました。その中で、同代表が、現地で法律相談に取り組んでいる冬柴鐵三党常任顧問(前衆議院議員)のことに触れ、その実態などを紹介しました。実は私も直前に冬柴さんから同趣旨の内容を聞いていましただけに、なおさら深く感じ入ったのです。(2020-8-24公開 つづく)

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【87】言葉だけの「未来志向」外交を批判ー平成23年(2011年)❷

●郵政改革特委設置に「退席」で意思表示

国会の委員会や本会議で採決をする時は、委員長や議長の「賛成の諸君の起立を求めます」との発声で、議員たちは自席で立つことを促されます。ある時に私は、反対の諸君に起立を求めた方がいいのでは、と思ったものです。「何でも反対」のある政党は、いつも座ったままが多く、与党側は賛成が多いので、しょっちゅう立たねばなりません。別にその労を厭うわけではないですが、林立する賛成者の陰で殆ど目立たない少数者というのでは、反対のしがいがないだろうなあと思ったからです。

国会の賛否は通常「党議拘束」がかけられており、個人の自由な判断で法案への態度を決めるわけにはいきません。以前に述べましたが、「臓器移植法案」の採決時に、「党議拘束なし」だった際にはとても興奮しました。また、「党議拘束」に反抗してまでも賛否の態度を示したくないのですが、何か釈然としない時に、採決に応じず、「退席」でその意思を示すという場面は稀にあります。私も一回だけですが、そういうケースを経験しました。

4月12日の本会議に、郵政改革をめぐる特別委員会設置案件がかけられたのです。これは、民主党の提起のもとに、社民党、国民新党が賛成。自民、共産、みんなの党が反対。公明党は、消極的ながら賛成の態度でした。しかし、私は「退席」で意思を表明しました。

この法案は、郵政民営化に断固反対の国民新党の亀井静香氏が何とか民営化を潰して、郵政改革の名の下に、元に戻したいとの思惑から、民主党に圧力をかけたいわく付きの特別委員会設置だったのです。私は、東日本大震災で国家的対応が迫られている時に、かかずらう問題なのかどうか疑問がある上、かつて郵政民営化に賛成したのに、国民新党に引きずられるのはごめん被りたいとの考えでした。特別委員会ぐらいはあってもいいのでは、という党の考え方に賛成しがたいと思ったのです。些細なことですが、珍しいことでした。

●対韓国外交の「未来志向」的態度を批判

国会での議論で、自分らしさを発揮することは、常に私が心がけたことです。ここでいまひとつ触れておきたいのは対韓国外交における「未来志向」なる言葉についての批判的姿勢です。「日韓併合百年」の2010年に結ばれた「日韓図書協定」を批准するべく議論がなされた外務委員会。4月27日の同委員会で、松本剛明外相は「未来志向の日韓関係」なる言葉を短い間に十数回は繰り返しました。同氏は、前原前外相の政治献金疑惑による急な辞任を受けて急遽就任。実は私の選挙区の後輩であり、彼の親父さん(十郎氏)以来の親子二代にわたる「政敵」です。自ずと気合が入りました。

「未来志向」の言葉の構成要件とは何かと訊くと、同外相は「政治・安全保障、経済、文化分野における相互交流」というだけ。これでは、何も示したことにはならない。どこの国との関係でもこれは適応されるからです。韓国との間で、未来志向という言葉を使うのは、先方が過去の歴史に遡ってあれこれ言ってくるのを避けたいということに他ならず、もう後ろを見ないで前を向こうということに過ぎないのです。

しかし、それを日本が言っても相手は構わず過去に拘ってきます。同じ「未来志向」という言葉を使っても、韓国は竹島の領有問題や、慰安婦問題、歴史認識など自国の主張をガンガンとリンクさせてきます。日本だけが避けようとしても無理というもの。その点、日本外交はどうも穏便に摩擦を避けることにだけ執心しているように見えるのです。この日の質疑で、私は「日本に戦略性がなさ過ぎる」ことを強く主張したのです。

実はこの時の私の議論を聞いていた産経新聞の有元隆志副編集長が同紙の「from Editor」欄(5-15付け)で、「言葉だけが躍る未来志向」と題してコラムに取り上げました。

有元氏は、岡崎久彦さんの『明治の外交力ー陸奥宗光の「蹇蹇録」に学ぶ』という本のことから説き起こし、この日韓図書協定をめぐる外務委員会での議論を論評したのです。以下さわりの部分を抜粋してみます。

【自民党は韓国にある日本由来の貴重な図書の引き渡しを求めない菅直人政権の方針に「片務的過ぎる」と反対した。政権側は批判を受け図書の閲覧の便利性向上などに努める方針を示したものの、対応は後手にまわっている。「外務省は外交摩擦を恐れている。(協定批准にあたって日本側が強調する)『未来志向』は、摩擦を起こさない観点から、将来に向かってどうしましょうかという話を話題にするように見える」

4月27日の衆院外務委員会で、協定に賛成しつつもこう疑問を投げかけたのは公明党の赤松正雄氏だ。祖母が伊藤の孫にあたる松本剛明外相は「つい一番難しい問題を避けて通ることは、人間のやることとしてないわけではないが、そういうことのないようしっかり取り組みたい」と答えた。

松本外相が言葉通りの行動をとることを期待したいが、民主党政権下では昨年秋の尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件など、日本の国益が問われる事件が相次いだ。中国の軍備増強などアジアが再び帝国主義の時代に戻ったとも言われるなかで、赤松氏が言うように「未来志向だとか戦略的互恵なんていう言葉だけが躍る、実際は中身は伴わない、こういう事態ではしようがない」といえる。】

有元隆志さんは、私が党広報局長当時から、公明党番記者をし、米国ワシントン特派員、政治部長を経て、『正論』編集長、今は同誌の発行人となっています。私が深く尊敬する言論人のひとりです。

●松本外相との「沖縄」質疑でも

松本外相との外務委員会でのやりとりにもう少し拘りたい。7月27日の同委員会のことです。ことの起こりは、6月中旬に開かれた日米安全保障協議委員会(2プラス2)でのこと。自民党政権や自公政権にあっては、「基地負担の軽減」と表現していたものを、民主党政権になって、「基地の影響軽減」へと書き振りをそっと変えてしまったのです。

これに気づいた私は、外務省当局に負担軽減の文字が消えていることを指摘すると、文書中には入っていないが、口頭では外相はアメリカ側に抗議していたと述べていました。このことを私は同委員会で追及したのです。松本外相は当初、言葉は違うけれど、同じことを意味すると述べました。それは極めて不正直だと思った私は重ねて「正式文書でなくとも、注釈のような形でも明記すべきだった」と述べました。

松本外相は「沖縄のみなさんから見ると、実感が反映されていないと感じるのは否定できない。おしとどめられなかったことは大変責任を感じる。自らの力量不足は痛恨の極みだ」と述べました。これは、翌28日付けの沖縄タイムス紙にも「負担の文言削減『力量不足』」と、私の追及に屈したことが報じられました。

松本剛明さんは、民主党時代において、政調会長を務めていましたが、当時は光り輝いていたように私には見えました。外相としても、この答弁に見るように自分の非は否と認める率直さを持つ、懐の大きな政治家の片鱗を窺わせていました。正直私は将来更なる飛躍を期待できる逸材だと思ったものです。しかし、民主党政権の崩壊と共に、自ら膝を折って、自民党入りを決断したことはいささか失望を禁じ得ませんでした。政権交代を目指す一方の旗頭として、全うして欲しかったものです。(2020-8-22公開 つづく)

 

【87】言葉だけの「未来志向」外交を批判ー平成23年(2011年)❷ はコメントを受け付けていません

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【86】東日本大震災発生と自衛隊員への激励ー平成23年(2011年)❶

●東日本大震災当日の記憶

あの日、あの時間、私は東京から地元姫路に向かう新幹線車中にいました。新横浜駅に停車した頃だったと記憶します。奇妙で微妙な揺れを感じました。約10分間ほど停車したのちに、何事もなかったように「のぞみ」は出発しました。元文科相で隣の選挙区の渡海紀三郎代議士の姫路での会合に向かうところだったのです。当時関西エリアでは著名だった評論家の青山繁晴氏(現参議院議員)の講演があり、それを聴くのが主たる目的でした。なんだか大きな地震が起きたらしいという車内放送を聞いただけ。国会の事務所に電話をしても繋がらず、何も分からない状態のまま姫路駅に着きました。

全貌がぼんやりと分かったのは数時間経って、会場に着いてからです。東北方面が震源地で、首都圏周辺にまで影響が及んでる、とのこと。津波による想像を絶する大惨事はおろか、福島原発を襲う大危機からの〝日本沈没〟寸前の事態だったことを理解するには、まだまだ時間がかかりました。阪神淡路の大震災からほぼ16年。あの時は自社さ政権で社会党出身の村山首相。今度は民民民政権で、市民活動家あがりの菅首相。危機管理に習熟していないリーダーのもとで国家の崩壊的危機を迎える二度目の、更に大きな悲劇をやがて思い知ることになります。

●新入自衛隊員との交流と自衛隊の活躍

震災の翌日、姫路の自衛隊基地で行われた新入隊員を励ます会に訪れ、この春に晴れて自衛隊に入ることが決まった青年たち(大卒、高卒合わせて34人)と会いました。そこでは彼らから「この国のために役立つべく、地域密着型の隊員として頑張ります」「航空自衛隊員として世界にはばたきます」「自衛隊看護生として全力を尽くす決意です」など、一言ずつの決意発表がありました。皆堂々とした立派なものでした。

そのあと、私は「昨日発生した東北・関東大震災においても皆さん方の先輩たちが直ちに懸命の救助活動を展開しています。16年前の阪神淡路の大震災の時に大活躍をされて以来、自衛隊の存在はまさに従来とは一変して、国民に心底から期待されるものとなりました」と強調し、「さてこの世に皆さんが生を受けた20年前は、自衛隊の歴史にとって時代を画す変革期でした。湾岸戦争に金は出したが、人的貢献はしなかった日本は、世界中から特殊な国家として位置付けられたのです。このため、カンボジアPKOからは国際協力をするべく法的措置をとりました」と続けました。「皆さんが自分で決めた一筋の道を断じて怯まず歩いて行って欲しい」と結びましたが、私の代議士生活における自衛隊での挨拶でも印象に残る貴重な場面のものとなりました。

ともあれ、震災時における自衛隊員の活躍はめざましいものがありました。共産党のある幹部が、大津波のために命からがら逃げ伸びた建物の中で、自衛隊員から受けた毛布をはじめとする援助の数々の前に、過去の自分の観念的な自衛隊観が音を立てて崩れたと語っていたのを雑誌で読みましたが、我が意を得た思いがしたものです。

●日米沖の関係に万感の想い込め本会議で演説

3月31日の衆議院本会議では在日米軍の駐留経費の日本側負担をめぐる協定、つまりいわゆる「思いやり予算」についての採決があり、その賛成討論を私が行いました。この演説は私なりに渾身の力を込めました。冒頭で、震災で多くの家族を亡くされた民主党の黄川田徹代議士の席に向かって、お悔やみの思いを込めた挨拶をしたことも忘れえぬことです。以下、演説の山場を転載します。

【ところで、この際に触れておきたいのは、日米地位協定の改定と沖縄の普天間基地移設問題という二つのテーマをリンクさせることです。民主党はマニフェストに地位協定の改定を提起する、としてきました。しかしながら、政権が交代して1年半。「地位協定改定をアメリカ側に申し入れた」とのニュースに私たちは接することができないでいます。結局は旗を掲げるだけで、具体的な行動は起こしていないのです。ここにもう一つのマニフェスト違反があると言わざるを得ないのです。野党時代は簡単にできると思ったが、現実にはやはり難しいというのでしょうか。先日も前原外相は「地位協定の旗は降ろしていない」との答弁をしました。それを聞いた時、私は「旗は旗でも白旗ではないのか」とさえ思いました。

安保条約50周年を迎えた現在、大事なことは日米関係の一層の深化であり、緊密な関係構築だと思います。かつてある国の指導者は「戦場で失ったものを交渉で取り返すことはできない」と言いました。これは裏返せば、「戦場で奪ったものを交渉のテーブルで返したりするものか」ということでしょう。思えば、米国は、これとは反対に、戦場で得たものを交渉で返すという英断を下した国家です。であるがゆえに、今なお、沖縄に対する強い執着があるとの見方もできなくはありません。

それにつけても見過ごすことができないのは、先日のケビン・メア元沖縄総領事、前国務省日本部長の暴言です。この発言は、過去の積み重ねが崩れたことへの悔しい思いがあったとはいえ、持っていく先を間違えられたものと言わざるを得ず、誠に残念です。兼ねて私は日本がホストネーションサポートをするのだから、アメリカはゲストネーションマナーを持つべきなのに、あまりにそれがなさすぎると指摘してきました。ことは若い軍人の仕業ではない、メアという日米関係を代表するといっていい人物がこの程度の認識だからこそ、と思わざるを得ません。ここはあの発言を逆手にとって、日米沖の三者による歴史認識の研究の場を設けるというぐらいの提案が日本からあっても良かったのではないかと思います。

デッドロックに乗り上げた感のする沖縄の基地移設問題を解く鍵は、一にも二にも私は地位協定の改定について具体的に問題を提起し、日本側が汗をかくことだと思います。そのためには、日本が沖縄を琉球王朝以来の歴史と文化と伝統を重んじる地域だととらえることから始めるべきだと考えます。とっくに、日本の領土になった一地方自治体というのでは事態は解決しない。沖縄の方と誠心誠意話し合うと政府が言うのなら、準国家的位置づけをもってして対応すべきだとさえ思います。それで初めて沖縄の人々の心が動くのではないでしょうか。かつて、中国・清と日本・薩摩の狭間で揉みにもまれ、その後は米国と日本の狭間で苦労し続ける沖縄からは、米中の狭間に立つ日本が学ぶべきことは極めて多いと思うのです。

東日本の今次の大災害から復旧・復興に挑む戦いをする中でこそ、「三度(みたび)の開国」を日本が果たしうるとの指摘があります。そのためには、まずは沖縄をめぐる問題を超えなければならないとその重要性を改めて強調させていただいて、私の賛成討論とさせていただきます。】

我ながらいい演説だと自画自賛しています。しかし、肝心かなめの沖縄における基本的課題が何も解決していない現状は残念という他ありません。(2020-8-20公開 つづく)

 

 

 

 

 

 

 

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【85】「尖閣問題」に見る民主政権の稚拙さー平成22年(2010年)❹

●「尖閣問題」でてんやわんやの大騒ぎ

その事件は9月7日に起こりました。尖閣諸島周辺をパトロールしていた海洋保安庁の巡視船「みずき」と「よなくに」に、中国船籍と見られる不審船が体当たりしてきたのです。違法操業への退去命令を無視した上での不埒極まる行為です。このため、この船を停船させ船長以下乗組員を逮捕し、石垣島に連行しました。これから25日までの約20日間というものてんやわんやの大騒ぎになります。この間、中国側は「尖閣(魚釣島)は中国の領土である」との、強引な主張をもとに執拗な抗議を展開し続けます。日本政府は当初、船長のみを勾留し、他の乗組員を釈放したあと、船長も最終的に仙石官房長官の判断で釈放しました。

さらに、海上保安庁の職員がこの事件に関するビデオを流出させたことから、事件は益々混乱の度を増していきます。このビデオの公開をめぐり中国側への配慮を優先させる政府の判断が迷うのです。11月1日に衆参両院議員の代表30人がこれを見ることになり、私も加わりました。故意に衝突を仕掛けてきたことがリアルにわかる映像で、自公両党のの議員からは「正しい情報を示すことが今後の再発防止にも役立つ。国民に公開するべきだ」との要求が出ました。

この時の北京在住中国大使は丹羽宇一郎大使(元伊藤忠商事社長)。実は同大使が中国に赴任の直前に、衆議院外務委員会の理事との懇談の機会が持たれたのです。その際に、「できるだけ中国の隅々にまで足を伸ばし、大衆の生の声をきいてみたい」など、民間経済人としての強い抱負を述べました。さらに、様々なアドバイスをメールででも頂ければありがたい、と。軽快な言い回しに私は強く好感を持ったものです。そこで、あれこれとその後メールをしたのですが、一切無しのつぶて。以降、退任後様々の本を出版されたりしていますが、口先だけの人のように思われて、あまり読む気に私はなれないでいます。

●外務委員会で前原誠司外相と渡り合う

この事件のただなか10月27日に外務委員会が開かれ、私は質問に立ちました。その時の私の気分は、外務省は何をしているのか分からないとの怒りにも近いものでした。中国漁船の無法な狼藉に毅然と対応して、逮捕に踏み切った海上保安庁と、そしてそれを不起訴のまま釈放し、政治的判断だと苦しい言い訳の姿をさらけだした沖縄地検。方向は真逆ですが、共に目立ってはいました。それに比べて、政治・外交の出番だと言いながら、とんと出番のないのが外務省です。中国側が次々と繰り出してくるカードの前になす術もないというのがありのままの実態でした。

私は前原外相に、対抗措置として①中国人観光客の日本入国手続きの厳格化②機内持ち込み荷物(土産物)制限の厳格化などを迫りました。しかし、同外相は「目には目をというわけにはいかない」と消極的姿勢を示すだけ。一方、尖閣諸島を巡っては、従来から日中間には棚上げするとの暗黙の了解があったはずなのに、前原外相は明確に否定する方向に舵を切ったのです。ならばそれに伴う責任の所在があると強調、尖閣諸島周辺の実効支配を強めて行くことが大事だと訴えました。それには船着場の設置や、縦割りではない省庁横断的に取り組む仕組みを作るべきだと強調したのです。これらには同外相は全面的に賛意を表明しました。

●菅首相と予算委員会で対決

ついで11月1日には予算委員会が開催され、私は菅首相への質問に立ちました。そこでは①カネと政治にまつわるけじめ②国家主権と領土保全確保に向けての平和外交③社会福祉の確立ーの3点を取り上げて、問題解決に向けて、鍵を握る人物に会うことが大事だと極めて具体的な角度で指摘しました。①では鳩山由紀夫、小沢一郎の両氏②では温家宝と胡錦濤の両氏を指します。

当時、菅首相が小沢氏に会うことに躊躇しているように専ら見えたことが背景にありました。同首相は必要があれば会うが、現時点では岡田幹事長の努力を多とするなどと、人任せの逃げの答弁に終始したのです。同じ政党に属する幹部でも肌合いの違いや苦手意識が見えました。この時の質疑については、神戸新聞が「永田町から」というコラム(11月7日付け)で「献金受領再開、予算委で批判」との見出しで以下のように報じました。

【「企業・団体献金の再開を決定した民主党に多くの国民が失望した」。1日の衆院予算委員会で、公明党の赤松正雄衆議院議員(64)=比例近畿=は、民主党の決定を「マニフェスト批判」と厳しく批判した。菅直人首相が「自民党だけには(献金を)出しにくいという企業の声もある」と苦しい答弁をすると、野党の議員から失笑が漏れた。

小沢一郎・元民主党代表らの「政治とカネ」の問題については、「政治家と秘書の問題」との立場だ。自身も議員秘書の経験があり、「秘書にすべての責任を負わせる政治がクリーンなはずがない」と話す。

予算委では、政治資金規正法を改正し、収支報告書の虚偽記載で政治家本人の責任を問うよう提案。「傾聴に値する内容。大いに議論したい」との言葉を引き出した。(高見雄樹)】

この時の質疑では、菅首相の前に答弁した前原外相の「一部であれ再開したのは、今までの民主党の考え方と逆行したと国民はとらえるのではないかと思う」との発言がとても率直だと印象に残っています。

●秋田国際大でのシンポへー中嶋先生との約束果たす

これより少し前の10月15、16の両日秋田県にある秋田国際教養大学で開かれた『アジアの活力』と銘打った国際シンポジウムに参加しました。秋田空港から車で10分の広大な敷地の中にある杉木立の中。秋田県立中央公園やスポーツセンターなどの諸施設に隣接した同大学は噂通りの新天地に見えました。私の恩師中嶋嶺雄先生が学長兼理事長をされている大学で、一度来るようにと言われていたことがようやく実現したのです。尖閣諸島問題で揺れる日中関係のさなかではありましたが、それだけ一層充実した時間となりました。
中嶋嶺雄学長は冒頭に、「儒教、漢字、米食、箸と共通の文化圏に属するものの、大陸性、半島性、島嶼性といった異なる地政学的特徴を持つ中国、韓国、日本の違いというものを意識することが大切」であり、東アジアでは「新しい冷戦という認識が生まれつつある」という印象的な挨拶で口火を切られました。

ついで、朝日新聞の船橋洋一主筆が「東アジアの経済協力と安全保障」とのタイトルで基調報告。「上海万博でのアフリカへの強い関心など中国のバイタリティには動物的スピリットを感じる」と、約30年前の大阪万博と興味深い対比をしながら、同国の経済発展の実態を語りました。また、尖閣諸島を巡る問題では、「日中双方が未熟ゆえに、共に負けたのではないか。戦略的互恵関係とはレトリックに過ぎない」「経済カードを中国が切ったことは気になる」などと注目すべき見解を述べました。

またこれを受けて袴田茂樹青山学院大学教授や濱本良一読売新聞論説委員は、尖閣諸島問題が「世界に中国の本当の姿を知らしめた」ことは大きく、その結果「日本人が主権意識に目覚める」効用がうまれたとの認識を示しました。

この日の昼食時間に学内食堂でたまたま隣り合わせた男子一年生のM君とあれこれ話し合えたのは収穫でした。中嶋学長の精神が一学生にも脈打っていました。(2020-8-18公開 つづく)

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【84】鳩山から菅へ、団塊世代の危うい首相続くー平成22年(2010年)❸

●連立10年の安保政策を顧みる作業

前年の衆議院選挙の大敗北いらい、一体どこに原因があったのかをしっかりと検証しようとの動きが党内に満ち溢れてきました。自民党との連立を決断した2000年からちょうど10年の節目を迎えることもあり、党内に二つのプロジェクトチームが出来て、侃侃諤諤の議論を始めることになりました。一つは、社会保障政策を担当するグループで座長は坂口力さん。もう一つは安全保障政策を振り返るグループで私が中心者になりました。負けた原因を探る作業は決して楽なものではなく、秋から年末にかけ随分と苦労を重ねることになります。

私が担当した作業では①テロとの闘い②イラク戦争③沖縄問題④核廃絶問題ーこの4つについてあらゆる角度から、公明党のとってきた態度に問題はなかったかどうかを検証しました。連立政権に入る前の公明党は、米国に追随する自民党政権の外交・安保政策を厳しく批判する野党の立場を貫いたものでした。それが与党になって政権の一翼を担うようになり、矛先が鈍ってしまい、「平和の党」の看板に偽りがなかったのかが問われてきたのです。大議論の末に、非は否として素直に認めようということでチーム内のの意見は一致しました。

ただし、最大の問題は、どこまで自己開示をするかということでした。あらゆる組織にとって自らのマイナスになる情報はなるべくなら伏せておきたいとの心理が働きます。政党も例外ではありません。私が座長を務めた分野では、最大の失敗はイラク戦争において、イラクに大量破壊兵器があると見たのに、結局はなかったことでした。このことを巡ってどう表現するかが揉めました。

私は自分の犯したミスもあり、包み隠さず公表すべきだとの立場に固執しましたが、何も洗いざらいだすことはない、文書としてまとめるのは問題ありとの声が根強く、一時は全て沙汰止みになりかけました。しかし、山口代表、井上幹事長の英断で、理論誌『公明』6月号でのインタビューに私が答えるという形に落ち着きました。苦肉の策でした。社会保障分野が坂口さんの名前でまとめたものを公表されたのとでは微妙な違いがあります。

●菅首相の誕生と参議院選挙の劇的結果

鳩山政権は発足当初こそ好スタートだったものの、瞬く間に低下を続けていきます。その原因には三つあると思われます。一つは鳩山、小沢のツートップの献金疑惑に対する不誠実な態度。二つは、マニフェスト違反への開き直り。三つは普天間基地移転問題などで、野党時代の主張と正反対の態度を取り続けたことなどです。自民党の麻生前首相は「難しい漢字が読めずに恥をかいたが、信念はあった」。一方、鳩山首相は、「政治的信念のかけらも感じられない」というのが平成22年の5月ごろの世の中の空気です。わずか半年ほどで、民主党への期待はあえなく急転直下していくのです。

鳩山氏に代わって、登場するのが菅直人氏。副総理兼財務相だったナンバー2が、トップの不始末を横目に何食わぬ顔で取って変わるのはおかしいというほかありません。井上義久幹事長が菅首相就任直後の所信表明演説への代表質問で、①ガソリン税などの暫定税率の廃止②高校生の特定扶養控除の縮減③高速道路の無料化ならぬ実質値上げーなどと、前年の総選挙でばらまいた約束を次々と破り、数限りない公約違反をしているとして、民主党政権(国民新党との連立)を「国民だまし政権」だと厳しく断定しました。

追及されると、鳩山氏の献金疑惑などに意見を述べて諫めたが、財務相という立場に専念していたのだといいます。政治と金や普天間問題は自分の担当外だといわんばかりの逃げの姿勢に終始しました。では、財務分野ではどうかといえば、結局何もしてこなかったことを暴露するだけでした。

こんな状況で1ヶ月後に迎えた参議院選挙。民主党は改選54議席を大幅に下回る44議席に落ち込む大敗を喫します。国民新党に至っては議席ゼロで、与党系は非改選も含めて110議席に後退し、過半数の122を大きく割り込みます。衆院では民民連立与党が過半数を占めるも、参院では野党が過半数を占める「衆参ねじれ」状態になりました。直前の自公政権の時と同じ状態ですが、その時と違って衆院で3分の2を民民政権は持っていず、法案が参院で否決されても再議決できない状態になりました。

一方、自民党は改選議席38を大幅に上回る51議席となり、公明党は埼玉、東京、大阪の3選挙区で完勝。比例区でも763万9432票を獲得し、6議席を確保(改選議席8からは2減)、非改選の10議席と合わせて19議席となって、参院第三党の位置を維持しました。なお、この選挙ではみんなの党が一挙に10議席を獲得し、非改選と併せて11議席になったことが注目されました。

●サンデー毎日『このミステリーがすごい!』に登場

私の少年時代は、冒険推理小説と共にあり、それは長じても変わらぬ性癖へと身についてしまったように思われます。しかも、新聞記者から議員秘書を経て政治家になるまで、一貫してお仕えした大先輩の市川雄一さん(元公明党書記長)が無類の読書好き、とくに冒険推理小説に目がなかったとくれば、推して知るべしでしょう。二人でいつも面白く読んだ本を教え合って、読み競ったものです。私は『忙中本あり』を、ブログで公表してからというもの、〝永田町の読書人〟として、時に応じて様々な媒体に登場しました。

サンデー毎日の2010-8-22・29号で特集された「この夏 このミステリーがすごい!」に、私が出てきます。「お盆休みを控えた読者のために、人気作家やミステリー好きの著名人がイチオシの小説やDVDを紹介しよう」との触れ込みで。私の他には、佐々木譲、今野敏、黒川博行、綾辻行人、桜庭一樹の5人の作家、タレントの山本モナ、漫画家の蛭子能収さんら10人。私が選ばれること自体がミステリーと言えました。

【息もつかせず読ませて、暑さを忘れるー。ケンフォレットの『針の眼』がマイ・ベストです。第二次大戦中、連合国軍の上陸作戦予定地がノルマンディーであることを探り当てたドイツのスパイ「針」と、その情報をドイツに知られまいとする英国情報部との手に汗握る追いかけっこが展開されます。

乗っていた小舟が難破して漂着した孤島で、「針」は島に住む英国軍の元戦闘機乗りの妻と恋に落ちてしまう。第二次世界大戦史上、最大の作戦を背景に、男女の劇的なラブロマンスが盛り上がっていくスケールの大きさが見事。国内では横山秀夫の作品。『震度0』は、妻たちを含めた警察内部の人間関係のひだが興味深い。『第三の時効』も名作です。

無名時代のスティーブン・スピルバーグが撮った『激突!』は鮮烈!主人公は運転者の見えないトラックにひたすら追いかけられる。自分が追われてるような心境になり、ゾッとするので夏にぴったりです。ただ、何度も見る気にはなれません。

最近では米TVドラマ『24』シリーズにハマりました。原発、感染症、小型核など現代が直面する安全保障のトピックが豊富。危機管理のヒントになり、安全保障に関心を持つ人は必見でしょう。】

いささか古いものばかり。「この夏 このミステリー」というよりも、「あの夏 あのミステリー」といった趣になってしまいました。(2020-8-16公開 つづく)

 

 

【84】鳩山から菅へ、団塊世代の危うい首相続くー平成22年(2010年)❸ はコメントを受け付けていません

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【83】母校創立90周年、文藝春秋『同級生交歓』に登場ー平成22年(2010年)❷

●社民党離脱に見る鳩山政権の悲喜劇

前年の衆議院選挙に際して、私は「麻生太郎氏の自民党か、鳩山由紀夫氏の民主党かの選択ではない。わかりやすくいうと、麻生プラス太田昭宏の自公政権か、鳩山プラス福島みずほの民社連立のどちらがいいのかの選挙だ。煎じ詰めれば、太田の公明党がいいのか、福島の社民党がいいのかなんです」と述べていました。これは、「麻生か鳩山か」ということでは、両者ともに保守の系譜を引き継ぐために、どちらでもいいということになってしまいます。それなら新しい方がいい、となりかねないので、「公明か社民か」、つまり「中道主義か、社民主義か」の選択なんだと言いたかったのです。

結果は残念ながら鳩山プラス福島の〝新しい組み合わせ側〟が勝利を得ました。しかし、それから半年余り。少子化担当相の福島氏は安全保障問題で首相との折り合いがつかず、罷免されてしまいます。挙げ句に社民党は政権を離脱、早々とこの新政権コンビは破綻(国民新党は残留)するのです。この辺りについて私は地元紙「セルポートKOBE」4月1日号での「永田町より一筆啓上」の連載コラムで、詳しく解説しました。抜粋を転載します。

【あれから半年。私の見立てどおりというか案の定というべきか、民主党は社民、国民新の二つの「民」に振り回されている。本体は、金権腐敗の実態をさらけだしたうえ、マニフェストを次々と改ざん、後退のやむなきに至っている。そのうえ、普天間基地の移設問題ではその両党に手足を引っ張られ、右往左往するだけ。永住外国人地方参政権問題でも国民新党の横槍の前に、為す術もない有様。これを「政権担当能力なし」といわずしてなんと言うのだろうか。単独政権が崩れ、連立が常態になってから17年。どんな枠組みにせよ、少なくとも国家観の共有がないと、国民にとって不幸なだけの政権になる。政権ごっこじゃあるまいし、憲法に対する姿勢のすり合わせもできていない政党のリーダーが同じ内閣に加わっているとは危ういかぎりである】

●阪神淡路の大震災から15年の母校で

私の学生時代の仲間たちの多彩な顔ぶれについては先に触れました。常日頃から総合雑誌『文藝春秋』の著名なグラビア欄の『同級生交歓』に私は関心を持っていたのですが、ある時、大学同級の青木聡君(現在GATJ社長)と話していて、彼が同社の幹部と昵懇であることを知るに至りました。これを私が見逃すはずはありません。直ちに、仲立ちをして欲しいと求めたのです。彼には色々な苦労をかけた末に、5月号で実現しました。小学校から大学までの同級生たちに思いを凝らし考えあぐねましたが、人生で最も多感な時期と思われる「高校」の仲間たちに絞りました。

同誌は、メンバーは現役であることとの条件をつけてきました。1945年生まれの私たちはこの年、既に65歳。現役を退いていたり、消息が直ちにわかりかねる仲間や遠隔地在住者もいて、選定には苦労しました。最終的には、東大教授を経て、情報セキュリティ大学院大学教授になっていた廣松毅、日本医大准教授を経て東京医療保健大学教授の高柳 和江、弁護士の蔵重信博、タクマ監査役の山原宣義の4人にしました。集合写真は母校の正門すぐそばにある創立者近藤英也先生の胸像前で写しました。以下、私が書いた文章を転載します。

【阪神淡路大震災から十五年。避難先となった母校・長田高校は創立九十周年。我々十六回生が卒業したのは東京五輪の年。「三丁目の夕日」が映えていた。昨年東大を退職した廣松は、情報分野での更なる研究に取組む。山原は国際派バンカーから転身、循環型社会の実現をめざす。弁護士稼業一筋の蔵重は、旧知の橋下知事に敵愾心を燃やす。笑いで人を癒し続ける小児外科医の高柳は今、笑医塾の全国展開に余念がない。昨夏辛くも六選を果たした私は、初心に立ち返り、哲学と政治の両立に思いを凝らす。目立たなかった五人の今は甚だ不思議との声が仲間達から聞こえてくる。(赤松)】

このグラビア・コラムから10年。今年2020年に母校は開校百周年を迎えます。確かに様々な人材を世に送り出してきた名門高ですが、後輩達の頑張りで今や県下有数の文武両道に秀でた学校と言われているのは嬉しい限りです。

●ないがしろにされる沖縄県民の意思

この『文藝春秋』が発売になる少し前の3月31日に、衆議院外務委員会として沖縄県に日帰りで行く機会がありました。辺野古基地、うるま市、ホワイトビーチなどを視察した後、県知事や県議会関係者らと会い、精力的に意見聴取や意見交換を行ったのです。鳩山首相の就任から半年余り、普天間基地の移転先を巡って、右往左往の真っ最中だったので、委員会として現場を見た上で、その声を聴こうということでした。

とりわけ、私たちが出発した当時、ホワイトビーチが移転先にあがったばかりでもあったので、同地のあるうるま市に足を運んだしだいです。同市の島袋俊夫市長は突然降って湧いたような候補地騒ぎに困惑を隠しませんでした。また仲井真弘多県知事は、懇談の場で「日本防衛のために沖縄も応分の負担はしていくが、これ以上限度を超えていくことには我慢がならない」と発言しました。私は、知事に対して「政府に要望するなら、担当閣僚が揃ったところですべき」「沖縄の負担が重すぎること、とりわけ米兵らによる事件、事故や基地公害など地位協定の不合理など、もっと日本国民全体へのアピールをした方がいい」などと強調しました。

そうしたやりとりが終わって、私たち議員団が席を立って帰ろうとすると、知事が「これ、ご覧になってください」と、地元紙のコピーを皆に配りました。そのコピー記事にはこうありました。

〈自らの郷土たる沖縄に対し、当事者であるべきはずの県民の意思がないがしろにされ、尊いものとして扱われていないという問題性の歴史的連続が、基地問題にも表れている。〉

実は、この場面のことを読売新聞の『政ナビ』欄(5月23日付け)で、政治部次長の飯塚恵子記者が取り上げたのです。「ウソをつかないで」という見出しのコラムの冒頭で、仲井真知事の動きを紹介した後に、私の発言を引用し、自身の見解を述べています。

【記事を読んだ赤松正雄公明党政調副会長は「知事は自分では言わなかったが、この一文に県民の思いを託したのだろう」と感じた。難航を極める普天間問題の根底に、〝負〟の「歴史的連続」があるのは事実だ。明治政府が廃藩置県で琉球王国を日本に組み入れた「琉球処分に始まり、地上戦で多くの死傷者を出した太平洋戦争の沖縄戦、戦後の米国占領、そして復帰後の過大な基地負担と、本土との経済格差‥‥。】

私はこの時の「問題性の歴史的連続」の言葉に、まさに本土の沖縄県民に対する「差別意識」を感じざるを得ませんでした。なお、飯塚恵子記者は、アメリカ総局長などを経て今は編集委員。私とはあまり接点はなく、この記事が唯一のものでした。(2020-8-14公開 つづく)

【83】母校創立90周年、文藝春秋『同級生交歓』に登場ー平成22年(2010年)❷ はコメントを受け付けていません

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【82】「日米密約検証」で岡田外相の基本姿勢を糾すー平成22年(2010年)❶

●党首討論で初の公明党の出番

民主党中心の政権になって、公明党の山口代表が初めて党首討論(いわゆるクエスチョンタイム)に立ちました。2月17日のことです。自民党との連立政権下では、残念ながら公明党の出番はなかった(今もない)のですが、同制度導入後初めてのことになり、それなりに見応えがありました。尤も質問の持ち時間は10分だけ。国会はたっぷりと時間をとって、国のかたちを巡って与野党問わずに党首が語り合う場面を作るべきではないかと思うことしきりです。

鳩山首相は、谷垣禎一自民党総裁の追及にはのらりくらりの受け答えをしつつ、逆に企業団体献金の禁止を呼びかけるという手に出ました。自民党は足元を見られた格好です。一方、山口代表が政治資金規正法改正案の提出や再発防止に向けて与野党の協議機関設置を呼びかけたことには、前向きの姿勢を示し、努力を約束してみせるなど懐の深さとでも言うべき態度を垣間見せはしました。

●予算委員会で1時間15分質問に立つ

他方、同じ日に開かれた予算委員会一般質疑には私が立ちました。1時間15分の質疑時間を、いわゆる「日米密約」問題と核政策、沖縄普天間基地問題、そしてがん対策について政府を糾しました。与党時代はせいぜい30分でしたが、野党になると質問時間はぐっと増えます。このうち、がん対策については、緩和ケア、がん登録、放射線治療などの進捗状況を確認して推進を督促する一方、がん教育の重要性も訴えました。さらに小児脳腫瘍の現状の問題点を訴えると共に、チーム医療の重要性を強調したのです。

地域別に点在するがん拠点病院に小児脳腫瘍の専門医を集約し、患者をここに誘う仕組みを作ることを提案しました。これは小児脳腫瘍と闘う患児や親御さんと接する中で、気づいたことがあれこれあったためです。特に、国立がんセンターのがん対策情報センターが発行していた「小児の脳腫瘍」と題する小冊子の記述の誤りに気づき、訂正を求めたりもしました。のちに追跡調査の結果、対応の後が見られ、ほっとしたものです。この時の答弁は、長妻昭厚労相です。彼はジャーナリスト出身で、ちょっぴり変人の誉が高い人ですが、この時の答弁を始めとして私の評価は低くはありません。

さらに、2月25日の予算委員会の分科会では、佐用町の水害問題を取り上げて対応を求めました。これは前年の8月9日に西日本を中心に襲った台風9号による大災害で、死者18名、行方不明2人という悲惨な状況でした。私が親しくしていたUさんが、衆院選の選挙協力の打ち合わせのために町の中心部に集まられていました。豪雨の中、帰宅途中に車ごと流されて生命を落とされたのです。

断腸の思いという言葉では到底言い表せない悔しく切ない出来事でした。こうした思いを魂に込めて質問に立ちました。森の荒廃という根源的な問題が山の保水力をなくしてしまっており、それこそが川の氾濫を起こしやすくしてしまっている現状を指摘しました。これは、私が顧問を務める「熊森協会」の年来の主張でもあり、力がこもった質問になりました。この時の答弁は赤松広隆農水相。彼は旧社会党の中心的存在です。昨今影が薄いようですが、もっと活躍を期待したいものです。

●スタンドプレーの色濃い民主党の姿勢

民主党政権になって、外交・安全保障の分野の中心者たち(岡田克也外相ら)は、自民党政権と米国政府との間での「密約検証」を焦点に取り上げました。保守政権の長年にわたる対米癒着を暴こうとの魂胆でした。私は2月17日の予算委員会で、「密約」を調査するというのなら、スタンドプレー的なものでなく、政府が総力あげて取り組む必要性を強調しました。そもそも密約問題とは、①1960年1月の安保条約改定時の核持ち込みに関する「密約」②同じく朝鮮半島有事の際の戦闘作戦行動に関する「密約」③1972年の沖縄返還時の有事の際の核持ち込みに関する「密約」④同じく現状回復補償費の肩代わりに関する「密約」ーの4つを意味します。いずれも大きい問題で下手すると、返り血を浴びかねず、やるなら徹底してやるべし、と言ったわけです。

このあと、3月10日、4月28日の外務委員会でも私は質問に立ち、岡田外相にその姿勢を質しました。そこでは、密約について、狭義(公表されたものと違う中身の文書が残っているもの)と広義(公表されたものと違う暗黙の了解や合意)の密約があるとの定義をまず確認しました。その上で、ほおっておくと、日米お互い暗黙の了解の中で、核が持ち込まれることが今後も起こりうることを指摘したのです。

つまり、「密約にまた新たな密約を重ねる」という一般的な懸念の表現ぶりを「暗黙の了解という名の広義の密約が続く」と言い換えたのです。結局、今の民主党政権も、前の自公政権も、核の傘を掲げる、米国に依存するという基本的立場に変わりはないのだから「非核3原則」への疑念は常に付き纏うと言いたかったのです。

「非核3原則」問題に関しては、私は公明党の政策として「新非核3原則」なるものを唱えたことがあります。それは、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という現行のものでは自制的に過ぎるから、「核兵器を持たせず、作らせず、使わせず」というように、核兵器保有国を縛る原則を掲げるべし、としたのです。ユニークなものだと自画自賛しましたが、朝日新聞が取り上げてくれただけで、非現実的だとしていつの日か消えてしまったのは残念なことです。

●「燃やさない文明」テーマに鼎談

『電気自動車ー「燃やさない文明」への大転換』ー2010年に村沢義久・東京大学特任教授によって刊行されたばかりの著作です。村沢教授は、ゴールドマン・サックス証券などを経て学者になった人で、発想が実にユニーク。電気自動車や太陽光発電などを活用し、低炭素社会を目指すパイオニアです。理論誌『公明』誌上で、党内きっての科学者・斉藤鉄夫政調会長(元環境相)と3人で鼎談を試み(3月号)ました。『太陽光、電気を生かしたエネルギー革命を志向して』というサブタイトルです。村沢・斉藤お二人の呼吸はピッタリでした。

「そもそも火を燃やさなければ、Co2自体を出さず、温暖化対策に劇的な貢献ができる」というのが村沢さんの主張です。「太陽光はエネルギー量が非常に多く、上手に使えば我々のエネルギー需要を全部賄うことも可能で」、「地球はわずか1時間の間に、世界が1年間に使う量に匹敵する太陽エネルギーを受け取って」おり、「まさに『天の恵み』で、これを最大活用しない手はない」とのスタンスです。世界におけるこの分野は、外交や防衛とも深い関係を持つことから、私も舞台回し役を兼ねて加わった次第です。

村沢さんは「ガソリン自動車を全部電気自動車化すれば、日本のCo2排出量を20%削減できる」との見立てに基づき、自動車業界が既存のものから電気自動車メーカーへと雨後の筍のように、変わっていくことを「スモール(小さな)ハンドレッド(100)の時代」の造語で表現していました。日本中の中古車を電気自動車に改造する呼びかけを全国に展開しようというのです。自動車産業界の大転換を予感させるものでした。(2020-8-12公開 つづく)

 

 

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