Monthly Archives: 3月 2021

【15】衆議院議長と公明新聞OB仲間との語らいー平成26年(2014年)❼/3-31

●衆議院議長、市川氏らと議長公邸での懇談

私が現役時代に付き合った多くの政治家の中で、思い出深い人は衆議院議長も経験され、今も現役代議士の伊吹文明さんです。元を正すと、衆議院金融改革特別委員会の視察で欧米旅行を一緒にしたのが関係を深める、きっかけです。以後、様々な機会に激励を受けつつ、交遊を深めてきました。市川雄一元書記長との関係も、渡辺美智雄氏(元副総理兼外相)を介在させて深いものがあり、折に触れておふたり相互のお話は聞いていました。

現役の間は機会がなかったのですが、辞めてから私が京都に足を運んだ時に伊吹事務所に立ち寄って名刺を置いてきたことが機縁となりました。その直後に同議長から、市川、太田、井上と私を議長公邸にお招きいただくことになった(5月29日)のです。太田、井上両氏と私の3人は公明新聞記者時代に市川主幹(当時)に薫陶を受けた、いわば同門同期のさくらであることから、議長が着目されたものと思われます。太田氏は京都大の後輩でもあり、当然それぞれの関係があったのですが、私の引退をしおに、昔の仲間を呼んで昔話・懇談の時間を持ってくれたのです。有り難いことでした。

伊吹さんは、『いぶき亭 四季の食卓』という料理本の名著を出すなど、そこいらの政治家とは一味も二味も違う独特の個性を持った人です。大島理森氏(現衆議院議長)とも親しく、この時も途中合流されていました。「安保法制」をめぐる国会での議論が勢いを増していた時だっただけに、公明党内空気を探る狙いも当然あったと思われます。伊吹氏との交流で忘れ難いのが、彼の親しいジャーナリストS氏と私の佇まいが似ているとの発言です。私の政治家らしからぬ本性を見抜かれたのかと、内心穏やかならざるものがあったことを覚えています。

●京都での「文化講演会」に招かれて

一方、この年は幾たびか京都に行く機会がありました。そんな中で、嬉しかったのが北区のある地域の公明党の会合(6月25日)に呼んでいただいたことです。しかも、政治向きのテーマでなく、私の読書好きを見込んでのものでした。『忙中本ありー新幹線車中読書録』を書くに至った経緯や、好きな本について何でも話して欲しいという主旨の依頼だったもので、まるで評論家の様な気分で縦横無尽に話せました。京都は、伊吹文明氏の他にも、谷垣禎一氏(元財務相=自民党総裁)のような知的雰囲気を湛えた政治家が多く、公明党も竹内譲氏(現政調会長)や、彼を支える党員の皆さんたちも同様です。面白い土地柄だと思います。

後年、京都NHK文化センターでの『法華経講座』に、仏教学者の植木雅俊氏が講師として連続講座をされると言うので、私もわざわざ参加しました。その時にも私を講演に招いてくれたN氏が来ていました。古都・京都が結ぶご縁で旧交を温めたしだいです。(2021-3-31)

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【14】兵庫県知事との同い年の熱い繋がりー平成26年(2014年)❻/3-28

●県議会公明党の仲間たちと病気と

大野議員に続き、尼崎を地盤とする下地光次議員も同じように突然脳出血で倒れてしまいました。5年前の参議院選の準備段階で候補者を連れ歩いている最中だったのです。彼も活力漲る県議として3期目の当選の一年後でした。しかもその後しばらくして脳梗塞も併発したのです。このため次の選挙(令和元年)では出馬を断念し、後進に道を譲りました。ガッツのある彼のことゆえ、必ず第三の人生に向けて、雄々しく立ち上がってくれるものと確信しています。

また、議員任期を勤め上げたあと、病が発覚し、闘病ののちに逝去した議員もいます。渡部登志尋議員です。豪放磊落、明るく元気で文字通りの酒豪でした。泣いてる子どもも黙るとまで言わぬまでも、誰しも聞く耳を立てる弁舌家で、その死は党派を超えて惜しまれました。

普段から健康管理に気をつけるよう、後輩たちに強調してきました。激務の連続でつい無理を重ね、その狭間で酒を飲む機会も増える傾向があるようです。そんな中で、不思議なほど元気なのが井戸敏三兵庫県知事です。彼が東京から兵庫の副知事として天下ってきた時以来、同郷(西播磨生まれ)、同い年(共に昭和20年生まれ)ということもあって、親しい付き合いをしてきましたが、そのタフネスさには舌をまくばかり。一緒にお酒を飲む機会もありますが、いくら飲んでも平気というのが率直な印象です。

●井戸兵庫県知事との交遊

この年(2014年)における井戸知事との交流で忘れ難い出会いは二つ。一つは、朝日新聞の大阪本社社長に新たに就任した持田周三氏との懇談(4月22日)です。持田さんは、市川雄一元党書記長の秘書を私がしていた頃からの付き合いです。当時は市川さんは国対委員長でした。持田氏は番記者として辣腕ぶりを発揮する一方、市川さんと代議士と記者の関係を超えるような深い人間的付き合いを重ねていました。

持田氏は関西にその仕事場が移ったとあって、兵庫県知事と会いたいとのことで、私が仲介しました。談偶々健康談義になって、六甲縦走の経験数知れずという知事の健脚ぶりが話題に。毎朝丹念に各種のストレッチを欠かさないという知事の発言に、私も負けじとばかりにスクワット自慢を。結果、持田さんの前で二人が競争をする羽目に。イッチ、ニッ、サン、シーと並んで屈伸をしてしまったのです。二人の姿を見て、彼は「爺さん二人がよくもまあ」と笑いつつ、驚き、やがて呆れることに。この勝負は残念ながら、私の負け。兜を脱いだ次第です。

もう一つは、関経連の松本正義副会長(当時=住友電工社長)との懇談(10月3日)です。話題は東京五輪、ワールドマスターズゲーム等を始め多岐に飛び交ったことを思い起こします。松本氏は淡路島出身。この頃、「瀬戸内海島巡り協会」の設立に向けて、私は奔走し始めており、知事と松本さんとの顔合わせに動いたのもその延長線上のことでした。松本さんは、私の小学校同期の三野哲治君と住友電工の一年上、中学校同期の志村勝之君が一橋大同窓ということで、話は大いに盛り上がったものです。

井戸知事は姫路の我が家にも西明石のマンションにもやってきています。公私ともにあれこれと語り合う仲です。前年に4期目の当選を果たして、2年目に入ったばかりのあの頃ーその3年後に5期目に挑戦、今もなお知事現役を続けているとは流石に私も予測できませんでした。(2021-3-28 一部修正 3-29)

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【13】肝炎患者、弁護団との確かな交流続くー平成26年(2014年)❺/3-26

●高校の後輩弁護士の活躍と連携

肝炎(B型、C型含む)患者の皆さんに寄り添う弁護士の懸命の闘いは、訴訟弁護団を通じてよく知っていました。現役の頃に、党の肝炎対策プロジェクトチームの担当をしていたからです。引退後は直接関与することはないかと思っていたのですが、さにあらず、変わらぬ交流が続きます。というのも、神戸市に住み大阪で開業しているT弁護士が私の高校の後輩だったのです。彼は訴訟団のメンバーとして活躍していました。偶々現役時代には会うチャンスがなかったのですが、引退後は公私共に深い交流を交わすことになるのです。

きっかけは以前にこの連載(第一回)で触れたFさんが、C型肝炎患者としてT弁護士に担当して貰うことになったからです。3月中旬に二人一緒にFさんの自宅を訪問して、彼やご両親にお会いして、種々過去の経緯について実態の見聞をしました。それを受けてT弁護士が訴訟の事務的手続きを進めてくれ、その結果として見事に国からそれ相当の補償を受け取ることが出来たのです。Fさんの喜びたるや並大抵のものではありませんでした。障がいを持つ身の苦しみに悩んだ半生の中で、最も嬉しいことの一つだったに違いないと私も深い喜びに浸りました。それ以来、T弁護士とは何かにつけてお世話になっています。

この年に、兵庫県明石市で日本肝炎対策協議会(日肝協)の全国大会が開かれて、私も招かれて参加しました。N弁護士や兵庫県下の患者さん達と懐かしい出会いをしました。彼ら弁護団は、肝炎に対する世の中の理解を深めるために、学校やら公的な場での講演活動等を展開しています。私もお手伝いをせねばと思い、電子書籍による肝炎訴訟の経緯などQ &Aの企画を提案しましたが、歴史的な闘いの足跡を記録として残すことの重要性を強く感じています。

●後輩県議が突然病気で倒れるショック

この頃、兵庫県議会公明党の中核の大野由紀雄議員が突然、病で倒れました。脳出血です。彼は私の住む地域のすぐ近くに住んでいて、日頃からお互いに助け合う仲間のひとりです。姫路市議を経て、県議会に転身、縦横無尽の活躍中でした。選出地域の姫路市内北部を中心に、まさに神出鬼没、至る所で街頭演説を繰り返す一方、数多の市民相談にも熱心に取り組む本当に情熱溢れる熱血議員でした。その彼が倒れたのです。多くの支持者、仲間達が心配し、気遣いました。

私はこの病にも意味があることを強調、復活を確信して激励しました。健康管理には普段から気をつけていても、いつ何時体調に異常をきたすやもしれません。彼の場合、少し前に喉に異常を感じて、しばらく治療を続けていました。そのため、脳の異常と見られる今回のケースでも、迷うことなく、同じ病院に即かかることを決断しました。しかし、手術は成功したものの、後遺症を免れず、半身が不自由な状態が残り、未だ車いす生活を余儀なくされています。

元気な時の様子が鮮明に地域の人々の脳裏に残っているだけに、当初彼の不測の事態が信じられない人が殆どでした。頭脳、言葉は明晰なのだから、車イスででも議員を続けてほしいとの声も一部にはあったようです。ただ、そうはいっても、県議は激務であり、選挙は死闘です。結局、翌年の地方統一選挙では残念ながら出馬を断念せざるを得ませんでした。あれから9年ほどが経ちました。今では、身体に障がいを持つ人々を支援する活動を続けています。(2021-3-26)

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【12】〝神様の代わり〟と〝地獄の使い〟の二役ー平成26年(2014年)❹/3-21

●🎵花も嵐も踏み越えて

これまで私は数多くの若者たちの結婚の仲人をさせていただいてきました。いわゆる〝頼まれ仲人〟は勿論のこと、赤の他人同士のお見合いをセットして、くっつける本格的なものまで、実に色々と。苦労が実ってゴールインした2人の間に、この世のものとも思えぬ可愛い、未来からの使者のような赤ん坊が生まれてきたとき、まるで神様になったような思いが湧いてきます。ひとたびは愛の讃歌に包まれながら、どこでどう間違ったか、憎しみのどん底に堕ちいったケースは幸いなことにないのですが、やや近いものは経験しました。数多の人生・万華鏡から幾つか拾ってみます。

これまで最もうまくいったケースの中でも最高のものは平成26年に成就したケース(5月18日)で、私の選挙区の2人の元町議の息子と娘の見合いから結婚に至る仲人役でした。この2人は誰しもが認める美男美女の組合せのうえ、境遇までよく似通っていました。本人同士は殆ど一目惚れで、見合わせた瞬間の雰囲気でこれはオッケーだと思ったのですが、その後、双方の親が抱える懸案もあり、幾つかの難題が浮上して、それなりの苦労がありました。

●生命誕生の喜びと、空振りの悲しみと

最終的には八方うまく収まり、その直後にかわいい女の赤ん坊がうまれてきました。赤ちゃんを囲んで喜ぶ夫婦と周りの家族の姿を見て不思議な思いにとらわれたのです。私が取り持った結果として、一つの生命が誕生したーこれってまるで全能の神様のしわざのようではないか、と。

赤ん坊の誕生については、ちょっぴり苦い二つの思い出があります。一つは、随分前のことですが、双方をよく知る私のところに、「婚前段階」で子が出来てしまったのだが、どうすればいいかと相談にきたのです。堕すしかないとの判断をした2人に同意しました。それで良かったかどうか。やがて結婚して一人息子が誕生したものの、いつももう一人の幻の子どもに思いが至ります。

また、議員になったばかりの頃、事務所を手伝ってくれていた女性の相手を探して見合いにこぎつけ、見事にゴールインしたのですが、いつまでも子どもに恵まれなかったのです。夫の親父さんから、ことあるごとに、「孫を授かりたいのに生まれない」と、まるで私の責任のように責められたのです。これはとても辛いことでした。

●結婚式当日に、急遽我が妻が仲人代役に

これまで触れたものは何はともあれうまくいったケースですが、婚約段階で相談を受け、「いいんじゃあないの」と積極的にエールを送りながら、誤解やら思い違いなど色々あって、やがて離婚に至った2人がいます。これは本当に後味が悪く、未だにその後輩の男性には顔を合わすに至っていません。もっと見極めて適切なアドバイスをしていればと悔やまれます。離婚ならぬ破談のケースなら数多ありますが、極め付けは、結納を交わす日に、新婦側の気が変わって破談になったケースです。まさに、地獄の淵を見る信じられない思いでしたが、結婚してしまってから別れるよりはマシかも、と思い直したものです。

そんな怖いケースではなく、ちょっぴり変わったケースをひとつ。私が可愛がった職場の後輩(男性)の結婚式当日のこと。仲人には職場の上司をお願いしていましたが、なんとその日に夫人が体調を壊されてしまったのです。緊急事態発生に、仕方なく私の妻が代役を務めました。華燭の典から披露宴の間中、上司と並ぶ我が妻の姿、表情を見て、まことに複雑な心境でした。そんなトラブルもものかわ、この2人はその後の人生、それなりの波瀾はありましたが、代役も必要とせず見事に乗り切り、幸せな老後を迎えています。結婚式場に関わる友人に聞くと、結婚披露宴の終わった直後に離婚を決意したり、新婚旅行から帰ってきたその日に別れるケースもあったとのこと。まったく、人生いろいろ、結婚も様々のようです。

あれこれありながら、今もなお私は35歳以上の未婚の男女求むとばかりに、見合いのお世話をしています。ひと昔と違って結婚適齢期が10年ほど後ろにずれていますが、気の利いた男は結婚が早く、逆に気の利いた女性は遅いようで、ミスマッチが常態です。世話焼きの苦労は益々続くようです。(2021-3-21 一部修正3-22)

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【11】魅力溢れる文化人との味わい深い交遊ー平成26年(2014年)❸/3-16

●中西進先生との出会い

この年の1月9日に、大阪府の堺市博物館に赴き、国文学者として名高い中西進先生とお会いしました。ジェノバライン副社長の豊田一義氏と共に足を運んだのです。貴重な機会になりました。これ以後、同先生とは深いご縁を頂くことになりますが、それは改めて触れることになります。豊田副社長は、元をただすと聖教新聞社や創価大学での仕事を通じて、多数の学者、文化人らとの交流を持つ新時代のビジネスマンです。中西先生とも昵懇でした。豊田さんは創価大での学生の就職担当としても力量を発揮され、ジェノバラインの吉村靜穂社長と知己を得る中で、ヘッドハンティングされました。私が同社と関わりを持ち、淡路島を起点にした瀬戸内海観光開発に乗り出すことになったのは、豊田氏を中軸に、吉村、中西のお三方との人脈のなせる技によるところ大だったのです。このうち最も若かった豊田氏が既に鬼籍に入っておられるのは残念なことです。

初めての語らいは、当然のことながら、中西先生の広範囲でかつ深い学識のご一端に触れさせて頂くことに終始しました。その際に、私の義母がかつて姫路文学館での同先生の講義を聞き齧っていることを伝えました。一気に話題が弾んだことはいうまでもありません。この日の出会いを契機にやがてこの偉大な先達と一緒に仕事をするようになるのです。あの頃からもう7年ほどが経ちますが、益々お元気なのは驚嘆するばかりです。

●石川誠先生と邊見公雄先生との交流

中西先生の他にも、定年後に様々な文化、学術の分野で活躍される方々とお付き合いをすることになりました。そんな中でご縁あって、深い交友関係を持つに至った医療の世界での代表的存在を二人だけ挙げてみます。一人は姫路別所にある石川病院のトップであり、兵庫県民間病院協会の前会長だった石川誠先生。もうひと方は、赤穂市民病院院長や名誉院長をしながら、全国自治体病院協議会の前会長をされていた邊見公雄先生です。

石川先生は元公明党議員の大先輩である渡部一郎、通子夫妻と、国連との交流活動を進める会を通じて懇意にされていました。私が初めて選挙に出た際の後援会長のご夫人・横川マリ子さんがそのグループの事務局長的役割をされていた関係からご紹介を頂きました。『源氏物語』を始め、古今東西の文学・哲学や思想に通暁されているうえ、馬術やゴルフも達人の域で、〝智遊兼備のつわ者〟というほかない行動する知識人です。つい先年、放送大学の受講生になられたことでも分かるように「生涯学習」を貫かれていて、お会いするたびに数多くのことを学ばせていただいています。

また、邊見公雄先生とも深いご縁をいただきました。初めてお会いした時は、あご髭に下駄履きのいでたち。豪放磊落な佇まいにすっかり魅せられました。この人は私の高校同期で笑医塾塾長の高柳和江女史と一緒に、一般社団法人「癒しの環境研究会」に取り組み、医療における「笑いの効用」に深い関心を持たれてきました。そのご縁もあって、しばしば私とは交流を重ねてきています。「女性で講演上手は高柳さんだが、男なら俺だ」と、大見得を切られたのが印象深く記憶に残っています。先程出版された『令和の改新』はとてつもなく知的興味をそそられる面白い本です。こういう人が政治家になれば、快刀乱麻を断つ働きをされること疑いなしと、私はいつも尊敬の眼差しで見ています。(2021-3-16)

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【10】顧問先トップとの対談解説電子本に次々取り組むー平成26年(2014年)❷/3-13

●電子本「10問10答早わかりシリーズ」を出版

同期の連中との対談は、あたかも私の前半生を振り返るもので、読みようによっては「自叙伝」の趣きがありました。これに気を良くした私が次に考えたのは、現役時代から関わってきた団体について、電子書籍でその実態を紹介するという試みでした。「10問10答早わかりシリーズ」と題して、私自身がQ &A方式で解説したり、各法人のトップとの問答形式というかたちをとったりしました。

例えば、一般財団法人「日本熊森協会」については、『クマと森から日本が見える』と題して、私が解説しました。力作です。一般社団法人「日本カイロプラクターズ協会」は、同協会顧問の村上佳弘さんとの対談で、タイトルはずばり『腰痛はカイロが一番』。38年間悩んだ腰痛を治してくれた恩人との競演です。さらに、『中小企業はこれで蘇る』と銘打ったのは、一般社団法人「AKR共栄会」の河田正興専務理事(当時)との対談。彼は昨年秋にコロナの犠牲になって鬼籍に入ってしまい、これが遺作となりました。それぞれ渾身の力を込めて取り組み、分かりやすく解説していきました。

この3冊に加えてもう一冊ユニークなものがあります。実は、今から10年ほど前のことですが、赤穂市に住む旧友の亀井義明氏から相談に乗って欲しいと言われて関わってきた「坑道ラドン浴」に関するものなのです。その背景には、兵庫県姫路市安富町(かつて富栖村と呼ばれた地域)にある、その昔の金鉱山からでるラドンを活用して、健康に役立つ施設を作ることで、地域振興にも貢献したいとの彼の強い志がありました。

●日本唯一の「坑道ラドン浴」のお手伝い

大量の放射線は人間を死に至らしめますが、微量のそれをピンポイントで患部に照射すると、大いなる効果を発揮するーいわゆる放射線治療は、癌患者などにとってかけがえのないものになることは天下周知の事実です。彼はその放射線が富栖の里の坑道から出ることを知っていらい、自身が経営する会社の業務と並行させながら縦横無尽の活動を展開します。オーストリアの著名なラドン浴の土地であるバドガシュタインを訪れたり、岡山大、熊本大、大阪大を始めとする大学の研究機関などを訪れ、学者、専門家に会って、研鑽を深め協力を要請していきました。

その結果を踏まえた上で、ラドン浴に供する坑道を整備していったのです。私もオープン式典に参加し、その後も度々実際に坑道で寝そべってラドンを浴び、友人、知人にも勧めてきました。当時から今に至る10年の彼の奮闘ぶりを見る時、心底からの感動は否めず、深い敬意の念を抱きます。通常の病院治療で良い結果がでない、医療難民ともいえる多くの人を激励しぬく姿はたとえようもなく尊く思えました。

大阪大名誉教授の中村仁信先生はそうした彼の熱意に共感して、さまざまな角度から支援を惜しまず、協力していただいている学者の一人ですが、この人とコラボすることを考えつきました。『みんな知らない低線量放射線のパワー 日本唯一の坑道ラドン浴 富栖の里』とのタイトルで、私が書いたものを監修していただくことにしたのです。

電子本はまだまだ認知度が低く、手にして下さる人は多くはないでしょうが、世の中に一石を投じた試みを成し得たと自負しています。結局、電子本はここまでで、その後は休刊が続いています。むしろ、紙の本への思いやみがたく、偶然の出会いからある人と共著を出すことになるのですが、それはもう少し先のことです。(2021-3-13 一部修正)

(2021-3-13)

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【9】同期の桜と対談電子本5連発ー平成26年(2014年)❶/3-7

●NPO法人を立ち上げて電子書籍出版へ

「赤松さんも電子書籍を出すといい。紙の本のように手間はかからないし、出版に要するお金も殆どただ同然。うまく当たると巨万の富を得るのも夢じゃない」こんな言葉を投げてきた伊丹市に住む後輩がいました。2014年が明けた頃のことです。私が現役時代に、『忙中本あり』を出版した背景には、インターネットで日々発信していたことがありました。その後も、続編めいたものも書いていましたし、国会での動きを追うリポートも長く続けていました。それらを読んで面白いと思ってくれたようです。

実は、大手出版会社に勤めたあと、定年退職後の時間を持て余していた学生時代からの友人がいました。気の毒なことに彼は脳梗塞の後遺症で、少々半身が不自由になってしまったのです。その彼に電子書籍の出版を手伝って貰えないか、と相談しました。キンドルから出版する過程において、私が原稿を書き、それ以外の全ての作業を彼にやって貰おうという魂胆です。うまくいけば彼の仕事になるし、私も夢が叶うかもしれない、一石二鳥の名案に思えました。

そこで、彼の以前の仕事の上司だった出版社の元社長に代表になって貰い、私が副代表、彼が事務局長になって、NPO法人を立ち上げたのです。取り敢えず第一弾の出版ということで、ネット上にブログとして書き溜めていた私の「読書録」を出すことにしました。タイトルは『60の知恵習い』。〝60歳の手習い〟をもじったのです。数多ある読書録から60ほどを選び出し、幾つかのジャンルに分けてみたのです。我ながらよく出来ていると思うのですが、残念ながら殆ど売れていません。そのうち爆発的に、と皮算用していますが、どうなることやら。

同年齢の学友たちとの対談を企画

次に私が考えたのは、小、中、高、大学の友人たちとの対話本です。そこそこ有名な人物がいることから着想しました。小学校の時の仲間からは、三野哲治。住友ゴムの社長(当時)です。温厚篤実なリーダー。最前線の「経済」やら「会社組織」を語り合うのに格好の相手です。中学校の友人からは、志村 勝之。元東京モード学園のトップ、退職後は臨床心理士をしています。一橋大で南博教授から社会心理学を伝授された本格的カウンセラー。心を巡る全てを語り合うのが狙いです。

高校の同期からは、紅一点。笑医塾塾長として健康のための笑いを振りまく女医・高柳和江。加えて神戸の猛烈医師・飯村六十四。「スポーツと健康」やら「アンチエイジング」に取り組む好漢です。鼎談にしました。大学仲間からは、慶大名誉教授の小此木 政夫。ご存知、朝鮮半島の専門家です。研究の狭間のとっておきのこぼれ話を聞き出しました。もう一人は、元日本航空の幹部だった梶明彦。天国から地獄を経験したともいえるJALで苦労した彼に、世界から日本を見る眼差しを学ぼうとの狙いです。

一人づつ呼び出して対談をすることにしました。一番苦労したのが、最も親しい関係にある志村。殆ど学者同然の博学。この分野に疎い私は毎回個人教師からレッスンを受けるようなものでした。姫路駅前のレストランや茶店を中心に5〜6回ほど対話を進め、私がまとめたものに彼が手を入れる作業を繰り返したのです。

●幻に終わった、紙の本『現代古希ン若衆』

この電子書籍による対談集は、1月から順次収録し、「とことん対談シリーズ」と銘打って5本を連発で発刊していきました。値段は一冊180円です。タイトルは、それぞれ凝りに凝りました。小此木とのものは『隣の芝生はなぜ青く見えないかー朝鮮半島研究50年の先達に謎解きを迫る』。梶とのものは、『君は日本をわかっていないー世界中を飛び回った男が全ての日本人に捧げる』。高柳、飯村との鼎談は、『笑いが命を洗いますー2人の名医が健康の秘伝を明かす』。志村との対談は『この世は全て心理戦ーカリスマ臨床心理士が勝つ極意を伝授』。三野とのものは、『運は天から招くものー大企業トップと人生、社会、政治を語る』としました。

実はこの一連の対談は、電子書籍にしたあと、紙の本にするつもりで、タイトルまで決めていたのです。『現代古希ン若衆』。「古今和歌集」や「新古今和歌集」を意識しました。ちょうど数えで70歳、古希を迎える私たちですが、その意気たるや、若衆と変わらぬとの思いを込めるつもりでした。それぞれ、多くの仲間、支援者、ファンを持つ連中だから、結構売れると、踏んでもいました。

ところが、思わぬところから横槍が入ったのです。その主はたった一人の女性。「赤松さんたちと鼎談すると、歳がばれるじゃない。私って、20歳代で通しているのよ(確かに、彼女は講演時にそう言っています。遠目には50代くらいには見えなくもないが、20代とは絶句)。古希だなんて、そんなの嫌だ。」こう言うのです。「ん?電子本で既にバレてるよ」「電子本ってみんな見ないでしょ」ーうーん。こりゃあだめだ、と思ったしだい。女性はホントどこまでも強い。(2021-3-7 文中敬称略)

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【8】〝晴走雨雲読〟の日々ー平成25年(2013年)❽/3-2

●〝コーチ付き〟で姫路市内をランニング

様々な起業家との出会いの中で、変わり種と思われたのが坂本日出明さん(70)です。積極的に時間を見つけて各地のマラソン大会に出るのが趣味といいます。本職は名刺印刷業でしたが、8年前に出会った時は自転車駐輪場に新たな仕組みを導入するプロジェクトに参画して奔走していました。60歳の時に、福知山マラソンで3時間27分の日本陸連公式記録を作ったのが誇りの人でした。彼に触発され、私は引退後一年目の平成25年は実によく走ったものです。

若い時には私も、職場近くの神宮絵画館前のコースを走ったり、国会議員時代も早朝に皇居一周ランニングに挑戦していたのです。地元に戻って様々な制約から自由になったものですから、朝起きて晴れ渡った空を見上げると、ウズウズしてきます。両足の太腿が走ろうと呼びかけてくるのです。日常的には早朝に姫路城周辺5キロほどを1時間かけてランニングしました。大阪に住んでいる坂本氏が休日にわざわざ姫路に来てコーチしてくれたことがしばしばありました。

一緒に、家から夢前町の入り口辺りまで10キロほどを伴走して貰ったり、赤穂の市民マラソンに出場しようとしたり(彼は参加。私はドタキャン)もしました。数えきれないランニングの思い出の一つが、夢乃井温泉郷を目指して走ったこと。家から約20キロほど、ひたすら温泉に浸かることだけを念頭に走ったのです。結果は、ヨレヨレ。ゴールインはしたものの、風呂場の浴槽脇で倒れ込んでしまいました。その後どうなったか。ご想像にお任せします。

参院選での民主党の大惨敗

一方、本もよく読みました。議員時代は年間100冊前後が平均でしたが、退職後のこの年は、136冊ほど読んでいます。読書メモを繰って見ると、相も変わらず軽い本ばかりを読んでいたことが一目瞭然です。「晴耕雨読」ならぬ〝晴耕雨雲読〟だったといえるのかもしれません。

ただ、本を読んで走っていただけではもちろんありません。この年、参院選が予定されており、懸命に支援の戦いに取り組みました。前年の衆議院選挙の結果、自公政権が復活、再び両党は政権に返り咲いていましたが、参議院は民主党が優位に立っていて、ねじれ現象が生じていました。これが解消されるかどうかが注目されていたのです。埼玉、神奈川に支援のために幾たびか足を運びました。

結果は、自民党が65議席を獲得するも、非改選50議席と合わせて115議席。参議院の過半数122議席に7議席及ばなかったのです。公明党は埼玉、東京、神奈川、大阪の4選挙区で完勝、比例区の7人と共に11議席獲得、非改選と合わせて、20議席となりました。この結果、自公両党で135議席になり、安定多数を占めることになりました。再び公明党が文字通り〝連立の要〟となったのです。一方、民主党は、55人の候補を立てながらも、当選は僅かに17議席、非改選と合わせても59議席で、公示前よりも27議席減となってしまいました。

前年の東京都議選、衆議院選に続き民主党は三連敗で、名実共に政権党の座を転げ落ちたのです。3年前のこの党の高揚感は、自らの身から出た錆ならぬ失政続きで、完全に地に堕ちてしまいました。

中嶋嶺雄先生ご逝去の悲しい知らせ

この参議院選のすこし前に悲しい知らせが舞い込んできました。大学卒業以来、ありとあらゆる面でお世話になった学恩深い中嶋嶺雄先生が逝去されたのです。最後にお会いした際にお顔色がいつもとかなり違っていたので、懸念していたことが的中してしまいました。東京外語大学長を辞されたあと、秋田国際教養大学の創立に関わられ、理事長兼学長として八面六臂の活躍をされていました。「中国研究」の分野で一世風靡の名声を博される一方、大学教育の改革を自ら現場に飛び込んで成し遂げられたのは実に見事でした。

同先生とは、議員になる前から、アジア・オープンフォーラムのメンバーに入れて貰って、台湾と日本の各地を一緒に回らせていただきました。当選後は、私の『忙中本あり』出版記念会の代表世話人になっていただいたり、先生の主宰された「新学而会」の場で、錚々たる専門家から隔月に一回教えを頂くチャンスも得ました。東京外大のキャンパスに市川公明党書記長と共にお招き頂いたり、3人で一緒に懇談、お酒を酌み交わしたことも例えようもないほど、嬉しく懐かしい思い出です。

晩年、しばしば、「赤松君も国会の場で、『教育改革』に取り組んで欲しいね。これからの日本を考える上で、一番大事だよ」と言われたものです。残念ながらその助言を実らせぬままお別れしてしまったことは悔いが残ります。(2021-3-2)

【8】〝晴走雨雲読〟の日々ー平成25年(2013年)❽/3-2 はコメントを受け付けていません

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