Monthly Archives: 4月 2021

【20】「安保法制」成立前後の波風ー平成27年(2015年)❹ / 4-23

●憲法記念日の「NHK討論会」での不満

「安保法制」はこの年の5月14日に閣議決定され、9月19日に関連法案が成立することになるのですが、年初から国会の内外で反対の声鳴り止まず、波風高しという状況が続きました。私はブログで時に応じて発信していきました。そうした中、5月3日の憲法記念日にNHK総合テレビが放映した「国会討論会」について書いています。これは、与野党共に論客が揃っていて見応えがあったのですが、一つ根本的なところで物足りなさがあったことに触れています。

それは自公両党間の食い違いについて、殆ど触れられなかったことに尽きます。司会役の島田敏男解説委員が「自公間に違いがあるのだけど」と、迫ったかに思える場面があったのですが、結局は、曖昧なままに終わってしまいました。一方、野党はなぜその一点に向けて共同戦線をはらないのか。私は疑問を投げかけています。与党だけで、長時間にわたって〝密室の協議〟を続けたのですから、そこを明らかにする一大チャンスでした。与野党共に、その作業に熱心でないのは結果的に国民には不幸なことで、私には不思議に思えたものです。この疑問は今も続いています。

●柳澤氏との核心に迫る神戸会での語らい

5月17日の日曜日に東京から評論家の柳澤協二氏(元内閣官房副長官補)がやって来たので、神戸で会いました。前日に、作家の内橋克人さんの講演会があり、それに参加されるのが主な目的でした。その講演会の主催者は『神戸空襲を記録する会』で、当時の代表は中田政子さん。「神戸空襲」の語り部的役割を果たす高校時代の同級生です。内橋、柳澤、中田ー私にご縁のあるこの3人は、日本の過去の歴史に鑑み、明日の日本に警鐘を鳴らすリベラル派トリオといえます。

柳澤さんとの語らいでは、「安保法制国会」の審議状況が話題になりました。その中で、国会議員の質問ぶりがいかにいい加減かについて触れられたことには胸が痛みました。併せて、公明党が自民党と歩調を合わせ過ぎるとの苦言も頂いたのです。これについては、外務省分析官の佐藤優氏と柳澤氏との国会内での対論が少し前にあり、私も注目していました。安倍政権批判では一致しても、「公明党論」を巡っては、歯止めに「なってる」とする佐藤氏と「なっていない」という柳澤氏で、態度が正反対だったのです。この相違は結局、白黒判然としないまま。当時のブログを見ても、消化不良だったことがよく分かります。

●中学校同期会という古希の集いと小旅行

6月13日に、私の卒業した中学校の同窓会を神戸の生田神社の会館でやりました。「古希」記念です。それまでも時々集まっていましたが、この時の集いは集大成となりました。終戦の年に生まれ、占領期に幼少年時代を過ごし、高度経済成長と共に青年になっていった仲間です。全部で65人ほどが集まり、ほぼ50年ぶりに顔を合わせた連中も少なくなかったのですが、宴たけなわの時に、一人の旧友が突然叫んだ言葉が心に響きました。

「こんな会合、意味ないよ!」と大声で発した後、「昔を懐かしむべきで、いまがどうのこうのは、どうでもいいじゃないか」と続けたのです。ある意味で、「同窓会の肝」ともいうべきことに立ちいる挑発で、白ける空気が漂いました。まあ、「よういうわ」が皆の偽らざる心象風景だったのですが‥‥。

一次会の後、ほぼ全員でカラオケ二次会。更に遠来の友(熊本、奈良)を囲んで6人ほどで三次会をやり、翌日は、姫路城から書写山円教寺を経て赤穂・大石神社へと巡って、美味しいものを食べる小旅行へと繰り出しました。心和むセンチメンタル・ジャーニーではありました。(2021-4-23)

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【19】勇退後初の統一地方選で奔走ー平成27年(2015年)❸/4-20

●新たな支援方策編み出し頑張る

この年は、4年に一度の統一地方選挙ということで、年初から準備に忙しくなりました。地元兵庫県では、4月第二週の日曜が県議選、神戸市長選、第四週が市議選、市長選の投票日になっていました。姫路市選出の県議選では、病気勇退の現職候補に代わって、新人が市議会から回って出るということで、いつも以上に激戦となることが予測されました。

昭和40年から、公明党の選挙に支援者として24年間、候補者として20年関わってきましたが、この度の選挙は、勇退後のOB議員として初めて地方選挙に出る後輩たちの支援にあたることになったのです。生来、新しいもの好きで、いつも通りのことをこなすのが苦手な私としては、この選挙戦で支援の新手法を自分なりに編み出しました。

姫路市選出の公明党候補者(市議8人、県議2人)を中心に、一候補者につき新たな友人を少なくとも一人見つけ出し、候補者と繋げて支持に走って貰うことを自身に課すルールとしたのです。これは張り合いも出て、自らの励みになりました。無事に10人の新しいメンバーに依頼し終え、候補者に会わせた時の充足感はなかなかのものでした。

姫路市長選では現職に対して、県議現職が対抗馬として出る一方、明石市長選でも同様に、現職に対して、県議現職が挑戦することとなりました。共に現職が勝利を収めたのですが、それなりに関心を持たざるを得ない事情があり、それ相応に動いたものです。今も昔も首長選挙は、公明党議員にとって自前の選挙に比べて、フリースタイル競技のようなもので、腕の見せどころといえそうです。尤も、やり甲斐はあるものの、結構それで〝怪我〟をしてしまうことも多く、要注意です。

●東京から友人たちが次々と来県

毎日新聞・特別編集委員の倉重篤郎さんは随分前からの友人ですが、この年2月5日に来阪した際に、姫路まで足を伸ばしてきました。その昔、憲法問題で取材を受けたことがきっかけで、政治部長の後、「大阪毎日」の編集局長をやった頃にも付き合いました。また、私が同紙『発言席』に「後期高齢者医療制度」で寄稿した際には原稿チェックもしてくれたのです。

この人は反自民、反安倍の急先鋒で、あの民主党にさえ好感を持っていると見られた「反骨の人」です。リュックを背負って飄々と議員会館を闊歩していましたが、今では『サンデー毎日』の看板記者。毎日新聞はいわゆる「ぶんや」らしい記者が多く、一匹狼的な猛者が多いと見られていますが、その代表格かも。

高校同期の高柳和江女医も2月6日に東京からやってきました。この人は、笑医塾塾長として、全国を飛び回っています。このときは、同期で医者の飯村六十四、同じく会社社長で患者の藤井重俊の二人と一緒に神戸で会いました。例の電子書籍の鼎談以来、この面子で時々会っていたのですが、医者と患者のツープラスツーは、いつもながら賑やかな健康談義となります。

さらに、やってきたのはO氏。当時、彼は自転車の駐輪にまつわる様々なアイデアを駆使し事業に結びつけることに腐心していました。大阪のビジネスファーム研究所の河田正興さん(コロナに感染し、昨年急逝)に紹介されたご縁で、2013年から付き合い始めました。2014年7月には私が紹介者となって、創価学会に入会を決断するまでになっていたのです。このときは2月17日に夢前町のサンピア夢前に一泊。信仰に誘ったとはいえ、日頃会えないために、この時とばかりに、しっかりとミニ座談会をするなどして、体験を語り合ったものです。 

一方、こちらから東京にも1月15日から二泊三日。4月24日に一泊二日といった具合で、ワンシーズンに一度は出向いていました。行けばかなりハードなスケジュールを組むなかで、彼を呼び出して、懇談を重ねたことはいうまでもありません。(2021-4-20)

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【18】〝信念と矜持の人〟との8年間と別れー平成27年(2015年)❷/4-17

●夢前町と白鷺地域ー縁多き地と人と

2015年の新年元旦は、創価学会の新年勤行会への出席(姫路西文化会館)で幕が開きました。私の父母が生まれ育った夢前町地域の皆さんを中心としたメンバーが多数集まって来られ、懐かしい面々との出会いをすることに。この地域は近年富に、市内中心部や南部からも移住する人たちも増えて、活気を呈しています。初めて選挙に出た頃には、地元出身の候補者だということで並々ならぬご支援を頂いたことが忘れられません。

午後からは現在住んでいる地域の担当をさせていただきました。ここは白鷺城に因んで、白鷺本部という名がつけられています。私が姫路に帰ってくる前に東京中野区白鷺に住んでいましたから、「白鷺から白鷺へ」と移り住んだことになり、ご縁を感じたものです。新年早々から各地の座談会に飛び回りました。8日は播磨高岡、10日は網干、11日は夢前町の沖塩という風に。元議員特有の生命の濁りのようなものが中々消えず、自戒を強める日々ですが、座談会に参加するたびに、皆さんの純粋で真心溢れるパワーに命洗われる思いになります。

● 「桃栗三年柿八年」と追悼の辞

議員引退直後から、元公明新聞記者時代の後輩で大阪市議だったK氏の紹介で、大阪華僑のトップであり、幅広く事業を営む段為梁会長とお付き合いをさせていただくようになっていました。平成27年も新年早々1月14日にお会いしています。段会長の盟友である新堂衛専務も一緒でした。この人は元大阪市消防局長。危機管理に習熟している人で、まさに冷静沈着な古武士の佇まい。兵庫でも屈指のザ・サイプレスゴルフ場の支配人をされ、高速道路のサービエリアの経営にまで関わっておられました。私は憧れのゴルフ場の〝特別顧問〟という肩書きを頂き、友人たちを羨ませがらせたものです。尤も一度もここでプレーしたことがないというのは「お笑い」草ですが。

段会長は昨・令和2年に亡くなってしまわれた(享年84歳)のですが、奥様始め、二人の息子さんや娘さんたち(全部で四人)も含め家族ぐるみで八年もの間、親しくしていただき、私にとって第二の親父のような存在でした。お世話になった皆さんと一緒に「追想集」に思い出を寄せさせていただきました。以下に転載(抜粋)します。

段会長と私が初めてお会いしたのは平成24年(2012年)に公明党の衆議院議員を定年退職してからしばらく経ってのことでした。それから八年。引退の現実に気後れしがちな私を、会長は、ある時はおだてあげ、またある時は叱咤しまくって、励ましてくれました。お陰で、党への〝ご意見番と後輩育て役〟を果たせました。これからが本番。ご恩返しの闘いを、と思っていた矢先に訃報に接しました。残念です。心底から無念さで一杯です。

「世に桃栗三年、柿八年」と言います。議員を辞して八年が経ち、柿ならそろそろ実がなるころとなりました。もし、会長との出会いがなく、無為に過ごしてきていたなら、〝枯れ木の惨〟を晒しているに違いありません。もっともっと「鍛えの言葉」を頂きたかったとしきりに思います。

日本と中国ー両国の歴史と伝統を時に讃え、また謗りあいました。「共産中国」の現在とこれからに強い懸念を語り合いもしました。論争の中で、御自身の信念を一歩たりとも曲げられなかった会長の強い矜持が深く私の脳裏に刻まれ、生き続けています。

●懐かしい思い出の数々ー沖縄行きと大相撲観戦

段会長は沖縄うるま市で琉球温熱療法院を営まれる屋比久勝子さんの「温熱治療」のことをしばしば推奨されていました。あまりに言われるので、私も感化を受け、沖縄へ行って直接診療を受けたこともあります。屋比久さんは参議院公明党の秋野公造議員との交流もありました。彼は長崎大医学部出身の医師。元厚生労働省の医官も経験、私が厚労副大臣時代に束の間一緒に仕事をしたこともあります。医療のプロの後輩議員との関わりを知って一段と関心を深めたものです。

また、同会長は大相撲ファンで、大阪府立体育館(エディオンアリーナ大阪)で行われる春場所に、毎年招待をしてくれました。私はその都度、大相撲を未だ直接見たことのない友人たちに声をかけて枡席に出かけたものです。4人までは同席可能なのですが、通常は3人くらいがせいぜい。毎年、友人夫婦や家族連れを誘い、大いに喜ばれたものです。特に、大学同級のM君は東京に住む娘さんが大の鶴竜ファンと聞いていたので、「家族3人でどう?」と誘うと、浜松から一緒にやってきました。恐らく皆さん大相撲観戦の機会はそうざらにはないはず。合計8組ほどの友人たちに「感動」を差し上げることが出来ました。昨年からはコロナ禍でストップしてしまったのはとても残念なことです。(2021-4-17)

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【17】生まれ育った地域で〝花の自治会長〟を引き受けるー平成27年(2015年)❶/4-10

●新在家自治会長についに就任

議員引退をした翌年(2014年)の春に、私の住む新在家自治会(1丁目から4丁目まで約400世帯が在住)の副会長を仰せつかっていました。この時点に至るまで、姫路市の中で4地域を転々と住み替えしてきましたが、日常的な自治会活動に関与したことは、全くなし。隣保のお世話は全て妻に任せっぱなし。資源ゴミや粗大ゴミ捨てから、溝掃除、地域行事の参加に至るまで、何もやったことがなかったのです。いわゆる変型単身赴任者だったので、ある意味仕方なく、許されてきたのですが、基本的に毎日自宅にいるとなったら、そうはいきません。

ということで、一年間、「自治会長見習い」をしました。このポジションはご多分に漏れず、何処も同じでなり手が中々ありません。副会長を引き受けた段階で翌年の「自治会長」は覚悟していたのです。この地域には、そのむかしに私が出た幼稚園と入学した小学校(2年生の冬に転校)があります。生まれ育った町への、ほぼ65年越しのご奉公、ご恩返しと腹を決めて取り組むことにしました。

●神社へのお参りやお祭りへの参加

自治会長になって、それまでの生活と違うことをあれこれとする羽目になりましたが、最も大きいことは神社への参拝です。この歳(70歳)になるまで、行くことはあっても「拝むこと」はなかったのですが、地域の代表としては、そうもいきません。心ならずも神前に額ずき「二礼二拍手一礼」をすることになりました。

実は、この地域の自治会長経験者に、創価学会員の大先輩や元姫路市議会議員の大先輩がおられました。それぞれお世話になった立派な人格の素晴らしい人です。ただし、過去には古くからの習慣的儀礼との間で、それ相当の〝文化的衝突〟があったようです。お祭りの際にフルバージョンで参加しない自治会があるのは、どうもそのことと関連があったと思われます。古くからの来歴には立ち入らぬようにして、私は新時代に相応しい対応をすると決めていました。それゆえに、何も軋轢など起こさず、うまくこなしたつもりです。

地域のお祭りについては、つくづくいいなあと率直に感じました。とりわけ、神輿担ぎは興奮しました。阿波踊りのように、「担ぐ阿呆に見る阿呆」と言い比べると、罰当たりめと言われそうですが、当事者の悦びはやってみないとわかりません。尤も、「よーいやさー」の掛け声に合わせて、つい年甲斐もなく担いでしまって、翌日以降肩が痛くなったのはお笑いでした。

●地域の人材発見に驚く

自治会長をして、改めて気づいたのは、町内には様々な分野で著名な方や、個性的な方がおられたことです。数学者(大阪市大教授)、日赤病院や姫路循環器病院の医師をはじめ、画家、音楽家から杖術の達人に至るまで、実に多彩な人々がとなり近所に点在されていたとは知りませんでした。

とりわけ、少年野球のお世話を長年されてきた人については驚きでした。息子さんが小学校時代から面倒を見始めて、今やお孫さんの代に移ってなお携わっておられたのです。地域の生き字引のような存在に、ただただ頭が下がる思いがしました。こうした新たな発見をする中で、むくむくと私のあるアイディアが頭をもたげてきました。やがて、生来の新しいもん好き、オンリーワン志向が実を結ぶのですが、それは翌年以降のことになります。お楽しみに。(2021-4-10)

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【16】「安保法制」論議でインタビュー掲載やら解説を展開ー平成26年(2014年)❽/4-3

●「安保法制」巡る与党間の激突横目に高まる議論

「集団的自衛権」行使容認は、自民党なかんずく安倍晋三前首相の長年の悲願と見られてきました。政権交代後の無残な政権運営で野に落ちた民主党の姿を見定めた同氏は、首相再就任後1年半、満を持して「安保法制」を閣議決定に持ち込んだのです。平成26年(2014年)7月1日のことでした。以来、自民党、公明党の与党間で、徹頭徹尾の議論がなされました。正式に法案としてまとまるのは、翌年5月14日なのですが、その間、メデイアでは与党間議論を横目に色々な論議がなされたのです。

私はOB議員ながら、新聞、雑誌からインタビューやコメントを求められました。地元紙・神戸新聞には大きな写真付きで、掲載されました(6月23日付け)。これは今読んでも適確なものと自負できます。後半部分を抜粋して転載します。

ー公明党は集団的自衛権の行使容認に舵を切ったとされているが。

「報道では既に白旗を掲げたように言われているが、最終結論は出ていない。ひとまず国会開会中に閣議決定はさせないで、言葉は悪いが、引き延ばそうとしているふうでもある。」

「公明は『9条の下で出来ること、出来ないことを整理する』としている。言い換えれば従来の個別的自衛権の枠内で、まだできることがあると言う意味だ。拡大解釈でも縮小解釈でもない〝適正解釈〟の余地がある、と思う」

ー公明は米艦防護についても「周辺事態の際は個別的自衛権で対応可能」と主張したが、安倍首相はあくまで集団的自衛権の行使容認を目指している。

「集団的自衛権とは他人の喧嘩の加勢を買ってでること。〝お友達国家〟がやられているからと、わざわざ出かけていって武力を行使すれば、かつて歩んだ同じ道をたどることになる。安倍首相は『必要最小限度』の容認という名の下、公明の言い分をある程度聞いて突破口を開け、いかようにでもしようとしている節がある」

ー公明として踏みとどまるべき境界はどこにあると考えるか。

「現時点で具体的に言うのは難しい。イラクやアフガン派遣も非戦闘地域での後方支援だから、「9条の枠内」と言ってきた。それが言えないようなら、公明の敗北だ。〝闇から闇〟で終わらせず、『こういう議論をし、こう整理した』と明確にしないと。『どう考えてもこれは9条の枠内とは言えないと衆目が一致するような結論を容認してはいけない』」

公明党の一員として、曖昧な結論は出すべきでないとの強い意志が表れたインタビュー記事になっています。

●『週刊朝日』にもコラム形式で与党に注文つける

また、『週刊朝日』の7月4日号にも私の発言がコラム形式で掲載されました。以下全文を転載します。

【自公で連立を組んで15年になりますが、重大な局面を迎えています。憲法解釈を拡大しようとする安倍自民党にしっかりブレーキをかけられるか。公明党の真価が問われています。小泉政権の2003年、大量破壊兵器があるとして、米国がイラクに侵攻し、日本の自衛隊も後方支援の目的で、非戦闘地域といわれたサマワに派遣されました。しかし、のちに米国が「そういう兵器はなかった」とその非を認め、日本はいわばはしごを外された格好となった。公明党は09年、党外交安全保障調査会長だった私が中心となり、「アメリカからの情報を鵜呑みにして、自衛隊を派遣したことは否めない」といった内容を含む総括をしました。

自民党がそうした総括をしないまま、集団的自衛権の行使容認を進めていることに危うさを感じる。イラク戦争のように米国に求められるまま、自衛隊を無制限に派遣させる。国防軍をつくり、米国が求めていないことにまで手を出す。そんな怖さがあるから、歯止めの役割が必要なのです。

今の自公協議で大事なのは、平和主義を規定した憲法9条の枠内で何が出来て、何が出来ないかをはっきりさせること。出来ないことは出来ないと、ダメだと主張すべきで、あいまいな言葉遊びは後世に禍根を残す。9条の縮小解釈でも拡大解釈でもない、許容されるギリギリの対応をしてほしいですね】

随分厳しいことを言ってます。私はこのような論調をベースに、連日のように、ホームページのブログ『後の祭り回想記』でわかりやすく問答形式などで解説をしていきました。この法制をめぐる与党間の調整論議は結局10ヶ月にわたって続きました。そしてその結果が国民の前に全貌を現すのは、翌27年(2015年)5月のことになるのです。(2021-4-4)

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