Monthly Archives: 7月 2021

【38】フランスからドイツ、ベルギーへ夢の旅ー平成29年(2017年)❻/7-27

●念願のライン川下り果たし満足感に浸る

 前年秋にドイツから姫路へとやってきた、元ビンゲン市の女性市長(コーリン・ランゲン氏)との約束を果たす時がやってきました。私の妻は都合がつかず、代わりに寺松輝彦氏(現地在住の木村氏と共通の友人=社員教育指導者)と一緒に9月18日から27日までの欧州旅(フランス、ドイツ、ベルギー三ヶ国8日間、機中2泊)に向かったのです。この旅の最大の目的は、ライン川中流地域に位置するビンゲン市訪問。日本に強い関心を持つ若者との懇談会を始め、豊かな大自然の中で息づくドイツの風景を楽しむことができました。

 中でも、ライン川下りは長年私が夢見てきた旅です。その昔、ドイツ文学者の池内紀氏と版画家の山本容子さんの案内による紀行番組をBSテレビで観ていらい、いつか行きたいと思っていました。ゆったりとした川幅の上を爽やかに滑る、船上での感動は今も目に心に身体に焼き付いています。また、日本の国内政治で定着した自公連立政権の実態を聞きたい、という現地の若者の要望に応えて、あれこれと話す機会も楽しいものでした。

●フランスでの旧知の二人の大使との再会

 これより先に、成田からフランスに足を踏み入れた際に、真っ先にパリにある大使館を訪問しました。かつて現役時代にお世話になった元外務省官房長の木寺昌人大使(2016-2019)と、当時はユネスコ大使(その後ハンガリー大使)だった佐藤地(くに)さんの二人が相手をしてくれました。佐藤さんは女性として初の局長級ポストである外務報道官に就いた人ですが、ユーモア溢れる才媛です。

 木寺さんは中国大使からの横滑り人事で、フランス大使に就任されていました。元々フランス語が専門で、水を得た魚というより、水に馴染む白熊のように活躍されてる最中の訪問となりました。中仏関係の特異さやら、伝統的なフランス人気質など、さまざまなテーマについて話し込みました。3年間の同大使赴任中に私の友人が此の地に次々とお邪魔する度に、あれこれとお骨折りしていただくことになり、感謝に絶えない思いでいっぱいですが、その先陣を切ったのがこの時の私の訪問でした。

●ベルギーでのEU議会訪問に思い新た

 最後の訪問先になったベルギーのブリュッセルは、EUヨーロッパ連合の中心地。その本部を訪問し、議場、食堂、議員控室などを具に見学しました。と言いますのも、ビンゲン市のランゲン元市長はその当時、EU議会議員に転身されていて、現役として活躍中だったのです。私たち一行がお邪魔した時には、地元からの陳情客とも鉢合わせになって多忙を極めておられましたが、テキパキと対応してくれたことが印象に残っています。

 学者である夫君も途中で加わって、一緒に市内散策の案内をしてくれましたが、得難い思い出になりました。私はビールの旨さは、ドイツでなくベルギーにありとの持論を持つに至っていますが、それはこの時に街角で飲んだフルーティなヒューガルデン・ホワイトに起因します。世界の地ビールの本場ブリュッセルを知って、ビールは喉越しもうまいが、口に含み舌先で味わうのものだとの感を強くしました。スペインのシェリー酒、アイルランドのギネスビール、中国の紹興酒そして日本酒など、アルコールに国柄が現れるというのは面白いものです。(2021-7-27)

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【37】関空航路再生の喜びー平成29年(2017年)❺/7-22

●関空と淡路島結ぶ航路が再スタート

関西国際空港と淡路島を結ぶ航路は過去にもありました。淡路エアポートラインです。しかし、なかなか利用客数が上向きにならず、平成19年には休航してしまい、この10年ほどの間は、ストップしたままなっていたのです。それを今度はジェノバラインが引き受けようと、立ち上がったのです。時あたかもインバウンドブームで、日本全体で年間3000万人もの観光客も望めるほどにまでなっていて、十分淡路島にもその流れは来るに違いないとの見立てだったわけです。

7月9日、突き抜けるような青空のもと、関空航路再開通を祝う記念式典が岩屋港で行われました。この航路運営のトップには吉村淳一氏が就きました。この日を迎えるまで、初期の段階で尽力し抜いた豊田さんの姿が見えないのがなんとも寂しいものがありましたが、仕方ありません。関係者一同、押せ押せムードで、ひたすら今度こそ定着させるぞと、成功を信じて突っ込んでいったのです。この航路運営がこの日から進められることで、我が一般社団法人はより一層忙しくなりました。日々の乗客数の増減に一喜一憂する一方、DMOの展開に夢を育み、ない知恵を懸命に降り注ぐことになったわけです。

●DMO法人へ観光人材育成機関作りに汗流す

 この頃から、DMOの展開については、私的知恵袋である勝瀬典雄さんの支援を頂くようになりました。社団法人の顧問的立場の位置付けを付与させていただきながら、現実には無報酬で交通費支給のみ。しかも彼の動く予定に出来るだけ便乗するという辛気臭い扱いぶり。全て私の責任です。この人の持つ地域おこしのノウハウに心底惚れた私の強み。惚れられた側の弱みといえましょうか。豊田さんに代わって、昼夜を分たずといかない分、彼の住まう徳島、勤め先の大学のある広島、神戸、そして東京と、転戦される場所ごとに押しかけ議論しました。

 二人が最も力を入れたのは、観光人材を育成してゆく主体を淡路島に作ろうという試みでした。徳島商と山手女子大を「観光」を通じて結びつけるアイデアやら、ハコモノではなく、船上で「育成」をやろうとか、集客を狙った仕組みをサイト上に作ることなど、あれこれと企画しました。ただし、一連の計画を具体化する上で、内外多くの精鋭の力を借りましたが、そのうちの女性起業家のひとりをして「ネット時代に似つかわしくない、竹槍集団みたい」と言われてしまうほど。かくほどまでIT音痴の集まりだったことは、如何ともし難い欠陥でした。

●関経連の松本正義会長の淡路島での就任祝い

 そんなおりも折、関西経済団体連合会のトップに住友電工の松本正義社長が就任(2017年5月)されました。松本さんとは、それなりの交遊があり、井戸県知事交え意見交換をした時のことは既に触れました。淡路島・洲本高校出身とあって、オール淡路島で関経連会長就任をお祝いしようとの気運醸成を、私たちは思いつきました。同校出身の関係者は私の周りにも少なからずいて、皆さん大いに賛同、あっという間に実現の運びになったことは言うまでもありません。

 9月9日当日は、淡路島中の名士、強者が一堂に会しての素晴らしい集いとなりました。山田啓二京都府知事(当時)もご当地出身とあって参加、観光の島・淡路島への期待は大いに膨らんだものです。気骨溢れる才人たる松本さんの関西経済界トップへの登場は、関係者一同願ってもない慶事です。この日ばかりは、日常の憂さもものかわ、希望に満ちた言葉が飛び交うひとときだったことを覚えています。(2021-7-22)

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【36】瀬戸内海に夢を馳せた同志倒れるー平成29年(2017年)❹/7-17

●今度は「民泊推進」に首を突っ込む

コロナ禍前には、各地で「民泊」の動きが高まっていました。先に触れた勝瀬典雄さんの肝煎りで「全国民泊推進協議会」を結成して、インバウンドに備えようとの試みが進んでいました。5月29日に、会長に当時兵庫県立大の看板教授だった佐竹隆幸氏(中小企業論)を迎えることにし、同協議会主催で盛大なシンポジウムが神戸市内で開かれたのです。佐竹教授とは面識はあったものの、本格的な出会いはこの日が初めて。聞きしに勝る講演上手に、改めて聞き惚れました。

この日の集いには、観光をテコにした地域おこしに関心を持つ様々な人々が参加していました。政治家の転身は所詮〝武家の商法〟の域を出ず、いつまでも馴染めない私としては、名刺交換のたびごとに感心し、登壇者の多彩さに胸躍らせるひとときでした。この日を契機に、勝瀬・佐竹のコンビに、私も一枚加わることになりました。この3人はこの日を契機に〝時節外れの同床異夢〟を育み、歳不相応な遠大な希望を抱いていくのです。

●東京から京都へ、厚労省絡みの催しへ

二日後の31日。東京での前議員の会で、大先輩の坂口力元厚労相の講演が聞けるとあって上京しました。タイトルは、「ガン難民はどうするか」。ご自身の「大腸がんで余命3年」と言われた体験談をもとにした、がん医療の現状とこれからの展望についての奥深いお話でした。「医療として最善を尽くしても、患者の残された人生にとって最善とは言い難い」「がんは人間に考える時間を与えてくれる疫病」との位置付けなど、考えさせられる内容でした。「根治は難しくても、がんと共存の時間を延長する研究もすべき」など、〝医師にして政治家にして患者〟という立場からの興味深い中身の連続に、すっかりはまってしまいました。

翌々6月2日の帰路、京都に途中下車。かつて肝炎患者の救済で共闘した弁護団メンバーを中心にした有志の集いに参加しました。中心弁護士の一人が私の高校の後輩のT氏。彼がこよなく愛する京都祇園の地を選んで、弁護団仲間に加えて患者家族、厚労省の担当者、元代議士に声をかけてくれたのです。まさに〝忙中閑あり〟。英気を養う素晴らしいひとときになったことはいうまでもありません。

●夢を語り合った大先輩の志半ばの死

議員勇退後に何をするかで迷っていた私に大いに力になってくれた人が(株)ジェノバの副社長だった豊田一義さんでした。吉村靜穂社長との縁を結んでくれたことを始めとして、この5年ほどというもの、何やかやとお世話になりました。淡路、明石で、神戸、大阪で、夜となく昼となく、語り合ったものです。

明石港をサンフランシスコのフィッシャーマンズワーフのようにして、瀬戸内海を縦横無尽に行き交う船を走らせるんだーいつもこの夢に向かっての戦略を練り、手立てを考えてきました。船がないー所有する富裕層から借りればいい。金がないー銀行は我々のためにある。元はといえば、仏法哲学の研鑽をベースに本の出版などを仕事にしてきた文化人的素養に満ちた人です。そんな人が眠っていた才能を呼び覚ますがごとく立ち上がって、私と肩組むようになりました。お互い似ているなあと思うことも、一再ならずありました。そうしてるうちに、ある時からどうも腰が痛いと、周りに訴えられることが多くなってしまったのです。

やがて脳腫瘍が発覚、半年余りの闘病生活を余儀なくされ、6月19日に逝去されてしまいました。断腸の思い迸る東京での葬儀でした。それでなくとも紆余曲折が多かった「瀬戸内海島めぐり協会」。その前途に、赤信号が点滅することが更に多くなってしまうのです。(2021-7-17)

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【35】傑出した人材育成者との出会いー平成29年(2017年)❸/7-12

●市川町で聞いた地域おこし映像制作の講義

淡路島で初めて面識を得ていらい気になる存在となった榎田竜路さんから、3月末に連絡がありました。姫路の北隣の神崎郡市川町で、自身が主宰する企画の講座が開講されるので、のぞきにきませんかというものでした。桜花爛漫の4月8日に、稲垣正一元市川町議を誘って出かけました。榎田さんは町の青年たちに、映像制作を通じて、地域の誇りを形にする手法を伝授しようとしていたのです。

市川町は、日本を代表する映画脚本家である橋本忍さんの出身地。『羅生門』や『七人の侍』などの作品群で、黒澤明監督とコンビを組んだ人です。同町では、橋本さんにあやかって映像の力を町おこしに役立てようと、その道のエクスパート・榎田さんを鎌倉から担ぎ出したのです。その方法は、地域に住む様々な分野での著名人にインタビューをし、その中身を2分間の映像にまとめるーこれだけです。その行為を通じ、青年たちは町の良さを感じ、見た人たちも誇りを味わえるー結果的に町おこしに繋がるというわけです。面白い発想だと感心しました。

講義後、姫路城周辺を案内したのですが、桜の木の下の花見客の固まりから「センセー」との大声が。驚きました。瞬間二人とも相手のことだと思って、顔を見合わせ、キョトンと。先ほどの聴講生の女性の一人だったのです。会場での講義終了後直ちに移動したものと見えます。その旺盛な行動力に舌を巻きつつ、10人ほどの車座に。花見酒をいただきつつ、即席座談会に興じました。見覚えのある青年企業家もいました。今なお忘れられない懐かしい思い出となっています。

●北前船寄港フォーラムイン淡路島の衝撃

私が地域おこしの試みで悪戦苦闘している間、横目で注目していたのが「北前船交流拡大機構」なる一般社団法人の活躍です。その昔、北海道・函館から、日本海沿いに南下し、瀬戸内海から大阪、京都へと物資を運んだ海上ルートを担った船を「北前船」といいます。同法人は、これを現代の地域活性化に役立てようと、北前船が寄港した港を持つ市町村間の連携をとる狙いを持っていました。

この団体のトップは作家の石川好氏(元秋田美術工芸短期大学長)で、実質的に陰で支える専務理事が浅見茂氏(元創価学会男子部長)です。彼の繋がりで北海道から関西に及ぶ創価学会の元男子部仲間の猛者たちが加わり、美しき花ならぬ、屈強な陣笠を添えていました。しかも私の慶大時代の級友で元日本航空の最高幹部だった梶明彦氏まで参画しているというのですから驚くほかありません。

私が「瀬戸内海島めぐり協会」の件で、国交省を訪ね、あれこれと要望した際に、担当の同省役人たちが「北前船寄港フォーラム」を引き合いに出して比較。「北前船のように、もっと地域からの盛り上げをしていただかないと」と、のたまってくれたのには忘れ難い屈辱を感じたものです。尤も、ことの起こりから背景、そして表舞台から裏の台所にいたる陣立てにおいて差がありすぎでした。

この「北前船寄港フォーラム」が5月12日に淡路島にやってきたのです。高田屋嘉兵衛ゆかりの地であってみれば当然のことなのですが、その豊かな人材群、構想力と企画力に圧倒される場面を見せつけられました。石川、浅見、梶氏らとの懐かしい出会いに心奪われつつ、気もそぞろというのが正直なところだったのです。(2021-7-12)

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【34】ジャカルタへの旅でDMOへの思い強めるー平成29年(2017年)❷/7-7

●日本版DMOに熱中しはじめた頃

バンコクから帰って、「瀬戸内海島めぐり協会」として、本格的にDMOへの取り組みを強めることになりました。Destination Management Organizationーこれを頭文字だけとってDMOと呼びます。地域と協力しあって観光地づくりをしようという法人を指します。日本版DMOと呼ばれる様に、欧米先行型の発想でできた観光戦略の柱の一つです。国交省観光庁が推進に努めています。

観光庁、兵庫県と連携をとりつつ、淡路島を中軸に据えたDMOに採用されるべく、まずは候補法人としての資格を得ようと奔走することになりました。兵庫には既に幾つかのDMOがありますが、いずれも十全たるものとはいえず、どちらかと言えば、広島県など西瀬戸内海に位置する地域が熱心でした。これではならじと、「瀬戸内海島めぐり協会」は大いなる意欲を燃やしていきました。その取り組みの一環として、インドネシア・ジャカルタに飛ぶことにしたのです。

●勃興するアセアンの大国での数々の出会い

実は、先に紹介した中嶋嶺雄先生の選集発刊を祝う会で、元日経新聞のジャカルタ支局長K氏と、偶々同じテーブルで隣り合わせになっていました。今もなお同地との関わりを持っていると知り、私はジャカルタへの思いを募らせました。今度もバンコク行きと同様にT氏が同行。3月7日から三泊四日の旅となりました。K氏がジャカルタで待ってくれているという大いに贅沢で、心強い機会でした。

この時の旅でも現地駐在の谷崎泰明大使と会うことは大きな楽しみの一つでした。欧州局長時代に彼とは付き合っていました。今回は本国に帰る辞令が出た直後で、ギリギリセーフのタイミングになったのです。スカルノ、スハルトらのリーダー論から始まって、同国の持つ「多様性の中の統一力」など種々教えていただく絶好の機会になりました。また、多島に囲まれたこの国の観光力は、瀬戸内海に挑む私たちにとって、大いに参考になるとばかりに話も弾んだのです。

更に、この地で偶々開かれる在留邦人と漁業担当相のフォーラムがあると聞き、駆けつけました。JBIC(国際協力銀行)などの現地駐在職員も参加していて、開会前のひとときが懇談の場に。東京外語大のスワヒリ語科で学んだという才媛との会話などを楽しんだのです。この日のメイン・スピーカーであるスシ漁業担当相は「気風の良さに加えて妖艶さ漂う」女傑と聞いていました。うそか誠か入れ墨をしている、とまで。これは確かめるわけにはいきませんでしたが、チャーミングな佇まいの女性で、噂と現実のギャップを感じ少々失望してしまいました。

●中野兄弟会で上京、大沼シンポと掛けもち

池田大作先生が昭和48年に結成してくださった人材育成グループ「中野兄弟会」も、既に目標の30年=2003年を超えて、やがて明後年には50年を迎えます。毎年結成記念日(2-4)前後に、責任者である藤井達也氏らが種々の集いを企画してくれてきました。この年も3月19日に新宿区大久保で記念の会合が行われるので、出向くことにしました。ただし今回は、市ヶ谷での大沼保昭東大名誉教授のシンポジウムと掛け持ち。繋がりが深い大沼さんの試みも外せぬ魅力があるためです。

この日のタイトルは、「文際的世界の国際法」。文明間の差異を超えて、共通する国際法で新たな地平を世界に築こうとの、この人らしい壮大な狙いです。案内状にあった「欧米中心的世界から文際的世界へ」「脱亜入欧信仰からの脱却」などの謳い文句に魅了されるところはあったものの、前の会合との関係から肝心のシンポは抜きに。後半のミニコンサートと懇親会からの参加になったのです。

旧知の橋本五郎、小田尚(ゼミ生)の読売新聞記者コンビの他に、色んな分野の方々が参加していて、魅力あふれる出会いの場になりました。特に印象深かったのは、大沼さんの主たる仕事の一つである、慰安婦問題や人権問題について。政治家との繋がりができたが、ごく少数の人を除いて、まともな対応をしてくれた人物は皆無に等しかったとの発言。当日の出席者で、政治家の端くれは自分だけだったので、いささか無念の思いを抱かざるをえませんでした。(2021-7-7)

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【33】国王の喪中にタイ・バンコクへー平成29年(2017年)❶/7-2

●プーミポン国王の喪中にバンコクへ

 バンコクはどこもかしこも黒い服を着た人の群れでいっぱいでしたー2017年の新年開けてすぐの1月17日に初めてタイを訪れたのですが、国を挙げてプーミポン国王の喪に服していたのです。目にしたのは街中の寺院にお参りする、恐らくは全国各地からの、人の列だったのです。前年の香港、シンガポールに続く、「観光」の仕事を兼ねて、「瀬戸内海島巡り協会」の仲間のT氏らと3人旅でした。マレーシア、ベトナム、シンガポールには足を運びながら隣国タイは未踏の地でしたので、心躍る三泊四日の旅となりました。

 バンコクの中心を流れるチャオプラヤー川は、時々氾濫して大騒ぎになりますが、普段は悠然とした佇まいです。定番通り、この川の上を遊覧船で楽しみました。時間が許せば三島由紀夫の小説『豊饒の海』ゆかりのワット・アルン(暁の寺)に行きたかったのですが、船上から遠景を見やるだけで済ませ、巨大な涅槃仏が安置されたワット・ポーを訪れました。街の中の移動にはトゥクトゥクなる三輪タクシーに乗ってみましたが、これはもう凄まじく荒っぽい運転でした。もし事故ってたら、どうなってたことやらと、思い出すだけでも、ゾッとします。

 ここでも旧知の佐渡島志郎大使を公邸に訪ねて、ランチをいただきながら懇談のひとときを過ごしました。私のタイでの関心事は、軍政と市民政治をクーデターを挟んで交互に繰り返すこの国の統治のあり様について、でした。私はこれはタイの近代化の遅れだと思っていますが、かつて大使を務めた岡崎久彦さんは著作の中で、奥深い知恵のもたらすものだとしてむしろ評価しています。この辺りを佐渡島大使に聞こうとしたのですが、叶いませんでした。観光をめぐるこの国の取り組みを聞くだけで時間切れとなり、心残りのままお別れとなりました。

●姫路にやってきた外交評論家と懇談

 バンコクから帰った翌日、姫路に外交評論家の宮家邦彦氏がやってきました。元外務省の安全保障課長で、現役時代に親しくしていました。彼は親父さんが亡くなられたので、その仕事を継ぐために、志半ばで辞めたのです。私はそれは口実だろうと見ていましたが、案の定、メディアの世界で大活躍です。特に関西エリアでは、日本テレビ系の『そこまで言って委員会』のレギュラーメンバーとして人気絶頂。この日も、録画録りの終わった翌日、姫路で講演会ということで、その日の夜に会うことにしました。

 一回に二週分まとめて録画録りをするとか、カットされた禁じられた言葉のネタばらしなど、番組の裏話を喋ってくれました。実はこの人は元々アラビストで中東問題のスペシャリスト。タイ大使の後、駐サウジアラビア大使をやった岡崎久彦さんについて、駐在した国の本を書くのに熱心で、現地での仕事はあまりしなかった人だったといったとっておきの話を聞かせてくれました。

●元英国大使や演劇評論の専門家と懇談

 私には元外務省幹部や外交官の友人が少なくないのですが、中でも親しい関係にあるのが、以前にも触れた林景一さんです。条約局長などを経て、アイルランド、英国大使を歴任(退官後は最高裁判事)しました。2011年から5年間のロンドン駐在を終えて、2016年春には日本に帰ってきていた同氏を慰労するべくタイミングを測っていましたが、ようやく新年2月に実現。共通の友人である演劇評論で著名な岡室美奈子さん(早稲田大教授=坪内逍遥記念館館長)を誘い、林夫人共々4人で一緒に会いました。

実は林さんは、『イギリスは明日もしたたか』を前年暮れに出版したばかり。アイルランド大使を終えた後には、『アイルランドを知れば日本がわかる』を刊行しています。両方とも題名通りのとても面白い本でしたが、この日は著者へのインタビューのようになって話は弾みました。岡室さんはテレビドラマをウオッチし続けて毎日新聞紙上にコラムを書いている人で、視点がとても新鮮でユニーク。時を忘れての懇談のひとときはいつもながらの至福の時でした。(2021-7-2)

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