Monthly Archives: 8月 2021

【47】観光客誘致に向けて台湾に飛ぶー平成31年(2019年)❶/8-31

●相手の観光ニーズ探る新しい手法

新しい年・平成31年が明けました。(一社)瀬戸内海島めぐり協会も発足以来5年目。なんとかDMO法人たらんと、実績積み上げに躍起となってきました。兵庫県観光局の支援を得て地域創生交付金を支給されることもでき、インバウンド客誘致に向けて東南アジア各国に飛ぶことにし、まず台湾をめざすことになりました。ジェノバラインの観光事業部のメンバーと、勝瀬典雄さんとの激論の末に、現地でニーズを探り、台湾人の望む訪日プランを考えさせるとの新たな手法に着手することにしたのです。

1月21日から三泊四日の日程で私と勝瀬氏を含む3人でチームを組み、台湾の観光業者を11社ほどを訪問しました。日本への呼び込みをする商談は私にとって初体験の連続で、戸惑うことばかり。観光事業の専門家兼通訳の福井智氏の卓越した能力に助けられ、なんとか仕事はこなせましたが、正直言って前途多難は否めないと言うのが実感でした。

●日台双方の旧友との懐かしい出会い

他方、この旅では、観光誘致の仕事もさることながら、私は他に三つの目的も持っていました。一つは、台湾総督府の幹部と会うことです。台湾にはアジア・オープンフォーラムの一員として、中嶋嶺雄先生と一緒に台北、台中、高雄と訪れたことがあり、その際に、許世楷さんとご縁が出来ていたのです。後に彼が駐日事務所代表(台湾の大使に相当)になられた時に、姫路城から夢前町へとご案内しました。天守閣までの狭い階段の昇り降りに、とても苦労をおかけしたこと覚えています。この時に同行されていた秘書官の陳銘俊さんが、その後栄進され、台湾民進党政権の中枢を占めておられます。訪台の際には是非、総督府へとお招きを頂いていたのです。

李登輝総統が健在だった頃に、ここには一度入ったことがありますが、今回はまた違った味わいがありました。久闊を叙するいとまももどかしく、日台双方の懸案、課題をあれこれと話題にしました。蒋介石総統の胸像が安置された場所の下に位置する階段で、記念撮影が出来ました。これには同行の勝瀬さんも、とても喜んでくれました。

二つは、この地の毎日新聞支局長として赴任している福岡雅哉記者に会うことでした。彼とは、番記者時代からの繋がりです。香港と台北をカバーする極めて大事なポジションにいるだけに、現地でホットな情報に接することがとても楽しみでした。案の定、重要な視点を様々に伝授してくれました。

●台湾大使から観光の教えを受ける

三つ目が、台北事務所長である沼田幹夫大使に会うことでした。明治維新の志士を思わせる気骨漲る外交官で、様々な啓発を受けることが出来ました。この時は、日台両国の観光をめぐる話題が中心で、台湾の富裕層が日本を訪れるにあたって、ガイドを自前で連れて行くとのこと。現地の日本人ガイドでは飽き足らぬものを、提供してくれるというのです。なるほどと感心すると同時に、優秀な観光ガイド育成の重要性を痛感しました。

中国が観光を台湾との経済コントロールに使っているとの話も意味深長なものがありましたが、日本からの台湾への観光客が低減していること、日本の政治家に台湾軽視が見受けられることなどへの不満めいたものを洩らされたことは、気掛かりでした。(2021-8-31)

 

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【46】地域おこしで美波町から吉野町へー平成30年(2018年)❼/8-29

●観光庁との打ち合わせ後、徳島へ

 11月30日に上京する機会を作り、観光庁の地域振興課長らと、観光人材育成に向けての実務者協議を行いました。当方からの参加者は、地域おこしのプロ・勝瀬典雄さんと、鈴鹿剛(徳島商)、大日向樹(岩倉高)という実業高校での「観光人材育成」に取り組む二人の教師です。この協議で驚いたのは、徳島商の校内模擬会社COM COMのメンバー二人(女子高生)が、カンボジアとの交流活動の一端をプレゼンとして披露してくれたこと。それによると、この模擬会社は、カンボジア・日本友好学園と連携協定を結び、椰子砂糖の商品開発やカッシュナッツの加工輸入化などに取り組んでいるといいます。業務的には、NPO法人・雪花菜工房(東丸慎太郎代表=同商OB)が介在して進めているのですが、高校生たちも現地に飛び、それなりの役割を果たしているというのです。

 翌日は、空路、徳島に移動。地域おこしの対象にしている美波町に入りました。途中、「地域活性化伝道師」の異名を持つ榎田竜路(アースボイス代表・北京電影学院客員教授)や、北海道士幌高校の教頭らと合流。現地で、森林の中での遊びの空間やログハウス作りのモデル地を見学しました。ここでは美波地域活性化協議会の鈴木健宏代表らが対応してくれました。この日はまさに同地域へのアプローチの集大成場面となり、大いに満足出来る結果となりました。

 実はこの日、奈良県の吉野高の教諭と生徒も徳島に来ており、夜は合流して意見交換をすることになったのです。生徒は生徒同士、大人は大人同士でしたが、個性豊かでパワー漲る吉野高の教師たち4人に感銘を受けました。

●徳島商と吉野高の交流を見る

 翌朝は、吉野高生たちと共に徳島商に足を運び、高校生たちの課外授業風景を見学しました。腹式呼吸の実践に始まり、発声練習や、プレゼンの具体的展開など実に見事な活動ぶりには目を見張るばかりでした。私は、別れ際に、高校生たちがカンボジアとの交流に取り組むことの重要性に言及。かつて、かの国が内戦で疲弊しきっていた時に、日本がPKO(国連平和維持活動)に初めて手を染め、応援した経緯を述べ、激励としました。

 あれから、ほぼ30年が経った今、日本の高校生たちが国境を越えた地域おこし活動に手を差し伸べることは大いに意義深いと。地域活性化、観光振興に向けて、高校生たちが積極的に汗を流す姿は極めて頼もしく、もっと世間に宣揚されるべきだと思ったものです。

●吉野高校にも足運ぶ

 一転、今度は12月18日に奈良県吉野町に行きました。榎田竜路さんの吉野高校生たちへの指導の現場を見せて貰うためです。吉野町はいうまでもなく木材の町であり、中世の雰囲気を今に湛える歴史感溢れる町です。そうした個性豊かな地域をどう世に知らせるか、榎田さんお得意の〝映像による見せ方〟の訓練の実地風景を見学させて貰いました。

 この訪問には、旧知の地元紙の記者であった女性(奈良県在住)にも同行して貰いました。この人はかつて、流通科学大学准教授だったZ氏の教え子。同氏が衆議院選に出た時に秘書兼事務員兼運動員として八面六臂の活躍をしたのを、私はつぶさに見ました。ただものでない彼女のパワーに感動、折角の機会だからと思い、榎田氏に引き合わせることにしたのです。こうした有能な若者と、才能溢れる有為の指導者との出会いの場を積極的に作ることも、私の大いなる喜びです。(2021-8-29)

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【45】偲ぶ会での番記者たちに万感の思いー平成30年(2018年)❻/8-26

●市川さんを偲ぶ番記者たちの集い

 市川雄一元公明党書記長が亡くなられてほぼ一年が近づく頃、誰からともなく、偲ぶ会をしようとの声が上がりました。当然です。あれだけ一世風靡した政治家が、引退後とはいえ、お葬式も何もないというのはあまりに切ないからです。親しい番記者を中心に、各社の先輩筋にも声をかけて、しっかりした会をしようと企画しました。

11月2日に都内のささやかな会場で、20人足らずの新聞記者たちが集まりました。市川さんが出席されたら喜ばれる集いに、との思いで私はいっぱいでした。ご本人を偲ぶ懐古談では、政治改革への凄まじいまでの執念、PKO(国連平和維持活動)への情熱、共産党との徹底した論争、党の安保政策の一大転換などでの立ち居振る舞いぶりなどが次々に披露されました。市川さんのお陰で、培うことが出来た〝記者人脈総集編〟の赴きがあり、私としては、万感胸に迫って胸も頭もいっぱいでした。

市川さんが自ら生前にまとめられた私家版『市川雄一の軌跡』なる「論文・インタビュー集」(2013年1月25日発刊)があります。私は今も座右に置いて、事あるごとに開いています。この集いのあと、ほとぼりさめやらぬ頃にも紐解きました。その時、紙背から「相変わらず好きなことをやってるなぁ。足下に気をつけろよ」との声が聞こえてきた気がしました。思わず、「みんな会いたがってましたよ、よく集めてくれたなあって、褒めてくださいよ」とつぶやきそうになりました。

●大光会全国県代表者会で、参院選への決意を披歴

 翌日11月3日は、公明党の元議員たちで構成される大光会の県代表者会が、党本部で行われました。翌年(2019年)夏の参議院選挙に向けて、必勝を期す会でした。全国屈指の激戦区兵庫選挙区を代表して、私が選挙情勢を述べた上で、自らの戦いを披歴しました。引退後、自治会長として青年部結成やら地域新聞の発行などに取り組んでいること、「異業種交流ワインを飲む会」を毎月開き、そこに毎回新たな友人を参加させて、合計300人ほどにもなることなどです。多くの仲間たちから称賛を受けました。

 大光会の全国代表は、神崎武法元党代表。最高顧問が黒柳明元党副代表です。お二人ともかねて尊敬する大先輩であり、党の大功労者です。黒柳さんは、ひとまわりも歳の差があるはずですが、神崎さんを立てられる姿は極めて印象的です。国会での勇猛果敢かつド派手な質問ぶり、時局講演会での天衣無縫な演説ぶりなど、本当に豪快そのものの人でしたが、今も「老将未だ健在なり」と、いつも勇気と強気をいただいています。

●甥っ子たちの集い「おいとこ会」を開く

私には子どもはひとり、娘だけ、残念ながら息子がいません。ただ、姉弟の子どもたちのうち、男の子つまり甥っ子が東京に3人います。この3人(それぞれは、いとこ同士)をいつの頃からか、年末に上京した際に集めて、懇親会をすることにしました。名付けて、「おいとこ会」。それぞれの名前から一字づつとると、「い・と・こ」になり、私の「お」を載せたのです。この発想は、中国の周恩来元首相にあやかったものです。彼は自分に子どもがいなかったので、甥や姪を大事にして、自分の子ども同様に接したということをあるテレビ番組から知るに至りました。それを真似たわけです。

姪っ子もいるので、その会もやりたくて、名前まで「みけの会」と用意しています。二人の姪と私の娘の名前が3人とも「み」で始まり、家内が「け」で始まるからです。残念ながら、皆子育てに忙しく、とても乗ってこないのは残念なことです。(2021-8-26)

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【44】佐竹関学大教授との熱い交流ー平成30年(2018年)❺/8-23

●兵庫県大の教え子たちとの楽しい語らい

 2016年に兵庫県立大から関学大に移っていた佐竹隆幸教授から、姫路で自分とゆかりのあるみなさんと懇談会をやるので、参加しませんかとのお誘いを受けました。6月5日、姫路西二階町の蕎麦屋が会場です。元たつの市長(落選中=元兵庫県議)を始め、姫路界隈の地場産業の経営者たち5人ほどが集結されていました。激務の企業経営に取り組みながら、県立大で学問に取り組んできたメンバーです。本人たちの向学の精神の旺盛なこともさることながら、よほど佐竹さんに魅力があるに違いないのでしょう。集まった席で皆さんの顔を繁々と見つめながら、改めて感心しました。

 佐竹さんには『「知的」経営のすすめ』と『「財的」経営のすすめ』の2冊の中小企業経営に関する著作があり、私もこれらを読書録『忙中本あり』に取り上げました。体験談集なので、とても読みやすく、印象的なものでした。独特の話術で聞く人を惹きつけてやまないスピーチ力の持ち主ですが、兵庫県下の様々の分野の人々とのネットワークを構築しており、オルガナイザーとしての能力も定評があります。地元テレビ局の時事経済解説なども好評を博しているとのことでした。

●関学梅田サテライトでの講演で熱弁

  佐竹さんには夢があり、ある時に私に打ち明けてくれました。全国ネットのテレビ番組に出たい、出来れば読売テレビ系の『そこまでいって委員会』に、とのことでした。貴方の力で何とかならぬか、と言われるのです。口八丁手八丁の手練れの中に割って入るのは難事と思いましたが、折角の申し出です。私が親しくしている常連出演者に持ちかけました。「自薦他薦いっぱいで難しいです」が答えでした。そうでしょう。良しにつけ悪しきにつけ、相当売れてないと無理です。彼に伝えるのは辛いものがありました。

 そんな佐竹さんから、関学の梅田サテライト校舎で、「サスティナブルツーリズム」をめぐるシンポジウムをやるので、スピーカーの一人として出てくれないかとの誘いを受けました。「瀬戸内海島めぐり協会」を基盤に取り組むDMOなどの周辺を話してくれとのこと。嬉しい限りでした。11月10日に、自分自身の政治家時代のことから、引退後のことまで、面白おかしく喋りまくったのです。持ちネタの限りを尽くし、ギャグも満載し、我ながらよく言うよとの話法で。聞き手がよく笑ってくれるので、脱線しまくり。途中で、ディレクター役の佐竹さんが口を挟むのが疎ましかったことを覚えています。後にも先にも特筆されるべき私の講演でした。

  • ●党総支部講演会の後、「聖教」「公明」勧める

 実は、佐竹さんには、政治家、とりわけ地方自治体の首長になりたいとの志がありました。学んだ学問を実際の政治の現場で生かしたいとの思い、切なるものがあったのです。私に打ち明けてくれました。テレビ云々もその流れ上のことです。私が学者への憧れを言うと、学者なんて面白くないですよ、それより政治家の方が、と。「なんだか二人は真逆ですねえ」と笑い合ったものです。

 翌年姫路での公明党の総支部大会に応援弁士として特別講演をしていただいた後、二人だけでレストランで卓を囲んだことを思い出します。話題は森羅万象に及び、私は日蓮仏法のこと、池田先生のことなど語りました。結果として、聖教新聞と、公明新聞の購読をお願いした私の要求を、彼が受け入れてくれたのはとても感激したのはいうまでもありません。

 この佐竹先生も今は故人(2020-9-23逝去)。寂しいことです。(2021-8-23)

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【43】一年で休航に追い込まれた関空航路ー平成30年(2018年)❹/8-18

●関空航路が僅か一年で休業へ

 関西国際空港と淡路島・洲本港を結ぶ関空航路が「ジェノバライン」の手でスタートしてから一年。当初の目論見とは大きく違って、インバウンド客を呼び込めぬまま、悪戦苦闘が続きました。7月にはとりあえず休業状態にせざるを得なくなったのは残念なことでした。10年ぶりにこの航路を再開するにあたって、もっと種々の観点からの検討を加えて意見具申すべきだったと思ったものの、全て〝後の祭り〟だったのです。

 傘下の一般社団法人「瀬戸内海島めぐり協会」としては、非力さを感じつつも、DMO法人に向けての実績を積み上げるべく、頑張るしかありません。複雑な思いで、8月4日には神戸港花火祭りを船上から見物する企画を立て、実施に持ち込みました。些細なことですが、将来への繋がりを意識して、思いを一つにするみんなで盛り上げました。

●徳島商での「観光教育」の実践的展開

 そんな状況の中で、全国の職業高校の教員有士による「観光教育」現場の取り組み状況や課題などをめぐって意見交換やら研修をする機会がありました。8月20日に会場の徳島商に私も向かいました。この試みは、同校の鈴鹿剛教諭が中心になって、同じ問題意識を持つ他校の教員に呼びかけられました。「観光」を通し、高校生の持つ力を引き出したいとの思いを持つ人たちが意気投合、文字通り手弁当で取り組んできたのです。その情熱たるや大変なものです。私は淡路島での初めての鈴鹿さんとの出会い以来、微力ながら支援を思い立ち、しだいにのめり込んできました。

 これまでにも幾度か触れてきた勝瀬典雄(関学大講師)さんがこの集いの影の仕掛け人であり、私もこの営みの〝助っ人〟として参加するようになってきていました。観光人材を職業高校の中から育む仕組みを作るべく、国交省や文科省などに働きかけよ、というのが私に求められた命題です。この日は、私が淡路島を中心に瀬戸内海観光に手を染めようとしている経緯を披歴するミニ講演をしました。職業高校の先生たちを前に、精一杯の話をした次第です。

 徳島商の校庭の片隅には、三木武夫元首相の胸像がありました。案内してくれた校長に聞くまで、彼が卒業生とは知りませんでした。尊敬する政治家の一人であり、またその昔、ここから彼は兵庫の県立尼崎北高校に転校したことも知り、ご縁を感じた次第です。

●お世話になった官僚たちの栄進を喜ぶ

 私の20年間の現役時代の仕事の大半は、外交・安全保障に向けられたことは幾度も触れてきました。そのうち、1年だけ厚生労働省で副大臣をしていたことも。この二つの分野では、多くの官僚と一緒に議論し、また専門的なことについてはサポートも受けました。実は8月にお世話になったこの二人がそれぞれ栄進したのはとても嬉しいことでした。

 一人は、厚生労働省の宮崎淳文課長。もう一人は高橋憲一防衛事務次官です。もちろん二人はお互い全く関係はないのですが、たまたま同じ時の人事で昇格されたのが私には愉快に感じられたのです。宮崎課長とはわずか1年だけでしたが、10年分くらい一緒に仕事をしたかのごとき手応えがありますし、その後も今に至るまで付き合っています。一方、高橋次官とは防衛関連のありとあらゆることで意見交換をしました。彼はその後、内閣官房副長官補に就いた(2020年)ことが話題になりました。次官を官僚人生の終わりとしないところが彼らしいと感心したものです。

 彼以外にも世話になった防衛官僚は大勢いますが、そのシンボルとして、彼を位置付けたい思いでいます。(2021-8-18)

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【42】ブラジルとの縁で親友を参院選候補に繋ぐー平成30年(2018年)❸/8-15

●上京し、旧交を温めたり懸案を処理する

 6月20日からは二泊三日で上京、いつもながらの強行スケジュールで10人ほどの人に会い、古い友人と旧交を温めたり、懸案を解決していきました。中でも元防衛施設庁長官だった山中昭栄氏や、法政大学の川成洋名誉教授との面談(21日と22日)は楽しいものでした。山中氏とは現役時代に大変親しくしていました。今は息子さんが兵庫県庁財政課に勤めておられ、親子お二人との付き合いです。川成先生は公明新聞時代に原稿を書いて頂き、今は後輩たちがお付き合いしています。「スペイン」の専門家で、最新情報を教えて頂いたり、意見交換をしました。

 また、全国自治体病院協議会会長を長年務めた邉見公雄(赤穂市民病院名誉院長)さんが旭日中綬章を受賞されたお祝いの会が21日に椿山荘であり、高柳 和江さん(笑医塾塾長)とともに出席しました。邉見、高柳のお二人は共に「癒しの環境研究会」のメンバーで、私とも因縁浅からぬ仲です。この会は邉見さんのお人柄を反映して、医療の世界から大勢の人たちが揃って大賑わいでした。その中で、現役時から昵懇にしていただいた森英介衆議院議員と出会い、かつてクゥエートで小児医療に携わっていた高柳さんを紹介できたのはラッキーでした。彼は日本と同国の親善協会の会長をしており、お二人から大層喜ばれたしだいです。

●参議院選挙の新たな候補との繋がり

 翌年(2019年)の参議院選挙に向けて候補者が決まり、7月2日に県庁で記者会見がありました。高橋光男という外務省でブラジル・サンパウロに駐在する外交官です。近畿エリアでは、石川博崇、山本かなえ両氏に次ぎ当選すれば三人目の参議院議員になります。かつて宝塚に住んでいて、親父さんと面識はありましたが、本人とはこの時が初めて。大阪外大出身の長身で爽やかな好青年でした。優秀な人材が次々公明党から出馬するとあって、外務省としても痛し痒しと言うところだろうと想像しました。

 ブラジルというと、私の小学校時代からの親友である三野 哲治(住友ゴム会長を経て相談役)氏が、日伯協会の会長をしています。前回の伊藤孝江さんの時にも、私との縁の濃い友人(高校同期の蔵重弁護士)が同じ弁護士事務所同士で、繋がっていました。連続です。公明新聞から「期待します」の声を求められたので、早速彼に依頼し、快諾を頂きました。7月11日には神戸の高台にある日伯協会の本部にお邪魔して二人を引き合わせたり、また住友ゴムの本社にも案内しました。ブラジルの縁で二人を繋ぐことができ、幸先のいいスタートを切ることができたのです。

●旧友に家庭訪問受け、励まされる有難さ

 7月14日のこと。古くからの友人である杉野正幸氏の家庭訪問を受けました。この人は聖教新聞の販売店をしていた人で、もうリタイアしています。初めて私が選挙に出た時に、親戚との連携をとってくれる役割を果たしてくれました。その後も姫路市内、特に夢前町に集中する家々をときどき訪ねて、安否を訊いてくれたりしているのです。その彼が久方ぶりに我が家を訪問してくれるというので、何事やらんと身まがえました。

 彼は二人で一緒にあちこち家庭訪問をしませんか、と言います。「赤松さんが引退して5年、このあたりでお世話になった方々に挨拶回りをしては」と。自治会活動にかまけて、創価学会の地域活動への取り組みが疎かになっていたことを私も自覚していました。自動車の免許も返上して、遠出も出来ない私の事情をも見抜いて、一緒に車で、との申し出です。有り難いことでした。創価学会に入って53年ほど、人のお家を訪問しても、逆に訪問されることはあまりありません。この訪問は後々忘れ難いものとなりました。

これいらい、週3回ほどの日程で、二人で市内北西部を一日4-5時間かけてまわりました。懐かしい方々との出会いに加えて、新たな出会いも付け加わり、家庭訪問の醍醐味を改めて味わうことが出来たのです。(2021-8-15)

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【41】ブログで「テロ」「憲法」論を書き安保研リポートにー平成30年(2018年)❷/8-11

 ●思い残すことのない3年間の自治会長

 自治会長になって3年。2年の任期を1年オーバーしたこともあり、この年には交替せねばと思って新しい年を迎えました。しかし、肝心の後任の人が見つからず、困りました。就任以来、青年部結成、地域新聞の発刊、地域内に住む有為の人材による講演会、餅つき大会の開催、ミニ・バス旅行など次々と新しい試みに挑戦してきました。しかし、いつまでもやるわけにいきません。こんな楽しい仕事を独占してはいけないーこれが半ば正直な思いだったからです。

 自治会内には4つのエリアがあり、会長職をはじめ、副会長、会計など基本的に2年任期で、順次エリアごとに候補を選び、回してきた伝統があります。既に副会長をしていただいてきた、町内で長年着物商を営むYさんに最終的に目を付けました。ご近所のご婦人たちの人気は抜群。商売柄、女性の気持ちを掴むのは圧倒的に上手いのです。加えて、男性との付き合いも巧みとくればいうことはありません。もちろん、仕事を始めあれこれと理由を挙げて渋られたのですが、日参して、拝み倒しました。代わって私は相談役に就きました。

●ブログに「テロ」「憲法」論考を次々と書く

 一方、この年の春は、ほとばしる思いを刻み込むようにブログに次々と論考を書いて、それをまとめて、「安保研リポート」に寄稿していきました。その代表的なものが『テロとの戦いは終わらない』(2月27日号)と、『憲法9条をめぐる改正試案』(4月11日号)です。『テロ』については、2001年9-11の米国同時多発テロをきっかけに、私が議員時代に一番考えさせられたテーマでした。「新しい戦争」と命名する論者もいて、喧しい議論と対策が話題になりました。17年も経って、私がこれを取り上げてみようと思ったのは、トランプ大統領の登場でした。

「前門の核、後門のテロ」との見出しで書き始め、新冷戦の時代を経て世界は大混乱に入ったとの認識を披歴。その遠因を現代文明が羅針盤を見失っているからだと、位置付け。そして結論は、創価学会の池田大作先生がこの1月26日に発表された43回目のSGI提言に求めたのです。「安保研リポート」には、様々な考え方の専門家が寄稿しているだけに、綿密な注意を払いながら、「創価の思想」を滲ませることをも心がけています。

 一方、憲法改正試案特集号は、9人の同研究会所属メンバーが私論を競い合うものでした。私は「領域保全に限定した自衛隊ー憲法9条加憲についての私案」と題した論考を書きました。既に前年3月に『加憲と改憲のあいだ』との論考を公表しており、それをあらためて整理し直したものです。当時、安倍晋三首相が自衛隊の存在を9条2項に明記する案を示していました。私は我が狙い当たる、との思いで、この論考を読んで貰えば、その背景がわかるはず、と力を込めて書いたのです。

●慶大仲間との50年前の信州旅を再現

 この年のゴールデンウイークは、信州鬼押し出しから、上高地を経て、飛騨高山への二泊三日(4-30〜5-2)の旅をしました。メンバーは慶大44年卒の5人。その昔一緒に信仰を深めあった仲間です。実は50年前に同じメンバー(全部で9人。今回不参加者は4人)で、ほぼ同じコースを回って(飛騨高山は今回初)いました。卒業を控えた前年に、記念の旅をしたのですが、それを再現しようとの試みでした。池田先生のもとに集い、激励を受けた大学会一期生です。先生のもと、この仲間あったればこそ、今の自分があると確信する私の発想による旅の再現でした。忙しい5人が集まっての懐かしい旅が出来たことに、心から感謝する思いでいっぱいでした。(2021-8-11)

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【40】毎日新聞『悼む』欄に寄稿ー平成30年(2018年)❶/8-7

◆毎日新聞3月5日付け「悼む」欄

 市川さんの死の衝撃から立ち直れぬまま、新年9日に上京しました。幾つか処理すべき案件があったのですが、そのうちの一つが毎日新聞の平田崇浩記者と会うことでした。彼は同紙の外交防衛を専門とする敏腕記者で、現役時代から昵懇でした。市川さんの追悼文を書いて欲しいという依頼でした。他に市川さんを語るに値する人はいるのに、私如きでいいのかと訊くと、「長きにわたって支えたのはあなただけ」、その視点から書いて欲しいとのこと。〝恩人の死〟を悼む文章を書かせて頂く巡り合わせに、感謝の思いで引き受けました。

 引き受けたからにはと心血注ぎ、たましいを込めるように文章を練りました。ご本人に「書き出しの研究」なる一文があり、文章作法の持論を常に聞かされていました。何度も何度も書いては消し、消しては書く繰り返し。ようやっと書き上げたものが、3月5日付け同紙朝刊に掲載されました。以下全文を転載します。

孤高の中に「情と理」/市川雄一さん元公明党書記長/2017年12月8日死去・82歳

【人の心を射抜く眼差しと他の追随を許さぬ論理展開。誰しもが「理の人」だといい、「強さ」を認めた。戦後政治史に残る『日本共産党批判』での「憲法論争」、国連平和維持活動(PKO)協力法成立のため公明党・創価学会の内外を説き伏せた行動力はその印象を裏付けて余りある。

 28歳の若さで公明新聞編集長に就いた切れ者がやがて『燃えよ剣』の土方歳三のような「軍師」として頭角を現す。党幹部の不祥事が露見し、逆風が吹き荒れた時の処し方は鬼気迫るものがあった。

 公明新聞記者時代の部下、後に秘書、議員として50年以上もお付き合いしてきた身として、数多の場面が夢やうつつに今も蘇る。感性の豊かさを湛えつつ、ひ弱にも見える大学時代の写真に驚き、変身の理由を尋ねた。「敵からは蛇蝎のように恐れられよ」「男は強くあれ」という人生の師からの薫陶があったからだとの答えが返ってきた。

 生来、がさつな私はあきれるほどの失敗をした。一緒に旅した先で、かばんを網棚に忘れたり、寝坊で待ち合わせ時間に遅れたり。恥じ入る私を叱らないで、忘れた頃に「君はのんきでいいなあ」と。その「優しさ」に感じ入った。

 近年、安全保障法制論議の時に私が反対を口にすると、君もそんなことを言うのかと反論の刀を向けられた。昨今の憲法論議をめぐっては、固い頭ではいけない、曖昧な態度に固執すれば、国の行く末を過つと憂え続けられた。

 京都が好きだった。哲学の道や鴨川沿いを歩いた。時に、お酒を片手に、遠き受験生時代に覚えた和歌を口ずさみながら。「情と理」を兼ね備えた、厳しくも優しい、孤高の政治家はもういない。(元公明党衆院議員・赤松正雄)】

◆大先輩の遺志を受け継ぎ生きていく決意

 様々な反響がありました。生前の市川さんに厳しく鍛えられた仲間の代議士から、「心底感動しました」とか、番記者の一人から、これまでに読んだ追悼文で最も心撃たれたなどと、お世辞混じりの声も含め、幾つもの便りを頂きました。自分としては悔いなき文章を書いたとの自負はあったのですが、御子息から、ひとつ納得いかない箇所があるとの意味の指摘をさりげなく受けました。どのくだりをさすのか、曖昧なままなのですが、未だに気になっています。

 文章を書くことを生業にする道を、私は歩いてきました。途中で20年余り政治の道に転進したものの、一貫して書くことに拘ってきました。市井の人間に戻って5年。この文章を書いたことが、改めて自身の本分を自覚するきっかけになりました。市川さんが生涯かけて成し遂げようとされていたこと、その片鱗でも受け継ぎたいとの思いが私にはあります。残された時間を使って、それを形にしていきたい。そう思っています。(2021-8-7)

 

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【39】市川元書記長との突然の悲しい別れー平成29年(2017年)❼/8-2

●10月22日投票の衆議院選でのできごと

 衆院選が10月22日投票のスケジュールで進んでいました。12日に姫路市内の小学校で行われた自民党候補の演説会に〝自公選挙協力〟の観点から参加しました。この候補者は元民主党の最高幹部で、外相経験者。大物です。民主党が政権の座から降りて5年、前回の選挙で彼は無所属で出馬しましたが、今回は自民党に鞍替えしたのです。自民党に移るとの噂を聞いた段階で、私は「政権交代可能な政党として民主党が作られ、3年とはいえ政権の座にあったのだから、ここは我慢して建て直しに尽力すべきではないか」との注文を電話でつけました。

 日本の政治の質的向上という観点から、「与野党伯仲」状況のなかで切磋琢磨すると言うのがあるべき姿で、彼が民主党を離れるのは惜しいと思ったゆえでした。しかし、与党の魅力には叶わなかったのだとみえます。さっさと彼は自民党入りを果たしてしまいました。選挙結果は、公明党は29議席で、前回(2014年選挙)より6議席も減ってしまいました。小選挙区で1、比例区で5減です。他党候補の動きに関心を持ちすぎ、自党の退潮を見抜けなかった自分を反省しました。

●カイロプラクターズ協会の総会で福岡へ

 福岡市で11月19日に日本カイロプラクターズ協会の催しがあり、遠路私も参加しました。比例区九州ブロック選出の公明党の後輩・T代議士も参加して、揃い踏みで挨拶しました。元をただせば、彼の紹介がきっかけとなって、私はこの協会に縁が出来ました。ダブル参加に関係者の皆さんも喜んでくれました。

 せっかくの福岡行きということで、高校3年時に同級だった福岡工大の理事職を務める大谷忠彦氏(現在は理事長)を呼び出し、卒業いらいという懐かしい出会いを果たしました。大学を出て中内功さんのダイエーに入り、プロ野球・福岡ダイエーホークスの仕事を経て、大学経営に携わっているとのこと。なかなかの風格を湛えていました。半世紀の空白を埋めるかのように話し込みました。

●市川元書記長逝去のショック

 年末恒例の市川番記者の会を12月9日昼に開催しようとのことで、前日に上京しました。ところが、元秘書だったKさんから8日夕刻に電話連絡が入り、市川さんが風邪気味のため体調悪く出られないので、代役を頼むというのです。驚きました。こんなことは初めてです。市川さんの代わりを務めるのは荷が重く、いまいち盛り上がらない空気のまま、この会は割り切れぬ思いで終わりました。

 それから5日後の14日、同じ市川秘書仲間から電話が入り、元書記長が亡くなったことを知らされました。実は8日に逝去されており、すでにご家族で密葬も済まされたというのです。茫然自失。ショックでした。前日7日深夜までいつものように読書をされていたものの、夜明けに奥様が異常な様子を感じられ、緊急入院。駆けつけた家族の皆さんに看取られながら夕刻に息を引き取られたとのことでした。番記者会の時刻には既に亡くなられていたのです。落ち込みました。どんな人にも終焉は来るという当たり前のことを思い知らされました。

 大学を出て公明新聞に入社した私が、編集主幹の市川さん(当時34歳)と初めてお会いしたのが昭和44年4月。私は23歳。以来、ありとあらゆることを教えていただき、薫陶も受けた大先輩との永遠の悲しい別れでした。(2021-8-2)

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