Monthly Archives: 9月 2021

【50】大学卒業から50年、「平成」終わるー平成31年(2019年)❹/9-12

●50年前の卒業時を思い起こすイベント

慶應義塾大学は、卒業してから50年が経つ者を、その年の新入生の入学式典に招待をするという伝統があります。孫の世代にもあたろうかという若者のフレッシュな息吹に触れさせようとの粋な計らいです。いつ頃から始まったのか存じませんが、とうとう順番が回ってきました。昭和40年に私たちが入学した時に、仮に50年前の先輩たちが参列してくれていたら、大正6年ぐらいの卒業のメンバーでしょうか。明治30年前後に生まれた人たちということになります。

そんなことを考えながら4月2日に、建築工事中だった「日吉記念館」のそばにある会場の校舎に向かいました。竣工にはあと一年かかるとのこと。50年前に別れた人に会いにきたのにお預けをくったようで、残念な思いは否めませんでした。この時の式典では、長谷山彰塾長(当時)の演説も聞きごたえがありましたが、我々「108年三田会」の代表・麻生泰君(麻生セメント会長)の挨拶が冴えていました。彼はいきなり、「新入社員の皆さーん」と切り出したのです。これには場内大爆笑。新入生を前にわざと間違ったフリでしょうが、いいノリで、一気に場内は和みました。更に、英語に加えもうひとつの外国語を学ぶ必要やら、いい友を持つことの大事さへと繋いでいきました。OB席からは「兄貴(太郎)より、弟の方がいいね」とか、「やっぱり似てるなあ」といった声が聞こえてきました。

50年を超えての「式典参加」の試みは、翌年(2020年)から新型コロナ禍の影響で、2年連続で自粛されてしまっています。日吉記念館も2020年3月に竣工したものの、大きなイベントには使えない事態が続いているようです。私たちの年次の開催は、ぎりぎりセーフだったのです。ラッキーなことというほかなく、胸撫で下ろしました。

●『熊森協会』と『奥山保全トラスト』への支援

毎年4月末のゴールデンウィークがスタートする頃、私が顧問を務める一般財団法人『日本熊森協会』の定例総会がありました。平成の最後の年になるこの年は、尼崎市内のホテルで4月27日に盛大に開かれました。この少し前に、国会では「森林環境税法」の審議が注目を浴び、私も側面から色々と応援をしました。その結果として、同協会の要望が付帯決議に盛り込まれ、関係者からは大層喜ばれたのです。総会での挨拶の中で、これまでの経緯を含め、私自身の思いを心込めて語りました。

実はこの辺りの戦いの経緯を世に知らせ、同協会及び姉妹団体である公益財団法人『奥山保全トラスト』への関心を持ってもらおうと、私は新聞への寄稿を考えました。まず毎日新聞に狙いを定め、動きました。その結果、同紙5月2日付9面に「放置人工林の天然林化を」との文章が掲載されたのです。これまでの取り組みを中心に、森林保全に向けての一般国民の強い関心の喚起が必要であることを精一杯強調しました。勇退後、あれこれと取り組んできましたが、結局は自然保護のためのこの活動と、安保政策研究会のリポート誌への執筆が一番自分に合っているもののように思えます。

●平成から令和へ、コロナ禍前の静けさ

平成は、この年の4月末日で終わりを告げ、5月から新たに「令和」の時代が始まりました。平成天皇は30日の「退位礼正殿の儀」で、国民への感謝の意を述べられ、皇太子へ皇位継承がなされました。昭和から平成への交代の際には、時の官房長官・小渕恵三氏が年号公表役を果たしましたが、今度は菅義偉氏(現首相)です。

4月1日に発表になってから、1ヶ月の間、年号「令和」の決定への経緯が取り沙汰されました。最終的に万葉集学者の中西進先生が名付け親と分かり、私たちは本当に誇らしい思いを持ちました。言うまでもなく、一般社団法人「瀬戸内海島めぐり協会」の代表で、陰に陽にお世話になった人です。「令和」に、「うるわしき和の精神を世界に広めていく」との意を込めたと、ある新聞のインタビューに応えて語っておられました。

中西先生とご縁をいただき、お付き合いさせていただいた、この7年。改めて感謝の思いでいっぱいです。天皇交代に伴う一連の行事が12月末で無事に全て終わりました。そして、新型コロナ禍に伴うパンデミックの発生という令和2年(2020年)が始まるのです。(完)

追記 これで平成24年(2012年)末に衆議院議員を引退した後の7年間の回顧録を終えます。ご愛読ありがとうございました。(2021-9-12)

 

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【49】姫路、明石市長選に取り組むも〝連敗〟ー平成31年(2019年)❸/9-7

●美波町での国際色豊かな活動に参加

瀬戸内海島めぐり協会の運営が難航しているのをよそに、〝地域おこし〟に関わる私の行為は気まぐれ的要素を持ちつつ前向きに続いていました。そのうち、徳島商と美波町を結ぶ仕事は「観光人材の育成」と「地域おこし」の双方を賄うケースとして注目されます。

春の訪れが本格的に感じられる3月25日のこと。前年12月初めに続き徳島入りして、美波町に行きました。この時は、神戸山手大の山下沙矢佳講師(現・武庫川女子大)の率いるゼミ生たち8人ほども合流して、同町の山あいにある地域を訪問したのです。このひとは兵庫県立大の教授だった故佐竹隆幸先生(前関学大経営戦略研究科長)の門下で、中小企業研究の専門家。観光にまつわるマーケティングなども手がける気鋭の学者です。この日は、ベトナムからの留学生4人も一緒でした。国際色豊かでユニークな課外講座を見る機会に。徳島商の生徒たちも合流して阿波踊りを即席で披露し、おまけに指南までしてくれました。参加者は大喜び。楽しいひとときへと大いに盛り上がりました。

●自治会報も活用、姫路市長選挙に入れ込む

この4月は統一地方選挙が行われたのですが、兵庫県では私の住む姫路市と娘家族が住む明石市とで市長選挙もありました。共に大きな話題を含む激突型選挙になったのです。姫路市は、私が衆議院総務委員長をしていたころ、同省消防庁防災課長で、後に同市副市長になった飯島義雄氏が、この選挙で現職市長の引退を受けて出馬しました。出馬に至る経緯は少々複雑なものがありました。市組織内部での評判も割れ、石見市長(当時)も厳しい見立てに終始。遡ること4年前の前回選では、「後継の人材育たず」との理由で、彼に禅譲するどころか、突き放した末に、ご本人が出る始末。そして、今回は、元県議の息子で、医師の資格を持つ清元秀康氏を後継に選び、保守陣営が二分される戦いになりました。

私は偶々彼が城西小学校の後輩であり、井戸知事の東大、自治省の後輩であるとの単純な世俗的理由に加え、尊敬する石川病院院長の石川誠先生(県の民間病院協会会長)が後援会長という浮世の義理もあって、応援する羽目になりました。公明党は自主投票と思いきや、かなり積極的に相手方支援に回るという面倒なことになってしまったのです。

●明石市長選挙では娘夫婦の反発にあう

地域では自治会長を既に退いていましたが、候補者が我が自治会地域内出身で、彼の母親が元城西小学校の教員だったこともあり、「義を見てせざるは勇無きなり」とばかりに、結構前のめりになりました。私が編集長も兼ねていた自治会ニュースに写真付きで同候補のインタビュー記事や市政に挑む方針を連載するなど、かなり入れ込んだのです。結果は、敢えなく惨敗。後味の悪いことになってしまいました。首長選挙は昔も今も下手に関わると危険と知りながらも、この体たらく。大いに反省しましたが、後の祭りでした。

一方、明石市長選挙は、全国にパワーハラスメントの当事者として浮名を流した泉房穂市長が一旦やめた上で、再登場する離れ業をやってのけました。ここでも、県議の座を蹴って出た対立候補の元市長を応援する側にまわってしまいました。この時は、娘夫婦の「子育て世代にとって、子どもを大事にする市長の方が大事」との反発にあい、敢えなく撃沈させられる始末。この年春の選挙は連続で散々な目にあってしまいました。(2021-9-7)

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【48】やはり淡路島DMO構想は幻にー平成31年(2019年)❷/9-3

●兵庫県知事との調整折り合わず

瀬戸内島めぐり協会はスタートから5年目に入っていましたが、新年になって台湾行きを実現させたものの、もはや挫折が歴然としてきました。専務理事としての私の能力不足が災いしたと言う他ありません。元々資金ゼロで、親会社であるジェノバラインに〝おんぶに抱っこ〟という台所事情でしたから、当然と言えば当然の帰結です。DMO法人になれば、公的資金も導入可能になる、との虫の良い考え方が支配的でしたから、尚更です。

観光人材を育成する仕組みを淡路島を拠点にして作り上げようとの構想が、この1〜2年に強まり、兵庫県との間で調整を進めてきたつもりでした。しかし、最終的に井戸知事の考え方と折り合いがつかず、私的には投げ出したい思いが強まっていきました。とはいうものの、現実的には地方創生交付金も頂く流れが進んでいたので、進むも地獄、引き返すもならずの膠着状態が続いていきました。結局は、新型コロナの直撃を観光業界も受け、私たちの試みも内外併せての不都合で沈没する始末になるのですが、その結末はもう少し先のことになります。

●胸打った大沼保昭さんの偲ぶ会

大沼保昭さん(東大名誉教授)が亡くなったとの連絡が舞い込んできたのは前年の10月18日のことでしたが、偲ぶ会が2月21日に東京神田の如水会館で行われることになり、私も参列しました。長年の学者としての風格もおありで、私より相当歳上に見えたのですが、実際には同い年。ということもあって、晩年は親しくさせていただきました。特に、娘さんの瑞穂さんが参議院選挙に挑戦することになってからは、失礼ながらいわゆる〝親バカ〟を地でいかれ、何かと私にもアドバイスを求めてこられたのです。市川さんと力合わせて、それなりに陰の応援をさせていただいたのも懐かしい思い出です。

偲ぶ会の段取りも生前に全て本人が企画されたとかで、凝りにこった内容でした。安藤忠雄、橋本五郎、渡辺浩氏ら弔辞を読むメンバーの選定から、中身に至るまで口を挟まれた(橋本氏の弁)というから驚きでした。清美夫人のご挨拶がまた感動を誘うものでした。「大沼は、『自分の人生思い残すことはない。これも自分を支えてくれたみんなのおかげ。幸せな人生だった』と心から感謝しておりました」「長きにわたり完璧主義でなんとも我儘な大沼とお付き合いいただいたこと心から御礼申し上げます」と。自分もこういう風でありたいと、心に誓ったものです。

●元米海兵隊員との論争が遂に決着へ

元米沖縄海兵隊の中心の一人だったロバート・エルドリッジ氏と、「異業種交流会」で偶然再会したのは驚きでした。いらい、この場で、棚上げになっていた〝日米防衛論争〟を繰り返してきたのです。二人の間の溝は煎じ詰めると、「日米地位協定の改定の是非」に帰着するのですが、それぞれの立場が絡み、ぶつかってきました。私の持論は、日本がホスト国として、ゲスト国の米国にいわゆる〝思いやり予算〟など便宜を図っているのだから、もっとマナーを守れというもの。一方、エルドリッジ氏は、沖縄のジャーナリズムは、イデオロギーに支配されすぎだとの考えに強く支配されているように見えました。

この二人、2月22日の同定例会で、またしても激論を交わしました。ところがこの時は少々趣きが違っていたのです。彼が、沖縄は米国のやることなすことに対して、全く、ノーばかり、これでは、「NOKINAWA」ではないか、といいました。これに対して、私は、米国だって、沖縄に対しては似たようなもの、これでは、「ダメリカ(ダメアメリカの略)」だとやり返したのです。この〝駄洒落の応酬〟は大いなる和みをもたらしました。

それから暫く経って、彼が、米軍兵士の乱暴によって傷ついた女性たちを救うために影で奔走していることを知りました。何のことはない。彼は個人としての善行を隠して、建前として自国擁護にこだわっていたのです。さすが大和撫子を妻に持つ〝洋風さむらい〟だと分かり、すっかり打ち解けた関係になりました。(2021-9-3)

 

 

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