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【7】「顧問」という名の〝お助けマン〟ー平成25年(2013年)❼

●淡路島と明石港を結ぶ船会社の顧問に

淡路島の北端・岩屋港と対岸の明石港を結ぶ航路を約20分ほどで走る船を持つジェノバライン。この会社のトップ・吉村靜穂社長は、破格の構想力を持つ胆の座った経営者として、淡路島界隈ではつとに知られています。その吉村氏は、かねて海外からのインバウンドを受け入れる一大拠点として淡路島を位置づけ、瀬戸内海を縦横無尽に動く船会社へと飛躍させたいとの壮大な夢をもっていました。その夢を現実のものにするための構想実現化の担い手を求めていたのです。

先に大学の教員などの道を模索するもうまくいかず、いささか不本意な日々を送っていた私の前に、ジェノバの副社長であった豊田一義氏から連絡があったのは2013年の初夏の頃でした。豊田氏を通じての吉村社長からのお話は、私にとって文字通り〝渡(わたり)に船〟のラッキーなことでした。地域に根ざす船会社の顧問として、精一杯の力を発揮して、社会貢献しようと決意を固めたのです。

以後、つい先ごろまで、紆余曲折をあれこれと繰り返しながら、苦労を重ねるのですが、その辺りの細かなお話はこれからおいおい語ることになると思います。まずはともかく、引退後の主たる仕事が見つかったのです。就任後間もなくして、国交省からの支援を受けるテーマが浮上、懸命の交渉努力の末に、見事に功を奏することが出来ました。早速に吉村氏に恩返しが出来たことになり、まさに幸運以上のものを感じたしだいです。

●従来からの顧問業も着実にこなす

私が現役時代から就いてきた顧問職は、主に三つ。今も続いています。一つは、「AKR共栄会」です。これは、大型スーパーのために地域の市場が次々と姿を消してしまう現状を何とかせねばとの目的のもと、弱小の市場が共同でものを仕入れ、共同でそれを配送し、共同で保険をかける仕組みを持つ、一般社団法人です。この団体の知恵袋たる河田正興専務理事とは30年来の友人ですが、二人してまさに中小企業の守り神としての役割を果たそうと頑張ってきました。

彼は本業がビジネスファーム研究所所長で、実に様々な人々の起業のお手伝いをしてきています。私も必要に応じて駆り出され、取り組んできました。忘れ難いのは「全国防災・減災設備点検協議会」なる一般社団法人を立ち上げ、某大手運送会社と組んで防災の仕組みを作ろうとしたものです。消防庁に掛け合い、それなりに尽力しましたが力及ばず、今では沙汰闇になっているのは残念です。

実は盟友・河田氏はまことに無念なことに昨年晩秋、新型コロナウイルスのために尊い生命を落してしまいました。志半ばで逝った彼に報いるためにも、後継の若い専務理事を支えて、中小零細企業のために頑張りたいと思っています。

●熊森協会との20年こそ誇り

二つ目は、一般財団法人・日本熊森協会です。この団体は人と熊の共存こそ、森を守ることに通じるとの主張を展開している日本最大の自然環境保護団体です。熊が人里に出てきて人間との間でトラブルが起こるのは、一言で言えば、食べるものがないからです。原因は杉やヒノキといった針葉樹林ばかりが育ち、ブナやナラなどの広葉樹林が極端に少ない、昨今の森林事情に最大の問題があるのです。

私はこの団体の顧問になって、もう20年以上経ちます。最初は、「人間と熊とどっちが大事なんや、人間に決まっとるやろ」と、陰口を頂きました。しかし、私は「人間至上主義」は東洋の思想、仏教と相容れないと思います。大型動物との共存こそ、実は人間社会を破滅から救い、持続可能な地球社会を可能にするものだと確信しています。その理想を具体的に実現するこの団体に長く関わっていることこそ、私の誇りなんです。

三つ目は、一般社団法人・日本カイロプラクターズ協会です。現代人は腰痛、膝痛、肩痛を始め様々な肉体疾患と闘いながら生きています。かくいう私も社会人になると同時にぎっくり腰を患い、40年近く悩みました。ところが、ひょんなことからこの協会の存在を知ったのが幸しました。日本では鍼灸師、按摩・マッサージ師、柔道整復師、整体師などといった伝統的な東洋医学が幅を利かせています。西洋由来のカイロプラクターズは、殆ど市民権を得ていません。なんとかして欲しいとの要望を受けたのです。

そこで、わたしは自らの腰痛に効き目があるかどうか試すために、同協会の指導者・村上佳弘氏の施術を数回に渡り受けました。すると、まさに地獄の苦しみがパッと消えたかの如く、長年の腰痛が解消しました。直ちに顧問を引き受けたことはいうまでもありません。以来、今日まで、15年あまりこの協会の普及に関わっています。

 これら以外に、議員辞職後は、顧問という肩書きはなくとも、日常の人間関係の中で、頼まれるといやと言わずに次々と様々な団体、企業と関わっていくことになります。まるで「お助けマン」というわけですが、大衆の中に生きる政治家の〝嬉しくなるほど悲しい性(さが)〟とでもいうべきものかもしれません。(2021-2-25)

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【6】友達の友達は‥、異業種交流ワインを呑む会を共催ー平成25年(2013年)❻

●友達の有り難い、得難い申し出

議員退職後、さぞ赤松は無聊をかこってるに違いないと、心配してくれた〝世話焼き〟の友人がいます。明石高から早稲田大を経て、銀行マンを振り出しに神戸の経済界を〝浮遊〟し、人脈の豊富さは自他ともに認める川崎浩司氏です。見た目も中身も飛び切りのナイスガイ。もう随分前に井戸敏三県知事を介在して知り合い、馬が合うのか、かれこれ30年近い交友関係にあります。その彼が、自分の使ってる事務所を提供するので、月に一回をベースに「異業種交流ワインを飲む会」って、お互いの友人を集めて盛り上がる会をやりましょう、と声をかけてくれました。平成25年の春先のことです。

この会はスタートから既に8年を越えて開催、もうすぐ100回になろうとしています。場所も加納町から北野坂に移り、サロン風の素敵な事務所です。会費はほんの気持ちだけ。食べるものはそれぞれが持ち寄ってシェアするのです。私は、新たに名刺交換をした人を出来るだけ翌月の会にお誘いしよう、そして毎回新人を呼び、可能な限りこちらからは二度目は避けようと、自前のルールを作りました。この〝相棒〟が作ったサイトの案内を見て、来たい人は来るという仕組みにしました。そうすることで、世話がかからず、同じメンツが重なることを防いだのです。

月に3-4人ですと、年に30人から多い時は50人にもなりました。流石に最近は減り、年に新たな参入者は10人ぐらい。もちろん2人の共催ですから、お互いの交流が入り乱れ、友達の友達は皆友達との感じで、この期間に300人ぐらいの友人が増えました。大きな財産となっています。2人の共通の友人である井戸知事を巻き込んでいますから、よりグレイドアップに貢献してくれたともいえます。具体的な名前にはふれませんが、なかなかの兵庫・神戸のミニ社交場となっていると自負しています。

●「豆腐の会」や「高石会」で学んだことを生かす

実は、この会に類するものに私は二つ所属しています。一つは、神戸の老舗の牛肉屋「赤のれん」を会場にした、通称「豆腐の会」。もう一つは、姫路の歯科医で能の舞手でもある高石佳知さんの呼びかけによる「高石会」。この二つには現役時代から出席して、多くの仲間たちと交流を重ねました。

前者は、会場の経営者の畑中三生氏が私の大学同期(但し卒業は私が一年先)。このひとはまた無類の世話好き。神戸元町商店街や三宮センター街に顔が聞き、市役所にも通じることから、〝神戸の政商〟とも人は呼ぶくらい。往時は春夏秋冬、年に4回ほど彼の友人を中心に50人ほどが集まり、ワイワイがやがやと鍋をつつき、口角なんとうやらを飛ばしていました。今では考えられない風景です。

後者は、姫路商工会議所内の一室などを借りて、姫路の高石ファンが集う楽しい会でした(現在は休会中)。年に3回から4回ほどやっていました。このひとは単に歯科医というだけではなく、幅広い人脈を持っています。特筆されるのは、大阪市大の医学部の教授たちを巻き込んでの「骨粗鬆症ネットワーク」の主宰も務められています。私は両方の場に顔を出して、交遊を深めたものです。

この二つの会で学んだことをベースにして、冒頭に紹介した「異業種交流会」に発展させていったのです。

●園芸植物界の巨人との交遊

こうした集いだけでなく、私には様々な友人との交流があり、まことに賑やかなことが好きな性分です。議員を辞めて一気にその動きに弾みがつきました。交遊関係の一例をあげますと、最も巨大な存在でありながらも一般的には知られていない人が荻巣樹徳さんです。植物の種を求めてフィールドワークを世界に展開して、ご自分の名を冠した草花を数多持っています。「伝統園芸植物学者」とでも呼ぶのでしょう。先年、名高い「四川植物界名人」9人に、日本人として唯一人選ばれました。

こんな〝巨人〟と私がどうして知り合ったのでしょう。実は彼は宍粟市山崎町に関西電力傘下の企業メセナによって、ご自身が集めた園芸植物を保存する場を所有していました。その地は私の選挙区内でもあり、親しい白谷敏明町長(当時)のご紹介で懇意になりました。幾たびかの交遊を重ねるうちにこの人の大いなる〝値打ち〟を知るに至ったのです。

ところが、事情あってその地を離れざるを得なくなり、つぎの拠点を求めることになりました。それに私がひと役買おうと立ち上がっているのです。荻巣さんが山崎町を後にするというので、福元晶三市長や井戸知事、更に地元の支援者らに声をかけて、一夜送別の宴を催しました。平成25年の桜が咲き乱れる頃のことで、もう8年あまり経ちますが、昨日のことのように思い出されます。

残念ながら、結論は未だ出ず。兵庫県内を中心に触手を伸ばすも、帯に短し襷に長しというのが現状。苦労しています。荻巣さんがご進講を通じて親しくなられた皇嗣の秋篠宮殿下が、どうしてもないならうちの庭にと申し出られていると聞きますが、流石にそれには甘えられないでいます。(2021-2-19)

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【5】「安保法制前夜」でTBSニュース23に登場ー平成25年(2013年)❺

●「安保法制」大議論の先駆け

私が国会で仕事をした20年間のうち、多くの時間を割いてきたのが、「日本の安全保障」をどう安定的なものにするかというテーマでした。公明党でこの分野の先達は、市川雄一元書記長です。機関紙局長(公明新聞編集主幹)当時には記者として、数々の薫陶を受けました。その後には同議員の秘書を経て、代議士に当選してからも同様です。野党時代の公明党は市川さんを先頭に、日米安保条約体制のもとに日米同盟を堅持しつつ、憲法9条の国際平和主義を貫いてきました。21世紀に入って自公連立政権が常態となり、民主党に政権を明け渡すまでは、私が中軸になって「行動する平和主義」の側面を強めていきました。

「行動する」という言葉が冠せられているのは、座して平和を待つ「一国平和主義」の姿勢ではなく、積極的に平和を構築する担い手であるとの意味を持ちます。共産党は勿論、民主党当時の旧社会党勢力や、今の立憲民主党の中には公明党のこうした姿勢を誤解して、自民党の亜流と見る向きがあります。しかし、それは間違いです。私たちはどこまでも憲法9条を硬直化した姿勢で「縮小解釈」するのではなく、また自民党内改憲派のように「拡大解釈」するのでもありません。あくまで「適正解釈」に徹してきました。この方向性は私が辞めた後も、佐藤茂樹衆議院議員らを中心とする仲間達に受け継がれていったのです。

そんな時に、安倍首相は、新安全保障法制を作る方針を固めました。民主党を完膚なきまで打ち破り、与党勢力が圧倒的な議席を持った今こそ、永年の懸案である「集団的自衛権」の行使容認に踏み込むタイミングと決断したのです。ここから2015年5月に具体的な「安保法制」が閣議決定を経て国会提出されるまで、波乱含みの〝防衛論議の季節〟がやってきます。主舞台から離れた私ですが、まるで舞台袖で演技者たちの動きに気を揉む関係者のように、以前にも勝るとも劣らない動きをすることに。まずその先駆けは、TBSテレビからの取材依頼でした。

●TBSテレビ「ニュース23」の取材を自宅で受ける

担当記者が私の自宅まで来て取材するというので驚きました。こちらから出向くよと言ったのですが、いや行きます、と。9月4日に姫路までTVカメラを担いだ記者と二人でやってきて、狭い我が家の2階の書斎で撮影することになりました。小一時間ほどあれこれ喋ったのですが、後で放映されたのは3分にも満たずほんのちょっとだけ。雨が降っていたので、玄関先で記者に傘をさしかける場面まで収録されて、アットホームな感じが醸し出されてはいました。番組のトーンは、政府が、憲法が禁じる「集団的自衛権」を可能にしようとしゃにむに「安保法制」を準備している、これにブレーキを公明党や自民党はかけられるのかという内容でした。自民党は〝ハト派〟で宏池会のベテラン政治家・古賀誠氏でした。

この番組には重要な伏線が張られていました。あの「イラク戦争」で、無かった「大量破壊兵器」をあるとした米国、それに追従した日本政府。その誤認の主張に結果的に加担してしまった公明党の中で、積極的に論陣を張った私の深い反省です。番組の前半では、その後味の悪さが機縁となって、党の安保政策の総括文書に率直な事実を書き込んだ経緯を述べる私の姿が描かれていたのです。

●様々な反響呼んだ放映

後半部分では、私は「集団的自衛権の容認は憲法改正を必要とします」「もっともっと自民党にもの申さねばなりません。でなければ、なんのための自公政権かと言われかねない」と発言。精一杯の歯止め役ぶりを披露したものです。番組が放映されたのは、収録から二週間後の18日。偶々私は石川県へ家族旅行中。旅館の一室でテレビを見ることになったのですが、放映時間の短さに物足りぬ思いを持ちました。しかし、反響は大きく、友人、仲間から電話やメールをいただきました。

今なお覚えているのは、元フジテレビの報道局長から公明党参議院議員に転身した大学後輩の澤雄二君が、「赤松さんってこんなに〝左の立場〟だったっけ?」と電話をしてきたこと。前述の「総括文書」取りまとめの作業の仲間として、彼とはよく議論したものです。その際に、周りが右の論調だと、私は左バネを利かす発言をし、逆の場合はそのまた逆の発言をするという風に、天邪鬼的対応をほしいままにしていました。

これは、ひとえに党内議論を活発にし、真ん中の議論を生み出す狙いを持たせたつもりでした。ただし、それを周りはわかってくれていたかどうかは疑問です。澤君は一貫して「左」を貫く発言をしていましたから、時に私とぶつかったとの記憶が強く残っていたものと思われます。(2021-2-17  一部修正)

 

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【4】日本の歴史と伝統を学ぶ古都めぐりへー平成25年(2013年)❹

●「海外旅行はご法度」になった妻の惨めな体験

議員定年退職後の仕事探しを気にする一方、私が模索したのは妻との小旅行です。結婚式・披露宴の日(昭和47年9月15日)が旧国鉄史上未曾有のストライキとぶつかった上、台風襲来と重なったことは既に書きました。このため、新婚旅行がボツになり、その責めを取り返すべく、30歳代は結構旅行をしたものですが、政治家の道を選んだ40歳代から30年間ほどは、あまり行く機会がなくなりました。私は議員視察で、国内外を問わず、あちこちと飛び回ったのですが。この間、妻は文字通り〝家内〟で、私の留守を預かる地域周りで忙しくしてくれていたのです。その慰労をせねば、と思うことしきりでした。

以前に、娘と二人で海外へ行ってきたら、と一度だけ私がハワイ旅行を手配したことがあります。それなりに喜んで二人は出かけたのですが、そこで、到着後すぐにとんでもないことに遭遇したのです。ホノルル空港に到着した際に、まつわりついてきた〝記念写真業者〟に、手乗り文鳥かなんかをのせて写さないかと、せがまれたのです。そこまでは良かったのですが、写した後で、法外な値段を要求されたといいます。英語がよくわからないこともあって、黙って払ってしまったのです。このショックで以後ずっとホテルにいたまま、買い物も外には出る気にならなかった、と。

「語るも涙、聞くは笑い」の惨めで可哀想な話を帰国後聞かされました。もう金輪際、海外旅行は行かない、と妻は言ってきかず、それ以来、今に至るまで一切行きません。友人の間では海岸旅行を奥さんからせがまれる連中も少なくないと聞きますから、それに比べて安上がりなんでしょうが寂しいものです。心の傷双方に癒し難く、せめて国内温泉旅行をと思うものの、せいぜい上京の行き帰りにちょっと横道にそれる程度でした。

●妻との旅を年に4回も繰り出す

そこで、引退後は、と勢い込んだのです。第一弾は、3月18日、19日。伊勢神宮に参拝した後、賢島へ。新聞広告に出ていたニュー浜島ホテルに一泊。海の見える庶民的でリーズナブルなところでした。翌日は、伊賀上野に。メナード青山リゾートホテルに泊まりました。ここは一転、山の中。中々高級感漂っていました。第二弾は、4月17日に広島・宮島へ。親しいお付き合いをしている歯科医の高石佳知さんが宮島神社の能舞台に出られる(この人は姫路城薪能の主催者)というので、それを観賞するのが主目的。天皇も泊まられたという旅館「岩惣」に一泊しました。翌18日は、宮島ロープウエーで山上へ。周辺散策をした後に、市内に足を運び、原爆ドームを見学しました。ついでに、学生時代お世話になった先輩ご夫妻と駅前で合流、旧交を温めたのです。

更に第三弾は、7月29、30日に島根・出雲神社へ。夜は、玉造温泉・長楽園に宿泊。翌日は松江城を中心に市内観光。このお城の持つ独特の風格は大いに気に入りました。特にお堀が見事で、舟遊びが楽しく、姫路城のお堀は負けているというのが偽らざる実感でした。続いて第四弾は、9月18、19の両日に石川県へ。日本一との評判が高い温泉旅館「加賀屋」に一泊したあと、金沢市内に移動、兼六園や東茶屋街を散策しました。かつて読んだ丸谷才一、山崎正和ご両人による対談『日本の町』には、京都は文化を売り物にしているが、金沢は文化そのもののなかで暮らしているといった風な意味の指摘があり、印象に残っています。尊敬する二人の碩学の言葉を味わう一日となりました。

●旧友との古都・神社仏閣めぐり

妻との旅は結局のところ神社めぐりになってしまいました。実は大学時代の親友・尾上晴久君との奈良、京都、和歌山の古都・神社仏閣詣でも、この頃に本格化したのです。彼は横浜に住まいはあるものの、三重県鳥羽市にある小久保鉄工所に単身赴任。そこで、月4回ほどの週末の休みを使って、せっせと車で古都めぐりを展開。40歳台から約30年もの間に、合計数百回もの訪問を重ねてきたというつわものです。名所旧跡に繰り返し足を運んでいて、並の観光ガイド以上に大概のところは知り尽くしているのです。

かねて、私に対して、「古都の神社仏閣を知らずして日本の歴史、伝統、文化を語る資格はない、とりわけ政治家はその道に通じていないと恥ずかしいぞ」と耳の痛いことを言い続けてきてくれたのです。共に68歳になった年に、ようやく彼の案内で少しづつ私もそうしたところを回ることにしました。初年度の平成25年は、2月2日、3日に橿原神宮を皮切りに、明日香周辺を散策しました。これには社員教育指導者で作家の畏友・寺松輝彦君も東京から参加。古代史に造詣深い二人の会話は、私の耳目をそばだてるだけの関心深いものがありました。橿原ロイヤルホテルに一泊した翌日は、畝傍山から香具山、甘樫丘、飛鳥寺などを経て、今井町へ。古き佳き奈良を十二分に堪能したしだいです。

●いく先々でゆかりの後輩をも巻き込みながら

また、6月30日には大学同級で元大阪毎日の辣腕記者・成相幸良君(八尾市在住)と合流。3人で法隆寺から矢田寺、松尾寺と回りました。あじさいが今を盛りと咲き誇っていたのが印象に残っています。この小旅行には途中から、地元紙記者のY嬢も飛び入り参加、花を添えてくれました。彼女は神戸の流通科学大の学生だった時に、知己を得たのですが、私の後半生で出会った最も粋のいい女子大生の一人です。

更に10月5、6日には、尾上、成相の3人で和歌山県へ。初日は海南市の藤代神社から熊野古道を歩き、有田川温泉に泊まりました。翌日の日曜日は、紀三井寺から名草山へ。これには私の高校の後輩で厚労省から和歌山県庁に出向してきていたM嬢を誘い出しました。この人は同省で知り合った後輩の中で一二を争う仕事熱心で爽やかな女性です。この尾上との古都めぐりは、現役時代も含めると、大小取り混ぜて30回を悠に超えています。最初の頃は宗旨が違うとか、仏像とは美的感覚が合わないなどと、つべこべ言っていました。ですが、今では彼の親切極まりない手ほどきを受けて、本当に良かったと心底から思っています。

また、11月5日、6日には大学時代の一期上の元郵政相・日笠 勝之さんから誘われて、岡山・倉敷の旅に出かけました。奥さんも一緒にどうぞと、有難い声をかけていただいたのですが、妻は残念なことにお断りしてしまいました。行き過ぎた旅に遠慮したようです。尤も、この旅の前日4日には、娘が2度目のお産で男の子を授かったのです。もし、旅に行って家を留守にしていたら、娘から相当に恨まれたはず。爺さんはひとり、初の男の孫の誕生に、岡山ゆかりの「桃太郎の唄」を口ずさみながらの旅に出かけるしだいとなりました。この旅では公明新聞の後輩で岡山に嫁いだK女史を呼び出しました。彼女はかつての職場の紛れもなきアイドル。見目麗しく情けもあり過ぎるほど素敵な女性でした。

このように引退初年度は、籠から解き放たれた伝書鳩のように、次から次へと旅に出かけ、ついでに旧交も温めまくったのです。(2021-2-9)

 

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【3】幻と消えたエッセイストデビューー平成25年(2013年)❸

●自信持って「神戸新聞」にエッセイ投稿

読者による小説とエッセイの投稿ー地元紙・神戸新聞に定期的に掲載されていることは知っていました。引退してしばらく経った頃、それに応募することを私は思い立ったのです。テーマは「本を読む」という行為について。若き日に、書店の書棚に並ぶ膨大な本を前に、友人が「本って、こんなに沢山有る。どないあがいても一生に読める本は限られとう。そやから僕は読まへん」と言ったのです。その時、私は「いや、そやからこそ、僕はせっせと読むんや」と呟きました。そんなことから口火を切って、読書遍歴をなぞったあと、決定的な転機となったエピソードを折り込む‥‥。私の妻に本を読む習慣が殆どないことを、人前で披露したことに対して、怒りを込めて彼女から「この人は確かに本を沢山読むけど、なあんにも身についてないんです」と逆襲されたショック。

他方、所帯を持った娘夫婦に蔵書をやがて譲るとの話をしたら、「私たちは家に本を置く習慣って、ない。本は基本的には図書館から借りて読むので、いりません」と言われた時の驚き。喜んで頂きますと言うに違いないとの思い込みが崩れたショック。そして、今は本に興味を持っている孫娘がやがて成長した頃には‥‥。紙の本に代わって、電子書籍が横行する時代になるのかも。これまたショックに違いない。こうした三つのショックを立軸に、ショーペンハウエルの『読書について』の「ただ次々と本を読むだけでは、運動場をぐるぐる回ってるようなもの」といった警句を横軸にして、その構想を組み立て、書き進めました。タイトルは『本好きが行き着いた果てに』。本と人との関わりを、私の実人生のエピソードに絡めてユーモアを込めて描く構想です。

これは圧倒的に面白くてためになる、きっと受けるに違いないとの確信を持った私は意匠を様々に凝らし抜いて書き上げました。そして自信満々で投稿。発表を心待ちにしたのです。が、結果はボツ。佳作として名前は上がっていましたが、紙面への採用はなし。敢えなく私の夢は消え去りました。この寄稿が紙面を飾れば、これから「エッセイスト」との名刺を作るぞ、と思っていたのですが‥‥。この時のショックは今もなお引きづっているのですから、哀れなものというしかありません。

●大学教師の口はていよく門前払い

大学客員教授あるいは講師といった肩書きも魅力的でした。学問を教える、学生に講義するということよりもその肩書きを持って、あれこれ文筆活動や講演活動をするということは、かねて私が志向するところではありました。さて、じっとしていてもどこからも声はかかりません。色々思案し、考えを巡らせた挙句、高校の後輩が理事長を務める某大学にアタックすることにしました。直接、理事長にアポを取り、面会に挑みました。

私の一存では決められないので、時間をくださいとの反応の末、数日後の答えはノー。大学の教員なんて、割りの合わないしごとですよ、長時間拘束されて、報酬は僅か、何を好き好んで、そんな仕事したいですか?、とにべもない。「いや、そうではなくて、肩書きが欲しいだけ、報酬には期待していない」とは流石にはっきりとは言えず、すごすごと引き揚げました。結局、武士と同様に、代議士は食わねど何とやらで、みっともない〝猟官活動〟は止めることにしたのです。

●国会議員の仕事ぶりをチェックする機関を

この頃、私が真剣に考えていたのは、国会議員の仕事ぶりをチェックする機関を作れないかということでした。議員の「資産公開」は大事な情報公開ではありますが、それだけでは十分ではありません。選挙前には掲げる政策が提示されますが、それへの遂行状況は明らかにならないまま。いわば言いっぱなしの聞きっぱなしです。それを正すには、各委員会での議員の質疑のありようをきちっと査定する機関などができればいいと思ったのです。

これができれば、議員は緊張すること請け合いです。与党の馴れ合い質問や、野党の腰砕け質問は、どこからもチェックされないから、ダラダラと横行する。これを暴くことができれば状況は大きく変わるはず。ただし、どういう基準で査定するか。勿論、議員や政党側からは反発があることは当然です。そうこう思い続けて未だに答えが出せずにいます。昨今の政治家のまたぞろの不祥事の連発を見るにつけ、こういう機関が陽の目を見ていれば、随分違っただろうなあと思うしだいですが‥‥。

また、地域の青年たちと共に郷土の歴史を学ぶ場を作れないかとも思いました。相互の打ち合いを通じて、明日を担う青年を育てることの大事さを痛感していたからです。これは党派を超えて県議会議員らと一緒になってやろう、と呼びかける準備をしましたが、これもまた挫折してしまいました。そんなこんなで定年後の仕事は何もかもうまくいかず、路頭に迷ってしまいました。(2021-2-5)

 

 

 

 

 

 

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【2】元中核派幹部や円教寺住職との出会いー平成25年(2013年)❷

●「地下に潜伏」していた旧友との50年ぶりの再会

1960年代半ばに大学生活を送った私の世代は、学生運動との縁がそれなりにあります。私の高校時代の友人では、京大や早稲田大に進んだ連中に若干ながら活動家らしき仲間がいました。なかでも水谷保孝君は早稲田大中核派の一方の旗頭として名を馳せた存在です。勿論、そのことを知ったのはずっと後になってからですが、彼の活動が世間を騒がせたのは、あの米原子力空母エンタプライズの佐世保港入港阻止運動で逮捕されたことでした。しかし、新聞報道で驚きを持って知っただけ。長きにわたって気にはしていましたが、遠い存在として記憶のかなたに浮遊していました。

そんな彼が60歳の還暦を迎え、その道から〝足を洗った〟らしいとの噂が私が議員を辞める少し前に入ってきたのです。社会主義革命に殉じる人生を若き日からほぼ一貫して過ごしてきたかつての友と会うのは面白かろうと思いました。人づてに聞いた連絡先に電話を入れて、行きつけの溜池の居酒屋で会うことにしたのは1月半ばのことでした。その経歴からは全く類推出来ない普通の風貌には拍子抜けするばかり。娑婆世界に戻って8年ほどの歳月が過去の残骸を洗い流したのだろうと勝手に思うことにしました。40年近い「地下生活」のあと、友人の世話で編集者の仕事をしているとのことでしたが、落ち着いた優しい佇まいは昔のままでした。それは代議士生活20年を感じさせない普通のおっさんの私とて同じこと。客観的に面白いはずの二人の出会いは、平凡な語らいに終始したのです。彼の内心はいざ知らず、私はそれなりに熱く燃えていましたが、自制を利かした次第です。

ただ、それからしばらくして、彼が岸宏一氏と共に出版した『核共同政治局の敗北 1975-2014』は、流石にその道の活動家らしい〝筋金入り〟を感じさせる中身でした。尤も、読み物としては全く面白くなく、およそ〝革命の遺物〟そのもの。私は早速にその感想を読書録ブログに公表しています。題して「ある左翼革命家の敗北と新たなる旅立ち」。これは2015年6月17日に書いたものですが、彼への挑発の趣きもある中身でした。

【(この本では)沈黙を破って普通の人間としての生の声を書いているものと期待した。なぜ自分たちが左翼革命運動に挺身し、夢破れたかを赤裸々に明らかにしている、と。だが、ここには彼らの主たる敵である革マルへの徹底した糾弾の声のみが際立つ。革マルは「世界史的にも類例のない『現代のナチス』と呼ぶべき存在」だと口を極めて罵ることの連続なのだ。鎮魂の書ではなく、新たなる告発の書なのである。】

このほかあれこれと私は書き連ねているのですが、紙数の都合で残念ながら割愛します。ともかく、正直に彼の書いたものを遠慮会釈なく断罪しているのです。これに対して、彼は「書いてくれてありがとう」というだけで、それ以上の言及はなし。反発ぐらいしてほしかったのですが。残念なことでした。

●書写山円教寺・大樹住職さんとの出会い

姫路の観光地といえば、国宝・世界遺産の白鷺城と並んで書写山円教寺が「西の延暦寺」ともいわれるように有名です。映画『ラストサムライ』のロケ地になった経緯において、監督のエドワード・ズウイック氏が「ここには千年前の空気がそのまま残っている」とのコメントで絶賛したことが伝えられています。それだけ空気が清浄であり、静かで厳かな雰囲気が漂っていて、観光地ずれがなく「現代」に汚されていないということでしょう。現役時代は殆ど行く機会がなかったのですが、引退してからは、遠来の友を案内する機会も増え、しばしば足を運ぶことになりました。そこで、もう一つの珍しい出会いをすることになります。

その出会いのきっかけは、姫路慶應倶楽部の仲間である村瀬利浩さん(姫路経営者協会前専務理事)が、円教寺の大樹孝啓住職(第140代長吏)の娘婿だと分かったことでした。同住職とは姫路市内での重要な会合の際に袈裟衣姿を時折りお見かけしたこともあり、一度きちっとご挨拶をするべくお山に登ろうと決めていました。地元の著名な存在に会わねば、との単純な思いからです。秘書役ともいうべき村瀬さんにお願いしたところ、快諾していただき、ご対面は春3月の25日に実現しました。

大樹住職は、その名の通り大きい樹木のような人でした。しかもただ大きいだけでなく、天台宗全体のNo.2という大変な地位を感じさせない、爽やかで柔和な方でした。微笑みながらの「私に会いたいと言ってここに来た創価学会、公明党の人はあなたが初めてですねぇ」との発言から始まって、世事万般にわたっての会話をさせていただきました。今に印象深く残っているものから二つに絞ってみます。一つは我が宗派は鷹揚(おおよう)というか、いい加減なところがあってねぇ、朝お題目で夜はお念仏を唱えるんですよ、とのお言葉。心底驚くと同時にこの人から聞くと妙に納得するところがあったしだい。もう一つは、私はお風呂に入るたびに、身体中の関節を揉みほぐすのですよ、との健康法。なるほど、と感心しました。相手するものを包み込む、温かな人物の大きさを味わったのです。96歳の現在もお元気で活躍されていることは嬉しい限りです。

●次に何をするかー夢は荒野をかけめぐる

国会議員を辞めて、さて何をするかーこれには悩みました。68歳は立派な老人ですが、使いよう、動きようによってはまだまだ働けます。諸先輩、仲間も色々苦労されていますが、再就職にあたって難しいのは、やはり「元衆議院議員」という肩書きです。これが陰に陽に邪魔をしてうまくいかないのです。私の親しい創価学会の大幹部は、議員を辞めたら、ひたすらお世話になった方々のために、広宣流布のために、ご恩返しを考えて動くんだよ、とアドバイスしてくれました。それには全く異論はないのですが、その流れに専ら入るのはもう少し先でもいいと思ってしまいます。当面はやはり社会的価値のあることに従事したいし、それなりの報酬も得ないと、先行きが不安だとの思いもちらつきます。

若い人たちのために青年塾を開設してみようか、いや、大学の教員の肩書きを得て物書きをしようかなどと、文字通り「夢は荒野を駆け巡る」のですが、生来の無趣味、不器用さが災いして的が定まりません。そんな時に「小説、エッセイ募集」の記事を新聞で見るのです。心が動きました。(2021-1-31)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【2】元中核派幹部や円教寺住職との出会いー平成25年(2013年)❷ はコメントを受け付けていません

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【1】お世話になった人々、忘れ得ぬ恩人たちー平成25年(2013年)❶

●再び与野党逆転。自公が政権に復帰

2012年の年の暮れも押し迫った12月26日。第46回衆議院総選挙は投票日を迎えました。結果は、自民党が119議席から294議席へと地滑り的大勝利。一方民主党は230議席から57議席と壊滅的敗退。再度政権交代が起こり、民主党は僅か3年で下野することになりました。この間、野党になっていた公明党も与党の座に返り咲きます。21議席から10議席増の31議席になりました。この選挙では、日本維新の会が11議席から54議席になったことも特筆されます。そして、安倍晋三元首相が復活、第二次政権を担うことになりました。

この一連の動向を一市民、一前議員として見ることになった私は、先の大戦直後の衆議院選挙でひとたびは政権につきながらも、直ぐに政権を去った日本社会党を思い出していました。民主党も「一度やらせてみては」との声を背景に、政権を奪取したのですが、その政権運営の稚拙さから下野せざるを得なかったのです。これで、民主党は再び政権の座につくことは難しかろうと思いました。尤も、戦後まもない当時と今とでは選挙制度が違うので、必ずしもこの見立ては正しいかどうかは分かりません。ただ、多くの国民が抱いた失望はそう簡単に取り戻せないと思ったのです。かくいう私は、二大政党制の実現を待望し、「早くおいたて民主党」と敵にエールを送ってきただけに、少々残念な思いを持ったことは正直否めなませんでした。

新年からは、旧兵庫4区つまり姫路市を中心とした播州地域を始め、兵庫県全域へのご挨拶まわりを始めました。各地の公明党の市議、町議の皆さんの車に乗せてもらい先導していただきながら、一軒一軒回ったのです。といっても、ほぼ25年前の初挑戦の時のようなわけにはいかず、かなり間引きした形でのお礼回りになったことは残念なことでした。

●お世話になったあの人、この人に挨拶回り

平成の初めに選挙活動に入り、初当選まで足掛け5年。当選から引退までの20年、合計25年の間にお世話になった人々は膨大な数になります。引退したことをお伝えし、直接お礼を述べるべく、まずは姫路市を中心にした旧中選挙区を回りました。その行為の中で、過去の様々な出来事が思い浮かんできました。姫路市での忘れ得ぬ出来事は、婦人支持者の代表的な存在だった長瀬昭子、西本時代さんのお二人が活動の最中に車中で信号待ちされているとき、後ろからきた車に激突されたことです。幸い最悪の事態には至らずに済みましたが、この時は肝を潰しました。と同時に姫路市、兵庫県の選挙での「宿命転換」をしたのでは、と大袈裟ながら思ったのです。

と言いますのも、これまで選挙戦の最中に、候補者が交通事故で亡くなったり、事故死されたケースが散見されたからです。特に姫路市から県議に出ていた今井さんが選挙期間中に自転車で走行中に車に跳ねられて亡くなり、急遽ご夫人が出馬されたことは聞かされていました。事故にあわれたお二人は、候補者たる私の身代わりになられたと思わざるをえなかったのです。それが無事だったことは、本当に「守られた」とホッとする思いでいっぱいになりました。

姫路の県議選というと、いつも大激戦でしたが、故北川東作さんが僅か7票差で当選したことは今もなお語り草です。この人は誠実そのものの人で、車を運転されず、どんなに遠くでも自転車で移動されたようです。私の初の選挙では事務長をしていただきました。公明党の地方議員のお手本のような真面目そのものの方でした。また、元県議では難波功さんも挙げねばなりません。この人は元山陽電鉄労組幹部で、私の叔父・保男の後輩でもありました。労組で鍛え抜かれた論客でしたが、心底からの優しさを持った人です。多くの人々が選挙中に「声は高いが、腰は低い難波いさお」と称えていたのも、むべなるかなと思ったしだいです。私よりひと世代上の大先輩ですが、ありとあらゆる面で助けていただき、今もそれは続いています。

●今も瞼に残る光景の数々

姫路での選挙戦ー中選挙区での2回の選挙ーは今もなお語り継がれる大激戦でしたが、瞼に残る様々の光景から一つだけ印象深いものを挙げてみます。遊説カーで走っていたときに、遠くの道路を車イスで動いていた青年が私の姿を見て、手を振り不自由な足を上げて、文字通りころがらんばかりの振る舞いをしてくれたことです。故福田佳之助市議のご長男・佳弘さんでした。涙ぐましい応援をありとあらゆる人々から頂いたのですが、その象徴的な場面として、今もなお目と心に焼き付いています。

また、お世話になった関係者とのお別れ懇親会も数次に渡りました。例えば外務省の皆さんとは、総選挙の終わった翌12月27日にやりました。木寺昌人官房長の音頭で親しい仲間数人が集まってくれたのです。有り難いことでした。木寺さんはその後中国大使を経て、現在フランス大使をされていますが、先年私がフランス、ドイツ、ベルギーに友人と共に旅をした際に、再会できました。女性として初の同省・局長級ポジションについた佐藤地(くに)さん(当時ユネスコ大使、前ハンガリー大使)も、交友深いものがあり、パリの大使館に駆けつけてくれて、束の間の旧交を温めることになったのも忘れ難い一コマです。

人との出会いと別れについては、色々な思いが絡むのですが、積極的に出会いを求めて動きに動いてきた私です。とくに対人関係では「衆議院議員」のくびきから解き放たれたこともあって、自由奔放さが輪をかけたのかもしれません。偶然もそこに重なって、我ながら驚きのご対面をすることになりました。(2021-1-30一部修正)

 

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第三部 始めるにあたって

平成24年(2012年)末の衆議院選挙に出馬せず、引退をしてから8年ほどが経ちました。この回顧録もその時点で終了することにしていました。しかし、平成の残り期間を放置していては、『回顧録』も尻切れ感は否めないと指摘される向きもあり、続きを読みたいとのお声もそれなりにあって、方針を変えることにしました。第一部が衆議院議員選挙に出るまでの40数年間、第二部が初出馬から落選を経て政治家として生きた25年間を対象にしていました。第三部は、とりあえず、平成の終わりまでの残りの6年ほどを描くことになります。

この期間はちょうど安倍第二次政権とほぼ重なっています。年齢的には68歳から74歳まで。いわゆる前期高齢者から後期高齢者までの時代です。衆議院議員を公明党の内規によって定年退職してからの時間をどう過ごしたか。一般的には興味を持っていただくだけのものではないかもしれません。しかし、「日常的な奇跡」はそれなりに続いています。政治家として第一線は退きましたが、その後の動きへの興味は当然ながらあり、消えた老政治家のその後の軌跡を描き留めおくのも一興か、と思い直しています。

新型コロナ禍の蔓延は、現代文明を根幹から動かそうとしています。その一大転換期に立ち会えたことを、喜びたいとの思いが私には否定できません。この壮絶な時代を知らずに、一足先に今世から来世に〝あちらの世界〟に行ってしまった、親しかった先輩や仲間たちに、伝えたいとの思いもあります。その辺りは、令和編になるのでしょうが、とりあえず、平成がどう終わったのか、をありのままに残す責務が、ジャーナリストの端くれから政治家になり、そしてまた自由なもの書きの立場に戻った私にはあるように思われます。

現役政治家時代を扱った第二部と違って、手元に十分な資料もないので、執筆、公開にはいささか時間がかかるかもしれませんが、何卒ご容赦をお願いします。(以上 2021-1-10記す)

 

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★お知らせ

回顧録『日常的奇跡の軌跡』については、昭和20年(1945年)から、平成24(2012年)までを書いて、終わりにしていました。衆議院議員を引退し、公的な役割を終えたから一区切りだと思ったのです。ただ、平成の時代はその後7年ほど続いており、この期間を空白にしておくことは、おさまりが悪いとの思いもありました。続きを読みたい、もっと書けとの親しい友人たちの声もあり、新しい年から再び、我が「軌跡」を追うことにしました。現在、新型コロナウイルスの蔓延という事態が地球を襲っています。人類にとって、文明にとって大きな転換期だと思われます。心騒ぐものがあります。しばらくの準備期間を経たのちに、改めて執筆を開始します。このコーナーにお目見えするのはいささか時間がかかると思いますが、お待ちいただければ幸いです。

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【101】終わりに

●「政治家が書いていいのは回顧録だけ」
私が初めて本を出版した(『忙中本ありー新幹線車中読書録』2001年)とき、先輩代議士の市川雄一さんから「政治家がものを書くのは、回顧録のみ。あとは書くべきではない」と注意されたことを覚えています。当時は反発心を抱いたものですが、確かに一般的には、書くという行為は行動する意欲を削ぎがちで、どうしても評論家めいた立ち位置に人を追いやりかねないようです。

今、平成の元年から24年までのあしかけ25年の自身の足跡を思いやった時に、新聞記者としての視点が抜き難くあることに改めて気づきます。現役の頃に、私はせっせと、国会での動きをリポートし、ブログとして公開、読んだ本を読後録として書き留めてきました。それは書く力や考える力を培いはしましたが、政治家としての力量を高めることになったかどうかといえば、大いに疑問でしょう。また、市川さんはしばしば、政治家は何をしたかどうかだ、何になったかではないとも言われましたが、つくづくその通りだと実感します。

20年間の現役期間というものを、懸命に生き抜いてきましたが、政治家としての実績は極めて乏しいことを認めざるを得ないのです。それは私が外交や防衛という国家の安全保障にまつわる分野を主たる仕事とし、憲法論議に力を注いできたことと無縁ではありません。どちらも簡単にゴールに到達出来るほど奥行きは浅くないのです。結局、大きく誇れるものを成し遂げられなかったことにいささか無力感を感じます。

「失われた20年」と呼び習わされる時代と、私が現役だった年数がほぼ重なることも残念ながら事実なのですが、時代のせいにしてはズルイでしょう。

●中道主義の本領発揮

私が議員を辞めた後、再び総理の座に返り咲いた安倍晋三さんが7年8ヶ月の務めを終えて、辞任しました。第二次安倍政権の時代がそっくり私の現役政治家引退後のそれと、またダブルのです。菅義偉新首相にバトンタッチがなされたその日に、私の100回に及ぶ回顧録平成編が終わりました。いい区切りとなりました。

昭和の時代には政治家という職業に、憧れる少年たちは決して少なくはありませんでした。昭和の20年代に小学校に入学し、30年代の終わりに高校を卒業した、私もその一人でした。あれから60年余。残念ながら、今の子供たちにとって政治家は、忌むべき存在ではあっても、尊敬の対象となるものではないようです。そのことに関与してしまい、むしろ加速度をつける役割を果たしてしまった一人かもしれないことに、忸怩たる思いがあります。

これから先、政治家に復活のチャンスはないのでしょうか。未来永劫にわたって潰えたままの状態が続くのかというと、そうではないと思います。政治家が活躍し、一般大衆から喝采を浴びるのは乱世、改革が求められる時代なのであって、非難の対象であるのは、平時、安定の時代の証拠かも、との思いがよぎります。

公明党は創立者池田大作先生の、想像を絶する深くあつい思いを背景に誕生しました。青年前期の私は先生の民衆救済を叫ばれる獅子吼に呼応し、後に続くことを深く決意しました。創立するまでは責任を持つが、後は弟子たちの自在の後継の戦いに任せる、と言われた先生。その思いに応えていく戦いは未だ道半ばです。

●新型コロナとの戦いにこそ真価問われる

自民党政治を外から変えることに執念を燃やし続けた昭和の公明党。平成になって、一転公明党は自民党政治を内側から変えるべく、連立政権に身を委ねてきました。果たして、今の自公連立政権下の政治が民衆・大衆の観点から見て、満足するに足るものかどうか。常に問い続けていかねばならないと思います。

令和の時代の本格的出発と同時に、新型コロナウイルスの蔓延という事態に直面しています。これを乗り切り新たな展望を開きゆくことこそ、今の政治に期待されているものです。安定だけを求めてきた平成末期の行き方から脱却せねばなりません。「安定の上に立った改革」こそ中道主義の力の発揮しどころと決めて、公明党には頑張ってもらいたいものです。

新聞記者から政治の現場に飛び出して25年。再び、市井の政治ウオッチャーに戻って8年足らず。人生最終盤のこれからの日々を、若き日に池田先生から受けた薫陶の言葉ー青年は心して政治を監視せよーを再び銘記し、〝革命未だならず〟の思いを胸に、ゆっくりと着実に歩き続けたいと思っています。

回顧録を終えるにあたり、これまで私を育ててくださった故郷・兵庫、関西の創価学会の皆様をはじめ、関心を持ち励ましてくださった、各界の友人、有権者の皆様方に心から御礼申し上げます。ありがとうございました。(2020-9-19公開 完)

 

 

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