【40】毎日新聞『悼む』欄に寄稿ー平成30年(2018年)❶/8-7

◆毎日新聞3月5日付け「悼む」欄

 市川さんの死の衝撃から立ち直れぬまま、新年9日に上京しました。幾つか処理すべき案件があったのですが、そのうちの一つが毎日新聞の平田崇浩記者と会うことでした。彼は同紙の外交防衛を専門とする敏腕記者で、現役時代から昵懇でした。市川さんの追悼文を書いて欲しいという依頼でした。他に市川さんを語るに値する人はいるのに、私如きでいいのかと訊くと、「長きにわたって支えたのはあなただけ」、その視点から書いて欲しいとのこと。〝恩人の死〟を悼む文章を書かせて頂く巡り合わせに、感謝の思いで引き受けました。

 引き受けたからにはと心血注ぎ、たましいを込めるように文章を練りました。ご本人に「書き出しの研究」なる一文があり、文章作法の持論を常に聞かされていました。何度も何度も書いては消し、消しては書く繰り返し。ようやっと書き上げたものが、3月5日付け同紙朝刊に掲載されました。以下全文を転載します。

孤高の中に「情と理」/市川雄一さん元公明党書記長/2017年12月8日死去・82歳

【人の心を射抜く眼差しと他の追随を許さぬ論理展開。誰しもが「理の人」だといい、「強さ」を認めた。戦後政治史に残る『日本共産党批判』での「憲法論争」、国連平和維持活動(PKO)協力法成立のため公明党・創価学会の内外を説き伏せた行動力はその印象を裏付けて余りある。

 28歳の若さで公明新聞編集長に就いた切れ者がやがて『燃えよ剣』の土方歳三のような「軍師」として頭角を現す。党幹部の不祥事が露見し、逆風が吹き荒れた時の処し方は鬼気迫るものがあった。

 公明新聞記者時代の部下、後に秘書、議員として50年以上もお付き合いしてきた身として、数多の場面が夢やうつつに今も蘇る。感性の豊かさを湛えつつ、ひ弱にも見える大学時代の写真に驚き、変身の理由を尋ねた。「敵からは蛇蝎のように恐れられよ」「男は強くあれ」という人生の師からの薫陶があったからだとの答えが返ってきた。

 生来、がさつな私はあきれるほどの失敗をした。一緒に旅した先で、かばんを網棚に忘れたり、寝坊で待ち合わせ時間に遅れたり。恥じ入る私を叱らないで、忘れた頃に「君はのんきでいいなあ」と。その「優しさ」に感じ入った。

 近年、安全保障法制論議の時に私が反対を口にすると、君もそんなことを言うのかと反論の刀を向けられた。昨今の憲法論議をめぐっては、固い頭ではいけない、曖昧な態度に固執すれば、国の行く末を過つと憂え続けられた。

 京都が好きだった。哲学の道や鴨川沿いを歩いた。時に、お酒を片手に、遠き受験生時代に覚えた和歌を口ずさみながら。「情と理」を兼ね備えた、厳しくも優しい、孤高の政治家はもういない。(元公明党衆院議員・赤松正雄)】

◆大先輩の遺志を受け継ぎ生きていく決意

 様々な反響がありました。生前の市川さんに厳しく鍛えられた仲間の代議士から、「心底感動しました」とか、番記者の一人から、これまでに読んだ追悼文で最も心撃たれたなどと、お世辞混じりの声も含め、幾つもの便りを頂きました。自分としては悔いなき文章を書いたとの自負はあったのですが、御子息から、ひとつ納得いかない箇所があるとの意味の指摘をさりげなく受けました。どのくだりをさすのか、曖昧なままなのですが、未だに気になっています。

 文章を書くことを生業にする道を、私は歩いてきました。途中で20年余り政治の道に転進したものの、一貫して書くことに拘ってきました。市井の人間に戻って5年。この文章を書いたことが、改めて自身の本分を自覚するきっかけになりました。市川さんが生涯かけて成し遂げようとされていたこと、その片鱗でも受け継ぎたいとの思いが私にはあります。残された時間を使って、それを形にしていきたい。そう思っています。(2021-8-7)

 

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【39】市川元書記長との突然の悲しい別れー平成29年(2017年)❼/8-2

●10月22日投票の衆議院選でのできごと

 衆院選が10月22日投票のスケジュールで進んでいました。12日に姫路市内の小学校で行われた自民党候補の演説会に〝自公選挙協力〟の観点から参加しました。この候補者は元民主党の最高幹部で、外相経験者。大物です。民主党が政権の座から降りて5年、前回の選挙で彼は無所属で出馬しましたが、今回は自民党に鞍替えしたのです。自民党に移るとの噂を聞いた段階で、私は「政権交代可能な政党として民主党が作られ、3年とはいえ政権の座にあったのだから、ここは我慢して建て直しに尽力すべきではないか」との注文を電話でつけました。

 日本の政治の質的向上という観点から、「与野党伯仲」状況のなかで切磋琢磨すると言うのがあるべき姿で、彼が民主党を離れるのは惜しいと思ったゆえでした。しかし、与党の魅力には叶わなかったのだとみえます。さっさと彼は自民党入りを果たしてしまいました。選挙結果は、公明党は29議席で、前回(2014年選挙)より6議席も減ってしまいました。小選挙区で1、比例区で5減です。他党候補の動きに関心を持ちすぎ、自党の退潮を見抜けなかった自分を反省しました。

●カイロプラクターズ協会の総会で福岡へ

 福岡市で11月19日に日本カイロプラクターズ協会の催しがあり、遠路私も参加しました。比例区九州ブロック選出の公明党の後輩・T代議士も参加して、揃い踏みで挨拶しました。元をただせば、彼の紹介がきっかけとなって、私はこの協会に縁が出来ました。ダブル参加に関係者の皆さんも喜んでくれました。

 せっかくの福岡行きということで、高校3年時に同級だった福岡工大の理事職を務める大谷忠彦氏(現在は理事長)を呼び出し、卒業いらいという懐かしい出会いを果たしました。大学を出て中内功さんのダイエーに入り、プロ野球・福岡ダイエーホークスの仕事を経て、大学経営に携わっているとのこと。なかなかの風格を湛えていました。半世紀の空白を埋めるかのように話し込みました。

●市川元書記長逝去のショック

 年末恒例の市川番記者の会を12月9日昼に開催しようとのことで、前日に上京しました。ところが、元秘書だったKさんから8日夕刻に電話連絡が入り、市川さんが風邪気味のため体調悪く出られないので、代役を頼むというのです。驚きました。こんなことは初めてです。市川さんの代わりを務めるのは荷が重く、いまいち盛り上がらない空気のまま、この会は割り切れぬ思いで終わりました。

 それから5日後の14日、同じ市川秘書仲間から電話が入り、元書記長が亡くなったことを知らされました。実は8日に逝去されており、すでにご家族で密葬も済まされたというのです。茫然自失。ショックでした。前日7日深夜までいつものように読書をされていたものの、夜明けに奥様が異常な様子を感じられ、緊急入院。駆けつけた家族の皆さんに看取られながら夕刻に息を引き取られたとのことでした。番記者会の時刻には既に亡くなられていたのです。落ち込みました。どんな人にも終焉は来るという当たり前のことを思い知らされました。

 大学を出て公明新聞に入社した私が、編集主幹の市川さん(当時34歳)と初めてお会いしたのが昭和44年4月。私は23歳。以来、ありとあらゆることを教えていただき、薫陶も受けた大先輩との永遠の悲しい別れでした。(2021-8-2)

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【38】フランスからドイツ、ベルギーへ夢の旅ー平成29年(2017年)❻/7-27

●念願のライン川下り果たし満足感に浸る

 前年秋にドイツから姫路へとやってきた、元ビンゲン市の女性市長(コーリン・ランゲン氏)との約束を果たす時がやってきました。私の妻は都合がつかず、代わりに寺松輝彦氏(現地在住の木村氏と共通の友人=社員教育指導者)と一緒に9月18日から27日までの欧州旅(フランス、ドイツ、ベルギー三ヶ国8日間、機中2泊)に向かったのです。この旅の最大の目的は、ライン川中流地域に位置するビンゲン市訪問。日本に強い関心を持つ若者との懇談会を始め、豊かな大自然の中で息づくドイツの風景を楽しむことができました。

 中でも、ライン川下りは長年私が夢見てきた旅です。その昔、ドイツ文学者の池内紀氏と版画家の山本容子さんの案内による紀行番組をBSテレビで観ていらい、いつか行きたいと思っていました。ゆったりとした川幅の上を爽やかに滑る、船上での感動は今も目に心に身体に焼き付いています。また、日本の国内政治で定着した自公連立政権の実態を聞きたい、という現地の若者の要望に応えて、あれこれと話す機会も楽しいものでした。

●フランスでの旧知の二人の大使との再会

 これより先に、成田からフランスに足を踏み入れた際に、真っ先にパリにある大使館を訪問しました。かつて現役時代にお世話になった元外務省官房長の木寺昌人大使(2016-2019)と、当時はユネスコ大使(その後ハンガリー大使)だった佐藤地(くに)さんの二人が相手をしてくれました。佐藤さんは女性として初の局長級ポストである外務報道官に就いた人ですが、ユーモア溢れる才媛です。

 木寺さんは中国大使からの横滑り人事で、フランス大使に就任されていました。元々フランス語が専門で、水を得た魚というより、水に馴染む白熊のように活躍されてる最中の訪問となりました。中仏関係の特異さやら、伝統的なフランス人気質など、さまざまなテーマについて話し込みました。3年間の同大使赴任中に私の友人が此の地に次々とお邪魔する度に、あれこれとお骨折りしていただくことになり、感謝に絶えない思いでいっぱいですが、その先陣を切ったのがこの時の私の訪問でした。

●ベルギーでのEU議会訪問に思い新た

 最後の訪問先になったベルギーのブリュッセルは、EUヨーロッパ連合の中心地。その本部を訪問し、議場、食堂、議員控室などを具に見学しました。と言いますのも、ビンゲン市のランゲン元市長はその当時、EU議会議員に転身されていて、現役として活躍中だったのです。私たち一行がお邪魔した時には、地元からの陳情客とも鉢合わせになって多忙を極めておられましたが、テキパキと対応してくれたことが印象に残っています。

 学者である夫君も途中で加わって、一緒に市内散策の案内をしてくれましたが、得難い思い出になりました。私はビールの旨さは、ドイツでなくベルギーにありとの持論を持つに至っていますが、それはこの時に街角で飲んだフルーティなヒューガルデン・ホワイトに起因します。世界の地ビールの本場ブリュッセルを知って、ビールは喉越しもうまいが、口に含み舌先で味わうのものだとの感を強くしました。スペインのシェリー酒、アイルランドのギネスビール、中国の紹興酒そして日本酒など、アルコールに国柄が現れるというのは面白いものです。(2021-7-27)

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【37】関空航路再生の喜びー平成29年(2017年)❺/7-22

●関空と淡路島結ぶ航路が再スタート

関西国際空港と淡路島を結ぶ航路は過去にもありました。淡路エアポートラインです。しかし、なかなか利用客数が上向きにならず、平成19年には休航してしまい、この10年ほどの間は、ストップしたままなっていたのです。それを今度はジェノバラインが引き受けようと、立ち上がったのです。時あたかもインバウンドブームで、日本全体で年間3000万人もの観光客も望めるほどにまでなっていて、十分淡路島にもその流れは来るに違いないとの見立てだったわけです。

7月9日、突き抜けるような青空のもと、関空航路再開通を祝う記念式典が岩屋港で行われました。この航路運営のトップには吉村淳一氏が就きました。この日を迎えるまで、初期の段階で尽力し抜いた豊田さんの姿が見えないのがなんとも寂しいものがありましたが、仕方ありません。関係者一同、押せ押せムードで、ひたすら今度こそ定着させるぞと、成功を信じて突っ込んでいったのです。この航路運営がこの日から進められることで、我が一般社団法人はより一層忙しくなりました。日々の乗客数の増減に一喜一憂する一方、DMOの展開に夢を育み、ない知恵を懸命に降り注ぐことになったわけです。

●DMO法人へ観光人材育成機関作りに汗流す

 この頃から、DMOの展開については、私的知恵袋である勝瀬典雄さんの支援を頂くようになりました。社団法人の顧問的立場の位置付けを付与させていただきながら、現実には無報酬で交通費支給のみ。しかも彼の動く予定に出来るだけ便乗するという辛気臭い扱いぶり。全て私の責任です。この人の持つ地域おこしのノウハウに心底惚れた私の強み。惚れられた側の弱みといえましょうか。豊田さんに代わって、昼夜を分たずといかない分、彼の住まう徳島、勤め先の大学のある広島、神戸、そして東京と、転戦される場所ごとに押しかけ議論しました。

 二人が最も力を入れたのは、観光人材を育成してゆく主体を淡路島に作ろうという試みでした。徳島商と山手女子大を「観光」を通じて結びつけるアイデアやら、ハコモノではなく、船上で「育成」をやろうとか、集客を狙った仕組みをサイト上に作ることなど、あれこれと企画しました。ただし、一連の計画を具体化する上で、内外多くの精鋭の力を借りましたが、そのうちの女性起業家のひとりをして「ネット時代に似つかわしくない、竹槍集団みたい」と言われてしまうほど。かくほどまでIT音痴の集まりだったことは、如何ともし難い欠陥でした。

●関経連の松本正義会長の淡路島での就任祝い

 そんなおりも折、関西経済団体連合会のトップに住友電工の松本正義社長が就任(2017年5月)されました。松本さんとは、それなりの交遊があり、井戸県知事交え意見交換をした時のことは既に触れました。淡路島・洲本高校出身とあって、オール淡路島で関経連会長就任をお祝いしようとの気運醸成を、私たちは思いつきました。同校出身の関係者は私の周りにも少なからずいて、皆さん大いに賛同、あっという間に実現の運びになったことは言うまでもありません。

 9月9日当日は、淡路島中の名士、強者が一堂に会しての素晴らしい集いとなりました。山田啓二京都府知事(当時)もご当地出身とあって参加、観光の島・淡路島への期待は大いに膨らんだものです。気骨溢れる才人たる松本さんの関西経済界トップへの登場は、関係者一同願ってもない慶事です。この日ばかりは、日常の憂さもものかわ、希望に満ちた言葉が飛び交うひとときだったことを覚えています。(2021-7-22)

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【36】瀬戸内海に夢を馳せた同志倒れるー平成29年(2017年)❹/7-17

●今度は「民泊推進」に首を突っ込む

コロナ禍前には、各地で「民泊」の動きが高まっていました。先に触れた勝瀬典雄さんの肝煎りで「全国民泊推進協議会」を結成して、インバウンドに備えようとの試みが進んでいました。5月29日に、会長に当時兵庫県立大の看板教授だった佐竹隆幸氏(中小企業論)を迎えることにし、同協議会主催で盛大なシンポジウムが神戸市内で開かれたのです。佐竹教授とは面識はあったものの、本格的な出会いはこの日が初めて。聞きしに勝る講演上手に、改めて聞き惚れました。

この日の集いには、観光をテコにした地域おこしに関心を持つ様々な人々が参加していました。政治家の転身は所詮〝武家の商法〟の域を出ず、いつまでも馴染めない私としては、名刺交換のたびごとに感心し、登壇者の多彩さに胸躍らせるひとときでした。この日を契機に、勝瀬・佐竹のコンビに、私も一枚加わることになりました。この3人はこの日を契機に〝時節外れの同床異夢〟を育み、歳不相応な遠大な希望を抱いていくのです。

●東京から京都へ、厚労省絡みの催しへ

二日後の31日。東京での前議員の会で、大先輩の坂口力元厚労相の講演が聞けるとあって上京しました。タイトルは、「ガン難民はどうするか」。ご自身の「大腸がんで余命3年」と言われた体験談をもとにした、がん医療の現状とこれからの展望についての奥深いお話でした。「医療として最善を尽くしても、患者の残された人生にとって最善とは言い難い」「がんは人間に考える時間を与えてくれる疫病」との位置付けなど、考えさせられる内容でした。「根治は難しくても、がんと共存の時間を延長する研究もすべき」など、〝医師にして政治家にして患者〟という立場からの興味深い中身の連続に、すっかりはまってしまいました。

翌々6月2日の帰路、京都に途中下車。かつて肝炎患者の救済で共闘した弁護団メンバーを中心にした有志の集いに参加しました。中心弁護士の一人が私の高校の後輩のT氏。彼がこよなく愛する京都祇園の地を選んで、弁護団仲間に加えて患者家族、厚労省の担当者、元代議士に声をかけてくれたのです。まさに〝忙中閑あり〟。英気を養う素晴らしいひとときになったことはいうまでもありません。

●夢を語り合った大先輩の志半ばの死

議員勇退後に何をするかで迷っていた私に大いに力になってくれた人が(株)ジェノバの副社長だった豊田一義さんでした。吉村靜穂社長との縁を結んでくれたことを始めとして、この5年ほどというもの、何やかやとお世話になりました。淡路、明石で、神戸、大阪で、夜となく昼となく、語り合ったものです。

明石港をサンフランシスコのフィッシャーマンズワーフのようにして、瀬戸内海を縦横無尽に行き交う船を走らせるんだーいつもこの夢に向かっての戦略を練り、手立てを考えてきました。船がないー所有する富裕層から借りればいい。金がないー銀行は我々のためにある。元はといえば、仏法哲学の研鑽をベースに本の出版などを仕事にしてきた文化人的素養に満ちた人です。そんな人が眠っていた才能を呼び覚ますがごとく立ち上がって、私と肩組むようになりました。お互い似ているなあと思うことも、一再ならずありました。そうしてるうちに、ある時からどうも腰が痛いと、周りに訴えられることが多くなってしまったのです。

やがて脳腫瘍が発覚、半年余りの闘病生活を余儀なくされ、6月19日に逝去されてしまいました。断腸の思い迸る東京での葬儀でした。それでなくとも紆余曲折が多かった「瀬戸内海島めぐり協会」。その前途に、赤信号が点滅することが更に多くなってしまうのです。(2021-7-17)

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【35】傑出した人材育成者との出会いー平成29年(2017年)❸/7-12

●市川町で聞いた地域おこし映像制作の講義

淡路島で初めて面識を得ていらい気になる存在となった榎田竜路さんから、3月末に連絡がありました。姫路の北隣の神崎郡市川町で、自身が主宰する企画の講座が開講されるので、のぞきにきませんかというものでした。桜花爛漫の4月8日に、稲垣正一元市川町議を誘って出かけました。榎田さんは町の青年たちに、映像制作を通じて、地域の誇りを形にする手法を伝授しようとしていたのです。

市川町は、日本を代表する映画脚本家である橋本忍さんの出身地。『羅生門』や『七人の侍』などの作品群で、黒澤明監督とコンビを組んだ人です。同町では、橋本さんにあやかって映像の力を町おこしに役立てようと、その道のエクスパート・榎田さんを鎌倉から担ぎ出したのです。その方法は、地域に住む様々な分野での著名人にインタビューをし、その中身を2分間の映像にまとめるーこれだけです。その行為を通じ、青年たちは町の良さを感じ、見た人たちも誇りを味わえるー結果的に町おこしに繋がるというわけです。面白い発想だと感心しました。

講義後、姫路城周辺を案内したのですが、桜の木の下の花見客の固まりから「センセー」との大声が。驚きました。瞬間二人とも相手のことだと思って、顔を見合わせ、キョトンと。先ほどの聴講生の女性の一人だったのです。会場での講義終了後直ちに移動したものと見えます。その旺盛な行動力に舌を巻きつつ、10人ほどの車座に。花見酒をいただきつつ、即席座談会に興じました。見覚えのある青年企業家もいました。今なお忘れられない懐かしい思い出となっています。

●北前船寄港フォーラムイン淡路島の衝撃

私が地域おこしの試みで悪戦苦闘している間、横目で注目していたのが「北前船交流拡大機構」なる一般社団法人の活躍です。その昔、北海道・函館から、日本海沿いに南下し、瀬戸内海から大阪、京都へと物資を運んだ海上ルートを担った船を「北前船」といいます。同法人は、これを現代の地域活性化に役立てようと、北前船が寄港した港を持つ市町村間の連携をとる狙いを持っていました。

この団体のトップは作家の石川好氏(元秋田美術工芸短期大学長)で、実質的に陰で支える専務理事が浅見茂氏(元創価学会男子部長)です。彼の繋がりで北海道から関西に及ぶ創価学会の元男子部仲間の猛者たちが加わり、美しき花ならぬ、屈強な陣笠を添えていました。しかも私の慶大時代の級友で元日本航空の最高幹部だった梶明彦氏まで参画しているというのですから驚くほかありません。

私が「瀬戸内海島めぐり協会」の件で、国交省を訪ね、あれこれと要望した際に、担当の同省役人たちが「北前船寄港フォーラム」を引き合いに出して比較。「北前船のように、もっと地域からの盛り上げをしていただかないと」と、のたまってくれたのには忘れ難い屈辱を感じたものです。尤も、ことの起こりから背景、そして表舞台から裏の台所にいたる陣立てにおいて差がありすぎでした。

この「北前船寄港フォーラム」が5月12日に淡路島にやってきたのです。高田屋嘉兵衛ゆかりの地であってみれば当然のことなのですが、その豊かな人材群、構想力と企画力に圧倒される場面を見せつけられました。石川、浅見、梶氏らとの懐かしい出会いに心奪われつつ、気もそぞろというのが正直なところだったのです。(2021-7-12)

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【34】ジャカルタへの旅でDMOへの思い強めるー平成29年(2017年)❷/7-7

●日本版DMOに熱中しはじめた頃

バンコクから帰って、「瀬戸内海島めぐり協会」として、本格的にDMOへの取り組みを強めることになりました。Destination Management Organizationーこれを頭文字だけとってDMOと呼びます。地域と協力しあって観光地づくりをしようという法人を指します。日本版DMOと呼ばれる様に、欧米先行型の発想でできた観光戦略の柱の一つです。国交省観光庁が推進に努めています。

観光庁、兵庫県と連携をとりつつ、淡路島を中軸に据えたDMOに採用されるべく、まずは候補法人としての資格を得ようと奔走することになりました。兵庫には既に幾つかのDMOがありますが、いずれも十全たるものとはいえず、どちらかと言えば、広島県など西瀬戸内海に位置する地域が熱心でした。これではならじと、「瀬戸内海島めぐり協会」は大いなる意欲を燃やしていきました。その取り組みの一環として、インドネシア・ジャカルタに飛ぶことにしたのです。

●勃興するアセアンの大国での数々の出会い

実は、先に紹介した中嶋嶺雄先生の選集発刊を祝う会で、元日経新聞のジャカルタ支局長K氏と、偶々同じテーブルで隣り合わせになっていました。今もなお同地との関わりを持っていると知り、私はジャカルタへの思いを募らせました。今度もバンコク行きと同様にT氏が同行。3月7日から三泊四日の旅となりました。K氏がジャカルタで待ってくれているという大いに贅沢で、心強い機会でした。

この時の旅でも現地駐在の谷崎泰明大使と会うことは大きな楽しみの一つでした。欧州局長時代に彼とは付き合っていました。今回は本国に帰る辞令が出た直後で、ギリギリセーフのタイミングになったのです。スカルノ、スハルトらのリーダー論から始まって、同国の持つ「多様性の中の統一力」など種々教えていただく絶好の機会になりました。また、多島に囲まれたこの国の観光力は、瀬戸内海に挑む私たちにとって、大いに参考になるとばかりに話も弾んだのです。

更に、この地で偶々開かれる在留邦人と漁業担当相のフォーラムがあると聞き、駆けつけました。JBIC(国際協力銀行)などの現地駐在職員も参加していて、開会前のひとときが懇談の場に。東京外語大のスワヒリ語科で学んだという才媛との会話などを楽しんだのです。この日のメイン・スピーカーであるスシ漁業担当相は「気風の良さに加えて妖艶さ漂う」女傑と聞いていました。うそか誠か入れ墨をしている、とまで。これは確かめるわけにはいきませんでしたが、チャーミングな佇まいの女性で、噂と現実のギャップを感じ少々失望してしまいました。

●中野兄弟会で上京、大沼シンポと掛けもち

池田大作先生が昭和48年に結成してくださった人材育成グループ「中野兄弟会」も、既に目標の30年=2003年を超えて、やがて明後年には50年を迎えます。毎年結成記念日(2-4)前後に、責任者である藤井達也氏らが種々の集いを企画してくれてきました。この年も3月19日に新宿区大久保で記念の会合が行われるので、出向くことにしました。ただし今回は、市ヶ谷での大沼保昭東大名誉教授のシンポジウムと掛け持ち。繋がりが深い大沼さんの試みも外せぬ魅力があるためです。

この日のタイトルは、「文際的世界の国際法」。文明間の差異を超えて、共通する国際法で新たな地平を世界に築こうとの、この人らしい壮大な狙いです。案内状にあった「欧米中心的世界から文際的世界へ」「脱亜入欧信仰からの脱却」などの謳い文句に魅了されるところはあったものの、前の会合との関係から肝心のシンポは抜きに。後半のミニコンサートと懇親会からの参加になったのです。

旧知の橋本五郎、小田尚(ゼミ生)の読売新聞記者コンビの他に、色んな分野の方々が参加していて、魅力あふれる出会いの場になりました。特に印象深かったのは、大沼さんの主たる仕事の一つである、慰安婦問題や人権問題について。政治家との繋がりができたが、ごく少数の人を除いて、まともな対応をしてくれた人物は皆無に等しかったとの発言。当日の出席者で、政治家の端くれは自分だけだったので、いささか無念の思いを抱かざるをえませんでした。(2021-7-7)

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【33】国王の喪中にタイ・バンコクへー平成29年(2017年)❶/7-2

●プーミポン国王の喪中にバンコクへ

 バンコクはどこもかしこも黒い服を着た人の群れでいっぱいでしたー2017年の新年開けてすぐの1月17日に初めてタイを訪れたのですが、国を挙げてプーミポン国王の喪に服していたのです。目にしたのは街中の寺院にお参りする、恐らくは全国各地からの、人の列だったのです。前年の香港、シンガポールに続く、「観光」の仕事を兼ねて、「瀬戸内海島巡り協会」の仲間のT氏らと3人旅でした。マレーシア、ベトナム、シンガポールには足を運びながら隣国タイは未踏の地でしたので、心躍る三泊四日の旅となりました。

 バンコクの中心を流れるチャオプラヤー川は、時々氾濫して大騒ぎになりますが、普段は悠然とした佇まいです。定番通り、この川の上を遊覧船で楽しみました。時間が許せば三島由紀夫の小説『豊饒の海』ゆかりのワット・アルン(暁の寺)に行きたかったのですが、船上から遠景を見やるだけで済ませ、巨大な涅槃仏が安置されたワット・ポーを訪れました。街の中の移動にはトゥクトゥクなる三輪タクシーに乗ってみましたが、これはもう凄まじく荒っぽい運転でした。もし事故ってたら、どうなってたことやらと、思い出すだけでも、ゾッとします。

 ここでも旧知の佐渡島志郎大使を公邸に訪ねて、ランチをいただきながら懇談のひとときを過ごしました。私のタイでの関心事は、軍政と市民政治をクーデターを挟んで交互に繰り返すこの国の統治のあり様について、でした。私はこれはタイの近代化の遅れだと思っていますが、かつて大使を務めた岡崎久彦さんは著作の中で、奥深い知恵のもたらすものだとしてむしろ評価しています。この辺りを佐渡島大使に聞こうとしたのですが、叶いませんでした。観光をめぐるこの国の取り組みを聞くだけで時間切れとなり、心残りのままお別れとなりました。

●姫路にやってきた外交評論家と懇談

 バンコクから帰った翌日、姫路に外交評論家の宮家邦彦氏がやってきました。元外務省の安全保障課長で、現役時代に親しくしていました。彼は親父さんが亡くなられたので、その仕事を継ぐために、志半ばで辞めたのです。私はそれは口実だろうと見ていましたが、案の定、メディアの世界で大活躍です。特に関西エリアでは、日本テレビ系の『そこまで言って委員会』のレギュラーメンバーとして人気絶頂。この日も、録画録りの終わった翌日、姫路で講演会ということで、その日の夜に会うことにしました。

 一回に二週分まとめて録画録りをするとか、カットされた禁じられた言葉のネタばらしなど、番組の裏話を喋ってくれました。実はこの人は元々アラビストで中東問題のスペシャリスト。タイ大使の後、駐サウジアラビア大使をやった岡崎久彦さんについて、駐在した国の本を書くのに熱心で、現地での仕事はあまりしなかった人だったといったとっておきの話を聞かせてくれました。

●元英国大使や演劇評論の専門家と懇談

 私には元外務省幹部や外交官の友人が少なくないのですが、中でも親しい関係にあるのが、以前にも触れた林景一さんです。条約局長などを経て、アイルランド、英国大使を歴任(退官後は最高裁判事)しました。2011年から5年間のロンドン駐在を終えて、2016年春には日本に帰ってきていた同氏を慰労するべくタイミングを測っていましたが、ようやく新年2月に実現。共通の友人である演劇評論で著名な岡室美奈子さん(早稲田大教授=坪内逍遥記念館館長)を誘い、林夫人共々4人で一緒に会いました。

実は林さんは、『イギリスは明日もしたたか』を前年暮れに出版したばかり。アイルランド大使を終えた後には、『アイルランドを知れば日本がわかる』を刊行しています。両方とも題名通りのとても面白い本でしたが、この日は著者へのインタビューのようになって話は弾みました。岡室さんはテレビドラマをウオッチし続けて毎日新聞紙上にコラムを書いている人で、視点がとても新鮮でユニーク。時を忘れての懇談のひとときはいつもながらの至福の時でした。(2021-7-2)

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【32】ドイツから賓客来るー平成28年(2016年)❽/6-26

●先輩夫婦がドイツ市長と一緒に姫路へ

10月末にドイツに住む学生時代からの先輩の木村博さんから、11月に一時帰国するが、姫路に行きたいのでよろしく頼むという連絡がありました。夫人とその友人であるビンゲン市の女性市長、及び息子さんの4人で、東京、金沢、京都、広島を経て最後に立ち寄る旅だといいます。姫路城を見て好古園を歩いたあと、和風食事処で歓待することにしました。ドイツからの賓客との出会いとなる11月10日まで、日独友好に向けてあれこれと心騒ぐ落ち着かぬ日を過ごしたのです。

同市長は、先輩のパートナーの君子さんのご尽力で、池田先生とのご縁も出来、創価大学に記念の植樹がなされている方です。くだんの樹を見た上で、日本の観光名所を一週間かけて辿ろうという旅でした。メルケル独首相に連なる有力な人でもあり、政治家の端くれの私と会わせたいとの心配りでした。医師の息子さん共々初訪日でもあり、我が妻も同席して大いに喜んでいただくひとときとなりました。歓談の終わりに、「今度はドイツへご夫妻で」と、誘われてしまいました。さあ、大変です。以後、行くべきか、行かざるべきかで、大いに悩むことになるのです。結論はまた改めてのお楽しみにしましょう。

●中嶋嶺雄先生の選集刊行記念の集いに参加

この秋は様々な記念すべき集いに顔を出しました。代表的なものを二つ。一つは姫路工業高の80周年を祝う集い。書写山円教寺の大樹住職(天台宗総本山のナンバー2)が卒業生の代表格です。元兵庫県議の五島壮氏が病をおして、後継の息子さんと新旧揃い踏みで同席。夫人含め昔から彼とは親しい関係にあり、感慨深い語らいが出来ました。また後援会長も家族ぐるみで年来の友人・小林聡氏。この人は中々の〝役者〟で、印象的で思い出に残るアットホームな会になりました。

二つ目は、中嶋嶺雄先生の選集出版を祝う会です。先生が亡くなられた後、ゼミの皆さんが2人の息子さんと共に力を合わせて先生の著作から全8巻をまとめて刊行に漕ぎ着けました。11月26日、奇しくもこの日は私の70回目の誕生日でしたが、会場の四谷に駆けつけました。ちょうど大学時代のクラス会が同じ日の昼に日吉であり、会合の〝はしご〟をしたのです。集まった中嶋先生ゆかりの人々の中に、李海さんを発見したのは驚きでした。彼は香港衛生テレビ東京支局長。「安保研」のメンバーとして私とも知己を得ており、交流を深めていました。

●名歯科医を求めて香川県まで通う

私が姫路で2人の歯科医と、患者としての関係だけでなく色々と交友を深めてきたことは既に紹介した通りです。そのうちおひとりとは、その方が長年取り組んできた骨粗鬆と歯の関係について国会の予算委で取り上げました。もうひと方とは共著で歯の本を出版したりしました。しかし、私の歯の状態については疑問視されるところがあり、知人のYさんが、香川県の名歯科医を紹介してくれることに。東大阪に住む彼は、車でその歯科医まで時々通っているというのです。

彼の車に淡路島岩屋で拾って貰い、2時間ほどかけて向かいました。暮れも押し詰まった21日のこと。この時の歯科衛生士さんの見事な歯磨きにはたまげました。あんな〝気持ちのいい歯磨き〟は生まれて初めて。帰りは鳴門のホテルに宿泊、歯科医とも合流し、ひと夜3人で歯科医療をめぐる様々の課題について議論しました。以後数回新幹線と在来線を乗り継いで通いましたが、やはり遠い。結局は挫折してしまったのはまことに残念なことではあります。(2021-6-26)

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【31】「安保研」に次々とリポートを提出するー平成28年(2016年)❼/6-21

●台風直撃で水害対応に慌てる

自治会長として2年目の秋祭りは10月9日に行われました。この年から、新たな試みとして、自治会内の住民で、講演をしてくれそうな人や、特技を持っているスペシャリストを探すことにしました。地元公民館を会場に、みんなで参考になるお話を聞くなど、イベントを楽しもうという試みです。当初は講師ゲットに不安がありましたが、探せばいるもんです。姫路循環器センターや日本赤十字病院の医師やら、大阪市大の数学の博士、更には杖術の師範代までいました。

自治会長の任務時で今も忘れられないのが、この年9月26日の台風21号の襲来で豪雨に見舞われた時のこと。よもやの川の氾濫で地域一帯が水びたし。膝まで水位が上がり、土地が低い隣保では床下浸水の危険が発生しました。危ない地域を担当する副会長と一緒に、降り頻る雨の中、小学校の砂場で砂を防水袋に数十袋も詰めて、危ないと思われる家庭の玄関に届けたのです。まるで泥棒を捕まえて縄をなうというのはこれだと、情けない思いになりました。聞くと過去にも幾多の浸水があったとか。早速、市の役人を呼び対策を求めましたが後の祭りです。

●米大統領選でトランプが勝った衝撃

この年は4年に一度の米国大統領選挙の年。ドナルド・トランプという普通の日本人が知らない〝不動産王〟とされる人物があれよあれよと言う間に共和党の候補となり、民主党のヒラリー・クリントンの対抗馬となったのです。今の時点では全てが自明のことになっているのですが、当時は全く闇の中の手探り。太平洋の此岸から見ていると、彼岸は、〝地獄の選択〟に見えました。

バラク・オバマの登場から8年後、異質の興奮の中で、トランプの当選(11-8)を知った私は、アメリカという国の行く末に大いなる興味と不安のないまぜになった思いを抱きました。ペリー来航からほぼ100年。対米戦争で完膚なきまで打ちのめされた最中に、この世に生を受けた身としては当然です。新しい大統領が、日米間の不平等な関係を指摘、日本に自主防衛を求めたことは新鮮でした。米国の占領以来当たり前になっていた対米従属感からの解放を当の相手から求められたようで、これまでの固定観念をガツンとやられた思いでした。

●「中国問題」「中道主義」「イラク戦争」でリポート

この年、一般社団法人「安保政策研究会」のメンバーとして、リポートを既に3本出していました。処女作品は、3月15日号で、『一中国学徒が見た日中関係変遷の50年』というもの。1968年の創価学会学生部総会での池田大作先生の中国問題への壮大なビジョンを聴いたことを縦軸に、ほぼ時を同じくして大学で中嶋嶺雄講師の「現代中国論」を学んだことを横軸にして、自分なりの思いの丈を表現してみました。政治家の現場を離れて4年目の、私の密やかなデビューでした。

次に書いたのが『見損なわれている中道主義の効用』(7月4日号)です。ここでは日本の政治の50年を概観した上で、中道主義がいかに重要かを力説し、公明党も含め内外に警鐘を鳴らしたつもりのものです。それなりの反響が内側から聞こえてきて意を強くしました。

そして、トランプ大統領誕生前夜に『イラク戦争の私的総括をする』(11月11日号)を書きました。これは、イラク戦争における私自身の誤認識も深く関わった後日談が骨格にあります。政治、政党の世界で、流転する事象をどう捉え、どのように行動したかについては、当然選択の誤りも出てきます。通常それは歴史、歴史家の判断に委ねるとして、やり過ごすことが多く、「あれって、間違ってました」とは言わないものです。それを私はやってのけたのです。

公明党の外交、防衛の現場担当者としては、あるまじき行為だったかもしれません。しかしそれをやったことを克明に自省の念を込めて書いたのです。これも世間的には注目をあまりされなかったのですが、私としてはぜひ書き残しておきたかった記念碑的作品です。このように、「安保研リポート」の場を使って、次々と胸中の思いを吐き出していくことになりました。(2021-6-21)

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