【122】降りしきる雪の中での凱歌─小説『新・人間革命』第30巻下「勝ち鬨」の章から考える/6-5

●国連の活動への大いなる支援

 ソ連、欧州、北米への訪問から伸一が帰国して一週間ほど後に、会長の十条潔が心筋梗塞で他界しました。享年58歳。荒れ狂う宗門事件の激浪のなか、2年の会長職でした。十条は「(伸一にとり)広布の苦楽を分かち合った、信頼する〝戦友〟で」、「広宣流布に人生を捧げ抜き、自らの使命を果たし切って、この世の法戦の幕を閉じた」、海軍兵学校出身者らしい「桜花の散るような最期だった」と称えられています。そして、5代会長には、秋月英介が推挙されました。51歳。この人については、「冷静、沈着な秋月ならば、大発展した創価学会の中心軸として大いに力を発揮し、新しい時代に即応した、堅実な前進が期待できる」とあります。(60-62頁)

 北条浩、秋谷栄之助━━この2人の会長には言い尽くせぬ個人的思い出があります。北条会長には職員として、秋谷会長には議員の立場で、池田門下生かくあるべし、を教えていただきました。深く感謝しています。

 伸一は、8月17日には明石康国連事務次長とも会談しています。この人と伸一とは18回も会談を重ねることになったと、さりげなく書かれています。伸一が世界平和に向けて国連をどんなに重く考えていたかが分かります。創価学会は、国連と協力して「現代世界の核の脅威」展、「戦争と平和展」「現代世界の人権」展などを世界各地で開催。この後、1992年(平成4年)には、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の事務総長特別代表になっていた明石氏からの要請で、学会青年部は、28万台を越える中古ラジオの寄贈に貢献しました。

 内戦に苦しんだカンボジアへの国連平和維持活動(PKO)については、公明党が懸命の努力を続け、憲法の縛りを曲解した当時の一部の政党の理不尽な非難にもめげずに、成功裡に終えることができました。その背後にはこうした学会の大変な努力の賜物があったのです。当時、私自身は議員になる前夜、落選中のことでもあり、大いに気になりながら、いかんともし難く、遠くから悔しい思いで眺めていたことを記憶しています。

●四国での『紅の歌』と大分での『21世紀の広布の山を登れ』の作成

 反転攻勢━━宗門の理不尽極まる弾圧に、全国各地の学会員は苦しい戦いを強いられてきましたが、遂に立ち上がる時がきました。名誉会長になった伸一は、まず四国4県の同志と共に、続いて九州・大分県に飛び、苦労を重ねた会員への激励に渾身の力を注いでいくのです。その戦いの突破口は、学会歌『紅の歌』と、詩『青年よ21世紀の広布の山を登れ』の作成を通して、伸一と青年部との絆が結ばれていく共戦からでした。

 「広布のため、学会のために、いわれなき中傷を浴び、悔しい思いをしたことは、すべてが永遠の福運となっていきます。低次元の言動に惑わされることなく、仏法の法理のままに、無上道の人生を生き抜いていこうではありませんか!」弾けるように大きな拍手が轟く。徳島も、香川も、愛媛も、高知も立った。四国は反転攻勢の魁となったのである。(87頁)

    「我が門下の青年よ、生きて生きて生き抜くのだ。絶対不滅にして永遠の大法のために。また、この世に生を受けた尊き自己自身の使命のために」(120頁)

   『紅の歌』と詩『青年よ21世紀の広布の山を登れ』が作られていく背景にあって重要な役割を果たしたのは、四国青年部長の大和田興光と、大分出身の副男子部長・村田康治の2人です。このモデルになったのは、かつて中野区で私も共に戦った先輩でした。かつての雄姿を思い起こしながら、2人に遅れじと心に期しました。

●雪の中の秋田指導の写真

 1982年(昭和57年)1月10日。伸一は真冬の秋田に、約10年ぶりの指導に赴きます。正信会僧から激しい迫害を受けた「西の大分」「東の秋田」と言われた地域であったからです。

 秋田での県代表者会議の席上、伸一は数々の言葉を残しますが、信仰者の生き方について言及し、結論として次のように語っています。(182頁)

 「歪んだ眼には、すべて歪んで映る。嫉妬と瞋恚と偏見にねじ曲がった心には、学会の真実を映し出すことはできない。ゆえにかれらは、学会を誹謗呼ばわりしてきたんです。悪に憎まれることは、正義の証です」(182頁)

 この秋田指導の最大のイベントとなったのは、1月13日に、氷点下2度を越す雪の中の大広場で、1500人の同志が伸一のもとに集まり、秋田大勝利の宣言として、『人間革命の歌』を大合唱したことでした。さらに、勝ち鬨を降りしきる雪の中で轟かせたのです。この場面は、高所作業車バケットからの聖教新聞カメラマンの手で写され、翌日1面を大きく飾りました。

 その写真には、私が高等部幹部として東北を担当した頃の高校生も秋田県女子部長と大きく成長した姿で写っていたのが確認できたのです。(2023-6-5)

 

 

 

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【121】決められた決勝点は取り消せない──小説『新・人間革命』第30巻下「暁鐘」(後半)の章から考える/5-31

●世界の縮図・米国を行く

   6年ぶりのニューヨーク訪問──1981年(昭和56年)6月16日に伸一一行は、欧州から大西洋を越えて米国へと到着しました。当時ニューヨークでは、現地の宗門寺院に赴任した住職の狡猾な学会批判によって組織が撹乱され、メンバーがなかなか団結出来ずにいました。そのため伸一は一人ひとりとの絆を強固にすべく深く意を決していたのです。翌17日に、ある高校の講堂で開かれた日米親善交歓会の場で、伸一の詩「我が愛するアメリカの地涌の若人に贈る」が発表されました。(20-25頁)

 【この詩のなかで、伸一は妙法を護持した青年には、この愛する祖国アメリカを、世界を、蘇生させゆく使命があると訴え、あらゆる人びとが共和したアメリカは「世界の縮図」であり、ここでの、異なる民族の結合と連帯のなかにこそ、世界平和への図式があることを詠っていた。人類の平和といっても、彼方にあるのではない。自分自身が、偏見や差別や憎悪、反目を乗り越えて、周囲の人たちを、信頼、尊敬できるかどうかから始まるのだ。】(23頁)

 さる5月29日の聖教新聞で、第19回アメリカ創価大学の卒業式の模様が報じられています。20カ国からの98人の学部生(19期生)と3カ国・地域の4人の大学院生修士課程修了の院生(8期生)の合計102人が飛翔した、と。池田先生は、「何があろうと『それでも立ち上がろう』と磨き、鍛え抜いてきた『創価の負けじ魂』があります」とメッセージを送り、激励しました。

 詩が送られてから42年。アメリカはいま分断と国力低下に苦しんでいます。そんな状況下でアメリカ創価大学出身の若者たちが各地に飛んでさまざまな分野で活躍することは凄いことだと思います。聖教新聞紙上のメッセージの見出しには「平和と人道の宝樹の林立を」「使命の舞台で共生の種まき」とありますが、必ずや大きな実を結ぶに違いないと確信します。

●全ては1人から、0と1の違い

 ついで21年ぶりに伸一は、カナダに向かいます。初訪問の時に出迎えたのは未入会だった1人の日本人女性だけでした。彼女は、日系2世のカナダ人と結婚して夫婦揃って学会活動に頑張ってきました。千人にも及ぶメンバーがカナダ広布20周年記念総会に集うまでに組織は拡大してきたのです。伸一は、初訪問の思い出に触れながら、一人立つことの大切さを次のように語っています。(33頁)

 「 『0』にいくら多くの数字を掛けても『0』である。しかし、『1』であれば、そこから、無限に発展していく。このカナダ広布の歴史はイズミヤ議長が、敢然と広宣流布に立ち上がったところから大進展を遂げ、今や約千人もの同志が集うまでになった。すべては一人から始まる。その一人が、人びとに妙法という幸福の法理を教え伝え、自分を凌ぐ師子へと育て上げ、人材の陣列を創っていく──これが地涌の義であります」

 私も中野兄弟会の会合で、「必死の1人は万民万軍に勝る」との原理を池田先生から教えて頂きました。本当にそうだと思って「必死になる」ことは、極めて難しく挫折を繰り返してきました。しかし、絶体絶命を実感した時に、真剣な唱題でその危機を乗り越えたことは数回あり、心底からの喜びを実感しました。

●各種詩人章を受ける

 カナダ・トロントからアメリカ・シカゴを経てロサンゼルスへ。その地で、詩人のクリシュナ・スリニバス博士が事務総長を務める世界芸術文化アカデミーから、伸一は「桂冠詩人」の称号授与を受けることになります。その際に、彼は、心に、〝私は、人間の正義の道を示し、友の心に、勇気を、希望を、生きる力を送ろうと、詩を書いてきた。この期待に応えるためにも、さらに詩作に力を注ぎ、励ましの光を送ろう!〟と誓ったのです。

 この後、伸一には、「インドの国際詩人学会から『国際優秀詩人』賞(1991年)、世界詩歌協会から『世界桂冠詩人賞』(95年)、『世界民衆詩人』の称号(2007年)、『世界平和詩人賞』(2010年)が贈られている」のですが、凡庸な私たちにとっては、その価値が殆ど分かっていません。恥ずかしく残念なことです。

 アメリカでの一切の予定を伸一一行が終え帰国したのは7月8日夕刻。実に、61日間に及ぶ、ソ連、欧州、北米8カ国への、ほぼ北半球を一周する平和旅でした。この章の末尾に、伸一が一瞬一瞬真剣勝負で挑んだことに改めて触れられ、【その奮闘によって、遂に〝凱歌の時代〟の暁鐘は高らかに鳴り渡ったのだ。今、世界広宣流布の朝を開く新章節の旭日は、悠然と東天に昇り始めたのである】と結ばれています。(54頁)

 名誉会長として初の海外訪問となったこの時の心境は、ホイットマンの詩『草の葉』に託されています。

「さあ、出発しよう!悪戦苦闘をつき抜けて! 決められた決勝点は取り消すことができないのだ」と。

(2023-5-31)

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2023年5月31日 · 7:14 AM

【120】欧州広布へ全力疾走──小説『新・人間革命』第30巻上「暁鐘」(前半)の章から考える/5-25

●ソフィア大学で名誉学術称号の授与と記念講演

 ソ連のモスクワから西ドイツへ。1981年(昭和56年)5月16日に伸一一行は、フランクフルト空港に降り立ちました。16年ぶりの訪問に湧き立つ各地での信心懇談会や、ボン大学の教授ら識者との対話、「ゲーテの家」の見学も行いました。ついで、ブルガリアを初訪問。同国最古で欧州でも由緒あるソフィア大学で名誉学術称号を授与されると共に「東西融合の緑野を求めて」と題する極めて注目される記念講演を行ったのです。

 この中で、オスマン帝国時代の「軛の下」で起こった、1876年の「4月蜂起」に関連して、ブルガリアの役割について次のように語ったことは、重要な着眼だったと思われます。

 「貴国の大地にへんぽんと翻る、この人間性の旗が失われぬ限り、道は、民族の枠を超えて、21世紀の人類社会へとはるかに、開けているでありましょう。それはまた東西両文明が融合し、平和と文化の華開く広々とした『緑野』であることを、私は信じてやまないものであります」と強調したのです。(364頁)

 この時の訪問では、重要な魂の交流が展開し、その逸話が掲載されています。その相手は、招聘元の同国文化省の大臣だったリュドミーラ・ジフコワ議長です。実はこの人は当時体調を崩されていて、伸一との出会いの2ヶ月後に急逝(享年38歳)しています。そんな彼女を痛々しいまでに気遣う伸一と、覚悟の上と見られる同議長の振る舞いが読む者の胸を揺さぶるのです。伸一の名誉博士授与へのお祝いに際して、こう語っています。

 「私たちは先生を『平和の大使』と考えております。先生は人間と人間との交流を促進することになる文化交流に、人生をかけていらっしゃいます。ブルガリア人は文化を重んじる国民ですから、先生の生き方を深く理解することができます」(367頁)

 また、国家元首との懇談の場で、黒海の汚染について、伸一は〝青い海〟にするため、沿岸諸国が互いに少しづつ武器を減らすなど力を合わせていくことを提案しています。いま、ウクライナ戦争の只中にあることを思う時に、深い憂慮をせざるを得ません。文化交流の力を示すため、今こそ立ち上がるときだと思うのです。

●離婚と発心について

 この後、オーストリアからイタリアへと移動しますが、ミラノでの信心懇談会では50人ほどの青年を前に結婚観を語っていきます。西ドイツでも離婚について触れていましたが、欧州では深刻な問題だったのです。

 「結婚すれば、生涯、苦労を共にしていくことになる。人生にはいかなる宿命があり、試練が待ち受けているか、わからない。それを二人で乗り越えていくには、互いの愛情はもとより、思想、哲学、なかんずく信仰という人生の基盤の上に、一つの共通の目的をもって進んでいくことが重要になる」(403頁)

   更にフランスの欧州研修道場では、「発心」について、語っています。

 「人生をより良く生きようとするには、『汝自身とは何か』『汝自身のこの世の使命とは何か』『汝自身の生命とは何か』『社会にいかなる価値を創造し、貢献していくか』等々、根源的な課題に向き合わざるを得ない。その解決のために、求道と挑戦を重ね、仏道修行即人間修行に取り組んでいくことが『発心』であり、それは向上心の発露です」(413頁)

 結婚と離婚。この悩みは今の日本でも広く深く共有されています。男と女の根源的な問題で、人生の一大テーマです。昨年〝50年の節目〟を迎えた私は〝人間の変化〟という問題に思いを及ぼしました。良きにつけ悪しきにつけ時々刻々と変わる人間存在に欠かせぬことは、発心また発心の連続に尽きます。

●パリの地下鉄で詩の口述

 パリでの伸一は、要人や識者との対話を重ねる一方、会員の激励に全力を尽くします。そんな中、地下鉄で電車を待つ束の間にも、青年への詩を贈るため同行メンバーに口述します。

 「新しき世界は 君達の 右手に慈悲、左手に哲理を持ち 白馬に乗りゆく姿を 強く待っている」とメモは締めくくられていました。また会合では、全参加者とカメラに収まり、新しい旅立ちを励まします。 「まず、二十年後をめざそう。人びとの幸福のため、平和のために、忍耐強く自らを磨き鍛えて、力をつけるんだよ。自分に負けないことが、すべてに勝つ根本だよ」(424頁/428頁)

   さらに、ナチスと戦ったフランスのレジスタンス運動に関連づけて、「日蓮大聖人の仏法を根本とし、自分の己心の魔、堕落へのレジスタンスを進めていただきたい(中略) 仏法のレジスタンス運動を展開していってください」(431頁)

   フランス人は自主、独立の気風が強い国民性を持っています。日本の仏教指導者の励ましをどう捉えて信仰を培ってきたのでしょうか。この辺りを考える時に、〝レジスタンス〟のキーワードに強く感じ入るのです。(2023-5-25)

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【119】「新しい普遍主義」への期待──小説『新・人間革命』第30巻上「雄飛」の章から考える/5-18

●中国での講演の画期性

 会長を勇退して初めての海外訪問──伸一は1980年(昭和55年)4月21日に北京に到着します。5回目の訪中でした。北京は、直前まで「黄塵万丈」と言われるほどの黄砂が空高く舞い上がっていましたがこの日は青空でした。当時宗門の若手僧侶たちは、異様なまでの学会攻撃を繰り返していました。まさに「黄塵万丈」だったのですが、〝これを勝ち越えていけば、今日の青空のような広宣流布の希望の未来が開かれていくに違いない〟と記されています。

 この時の訪中では、北京大学名誉教授の称号の授与決定が伝えられます。伸一はこの日を記念して「新たな民衆像を求めて──中国に関する私の一考察」と題する講演を行うのです。

 このなかで、伸一は司馬遷の生き方を通じて、中国文明とは「個別を通して普遍を見る」ことが底流にあるとした上で、西洋文明は神という「普遍を通して個別を見る」ことが多かったゆえに、他民族への押し付けとしての植民地主義が横行したと、論じました。これは、現実そのものに目を向けて、普遍的な法則性を探りだそうとする姿勢の大事さを強調するためであり、その伝統こそ中国に根づいたものであることに論及しました。伸一には、「新しい普遍主義」の主役となる、新たな民衆が中国に誕生する期待感があったからです。

 この講演は様々な意味で影響力を持っていました。40年ほど前の中国に東西文明の対比を通して、かくほどまでに期待を寄せた人物が東洋の日本にいたことに、多くの識者が感動したはずです。しかも西洋の歴史家トインビー博士との対談を経た上での合意が背景に横たわっていたことが見逃せない力を持っていました。

 当時、この講演内容を知った私は感激に打ち震えました。学生部総会での池田先生の講演で、日中国交回復への時が来たったことを自覚してより約10年。文明の本質を見抜いた上での、中国の大衆を覚醒させる講演に、心底から感動したのです。現在の習近平の中国は、表面的にはその動向に多くの疑念が漂っています。その地に「新しい普遍主義」が起こり、その主役に中国の民衆がなり得るかどうか。予測するのは残念ですが難しいという他ないのです。

●世界平和への桂林での語らい

  この時の訪中の旅で、伸一一行は桂林に足を運びます。名だたる景観が醸し出す詩情の只中にあっても、中日友好協会の幹部との話題は、現実の国際情勢に及びました。この当時はソ連のアフガニスタン侵攻が火種でした。ソ連に行こうとしていた伸一に対して、中国側はやめてほしいとの考えを提示したのです。

 しかし、伸一は、「全人類の平和へと、時代を向けていかなくてはなりません」と力説。〝互いのよいところを引き出し合いながら調和していこう〟と、これからは人間主義こそ必要になると強調し、中国を愛するが、同時に人間を愛し、人類全体が大事であることを訴えたのです。

 ここでの会話のうち、ソ連をロシアに、アフガニスタンをウクライナに置き換えれば、全く今と同じ国際情勢だといえましょう。ただ、中国が当時より圧倒的に国力を増しており、相対的にロシア、日本がその国力を落としてきているところが違います。世界平和を希求する伸一の思いは全く色褪せず変わっていないのです。

●「忘れえぬ同志」と人間革命11巻の執筆の開始

 中国から帰った伸一は8月に、休載中だった小説『人間革命』の連載を再開すると共に、『忘れ得ぬ同志』の連載を開始するのです。その壮絶な戦いは凡人の身には想像すらできませんが、この章にはそのよすがとなるくだりが掲載されており、胸をうちます。(300-306頁)

  「私は、戸田先生の弟子だ。だからどんな状況に追い込まれようが、どんな立場になろうが、広宣流布の戦いをやめるわけにはいかないんだ。命ある限り戦い続けるよ。しっかり、見ておくんだよ」

 「さあ、始めよう!歴史を残そう。みんな、連載を楽しみにしているよ。喜んでくれる顔が、目に浮かぶじゃないか。〝同志のために〟と思うと、力が出るんだよ」

「『ことばは鍛えぬかれて、風を切る矢ともなれば炎の剣にもなる』とは、デンマークの作家アンデルセンの箴言である。伸一もそうあらねばならないと自らに言い聞かせ、わが同志の魂に響けと、一語一語考えながら原稿をしあげていったのである」

 実は、この年55年7月に私は仕事上の転勤で、関西に移動になりました。住まいは神戸市の実家で、職場は大阪市内。毎日1時間ほどかけて通勤しつつ、夜は兵庫県内から大阪、滋賀など近県へと走りました。関西副青年部長という立場をいただき、勇躍歓喜して後輩の激励に当たっていきました。その頃は師の深い思いは分からぬ凡愚の身でしたが、聖教新聞に連載される『人間革命』や『忘れ得ぬ同志』の一文一句を、身を焦がすような思いで読んでいったことだけは深く残っています。(2023-5-18)

 

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【118】自在無礙の境涯への障り──小説『新・人間革命』第30巻上「雌伏」の章から考える/5-11

●「人生は総仕上げの時が、最も大切である」

 伸一が 第三代会長を辞任して名誉会長になり、学会も新しい体制がスタートしました。と同時に週刊誌などマスコミは喧しく「会長辞任」を取り上げ、「学会は滅亡に向かう」と囃し立てました。そんな中、伸一は悠々と海外の要人と会談する一方、日本の有識者とも対話し、そして会員への激励も重ねていきました。1979年(昭和54年)5月11日には立川文化会館で次の詩を詠んでいます。深い感動を抱かざるをえません。

 西に満々たる夕日 東に満月煌々たり 天空は薄暮爽やか この一瞬の静寂 元初の生命の一幅の絵画 我が境涯も又 自在無礙に相似たり

 また、草創の同志に会うと必ず、「人生は、総仕上げの時が最も大切である」と強調していました。過去にどんなに活躍し、栄光の歴史を残したとしても、晩年になって退転してしまえば、結局は敗北の人生となってしまうと述べ、「生涯求道」「生涯挑戦」「生涯闘争」の精神を持ち続けていくなかにこそ、三世永遠にわたる燦然たる生命の勝利がある、と強調していました。(130頁)

    そんななか、新出発から半年ほど経った時に、伸一は青年たちと懇談します。みんな元気かと尋ねた際に、彼らは、「先生が会合で指導されることがなくなり寂しい」とか、新しい活動を提案しても、壮年の先輩たちが賛成してくれない、と訴えます。これに対し、伸一は「経験則」について、こう語ります。

 【経験則という裏づけがあるだけに、年配者の判断には間違いが少ない。しかし、自分が経験していない物事には否定的になりやすい。また時代が大きく変化している場合には、経験則が役に立たなくなる。それが認識できないと、判断を誤ってしまう】(173頁)

   このテーマで私自身の経験で連想するのは、公明党や創価学会内部でのPKO (国連平和維持活動)をめぐっての議論が紛糾した時のことです。日本の戦後史でも画期的な場面でした。時代の大きな転期を実感しましたが、当時の公明党の最高幹部が断固たる決意で、判断を過たなかったことが深く印象に残っています。

●四国から神奈川へ船で、奄美から女子部員が立川へ

 翌1980年(昭和55年)は、創価学会創立50周年でした。この年の初めに2つの感動的な出来事があったことが、この章の半ばに出てきます。一つは、四国の同志800人が船で横浜港にやってきたことです。新しい年の出発に際し、考えぬいた四国の幹部は、先生の行動が制約されているのなら自分たちの方からお会いしに行こうと、大型客船「さんふらわ7」号をチャーターして1月13日に出発。翌日に到着しました。その時に、伸一は四国の中心幹部に「本当に、船でやって来るとはね。面白いじゃないか。それだけでも皆が新たな気持ちになる、何事につけても、そうした工夫が大事だよ。広宣流布は智慧の勝負なんだ」と語っています。(196-215頁)

 また、一ヶ月後の2月17日には、鹿児島県の奄美大島地域本部の86人の女子部員が伸一のいた立川文化会館に飛行機を乗り継ぎやってきました。伸一は「はるばると奄美の乙女の集いける 此の日の歴史 諸天も讃えむ」と和歌を詠み、「奄美から二十一世紀の広布の新風を起こしてください」と激励していました。(226頁)

 この当時、山本会長を求める会員のあつい思いは激しく燃え上がりました。2つの例は代表的なものです。そうした動きを様々に聞いて、東京という中心にいた自分はただただ凄いなあと感心しているだけでした。

●会長辞任から1年、「恩師の23回忌に思う」

 この年の4月2日は、恩師戸田先生の23回忌にあたっていました。伸一は聖教新聞に一文を寄稿します。そのなかで、「広宣流布の前進を忘失したならば、宗開両祖の御精神に背くことになるのを深く恐れるのであります」「勇んで広宣流布のため、民衆救済の前進を開始してまいろうではありませんか」と述べたほか、「大聖人の仏法の実践は、後退を許さぬ生涯の旅路である」と記されていました。さらに、名誉会長として、インタナショナル会長として、同志のために、平和と文化のために、一段と力を尽くしていくことを宣言したのである」(235頁)とも。

 愚鈍な弟子であった私など、先生が名誉会長として、さらに一層元気で指揮をとって貰えるに違いないと、単純に喜んでいたように思い出します。会長のさらに上の存在としての名誉会長になられたんだから、今までにも増して自由に戦いを展開して頂けるものと、呑気に考えていました。

 しかし、「師弟離間の工作が進み、『先生!』と呼ぶことさえ許されないなか、創価の城を守るために、われに『師匠あり』と、勇気の歌声を響かせた丈夫の壮年・男子の代表もいた」との記述を読み、改めて当時の先生を取り巻く厳しい環境に思いが至ります。恥ずかしい限りです。(2023-5-11)

 

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【117】師の心弟子知らず──小説『新・人間革命』第30巻上「大山」の章から考える/5-3

●会長勇退に「時流」との認識

  山本伸一が創価学会会長を辞任するとのニュースは1979年(昭和54年)4月25日のこと。前日付けの聖教新聞に所感「『七つの鐘』終了に当たって」が掲載されても、大半の学会員はその事実を未だ知りませんでした。この章では、のちに「忘れまじ嵐の4-24」と受け継がれていくことになる日前後の様子が克明に記されていきます。今日2023年5月3日は、あの日から44年が経ち、聖教新聞に小説で再現されたのは6年前のことです。

 その頃の一連の紙面を読み、あらためて痛烈なショックを受け、深い悔恨を抱いた人は少なくないはずと私は思います。まさにその当のくだりは、宗門と学会との関係を割くべく邪智の謀略家たちの動きによって、伸一が会長を辞めることなどの対処を協議する首脳会議の場のことでした。4月5日朝、立川文化会館です。

    伸一は、集まった首脳幹部の一人ひとりを、じっと見つめた。皆、眉間に皺を寄せ、口を開こうとはしなかった。長い沈黙が続いた。伸一が、一人の幹部に意見を求めると、つぶやくように語った。「時の流れはさからえません‥‥」  なんと臆した心か──胸に痛みが走った。    ( 31-32頁)

   「しかし、それにしても不甲斐ないのは〝時流〟という認識である」「私は師子だ!何も恐れはしない。皆も師子になれ!そうでなければ、学会員がかわいそうだ。烈々たる闘争心と勇気をもって、創価の師弟の大道を歩み抜くのだ。その一念が不動ならば、いかなる事態にも揺らぐことはない。戸田先生は見ているぞ!」彼は席を立ち、部屋を出ていった。窓の外で、桜の花が舞っていた。(33-34頁)

 風の噂で、ある幹部のこの発言があったことを聞いて、「誰だろう」と、私は詮索するのみでした。ある時、誰かれではない、この当時の青年部幹部全体に少なからずあった空気を代弁していると気付きました。「時流」の一言は、当事者意識とは遠く、傍観者の心です。現場の渦の只中にないがゆえの発言の集約だった、と。しみじみと、「青年部幹部」ではなく、「幹部」とだけあることに、深い「師」の思いを感じます。

●赤裸々な弟子たちの質問

会長を伸一が勇退し、十条潔に交代することが伝えられたのは4月24日午前の新宿文化会館での県長会。その直後に会場に姿を現した場面の描写は感動を持たずして到底読めません。

「先生!」いっせいに声があがった。彼は悠然と歩みを運びながら、大きな声で言った。「ドラマだ!面白いじゃないか!広宣流布は波乱万丈の戦いだ!」「既に話があった通りです。何も心配はいりません。私は、私の立場で戦い続けます。広宣流布の戦いに終わりなどない。私は、戸田先生の弟子なんだから!」(74頁)

 「先生!辞めないでください!」「今後、先生はどうなるのでしょうか」「会長を辞められても、先生は私たちの師匠ですよね」「県長会には出席していただけますか」「各県の指導には回っていただけるんでしょうか。ぜひ、わが県に来てください」「皆さんは、先生が辞任されるということを前提に話をしている。私は、おかしいと思う。そのこと自体が納得できません!」──この一連の県長たちの声に伸一は、一つひとつ反応した後に、「物事には、必ず区切りがあり、終わりがある。一つの終わりは、新しい始まりだ。その新出発に必要なのは、断固たる決意だ。誓いの真っ赤な炎だ。立つんだよ。皆が後継の師子として立つんだ。いいね。頼んだよ」と答えて、「県長会は涙のなかで幕を閉じた」のです。(77-78頁)

   この時の県長たちの発言はまた、会員みんなのこころを代弁していました。私自身の当時の思いは、不思議なくらいカラッとして前向きに燃えていたことを鮮明に思い出します。生来の暢気さゆえと自戒しています。

●45回目の「5月3日」

    会長勇退の報から一週間後、5月3日の第40回本部総会が開かれました。この時の伸一の挨拶は、まさに新時代を画する壮絶な思いが凝縮されたものでした。

 「何があっても、信心だけは、大山のごとく不動でなければならない」彼は話を続けた。「戸田先生逝いて二十一年。ここに創価学会創立四十九年──学会の第一期の目標である「七つの鐘」を打ち鳴らすことができました」(112-113頁)

 この章は、伸一が会長として19年の戦いで、学会が大きな前進を遂げたことへの圧倒的な確信と共に、宗門と結託した一握りの弟子による魔の蠢動に対する凄まじい怒りとが交錯して登場します。師のこの深い思いを汲み取らずしてこの章はあだやおろそかに読めないのです。その本部総会から45回目の5-3に、学会及び公明党が直面する課題に思いを致すとき、いよいよこれからだぞ、と日蓮仏法の実践者であり、公明党の議員OBとしてなすべきことの多さに武者震いするだけです。(2023-5-3)

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【116】「非暴力、不服従」の道─小説『新・人間革命』第29巻「源流」の章から考える/4-26

●「非暴力、不服従」というガンジーの生き方

 1979年(昭和54年)2月3日に伸一は鹿児島空港を立ち、香港を経てインドに向かいます。デリー大学での図書贈呈式に出席する一方、首相や外相ら要人との会見と共に、会員の激励に全力を込めていきました。その合間に、ニューデリー郊外のラージ・ガートに行き、遺体が荼毘に付された地で、ガンジーに想いを馳せます。

 【 人類の歴史が明白に示しているように、不当な侵略や支配、略奪、虐殺、戦争等々の暴力、武力がまかり通る弱肉強食の世界が現実の世の中であった。そのなかで、マハトマ・ガンジーが非暴力、不服従を貫くことができたのは、人間への絶対の信頼があったからだ。さらにそこには「サティヤーグラハ」(真理の把握)という、いわば宗教的確信、信念があったからだ。】(397-398頁)

    【敷地内の一角に「七つの罪」と題したガンジーの戒めが、英語とヒンディー語で刻まれた碑があった。──「理念なき政治」「労働なき富」「良心なき娯楽」「人格なき知識」「道徳なき商業」「人間性なき科学」「献身なき祈り」いずれもガンジーのいう真理に反するものであり、「悪」を生み出し、人間を不幸にしていく要因を、鋭くえぐり出している。伸一は、「献身なき祈り」を戒めている点に、ことのほか強い共感を覚えた。行為に結びつかない信仰は、観念の遊戯にすぎない。信仰は人格の革命をもたらし、さらに人びとの幸福を願う献身の行為になっていくべきものだからだ。】(399-400頁)

   伸一は、この地で、非暴力の象徴としての「対話の力」で、人類を結び、世界の平和を築くべく、その生涯を捧げようと深く心に誓いました。ガンジーの思いにも、伸一の誓いにも反する動きが、残念ながら今もなお横行して止むことがありません。あくなき挑戦を諦めずにし抜くことこそ、後に続く我々に課せられた使命と思います。

●ICCR のカラン・シン副会長の言葉

 様々な交流のなかでも、印象に残るものの一つが、訪印団の招聘元であるICCR(インド文化関係評議会)のカラン・シン副会長との会談であったと私には思われます。2月8日のニューデリーでの答礼宴で、同副会長は、人類が核戦争の危機に直面していることを取り上げ、その要因は人間の内面にあると強調。その危機を打破するために、〝人類はすべて一つの家族〟との理念に立ち返るべきだと訴えたのです。加えてインドが世界に誇る古代文明のなかから釈尊が登場し、その教えを基調とした創価学会の思想と目的の素晴らしさを賞賛したのです。(403-404頁)

【学会は、この招待の返礼として、翌1980年(昭和55年)10月、シン副会長を日本に招き、さらに友情を深めていった。来日の折、伸一との語らいで対談集の発刊が合意され、88年(同63年6月)、『内なる世界──インドと日本』が上梓される。ヒンズー教と仏教という違いを超えて、両者の底流にあるインドの精神的伝統を浮かび上がらせ、その精神文明が現代の危機を克服する力となることを訴えるものとなった。】

 釈尊によって誕生した仏教が数千年を経て、日本に伝来したという人類史を画する動きを、「内なる世界」の観点から掘り起す試みは極めて重要です。世界史における近代は、ヨーロッパのキリスト教を源流とする宗教からばかり見られがちですが、アジアにおける仏法の東遷から西遷への壮大な往還から見ることの大事さを、ここから学べるのです。

●思想、宗教を忘れることの悲しさ

 さらにこのあと、伸一は西ベンガル州のトリブバン・ナラヤン・シン知事と語らいます。ここでも重要なテーマが取り沙汰され、読むものの心を揺さぶっていくのです。

 伸一は、同知事に「インドの繁栄と平和のために献身されてきて一番悲しかったのは何ですか」と尋ねます。その答えは「イギリスの支配が終わって、インドが独立してわずか数年で、多くの人びとが、釈尊やガンジーなど、偉大なインドの思想家の教えや宗教を忘れてしまったことです。とりわけ宗教は人類にとって極めて重要であり、人類史に誇るインドの大きな遺産でした」とあるのです。(441頁)

   シン知事が釈尊の生み出した仏教の源であるインドが、今やその宗教を忘れ去った存在になってしまっていることを嘆いていることに思いが及びます。極東の地・日本で、米国との敗戦から占領を経て、創価学会が目まぐるしい進展をしていることに注目していることは、見逃せないことだと思えます。

 しかし、それを深く考えれば、日本における仏教の現状には歪なものがあり、決してインドから羨望の眼差しで見られるほどの存在ではないと言わざるを得ません。インドと日本──この仏教有縁の両国が今こそ、互いの立ち位置を自覚して、人類の平和に向けて協調し、立ち上がる時を迎えていると思えてならないのです。(2023-4-26)

 

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【115】内外の災難に立ち向かう勇気──小説『新・人間革命』第29巻「清新」の章から考える/4-19

●32年後の岩手・水沢

 1930年(昭和5年)の創立を起点に、7年ごとに節目を刻んできた創価学会は、1979年(昭和54年)1月に新しい段階を迎えました。伸一は清新の息吹で、この新しい年を東北から出発します。宮城から岩手・水沢へと足を運びました。この時に県下各地から駆けつけていた青年たちの32年後の姿(東日本大震災の被災)が語られると共に、同じく大震災を経験した兵庫始め全国からの真心の支援の交流が読むものの胸を撃ちます。(260-269頁)

    【 被災地の婦人が、九州から来た本部の青年職員に対し「あなたはこの惨状を目に焼き付けておいてください。そして、このなかで、私たちが何をし、どうやって復興し、五年後、十年後にどうなっていったかを、しっかりと見届け、歴史の証言者になっていってください」 自ら歴史を創ろうとする人は、いかなる試練にもたじろぐことはない。苦境を舞台に、人生の壮大なドラマを創りあげていく。】(268頁)

  【立正なき安国は空転の迷宮に陥り、安国なき立正は、宗教のための宗教になる。われらは、立正安国の大道を力の限り突き進む。東北の同志は立正安国の法理に照らし、「結句は勝負を決せざらん外はこの災難止みがたかるべし」(御書998頁)との御文を噛み締め、広宣流布への決意を新たにするのであった。】(269頁)

  絶望のどん底に陥りがちだった東北の民衆の中で、敢然と立ち上がった学会員たち。その心の奥にはこうした決意が漲っていたのです。単に諦めの境地に沈まず、災難を完全に断ち切るための戦いへと前進するしかないとの思いは心底から尊いものと思います。この法則は「大災害の時代」と言われる今日、一段と輝きます。

●「随方毘尼」と原理主義、教条主義

 このあと、伸一は青森へと移動して、秋田との合同幹部会などを開き、会員との交流を深めていきます。そして1月20日には東京・渋谷の国際友好会館でオックスフォード大学のウィルソン社会学教授と会談します。そこでは、宗教が担うべき使命を語り合うと共に、創価学会への意見を聞く場ともなったのです。(304-322頁)

 この中で、伸一は「同教授が、宗教が原理主義、教条主義に陥ってしまうのを憂慮し、警鐘を発していたことに共感を覚えた」とあり、仏法における「随方毘尼」という視座の欠落の危険性を指摘しています。

 「随方毘尼」というのは、「仏法の本義に違わない限り、各地域の文化、風俗、習慣や時代の風習に随うべきだというもの」で、「社会、時代の違い、変化に対応することの大切さを示すだけでなく、文化などの差異をむしろ積極的に尊重していくことを教えている」。この考え方が排除されることによって、「自分たちと異なるものを、一方的に『悪』と断じて、差別、排斥していくことになる」とあります。(310頁)

 ここからの数頁は、日蓮仏法における宗教的信念に基づく開かれた議論の重要性と、排他性、非寛容とは全く違うことが細かく繰り返し語られていきます。日蓮大聖人の教えや生き方を硬直的に捉えてしまいがちな伝統的仏教、そしてそれを鵜呑みにしてしまう世論。これらとの闘いは長く続いています。

 と同時に、日蓮宗や日蓮正宗など日蓮大聖人の流れを汲む各宗派にあっても、同じ誤りを犯していることを深く考えねばなりません。「対話あってこそ、宗教は人間蘇生の光彩を放ちながら、民衆のなかに生き続ける」との記述を噛み締める必要があるのです。

●平和への最大の関門

 今から40年前の世界は東西冷戦の暗雲に覆われていました。伸一は、その事態を打開するため、ソ連、中国、米国などの各国首脳と平和を願う仏法者として積極的に会談を重ねて、意見交換を繰り返してきました。ここでの論及は今にも通じる重要な指摘です。(316-322頁)

  【人類は、往々にして紛糾する事態の解決策を武力に求めてきた。それが最も手っ取り早く有効な方法と考えられてきたからだ。しかし、武力の行使は、事態をますます泥沼化させ、怨念と憎悪を募らせたにすぎず、なんら問題の解決にはなり得なかった。(中略)  ひとたび紛争や戦争が起こり、報復が繰り返され、凄惨な殺戮が恒常化すると、ともすれば、対話によって平和の道をひらいていくことに無力さを感じ、あきらめと絶望を覚えてしまいがちである。実は、そこに平和への最大の関門がある】(319-320頁)

  ウクライナ戦争が始まって1年2ヶ月。まさに、人類は平和への道を開くことにあきらめと絶望を感じかけています。アジア太平洋戦争での日本の敗戦の直後に生まれた私など、人生の晩年期を迎え、ようやく世界が平和な方向に向かうのでは、と思い込んでいました。それだけに失望感は大きいものがあります。しかし、それにへこたれず、いま一度世界に対話のうねりを起こさねばと決意しています。(2023-4-19)

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【114】人間中心から自然中心へ──小説『新・人間革命』第29巻「力走」の章から考える/4-12

●環境問題を軸に「地方の時代」で提言

 1978年(昭和53年)11月18日に開かれた本部幹部会は、創立48周年の本部総会の意義も込められていました。昭和5年から「7年を一つの節」にして刻んできた「7つの鐘」の歴史も、翌年で鳴り終える(7×7=49年。5+49=54年)ことになり、大きな意味がありました。総会の席上、伸一は今や人類的課題となった「環境問題」を中心に「地方の時代」などについて提言を行うことを予告。翌日付けの聖教新聞に発表されたのです。(123-130頁)

    そこでは、日本の近代は「消費文明化、都市偏重」によって「過密・過疎や環境破壊が進み」、「地方の伝統文化が表面的、画一的な中央文化に従属させられてきた」との認識のもと、創価学会の役割として、「一人ひとりが地域に深く信頼の根を下ろす」なかで、「地道な精神の開拓作業」をすることによってしか「真実の地域の復興もあり得ない」と訴えていました。

 また、環境問題については、西洋近代の「人間中心主義」が公害の蔓延に見るように既に破綻しており、「東洋の発想である自然中心の共和主義、調和主義へと代わらなければ、抜本的な解決は図れない」と捉えた上で、「〝内なる破壊〟が〝外なる破壊〟と緊密に繋がっているとすれば、〝内なる調和〟が〝外なる調和〟を呼んでいくこともまた必然である」と、人間の内なる変革、人間革命の必要性を結論づけていました。

 「環境問題」は、21世紀に入って一段とその重要性が語られてきており、2030年までに、差別、人権、貧困などの諸課題と共に、SDGS(持続可能な開発目標)の旗印のもとに、根本的な解決が目指されています。しかし、現実はコロナ禍で世界の相互依存、相互扶助が求められているにもかかわらず、ウクライナ戦争で世界各国は幾重にも分断状況が深まるばかりで、事態は混迷の度を増し続けています。さてこの時に人類はどう対応するのか。私は創価学会SGIによる人間変革の一大潮流を世界中に巻き起こすしかないと思うのですが。

●怨嫉についての深い考察

    伸一は各地での懇談で、信心をする中での種々の課題について語っています。そのうち、この年12月1日に三重県名張市で行われたドライブインでの懇談は「怨嫉」がテーマとなったとても印象深いものと思います。

 「実は怨嫉を生む根本には、せっかく信心をしていながら、我が身が宝塔であり、仏であることが信じられず、心の外に幸福を追っているという、生命の迷いがある。そこに、魔が付け込むんです。皆さん一人ひとりが、燦然たる最高の仏です。かけがえのない大使命の人です。人と比べるのではなく、自分を大事にし、ありのままの自分を磨いていくことです。また、自分が仏であるように、周囲の人もかけがえのない仏です。だから、同志を最高に敬い、大事にするんです。それが、創価学会の団結の極意なんです」(161-162頁)

    「怨嫉」が原因で信心から遠ざかる人を私も沢山見てきました。人間関係を危うくする最大のトラブル因かもしれません。金銭、病気などよりもむしろ厄介なものともいえます。人と自分との比較、人間相互の比較──好きか嫌いかが根っこにあって、理性が狂わされるケースは数多あるのです。これらを乗り越えるには、「ともかく、題目を唱えていけば、自分が変わります。自分が変われば、環境も変わる」との原理に立つしかないと思われます。

 神も仏もあるものか──ひとは逆境に立たされ、自分の思い通りにことが運ばないと、このセリフを吐きがちです。ここでいう「神も仏も」は、「自力」でなく「他力」の象徴表現です。「自分自身が仏だ」との核心的境地に立てば、周りの環境を動かすことができるのです。神(諸天善神)は環境であり、仏は自分自身であることに、気付かないことに根本原因があります。神も仏も紛れもなく存在する、あるのです。

●高知での師弟愛

 伸一は三重から、高知に飛び、支部結成22周年の記念幹部会に出席します。この地には2年前に県長として東京から、日本橋育ちの島寺義憲が派遣されていました。赴任時に35歳だった彼を伸一は激励します。その時の言葉、高知への思いが印象深く迫ります。(173-229頁)

 「心の底から皆を尊敬し、周囲の人があの県長を応援しようと思ってくれるリーダーになるんだよ。もう一つ大事なことは、一人ひとりと繋がっていくことです。皆さんのお宅を、一軒一軒、徹底して回って、友人になるんだ」などと懇切丁寧に語っていきます。

 この島寺のモデルは東京中央区の草創期からの信心強盛な一家の次男。実は長男が私の職場の上司で、若き日様々な影響を受けました。三男が男子部で一緒に戦った仲でした。伸一との縁も深く絆も強い関係であることを念頭に読み進めると、師弟愛の奥深さが伝わってきます。(2023-4-12)

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【113】「南北問題」の懸念的中──小説『新・人間革命』第29巻「常楽」の章から考える/4-5

●「南北問題」をめぐるガルブレイス博士との対談

 【対話は、人間の最も優れた特性であり、それは人間性の発露である。語り合うことから、心の扉は開かれ、互いの理解が生まれ、友情のスクラムが広がる】──「常楽」の章はこの一節から始まり、アメリカの経済学者で『不確実性の時代』などの著者として知られるハーバード大学のJ・K・ガルブレイス博士との対話が展開されます。  1978年(昭和53年)10月10日のこと。会談に同席していた出版社の社長(講談社の野間省一氏)の「『南北問題」に日本は何をすべきか』との問いに対する2人の答えが注目されます。(16-24頁)

 博士は①富の一部を貧しい国に資本のかたちで供与する②農業による貢献を挙げ、「貧しい国の人びとが本当に必要としているものは何かを考えることです」とした上で、山本会長に意見を求めました。同会長は、博士の主張に賛意を示す一方、「経済次元の物質や技術の一方的な援助をし続けていくだけでは、国と国とが単なる利害関係になったり、援助を〝する国〟と〝される国〟という上下関係になったりすることが懸念されます」と述べ、「相互の信頼関係を築いていくことが不可欠です」と答えています。

 山本会長は、「忍耐強く10年、20年、50年と行う以外に永続的な信頼の道は開けない」と思うが故に、「人間対人間を基調とした教育・文化の恒久的な交流の必要性」をずっと訴え続けてきたと強調。博士もこれに賛同の意を表明したのです。

 この時から45年。山本会長の懸念した通り、残念ながら南北問題は収束せずに、益々、援助国=北と、被援助国=南の格差は広がりを見せています。その背景には相互の信頼関係が築かれないばかりか、更なる怨念が重なり、問題は深刻化する傾向にあります。今これは「グローバル・サウス」と呼ばれていますが、本質は同じです。諦めずに、同会長の指摘通り「人間を基調にした相互の信頼関係」を進めていくべく、公明党が与党として自民党にもっと強く働きかけて、現在の歪な世界経済の構造を改める努力を続けるしかないと思われます。

●御本尊謹刻問題での謀略

 この頃、日蓮正宗の僧侶が学会批判を繰り返していました。伸一は、日蓮大聖人御在世の弘安2年(1279年)に起こった「熱原の法難」の歴史を振り返りつつ、「殉教」について思索を巡らせていきます。天台宗寺院の弾圧によって犠牲者が出た問題から、1978年当時の宗門による種々の難詰事件へと焦点は移動していきますが、現代の信仰を考える上で極めて重要な糸口になります。

 きっかけは、学会のご本尊謹刻問題でした。紙幅のご本尊を板御本尊にするという過去から行われてきたことについて、若手の僧侶が騒ぎ出し、謝罪要求を強く責めてきたのです。この背後には弁護士の山脇友政と宗門の悪僧との結託による謀略があったのです。

 学会は、総本山の大講堂で行われた代表幹部会の場で、争う姿勢を取らず僧俗和合の観点から宗門の要求に応じることにしました。伸一は不本意ではありましたが、自分が耐え忍ぶことで会員同志を守れるならばと、卑劣な僧侶の攻撃にピリオドを打つべく、次のように呼びかけました。

 「広宣流布は、万年への遠征であります。これからが、二十一世紀へ向けての本舞台と展望いたします。どうか同志の皆さんは、美しき信心と信心のスクラムを組んで、広々とした大海のような境涯で進んでいっていただきたい」(78頁)

   広宣流布とは流れそのものと頭では思っていても、現実には私はゴールを常に意識していました。「万年への遠征」「大海のような境涯で」との言葉に覚醒する思いを抱いたものです。

 ●加古川から姫路への〝激励行〟の余韻

 伸一は11月5日に落成したしたばかりの泉州文化会館での様々な激励指導を終えて、13日には兵庫の加古川文化会館、14日には姫路文化会館結成18周年記念勤行会に出席します。

 そこでは「これからは兵庫県が大事だ。兵庫が強くなれば、それに啓発されて大阪も強くなる。両者が切磋琢磨し合っていくならば、それが関西の牽引力になり、日本、世界の一大牽引力となる。また兵庫県を強くするには、これまで、あまり光の当たらなかった加古川などを強化していくことだ。それが、永遠なる常勝の王者・関西を築くポイントです」「あの姫路城のごとく、堂々たる信念の仏法者であってください!」と力説しました。(120-121頁)

 私が生まれ故郷の姫路に戻ったのは、1989年の暮れ。この訪問の時から10年余りが経っていました。播磨地域のどこへ行っても、この時の山本会長の〝激励行〟の余韻が強く残っていたことを明確に思い出します。さらに25年ほどが経った今、関西の中で、兵庫の占める位置がひときわ大きくなり、大阪との連携が一段と強まる一大牽引力となっていることを実感します。(2023-4-5)

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