【52】国境を超えた友情ー小説『新・人間革命』第13巻「金の橋」の章から考える/1-26

●学生部総会(1968-9-8)での歴史的「中国提言」に至る背景

 戸田先生と池田先生の師弟の絆はたとえようもなく強固ですが、世界の平和実現に向けての国境を超えた友情を育む姿勢にも見事なまでに反映されています。1968年(昭和43年)9月8日に開かれた学生部総会での中国問題での提言はまさに、戸田先生の原水爆禁止宣言に匹敵する極めて重要な内容でした。この章ではその講演に至るまでの日中関係の経緯と後継の学生部へのあつい思いとが協和音を奏でながら展開されます。(8-51頁)

   伸一の中国への思いは、戸田から受けた個人授業に全て起因します。「伸一は、この授業を通して、中国の気宇壮大な理想と、豊かなる精神性に、深く、強く、魅了されていった」ことに始まり、「歴史を正しく認識し、アジアの人びとが受けた、痛み、苦しみを知ることです。その思いを、人びとの心を、理解することです」との発言に尽きます。

 ここでは、日本の政界の松村謙三、経済界の高碕達之助、文学界の有吉佐和子の3人がいかに中国との関係において、献身的な努力をしたかが丁寧に語られます。これを通じ、のちに周恩来首相と伸一との国境を超えた友情が育まれるに至る背景が明確になります。この当時、大学3年生だった私など到底知り得なかったことばかりですが、大きな構想のもとでの対中関係の構築への労作業を知って、深い感銘を受けました。この章には、これからの日中関係を考える上での重要な情報が満載されていると思うのです。

    ●大学別講義から大学会の結成へ、「後継育成」の思い

 伸一が学生部総会の場で、日中国交回復に向けての提言を行う決断をしたのは、ひとえに後継の人材群を育てるためでした。「日中友好の永遠なる『金の橋』を築き上げるという大業は、決して一代限りではできない」し、「世紀を超えた、長く遠い道のりである限り、自分と同じ心で、あとを受け継ぐ人がいなければ、成就はありえない」との思いだったのです。

 だからこそ、この頃から大学別講義が行われ、大学会の結成が相次ぎました。私も岡安博司副理事長による『撰時抄』講義を数回にわたって受けました。また、4月26日に結成された慶大会に馳せ参じました。肺結核闘病中だった私はそこで、初めて池田先生の謦咳に接し、百万遍の唱題で必ず治るとの根源的指導と共に、温かいものを食べ、早めに寝ることなど、生活上の細かなアドバイスまで受けることができたのです。未熟な信心だった私は、後で考えれば無謀にも、恐れを知らぬ直裁さで大師匠にぶつかっていきました。

 すべての大学会の結成式に出席した伸一は「一人ひとりのメンバーを、我が生命に刻み付けようと必死であった」し、「それぞれの家庭の状況にも、丹念に耳を傾けた。彼は、共に同志として、皆の生涯を見守っていく、強き決意であった」と記されています。私自身まさにそう書かれている通り、生命の底からの激励を勿体なくも受けられたのです。

●歴史的提言の持つ意味

 9月8日の総会で、伸一は内に大学紛争、外にプラハ事件といった荒れ狂う環境にいた学生たちに、原因としての「世代間断絶」「生命哲学の欠如」といった問題から説き起こします。そして、中国との国交回復を実現するための3項目の提言(①国交正常化②国連加盟③経済・文化交流)など、後の国際政治に少なくない影響を与えた「77分の講演」を展開していきました。ここでは、その内容は勿論、その後の内外への影響にまで触れられ、さながら日中裏面史の赴きがあります。(52-85頁)

  当時、慶大で中国論をかじりかけていた私は、この講演を聞き「中国問題」を人生のテーマにしようと深く決意するに至りました。後に公明新聞の記者になり、政治家になってからもこの問題を追い続けました。その間、東京外大(慶大講師)から秋田国際教養大学長になられた中国問題の権威・中嶋嶺雄先生との交流に恵まれたことは大いなる幸運でした。また、記者時代から秘書を経て政治家として支えた市川雄一元書記長との様々な切磋琢磨からも、多大な彩りを得られたのです。

 それから54年。中国の人口は7億から14億人へと倍増しました。周恩来のような指導者は見当たりません。習近平のもと建国100年を迎える2049年へとひた走る中国と、未だ半独立の状況を脱し得ていない日本。両国を取り巻く状況は様変わりしました。明治維新から敗戦そしてコロナ禍と、二つの「77年のサイクル」を経た日本は、まさに正念場です。

 あの時の「私の中国観に対しては種々の議論があるでしょう。あとは賢明な諸君の判断に一切任せます」と、「(日中間に金の橋を築く大業は)一代限りでなく、世紀を超えた長く遠い道のり」だとの発言がわが耳にこだまします。政権与党の一翼を担う公明党よ、バランサーの役割を忘れるな、と。(2022-1-26)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【51】「何のため」を追い求めてー小説『新・人間革命』第12巻「栄光」の章から考える/1-20

●人間精神の開拓作業としての〝詩心〟

 「地涌の友よ いま 生命の世紀の夜明けに 陣列は幾重にも布かれたのだ」ーこの出だしで始まる、山本伸一の詩「栄光への門出に」と共に、1968年(昭和43年)の新年は明けました。この中にある「生命の世紀」との表現に、読むものは皆、未来への重大な使命を感じざるを得なかったのです。「戦争と殺戮の20世紀から、平和と生命の尊厳の21世紀へと転換しゆくことこそ、学会が成し遂げようとする広宣流布の目的である」ことを、私も強く自覚しました。22歳になったばかりの私は、55歳で迎える21世紀に大きな希望を抱いたのです。

 しかし、現実は、前年暮れに大学での定期検診の結果、肺結核と診断され、一年の入院治療を医師から宣告されていました。それに従うことは、親が信仰をしていなかった当時の私には、到底できませんでした。学会から離れよ、と親がいうのは目に見えていたからです。我が身の境遇の厳しさに愕然としましたが、新年号の詩とともに、負けるものかと大いに発奮し、親に内緒で通院しながらの下宿での闘病生活を始めました。

 伸一のさまざまな詩には、私も本当に根源的な勇気と希望をいただきました。「少年のころから、詩が大好きだった」という伸一は、「年齢を重ね、人の心が殺伐としていく世相を目にするにつれ、この〝詩心〟ともいうべき豊かな精神の世界を、人間は取り戻さねばならないと、思うようになっていった」と、その心情を吐露しています。そして、「仏法を弘める広宣流布の運動は、詩心を復権させる、人間精神の開拓作業である」との結論に到達した経緯が語られていくのです。(290-296頁)

●創価学園の出発の日を迎えるまでの日々

 この年4月8日、創価学園(中学、高校)が開校され、第一回の入学式が行われました。1950年(昭和25年)に恩師戸田城聖から学校設立の構想を初めて聞いて18年の歳月が流れていました。その間に伸一が着々と準備を重ね続け、この日を迎えたことが明かされていきます。(296-330頁)

   その数々の動きの中で、学校設立に伴うお金の問題が最も注目されます。学校建設の候補地を探すために伸一は妻の峯子と共に、小平市の玉川上水が流れる閑静な土地に向かいました(昭和35年4月5日)。その地に決める決断をしたのですが、オニギリを食べながら二人が語り合う場面は一幅の名画の趣きがあります。設立に要する費用を心配する峯子に「大丈夫だよ。ぼくが働くよ。これから本を書いて、書いて、書き続けて、その印税で、世界的な学園を必ず作ってみせるよ」と、伸一は言い、峯子は微笑んで頷いた、とあります。このくだりを読むにつけ、偉大な創造者の気構えの壮大なることに打ちのめされる思いです。

 それから6年後、昭和41年4月10日。購入した土地を視察した際に、伸一はその雑木林のあたり一帯が美しく保たれていることに瞬時気付きます。調べると、近隣の同志たちの真心による清掃(6年間で100回を数えた)のおかげだったのです。「今、創価高校の建設の話を聞いて、寄付をしたいと言ってくださる同志も大勢いる。この清掃といい、寄付の件といい、無名の庶民である会員の皆様が、創価教育の城を築き、守ろうとしてくださっている」ーこの創立者あったればこそ、創価学園は今日まで見事な発展をしてきました。この頃から今まで、ずっと創価学園の姿を見てきた者として、ただ感動あるのみです。

●学園寮歌の作成経過と高校生の心意気

 7月14日に寮祭(栄光祭)が行われ、そこで高校生たちが作った寮歌が披露されます。この寮歌が完成するまでの経緯は、生徒たちからの60編ほどの歌詞が寮長の永峰保夫の元に集められるところから始まります。その中で、大倉裕也という高校生の作品が選ばれ、音楽の教師である杉田泰之が作曲を担当しました。そして、一番から四番までからなる寮歌「草木は萌ゆる」が完成したのです。(349-356頁)

   「草木は萌ゆる武蔵野の 花の香かぎし 鳳雛の 英知をみがくは 何のため 次代の世界を 担わんと 未来に羽ばたけ たくましく」ーこの歌を聴いた伸一は、「いい歌だね。さわやかで、すがすがしい。そして、力強い。二十一世紀に羽ばたかんとする、学園生の心意気がみなぎっている。名曲が完成したね」と感想を述べています。そして、すぐのちに、五番の歌詞を自ら作って、〝師弟合作〟にするのです。

 「富士が見えるぞ 武蔵野の 渓流清き 鳳雛の 平和をめざすは 何のため 輝く友の 道拓く 未来に羽ばたけ 君と僕」ー「輝く友の 道拓く」の箇所には、学園生のために命がけで道を拓こうと決めた、伸一自身の決意が込められていた、と記されています。

 この歌の中で繰り返される「何のため」こそ、創価学園の永遠の精神だといえます。(2022-1-20)

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【50】遥かなる人文字の東京文化祭ー小説『新・人間革命』第12巻「天舞」の章から考える/1-14

●創価文化会館の完成と落成入仏式での講演

    1967年(昭和42年)9月1日。東京・信濃町学会本部に隣接して創価文化会館が完成しました。創価学会の会館に「文化」のニ文字が冠せられるのは、この建物が初めてでした。昭和44年4月16日に私は公明新聞社に入社しましたが、その日の朝、偶々池田先生と本部の玄関先でお会いし、激励を受けました。その後、文化会館地下の集会室での勤行会に連ねさせていただきました。また、5階の大集会室で開かれた昭和52年の中野兄弟会総会では、池田先生の前で中野区男子部長として挨拶をさせていただく栄誉に浴しました。若き日の数々の思い出をこの文化会館で刻むことができたのです。

 この文化会館の落成入仏式で、山本伸一は「第三文明建設の新しい雄渾なる第一歩をこの立派な創価文化会館から踏み出せましたことを、私は最大の喜びとするものであります」と切り出したあと、以下、強く胸に響く重要な講演をします。(199頁)

 「広宣流布とは、一口にしていえば、日蓮大聖人の大仏法を根底とした、絢爛たる最高の文化社会の建設であります。(中略) すなわち、色心不ニの大生命哲学を根幹とした、中道主義による文明の開花であります。今や資本主義も、社会主義も行き詰まり、日本もアジアも、さらに世界も、大きな歴史の流れは、一日一日、一年一年、この中道主義に向かっていることは間違いありません。また、それが時代の趨勢であると、私は断言しておきたい」と、述べたのです。

 この時から55年ほどが経ち、社会主義は凋落し、資本主義も変質を余儀なくされています。日本にあって、「新しい資本主義」なる言葉を時の首相が使うというのも、行き詰まっているからに他なりません。一方で、今の世界は無思想、哲学なき時代とも言われています。日本での政治における中道主義をめぐる現状は悪戦苦闘が続いているように見えますが、暗雲を吹き払う動きが必ず起きる、いや起こしてみせると深く期している仲間たちは多いものと信じています。

●東京文化祭ー人文字と先輩と陰の苦労者たちと

 この年、10月15日。東京国立競技場で開かれた東京文化祭。「すべてが未曾有の祭典であった。すべてが感動の大ドラマだった。すべてが歓喜の大絵巻であった。すべてが希望の未来を映し出していた」ーこう表現される文化祭の一部始終がこと細かに描かれていきます。(204-270頁)

 このとてつもない文化祭に、私も参加できました。4万2千人の人文字の出演者の一人として。今なお不思議に記憶に残っているのは、色彩板(画用紙の束だったように記憶します)の片隅にあけられた穴から見た競技場の風景です。中央の指揮所から出される合図信号を見て、次々とその〝色彩紙〟をめくっていったのです。大学3年生だった私は興奮して、その穴からひたすら前方を覗いていました。その人文字の全貌を知ったのは、ずっと後のこと。映画を見て初めてその凄さを知りました。

 この一大ページェントの演技、演出の責任者は、副男子部長の久保田直広でした。後に男子部長になり、衆議院議員となった大久保直彦さんがモデルです。彼は民主音楽協会(民音)の職員として、海外の著名なバレエ団の受け入れにあたるなかで、舞台の研究をしてきたのです。「その経験から、文化祭を一つの舞台ととらえ、全体を貫くテーマを設けようと考えた」とされます。そのテーマは「世界平和」。見事な総合芸術の顕現化として、日本中をあっと言わせました。

 文化祭の準備から当日の動きのすべてに目配りした記述の最後に、伸一は陰で作業をしてきた場外の役員の激励にあたります。「皆さんが黙々と頑張ってくださったお陰で、大成功の文化祭となりました」ーその声がけに「使命に生きる青春の誇りが満ちあふれていた」との描写がなされて、読むものの胸を撃ちます。

 この後、伸一のところに、青年部幹部が文化祭大成功の報告にやってきます。皆の感想を聞きながら、伸一の顔は次第に曇っていきました。「青年部の首脳たちが、文化祭の成功に酔い、本人たちも気づかぬうちに、心に、うぬぼれと油断が兆しているのを感じた」のです。「みんな、自分たちは、大したことをやったと思っているんだろう!」との厳しい声と共に、陰の力があってこその成功であることを忘れている姿勢を嗜めていきました。「東京文化祭というのは、既にもう過去のことなんだ。過去の栄光に酔いしれていれば、待っているのは敗北だ」と、文化祭直後に、青年部幹部の慢心と油断を注意したのです。

 大久保さんは私の下宿先の中野区に隣接する杉並区在住で、ご自宅にも行ったことがあります。仰ぎ見る大先輩でしたが、親しくさせていただきました。いつも笑みを絶やさぬ兄貴分でした。その背中を見るたびに、文化祭での戦いが染み込んでいるのだと、思ったものです。(2022-1-14)

 

 

 

 

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【49】地域おこしの要諦ー小説『新・人間革命』第12巻「愛郷」の章から考える/1-8

●松代での担当幹部への厳しい心構え

  地震大国・日本ではどこでも、いつ何時、強い大地の揺れに襲われるか知れません。長野県松代は、1967年(昭和42年)の時点で、その2年ほど前から、群発地震の恐怖に苛まれていました。欧米の旅から帰国した山本伸一は、5月末から6月にかけて関西の同志の激励に走った後、6月23日に松代を訪れます。ここでは、その訪問に先立つ経緯が述べられます。その中で、同地を担当する幹部への伸一の指導が強く興味を惹きます。(113-118頁)

    昭和40年11月11日。松代に行く前にやってきた黒木昭に対して、伸一は「幹部が現地に行き、会合に出たり、メンバーと会うのは、ただ情報を伝えるためではない。勘違いされては困る。みんなを触発し、一念を変え、決意を固めさせるために行くんです」と。ーこれを聞いて、黒木は緊張と戸惑いの顔を見せます。それに対して、「では、どうすれば皆の一念を変えることができるのか」として、さらにこう述べています。

「それには、まず、中心者である君自身が、自分の手で、この松代に広布の一大拠点を築いてみせると、心の底から決意することだ」と強調し、「必死さがなければ、広布の新しい歴史など、開けるわけがない」「遊び半分の人間に何ができるというのだ」「幹部が、口先だけの演技じみた言動で、同志が動くなどと思っているなら、甚だしい思い上がりだ」と続きます。これに、黒木は「私自身が、全力で戦い、松代から日本を立て直すつもりで頑張り抜きます!」と、決意を込めて応えました。伸一は黒木の肩に手をかけ、「そうだその意気で戦ってくるんだ。松代の同志には、強い愛郷心と、深く大きな使命がある。必ず、変毒為薬することができる。一人ひとりが住民の依怙依託となって、地域を守り抜いていくんだ」と励ますのです。

 ここには、地震による危機的状況に陥った地域をどう励まし、立ち上がらせるかについての基本的な取り組み姿勢が余す所なく述べられています。この30年でも阪神淡路で、新潟で、熊本で、岩手、宮城、福島などで連続して続く大地震災害ーそのつど、この原理を思い起こして、多くの幹部が現場に赴き、戦いました。

 黒木昭のモデル黒柳明さんと初めて私が会ったのは、この場面のほぼ2年後。以後、凄まじいまでの迫力での参議院予算委での質疑や、ユーモア溢れる語り口調での応援演説、信じがたいテレビのバラエティ番組出演などを見て、そのつど驚き、感心し、呆れてもきました。同一人物であるとはとても思い難い立居振る舞いでした。しかし、共通していると見えるのはいつも〝この人独自の一途さ〟がうかがえることでした。こんな兄弟子と同時代を生きてきたことを誇りに思いつつ、今も時々電話などで言葉を交わしています。

●観光地として見事に飛翔した飛騨高山の戦い

  小諸、松代への訪問を経て、長野県での指導旅が、総合本部長・赤石雪夫への「逃げるんですか!」との一言、カメラマン矢車武史の大失敗への激励など、印象的なエピソードが盛り込まれて、描かれていきます。(119~158頁)  そして、舞台は岐阜県高山市へ。ここでは飛騨の歴史が語られた後、総支部長・土畑良蔵や10歳の少女・丸山圭子の体験や交流が描かれて胸を撃ちます。(159~195頁)  この中で、私が注目したいのは、飛騨高山の地域おこしについての伸一の考察と、現実の展開です。

 飛騨高山は今でこそ日本有数の観光地としての地位をしめていますが、伸一が初訪問する前年の昭和41年には20万人にも満たない観光客数でした。それが、43年には2倍になり、「74年(同49年)には約200万人となり」ました。今はご多分に漏れずコロナ禍で苦境に喘いでいますが、昭和40年代後半の激増ぶりは本当に凄い数字です。

 この辺りの背景について、「こうした繁栄の陰には、地域の発展を祈り、我が使命としてきた、多くの同志の知恵と献身が光っている」とされ、「地域の振興に尽力してきた学会員も少なくない」とあります。そして、「村(町)おこしや地域の活性化は、どこでも切実な問題であるが、特に過疎の村や山間の地などにとっては、存亡をかけた大テーマであろう。だが、住民が、その地に失望し、あきらめをいだいている限り、地域の繁栄はありえない。地域を活性化する源泉は、住民一人ひとりの愛郷の心であり、自らが地域建設の主体者であるとの自覚にある」と結論づけられています。

 このくだりを読んで直ちに兵庫県各地の過疎地域が思い浮かびます。なかでも但馬の美方郡村岡町で頑張る元町議の姿です。なかなか実を結ばない戦いに、時にあきらめに近い思いが湧き出てきたようですが、今は思い直して懸命に考えられるだけの全てを結集して地域おこしに取り組んでいます。私もまずは彼自身への激励に全力を注いでいます。(2022-1-8)

 

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【48】油断は禁物、小事が大事ー小説『新・人間革命』第12巻「新緑」の章から考える/1-2

●真剣ということ
 
 どの言葉も、最も的確に、相手の心をとらえていた。魂の琴線をかき鳴らし、歓喜の調べ、勇気の調べを奏でた。ー山本伸一は1967年(昭和42年)5月13日にハワイに誕生した寺院の入仏式に出席した後、ハワイ会館で待ち受けていた会員一人ひとりに激励に次ぐ激励を展開していきますが、その際の情景がこう語られています。そして、それをつぶさにそばで見ていた日系アメリカ人幹部が、のちに「どうすれば、ああいう言葉をかけることができるのでしょうか」と伸一に問いかけます。(22-24頁)
 それ対する答えは「私は真剣なんです!」。さらに、「特別な秘訣や技巧などはない。真剣ーこの二字のなかには、すべてが含まれる。真剣であれば、勇気も出る。力も湧く。知恵も回る」と続きます。実は、この日系アメリカ人幹部の問いは、そのまま私自身が初めて池田先生に会い、その場に居合わせた仲間たちへの様々な激励に接した時(昭和43年4月26日)に抱いた思いと同じでした。いったいどうしてこのように、それぞれの人間にピッタリの言葉が泉のように湧き出でてくるのだろうと、不思議でならなかったのです。
 ふざけや、油断、怠惰など一切寄せつけない「真剣さ」こそがその源泉であることを、ここの記述から知って、改めて慄然とする思いです。あの日に眼前で展開された、凄まじいまでの一人ひとりへの懇切丁寧な言葉の連射は、半世紀を超えて今になお鮮明です。様々な局面で、ややもすれば、安易な姿勢に陥りがちな自分は、痛烈に反省するしかありません。

 ●「小事が大事」という原理

 この章における伸一の海外各国の訪問先は、アメリカ(ハワイ、ロサンゼルス、ニューヨーク)から、フランス、イタリア、スイス、オランダと移っていきます。各地における会員との「心の結合」がつぶさに描かれており胸を撃たずにはおきません。フランスでは交通事故を起こした川崎鋭治への、こと細やかな激励が展開されています。(48-62頁)

 半年間にも及ぶ入院治療が必要になった大事故を起こした彼の事故の顛末は、我々の日常に起こりうることで、まさに身につまされます。疲れが溜まっていたにも関わらず、長時間の運転をしたのです。その背後には、「信心をしているから」「題目をあげているから」大丈夫だとの思いがあったと推察されます。それが大事故に繋がってしまったのですが、「小さなミスや小さな手抜きが、魔のつけ込む隙を与え、取り返しのつかない大事故を生むのだ。ゆえに小事が大事なのである」と記述されています。大聖人の「小事つもりて大事となる」(御書1595頁)との御金言をひいて。
 
 私も交通事故については大きな体験が二つほどあります。一つは、疲れているのに運転をして、ほんの一瞬目を瞑ってしまい道路左の橋の欄干に擦ってしまったことです。もし、右にハンドルを切っていたら、対向車と衝突してた可能性大でした。もう一つは、妻を助手席に乗せて運転していた際に、突然左前輪がパンクしたのです。スピードは殆ど出していず、一方通行三車線の真ん中を走っていたため、これも助かりました。
 実は、この日の前日、遠出をした帰りに高速道路を走って帰るのを止めて、一般道をゆっくり帰ったのです。もし、高速道を走っていたら、間違いなく、車は横転して、事故死も起こり得たと心底からゾッとしました。おかげさまでこのように私の場合は、不思議にも守られました。しかし、二度あることは三度あるとの例えもあります。以後ハンドルは極力握らないようにとの妻の厳命を受けたしだいです。

 ●子どもへの信心の継承

 スイスのチューリッヒ空港に出迎えた高山光次郎という青年と、その母サチについての体験談は、子どもと母親をめぐる信心の継承について、深く考えるきっかけになります。(86-91頁)

 「我が子の幸せを願い、信心をさせたいという母の一念は、必ず通じていくものだ。それには、絶対に願いを成就させるのだと決めて、弛まず、決してあきらめずに、真剣に唱題し抜いていくことである」とあります。また、「子どもは、日々、親の姿、生き方を見て、信仰への理解と共感を深めていく」とも。
 
 こうした指導はしばしば聞き、目にするのですが、現実はなかなか簡単にはいかないものだともいえます。私も長い間の信仰生活の中で、様々のケースを見てきましたが、見事に親子の継承がうまくいってる場合と、そうでないケースがあります。それを分つものは何か、と考えた時に、やはり、「一念の深さ」だと思います。心のどこかに、子どもには子どもの人生がある、信心を強制してもうまくいかない、といった迷いがあるなら、やはり結果は出ないのです。「子どもに信心を継承していくことは仏法者としての責務であり、そこにこそ、真実の愛がある」との記述はズッシリと重く響いてきます。(2022-1-2)
 

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【47】「権力の魔性」との不断の戦いー小説『新・人間革命』第11巻「躍進」の章から考える/12-29

●公明党の衆議院進出と党の未来像の発表

 1967年(昭和42年)1月6日に東京・千代田区の日本武道館で開かれた新春幹部会は、極めて画期的なものになりました。山本伸一が公明党の創立者として、党のビジョンを明らかにしたのです。その背景には衆議院進出を図ろうとする公明党に対する強い警戒の空気が世に充満していたことがあります。それを粉砕するべく、党の未来像を明確にしたのです。(331-333頁)

 「中道政治で平和と繁栄の新社会」の建設をモットーに掲げ、内政、外交に渡る様々な方向性を打ち出しました。ここで、注目されるのは、中道政治の中身を明確に示したことです。「一言でいえば、仏法の中道主義を根底にし、その生命哲学にもとづく人間性尊重、慈悲の政治ということになります」と述べ、更に、人間性尊重の政治とは、「人間生命の限りない尊厳にもとづき、各人各人の個性を重んじ、あらゆる人が最大限の幸福生活を満喫していけるようにすること」であり、「社会の一切の機構も、文化も、そのためにあるものと考え、政治を行う」ものだと、定義づけました。

 この時から半世紀を超える時が流れました。中道政治を標榜する公明党は、今、保守政治の自民党を内側から改革するために、〝与党内野党〟たるべく戦っています。と同時に、革新・リベラルの野党勢力との戦いも進めています。そこには、まさに二刀流の使い手としての役割が求められているわけです。一部に、昨今の公明党は自民党に取り込まれており、中道主義が見えないとの評価があります。「安定」を重視するあまり、「改革」が軽視されていないかとの懸念でしょう。この懸念を吹き飛ばす戦いが望まれます。

●権力の魔性との戦い未だ終わらず

 初の衆議院選で公明党は見事に25人の当選を果たします。挨拶にきた党幹部たちに対して、伸一は極めて重要な指導をします。将来、保守、革新それぞれの勢力と妥協し、様々な政策選択をすることになるだろうが、「根本は国民の幸福のためであることを忘れてはならない」し、「政権に参画したとしても、徹して権力の魔性とは戦い抜くことです。そうでなければ、公明党の存在意義はなくなってしまう」と厳命を下しています。

 「公明党の掲げる中道政治、すなわち人間主義の政治が、日本の潮となり、世界の政治哲学の潮流となるかどうかに、二十一世紀はかかっていると、伸一は考えていた」との記述に触れて、私は身震いする思いになります。「権力の魔性」との戦い以前に、〝金銭の魔力〟や〝生活の乱れ〟による〝自損事故〟で、残念ながら脱落してしまう議員が少数とはいえ、散見されます。「政治革命」への戦い未だ止まずの思いで、「中道政治」の確立に向けて戦わねば、と思うことしきりです。

●「皆が燃えていた」55年前と今との対比

 会長就任7周年の5月3日の直前に、伸一は三年半ぶりに新潟県を訪れ、会館の起工式に臨み、記念撮影など同志の激励に力を注ぎます。その際に9年前の〝佐渡での指導〟が語られ、そして日蓮大聖人の獅子王のごとき戦いに触れられていくのです。(354-400頁)

  この中で、伸一は、「日々、自分を磨き鍛えていくこと、つまり持続の信心」の重要性を語っています。「信心とは間断なき魔との闘争であり、仏とは戦い続ける人のことです。その戦いのなかにこそ、自身の生命の輝きがあり、黄金の人生がある」ー佐渡の金山にこと寄せて、「黄金の人生論」が展開されていきます。

 このくだりを読んで、「躍進」の章の冒頭の記述を改めて思い起こさざるをえません。「皆が燃えていた。自分たちが一生懸命に動いた分だけ、未聞の広宣流布の扉が確実に開かれ、時代が、社会が、大きく変わっていく手ごたえを、誰もが感じていた」との記述です。昭和42年と令和3年。55年ほどの時間差があります。「皆が燃えていた」当時と今と。仮に対比するとしたら、「持続の信心」にいささかの狂いが生じているのではないか、と自省する次第です。

 このあと、広宣流布途上において大難が必至であることが強調されます。そして、公明党が衆議院に進出してから一段とその予感がする、と。「仏法の慈悲を根底にした人間主義の政治の実現に、本格的に着手した」創価学会の動きは、政治権力の悪を断とうとするものであり、「諫暁に通じるがゆえに、それを排除せんとする画策がなされ」ていくのは当然だ、と。その後、時代は、まさにここでの記述通りに進展し、創価学会への厳しい波濤が増していくのです。

 今、公明党の与党化の中で、権力やその周辺との軋轢はなりを潜め、奇妙なまでの静穏さが目立ちます。果たして、これは前進と見るべきなのでしょうか。少なくとも権力の魔性との戦いに終わりはないことだけは、はっきりしています。(2021-12-28)

 

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【46】創価の大運動と中道主義ー小説『新・人間革命』第11巻「常勝」から考える/12-23

●「7つの鐘」という壮大なロマン

 行動こそが新しい波を起こす。行動こそが人を触発する。そして、行動こそが、民衆の勝利の歴史を織り成すのであるー北南米指導から帰った伸一は、全国を「疾風のごとく」、会員の激励に走ります。そんな中、1966年(昭和41年)5月3日の本部総会で、創価学会が広宣流布の指標としてきた「七つの鐘」(昭和5年の学会創立から、7年ごとを節目とする目標)について再確認するとともに、「第七の鐘」の鳴り終わる昭和54年を目指そうと、呼びかけました。

 入会から一年経ったばかりだった私は、この「七つの鐘」という表現に接して、心底から感動を覚えました。その時点では第六の鐘(昭和40-47年)が鳴っていたのですが、更に第七の鐘(昭和47-54年)を目指そうとの師匠の大号令に壮大な〝人間革命のロマン〟を感じました。その後2001年からは第二の「七つの鐘」が鳴り始めており、来年2022年より「第四の鐘」が鳴り始めることになります。当面のゴールは、2050年。さらに池田先生は、23世紀半ばまで見据えた展望を後に表明されています。その構想の遠大さにただただ驚くばかりです。

●雨の文化祭と「常勝関西」の淵源

   1966年(昭和41年)9月18日。兵庫県西宮市の甲子園球場での「関西文化祭」は、台風の影響による雨の中で開かれました。このため後々「雨の文化祭」と呼称されることになりますが、関西創価学会にとって「雨」は、また特別な意味を持つことが記されています。実は雨中での行事はこの時で、三度目。最初は、1956年(昭和31年)4月、大阪、堺の二支部連合総会。「雨に打たれながら、同志は誓いを新たにし、それが一万一千百十一世帯の弘教をはじめ、『常勝』の不滅の金字塔を打ち立てる起爆剤となった」のです。次に翌年の7月17日の中之島中央公会堂での「大阪大会」。伸一が不当逮捕され、出獄した日の「雨」でした。(242-272頁)

 「試練の風雨のなかで、決然と勝利の旗を打ち立ててきたのが、まぎれもなく、関西の広布の歴史であった」との記述に表れているように、この時の文化祭の一部始終は、「常勝関西」の深い基盤なす描写の連続に思われます。私は関西人でありながら、自らの信仰における実践場が東京であったため、この「雨の甲子園」を始めとする関西の闘いと、池田先生のそれへの称賛を常に眩しく感じ、時に嫉妬すら覚えてきたことを告白します。

 後に、その関西の只中で選挙を闘い、数多の人々の壮絶なまでのご支援をいただきました。その大庶民群のど根性の凄さを何度も味わったのですが、その背景に師匠の圧倒的な労苦の作業があることを痛切に知るに至りました。

●ベトナム戦争の最中での中道主義からの提言

 この頃、アジアを暗雲が覆っていました。ベトナム戦争の泥沼化です。第二次世界大戦が終わって20年ほどしか経たぬ段階で、戦勝国同士間の思想的対立が混迷を極め、ベトナムを舞台に火を吹いたのです。ここではこの戦争の経緯が詳細に語られています。(273-317頁)

 伸一はこの状況下にあって、苦悩を深め、激しく心を痛めていきます。1966年11月3日の青年部総会で、仏法の平和思想を語る中で、戦争解決に向けての重要な提言をします。

 「日蓮仏法に基づき、肉体、物質にも、心、精神にも偏することのない、生命の全体像に立脚した「中道主義」を掲げ、「生命の尊厳」の時代を築きゆくのが、創価の大運動である」との一節こそ、米ソ対決の修羅場と化した、ベトナム救済への大宣言でした。この信念をもとに、伸一は仏法の「空仮中の三諦」論と中道主義について述べていきます。「三諦」という生命の法理に基づいて、現代の支配的思想を位置付けるくだりはまさに圧巻です。(286頁)

   「唯心思想は、空諦の一部分を説いたものといえますし、唯物主義は仮諦の一部分を説いたにすぎません。実存主義もまた、中諦の一部分の哲理にすぎない。しかも、その三諦は別々であり、あくまでも爾前経の域を出ません」「この唯心、唯物、実存の各思想・哲学を包含し、またそれらを指導しきっていく中道の哲学、中道思想こそ、日蓮大聖人の仏法である」ーこの断言に、希望の灯を見た多くの青年たちが断固とした決意で、立ち上がっていきました。

 更に、この後、現実の日本政治における公明党の役割について、改めて、党利党略でなく、「国民大衆の利益を第一義に、大衆福祉をめざす政策を実践する政治」が「永遠の在り方」であると断言しています。「常に現実的であると同時に大局観に立った、高い次元の政策を実践していくというのが、中道主義に生きる政治家の行動でなければなりません」ーこの指針が、現在ただ今、一段と強く胸に迫ってくるのです。自公連立20年余で、中道主義を埋没させてなるものか、と。(2021-12-23)

 

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【45】人に光を与える仕事ー小説『新・人間革命』第11巻「開墾」の章から考える/12-17

●ペルー・リマで示された三つの要諦

「人間がなしうる最も素晴らしいことは人に光を与える仕事である」(南米解放の父・シモン・ボリバル)ーこの印象的な言葉で始まる章の「時」は、1966年(昭和41年)3月。「舞台」は、ペルー。そしてアルゼンチン、パラグアイ、ボリビア、ドミニカへと移っていきます。今から半世紀よりもっと前に、中南米各地に伸一一行は、光を与えて行くのですが、その闘いの一部始終は読むものをして深い感動に誘います。

 「人がどうあれ、自分が広宣流布のために苦労し、働いた分は、すべて自身の功徳となり、福運なっていくのが仏法です。人の目はごまかすことができても、峻厳な仏法の因果の理法は、絶対にごまかせない」ーリマのホテルに集まった「先駆けの友」を前に、伸一は、人生の大勝利者になるための三つの要諦を語っていくのです。(137-141頁)

 第一はお題目。「嬉しい時も、悲しい時も、善きにつけ、悪しきにつけ、何があっても、ただひたすら、題目を唱え抜いていくことです。これが幸福の直道です」第二の要諦は教学。「その仰せを信じて、心を定め、御文のままに精進していく。そうすれば、〝まさにその通りだ!〟と、実感し、御本尊への大確信をもつことができる」。第三の要諦は信心の持続。「人生、最後が大事です。一時期は、どんなに頑張っていようが、やがて、信心から離れ、学会から離れていってしまうならば、なんにもならない」

 「一言一言、メンバーの生命の奥深く、開墾のクワを振るう思いで、全力を注いでの指導であった」ーこのくだりを読み、まさに今から56年前(昭和43年4月26日)に池田先生にお会いし、直接頂いた指導を思い起こします。肺結核に悩んでいた私に、「お題目だよ、いまこの瞬間から百万遍の題目を決意するんだ。必ず治る。百万遍でダメだったら、また百万遍と、治るまで続けるんだ。大丈夫だ」と。このご指導を胸に、『このやまひは仏の御はからひか・そのゆへは浄名経・涅槃経には病ある人仏になるべきよしとかれて候、病によりて道心はをこり候なり』(妙心尼御前御返事1480頁)の一節を身で読むべく、来る日も来る日も頑張りました。そして、医者が驚く結果が出たのが5カ月後。その報告を同年10月8日に再び先生にお会いできた日にしたのです。

 「人生、最後が大事」ーちょうど2030年の創立100周年まで10年という時点と、私が後期高齢者の仲間入りした時とが重なります。85歳へのカウントダウンが始まりました。既に1年が経過。どんなゴールを迎えられるか。「人に光を与える仕事」のたとえ真似事でもせねばと、〝逆転大勝利〟を深く期しているところです。

●アルゼンチンの苦闘の27年と栄光の今

 伸一のブラジル訪問とは別に、少し先行して春木征一郎ら幹部がアルゼンチンを訪れていました。ほぼ同時並行の南米指導でしたが、伸一の姿が見えないブエノスアイレスの会合を担当した春木は、全魂を込めて失望する同志の激励にあたります。「今日はアルゼンチンの新しい出発の日です。生きるということは、歴史を創るということです。それぞれが、自身の幸福とアルゼンチンの広布の新しい歴史を、創っていこうではありませんか!」との言葉に「魂の閃光が闇を破るような、誓いの拍手が轟いた」と、表現されています。(166頁)

    春木征一郎のモデルは元プロ野球・東急セネタースの白木義一郎投手です。関西のあの歴史を作った昭和31年の参議院選挙の候補者でもありました。関西創価学会の最高責任者として、全地域の津々浦々まで足を運び、また手紙や葉書を書いて激励されました。その足跡の凄さは今なお語り継がれています。私はつい先日、兵庫県の北西端・美方郡のT元女性町議と兵庫県の議員OB会で会いました。彼女も入信当初に白木さんから受けた激励が忘れられないと語っていました。常勝関西の礎を創った凄い大先輩を心底から誇りに思います。

 アルゼンチンに伸一が初訪問するのは1993年(平成5年)のことで、この時より27年後。かくも長き間、待ち望んだ人たちの心情が思いやられます。その間、伸一は「アルゼンチン大学関係者や芸術家、駐日大使、また大統領と会見するなど、日亜両国の友好と教育・文化交流に全力を注いできた」のです。また、春木も同志たちに真心こもった激励の手紙を送り続けたに違いありません。

 「1990年(平成2年)には、アルゼンチン政府から、最高栄誉の一つである『大十字五月勲章』が山本伸一に贈られ、各大学からの顕彰も相次ぐことになる」とあります。ちょうどそのくだりを読んだ折、聖教新聞(12月9日付け)一面を見ました。ブエノスアイレス市から、創価学会の教育・平和推進への多大な功績をたたえる顕彰状が贈呈されたとの報道がなされていたのです。(2021-12-16)

 

 

 

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【44】時空を超えた〝共戦〟ー小説『新・人間革命』第11巻「暁光」から考える/12-13

●ブラジル広布の最前線での偏見を払拭する闘い

 1966年(昭和41年)3月10日。伸一はニューヨークからブラジル・リオデジャネイロに向かいます。6年前に続き二度目の訪伯でした。同国は2年前に政変があり、民政から軍政に変わったばかりで、独裁的傾向を強め、政情も不安定でした。創価学会の進出についても、無理解のもたらす悪意に満ちた情報が流され、警察の監視も異常を極めていたのです。

 時あたかも公明党の結成直後でもあり、創価学会がブラジルでも政党を作るのではないかとの疑問が渦巻いていました。そうした空気を背景に、伸一はジャーナリズムのインタビューを受けて、誤認識を正すために積極的に対話を続けます。(16-26頁)

   「宗教団体がなぜ政界に進出したのか」「政教一致を目指すのか」「ブラジルでも政党をつくる計画はあるか」ーなどの質問に、「(各国での政治への対応は)その国のメンバーが話し合って決めるべき問題」で、個人的考えとして「政党結成の必要は全くない」と明確に答えました。更に、日本に政党を作ったのは、「日本の再軍備という問題」が理由ですと述べています。「かつて日本は、アジアを侵略したにもかかわらず、本当の意味での、反省もない。それで軍備に力を入れればどうなるのか。軍事大国化し、間違った方向に進みはしないか」との懸念があったことを表明しました。

 こうしたやりとりを通じて、ジャーナリストがそれまでの自身の勘違いを改めて、客観的な報道をしたことが明らかにされていきます。これについて「真実は、語らなければわからない。沈黙していれば誤解や偏見のままで、終わってしまい、結果的に誤りを容認し、肯定することになる」と、結論づけられています。

 私はこのくだりに強い共感を覚えます。創価学会、公明党の動きについて、本当のことをどんどん発信しなければ、誤解を呼びかねないと思います。公明党については、与党化してから20年を超えた現在、権力への批判が弱まってる懸念があります。私はそうであってはならぬと、積極的に発言することを心がけています。

●リオの一粒種の闘いとパウロ・フレイレとの〝共戦〟

   ブラジルは、日本からの移民が最も多い国であり、日系人も沢山在住し、2世、3世と後継者も数多くいます。しかし、日系人が多いサンパウロの広布拡大ぶりに比べて、リオデジャネイロは立ち遅れていました。その地での〝一粒種〟として、造船会社の技術移住者夫婦が闘いゆく姿は感動的です。(27-33頁)

   リオの広宣流布を本格的に進めるためには、日系人だけでなく、現地の人々に布教をせねばと、ポルトガル語を必至に覚えて、懸命に仏法を語っていった夫妻の日常が胸を打ちます。「来る日も、来る日も、懸命に題目を唱えては、仏法対話を日課のように続け抜いていった」「やがてそのなかから、一緒に勤行をする人が誕生し、病を克服した体験や、経済苦を打開した体験が生まれ始めた。この生き生きと蘇っていく事実の姿を目の当たりにして、さらに信心をする人が増えていった」ー5年後には166世帯にまで拡大していったのです。

 同地を訪れた伸一に、夫妻は何千世帯のサンパウロに比べて遅れている現状に、もどかしさと申し訳なさを感じて「恥ずかしい限りです」と、責任感溢れる言葉を示すのでした。伸一は、たった一世帯から「百六十六倍に発展したことになる」と、その労をねぎらい、焦る必要はない、と次のように激励します。

「大事なことは、最初の決意を忘れることなく、一日一日が前進であった、勝利であったという、悔いなき力強い歴史を、我が身につづっていくことです。つまり、〝今日、何をするのか〟〝今、何をするのか〟を、常に問い続け、必死になって、挑戦し、行動し抜いていくことです。(中略) すなわち、広宣流布のための連続闘争こそ、仏の所作を実践している尊い姿であり絶対的幸福への軌道なんです」と。

 同じ頃、日本の東京で、まさにこの指導通りの日々を暮らしていた自分を思い出します。あれから55年余。「連続闘争」がいつのまにか、「非連続」や「だらだら」になっていないかと、深く反省します。生きてる限りは「連続闘争」の日々であらねば、と。

 ブラジルでの広布に思いを寄せている矢先に、同国北東部の名門学府ペルナンブコ連邦大学から、池田先生に名誉博士号が贈られたとの聖教新聞の記事(12月7日付)が目に飛び込んできました。この記事の中で、パウロ・フレイレという〝ブラジル教育の父〟と呼ばれる同大学の卒業生のことが宣揚されていました。「貧しい民衆の教育に生涯をささげ、1964年の軍事クーデターで祖国を追われた後も識字教育を推進した」と。このくだりを読み、その直後の池田先生の訪伯を思い、時間と空間を超えたパウロ・フレイレとの〝共戦〟を実感せざるを得ないのです。(2021-12-13)

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【43】オンリーワンへの工夫ー小説『新・人間革命』第10巻「桂冠」の章から考える/12-6

●病気の原因についての事細かなアドバイス

 1965年(昭和40年)11月4日関西本部で奈良県本部の最前線幹部との記念撮影会が行われました。撮影の合間に、伸一は体の悪い人がいるかどうかを聞き、様々なアドバイスを個別にしていきます。そのうち病の原因について、天台大師の『摩訶止観』を引用し、日蓮大聖人が六つに分類されていることを紹介したうえで、詳しく述べています。(296〜307頁)

    『一には四大順ならざるゆえに病む・二には飲食節ならざる故に病む・三には座禅調わざる故に病む・四には鬼頼りを得る・五には魔の所為・六には業の起こるが故に病む』(御書1009頁)ーこの六つの原因を御書の御文に即して、説明されていますが、一〜三が、気候の不順、飲食と生活の不節制を指すことは容易にわかります。問題は四〜六です。四の鬼とは、「体の外側から襲いかかる病因」を意味し、五の魔は、「生命に内在する各種の衝動や欲求などが心身の正常な働きを混乱させること」です。さらに、六の業とは、「生命自体がもつ歪み、傾向性、宿業が病気の原因になっている場合」とされています。

 生命力の源泉たる信心に、医学の力を借りて四までは治せる(ウイルスによるものも含む)が、五の魔と六の業によるものは、医学の力を尽くしてもそれだけでは治らず、「御本尊への強い信心によって、魔を打ち破り、業を転換していく以外にない」と断言されています。(300頁)

  「魔と業」ー私はこれを人が生きていく中で、ヨコ軸とタテ軸双方から襲ってくる二大障害と捉えています。人が今生きている環境の次元のものがヨコ軸、一方人が過去世から生きてきた歴史の次元からのものがタテ軸です。

 人は日常的に、強気と弱気が交錯する中で生きています。最も卑近な例でいえば、ついさっきまで強気で積極的な姿勢でいたのに、些細なことに影響を受け弱気になり、消極的になるケースが専らです。これはいわゆる「魔が差す」と言われる次元での話です。仏法でいう魔とは、仏道修行の途上でそれを妨げようとする様々な働きを意味します。したがって、魔に打ち勝つ、魔に負けるとの表現が用いられるのです。

 魔が人の生存する環境の中で、意識内の動向に左右されるものであるのに比し、全くそれが及ばない、過去世から現世に至る、意識外の事象に影響されるものが業だと思います。生まれつき人が持っている生命の傾向性とでもいうのでしょうか。人智を超えたところで人は幸不幸に左右されます。そういった枠組みの全貌を業というのです。いわゆる運命的な、人間存在の基底部の色合いを業というのだと私は捉えています。

 これらは通常の自覚や意識を強く持っていても、とても対応しきれません。それを打ち破り、転換していくには、御本尊への真剣な唱題しかない、というのが結論です。

●日の当たらぬポジションに立ったらどう対処するか

 この年の11月13日に起こったパナマ船籍の観光船ヤーマスキャッスル号の火災を通して、小さな失敗の積み重ねが大事故に至ることが語られ、小事が大事であり、大問題も小さなことから始まると指摘されています。それに続いて、伸一は年末に学会本部と聖教新聞社の各部署をくまなく点検する中で、陰で黙々と清掃作業に取り組む職員を見出します。ここから、小事を疎かにせぬ重要性について言及されていくのです。(338-339頁)

 「伸一は彼に桂冠を捧げる思いで、深く頭を下げ、丁重に礼を言った。ひとことに本部職員といっても、脚光を浴びる、華やかな部署で働く人もいれば、目立たぬ職場で、陰で本部を支える人もいる。人は日の当たる場所にいて、期待され、賞賛されている時には、はりきりもする。だが、その部署や立場を外れた時に、どこまで真剣に、意欲的に、仕事に取り組んでいけるかである」

 私は自分にしかできないことに取り組むことが、陰に回った時における自分の身の処し方で最も大事なことではないかと、考えます。従来と同じ次元で自分の立居振る舞いを考えるのではなく、全く新しい角度から、挑むことが大事です。自分にしかできないことをやるという自負心が人を支え、自身の自己肯定感に繋がっていくと思います。オンリーワンの心意気です。とりわけ高年齢になったら、より一層この気持ちが重要だと感じます。

 超高齢社会を迎える中で、かつては60-70歳でゴールを迎えることができて、それなりに〝終わりよければ全てよし〟ということが通用してきました。ところが、今ではそこから10-20年と平均寿命が延びていることから、認知症や被害妄想狂といった不幸が襲ってきています。若き日にどんな頑張った人でも悲惨な末路を迎えかねないのです。ここでも、最後まで信仰を貫く上での独自の工夫とでもいうべきものが必要になってくるのではないでしょうか。(2021-12-13 一部最修正)

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