【80】中国首脳との深くあつい出会い──小説『新・人間革命』第20巻「信義の絆」の章から考える/8-10

●周恩来首相との感動的、劇的な出会い

 ソ連訪問から2ヶ月ほどが過ぎた1974年(昭和49年)11月中旬。中国の北京大学からの招待状が伸一に届きました。12月2日の2回目の訪中までに伸一は、第一次訪中の感想を述べた著作(『中国の人間革命』)の執筆など、「日中友好」の絆を深めるあらゆる手立てを講じていました。この章の冒頭は、両国の関係改善から強化について、心の配り方について、深く考えさせられる示唆に富んだ内容です。(297-326頁)

    中ソの関係悪化という背景を受けて、両国の間を取り持つ糸口となる働きをしたいとする伸一は、鄧小平副総理との会談で「ソ連は中国を攻めようとはしていません」との見解を伝えました。同副総理は「それは大変に難しい判断を必要とします」と述べただけ。多くを語りませんでした。会談の冒頭での「問題は複雑です」との発言と合わせ、中国側の裏事情を感じさせるに十分な様子でした。伸一は機敏な対応で話題を変えます。このくだりからは、私は手に汗握る外交の機微といったものを感じ、興味津々の思いを深めました。(329頁)

   そして最終の舞台で周恩来総理との劇的な場面が登場します。体調が極めて悪く入院中であった同首相から、会いたいとの強い希望が伝えられてきたのです。

 【総理の手は白かった。衰弱した晩年の戸田城聖の手に似ていた。伸一は胸を突かれた。二人は互いに真っすぐに見つめ合った。伸一は痩せた総理の全身から発する壮絶な気迫を感じた。時刻は12月5日午後9時55分であった】76歳と46歳──「最初で最後の、生涯でただ一度だけの語らいとなった。しかし、その友情は永遠の契りとなり、信義の絆となった。総理の心は伸一の胸に、注ぎ込まれたのである」──こんなにも心に食い込む出会いの表現に、私はかつてであったことはありません。(338頁。345頁)

 この語らいで、伸一が「中国は世界平和の中軸となる国です」と述べたことに対して、周総理は「私たちは超大国にはなりません。また、今の中国は、まだ経済的にも豊かではありません。しかし、世界に対して貢献はしてまいります」と応じています。ここで使われた「超大国」とは、当時の米ソ両国を意識した、世界の覇権を求める国という意味でしょう。今、中国は経済的には米国に迫りつつあり、あらゆる意味でその「貢献」が問われています。周恩来と習近平──2人の「しゅう」が同じ「心根」を持った人であって欲しい、ということが率直な日本人の願望です。有為転変の世界をリアルなまなざしで見つめるしかない、と私は思うのです。

●ワルトハイム国連事務総長との交流

 翌1975年(昭和50年)1月6日。伸一は早くも今度は、米国に飛びます。10日には国連本部を訪問して、ワルトハイム事務総長と会談しました。ここでは、核兵器絶滅の道、人口問題の見解、国連大学の方向性などについての見解を書簡にして手渡すと共に、1000万人を超える『戦争絶滅、核廃絶を訴える署名』簿をも手渡しました。この背後には、平和を願う青年たちの努力に精いっぱい報いたいとの伸一の熱い思いがありました。(364-366頁)

 この時、伸一は「国連を守る世界市民の会」の提起をしていることが注目されます。〝人類は戦争という愚行と決別し、同じ地球民族として、力を合わせて生きねばならない。それには国家や、民族、宗教等々の枠を超えて、国連を中心に、世界市民として団結し、地球の恒久平和をめざすことだ〟との信念と決意が、その背景にありました。

 国家と国家がエゴをツノ突き合わせる事態は、ますます強まる一方です。そうした時に国家を超えた市民の連帯の渦こそ、重要だとの思いが伸一にはあったのです。当時、既に創価学会SGIの動きも底流にはありました。その確かなる手応えがこうした発言の背後にあったと思われます。それから50年足らず、分断の動き強まり、国連の危機は一段と激しさを増すばかり。伸一の先見の明は明らかなのです。

●キッシンジャー米国務長官との語らい

 ついで、キッシンジャー米国務長官との初の会談がワシントンD.C.で行われます。4年前の1971年(昭和46年)に、米中対立改善への流れを作ったニクソンの電撃的訪中の舞台回しをしたのが、同氏でした。米ソ戦略兵器制限交渉、ベトナム戦争の米軍漸次撤退の動きなどにおける彼の平和への屈強な信念を、伸一は見逃しませんでした。世界の平和に向けて語り合う日を待っていたのです。その思いが遂に実現しました。中東情勢をめぐって、2人は深い語らいをします。

 私は、この1年間における伸一の民間外交にこそ、世界平和を希求する真骨頂を見る思いがします。国家を担う政治家でも、外交の衝にあたる官僚でもない、こんな人物がこれまでこの世界にいたろうか、と深い尊敬の念を抱きます。(2022-8-11)

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【79】「歴史の逆転」は許されない──小説『新・人間革命』第20巻「懸け橋」の章から考える/8-3

●全ては、祈りから始めるとの行動原則

 中国からソ連(現、ロシア)へ。中ソ対立の懸案を解決すべく伸一は、1974年(昭和49年)9月8日、モスクワ大学の招待を受けて、かの国を初訪問します。10日間の滞在でした。大目的は世界の平和を確立することでありますが、その実現には教育・文化交流を通して、人間と人間を友情と信頼の絆で結ぶことしかないというのが伸一の信念でした。その旅のスタートにおける伸一と峯子の行動が読むものの心を打ちます。(172-173頁)

  【伸一と峯子は、荷物を整理すると、すぐに唱題を始めた。祈りから始める──それが彼らの信念であり、行動の原則であった。祈りは誓いであり、決意である。小声ではあるが、真剣な唱題であった。二人は、ソ連の人々の幸福と平和を、そして、いつの日か、地涌の菩薩がこの地にも誕生し、乱舞することを懸命に祈り、念じた。】

 祈りから始めるということは、これまで幾たびか先輩から聞かされてきました。あれこれと思い悩むよりも、まず仏壇の前に座り、ことの成就を祈念するとの原則です。若き日より、観念論に陥りがちであった私は、どうしても「祈り」=観念という定番のパターンを思い浮かべがちでした。それを打ち砕くには、「祈り即行動」との方式に慣れることだと、思い定めて挑んできました。それには祈りの中で、具体的な行動の順序立てを組み立てたり、成功へのイメージを思い描くなどの工夫もしてきたのです。

 また、昔と違って、集合住宅暮らしになり、どうしても小声にならざるをえぬため、元気が出ないと思うことも。それを覆すには、真剣さで熱中するしかないことに気づきました。大声であげられることに越したことはありませんが、小声もまた〝没我で代替〟出来ると、今は思うに至っています。

●「教育」こそ国家の反目を乗り越える力を持つ

 モスクワ大学を訪問した伸一一行は、大学200周年の記念に北京大学から送られたという、横幅2メートルにも及ぶ見事な織物を発見します。国家間の対立はあっても、人民同士の交流は揺るがないとの言葉を聞いて、伸一は直観します。

 【〝これだ!これなんだ!教育交流のなかで育まれた友情と信頼は、国家の対立にも揺らいではいない。この流れを開いていくのだ!彼は小躍りしたい気持ちであった。もう一度、織物を見上げた。教育の大城が、中ソ紛争という国家と国家の反目を、見下ろしているように思えた。】(184頁)

 【教育は未来を創る。伸一が教育に力を尽くしてきたのも、それこそが、新時代建設の原動力であると考えたからだ。】(199頁)

 「教育」の重要性は、様々な機会に目にし、耳に聞きます。それは人間を創ることに通じるからでしょう。 モスクワ大学と北京大学、二つの国を代表する教育の殿堂である大学相互を結ぶ文化の交流は、少々の反目にはびくともしない強固さがあるといえるのです。

 私は、国会で、「外交・安全保障」の分野に一貫して取り組んできましたが、ある時、大学時代の恩師で中国問題の権威であった中嶋嶺雄先生から「外交や防衛も大事だけど、教育はある意味でもっと大事だよ。そろそろ君も国会議員として『教育』に取り組むべきだね」と言われました。その先生はご自身、長く中国問題に通暁されていて、晩年秋田の地でユニークな大学経営に取り組まれる変身を遂げられただけに、重みのある一言でした。その思いに応えられないまま、永遠のお別れしてしまったのは極めて残念なことでした。

●「戦争を起こさないことが大前提」とのコスイギン首相発言

 モスクワ滞在の最終盤で、伸一はコスイギン首相との会談に挑みます。その中で、同首相に伸一は「あなたの根本的なイデオロギーは何か」と問われて、即座に次のように答えます。

 「それは平和主義であり、文化主義であり、教育主義です。その根底は人間主義です。」と。そう聞いた同首相は、「山本会長の思想を私は高く評価します。その思想を、私たちソ連も、実現すべきであると思います。今、会長は『平和主義』と言われましたが、私たちソ連は、平和を大切にし、戦争を起こさないことを、一切の大前提にしています。」(274-275頁)

  池田先生は中ソ対決の真っ只中で、ソ連の指導者から、平和を大事にし戦争は起こさないとの言質をとりました。こうしたやりとりが背景にあり、かつ、のちのゴルバチョフ大統領のペレストロイカという英断もあって、ソ連はロシアへと変貌を遂げました。しかし、それから約30年。プーチンのロシアは隣国・ウクライナに侵略戦争を仕掛けてしまい、もう5ヶ月も悲惨な戦争が続いています。

 歴史の逆転──様々な言い分はあれ、プーチン大統領の行動は、かのヒトラーにも匹敵する無残なものです。これを押し戻すために、私たちは「平和主義」を貫き通さねばならないと、心底から思います。(2022-8-3)

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【78】世界平和に「中国」から動く➖小説『新・人間革命』第20巻「友誼の道」から考える/7-28

★人のために何をするかー日中青年交流

 この20巻は、中国とソ連(現ロシア)への伸一の初の訪問(中国は2度めも)の様子、そして国連事務総長、米国務長官らとの対談を描いたものです。1974年(昭和49年)の5月、9月、12月における3度の試み、米国訪問には、〝中ソ対決〟や混迷続く中東問題の解決など、世界平和実現への伸一のあつい思いと強い情熱がありました。「新しい時代の扉は、待っていては開きはしない」で始まる「友誼の道」の章は、5月30日からの第一次訪中における中国が舞台です。伸一の17日間は、青年との交流から始まります。

 中国の旅の第一歩は深圳。中日友好協会の2人の青年の語らいから始まります。その後も幼稚園や小学校で子どもたちとの接触が展開していきます。【子どもと接するということは、未来と接することだ。子どもを育てるということは未来を育てるということだ】(36頁)とあるように、子どもとの交流場面が胸をうちます。中でも、案内してくれた少女に、伸一が将来どんな仕事に就きたいかと尋ねると、「人民が望むなら、どんな仕事でもします」と、答えます。それを伸一は、【人民に奉仕することの大切さを徹底して教えているのであろう。人のために何をするか➖人や社会への貢献の行動の大切さを教えてこそ、人間教育がなされるといえよう】と。(52頁)

 かつて私は創価学会第一次青年訪中団の一員として中国を訪れました。青年同士の友好の絆を創れとの師の思いを受けて実現したものでした。北京、石家荘などで、〝友誼の道〟を歩き、多くの青年と交流を深めました。「人のために何をするか」を教えられた者たち同士の打合いが、〝運命の日中両国〟を超えて展開されたのです。あれから45年余。あの時の彼らは今どうしていることか。会うことができたらとの思いが募ります。

 ★核廃絶に向けての絶えざる思いと行動

    中日友好協会の代表たちとの二回の座談会の模様が語られます。その中で最も注目されるのは、核をめぐってのやりとりです。核廃絶への流れを断じて作るということに必死の伸一と、核は持つがあくまで防衛的なものとする中国側。意見は異なりました。「しかし、核の保有、非保有にかかわらず、すべての国が平等の立場で、一堂に会して、核兵器全廃のために会議を開く」という点については完全な同意が得られました。友好ムードの中に緊張を孕んだ対話から伝わってくる熱意はまさに圧巻です。

 つい先ごろ、池田先生は8月1日に開かれる、核兵器不拡散条約(NPT )再検討会議に寄せて、「核兵器の先制不使用」の誓約などを求める緊急提言を発表されました。それに呼応し、広島と長崎で、創価学会青年部が被爆証言会を開催。核なき世界へ誓いを新たにし、〝ヒロシマ〟〝ナガサキ〟の心を学ぶ集いとしました。あの惨劇から77年。ありとあらゆる場面で、核廃絶を呼びかけ、具体的闘いを続ける池田先生と創価学会。そのあつき心は、今から48年前の北京での日中の座談会でも。それからも、今も変わらず続いています。

 核廃絶の理想実現に向けて、広島出身の総理大臣・岸田文雄氏の発言、行動が注目されるところです。これまでの池田先生の提言がどう生かされるか、しっかり見守りたいと思います。

★トインビー博士の大胆な中国観

    中国を離れる最終日。この間ずっと付き添ってくれた2人の青年とも別れる時が来ました。〝この友人たちのためにも、中ソの戦争は絶対に回避しなければならない。さあ、次はソ連だ!〟➖こう決意を固める伸一の胸に去来したのは、トインビー博士のことでした。訪中の直前にも喜びの声を寄せてくれ、励ましてくれた同博士こそ、伸一の大いなる同志だったといえます。

    今年は、トインビー博士と池田先生との対談から50年です。あの対談を思い起こし、胸に刻む作業をしている人は少なくないと思います。お二人の『21世紀への対話』の第二部第4章「中国と世界」は極めて示唆に富み、考えさせられます。博士が未来に起きる可能性として、「全世界が中国によって支配され、植民地化されるかもしれない」と大胆に予測。これは今、そこはかとなく、真実味を増してきている感がします。一方、池田先生は、これからの世界の統合の方向は、中央集権的な生き方でなく、各国が平等の立場と資格で話し合う連合方式ではないかとし、ECが見本であるとの見通しを述べられています。

 ECの後継であるEUが何かと難題を抱えている現在、先生の予想は困難な状況下にあります。私は、先生の見立てに希望的理想主義を感じ、トインビー博士の予測にリアルな悲観的現実主義を見てしまいます。中長期的には博士の方向に世界は進むかもしれません。しかし、幾度かの変遷を経てでも、最後には池田先生の見方に、大逆転の末に落ち着かせねばと、しきりに思います。(2022-7-28)

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【77】一切の根源は人間生命➖小説『新・人間革命』第19巻「宝塔」の章から考える/7-20

●本尊とは何かについての考察

 日蓮大聖人はこの世に何を広めようとされたのかー1974年(昭和49年)4月28日の立宗宣言の日に、伸一は北陸広布20周年の記念の集い(金沢市)に出席し、このテーマに触れていきました。「(それは)『本尊』であります」と、単刀直入に述べられた後、その内容についてぐいぐいと本質に迫る考察がなされていくのです。

 「それは、『御本尊七箇相承』に『汝等が身を以って本尊と為す可し』(富士宗学要集』第一巻)とある通り、あえて誤解を恐れずに申し上げれば、総じては『人間の生命をもって本尊とせよ』ということであります」「つまり、大聖人の仏法は『一切の根源は〝生命〟それ自体である。根本として大切にして尊敬を払っていくべきものは、まさに〝人間生命〟そのものである』という哲理であり、思想なのであります」(298頁)

  「本尊」の大事さを一般大衆に分からせるためにこそ、大聖人は一幅の曼荼羅に文字で具現化されました。かつて私はある先輩から、曼荼羅だからこそ具体的に守ることが出来ると聞き、なるほどと腑に落ちました。仮に不埒な誰かが本尊に手をかけようとしたら、身で以ってその行為を防ぎ、守ることが出来る。もし、本尊が具体的な形をとっていなかったら、護ったかどうか、その本意が分からない、と。いらい、それまでに増して、本尊を大事にすることに意を配りました。と同時に、我が身即本尊の原理から、自身の生命を護ることが本尊を守ることに通じることも、理解できるようになりました。

 この時の講演の中で、【北陸は、浄土信仰が深く根を下ろしてきた地域である。その念仏の哀音と思想は、心の〝なぐさめ〟にはなったとしても、社会を変革・創造し、未来を切り開く理念とはなりえなかった】(302頁)との記述にであいます。日本の仏教史において、法華経哲理と念仏思想の争いは壮絶を極めますが、ここにその浄土思想の本質が見事に位置付けられています。一般的には今も、文学的志向の強い念仏者と、社会変革への熱情あつき法華経信者との相剋は密かに続いています。浄土真宗の家に生まれ、後に一家全員を法華信仰に改宗させた私としては、文学と政治双方を乗り越えた境地の確立を常に意識してきました。

●沖縄での反戦出版に取り組んだ仲間たち

 ついで、テーマは青年部の反戦出版委員会の取り組みに移ります。契機となった1972年(昭和47年)11月の第35回本部総会での山本会長の講演の中身とその後の経緯が詳しく述べられていきます。人類の生存の権利を守る戦いを青年部に託し、未来へと続く人間復権運動の大河を開こうとした伸一の思いが強く伝わってきます。

 戦争体験を後世に残すこの作業は、全国各地で始まっていきますが、真っ先に立ち上がったのは沖縄青年部でした。1974年(昭和49年)6月23日の出版を目指すことになった彼らの戦いについて、盛山光洋と桜原正之の正副編纂委員長二人の生い立ちや感動的な体験から、説き起こされていきます。(306-339頁)

    この当時は高等部担当だった私は、反戦出版には全く関わらずに過ごしていました。ただ、沖縄のリーダーのモデルになった二人は今もその容姿を明確に覚えています。同じ人材育成グループのメンバーとして、いくたびか〝広布の庭〟に一緒に集った思い出があります。共に琉球大学出身者として真摯な戦いを展開してきた尊敬すべき仲間でしたが、この章に接触するまで、二人の詳しいことは知らないできました。改めて彼らのことを再認識する一方、伸一の後継への強い思いがひしひしと伝わってきます。

 特に、地涌の菩薩の生命について言及されたくだり(334-336頁)は、胸を撃たずにはおきません。ここで、上行菩薩をはじめ、無辺行、浄行、安立行の四菩薩の働きについて伸一が説明しています。この働きは、勇気をもって大衆の先頭に立つ際に発揮されるものだと、理解されます。【一人ひとりが凡夫の姿のままで、自分を輝かせ、病苦や経済苦、人間関係の悩みなど、自身のかかえる一切の苦悩を克服し、正法の功力を実証していくことができるのである。その実証を示すための宿業でもあるのだ。】と。この記述通りに、自分自身も宿命転換をするぞと決意し戦ってきました。今、70歳台後半になってもなお襲いくる魔に立ち向かっています。

 反戦出版の第二巻は広島編、第三巻は長崎編です。1985年(昭和60年)までの12年間に及ぶ青年部員たちの地道な取り組みで、全80巻、3200人を超える人々の平和への叫びをつづった〝反戦万葉集〟が完結しました。【反戦出版の完結は、終わりではなく、始まりであった。それは伸一と青年たちの、新しき平和運動の旅立ちを告げる号砲となった。】(372頁)とあります。この試みこそ、世界平和への確実な一歩だと確信します。(2022-7-19)

 

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【76】「生命の世紀」への戦いー小説『新・人間革命』第19巻「陽光」の章から考える/7-13

●海外で初めてとなったUCLAでの講演

 パナマ、ペルーから、メキシコを経て、伸一はロサンゼルスへ。1974年(昭和49年)3月28日のこと。翌日は、マリブ研修所で青年部代表や若手の通訳との懇談。「広宣流布に向けて英語の達人が何人いても足りなくなる」との発言が強く心に残ります。4月1日にはカリフォルニア・ロサンゼルス校(UCLA)で「21世紀への提言」と題する記念講演。海外の大学・学術機関での最初の講演として注目されました。

 この時の講演では、「小我」に支配されてきた文明から、無常の奥にある常住の実在、すなわち「大我」に立ち、宇宙生命と共に呼吸しながら生きる文明への転換が訴えられました。「21世紀は、人間が生命に眼を向ける『生命の世紀』にしなければ」ならないうえに、「知性的に人間であるだけでなく、エゴから脱却して、精神的、生命的にも自立し、跳躍を遂げねばならない」と強調されたのです。「欲望、煩悩に支配された現代文明の本質を、仏法という生命の視座から浮き彫りにし、人間のための文明を創造する根本哲理を明らかにした講演」でした。(220-221頁)

 ここで述べられた「大我」をトインビー博士は、宇宙の「究極の精神的実在」と表現しています。また、ある教授は「人間の未来開拓へ、根本的な道標を示した、重要な意義を持つもの」と称賛。またある学生は、「仏法は自分が生涯をかけて勉強するに値する〝人間の哲学〟だ」と感想を述べたと、触れられています。同大学のミラー副総長は前年の昭和48年に伸一が創価大学で行った「スコラ哲学と現代文明」と題する講演に深い共鳴をし、翌年のUCLA招待に繋がることになりました。その講演は、「中世の時代精神を形成したスコラ哲学に新たな光をあて、近代の出発点であるととらえた」もので、「新しい時代の開幕のために、新しい大学、新しい哲学の興隆が必要であることを訴えていた」のです。

 ここでの講演を後に聞いた私は、深い感銘を受け、21世紀を「生命の世紀」とする、己が使命に震えたつ思いを抱きました。30歳。ちょうどその頃、高校時代の友人が「中世スコラ哲学」を専門とする道に入ろうとしていたことを知り、密かに「共戦」を誓いました。それから約50年。彼は哲学者として大成しましたが、私の哲学探究は中途半端な状態。「生命の世紀」への道も難航を続け、人類の戦い未だ終わらずを実感せざるをえません。しかし、ここで挫けてはならず、さらなる戦いの持続に向かって、大いなる決意を固めるのみです。

●人間完成への7つの指標示す

  翌2日、サンタモニカのアメリカ本部で、恩師・戸田城聖先生の17回忌法要が執り行われました。海外で戸田の祥月命日の追善法要を行うのは初めてのこと。信仰の目的である「仏の境涯」に至ることを「人間革命」と表現した戸田先生は、「今世の人間完成の目標として明確化」しました。それをこの場で、伸一はアメリカ人に更に分かりやすく7つの指標として提示していったのです。

 健康、青春、福運、知性、情熱、信念、勝利の7項目がそれです。そしてこの7つを包括するものが「慈悲」であり、それは言い換えると「勇気」を持って行動することに通じるのだと訴えました。「慈悲」=「勇気」と簡潔に表現したうえで、「権力や光栄のために闘う人ではなく、他人を助けるために闘う人」こそ「偉大なる英雄」だ、とのスウェーデンの女性教育者の言葉が引用されています。「他人を助ける勇気」を持つことが人間革命であり、広宣流布の道だと聞いたアメリカのメンバーたちが奮い立ったことは想像にあまりあります。

 自分本位でエゴにかたまる現代人の最大の欠点を打ち砕くこの指標。創価学会の強さ、凄さがここに集約されています。かつてタダで動くのは地震と創価学会だけと揶揄されたものですが、ことの本質を突いたものといえましょう。「情けは人のためならず」ともいわれます。情け深い行動こそ、「創価」の真骨頂なのです。

●宇宙の根本の法則が図顕された御本尊

 4日には伸一は、サンディエゴ会館の入所式に出席して会員に語ります。その中で強く感銘を受けるのは、南無妙法蓮華経とは何かということについて、伸一がわかりやすくアメリカ人に語ったくだりです。

 「一言するならば宇宙の根本の法則であり、宇宙を動かしている根源の力であるといえます。それを大聖人は、一幅の本尊として顕されたのであります。その御本尊に唱題する時、我が生命が宇宙の法則と合致し、最大の生命力が涌現し、幸福への確かな軌道を闊歩していくことができる」(243頁)

   私もこの原理を自覚しながら懸命に唱題を続けて、生命力を涌現させてあらゆる課題に立ち向かってきました。不思議な現証が相次いで現れることに感嘆し、我を忘れる唱題の持続に勝るものなし、を実感しています。(2022-7-12)

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【75】失敗こそ大勝利の因ー小説『新・人間革命』第19巻「凱旋」の章から考える/6-11

 

●ブラジルの入国拒否という障壁

 世界広宣流布への行く手に一つの障壁が立ちはだかっていた➖1974年(昭和49年)3月、アメリカからブラジルに入るべく、ロサンゼルス・マリブ研修所に伸一はいましたが、同国からビザ(査証)が発給されなかったのです。この国には8年前に初訪問した際にも、常に政治警察の監視の下での行動を余儀なくされていました。同国に深く充満していた創価学会への誤認識があったのです。それが未だ続いていました。(105-111頁)

    ブラジルに入ることを断念した伸一は、斎木安弘ブラジル理事長に断腸の思いで以下のように激励します。

 「勝った時に、成功した時に、未来の敗北と失敗の因をつくることもある。負けた、失敗したという時に、未来の永遠の大勝利の因をつくることもある。ブラジルは、今こそ立ち上がり、これを大発展、大飛躍の因にして、大前進を開始していくことだ。また、そうしていけるのが信心の一念なんだ」

 ブラジル創価学会の同志の皆さんがこの時の悔しさ、無念さを胸に秘めてその後凄まじい闘いを展開して、見事に変毒為薬したことは30巻下「誓願」の章に登場します。負けた時に大・大勝利の因を作ったのです。

 私は初めての選挙(1990年)に出て落選しました。「常勝関西」と言われている地で、一敗地にまみれたことはショックでした。多くの皆さんに悔しい思いさせてしまったことを深く恥じ、反省しました。すべて「ご仏智」であり、「きっと何か大きな意味があるはず」と前向きに捉えて、再起を誓いました。あれから30年余。勝利の連続を刻印出来ました。今は全国屈指の兵庫参院選の大勝利を固く期しています。

●ブラジルからパナマへの訪問先の転換

 ブラジルへの訪問が難しくなって、直ちに一行の訪問先はパナマに変更されました。この国は太平洋と大西洋、また南北アメリカを結ぶ、文明の交差点ともいえる要衝の地。それを現実のものにしたのがパナマ運河です。かねて憧れを抱いていた伸一は、それまで交流の少なかった両国関係を転じ、相互理解のための人間交流に道を開こうと意欲を燃やします。

 この時の緊急パナマ訪問で、当初は要らなかった(ブラジルはポルトガル語の国)スペイン語通訳が必要となりました。ペルーの担当としてリマに入っていた吉野貴美夫が急遽パナマに呼ばれて、その任に就くことになります。ここでの通訳にまつわるエピソードはまことに興味深いものです。吉野のスペイン語通訳について、「6割くらいしか先方に伝わっていない」との評価に、本人は〝申し訳ない。私が先生の通訳をするなんて無理だったのだ。通訳を代えていただくしかない‥‥〟と打ちのめされる思いでした。

 ところが、伸一からは「私の通訳を初めてやって、六割も伝えることができたのは彼だけだよ。すごいね。すごいじゃないか!自信をもってやりなさい」と、思いがけない言葉が発せられたのです。伸一は、「トインビー博士との対談以来、世界の知性との交流、世界広布のためにも本格的な各国語の通訳の必要性を痛感して」おり、自らの手で通訳の育成をするしかない、と決意していたのです。こう庇って貰った吉野は、その心に応えようと固く決意をするのでした。

 この時以来、吉野は奮起します。のちにラカス大統領の通訳を英語かスペイン語かどちらを選択するかとの大事な場面が訪れます。両方の言語が通訳され、大統領がどちらの言葉で答えるかが注目された場面が印象に残ります。「吉野の声はひときわ大きかった。生命力みなぎる彼の声に共鳴するかのように、大統領の口から発せられたのはスペイン語であった」との描写に、思わず読むものも拍手したくなりました。(142頁)

   私はこんな大舞台に直面したことはありませんが、人を育てる時の指導者のこころと、それに応える弟子の心意気をここから学びました。大事な時には、自信を持って大きな声でいこう、と。

●ペルーでの大学間交流の始まり

 パナマから訪れたペルーは、8年前にもブラジル同様に厳しい警察の目が向けられていました。そうした中、感動的な場面が語られていきますが、サンマルコス大学でのゲバラ総長との会見が最も大事なものだったと思われます。(183-193頁)

   そこでは「新しい大学像とは」「教授と学生の断絶について」「学生自治会の運営について」など、創価大学創立以来、伸一が熟慮してきた問題が取り上げられました。これらはまた、同大学においても直面する最も大事なテーマでした。その場で伸一は「教育国連の構想」を語り、「世界大学総長会議」の開催を提案したのです。

 この時の語らいが後に南米の大学からの伸一への最初の名誉博士号贈呈のきっかけとなっていきました。青年の育成に最も深い関わりを持つ大学相互の交流がこうして始まっていくのです。(2022-6-11)

※今回より1ヶ月休載します。

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【74】挑戦、挑戦、また挑戦ー小説『新・人間革命』第19巻「虹の舞」の章から考える/6-4

●沖縄復帰後初の訪問

 今年2022年は、沖縄が本土復帰して50年ですが、48年前の1974年(昭和49年)は、沖縄広布20周年の佳節にあたっていました。伸一は、この年2月2日、7度目の沖縄訪問をします。復帰後初めてです。沖縄本島だけでなく、石垣島、宮古島など離島をも訪問、8泊9日に及ぶ渾身の指導の様子が語られていきます。(8-16頁)

 那覇空港に着くなり、幹部たちから復帰後の厳しい環境にも関わらず、新たな心意気が述べられました。これに対して伸一は新時代への対応としての心構えを語る一方、沖縄本部で未来部員に対して激励をします。

 「状況や事態は刻々と移り変わっているし、時代も人びとの感性も変化している。したがって、広宣流布を進めるうえでも、常に挑戦を忘れてはならない。『月月・日日につより給へ』(御書1190頁)です」(12頁)

 「指導者となる諸君には、生涯、労苦という尊い荷物を引っさげて生きる決意がなくてはならない。人びとのために、勇んで労苦を引き受けてこそ真の指導者です。さらに、労苦は自身を磨く研磨剤であり、最大の財産です。どうか、苦難に挑み、雄々しき師子の道をたくましく進みきってもらいたいのであります」(14頁)

 常に挑戦を忘れるなとの激励です。時代や人間の感性の変化にも、対応していくにはこちらの感性を研ぎ澄ませていく必要があります。毎朝夕の勤行の際に重ねる思索の大事さ、時に応じて目にする情報に鋭敏なアンテナを張り、自分の頭で考えることの重要性を認識します。常に楽をしようと思ってしまう自身の生命の傾向性を反省します。「勇んで労苦を引き受けてこそ」との師の励ましを受けた子どもたちに思いを馳せました。

●石垣、宮古島などにも

 初めて訪れた石垣島で、伸一は20年後、30年後は「日本のハワイ」として必ず脚光を浴びていくと、断言し、次のように語りました。

 「そうした時代になればなるほど、八重山の自然や伝統文化を守ることが大事になります。経済的な豊かさばかりを追い求め、自然を破壊し、伝統文化を失っていくならば、本末転倒であり、八重山の生命線を断つことになる」「人生にはさまざまな困難や苦悩がある。真実の幸福は、いかなる事態に直面しても、決して負けない、強い心をもつ以外にありません。さらに、日々、歓喜し、感動し、感謝できる、豊かな心を持つことです」(38頁)

   石垣島には私も過去に三たび訪れたことがあります。素晴らしい自然風土に圧倒されたものです。ここでの激励は、目先の利益を追い求めるばかりでは、足下が崩れることになってしまうと指摘、しっかり石垣島本来の歴史文化伝統を守りゆくことを強調されています。その基本が、「強い心」と「豊かな心」にあるとの励ましには、胸打たれます。70歳台半ばを超えた自分は今も、「弱い心と貧しい心」との格闘の日々だからです。

 次に宮古島に移った伸一は、宮古伝統文化祭に出席、平良市民会館での「久松五勇士」の感動的な演技を観賞します。「この美しい美しい宮古が、豊かな人間性に潤う『永遠の都』として『人間の平和と幸福の都』として栄えゆくことを、心から念願いたしております」と述べ、頭がくらくらするなか、自らを鼓舞して激励を重ねたのでした。

【人の心を打つのは、話術の巧みさではない。美辞麗句でもない。〝君よ立て!〟との、生命からほとばしる必死の思いが、友の心に働きかけるのだ。励ましとは、炎の一念がもたらす魂の触発なのである。】(56頁)

 私も幾たびか池田先生の友への励ましの場面に出会い、私自身にも凄まじい激励の言葉をいただきました。1968年(昭和43年)4月26日に、「しっかり信心するんだよ!でなければ、死ぬよ!」との一言は衝撃でした。肺結核の宣告を受け、先生の指導を直接受けながらも、いい加減な一念を見破られての別れ際の言葉でした。

●新たな人材育成へ、「高校会」の結成

 宮古訪問を終えて、2月6日に那覇に戻った伸一は三大学会の合同総会に出席します。そこで、エリートは民衆に君臨するためにいるのではない、民衆に支え、守るためにいる➖このことを、絶対に忘れてはならない、と訴えたあと、「高校会」結成の構想を発表、以下のように述べたのです。

 「高校生のなかには優秀であっても、経済的な事情などで、やむなく大学進学を断念せざるをえない人もいるでしょう。特に大都市に比べ、離島ではそういうケースが多い」「妙法の同窓会ともいうべき『高校会』が軌道に乗るならば、将来の学会にとっても、さらに社会にとっても、大きな意味を持つものであると、深く確信しています!」(72頁)

 当時、高等部担当幹部だった私は、池田先生の着想止まるところ知らず、と大いに感激したものです。今、地方の「高校会」の存在について、その後の発展状況を追う必要を痛感しています。(2022-6-5)

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【73】激変する世界の今を生き抜くー小説『新・人間革命』第18巻「飛躍」の章から考える/5-29

●「大悪起これば大善来る」の現代的意味

 前年からの第四次中東戦争、石油危機に始まる世界経済の激動の中で、1974年(昭和49年)は幕を開けました。新年の勤行会に集った会員を前に、伸一が「減劫御書」の次の一節を拝読するところから始まります。

 「大悪は大善の来るべき瑞相なり、一閻浮堤うちみだすならば閻浮堤内広令流布はよも疑い候はじ」(1476頁)    大聖人のご在世当時にも、大地震、疫病、蒙古襲来などと、今と同様に、いやもっと厳しい状況が日本を襲っていました。その中で「決して、悲観すべきはでない、むしろ、こういう時代こそ、仏法の広宣流布という大善が到来する」と宣言されているのです。(291頁)

   【伸一は、 激動する社会にあって、「大悪」を「大善」に転じ、広宣流布を実現していくには、〝如説修行〟すなわち、仏の教え通りに修行し、信心に励むことの大切さを訴えねばならないと思った。】とあります。ここを読むに際して、私は「個と全体の問題」があろうかと思います。個人としていかに真剣に祈り動いても、社会全体を動かす力に連動せねば、事は成就しません。一方、全体としてどんなにまとまっても、正しい仏法に基づいたものでないと、意味をなさないのです。

 ここでは、「広く文化活動、社会活動を推進し、『世間法』との関わりを、深く、密にしていくことになります」(294頁)と述べられていますが、私は今に当てはめると、政治選択の重要性を意味すると思います。大聖人のご在世当時の蒙古襲来に匹敵することがいつ何時起こるかもしれません。緊迫する国際情勢の中で、日本の舵取りを的確に進めていく政党はどこなのか、が問われる選挙が重要になってきます。「安定」を叫ぶ自民党と「改革」を重視する公明党の連立政権が〝よりまし〟選択をもたらすと確信します。〝大悪〟の到来を防ぐ、賢明な政治の現代的展開によって、〝大善〟がもたらせられると思います。

●憲法3原理の厳守と、時代の変化への「補強、調整」の必要性

 次に舞台は1月20日の第22回青年部総会に移っていきます。ここでは野村勇男子部長の「『社会の年』と青年部の使命」と題する話での、「平和憲法の擁護」が注目されます。そこには、伸一のかねての問題提起を受けての、青年部の総意が反映されていました。

 【もちろん、時代も、社会も大きく変化していく。それにともない、長い歳月の間には、条文の補強や調整が必要になることもあろう。しかし、日本国憲法の精神それ自体は、断じて守り抜かなければならないというのが伸一の信念であった。】(314頁)

  現在の公明党の憲法についての姿勢は、このくだりを明確に意識しています。かつて私は公明党憲法調査会の座長として、太田昭宏同会長らと共に、環境権など新しい条文を明記する「加憲」を推進していきました。それこそ「補強、調整」に当たります。基本的人権、国民主権、恒久平和主義の3原理を守ることは言うまでもないことです。その上に立って、変化する時代、社会に呼応する適切な行動であると、確信しています。

●香港の今を考える

 ついで伸一は1月26日に10年ぶりに香港に出発します。5泊6日で、香港広布13周年の意義をとどめる記念撮影会などの行事への参加、創価大学の創立者として、香港大学、香港中文大学への公式訪問などが予定されていました。この香港への旅はまた、「言論・出版問題」などの悪影響を被っていたマスコミの批判などへの正しい認識をもたらす目的もありました。内外の課題について、懸命に手を打っていく伸一と、それに呼応する現地会員たちの麗しい師弟の絆に、感動を禁じ得ません。(326-395頁)

  そんな中で、香港男子部長の梶山久雄が、香港の地で広布に生きるために自分の名前を中国名に変えたいとの相談を伸一にする場面が登場、心を打たれます。伸一は、香港の人になりきろうとする彼の心意気に深い感銘を受けつつ、「腰掛けのつもりでいたのでは、その地域の広宣流布を本当に担うことはできない。骨を埋める覚悟がなければ、力は出せないものだ」といいました。さらに、【己のいるその場所で、深く、深く根を張ることだ。信頼を勝ち取ることだ。そうすれば、断崖絶壁のような逆境にあろうとも、いつか必ず勝利の花を咲かせることができる。】(371-372頁)

 今香港の会員は「断崖絶壁のような逆境」にあるのではないかと、私は密かに推測しています。「一国二制度」から、北京中央政府が直接支配する非自由な社会になってしまったからです。この状況こそ、21世紀の世界広布の前途を占う正念場だといえます。一方、中国各地の大学に付設された池田大作思想研究所の存在もあり、一縷の希望も持っています。勝利の花を咲かせるべく戦う、会員たちの姿を思い浮かべながら、エールを送るしかありません。(2022-5-29)

 

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【72】続く現代の脅威を見据えてー小説『新・人間革命』第18巻「前進」の章から考える/5-23

●四国での学生部員の〝戦いと死〟をめぐる、深く重い〝顕彰〟

 1973年(昭和48年)11月、伸一は四国指導に赴きます。ここでは冒頭に、聖教新聞購読の戦いに懸命に取り組む愛媛の会員や〝無冠の友〟(配達員)の奮闘ぶりが描かれていき、四国文化会館へと場面は移っていきます。

 同会館の前の二本の桜。そのうちの一本は、愛媛で学生部グループ長をしていた岡島喬雄の遺徳を顕彰するために植樹された木でした。彼は、愛媛大学を出て高校の教師になって5ヶ月後の1969年(昭和44年)9月に23歳で亡くなっています。座談会に友を誘うべくバイクで向かっている途上に軽トラックにはねられた不慮の事故でした。伸一はこの時の訪問で、その木々の前に立ち、語りかけるところから始まります。(226-244頁)

 父親の勧めで高校2年の時に創価学会に入会していた岡島は、腎臓の機能障害始め幾つかの病を抱えた、病弱な身体の青年でした。当初は信仰に真剣に向き合えず悩むだけだった彼が、会員の激励に立ち上がっていきます。そしてやがて思索を深めつつ、学生部活動、聖教の通信員と全てに果敢に挑戦していくようになりました。この辺りの心の推移を彼は日記に書き続けていましたが、ここでは逐一それが紹介され、胸打つのです。

 学生部の友人たちが温かい励ましを続けた様子が描かれていきます。とりわけ、彼が深い信頼と尊敬を寄せたのが部長でした。彼から広布への責任感と信心への確信、同志を思いやる心の大切さを学んでいきました。【彼は、部長のIさんについて、こう日記に記している。「Iさんの顔を見るのが楽しい。絶対に安心してついていける人だ。私はこの人を知ったことにより、私の人間革命は大いに駒を進めた」人間が精神を磨き鍛えて、成長していくには、触発が不可欠である。それには、良き先輩、良き同志が必要である。ゆえに学会という善の組織が大切なのである。】

 私はこの岡島青年の立ち居振る舞いを読んで驚きを隠せません。昭和40年頃の学生部員の戦いぶりが彷彿として甦ってきます。彼と私は同い年。腎臓病(私は肺結核)、入会時期(私は大学一年)、親の信心(私の方は未入信)と、微妙な違いはあるものの極めて境遇が似通っています。日記も「埋没抄」と銘打って書いていました。グループ長や部長の励ましが55年の歳月を超えて甦ってきます。事故死に遭った彼の無念が心底偲ばれます。

 実は彼が慕いぬいた「I部長」のモデルは、私が尊敬してやまない新宿の石井信二先輩です。私たちは職場は違えど同じ本部職員(私は公明)でした。この50年の間、陰に陽に激励を受けてきましたが、私が引退後一段と、触発されています。信心の軌道を外すなとの思いやりを電話の声から常に感じます。心底凄い人だと思います。

 当初、この箇所だけ、なぜ「I部長」とイニシャルになっているのかと考えました。岡島君は本名を書いたはずです。暫くして、ここに学会の真実、伸一の本意があると深く気付きました。浅はかな自分を恥じました。

●中東戦争からウクライナ戦争へ、現代世界の脅威未だやまず

 この年、10月にアラブ諸国とイスラエルが戦争に突入し、第四次中東戦争が始まります。ここから、関連諸国や国際石油資本が原油価格の大幅な値上げに相次いで踏み切り、たちどころに資源小国・日本は多大な影響を蒙ります。いわゆる「オイルショック」の到来です。この石油危機を契機に時代はインフレと不況に絡めとられ、日本経済が大きな転機を迎える中で、庶民の暮らしは激しさを増していくのです。

 伸一は、そんな状況のなか、11月23日の品川区幹部会に出席して30分のスピーチをします。社会の激動、混乱の奥に潜む根本原因について、日蓮大聖人の諫暁八幡抄の一節を通して、語っていきます。(269-275頁)

 【大聖人は、人々の「正直な心」が失われ、人の道にも、仏法の道にも外れてしまったがゆえに、八幡大菩薩は去り、社会は不幸の様相を呈したと指摘されている。】➖伸一は、結論的に、「私たち(法華経の行者)の戦いによって、人々が正法に目覚めていくならば、八幡大菩薩をはじめ、諸天善神は再び帰り、その働きを示してくれる」との原理を断言するのです。

 このあと、歴史学者トインビー博士の「人類の生存に対する現代の脅威は、人間の一人一人の心の中の革命的な変革によってのみ、取り除くことができる」との言葉が引用されています。伸一とトインビーの歴史的対談が行われてちょうど50年の節目を迎えた今日、「ウクライナ戦争」が勃発。「第四次中東戦争」等のときと同様に庶民の暮らしに大きな悪影響が続いています。私たちは人類の「心の中の革命的な変革」=「人間革命の戦い」未だならず、を改めて自覚せざるをえません。歴史は善の方向に直行するのでなく、蛇行、逆流が常だということも。(2022-5-23)

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【71】生あるうちにこそー小説『新・人間革命』第18巻「師恩」の章から考える/5-17

●白糸会での入魂の指導

 人材育成に強く深い思いを抱いていた伸一は、来る日も来る日も焦点を強く絞って動いていました。1973年(昭和48年)8月の夏期講習会では、5年前に結成していた白糸会の3回目の集いに出席し、一メンバーと三度めになるボートに乗り、皆との懇談で入魂の指導をします。結成からの経緯に触れられていきます。(102-127頁)

   小さな滝の前で、伸一は「一高寮歌」を歌おうと呼びかけます。皆は力強く歌い出すものの、途中できこえなくなってしまいます。歌詞がうろ覚えだったのです。それについて伸一は次のように語ります。

 「しょうがないな。何事も中途半端ではだめだ。どんなことも、途中でやめてしまっては、なんの役にも立たない。物事は徹することだ。やり遂げることだよ。最後までやり遂げた人こそが勝利者なんだ。戦い続ける人が仏なんだ」それから伸一は、真剣な表情で語った。「私は、生涯、何があっても、命の燃え尽きる日まで、広宣流布の道を歩み抜きます。それが私の誓いです。(108頁)

   昭和43年に結成された白糸会は、当時の男子部・隊長(地区責任者)、年齢は25歳以下との条件のもと、全国の代表55人で構成されていました。この当時、大学会の結成が全国で相次いでいましたし、東京各区での撮影会を通じ兄弟会も作られていましたが、そのいずれとも違う特徴(庶民の、土着の強さ)を持った青年たちの集いでした。このほかにもありとあらゆる人材を育てる目的をもったグループが作られていきました。

 白糸会は、結成時最高年齢だった人は、今79歳。「青春時代の誓いを断じて果たそう」「山本先生の恩に報いよう」と、日々頑張っています。直接薫陶を受けたそのような人が、各地での一度も師匠と会えないままの人たちに、いい影響を、刺激を与えているでしょうか。そのことこそが今最も問われていると思います。

●広布途上に逝いた人たちへの祈り

 夏期講習会のあと、伸一は、ハワイ、神奈川を訪問した後、9月8日に北海道に飛びます。ここでは13年ぶり3度目の恩師の故郷・厚田村訪問の様子が語られていきます。(129-157頁)  と同時に、北海道女子部長だった嵐山春子の13回忌法要に出席し、この日発刊された彼女の戦いを追悼する書『北国の華』のことが触れられるのです。

 伸一の追悼の一文は、「一瞬に永劫の未来を込め、私は再び爽やかな告別の歌を、新生の、地涌の讃歌を送りたい。嵐山さん、どうか、やすらかに。そしてまた、悲しみのなかから毅然と立った春子さんのおかあさん、妹さん、弟さん、お元気で➖。あなたは再び、〝生〟ある人として、広布第二章の戦列へ、欣然と加わっていることだろう。かたみを宿す嵐桜は、永遠に、北海道の妙法回天の旅路を見続けることであろう」と、結ばれていました。

 私のような人間でさえ、日々の勤行の追善の際に、先に逝いた先輩、後輩、同志の数が増え広がっていきます。伸一の思いを重ね、それぞれの人たちへのあの日あの時のことが思い起こされ、決意新たになるのです。

●日御碕灯台に立って

 更に、伸一は9月16日には島根、鳥取の「`73山陰郷土祭り」に向かいます。17日に島根県出雲市の日御碕(ひのみさき)灯台近くに立ち寄り、岬の下での雄大な景色を眺めつつ、次の御書の一節を。思い返します。

「久遠下種の南無妙法蓮華経の守護神は我国に天下り始めし国は出雲なり、出雲に日の御崎と云うところあり、天照太神始めて天下り給う故に日の御崎と申すなり」(879㌻)  この御書の一節を通し、「出雲をはじめ山陰地方は、その伝説のうえからも、景観のうえからも、光り輝く太陽の国といえる。ここに生きる人びとがその自覚をもち、郷土の建設に取り組んでいくならば、新時代をリードする、山河光る希望の天地となるにちがいない」と、伸一は断じます。

 実は、昨年末に私は出雲市の中小企業経営者の皆さんとご縁ができました。信仰は異にしますが、思いは同じ。私ももう一度この伝説の地・出雲から、地域おこし、この国おこしに取り組もうと決意しました。この地で、『77年の興亡』の出版を思い立ったのです。

 ●小学校時代の恩師への思い

 伸一は、栃木県幹部総会に訪れた11月6日に、自身の小学校時代の恩師檜山浩平先生と会い、感動の語らいをします。(189-200頁)  その場面にあって、次のような伸一の思いを込めた一節が深く心をうつのです。

 「お世話になった先生の恩には、生涯をかけて報いていこう」「自分が教わった教師全員に、強い感謝の念をいだき、深い恩義を感じていた」

 「親孝行したい時には親はなし」と同様に、お世話になった先生も私の場合、もはやほんの僅かの現実に愕然とします。人生は短いことを改めて思い知り、若き後輩たちへの激励を代わりにしようと決意しています。(2022-5-17)

 

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