【71】生あるうちにこそー小説『新・人間革命』第18巻「師恩」の章から考える/5-17

●白糸会での入魂の指導

 人材育成に強く深い思いを抱いていた伸一は、来る日も来る日も焦点を強く絞って動いていました。1973年(昭和48年)8月の夏期講習会では、5年前に結成していた白糸会の3回目の集いに出席し、一メンバーと三度めになるボートに乗り、皆との懇談で入魂の指導をします。結成からの経緯に触れられていきます。(102-127頁)

   小さな滝の前で、伸一は「一高寮歌」を歌おうと呼びかけます。皆は力強く歌い出すものの、途中できこえなくなってしまいます。歌詞がうろ覚えだったのです。それについて伸一は次のように語ります。

 「しょうがないな。何事も中途半端ではだめだ。どんなことも、途中でやめてしまっては、なんの役にも立たない。物事は徹することだ。やり遂げることだよ。最後までやり遂げた人こそが勝利者なんだ。戦い続ける人が仏なんだ」それから伸一は、真剣な表情で語った。「私は、生涯、何があっても、命の燃え尽きる日まで、広宣流布の道を歩み抜きます。それが私の誓いです。(108頁)

   昭和43年に結成された白糸会は、当時の男子部・隊長(地区責任者)、年齢は25歳以下との条件のもと、全国の代表55人で構成されていました。この当時、大学会の結成が全国で相次いでいましたし、東京各区での撮影会を通じ兄弟会も作られていましたが、そのいずれとも違う特徴(庶民の、土着の強さ)を持った青年たちの集いでした。このほかにもありとあらゆる人材を育てる目的をもったグループが作られていきました。

 白糸会は、結成時最高年齢だった人は、今79歳。「青春時代の誓いを断じて果たそう」「山本先生の恩に報いよう」と、日々頑張っています。直接薫陶を受けたそのような人が、各地での一度も師匠と会えないままの人たちに、いい影響を、刺激を与えているでしょうか。そのことこそが今最も問われていると思います。

●広布途上に逝いた人たちへの祈り

 夏期講習会のあと、伸一は、ハワイ、神奈川を訪問した後、9月8日に北海道に飛びます。ここでは13年ぶり3度目の恩師の故郷・厚田村訪問の様子が語られていきます。(129-157頁)  と同時に、北海道女子部長だった嵐山春子の13回忌法要に出席し、この日発刊された彼女の戦いを追悼する書『北国の華』のことが触れられるのです。

 伸一の追悼の一文は、「一瞬に永劫の未来を込め、私は再び爽やかな告別の歌を、新生の、地涌の讃歌を送りたい。嵐山さん、どうか、やすらかに。そしてまた、悲しみのなかから毅然と立った春子さんのおかあさん、妹さん、弟さん、お元気で➖。あなたは再び、〝生〟ある人として、広布第二章の戦列へ、欣然と加わっていることだろう。かたみを宿す嵐桜は、永遠に、北海道の妙法回天の旅路を見続けることであろう」と、結ばれていました。

 私のような人間でさえ、日々の勤行の追善の際に、先に逝いた先輩、後輩、同志の数が増え広がっていきます。伸一の思いを重ね、それぞれの人たちへのあの日あの時のことが思い起こされ、決意新たになるのです。

●日御碕灯台に立って

 更に、伸一は9月16日には島根、鳥取の「`73山陰郷土祭り」に向かいます。17日に島根県出雲市の日御碕(ひのみさき)灯台近くに立ち寄り、岬の下での雄大な景色を眺めつつ、次の御書の一節を。思い返します。

「久遠下種の南無妙法蓮華経の守護神は我国に天下り始めし国は出雲なり、出雲に日の御崎と云うところあり、天照太神始めて天下り給う故に日の御崎と申すなり」(879㌻)  この御書の一節を通し、「出雲をはじめ山陰地方は、その伝説のうえからも、景観のうえからも、光り輝く太陽の国といえる。ここに生きる人びとがその自覚をもち、郷土の建設に取り組んでいくならば、新時代をリードする、山河光る希望の天地となるにちがいない」と、伸一は断じます。

 実は、昨年末に私は出雲市の中小企業経営者の皆さんとご縁ができました。信仰は異にしますが、思いは同じ。私ももう一度この伝説の地・出雲から、地域おこし、この国おこしに取り組もうと決意しました。この地で、『77年の興亡』の出版を思い立ったのです。

 ●小学校時代の恩師への思い

 伸一は、栃木県幹部総会に訪れた11月6日に、自身の小学校時代の恩師檜山浩平先生と会い、感動の語らいをします。(189-200頁)  その場面にあって、次のような伸一の思いを込めた一節が深く心をうつのです。

 「お世話になった先生の恩には、生涯をかけて報いていこう」「自分が教わった教師全員に、強い感謝の念をいだき、深い恩義を感じていた」

 「親孝行したい時には親はなし」と同様に、お世話になった先生も私の場合、もはやほんの僅かの現実に愕然とします。人生は短いことを改めて思い知り、若き後輩たちへの激励を代わりにしようと決意しています。(2022-5-17)

 

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【70】「師弟と御書」という原点ー小説『新・人間革命』第18巻「獅子吼」の章から考える

●映画『人間革命』の制作の背景

   映画『人間革命』を初めて観たとき、深い感動と共に、とても愉快な気分を私は抱きました。折伏や座談会の場面で、日常的に使っていた仏法用語がばんばん出てきて、あたかも裏方が檜舞台に出てきたかのように思えたのです。この章は、1973年(昭和48年)7月7日に行われた東宝スタジオでの試写会の模様から始まります。

 日本を代表する脚本家の橋本忍氏がこの映画のシナリオを引き受けてくれたところの記述が胸を打ちます。その決断は、映画「人間革命」を通して、人間の「心」を探究し、それを示すことによって混迷した現代社会の闇を晴らしたい、その思いから、でした。「山本伸一の講演集などを読むなかで、人間が自己の欲望をコントロールし、自律するところに、新しい文明、文化の創造の道があるという伸一の考えに、強く共感した。さらにその方途が『十界論』にあると、彼は確信したのである。」(16頁)と。

  地獄、餓鬼、畜生界から始まり、菩薩、仏界に至る「十の生命の働き」については、創価学会に入った誰しもが最初に耳にし、教えて貰う仏法法理の登竜門です。私もなるほど、とがてんし、幾度も幾度も友人に話してきています。私の場合は、「早朝に満員電車の中に飛び込んだサラリーマン」の場合に例を取って〝十の範疇〟の説明をして、悦にいっていました。映画では、戸田先生に扮した名優・丹波哲郎が熱演しています。

 映画の脚本作りに際しては詳細な資料収集が必要でした。その役目を担ったのが本部渉外部長・鈴本琢造たちであったことに触れられています。このモデルこそ、私が大学時代に肺結核で悩んでいた時に激励をしてくれた人でした。雨の降る日に中野・鷺宮の会場O宅の前で、濡れるといけないよ、と傘をさしかけてくれたことは、大袈裟だなあと、思いながらも忘れられない優しい心遣いでした。昭和43年初頭のことと記憶します。

●心が離れた聖教新聞記者たちへの思い

  この頃、「言論・出版問題」の後遺症とも言えるような深刻な事態が、聖教新聞の記者の一部に起こってきていました。これには「創価学会への確信を失い、広宣流布の情熱を失った記者の精神は、あまりにも空虚であった」とされ、伸一のあらゆる観点からの指導、激励が続けれていく様子が語られていきます。(40~60頁)

   【広宣流布の尊き最前線の学会員は、「言論・出版問題」で、学会員がどんなに非難中傷され、いわれなき悪質な喧伝がなされようが微動だにしなかった。(中略)  自分も体験をもち、身近な人たちの体験を共有してきた壮年や婦人には、仏法と学会への確固不動の確信があった。しかし、心揺らいだ記者たちは、いわゆる苦労知らずであり、確たる信仰体験に乏しかった。そのため信仰の根っこがなく、基盤が脆弱だったのである。】

 この当時、ほぼ同世代の記者たちの中から、残念な人が出ていたことを噂で聞きました。改めて、自身の信仰体験の尊さに深い感動をし、己が使命を自覚したものです。私が担当していた高等部員たちにも、親の信仰の後を継いだだけの2世が多かったため、「大事なのは信仰体験だよ。自分にないと思う人は、御本尊に、体験を掴ませてください、この信仰の偉大さを実感させてくださいと、拝むんだよ」と始終強調していました。

 ここでは、日蓮大聖人の「御義口伝」の「第五作獅子吼の事」が引用され、深く印象に残ります。(51頁)「師とは師匠授くるところの妙法 子とは弟子受くる所の妙法・吼とは師弟共に唱うる所の音声なり 作とはおこすと読むなり、末法にして南無妙法蓮華経を作すなり」(御書七四八㌻)

  これは法華経勧持品の「仏前に於いて、獅子吼を作して、誓言を発(おこ)さく‥‥」(法華経四一七㌻)のお言葉で、「一言すれば、師から弟子へと仏法が受け継がれ、師弟が共に題目を唱え、広宣流布の戦いを起こすことが、『獅子吼を作す』ことになる」と、「その中核こそ、本部職員であらねばならない。そして仏法の正義を叫び、人類の幸福と平和の道を示す聖教新聞は、師弟共戦の獅子吼の象徴である」と力説されています。

 「師弟」論を考えるにつけ、思い起こすことがあります。ある友人が、「仏法修行において、師の重要性は分かるけれど、とても御書通りの実践は難しい。池田先生のような凄まじい戦いは自分には出来ない。遠くから祈り、自分なりにやるほかない」と言ったのです。これは結構よく見受けられる考え方です。私の心中にも同調する思いが浮き沈みしないと言ったら嘘になります。

 これについては、中心に一歩でも二歩でも近づこうとする姿勢が大事だと思います。それがないと、結局は惰性に陥ってしまい、本来の軌道から外れてしまいます。それを防ぐためには、「自分なり・遠巻き」論ではいけないのだと、自らに言い聞かせています。(2022-5-11)

※この項、公開するのが遅れてしまいました。(5-17)

 

 

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【69】完全燃焼こそ蘇生の源泉ー小説『新・人間革命』第17巻「緑野」の章から考える/5-7

●深夜の6分間の停車

 東京都内各地での記念撮影会を終えた伸一は、1973年(昭和48年)5月に欧州に旅立ち、帰国後の6月5日の福井を皮切りに、岐阜、群馬、函館と次々に訪れます。それぞれ各地で深い絆を会員と結ぶ姿が描かれていきます。まず、福井では13年前の1960年2月の忘れられぬ出来事が語られます。(336-341頁)

 それは、京都から金沢に向かう列車の敦賀駅での6分間の停車時間に起きたことでした。伸一が乗った列車が午前2時半頃に着くと知った50人ほどの人々が、一目お会いしたいとプラットフォームに集まってきていたことが発端でした。みんなの気持ちは痛いほどわかるものの、周囲に迷惑をかけ顰蹙を買うようなことはしてはならないとの判断から、伸一は車内から外に出ず、代わりに同行していた十条が皆に会い、その思いを伝えました。この時の自身の対応に「やはり、一目でも会うべきでなかったか‥‥」と、悔やむ思いを持ちます。

 【すべての責任を担って、「最善の道」をめざそうとすればするほど、反省は尽きなかった。だが、そのなかで人間は磨かれ、自己完成への歩みを運ぶことができるのだ。『悔恨がないのは、前進がないからである』とは、トルストイの達観である。伸一は、以後、福井を訪問するたびに、『敦賀の駅にきてくれた人』のことを語り、感謝の意を表してきたのである。】

 私は年中反省することが多いのですが、その都度、宮本武蔵の「我事において後悔せず」との言葉を思いだし、その失敗、逡巡を忘れようとします。しかし、ここでは悔恨を前進の糧にしようとする姿が窺え、ほっとします。

●身体のハンディと幸福感

 6月7日は岐阜へ。文化祭での「郡上一揆」を題材にした、創作劇『一人立つ』で主人公に扮した目の不自由な青年・長松正義のことが語られていきます。(359-369頁)

   【入会前は著しく乏しい視力で生きねばならないことを嘆き、自らの宿命を呪う毎日であった。しかし、信心に励むなかで長松は、そのハンディをかかえながら、最高の仕事をし、幸福になることに、自分の使命があることを自覚したのである。ヒルティは断言する「試練は、将来われわれの上に咲き出ようとする、新しいまことの幸福の前ぶれである。】(367頁)

    私の入会前の問題意識は、「身体的ハンディと人生の絶対的不平等」でした。しかし、入会後に、この長松のような問題を抱えた同志を幾人も見てきました。「自由グループ」「自在会」などと命名された障がいを持った人たちです。彼らと交流するたびに、強い刺激を受けました。人間は一念のありかしだいで、自由にも、不自由にもなることに、発奮したものです。

●完全燃焼の大事さ

   聖教新聞岐阜支局での伸一と記者、通信員との語らいでの二つの場面が強く印象に残ります。一つはどうやって睡眠時間を確保するか。もう一つは、言論の大闘士について。それぞれ次のように述べています。

 前者は、「それには一瞬一瞬、自分を完全燃焼させ、効率的にやるべきことを成し遂げていくことです。人間は一日のうちで、ボーッとしていたり、身の入らぬ仕事をしている時間が、結構多いものなんです。そうではなく、『臨終只今』の思いで、素早く、全力投球で事にあたっていくんです」(375頁)

   先日、兵庫に応援に来てくれた尊敬する大幹部と懇談した際に、優れた芸術家は健康で長生きする人が多いということで、意見が一致しました。彼の発言の背景にはこの伸一の発言があると見られました。私は「ものごとに熱中して、没我の状態に長くあることが人生を健康で豊かなものにする」との持論を述べたものです。

 後者は、「広宣流布は言論戦なんだから、青年は言論の力をつけなくてはならない。そのためには、優れた論理展開の能力を培うことも大事だが、句や歌で、的確に心を表現する力も必要です。」(379頁)

  長文と短文と、そして論理展開と感情表現と。文章力修行に王道はありません。努力、努力また努力なんでしょう。熱中して自我を忘れるほど完全燃焼のときを持つことが人間を甦らせるとは、不思議なことです。

●音楽は世界の共通語

 以上のことは、次の群馬でも強調されます。伸一は、群馬交響楽団のメンバーとの懇談で以下のように発言しています。

 「それぞれの立場で人間文化の花を咲かせ、社会に貢献していくことが、仏法者の使命なんです。そして、そのためには常に自分の魂を燃え上がらせ、〝さあ、今日も頑張るぞ!〟という、満々たる生命力をたたえていかなければならない。その源泉が題目です」(396頁)

 「音楽は人間と人間の心を結ぶ、世界の共通語」「歓喜の共鳴音」と、続きます。先日『今こそ平和の響を〜ウクライナ侵攻と芸術家たちの闘い』をTVで観ました。「戦争」で沈む世界に、音楽の重要性を感じました。(2022-5-7一部修正)

 

 

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【68】民衆のための権力ー小説『新・人間革命』第17巻「民衆城」の章から考える/4-28

●師弟の深くあつい絆

 1973年(昭和48年)4月下旬のある日。聖教新聞社の前を通りかかった伸一は、荒川区の婦人部員たちと出会います。その中の一人が16年前の昭和32年8月の夏季ブロック指導の際に、伸一から病気の指導を受けた女性でした。そこから、その直前の7月の「大阪事件」に話が及びます。昭和31年の4月に行われた参院大阪地方区の補欠選で、一部に選挙違反者が出たことを口実に、青年部室長であった伸一が不当逮捕されたのでした。ここでは、権力の不当な動きをめぐる戸田先生の伸一へのあつい思いが語られていきます。(240-248頁)

   伸一は北海道で夕張炭労事件の解決に奔走していました。そこへ大阪府警への出頭の連絡がきて、空路大阪に向かいますが、途中乗り換えのために東京・羽田空港に降り立ち、そこで戸田先生たちと出会います。この場面は強く胸を打ちます。「憔悴し、やせ細っていた」戸田先生は、伸一を見つめ、意を決したようにこう言います。

 「われわれがやろうとしている広宣流布の戦いというのは、現実社会との格闘なのだ。現実の社会に根を張れば張るほど、難は競い起こってくる。しかし、戦う以外にないのだ。また、大きな難が待ちかまえているが、伸一、往ってきなさい!」

 それに対し、伸一は「はい!」と言うと、戸田の顔に視線を注ぎ、健康状態を聞きます。戸田はそれには答えず、「心配なのは君の体だ‥‥。絶対に死ぬな。死んではならんぞ」 次の瞬間、戸田の腕に力がこもった。彼は伸一の体を抱き締めるように引き寄せ、沈痛な声で語った。「伸一、もしも、もしも、お前が死ぬようなことになったら、私もすぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして、一緒に死ぬからな」

 師弟のやりとりで、これほど激しく胸を揺さぶられる場面はこれ以外にあまりないように思われます。矛盾に満ち溢れた不合理な問題が次々と学会本体を襲う状況下で、師と弟子が相互に身体を気遣いあわれるこの場面こそ、永遠不滅の師弟愛の極致ではないでしょうか。師匠に甘えるだけの柔な弟子でしかなかった自身の来し方を振り返る時に、申し訳なさと恥ずかしさが募るのみです。

●権力の魔性との戦い

   以上のような描写が思い起こされたあと、荒川での夏季ブロック指導期間での戦いに触れられていきます。伸一は、7月3日に逮捕、2週間勾留されたあと、17日に大阪拘置所を出ます。その半月あとの8月8日の座談会で、伸一は「大阪事件」のなんたるかを語っていきます。(250-265頁)

 「この事件の本質はなんであったかー。ひとことで言えば、庶民の団体である創価学会が力をもち、政治を民衆の手に取り戻そうと、政治改革に乗り出したことへの権力の恐れです。そして、これ以上、学会が大きくなる前に、叩いておこうとした。学会には常勝の若武者がいる。まず、それを倒そうと、私を無実の罪で逮捕した。さらに壊滅的な打撃を与えようと、衰弱されている戸田先生にまで手を伸ばそうとしたんです」

 「大阪事件」以後、今日まで権力が抱く「創価学会への恐れ」は幾たびも形を変えて浮上してきました。今は、公明党の与党化という状況もあって、一見なりを潜めたかに見えます。しかし、それはいつ何時再び牙を剥き出すかしれません。この問題は、与党、野党という問題ではないと私には思えます。政治改革は未だならず、途上でしかありません。それを成就するために、追撃の手を緩めれば、権力は民衆を睥睨する方向に向かってきます。また、その手を頑なに行えばまた、弾圧の動きがでてきます。この辺りを見据えながら緩急自在に、大衆のための政治改革を目指し続け、権力の統御に取り組むしかないと思われます。

●「ヨーロッパ会議」が設立

   この後、5月8日に伸一が出発した一年ぶりの英仏両国への旅の目的の一つは、「ヨーロッパ会議」の設立に向けての準備会議でした。フランス、西ドイツ、イギリス、イタリア、ベルギー、オランダ、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、スイス、オーストリア、スペイン、ギリシャの13カ国で出発した同会議の模様が綴られていきます。(312-317頁)

    【日蓮大聖人は、「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつりて候ぞ」(御書1467頁)と仰せである。その国、その地域にいる人こそが、地域広布の主体者として責任を担っていくというのが、広宣流布の方程式である。】

 現代に応用できる大聖人の世界観の披歴に感激します。「欧州における人間主義の連合体」としての「ヨーロッパ会議」は、この時に設立され、創価学会SGIの今日の発展の礎となってきています。今、ロシアによるウクライナ戦争という忌むべき事態を迎え、世界は歴史的な試練の時を迎えています。悲惨な戦火の拡大が収まるよう、停戦・平和をただ祈るのみです。(2022-4-28)

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【67】父と娘のあつい絆ー小説『新・人間革命』第17巻「希望」の章から考える/4-23

●「他人の不幸の上に自分の幸福を築かない」との教え

 「来たりけり 世紀の門出の 交野校」「万葉の 花も喜ぶ 入学式」「師のもとに いのちはもえる 女子学園」ー1973年(昭和48年)4月11日、創価女子学園の入学式が行われました。中学148人、高校239人の乙女たちが北は北海道から南は奄美群島まで、全国各地から、生駒連山に抱かれるように聳え立つ交野市の学びやに集まってきたのです。伸一は入学式のその日に胸躍る思いを込めて冒頭の句を詠いました。この章では、創価女子中学、高等学校の設立前の背景から、2008年までの経緯が語られていきます。(104-237頁)

 入学式の挨拶で創立者の伸一は、「伝統」「平和」「躾」「教養」「青春」の五項目を語ります。2項目目の「平和」について、「私が今から皆さんに望むことは、『他人の不幸の上に自分の幸福を築くことはしない』という信条を培っていただきたいということであります」と、強調しました。

 女子中学、高校生の門出にあたって送る言葉として、「平和」は他の4つに比べて異質のように思われます。しかし、伸一は「平和」といっても、日々の自分の生き方、行動の中にこそあるということを訴え、「他人の不幸の上に、自分の幸福を築かない」ーとの信条が女性の生涯を崇高なものにすると確信していたのです。

 私は今、生命のかけがえのなさを心底から叫びたくなる衝動に駆られ続けています。平々凡々と生きて来たわけではないのですが、過ぎゆく時の流れに思わず待ったをかけたくなる心情を如何ともし難いのです。そんな私は出来る限り若者と接触すべく心がけています。かつて尊敬する大先輩から、「日々子どもと闘って若いエネルギーを貰っている」と聞き刺激を受けたことがありますが、いま改めてその記憶が蘇ってくるのです。

●〝教育の芯〟をどこに求めるかの「77年」

 女子学園の開校3年目。1975年(昭和50年)の入学式には全六学年が揃いました。この時に、創価高校、創価大学の一期生3人が新任の教師として赴任してくるのです。3人とも高校時代から創立者の伸一に接し、教育への燃ゆるが如き熱情を感じ、人間教育の素晴らしさを知りました。そして後輩の育成をすることで、師の恩に報いたいと、教師の道を選んだのでした。「苦労して植えた種子が今、芽吹き始めたことを感じて、たまらなく嬉しかった」伸一の心情が語られていきます。(195-197頁)

    翌1976年(昭和51年)3月、初めての卒業式を迎えます。卒業生代表の答辞が胸を打ちます。「山本先生は、『希望の乙女像』を指して『姿は女王、心は勇士』と教えてくださいました。優しくて聡明な女性として、しかも、人間としての芯を確立した、不動の人生ー。私たちにとってその芯こそ、学園で生命に築いた〝父と娘の絆〟なのです」ー弟子の道を歩みゆこうとする、乙女たちの深い決意が伝わってくるのです。(208-209頁)

   「教育」の重要性。私たちは常日頃から聞き、口にします。しかし、戦後77年の日本は、いわゆる「戦後民主主義」のもたらした〝芯なき惨状〟というような現実が広がっています。教育における「戦前」の否定が、「戦後」の出発だったのですが、もはや総決算の時期をとっくに過ぎていながら、依然として立ち上がっていない混迷する実態を目にすることが多いのです。

●平和をいかに、人間のための社会をいかに作るか

 開校から9年後の1982年(昭和57年)、女子学園は転機を迎えます。男子生徒も受け入れて男女共学の学校として再出発することになりました。その転換点に当たって、1978年から女子学園で教鞭をとっていた伸一の長男の正弘が、男子クラスの担当を自ら名乗り出るなど、その奮闘ぶりが描かれていきます。(231-233頁)

   そして、この章の最後に、関西と東京の創価学園についての開校いらいの足跡がまとめられ、伸一の考える「教育観」が披歴されています。

 【人間は等しく幸福になる権利を持っている。それを実現するための価値創造の教育、人間主義の教育が創価教育である。ゆえに、一人ひとりが、その実現に生涯を傾けていってこそ、創価教育の結実がある。したがって、学園出身者は、「平和をいかに創造するか」「人間のための社会をどう実現するか」といった、人類の不幸をなくすための闘争を永遠にとどめてはならない。不幸を見過ごすな!民衆を守れ!人間を守れ!平和を守れ!それこそが山本伸一の学園生への遺言であり、魂の叫びなのだ】(237頁)

   明治維新から77年後の敗戦。そして今に至る77年の苦戦。この2つのサイクルを振り返ると、あるべき「教育」の姿が浮かんできます。それこそ「幸福への価値創造をするための人間主義の教育」であり、その根底の思想を生み出しゆくものこそが「法華経」なのです。(2022-4-23)

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【66】陰の推進力あってこその「兄弟会」ー『小説・新人間革命』第17巻「本陣」の章から考える/4-17

●遠心力と求心力ー師弟不ニについての迷い

 創価学会の歴史の上で広布第二章と呼ばれる、1973年(昭和48年)が幕を明けました。伸一は、戸田城聖先生が逝去された昭和33年の冒頭に詠まれた「今年こそ 今年こそとて 七歳を 過ごして集う 二百万の民」の歌を思い起こします。この歌の由来は、7年前の昭和26年に遡ります。その年の5月3日に第二代会長に就任された戸田先生は、会員75万世帯(200万人)の達成を宣言されました。この願業は昭和32年12月に達成。うたい残された大願成就の戦いの要諦が新年に語られます。

 この「今年こそ」の一念の決意に立ち返り、伸一は再び勇猛果敢な大闘争の開始を誓ったのです。まず青年部への〝激烈な鍛え〟からこの章は始まります。(15-36頁)

 各部部長会の席上、男子部長の野村勇が伸一に以下のように質問します。「『広布第二章』を迎えて、学会は社会に開かれた多角的な運動を展開していくことになりますが、その際、心すべきことはなんでしょうか」ーこの質問こそ、当時の男子部の最大の関心事でした。社会の各分野で勝利の実証を示すために、どう戦うかと思い悩んでいたからです。

 伸一は即座に答えた。「師弟の道を歩めということです」(中略)  「君は、なぜ『師弟の道』なのか、疑問に思っているのだろう。それは遠心力と求心力の関係だよ』(16頁)

 野村勇は当時の男子部員の衆望を担ったリーダーでした。社会的に優れた人材をどう輩出するかに強い関心を持っており、後輩たちにもそれはよく分かっていました。ー「師弟の道」は分かっていますが、その上に立ってどうするかですー伸一はそんな男子部員たちの思いを代弁する野村の言動の奥底を見抜いていました。

 「遠心力が強くなればなるほど、仏法への強い求心力が必要になる。この求心力の中心こそが、師弟不ニの精神だ」

 生意気で増上慢な私など、このくだりこそ自分に与えられたものとの思いを強く抱きます。かつて、私は信心を円(組織)と点(人)に例えて、こう説明していました。求心力と遠心力のバランスがとれた状態が〝円周上の点〟で、遠心力が強過ぎると、点は円周上を越えて飛びだしてしまう。点は求心力を強めて円の中心に近づくことが大事。理屈でこう言いながら、一方では、それは分かってるという傲慢な命もどっかりと居座っていたのです。

●中野区での「青少年スポーツの集い」

 この年、2月4日。伸一は「中野・青少年スポーツの集い」に出席するために、区体育館に向かいました。記念撮影や懇談をしながら、伸一は集まっていた1300人余のメンバーを前に、こういいます。(44-62頁)

 「戸田先生の師子の精神を受け継ぐ中野の皆さんは、学会員の誰からも、〝中野の同志がいれば、大丈夫だ〟といわれる人材の山脈を、また、友情の万里の長城を築いていってください。そして全員が社会にあって、それぞれの分野で第一人者となり、見事なる信心の実証を示していただきたい」

 このあと、みんなに将来何になりたいかを問いかけていきます。女優、アナウンサー、国連事務総長、作家など次々と声があがっていきました。「みんなの将来の希望をメモに書いて提出してください。そして、それぞれが、自分の掲げた目標に向かって、三十年後をめざして進もうじゃあないか!」「青年は大志をいだいて社会で力をつけ、リーダーになっていくことが大事です。力なくしては何もできません。(中略) そして、これから三十年間、二月四日を中心にして、毎年、集いたいと思うがどうだろうか!」

 「中野兄弟会」はこうして誕生しました。伸一は集った青年たちに目標を自ら決めさせ、一人一人がその成就に向かってどう努力していくかを見守ることにしたのです。毎年、本部周辺などに集い、お互いの成長を確認しあっていきました。皆が感動したのは伸一の出席であり、それが叶わずとも、その深い思いが毎回うかがえたことなのです。

 「中野兄弟会」は、明年結成50年を迎えます。今もなお、毎年2月4日前に、藤井達也(モデルの実名)議長からそれぞれの現状をたずねる激励の葉書連絡が入ります。彼のもとの事務局メンバーが実態の報告をまとめ本部に提出しているのです。伸一とのあの日の誓いが持続しているのはひとえに、この事務局の重い責任感と結束のおかげなのです。伸一はそのことをこう述べています。

   【彼は自らが表舞台に立とうとするのではなく、皆の陰の力に徹する、謙虚な人柄であった。その責任感は、人一倍強く、深夜までかかって黙々と書類をまとめ、忍耐強く、懸命に皆と連携をとってきた。(中略)  物事が存続していくには、必ず、陰の推進力となって、地道に献身している人がいるものだ】

 藤井議長を間近で見てきた私は心底から、この人あっての「中野兄弟会」を実感します。(2022-4-17)

 

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【65】今に命を込める大事さー小説『新・人間革命』第16巻「羽ばたき」から考える/4-12

●「頭の中にいれよ、 メモはダメだ」

 欧米の旅から5月末に帰国した伸一は、7月には東北へと足を伸ばします。大学会の結成、記念撮影会などに出席するためです。その途上に、のちに「昭和47年7月豪雨災害」と呼ばれる大雨がこの地域にも激しく襲いました。各地で次々と届く被害の報告に、的確な指示を出しつつ、激励行を重ねます。(227-274頁)

 山形での撮影会の合間に、青年時代に勤めていた大東商工の近くの食堂で働いていた婦人と約20年ぶりに再会します。当時伸一が政治、経済、法律、漢文、化学、物理学など百般の学問を個人的に受けた「戸田大学」の学舎こそ、その大東商工の入っていたビルの一室でした。ここから厳しい個人教授の様子(時に他の青年達も参加)が語られていきます。

 この中で強く印象に残るのは、戸田先生が語ったある蘭学者の体験を通じてされた話です。長崎で学んだ蘭学の全てを記録していた筆記帳を難破事故でなくしてしまい、「頭の中には何も残ってなかった」のです。「だから君たちは頭の中に入れておくのだ。メモはダメだ」ー伸一は毎回、生命に刻みつける思いで、戸田の授業を聞いた。(237頁)

 これまで私の人生でも多くのことを学び勉強する機会がありましたが、およそノートを取ったものを後で見直すことは殆どありませんでした。あの東日本大震災の時に、津波で家を始め何もかも全てを失った人が、「身体が覚えていることだけは、持っていかれてない」と新聞で語っていたことが妙に強烈に残っています。

●窮地に陥った時にどう挑むか

 豪雨災害に直面した各地に駆けつけて、伸一は会員を激励していきます。被害にあった会員から「なぜ我々はこんな目にあうのか」「どこに原因があるのか」など様々な疑問が寄せられます。問いかけへの答えのうち、つぎのものはとても印象的です。

 「長い人生には、災害だけでなく、倒産、失業、病気、事故、愛する人の死など、様々な窮地に立つことがある。順調なだけの人生などありえません。(中略)  では、どうすれば、苦難に負けずに、人生の勝利を飾れるのか。仏法には『変毒為薬』つまり『毒を変じて薬と為す』と説かれているんです」「人は、窮地に陥ったから不幸になるのではない。絶望し、悲観することによって不幸になるんです」(251-252頁)

   私もこれまで様々な窮地に陥ってきました。病気、父母や嬰児、弟の死などに直面しました。今も身近な家族に異常な老いや、心にまつわる各種の深刻な不都合が押し寄せてきています。つい、なぜいつまでもこんな問題に苦しまねばならないのか、との嘆きが浮上してきがちです。その都度、負けるもんかと強気の心を奮い起こし、朗々と題目をあげて身体中に勇気と強い心意気を漲らせていくようにしています。弱気に、臆病に、悲観的になることが一番の敵です。己心の魔に打ち勝つ強情な信力こそ第一と決めているのです。

●正本堂の建立と破壊

    総本山大石寺に建立寄進された正本堂。1972年(昭和47年)10月12日に完成奉告大法要が行われました。富士山を背景に聳えたつ白亜の殿堂は、今まさに羽ばたこうとする鶴の翼を広げた勇姿を思わせるものでした。その式典の一部始終から始まり、完成に至る背景が語られていきます。(274-341頁)

    14日に行われた落慶大法要の挨拶に立った伸一は「正本堂ができあがったことで、基盤づくりは終わり、大聖人が目的とされた肝心要の広宣流布の『本番』が、この十月から、いよいよ始まったわけでございます。遂に広宣流布の総仕上げの幕開けを迎えたのであります」と述べました。(323頁)

   入会して7年。社会人として3年。信心の基礎も、新聞記者の基本も先輩から叩き込まれ、これからいよいよ本格的に飛翔しようとしていた私にとって、この正本堂建立は、大きな区切りでした。学会にとって「広布第二章」の開幕。私個人の歴史においても、結婚し家庭を持った出発の時でした。あの頃の溌剌たる思いが今に鮮明に蘇ってきます。

 ところが、実はこの時から僅か四分の1世紀(26年)足らず、1998年(平成10年)6月に、正本堂は時の法主日顕によって、なんと解体されてしまうのです。

【八百万信徒の赤誠を踏みにじり、大聖人御遺命の「本門寺の戒壇」たるべき大殿堂を破壊するという大暴挙である。大聖人の法門に対する大変な反逆である】(341頁)

   【日顕の常軌を逸した、この蛮行の淵源には、伸一と会員を離間させ、会員を信者として奪い取ろうとする悪辣な陰謀があった】(342頁)

   この時から24年ほどが経ち、今や大石寺は「謗法と申すは違背の義なり」(御書4頁)と御聖訓にあるように、無惨な謗法の寺院と化しています。先年、友人の車でそばを通りました。往時とは全く違う佇まいにただ呆れたものです。(2022-4-12)

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【64】人類の今を予測した語らいー『小説・新人間革命』第16巻「対話」の章から考える/4-6

●トインビーとの対談の背景にあるもの

 この小説のほぼ半分に位置する第16巻。いよいよアーノルド・J・トインビー博士の登場です。『歴史の研究』で有名な20世紀を代表する英国の歴史学者。1972年(昭和47年)4月末に、伸一はこの人物との対談を最大の目的にして、約1ヶ月の欧米への旅にでます。この章では、まず対談の相手である同博士との関係について語られていきます。(120-226頁)

   伸一はトインビーの著作が翻訳・出版されるたびに直ちに買い求めて精読。その挑戦に刮目しました。

【まず、その学説が、従来の西欧中心型の歴史観から脱却している点に驚きを覚えた。(中略)  西欧人として無意識のうちに芽生えてしまう、偏見や優越感と葛藤しながら、虐げられた民衆の「声なき声」に耳を傾け、執筆を続けたことに、伸一は感嘆したのである】

 戦争を始めとする人類の苦悩に真正面から挑み、歴史を通して未来の平和と繁栄と幸福の方途を探り出すことに、全身全霊を傾ける同博士に伸一は強い共感を覚えたのです。そこへ、1969年(昭和44年)秋に同博士から、一通の手紙が届きます。そこには創価学会と伸一に寄せる思いが率直につづられていました。

 傑出した人物は相互に響きあうものを持つ、といいますが、一通の手紙をもとに、希代の歴史家と宗教指導者の交流が始まります。年齢の差ほぼ40。人類の未来を見据えての東西の知性の語らいを前に、学び、聞き、考え、そして動くことの重要性を心底から感じます。対談から50年。私たちも少しでも挑戦せねば、との思いがしきりに募ってきます。

●対談の3つのポイントめぐって

 対談にあたって、伸一は3つのテーマを考えました。第一に「人間とは何か」という問題。人間を多面的にとらえたうえで、「いかに人生生きるべきか」との根本命題に迫るものです。第二に、「世界の平和を実現する方途について」。人類の愚かな歴史を断ち切り、地球を平和的に統合する方法を見いだす試みです。第三に、「生命の根源に迫る」対話。縦に生命の永遠を、横に宇宙を論じる宗教・哲学論です。

 この章を改めて読むに際して、私は新たな思いでおふたりの対談を全集第3巻の最初の頁から繰りました。冒頭は人間の動物的側面、「性」についてです。上下2段650頁を超える大著がこのテーマから始まることに小さな驚きを覚えました。この対談集が『21世紀への対話』との題名で世に問われたのは、1975年(昭和50年)の春のこと。私は30歳でした。関心の高いテーマが満載されたこの本に知的興奮を覚えたものです。どこまで、読み込めたか。どれだけ身につけることができたか。「光陰矢の如し」を感じるだけ、焦りのみ多いことは抗えません。

 私が最も深く惹きつけられたところは、対談最終日の5月19日の最後の最後に、伸一が博士に「山本伸一個人に、何か忠告があれば、お願いします」と述べた箇所です。博士は「〝行動の人〟に対して〝机上の学者〟がアドバイスするなど、おこがましいことです」と、述べたうえで次のように語ります。(213頁)

 「ミスター・ヤマモトと私とは、人間がいかに生きるべきか、見解が一致した。あとは、あなたが主張された中道こそ、今後、あなたが歩むべき道なのです」一言一言に魂の重みがあった。伸一は、〝私の分まで行動してほしい〟と、博士からバトンを託されたような思いにかられた。

 この対談で「中道」をいかに伸一が強調したかが分かり、ついほっこりした思いになりました。仏教における「中道」と、ここから敷衍される政治における「中道」と。一段とその必要性が高まっています。既に幾度か触れてきましたが、政治の世界での公明党の中道主義貫徹へ、私はいま強い関心を持ち、見守っているところです。

●現在を見抜いたような「権力悪」への懸念

 今現在、世界はロシアによるウクライナ戦争の只中にあります。21世紀に入った直後にアメリカでの同時多発テロに端を発し、対テロ戦争が始まりました。また、20世紀末の湾岸戦争から、イラク戦争、アフガン戦争など相次ぐ戦争の惨禍は枚挙にいとまがありません。しかし、今度のロシアの蛮行はいささか赴きをことにします。一度はソ連の崩壊、民主ロシアの誕生との流れで、決着がついたと、思い込んでいたものが根底から覆ってしまったからです。

 戦争が語られた「対話」では、「世界独裁制の出現」を博士は予測しています。それに対して池田先生は、「きわめて大胆なご意見」とされる一方、「人類は世界的な独裁体制を出現させるに至るかもしれません」(池田大作全集第3巻402頁)と危惧を表明。人類の未来における「平和と幸福」への努力に、「最後まで残るのは権力悪の問題」だと喝破されています。

 プーチンの「権力悪」にどう立ち向かうか。人類は今まさに正念場を迎えています。(2022-4-7)

 

 

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【63】「人間総体」との捉え方ー小説『新・人間革命』第16巻「入魂」の章から考える/3-31

●大学会総会での「総体革命」講演

 これまで革命というときは、一般的に政治、経済、社会の革命をさすとされてきました。それに対して創価学会では、トータルな意味での「人間」を革命することが第一であるとの立場を強調しています。この章は、1972年(昭和47年)1月2日の大学会総会での伸一の「総体革命」論の講演から始まります。

 「総体革命」とは、「立正安国」の現代的表現で、同意義であるとしたうえで、「どこまでも人間を原点とし、仏法によって社会建設の主体である人間を変革する、人間革命が根本となります。人間こそ、社会を形成する基盤である。ゆえに、人間の生命が変革されれば、それは人間社会のすべてに反映されていきます」(24頁)と述べました。

 この講演を聞いた当時の学生たちは、教育、科学、政治、経済、芸術などのあらゆる分野に進出して、そこでの「一流人」を目指しました。その際に私は、総体革命と人間革命を別のものと捉えるのではなく、「人間総体」と見做し、一体的に呼称することの大事さを感じました。でないと自分自身の生命自体を変革することを後回しにして、目の前にある相対的な事物・事象を変革することに目が向いてしまうと思ったからです。「人間総体革命」と「社会相対革命」は違うことを、自らに戒めたかったからです。

●新宿区での写真撮影会

 この年は「地域の年」と銘打たれていました。1月15日には新宿区で最前線の幹部との記念撮影会が区内の体育館で行われたのです。この日は、あいにくの雨でした。参加した人々、特に婦人部のリーダーたちの落胆は大きいものがあったはずです。伸一は価値創造の源泉である仏法の原理を語っていきます。(33-52頁)

 「時には、祈っても、思い通りにならない場合もあるかもしれない。でも、それは、必ず何か意味があるんです。最終的には、それでよかったのだと、心の底から、納得できるものなんです」「要はどんなことがあっても、そこに、何か意味を、喜びを、見いだして、勇んで挑戦していくことが、価値の創造につながるんです。それには、人生の哲学と智慧、そして、生命力が必要になる。実はそのための信心なんです」

 【物事をどうとらえるかが「哲学」である。一つ一つの事柄を悲観的にみるか、否定的にみるか、肯定的にみるかーで、人の生き方は全く異なってくる】

 私は信心を始めた場所は中野区の下宿先でしたが、社会人になってからは、文京区の社員寮を経て、新宿区の社員寮へと移転していました。組織的には高等部の担当幹部についており、この日も高校生たちと一緒に参加していたのです。懸命に記者業に取り組む一方、未来を築く若者たちへの激励に汗を流していました。そうした時のこの撮影会(新宿1-15グループ)での一連の体験を通じ〝一皮剥ける〟成長が出来たと実感できました。それはすべてを決する根本は生命力であり、その源泉は唱題だということを再確認したことだったのです。

  ●復帰直前の沖縄へ3年ぶりの訪問

 1月29日。伸一は3年ぶりに沖縄に向かいます。戦争が終わって27年間もの長きにわたって、米国の施政権下に置かれてきた沖縄は、この年5月15日に返還が決まっていました。今回の訪問目的は、那覇とコザのメンバーとの記念撮影、コザ会館の開館式でした。これらの行事での同志との触れ合いで、伸一は【復帰後の沖縄を、真実の『幸福島』にしていけるかどうかは、一人ひとりの宿命の転換以外にないことを強く訴えたかった】のです。(52-103頁)

   男子部との記念撮影で、一人の青年の腕を握り、肩を叩き、こう訴えます。

 「二年後また来るから、その時には、一段と成長した姿で会おう。沖縄には、本土の犠牲となり、苦渋を強いられてきた長い歴史がある。(中略)  過去のみにとらわれ、被害者意識に陥っていれば、本当の建設はできません。被害者意識は、所詮は受け身の生命なんです。そこから生まれるのは憎悪であり、それは破壊のエネルギーにしかなりません。また、あきらめと無気力を生みます」(82頁)

 ここに述べられた伸一の思いは、沖縄への根源的な姿勢を表しています。過去のみにとらわれず、未来に向けて真の建設をするべく立ちあがろう、と。復帰後50年が経って、現在の沖縄は表面的には「変わらざる基地の島」ですが、学会同志のメンバーの壮絶な闘いぶりは見事に「幸福島」として開花しています。その背景には、「二年後また来るから」の呼びかけにあるように、伸一の「入魂」の継続があったのです。

 戦後77年の転機に、ロシアのウクライナ侵略という、〝歴史の逆転〟と言わざるを得ない事態が発生しています。これをどう捉えるか。これまで日本人は「沖縄」を基軸に「戦争と平和」を考えざるを得なかったのですが、これからは「ウクライナ」が加わり、より深刻になりました。(2022-3-31)

 

 

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【62】地域に人間主義の花をー小説『新・人間革命』第15巻「開花」の章から考える/3-25

●牧口先生生誕100年から創価学会創立100年へ

 1944年(昭和19年)に獄死された初代会長・牧口常三郎先生。それから27年。1971年(昭和46年)6月6日は生誕百年の記念日でした。その日胸像の除幕式が聖教新聞本社前で行われたのです。伸一が先師の死身弘法の大闘争をしのぶところからこの章は始まります。

 〝牧口先生、私は先生の敵を必ず討ちます。先生を獄死させた権力の、魔性の牙をもぎとってみせます。そして人間主義の平和と人道のスクラムをもって、傲岸な権力を抑え、民衆が喜びにあふれた社会を築いてまいります。それが私の仇討ちです〟(309頁)

    牧口先生が誕生されたのは1871年(明治4年)。青年期を明治に生き、壮年の只中を大正期に過ごし、昭和5年には創価教育学会を創立されました。還暦直前です。73歳までの14年間は、「15年戦争」と呼ばれるあのアジア・太平洋戦争の全体とほぼ重なっています。創立100年の2030年までを目標にして生きる私たち。三代の会長を苦しめ抜いた権力・国家悪への仇討ちと、民衆讃歌の社会構築の実現を忘れずに、生き抜きたいと思います。

●大沼研修所と月の写真とカメラへの思い

 一転、舞台は2日後の北海道大沼研修所の開所式へと移ります。ここからは伸一の写真、カメラとの関わりが具体的な場面と共に語られ、その後の写真家たちとの交流、各地での写真展の開催などに及びます。私は次の一コマに感動します。(309-330頁)

   【東の空を見た伸一は、思わず息をのんだ。雲の切れ間から、大きな、大きな、丸い月が壮麗に辺りを圧し、煌々と輝いていた。先ほどの空の明るさは山の背後に隠れていた、月の光であったのだ。月は天空に白銀のまばゆい光を放ちながら、悠々と荘厳なる舞を見せていた。そして湖面には、無数の金波、銀波が華麗に踊っていた】

 月に向かい、夢中でシャッターを切り続ける伸一。人生での「一瞬」の大切さの強調。思わず目を瞑って連想が広がります。かつて高校生たちと大沼研修所で御書を研鑽した雪の日のあの熱い思い。夕闇迫る但馬の山間でいきなり巨大なお盆のような満月に出くわした瞬間の驚き。そして喜びを。過ぎ去った歳月の重みと共に。

 『月こそ心よ、花こそ心よ』(白米一俵御書)という日蓮大聖人のかの有名なお言葉は、人生と芸術との関わりに深い思いをもたらせます。先だって読んだ『法華衆の芸術』(高橋伸城)で改めて、「芸術創造の触媒になった日蓮仏法」の凄さを実感しました。仏像美術に関心が持てなかった私ですが、光悦、宗達、永徳、等伯らから、北斎、国芳らに至る法華衆の人材山脈の豊かさには、心底からめくるめく感動を覚えました。

●鎌倉と三崎における地域交流の模範

 鎌倉祭りと三崎カーニバル。神奈川県の鎌倉市、三浦市という二つの地域での催しは、創価学会の地域交流の新たな試みとして、1971年(昭和46年)7月22、23の両日に行われました。【創価学会と社会の間には、垣根などあってはならない。学会の発展は、即地域の興隆であり、社会の繁栄であらねばならないからだ】との伸一の強い信念に基づき、これは催され、以後全国の会館と地域との関わりの模範となっていきました。

 【鎌倉は、大聖人が「たつのくちこそ日蓮が命を捨てたる処なれ仏土におとるべしや」(御書1113頁)と仰せの天地である。その鎌倉に、そして、神奈川に、広宣流布のモデルを築くことは重大な課題である】ーこの指摘は鎌倉という、ブランド力の高い地を一段と高からしめるものとして、世の歴史好きの関心を更に深めるものといえましょう。

 今年2022年のNHK 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。私も毎週興味深く見ています。喜劇作家三谷幸喜さんの脚本は出色です。面白過ぎて嫌だという人もいるかもしれませんが。時代考証担当の坂井孝一創価大学教授(『承久の乱』の著者)の解説の味わい深さなどをTV「英雄たちの選択」で見て、益々「鎌倉」に嵌まっています。

●世界ジャンボリーの緊急避難受け入れ

 この章最後は、朝霧高原で開かれていたボーイスカウトの世界ジャンボリーが台風の襲来で、総本山富士大石寺に緊急避難してきた時のことが述べられていきます。同年8月5日未明。当時7000人の高校生たちが夏期講習会に参加していました。そこに6000人を受け入れてほしいとの要請が舞い込んできます。(373-397頁)

 これを聞いた伸一は間髪を容れず「受け入れるのは人間として当然です」と述べました。次々と指示が出される様子がリアルに語られていきます。腰の重い宗門側との対比もくっきりと。

 実は私は担当幹部の一人としてこの場にいました。中心のことは知る立場ではなかったのですが、後で一部始終を聞き、深い感動を新たにしました。凄い師と共に生きる有難さを感じたのです。(2022-3-25)

 

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