【80】鈴木宗男氏とのあの日以来の再会ー平成21年(2009年)❹

o●介護総点検など公明党の立ち上がり

政権交代を許してしまい、下野した自公政権。とりわけ公明党にとってどう立ち上がるかが全てでした。新たに党代表になった山口那津男さんは、弁護士出身。太田前代表までの公明党のリーダーと違って、創価学会の組織経験がほぼないことが、この人の弱みであり強みでもありました。就任当初はやや線の細さが気にならなくもなかったのですが、それはほんの最初だけ。瞬く間に力量を発揮していくことになります。

山口代表は、最初の代表質問で、「福祉、教育、平和、環境」をこれから公明党が目指す基本的政策の旗印とすることを改めて表明しました。その中でも、「安心社会を実現するための年金、医療、介護、子育てを柱とする新たな日本型福祉社会」を構築することに力を注ぐことを鮮明にしたのです。さらに「介護」問題を最も優先されるべき課題として挙げた上で、具体的には❶施設、在宅サービスの整備・充実、介護人材の慢性的不足への対処❷地域包括ケアシステムの構築などの重要性を強調。公明党として「介護」総点検運動の展開を掲げたのです。かねてより、公明党は「総点検」をその政党活動の「一丁目一番地」に置いてきているだけに、全国の党員、支持者は奮い立つ思いを抱きました。

なお、井上義久幹事長は私にとって太田さん同様に公明新聞で机を並べた文字通り懐かしい同志(2年私の後輩)です。東北大工学部出身の理系政治家の先駆のひとりとして注目されてきていましたが、いよいよ満を持して表舞台に登場との感が強くありました。太田さんが落選し、組織経験がない山口代表を支える好適任者と見られたのです。

●外務委員会での質問の際に、鈴木宗男委員長への〝弁明〟

民主党が政権を奪取したこの時の選挙で、かの鈴木宗男氏は新党大地の代表として2回目の当選(通算8期目)を果たしていました。いわゆるムネオハウス事件に端を発した一連の疑惑がもとになり、衆議院予算委員会で証人喚問されたのが2002年3月11日。その後、議員として最長の437日ものあいだ拘置されたり、自民党を離党、落選も経験するなど様々の遍歴を経て、この年の9月16日に新党大地が与党会派入りしたことによって、翌17日には衆議院外務委員長として復活することになったのです。私は、当時同委員会の理事でしたので、実に8年ぶりに顔を合わせることになりました。

証人喚問の際に私が公明党を代表して質問に立った時のことは既に述べた通りです。私としては、以前からの二人の関係もあり、再会に際してそれなりのリアクションがあって当然と思っていました。つまり、彼の方から、「あの時は言いたいことを言ってくれたよなあ」とか、皮肉の一つも投げかけられて当然だと覚悟していました。ところが、そんなことはもとより、彼から愚痴の一つも出て来ません。理事会の場においても、通常の委員長職をこなすことに終始するだけ。私としては無視されたようで、拍子抜けしたのですが、大いに感ずるところがありました。

そうした流れの中で、11月17日に委員会が開かれます。私が質問に立つ機会が巡ってきました。岡田克也外相らへの質疑に先立ち、私は次のように発言をしたのです。以下、関わりある部分を議事録から全文引用します。

【私一つだけ申し上げますと、あのとき、大変失礼な言い方でございますが、たたき上げの鈴木宗男代議士は、自分自身をたたかれるんではなくて、周りをたたかれてのし上がってこられた方だというふうな言い方をしてしまいましたけれども、その後の、ご自身の法廷闘争だけではなくて、外務省との闘い、さまざまな面で教えられるところが多い。

また、佐藤優さんとそれから鈴木宗男代議士との何といいますか、例えようもない友情というか、そういうものを、さまざまな著作を通じて、一生懸命読ませていただいて、教えられるところが多い。このように申し上げさせていただきまして、回答は要りませんので、私の感想とさせていただきます。】

正直に言って、私は証人喚問以後、鈴木宗男、佐藤優両氏が書いた本を徹底して読みました。とりわけ佐藤氏の本には心底から魅せられたのです。この発言をすることで、私は自身のわだかまりとでもいうべきものを清算した思いでした。公的な場面で発言したことへの決着は、やはり公的なところでけりをつけるべきとの私流の始末の付け方でした。ところが、ほぼ一年後に鈴木氏の実刑が確定する判決が出ます。公民権停止となり彼は議員を失職、委員長も辞任することになります。その後、ほぼ忘れかけていた時に、この時の発言が改めてクローズアップされることになるのです。それは佐藤優さんの著作の中に登場しました。後日談とでもいうべきものですが、あえてここで触れることにします。

●佐藤優氏の『創価学会と平和主義』

実は、5年後の2014年に発刊された彼の『創価学会と平和主義』(朝日新書)なる本の138頁から140頁にかけて、以下のような私に関する記述が出てくるのです。

【かつて、私は鈴木宗男氏の疑惑に関連して、共産党、社民党や民主党議員から激しいバッシングを受けた。公明党も鈴木氏を「クロ」だとする立場だったが、公明党の議員は、鈴木氏に対しても私に対しても、人間的な誹謗中傷行わなかった。

国家策動への対応

その後、鈴木氏が国会に戻り、衆院の外務委員会の委員長に就任した。2009(平成21年)11月18日の外務委員会で、公明党の赤松正雄代議士が質問の最後に、付け加えた。(議事録からの引用は前述通りなので略します)

赤松氏だけではない。公明党や創価学会の関係者に会うと、「よくあの状況で鈴木宗男さんを裏切りませんでしたね」と言われることがしばしばある。こういう発言が出てくるのは、創価学会や公明党のもつ、組織の文化だと思う。国家が何か策動しているときに、一歩引いて状況を観察する。国家権力の論理とは別の価値観で動いているのだ。これは決して失ってほしくない価値観である。】

実は、佐藤優さんは、このくだりの直前に「日蓮仏法の理念を現代社会に反映させ、反戦平和と大衆福祉の実現を目指す政党だと自身を規定し直す」ことを提案しています。そうすることで、党の輪郭が明瞭になって、ある種のうさんくささが消えるというのです。そしてその結果、「無党派層が投票先を考えるときの選択肢の一つとして認知されるようになる」と断言しています。

宗教政党だという側面をもっと積極的に前面に押し出せということでしょう。この著作を出版して以後、彼は堰を切ったかのように、「公明党論」をこのスタンスで展開しているのです。創価学会に対する深い理解、池田先生への熱い尊敬の眼差し、公明党への大いなる期待ぶりには心底から感動を覚えます。私などには、昨今の「安倍一強」がもたらす自民党の宿痾とでもいうべきものへの嫌悪感があります。このため、ややもすれば公明党への厳しい視点を隠さないのですが、佐藤優さんはもっと高く幅広い視点と包容力で自公政権を見ているものと思われます。(2020-8-8公開 つづく)

 

 

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【79】落選しながら当選という〝おかしなおかしな大奇跡〟ー平成21年(2009年)❸

●近畿比例区順位五番を自ら申し出る

衆議院議員の任期切れが近づいていくなか、前哨戦ともいうべき東京都議会選挙が7月12日に投開票を迎えました。その結果、民主党が54議席を獲得。前回を15議席も上回りました。それに対して自民党は38議席と、前回よりも10議席も減らして、第一党の座を民主党に譲りました。公明党は前回同様の23人全員当選で面目を施したことになります。自民党の都議会第二党への転落は、都議会史上歴史的な〝黒い霧解散〟となった昭和40年(1965年)以来のものです。実はこの年に大学に入ると同時に創価学会に入会、公明党員にもなった私としても選挙権は未だなかったのですが、忘れがたい出来事でした。

この自民党大敗の翌日13日に、麻生首相は7月21日に衆議院解散をし、8月30日に投開票することを表明します。首都での大敗北の余韻覚めやらぬなかでの衆議院選挙日程の公表。なんとも気勢の上がらぬことおびただしいものがありました。加えて、解散当日の自民党両院議員総会の場で、同首相は反省とお詫びを口にするなど、タイミングの悪い遅すぎる釈明を行うのです。野党民主党にとっては、好都合この上なく願ってもない上昇気流に乗る追い風ムードがグングンと漂いました。

実はこの総選挙では後々に至るまで私の記憶に残ることが三つもありました。一つ目は、私の比例名簿順位のことです。これまでの比例区での4回の総選挙では、事前に何ら打診めいたこともなく、公示当日に党から順番が伝えられるだけ。ところが、この時に限って支持団体のトップ・西口良三総関西長から呼び出しがあったのです。7月20日夕刻のこと。神戸でお会いした(兵庫の得田昌義さん同席)のですが、近畿比例区の五番目の話では、との予感がしました。面談が進むも、本題らしきことに中々触れられないので、私の方から頃合いを測って、「名簿順位五番目にしていただくことで、結構ですよ」と発言しました。

西口さんは「そうか、そう言ってくれるか。それはありがたい」と、ホッとされた顔で言われました。私は続けて「落選中の竹内譲君をぜひ当選圏内に入れてやってください。私は五番で構いません。兵庫県の同志の皆さんにはご苦労おかけしますが、五番目でも必ず通してくださるものと確信します」と不思議なくらい強い口調で断言しました。加えて、「比例区の選挙って、本当に面白くも何ともないですね。自分の名前で出られる小選挙区の方が大変でも、やりがいがあります」と、いささか余計なことも口にしたのです。西口さんは「そうか。面白くも何ともないか」と言いつつ、「名簿順位五番でも必ず当選させるから」と激励してくれました。

●民主党政権の座へ、自民、公明は大惨敗

二つ目は、投票日の三日ほど前のことです。「あなたの当選は恐らく間違いないですよ」と、ある親しい記者から電話があったのです。実は、選挙期間中の世論調査で民主党の圧倒的強さが報じられていました。この総選挙は、「政権選択」に焦点が絞られ、自民党への逆風は猛烈に吹き荒れていました。民主党に対して「一度やらせてみては」との空気は日に日に強まっていきました。自民党を中軸に据えた長期連立政権は制度疲労的現象を随所に抱えていたのです。

そんな状況を背景に、メディア各社は事前に当落予想をします。その予想結果を秘密裏に教えてくれた記者からの電話でした。民主党が小選挙区で圧勝するが、比例区の候補者数(民主党)が足らない、そのため、公明党に議席が回ってくる公算が強いというのです。民主党が圧倒的に強いということは、自民党、公明党の小選挙区候補が弱く、落ちるということが前提です。これはもう素直に喜べない極めて困った結果予測です。仲間が落ちた時のみ自分は通るー複雑怪奇な気持ちを持ったまま、奇妙奇天烈な三日間を過ごしました。

投票日当日の30日。不安は的中し、続々と民主党は当選、自公候補は次々と落選する結果となったのです。地滑り的勝利との表現が相応しく、民主党は308議席を獲得。なんと、公示前の3倍にも及ぶ伸びを示しました。一方、自民党は公示前の300議席から119議席に激減。公明党も8小選挙区で、太田代表、北側幹事長、冬柴元幹事長ら8人全員が枕を並べて討死する結果となりました。尤も比例区は805万4007票で、辛うじて21議席を獲得し、前回より2議席減らしただけで済みました。

三つ目は、私はひとたびは落選と報じられたのですが、一夜明けると当選していました。開票日の夜、近畿比例区の公明党は4議席で決まり、だったからです。ところが、民主党の比例区候補者数が3人足らず、2人が自民党、1人が公明党へと議席が回ってきたのです(いわゆる比例復活ではなく)。おかしなおかしな選挙制度です。足らないならその分を空席にせず、相手方から回して埋めるというのですから。自民党の繰上げ当選者は小選挙区に出ていて次点だった人たちです。私の場合は単独比例候補です。こういうケースは全国で私だけ。まことに〝奇跡〟という他ない〝摩訶不思議な勝利〟だったのです。真夜中に、冬柴、赤羽両候補の落選という沈痛な事態を横目に、落ちたのに通るという、6回目の当選を果たしました。喜んでも喜びきれない、悲しいなかでの喜びという正直いって、複雑な心境でした。

●鳩山首相が誕生。公明党は山口、井上の新体制に

民主党の大勝利で、新しい首相に鳩山由紀夫氏が就任(9月16日)しました。民主、社民、国民新党の民民民の三党連立政権です。政権交代がついに実現した、という高揚感が国中に溢れました。それから40日も経ってからようやく所信表明演説が行われました。私はその日のブログに、「情緒に流れすぎ、具体的政策提案がないのに、なぜか聴かせた首相演説」と持ち上げています。そのくだりを以下に、引用してみます。

【(鳩山首相の演説は)率直に言って悪くはなかったとの感想を持つ。情緒に流れすぎて(「あの暑い夏の日」といったフレーズの繰り返し)おり、具体の政策提案がなさ過ぎる(「日米間の懸案を解決する」との発言)など、言葉だけとの批判は十分なされる余地はある。しかし、今までの自民党の総理大臣の〝総花的政策の羅列〟に比べれば、かなり聴かせる中身ではあった。

民主党の政権運営の切り口は、今のところ鮮やかであることは認めざるを得ない。徹底した政治主導による予算における無駄の排除をはじめとして、前の政権の全てを否定するかのごとき手法には恐れ入る。(中略)鳩山首相や小沢幹事長の政治資金をめぐる疑惑を強調しても、そんなことよりもこれまでの政治の仕組みを変える方が先決だろうとの空気が巷には充ちていると思われる。自民、公明はよほど気合を入れて取りかからねば、KY(空気が読めない)と言われかねない。首相の演説の区切りごとに、沸き起こる耳をつんざく大拍手に手で耳を押さえながら、これからの対処に思いを巡らせた】

一方、 公明党は、9月8日に臨時全国県代表者会議を開催。新代表に山口那津男政務調査会長、幹事長に副代表の井上義久氏を選びました。清新なコンビによる新たな出発です。(2020-8-6 公開 つづく)

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【78】銀行の惨めな運命と私だけの感慨ー平成21年(2009年)❷

●麻生首相就任から3ヶ月で早くも末期的症状

この年は9月に衆議院が任期満了となるため、解散・総選挙含みの一年の幕開けでした。前年に襲った経済危機もあり、チャンスを見出せぬままに年越しとなりました。麻生首相はその発言が常に物議を醸すことが多く、まるで穴の開いたカバンを持ち歩いているようで、行く先々で失言やらブレる発言を繰り返す有様でした。そのうえ、あいも変わらぬ閣僚の不祥事が後を絶たない事態も続いたのです。

就任直後の中山成彬国土交通相の問題発言(成田空港、日教組)も驚きましたが、新年明けやらぬ2月のイタリアでの先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)では、国民誰しも我が目を疑う事態が起きました。中川昭一財務・金融相が閉幕後の記者会見の場で、ロレツ定かならぬ酩酊状態を曝け出したのです。目も当てられぬ醜態に、何か特別なことが彼の体内に起こってるのではないか、との不吉な予感すらしました。さらに、もう少しあとのことですが、首相の盟友・鴻池祥肇官房副長官が女性問題で辞任することになるのです。

既に前年暮れの世論調査では、内閣支持率は大きく落ち込み20%台という状況になっていました。自民党内においても、しだいに〝麻生下ろし〟の動きが出てきて不穏な空気に包まれ、混乱の様相を深めていました。スタート時点では、この人独特の明るさに期待する向きもあったのですが、予算委員会の場などで漢字も読めない場面を見せられ、墓穴を掘る雰囲気も重なり末期的症状は覆うべくもない有様でした。

●西川善文氏とのご縁と出会い

そんな状況を横目に、私は総務委員長として日本郵政の問題と格闘していました。小泉首相捨身の大技の結果として導入された郵政民営化ですが、その後の具体的展開の課題として、当時浮上していたのが先にも触れた「かんぽ」をはじめとする日本郵政の課題でした。

鳩山総務相との間も険悪な状況が続くのですが、そうした問題とは別に、私は西川善文氏(この頃は日本郵政社長ですが、元々は銀行家)に特別な感情を持っていました。と言いますのは、私が銀行員の息子だということに起因します。父は私が政治家になる前に他界していましたが、都市銀行の末端にあった神戸銀行に長く勤めていたのです。神戸銀行は父の死後、有為転変の末に、三井住友銀行(SMBC)のなかに吸収されていきます。その銀行の頭取をし、「最後のバンカー」と言われた西川氏ということになると、私としては大いに語り合いたい思いを持ちました。親父の仲間のように思えなくもなかったからです。

もちろん、私の父は岡崎忠・神戸銀行頭取を師とも親分ともボスとも仰いでいましたから、筋違いではあるのですが、当たらずといえど遠からずの関係と言えたのです。委員会で参考人として出席された際に、ぜひ一度じっくりとお話の機会を、と誘いました。更に実はもう一つ大きなご縁が西川さんとはありました。私の高校同期と一級下に二人の仲間(共に京大卒の俊英)がいて、彼らが西川門下とでも言うべき存在だったのです。この二人を交えてぜひ4人で一献傾けたいのでというと、まさに二つ返事でした。西川さんにとって、この二人は彼の銀行員生活の中でも特筆されるべき鍛え甲斐のある優秀な部下だったと言います。

同年5月13日の夜は楽しいひとときでした。話題は、阪神タイガース(彼は筋金入りのファン)から始まり、銀行員稼業の厳しさということに落ち着きましたが、父が私を銀行員にさせたがった経緯(私は関心度ゼロ)があるだけに、感慨一入のものがありました。聞いてみると、西川さんも元々は銀行には入りたくなかったとか。その後の銀行を襲う宿命的事態や、風前の灯火に直面する銀行家の怒涛の人生を思う時に、むべなるかなとの感情も沸き起こらざるを得ませんでした。国会での厳しい追及に晒されていた西川さん。その苦しい日々の中で、私たちとの語らいが、砂漠の中のオアシスの役割を果たせたのではないかと思ったしだいです。

●民主党小沢代表の辞任と須磨区での党会合

この頃、小沢民主党党首の第一秘書が西松建設の問題で逮捕された問題が燻り続けており、結局は同代表は5月初めに辞任するに至ります。その後の党首選挙を経て、鳩山由紀夫さんが党首に選ばれていきます。そんな状況下で、忘れられない人のお家を訪問しました。神戸市須磨区に住むSさんという当時87歳の女性です。と言いますのは、ちょうど一年前の同区での講演会でのこと。私が自公連立政権と民主党のどっちがより民衆の役に立っているかなどと話したあと、質疑応答の時間をとりました。

会場の皆さんから、最近の自民党は酷いとか、民主党はもっとあかんとか議論百出、ちょっぴり乱れました。その時にこのSさんがやおら立ち上がり、「自民がどうの、民主がどうのというたことは、みんな公明新聞に書いてある。公明新聞はええ新聞や。とくに連載小説の『安国寺恵瓊』がええで」と言われたのです。場内は一瞬で笑いの渦となり、盛り上がりました。この発言のお陰で、私は急場を救って貰った思いがしました。

これがきっかけとなって、私はこの小説の作家・火坂雅志さん(同年のNHK大河ドラマの『天地人』の作者)から色紙にサインをいただき、それを届けるために、家庭訪問をしたしだいです。「これまで生きてきてこんなに嬉しいことはないわ」と喜んでいただき、当方も嬉しい思いをしました。こういう熱心な支持者がいたるところにおられ、公明党を支えてくださってることを生涯忘れてはならないと、心の底から誓ったのです。

●自治体病院協議会の総会でほほ笑みの挨拶

「私は新型インフルエンザが初めて国内で発生した神戸が地元。皆マスクをしていますが、今日のこの会合では、皆さん元々良いマスクをしておられる方ばかりですから、マスクはとくにかけなくともいいのですね」ー5月21日に開かれた「全国自治体病院協議会定期総会」に招かれ、衆議院総務委員長としての来賓挨拶をこう切り出しました。ジョークは無事に理解されたようで、笑いも起こり和んでいただきました。新型コロナウイルスの蔓延で苦しむ現在からすれば、いささか寒くなるかもしれませんが、11年前のことです。

この協議会のトップは、赤穂市民病院の邊見公雄院長。長年私とは親しい人とあって、つい肩に力が入りました。自治体病院は地域における基幹的な医療機関として大きな役割が求められていますが、過疎の深刻化や医師不足などで、環境は厳しくなるばかり。多くの病院は経営状況が悪化、医療体制の維持も厳しいものが強くあります。

この日の会合には、議員連盟の会長として青森県選出の津島雄二代議士も出席していました。青森県といえば、先に述べた私の高校同期の高柳和江さんが主宰する「癒しの環境研究会」が活躍して、「笑い療法士」による〝ほほ笑みプロデューサー〟が沢山育っている地域。会場の津島さんを意識して、この青森ネタも紹介し、病院治療における笑いの大事さを強調しておきました。しかも、邊見さんは同研究会の世話人でもあり、盛り上げの材料には事欠きませんでした。(2020-8-4公開 つづく)

 

 

 

 

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【77】B型肝炎救済などで積極果敢に動くー平成21年(2009年)❶

●「国家戦略」をめぐる私の発言

2000年代最後の年の本格的幕開けは、バラク・オバマ米大統領の就任式(1-20)と共に始まりました。米史上初の黒人大統領の誕生とあって全世界の注目するところとなりましたが、私も深夜のテレビ映像を通じての就任式の一部始終に深い感動を覚えました。とりわけ、連邦議会議事堂前からワシントン広場一帯を埋め尽くした聴衆。寒空の中にこだまするオバマコール。その前での独唱、四重奏、宣誓、演説と続いた式典はまことに見応えがありました。

彼の演説の巧みさは、04年の民主党大会での基調演説「大いなる希望」や、08年8月の指名受諾演説「アメリカの約束」、同11月の勝利演説「アメリカに変化が訪れた」などで裏付けられてきました。ただ、就任式の演説は約20分間に及ぶ聴かせる演説でしたが、期待していた劇的なフレーズはなかったように思われました。

一方、この年早々に発刊された『検証 国家戦略なき日本』(読売新聞政治部)は、様々な角度から注目されました。時あたかも、前年の参院選での自民党の大敗、野党の多数議席獲得からのねじれ現象で、政治の中枢で物事が何も決められない状態が起きていたのです。そこへ起きたリーマンショック。迎え撃つ本場・アメリカでのオバマ旋風に比して、麻生自公政権はいかにも非力に見えました。読売新聞が、同紙上で連載し、警鐘を乱打していたものですが、この本の中に私のブログでの発言が引用(336-337頁)されていました。

【赤松正雄衆議院議員は自らのブログでこう記した。「読売新聞政治部が先に出版した『検証 国家戦略なき日本』は、政治を動かした貴重な仕事だと言える。科学技術、海洋政策、エネルギー、安全・安心、知的基盤の五つの分野でいかに日本が立ち遅れているかについて、克明に追い掛け、政治の対応を迫ったものである。2年前に読売紙上で連載が始まった頃に話題になった。(中略)  このほど、海洋基本法案が衆議院を通過したが、これも読売の連載に刺激を受けた与党有志議員による議員立法の色彩が濃い。かくのごとく政治の現場に影響を与えた新聞連載も珍しい気がする。」(2007年4月24日 赤松正雄衆議院議員のブログより)】

この後、執筆者は、「記者冥利に尽きる話だ」としながらも、「どうしてこうも気が晴れないのだろう」と危惧の念を表しています。〝引きこもり病〟ともいうべき姿を見せている日本を憂えているのです。記者たちの懸念は的中し、10年を超えた今もなお冴えない状態が続いていると見られるのは残念というほかありません。

●肝炎救済などで必死に動く

「かつて国が注射器の使い回しの禁止を徹底していれば、こんなにも蔓延することはありませんでした。注射器の使い捨てや徹底した消毒など、経費を惜しまずにきちんと予防していたら、今こんなに医療費がかかることもなかったのです」ー2月18日に公明党の肝炎プロジェクトチームの座長である私のところに来られたB型肝炎訴訟原告団の方たちの声です。一緒に来られた肝臓友の会や、C型肝炎訴訟原告団の方々と共に、肝炎患者支援法(仮称)の早期成立を要望されました。

B型肝臓ウイルスの感染によって起こるB型肝炎は、感染経路としては母子感染のほか、注射器の使い回しや輸血が原因とされています。昭和の終わりころまでは予防接種で感染が起こったとされています。既に予防接種に関し国の責任が問われたB型肝炎訴訟では、国の過失が最高裁判決で認められ賠償が命じられています。

3月4日に開かれた公明党肝炎対策PTでは、肝炎インターフェロン治療の医療費助成制度について議論しましたが、終了後に、申請者数が伸び悩んでいる現状について、業界紙の「メディファクス」の記者から訊かれました。私は「肝炎という病気がまだまだ正しく知られていないからではないか」と述べて、治療費の助成制度に加えて、普及啓発の必要性を強調しました(2009-3-4号)。さらに、3月11日に開かれた同PTでは、治療費の自己負担限度額が1万円となる対象者の拡大が話題になりました。ここでも取材を受け、「(自己負担限度額)3万円を払っている人のうち、もう少し(枠を広げて)1万円にしてもいいのでは」と述べています(3-12号)。現行制度では自己負担限度額が3万円となる対象者のうち、一定水準の低所得者は1万円に下げる必要性を指摘していました。

このように、B型肝炎の患者さんたちとの交流を国会や地元で広げて、積極的に支援の活動を展開していました。

●総務委員長の仕事で東奔西走

他方、総務委員長として各種の会合で挨拶をする機会が滅法増えました。全国の町村議会や首長の集まる場で、生活支援のための定額給付金について説明したり、新たに設けられる地方財政健全化法の趣旨や、第二次地方分権改革についての国の取り組み姿勢などを述べ、町や村の行財政基盤の拡充に尽力することを強調しました。(2-16 「町村週報」)また、3月19日の放送記念日式典では、NHKのありようについて基本的な考え方を挨拶で述べています。(3-19「日本放送協会報号外」)かつて、NHK予算の審議に際して、選挙速報の在り方を巡って厳しい追及をしたことも過去にある私ですが、さすがにこの場面は形式的なご挨拶に留めました。

一方、3月8日の日曜日には、地元赤穂市内での国会報告会や挨拶回りの合間に、赤穂「かんぽの宿」を視察しました。総務委員会ではこの頃、しばしば「かんぽの宿」にまつわる問題が取り上げられました。日本郵政がオリックスに対して、かんぽの宿の一括譲渡を決断した経緯など、幾つかの疑問点も指摘されています。これまでの国会審議を委員長席で聞いていると、西川善文日本郵政社長は防戦一方。次々とボロを出し、答弁の修正やら変更だけでなく、要求された資料について平気で誤ったものを出す有様でした。

また、3月初めの国会で開かれた「異状死死因究明制度の確立を目指す議員連盟」主催の会合は極めて興味深いものでした。実は私はこの問題に強い関心を持っていて、前年の衆議院予算委員会(2007-2-13)一般質疑の場で、泉信也国家公安委員長や舛添要一厚生労働相に、解剖を進める体制作りを求めていたのです。これは、医師で作家の海堂尊さんが『死因不明社会』という本の中で、CTスキャンを使っての画像診断を解剖の前段階で導入すべしと主張していたことに影響を受けていました。

海堂さんといえば、『チーム・バチスタの栄光』で一世風靡した人ですが、私はこの本を読書録『忙中本あり』で紹介しました。ご本人が神戸での講演に来られた際にお会いすると、先方から「私のあの本を真っ先に書評で取り上げていただいた上、厚生労働省内でも宣伝していただいて恐縮です」と礼を言われました。律儀な人だと驚きました。(2020-8-2公開 つづく)

【77】B型肝炎救済などで積極果敢に動くー平成21年(2009年)❶ はコメントを受け付けていません。

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【76】総務委員長として経済危機乗り切りに全力ー平成20年(2008年)❻

●「緊急保証制度」と「定額給付金」打ち出す

9月29日に麻生太郎首相は衆議院本会議で所信表明演説をして、その施政舵取りのスタートを切ります。同じ日に私は衆議院総務委員長に選任されました。2001年の省庁再編成で、旧自治省、郵政省、総務庁が一体化され総務省になりましたが、その役所に関わる課題を議論する常任委員会の中心者となったのです。新しい委員会が出来て7年、ずっと自民党の委員長が続いていましたが、初めての公明党所属の委員長ということになりました。総務行政のトップは、鳩山邦夫大臣。この人はご存知、後に首相となる由紀夫氏の実弟。鳩山一郎首相、薫子さんのお孫さんです。私は当選以来なにかとご縁があって、親しい関係にありました。

厳しい経済情勢の中での出発となった麻生首相のもとで、公明党は「非常時の経済対策」を訴えます。与党一体となって次々と政策を打ち出していくことに貢献したのです。最大のものは中小企業の資金繰りを助ける「緊急保証制度」の創設でしょう。10月16日に成立をみた、この年最初になる第一次補正予算に盛り込みました。実際には10月31日にスタートを切るのですが、融資の相談、申し込みが凄まじい勢いで全国に広がっていきます。太田代表を先頭に、公明党の全議員が一体となって、地域の零細・中小企業者のもとに足を運んで、この新たな制度の活用を訴えました。

公明党主導のもう一つの柱となる政策が「定額給付金」です。10月30日に発表された「緊急生活対策」の目玉でした。これは、総額2兆円規模で、全世帯を対象に①ひとりあたり12000円を支給する②18歳以下と65歳以上には8000円を加算するーというものでした。こちらの方は、第二次補正予算に盛り込まれ、現実には翌年1月27日の成立を待たねばなりませんでした。生活者の家庭に行き届くのはさらに遅れ、2009年3月から半年ほどの期間になります。

この一連の作業を扱うのが総務省。私が委員長を務める総務委員会で11月13日に集中して議論をしました。そこでは、野党とりわけ民主党の委員から、この定額給付金が最終的に地方自治体に丸投げになったのはけしからんとの批判が相次ぎました。同党はこの定額給付金構想それ自体を認めず、最後まで反対をするのですが、委員長席でやきもきする日が続きました。

●麻生首相批判をブログで

ちょうどこの頃、麻生首相が3年後に消費税引き上げを明言するとの記者会見(10月30日)をしました。このことへの波紋は少なからずあり、地元でもあれこれと批判の対象となりました。11月2日、午前中は建設会社の安全大会から、特別擁護老人ホームの秋祭りに出た後、午後には母校長田高の同期会に出席しました。そういう場で聞いた「麻生批判」をも受けて、その日のブログで私は以下の様に書いたのです。

【先日の記者会見で麻生首相が、3年後に消費税を引き上げるとしたことの波紋は少なくない。至るところで、批判めいた意見を頂くことが多い。麻生さんも、明確に決めたわけでもないくせに余計なことを言うものだ。太田代表は、少なくとも3年は消費税をあげないととらえるべきだと言っているようなのだが、いささか苦しい。首相自身の口から、もっときちっとしたメッセージを発信すべきだろう。こうした政策課題にせよ、肝心の選挙に期日にせよ、麻生さんは、公明党幹部との意思の疎通を正直欠きすぎだ。ここまで連立のパートナーを裏切っては、関係基盤も先行き不透明なものになりかねない。】

このブログにメデイアは飛びつきました。朝日、毎日、読売三紙が「連立パートナー 裏切った」「公明・赤松氏、ブログで首相批判」と書いたのです。私としては普通の当たり前の思いを発しただけなのですが、いささか本音を正直に言い過ぎたかもしれません。とくに身内の太田代表にもちょっぴり刃を向けたことのリアクションが党内にありました。意思疎通を欠いていたのは、むしろ私と代表、幹事長との間であったろうことを後々反省することになります。

●熊森協会の青年たちと環境相へ要望に行く

日本最大の実践自然保護団体である「日本熊森協会」に私が出会った経緯などについては既に述べました。1997年に設立されましたから、もう20年を超えており、会員数も20000人になろうとしていました。私は一段とこの会及び姉妹団体の公益法人「奥山保全トラスト」の守護者たらんことを深く決意しています。そんな私がその意思を固めるに至ったのにはそれなりの訳があります。それは2008年12月5日のことでした。

同協会の森山マリ子会長(当時)から、このまま狩猟、有害駆除の対象にクマがされ続けていると、一気に絶滅に向かってしまうので、ぜひ所轄官庁である環境省に要望に行きたいとの希望を聞いていました。偶々斉藤鉄夫環境相は、公明党出身の仲間でもあるので、ちょうどいい機会とばかりに、この日、仲立ち役を引き受けました。同会長以下熊森協会の青年部6人ほどと一緒に斉藤大臣及び黒田大三郎自然環境局長らと会うことが出来たのです。

今、山奥から人里にクマが降りてくるのは、森がクマの生息地として相応しくなくなってきていることが原因です。森が荒れていることは、保水力をなくしていることの現れであり、昨今の大雨による鉄砲水の出現に見られるように、やがてはすべての集落、都市が破滅に向かうというのが熊森協会が抱く危機意識です。この日の面談で、青年たちはこうした問題意識のもと、必死に「国がすぐにクマの狩猟禁止に向けて動いてくれないと、クマが滅びてしまう」と訴えました。

しかし、斉藤さんは「これからいろいろな人に議論してもらおうと思います」と、だけ。そのため、青年たちは「今、緊急事態なのです。その地域にとって、取り組みが半年、一年遅れると、取り返しのつかない結果を引き起こしかねません。今や狩猟は、スポーツ、レジャーなど遊びの道具になっています。まずはそれだけでも禁止してください。今日、ここで大臣の見解を聞かせていただかないと帰れない」と食い下がりました。

すると、斉藤さんは困った顔をして、黒田局長の顔を伺います。同局長は、「クマを狩猟獣から外すかどうかは、環境相の権限ですが、西日本のように、個体群の存続が危ぶまれているところもあるが、そうでないところもあるので、難しい」と、否定的見解を述べました。そこで、森山さんが、「熊森協会のように、多数の優秀な研究者の指導のもと、17年もの間、必死にクマと森の問題に取り組んできた本気の団体を国の審議会などに呼んで意見を聞いて欲しい」と強調しました。斉藤大臣は「検討します」と言ったのに、横あいから黒田局長が「ご意見はパブリックコメントでお願いします」と全否定する始末。森山さんは、これまで何回も応募したが、全く聞き入れられない状況を説明、「国が意見を聞いたというポーズのために、我々に無駄な労力を使わせて疲れさせないで欲しい」と厳しく返しました。

私は黙って終始聞いていましたが、これまでの政治家生活で最も屈辱感を味わった場面でした。(2020-7-31公開 つづく)

 

 

【76】総務委員長として経済危機乗り切りに全力ー平成20年(2008年)❻ はコメントを受け付けていません。

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【75】リーマンショックの嵐の中での麻生内閣ー平成20年(2008年)❺

●首相問責決議から持ち直したかに見えるも‥‥

先に見たように、衆参両院がねじれている状況は次々と困難な事態を福田政権にもたらしました。ついにそれは、「首相問責決議案」の提出、可決にまで至ったのです。現行憲法施行下で初めての出来事は6月11日に起こりましたが、与党側は直ちに衆議院での信任決議を可決し、民主党の狙う政治的効果に水をかけました。7月7日から9日までの北海道洞爺湖サミットを無事に乗り切った福田首相は、8月2日に内閣改造に踏み切ります。この内閣は、留任、再入閣が多くて新鮮味はないものでしたが、公明党の斎藤哲夫氏の環境相と自民党参議院議員の林芳正氏の防衛相の初入閣に、私は注目しました。二人とも政治家としては若く優秀な逸材で、大いなる期待が持てました。特に林防衛相は、私の親しい防衛官僚が「これまで幾人もの防衛庁長官や大臣を見てきたが、こんなに頭の回転が早く、防衛問題についての蓄積も豊富な人は初めてだ」とベタ褒めしていたことが強く記憶に残っています。

また、8月29日には、政府与党は「安心実現のための緊急総合対策」という名の緊急経済対策を打ち出します。この中では、「定額減税」の年度内実施、老齢福祉年金の受給者などに対する「臨時福祉特別給付金」の支給などが盛り込まれていました。ところが、その僅か三日後の9月1日に福田首相は辞任を発表してしまうのです。実はこの日は、朝から神戸市内で開かれた全建総連兵庫県本部の大会に出て挨拶をする機会がありました。出席者は民主党関係者ばかりで与党からは私一人。そこで、私は「早く追い立て民主党」との持論のさわりを述べたりして、上京しました。

この日の夜は、東ティモールに大使として赴任することが決まった北原巌男(前防衛施設庁長官)さんと、紛争調停人の異名を取る東京外語大の伊勢崎賢治教授を引き合わせる懇談会を持っていました。東ティモールで任務にあたったことのある伊勢崎さんから、同地の状況を聞くことが狙いでした。ところが、赤坂宿舎に帰り着くやいなや待ち構えていた記者たちから、福田首相辞任というビッグニュースを聞きます。慌てて会見をテレビで確かめると、同首相はあの「私は貴方とは違うんです。客観的に見れるんです」との後に物議を醸す発言をしていました。

その発言までの流れを追うと、記者団からは、唐突な辞任について幾度も繰り返しなぜかを問うていました。仕方なきことと思います。それに対して、首相は熟慮の末、そうすることが日本にとって一番適切だと思ったとの意味のことを繰り返し述べています。これまた、福田首相としては、あらゆる観点から考えてそれしかないとの決断だったと思われます。そこへ、最後に手を挙げた記者が、「(発言が)他人ごとみたいだ」と言ったことに対して、飛び出した発言です。首相の決断を巡っては、米国の執拗な要請に業を煮やした結果だとか、民主党の攻勢の前にほとほと疲れた果てたからだとか、選挙の顔としてはいかがとの突き上げが自民党内にあったとか、さまざまな憶測が流れましたが、全ては謎のままです。

●麻生氏が後継の総理・総裁に

謎に包まれた部分が少なからずあった福田首相辞任のあとを受けて、9月24日に首相の座についたのは麻生太郎氏でした。そこに至る自民党総裁選挙には、麻生氏の他に石破茂、石原伸晃、小池百合子、与謝野馨氏ら5人が出馬しました。同日の衆参両院の本会議では、衆議院では麻生氏を、参議院では小沢一郎氏を首相に指名する(2回目の決選投票の結果)というねじれ結果を招きましたが、憲法の規定に則り、衆議院の議決に基づいて麻生氏が首相に選ばれたのです。

この時の空気で忘れられないのは、公明党の中から浜四津敏子代表代行が早々と麻生氏支持を打ち上げたのには驚きました。北側一雄幹事長も同じような支持発言をしたのにも戸惑いを感じた人は党内に少なからずいたのは事実です。恐らく、麻生氏の明るさというプラス面を買ったのでしょうが、公明党としては珍しいフライング発言でした。その分だけ、早晩行われる総選挙への期待感と焦りがない混ぜになっていたものと思われます。

これと合わせて、総選挙の時期を巡っての憶測が飛び交いました。10月下旬から11月初旬にかけて総選挙が必至だとの情報が乱れ飛んだことは、私でさえ信じたものです。具体的に名を挙げることは差し控えますが、年内総選挙間違いなしと見込んだ人もいました。ともあれ、公明党にあって、今なお失敗談として語られるほど、この頃は皆浮き足立っていたのです。

●リーマンショックの嵐吹き荒れる

さて、米国の四大証券会社四番目のリーマン・ブラザーズが経営破綻をするという事態が起きたのは9月15日のこと。サブプライム住宅ローン危機に端を発した米国の金融情勢はこの日を機に急速に悪化、さらに第三の証券会社・メリルリンチがバンク・オブ・アメリカに吸収合併されてしまう始末。また米国最大の保険会社AIGの経営危機説まで急浮上しました。米下院が金融危機の拡大を防止するための公的資金投入の緊急経済安定化法案を否決するに至って、ニューヨーク株式市場は一気に大暴落してしまいます。2週間後の9月29日(現地時間)の終値は、前週末比777ドル安で、史上最大の下げ幅を記録。「1930年代に起こった世界恐慌の再現」とまで言われました。

これを反映して、東京の10月16日の株式市場は、日経平均株価の終値が前日比1089円2銭安の8458円45銭となり、「ブラックマンデー」(1987年10月)に次ぐ、史上二番目の11.41%の下落率を記録しました。10月28日には株価は一時6000円台に下落し、1982年10月以来の26年ぶりの安値を記録しました。日本経済は以降、消費の落ち込みや急速なドル安・円高が進み、輸出産業が打撃を受けて、大幅な景気後退過程へと突入してしまうのです。

麻生首相は10月30日に、世界的金融危機に対応し、景気対策を最優先させるため、衆議院解散総選挙を正式に先送りすると表明しました。

ところで、リーマンショックについては、当時から12年後の今に至るまで、種々の論評がなされていますが、注目されるのは、当初喧伝された「米国経済の破綻」論や、「資本主義の機能停止」論の不具合ぶりです。現実には、米国はその後、急速に金融危機を克服し、5年後の2013年末にはほぼ影響を払拭。米国経済は見事に急回復を示すのです。野口悠紀雄氏(一橋大名誉教授)らによれば、その背景には、米国が古いタイプの製造業依存からの脱却に成功したことが挙げられます。それに比して、日本は米国の住宅価格バブルに乗っただけの「偽りの回復」だったことに気付かず、古い産業構造に依存したままで、改革を怠ってしまったというのです。このことが今になって深い傷となって響いてきているのだと思われます。(2020-7-29 公開 つづく)

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【74】医療制度で毎日「発言席」に。産経「本棚」にもー平成20年(2008年)❹

●毎日新聞の「発言席」に寄稿

「高齢者医療制度」については、二年前の小泉政権の最後で私も厚生労働副大臣の立場で改革に尽力したことは既に触れました。その後動き出した新制度をめぐり、様々な意見が飛び交い運用に混乱の様相を呈してきたのです。このため、制度樹立時の責任の一端を担うものとして、改めて世に問う必要性を感じました。その思いを込めて「毎日新聞」発言席に寄稿。8月10日付けに「骨格の変更は許されない」との見出しで、掲載されました。

以下全文を転載します。読みやすさを考えて小見出しは新たにつけました。

【 □米国医療の暗部と日本の近未来像□

失業中の患者が治療費を払えないため、足の傷を自分の手で縫うー米国医療の暗部を衝くマイケル・ムーアの映画『シツコ』の冒頭シーンだ。以前に観た映画「ジョンQー最後の決断」は、心臓移植を息子に受けさせたくとも、医療保険が使えぬとあって、病院を占拠してしまう父親の姿を描いていた。世界最高の医療技術を持ちながら、貧しい人々は無保険中であえぐ。日本の近未来像だと恐れる人は少なくない。

発足から半世紀。国民皆保険制度を誇ってきた日本の医療も危うい。この4月に導入された高齢者医療制度は起死回生の一打はずだった。2年前に副厚生労働相としてかかわった私は、批判の嵐のなかで原点への回帰に思いを馳せたものだ。

貧しい老人は死を待つだけとの時代を経て「老人医療費無料化」から「老人保健制度」の導入へ。この流れから「病院待合室のサロン化」「ハシゴ受診」「検査・薬漬け」などと称される課題が浮き彫りになってきた。各種の病に見舞われがちな老人世代に、どう手立てを講じるか。老健制度に代わる制度を模索する中で様々な議論がなされた。散漫な治療から、集中的に一人の医者がひとりの患者をかかりつけで診ていく。病院へ、医療機関へとやみくもに向かいがちな老人を、地域社会、在宅での診療に振り向けられないか。過剰な医療費投入を抑制しながら、老人が人間らしい尊厳を持って最終章を迎えるにはどうすればいいか。

□三つの骨格□

長期的な視点に立った理想が勝ち過ぎて、現実に受け入れられるかとの懸念もあった。だが、生死を見据えた医療のビジョンを育て、定着させたいとの思いがまさった。今回の制度の骨格は三つ。すなわち、世代間不公平(加重する現役世代の負担増)、世代内不公平(一人暮らし老人と被扶養者老人の差)、地域間不公平(住む市町村による違い)を公平なものに近づける狙いを持った骨格である。75歳以上を切り捨てる発想などでは毛頭なく、現役世代とOB世代とが手を携えて、共に自立を目指す仕組みである。これらの構想の本質が正面から語られることなく、「姨捨て山にするのか」「75歳以上の高齢者は死ねというのか」などとのヒステリックな感情論が目立つのはまことに残念だ。法成立以後、年金をめぐる社会保険庁のずさんな体たらくが発覚した。このため、不信と不満の渦中に、新制度も巻き込まれた不幸があるにせよ、骨格の理念の方向性はもっと強調されてよい。

ー□余りに無責任な反対勢力□

例えば、諏訪中央病院名誉院長の鎌田實氏は、総合雑誌上で、全体的には辛辣な批判を展開しながらも、かかりつけ医制度や出来高払いから包括払い制度への転換が、「医療崩壊」を乗り切るための「大きな仕掛けになりうる」し、「救世主」になる可能性を論じていた。このくだりには干天の慈雨を感じ、我が意を得た思いがした。

老人保健制度に代わる新たな制度の創設をかつて唱えた勢力が一転、先の国会の最終盤で、自ら否定したはずの元の制度に戻せとした。あまりの無責任さに呆れ果てた。ともに、声高な反対論を前に、法律を作った側にたじろぐ姿勢が散見されたのはいささかみっともない。制度の運用改善は当然なされるべきだ。ただし、骨格にかかわることまでが変更されてはならない。新しい制度導入にあたり、政治家の本領は、確たる信念を持って国民にあるべき道を提示することに他ならぬと銘記したい。】

この原稿を寄稿するにあたり、倉重篤郎・毎日新聞編集委員(当時。その後政治部長、論説委員長などを経て現在はサンデー毎日特別編集委員)にお世話になりました。彼の厳しいチェックを経て、いい文章になったものと思います。この「発言」には厚労省で一緒に仕事をした辻哲夫元次官をはじめ、関係者のみなさんからからよくぞ書いてくれたとの言葉をいただきました。

●産経「私の本棚」には読書日記が

一方、同じ年の9月7日付けの産経新聞の【読書・私の本棚欄】には、私の読書録が掲載されました。ここでは抜粋します。見出しは、遠藤誉『中国動漫新人類』「アニメ隆盛と反日解く鍵」。

【8月24日 元秘書の結婚披露宴のため上京。新幹線車中で、芥川賞、楊逸の『時が滲む朝』を読む。天安門事件と青年の社会変革への挫折を、中国人が日本語で描く。少々薄味が気になるのは、当方がユン・チュアン的な〝際物〟に毒されているからか。芥川賞とくれば、柴田翔『されどわれらが日々』を思い起こす。東京五輪の年、私は18歳。革命が未だ現実味を持つ中で、「政治と文学」に身を焦がした。あれから44年。世界から共産主義は後衛に退き、ついに五輪が北京で。その閉会式が夜に。テレビ中継を横目に、遠藤誉『中国動漫新人類』を読む。日本のアニメの隆盛ぶり。反日のはざまを解くカギが綿密に。産経新聞連載中に読み飛ばしていた伊藤正『鄧小平秘録』も「剛腕の独裁者」を克明に描き、飽きさせぬ。併せ読み一段と面白さが増す。「嫌中」と「親中」の葛藤。

8月25日 地元への車中で、浅羽通明『昭和30年代主義ーもう成長しない日本』と橋本治『日本の行く道』を併読。浅羽も橋本も昭和30年代以降の日本に懐疑的。橋本に至っては、高層ビルを壊せとまでいうから驚く。作家・半藤一利の「日本社会40年周期説」に私はかねてはまっている。その時代認識と分析は興味深い。明治維新から「日露」勝利、大戦の敗北、バブル絶頂から崩壊と40年周期で興亡は繰り返す、と。だから戦前の富国強兵から戦後の経済至上主義と続く国家目標に替えて、「文化立国を目指せ」は、私の持論。「もう成長しない」のだからGNPをGNH(国民の総幸福度)に変えよなどと、今枝由郎『ブータンに魅せられて』でのブータン国王のようなことは言わない。しかし、日本経済は「凋落の10年」(堺屋太一)に向かうとの予測もあるのが現実だ。

8月29日 地元への車中で福田和也『昭和天皇』第一部を。近代日本の核心に迫る心意気。国民の目線と、国家の枠組み、と。古くて新しい命題に思いをはせる。『悪の読書術』での彼の水先案内人ぶりは出色だ。「コンサバなワンピースとしての須賀敦子。最高最強のドレスは白洲正子。そして星のごとき存在としての塩野七生」ー言い得て妙と感心する。それぞれの代表作もいいが、須賀『遠い朝の本たち』、白洲『おとこ友達との会話』、塩野『人びとのかたち』も印象深い。】

こんな調子では、政治家としての仕事はどうなっているのか、との心配をされても仕方ないかもしれませんでした。先日、国会の本会議場や委員会室で読書をしている不埒な議員の批判が書かれていました。私は読書は、新幹線車中にこだわり続けたことを改めて断っておきます。(2020-7-27 公開 つづく)

 

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【73】クラスター弾をめぐる福田首相と公明の連携ー平成20年(2008年)❸

●去年の熱気は何処へやら今年の憲法記念日

ねじれ国会が続いていることもあって、平成20年の憲法記念日は、国民投票法の成立を経た後の一年前と違ってすっかり低調でした。メディアも「政界改憲熱 今は昔」「首相抑制 民主も乗らず」「打開へ再編期待の声も」(朝日新聞5-2付け)と書き立てました。首相が安倍さんから福田さんへと代わったことの影響です。

福田首相は施政方針演説で、憲法については「全ての政党の参加のもとで真摯な議論が行われることを強く期待している」というだけで、明らかにトーンは前任者に比べて低いものでした。中山太郎自民党憲法審議会長は、「『私の内閣で改憲を目指す』とした安倍前首相は間違っていた」と明言したうえで、「福田首相はよくわかっていて、発言も過不足ない」と改憲にはやるのではなく、じっくり国民の意見を聞くことの大事さを指摘しています。

公明党は5月1日に、新宿駅前で街頭演説会を開き、太田昭宏代表が「憲法3原理を堅持し、環境権やプライバシー権など新しく提起された問題を加えて補強していく」と、加憲の立場を強調していました。そんな中で、私は朝日新聞にコメントを求められて、以下のように発言しています。

【国会での憲法論議は開店休業状態。解散・総選挙でもなければ、この事態は打開できないのではないか。選挙後に与党と民主党が伯仲すれば、双方ともじっとしていられなくなる。リトマス試験紙は憲法。それぞれの改憲派が衆参で一気に3分の2の党派を形成するとは思わないが、憲法にどう向き合うかは、再編の焦点になるだろう】

一方で、中山太郎氏も「政界再編の可能性だってある。このままでは終わらない」と述べていたり、前原誠司前民主党代表も安全保障をめぐる超党派の会合で「憲法改正を経ずに、政府見解の変更を積み重ねてきたのはもうそろそろ限界。与野党関係なく議論していかなくてはいけない」と発言したと報じられています。こうした当時の空気を反映して私のコメントも出したのですが、改憲論者と見られる危険性が付き纏いました。昔も今も私の基本姿勢は、今に生きる日本人がより良きものを求め続けて憲法を議論することにあり、不磨の大典の如くただ護りぬけばいいというものではないのです。

●クラスター弾禁止での見事な連携と首相の洞察力

コロナ禍中にある今では〝クラスター〟なる言葉がよく使われています。意味はぶどうの房のような、小さいかたまりを指します。兵器におけるクラスター弾とは、通称親子爆弾ともいわれるように、通常のケースに小型の爆弾が多数入っていて、爆撃と共に多方面に弾が飛び散るもので、殺傷力も高い危険な兵器を意味します。第二次大戦でも使われ、戦後長きにわたって紛争の現場で使われてきていました。日本でも自衛隊は所持していました。

しかし、大量の不発弾がいついかなる時に爆発して市民を被害に巻き込むかもしれない危険性がありました。このため軍縮交渉の中で、全面禁止をすべしとの声が高まってきていたのです。世界における流れを受けて非人道的な兵器を排除せよとの主張が公明党でも存在していました。その空気を受けて、軍縮会議で決着することになる一週間前の5月23日に、浜四津敏子代表代行が福田首相に「日本がリーダーシップを発揮して、将来的にも全面禁止に持っていけるようにすべきだ」と、電光石火の申し入れを行いました。

実は日本政府の外交・防衛当局は当初、同盟国アメリカが参加していないこともあり、慎重な姿勢を崩していなかったのです。自民党も同様の空気が支配的でした。公明党における外交・安保分野の責任者たる私も、どちらかと言えば現状肯定論者で、腰は重かったことを認めざるをえません。福田首相への申し入れに同行した際に、談半ばで首相は私の方を向いて「赤松さんはいいの?こういうことで」と言われたのです。同首相特有の皮肉を感じて、私は苦笑いしつつ「ええ、もちろんです」と答えたのです。私の心の葛藤を見抜いたかのような首相の洞察力に驚きを禁じえませんでした。こうした公明党の提案に対して福田首相は、「私がうまく軟着陸させますので、お任せください」と答えていました。

最終的に2008年5月30日にアイルランドのダブリンで行われた軍縮交渉の結果、世界110カ国が全会一致でクラスター弾を即時全面禁止する条約が採択されました。この結果に対して、新聞各社は、「首相指示で一転」(毎日新聞5-30付け)と大きな報道をしたり、その背景として公明党の申し入れの影響力が大きかったことを指摘しました(朝日新聞同日付け)。公明党が連立与党に参加したことのプラスイメージを一貫して強調してきた福田首相らしい好判断でしたが、これまでの流れと違って、唯一わたし的にはそれに乗り切れなかった事例だったのです。

余談になりますが、一つ付け加えますと、当時、前述したような「新学而会」に、福田さんをお誘いしたことがあります。すると、彼は直ちに「いや、お断りします。(新学而会は)古い学者ばかりでしょ」と断られたのです。その時は意味があまりわかりませんでしたが、同首相のその後の「親中国」的姿勢を見るにつけ、なるほどと納得したものでした。学者のみなさんもさることながら、政治家の肌合いが合わなかったこともあったのだと思われます。

●クールアースデー制定を公明党が提案

公明党青年局はユニークな提案を様々に展開してきていますが、中でも特筆されるのが7月7日を「クールアース・デー」に制定し、地球環境の大切さを認識する日にしようというものです。「ユースポリシー2008」で提案を発表、全国で署名活動を展開しました。具体的には、この年の7月7日に北海道洞爺湖で主要国首脳会議(サミット)が開催されることに合わせて、各地でCO2(二酸化炭素)を削減するべく一斉に消灯(ライトダウン)し、天の川を見ながら地球環境の大切さを全国民が認識しようというものです。

6月9日に、太田代表と青年局の代表メンバーが福田首相に署名簿と要望書を手渡しました。首相は即座にその場で採用を決断。その日の記者会見で発表しました。環境省が呼びかけ、第一回目となる2008年7月7日は、東京タワーや横浜ベイブリッジなど全国7万に及ぶライトアップ施設で一時消灯が実施されました。

提案そのものはいかにも公明党らしいものでしたが、地球温暖化にストップをかけるための一大運動のきっかけには至っていないようなのは、残念なことです。(2020-7-25 公開 つづく)

 

【73】クラスター弾をめぐる福田首相と公明の連携ー平成20年(2008年)❸ はコメントを受け付けていません。

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【72】癒しの環境作りをテーマにさわやか対談ー平成20年(2008年)❷

●癒しの環境を広げよう

私の学校時代の友人は多彩な分野で活躍しています。70歳になった年に、私は一計を案じて、小学、中学、高校、大学で共に学んだ仲間とそれぞれ対談を試み、それを電子本(キンドル版)に5冊にまとめました。小学校時代が、住友ゴムの元会長の三野 哲治君、中学校時代が元東京モード学園校長で臨床心理士の志村 勝之君。高校時代が、内科医の飯村六十四君と元日本医大准教授で小児外科医の高柳 和江さん。そして大学時代が慶應義塾大学名誉教授の小此木政夫君と元日本航空取締役の梶明彦君たちです。

この電子本を紙の本にしたいというのが私の夢です。本のタイトルは『現代古希ン若衆』と決めています。もちろん『新古今和歌集』をもじっているのですが、一人反対する者がいます。この中で、たった一人の女性である高柳女史です。曰く「貴方と高校同期って分かると私の歳がバレちゃうわよ。嫌よ、そんなの」。この一言で私の企みはオジャン。電子書籍のままの状態で眠っているしだいです。それぞれ売れてはいますが、微々たるものです。

彼女は、1977年から10年間、中東のクウェートで小児外科医として仕事をし帰国後、1994年に「癒しの環境研究会」を立ち上げ、2005年には「笑い療法士」の認定を始めたり、現在では笑医塾塾長として全国で講演活動を展開しています。「笑いが人間の免疫力を高め、健康になる」と訴え続けているのです。あるとき、良いアイデアを思いつきました。公明新聞日曜版で浜四津代表代行との対談を企画したのです。色々準備をしたうえで、2008年3月16日付けで実現しました。

この対談はそれなりに反響を呼びました。さわりの部分を紹介します。

高柳)クウェートから帰国して日本の医療現場があたかもコンクリートジャングルのような現状であることに驚きました。この現状を変えたいと「癒しの環境研究会」を設立しました。病院に一歩入っただけで、病気が良くなるに違いないと思える、いればいるほど元気になる、そんな「癒しの環境」が必要です。癒しの環境において、「笑い」はとても重要です。

浜四津)本来、「患者のための医療」のはずが、日本では患者の苦痛や苦悩が置き去りにされがちで、病気を治す技術だけが進んできた結果、医療に歪みが生じたのではないでしょうか。人間を大切にする視点を見失いがちなのは、介護も教育も、政治も経済も同じです。公明党は「患者のための医療をめざし、懸命に取り組んできました。

高柳)今まではリラックスする方の癒しが主に言われてきました。しかし、これからは自然治癒力を高める、さらには「絶対に治ってみせるぞ」との言わば「自然治癒力」が重要です。(中略) 病院はサポートするところで、患者自身が医療に関する基本的な知識を高め、治すのは自分だと自覚し、強くなることが基本です。

浜四津)医療も福祉も教育も、そして政治や経済も人間を幸福にするためにあります。その視点から社会の制度を見直していけば、社会の質を大きく変え、より豊かな社会にできると確信しています。

私はこの時は司会役に徹しましたが、さわやかな対談の実現に大いに笑い、喜びました。後に、高柳さんを交えての電子本で行った鼎談のタイトルは『笑いが生命を洗います』です。お読み頂ければ幸いです。

●くまが住める森づくり

国会議員になって間もない頃に、三宮駅前で街宣車の上で演説をしていましたところ、前方に「熊森協会」という見慣れぬ旗が何本か翻っていました。その旗のもとで青年たちがビラを配っていたので、あとで近づき、どういう団体なんですかと聞いてみました。すると、「森林の荒廃の予兆は熊の行動に表れます。熊を大事にすることが森林を大事にすることに繋がることを世の中に訴えている団体です」との答え。「ご興味おありでしたら、ぜひ一度一緒に森林を見に行きませんか」と、迫られました。爽やかな青年たちの姿勢にほだされて、しばらくたってから宍粟市千種町の杉林(針葉樹林)と、岡山県西粟倉村の若杉原生林(広葉樹林)を比較ツアーに行くことにしたのです。

そこで見たものは大袈裟のようですが、私のその後の人生を少なからず変えました。針葉樹林の方は、昼なお暗い杉林。陽のあたらぬ状況下で、ひょろ長い樹木が全く間隔も空けずに幾重にも折り重なるように存在していました。一方、広葉樹林の方は、ブナやナラの木が明るい陽を浴びながら、谷川のせせらぎをバックミュージックのようにして豊かな佇まいで広がっていました。前者の風景は今や日本中に広く見られるもので、こんなところには大型野生動物は生息出来ず、人里に舞い降りてくるのです。後者の地域では、昔絵本で見た熊が遊ぶ〝まほろば〟を連想しました。

この時を契機に、私は一般財団法人「日本熊森協会」に強い関心を持ち、やがて顧問に就任し、熊を大事にすることが森の荒廃を防ぎ、豊かな森林作りに貢献出来るのだとの信念を持つに至りました。さらに、姉妹団体として発足した公益財団法人「奥山保全トラスト」の理事にもなり、多彩な活動の応援をしています。国会の予算委員会分科会などでの質疑の機会にも、森林を生かすためには熊を大事にしようとの主張を展開しました。そんな私の闘いを見た日経の記者が「記者手帳」というコラムに、「こだわりの政策ー赤松正雄氏(公明)  」とのタイトルのもと、「クマが住める森づくり」との見出しで紹介してくれました。同年4月10日付けの夕刊です。全文紹介します。

【なぜクマは山を下りるのか。公明党の赤松正雄衆議院議員(62)が国会内外で問いかけを始めたのは七年前からだ。衆院予算委員会で農相にただしたこともある。「理由は日本の森林政策なんだよ」。謎解きの端緒は、クマの好物、ドングリ。広葉樹の木の実であるドングリが減った結果、餌を求めてクマが人里に下りてきた▲広葉樹の減少はスギやヒノキなどの針葉樹ばかりを植えてきた国の政策に原因があるという。建材需要を見込んだが、今は輸入建材に押されて手つかず。日差しが差さない暗い森は草木が育ちにくく、保水力が低い。土砂崩れの遠因になるだけでなく、「スギ花粉」でも悪名をとどろかせる▲問題意識を抱いたのは兵庫県西宮市に本拠を置く自然保護団体「日本熊森協会」を知ってから。今は自民党の保利耕輔議員らと共に顧問に就任し「クマが住める森」を合言葉に広葉樹の森づくりを訴える。山から下りたクマは田畑を荒らすことがあるため「クマと人間とどっちが大事なんだ」との声もしばしば。「クマは森の豊かさの象徴」と理解を得るのに一生懸命だ。(理)】

書いたのは、当時公明党担当の佐藤理記者。現在は政治部次長、総合デスクとのこと。彼との付き合いも今なお続いています。信頼する敏腕記者の一人です。

なお、昨年(2019年)5月、毎日新聞「発言」欄(2日付け)に「放置人工林の天然林化」と題した論考、神戸新聞「見る思う」欄(26日付け)に「豊かな森を取り戻すために」との論考を続けて寄稿。二つの団体のサポーターとしての役割を果たしました。(2020-7-23公開 つづく)

 

 

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【71】いち難さってまた一難苦難続きの福田政権ー平成20年(2008年)❶

●ガソリン税騒ぎのてんまつ

出発直後の福田内閣が塗炭の苦しみを味わった法案が、もう一つあります。ガソリン税の暫定税率維持などを盛り込んだ租税特別措置法改正案でした。テロ特措法案を2007年秋から臨時国会でようやく処理(1-11)したのも束の間、一週間後の17日から開幕した通常国会で、「ガソリン税」問題が火を吹きます。内外両面で、まさに彼方(あちら)と思えばまた此方(こちら)と言った風に、前門の狼、後門の虎の如く苦しめられます。

この法案の狙いは、ガソリンにかかる揮発油税の暫定税率(1リットル当たり48.6円)などを10年間延長するものでした。これに対して、民主党は通常国会を「ガソリン値下げ国会」と銘打って、暫定税率廃止を真正面に掲げたのです。暫定税率廃止が実現すると、その分の税収(国税1兆7千億円、地方税9千億円)が吹っ飛びます。道路の維持、補修・建設に充てられる道路特定財源が消えてなくなると、経済の混乱やら住民サービスに大打撃がもたらされます。

国会はテロ特措法に続き、またしても与野党全面対決の修羅場と化しました。民主党始め野党の徹底抗戦の前に、衆参両議長による斡旋も功を奏しません。結局は年度内成立の期限日である2月29日に、野党三党が欠席する中、自公与党は租税特別措置法改正案の衆院採決に踏み切って可決し、参院に送ります。しかし、参院では野党側はまたもこれを棚ざらし状態に放置したのです。民主党の審議拒否戦術は、予算委員会始め徹底して貫かれました。これは3月末の暫定税率を期限切れに追い込むという当初の方針を一歩も譲らぬ意志の現れだったのです。この間に首相や与党側は、翌年度からの道路特定財源を廃止して、一般財源化するとの譲歩姿勢を示しました。さらに、修正協議を呼びかけたり、暫定税率を2ヶ月延長する「つなぎ」法案の準備もしました。にもかかわらず、民主党などは一切耳を貸そうとしませんでした。

その結果、民主党などが主張した「ガソリン値下げ」(1リットルあたり25円ほど)が遂に実現したのです。ただし、それはたった一ヶ月の間だけ。結局は租税特別措置法改正案は、政府与党の意思通り、4月30日には憲法の「みなし否定」規定によって、衆院で再可決され、再び暫定税率が復活しました。しかも5月1日からのガソリン価格は、世界的な原油高も加わり、暫定税率上乗せ分どころか一気に大幅な上昇になってしまったのです。切り替わりの4月末は、各地で誰も彼もガソリン買い溜めに走る大騒ぎとなりました。

この動きの背景には、08年から09年へと、政権奪取に向かって上潮状況にあった民主党の押せ押せムードがありました。規定方針に沿って値下げを実現させたことで、民主党の株は確かに上がったのです。道路を巡って旧来的な路線にこだわる自公与党と、多少の混乱は引き起こしてでも新たな路線を模索した民主党とでは、国民目線は後者に強い息吹を感じて軍杯を上げたというほかなかったと思われます。束の間にせよ、やれば出来るじゃないか、と。尤も、それは中期的観点の見方でした。政権獲得後には民主党はガソリン税率を廃止したものの、同時に本則税率を引き上げたのです。このため国民の実質的負担は変わりませんでした。長期的には民主党の稚拙さが、あたかも田舎演劇での役者のように馬脚を現してしまったのです。

●日銀正副総裁人事でもひと苦労

租税特別措置法改正案で揉めている最中に、もう一つの難題が政権を襲います。3月20日に任期切れを迎える日銀の福井総裁の後をどうするかの問題でした。政府与党は3月7日に正副総裁人事案(武藤敏郎総裁、白川方明、伊藤隆敏副総裁)をだしたものの、衆議院では通りましたが、参議院では民主党の不同意で挫折してしまいます。元大蔵事務次官を日銀総裁に充てるのは疑問あり、との反対意見でした。擦ったもんだの挙句、総裁空席という前代未聞の事態を招いてしまいます。4月には日銀金融政策決定会合や先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)が予定されており、切羽詰まってきていました。

このため、政府は窮余の一策として、承認されたばかりの白川副総裁を3月20日に総裁代行として指名しました。また、いつまでも「代行」で行くことは、日本の金融政策にとって不利であるとの判断も加わり、4月9日に白川氏を総裁に昇格させる案を出して、やっと認められたのです。綱渡りでした。福田首相は、内外の法案の不調整もさることながら、この日銀総裁人事の不如意には、心底から疲れたように私の眼には写りました。

●防衛省再生への提言

私が直接担当する安全保障分野でも、滑り出した防衛省の改革をめぐり喧しい議論がなされていました。石破茂防衛相が制服組と背広組の機能別再編を提案をしていました。一方、公明党でも太田昭宏代表が、中期防の見直しの中で、防衛費の削減を盛り込ませる手立てを講じようとしました。そんな頃に、世界日報4月20日付けで、「防衛省再生への提言」との連載二回目に私が登場しています。「大臣の補佐体制強化を」という見出しです。

石破大臣の提案をどう思うかとの質問に、「今回のイージス艦『あたご』の事案で運用企画局長が説明にやってきた。こういうケースで政党に説明にくるのは運用企画局長だが、詳細を知らなかった。知らずして運用の企画が出来るのか。石破さんが日常的に感じているのはそういう点だろう。参事官については、それぞれラインの仕事を持っているため、防衛大臣をサポートするスタッフとしての役割は薄くなりがちだ。参事官制度本来の役割を果たしていないということだろう。その意味で石破さんの言うところの混在させた形でやると言うのは発想としてはいいと思う」と答えています。

また、自衛隊の憲法上の位置づけをどうするか、との質問には、「必要最小限の自己防衛のための軍事力を持つのはいい、それを称して自衛隊といい、その存在を、憲法にきちっと書く。それによって自衛隊員に引き起こしているだろう葛藤を除くことになるし、様々な解釈が生まれてくることも防げるのではないかと私は思う。現状追認なら、今のままでいいとの考えが党内では主流だが‥‥」と、憲法9条3項に自衛隊明記をとの持論を展開しています。

これがのちに、安倍首相が投げかけてきた「憲法改正案」に入ってくるのです。(2020-7-21公開 つづく)

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