「三極の中の一極」路線と『三国志』【4】平成2年(1990年)

冷戦終結と共に幕開けした「平成」

私が初めて選挙に挑戦した1989年、平成元年は、世界史的に見ても画期的な、まさに「革命」が起こった年でした。11月には東ドイツが西側への出国を自由化する国境の解放に踏み切り、ついにベルリンの壁が崩壊。年末には米ソ首脳が地中海のマルタ島で会談、冷戦の終結を宣言したのです。その半年前には中国で天安門事件が起こったり、ポーランドで共産圏初の自由な国会議員選挙が行われ、ワレサ率いる「連帯」が圧勝するなど、予兆とでもいうような出来事が発生していました。翌1990年は年明けから、ソ連が共産党一党独裁を放棄し、文字通り世界の激動が音を立てて始まったのです。10月には東西ドイツが統一し、ドイツ連邦共和国が誕生しました。
そんなある日、姫路市での街頭演説に応援に来てくれた渡部一郎党副委員長が涙をはらはらとこぼしながら、ベルリンの壁やソ連の崩壊に見る国際政治の革命的変化を感動的に語った姿は忘れがたく私の眼に焼き付いています。この大先輩は公明新聞の初代編集長であり、市川さんの前任者です。また、大雄弁家と云っていい人でした。大学一年の晩秋に初めて東京の台東体育館でこの大先輩の演説を聴いたのですが、感動に心底打ち震えたものです。私が直接聞いた政治家の演説で本当にうまいと言えるのは、贔屓目なく、この渡部先輩と同僚の太田昭宏元国交相の二人でしょうか。二人とも宗教の世界でも大をなした人で、人の心を掴む術は他の追従を許さないものを持っていると思います。直接私は聞いたことはありませんが、昔京都から選出された公明党のある議員の演説には弁当を持って聞きに行く人が大勢いたと言います。彼は往年の活動写真弁士だったとのことですが、一度聴いて見たかったものです。

中道政治の礎示される

この年、公明党は二回にわたって党大会を開き、新しい時代に対応するための路線を確立するべく模索の作業を続けていきます。「米ソ対決の脅威」が変化を見せる中で、日本における自民党と社会党による「左右対決型政治」の行方を見定め、中道政治の存在感をどう高めるかということが最大の課題でした。ほぼ一年間の論議の末に、11月の29回党大会で、その後の方向、路線を決めるに至りました。

それは「中道主義の政治」を明らかにしたもので、理念と路線の双方からその実像を描いて見せています。まず、理念としての中道主義とは、〈生命・生活・生存〉を最大に尊重する人間主義だと定義づけしています。また、路線としての中道主義とは、日本の政治における座標軸を、ニュートラル(中立)な観点から果たすものだと位置づけしました。具体的には❶左右の揺れを防ぐ、偏ぱを正す❷左右対決による行き詰まり状況に対して、国民の合意形成に貢献する❸新しい政策進路を切り開くための創造的(クリエイティブ)な提言を行うーなど三つの役割を持つものだとしました。
国際政治における「米ソ対決」を、そのまま国内に投影したものとしての「自社対決」政治は、あらゆる場面で弊害をもたらしていました。そのため、左でも右でもない、もう一つの生き方を求める内外の欲求に応える必要があったのです。そこで打ち出された公明党の政治路線は、「三極(自民党、社会党、中道=公明党)の中の一極としての中道の主体性を発揮する」というものでした。この「三極の中の一極」路線は、市川雄一書記長が1989年9月に提唱したことが発端ですが、背景には、創価学会の中における文化としての「三国志論」があったことは否定できません。大きな二つの勢力の狭間にあって、一番小さな塊が事の次第を決して行くというロマンとでもいうべき思考法が存在していました。すなわち、三国志の中の諸葛孔明や劉備玄徳に率いられた蜀という最も小さな存在に、公明党をなぞらえて、自民、社会党の二大勢力をあたかも魏、呉の両強国に見立てて、その行く末に胸を焦がし大いに意欲を燃やしたのです。

先輩、仲間の活躍を横目で見つつ

市川さんのそばで記者として、秘書として薫陶の一端を受けた身として、表舞台に躍り出た大先輩の活躍を、当時私は遠い播州の地で感慨深く見ていたのです。選挙で一敗地にまみれた私としては、当選した仲間たち(今の山口那津男代表以下、井上義久、北側一雄、石田祝稔氏ら11人)の姿をただただ羨ましく見ているだけでもありました。そんな時に、市川さんから電話で、「今は地元の支援してくださる方々とあつい絆を築く時だよ、当選したら中々そういう時間はとれないのだから」と激励を受けました。この言葉を胸に、せっせとご挨拶回りを繰り返していったのです。

この年8月、イラク軍がクウェートに侵攻するという事態が発生。このことがその後の世界を震撼させる一大発端となっていきます。(続く)

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初の衆議院選挑戦で次点に泣くー平成2年(1990年)【3】

消費税が再び問われた衆院選で

平成2年はまさに選挙モードで幕開けしました。1月24日に解散、2月18日の投票です。この選挙で問われたのは、またしても「消費税の是非」でした。1988年に消費税法が成立、翌1989年4月に現実に3%の消費税率上げが初めて実現したのですが、それを同年7月の参議院選挙に続いて、再び衆議院総選挙でも問うというものでした。時の首相は海部俊樹。立ち向かう野党のリーダーは土井たか子。前年の参院選で「山が動いた」という名セリフを吐いて、土井社会党は大勝利しただけに大いに波に乗っていました。

その結果は、自民党は18議席減らしたものの、286議席の「安定過半数」を獲得しました。一方、野党は社会党が86議席から139議席を確保する大勝利を博しましたが、公明、民社、共産の中間的位置の政党はいずれも議席減となったのです。中でも、公明党は、56議席からなんと11議席も減らし、45議席となりました。この選挙に公明党からは新人が15人もでたのですが、当選は11人。4人が落選。そのうちの一人が私だったのです。現職11と新人4を落としたのですから、文字通りの大敗でした。

この私の初の選挙は2483票差で次点。後藤茂、松本十郎、河本敏夫、戸井田三郎に続いて5番目だったのです。戦った相手は何れ劣らぬ強豪でした。河本は派閥の領袖で元経企庁長官。加えて選挙の半年前の平成元年8月の内閣改造で、戸井田が厚生相、松本が防衛庁長官の座を射止めていました。同じ選挙区から2人の大臣です。「赤松が怖くて大臣の肩書き取りに躍起になるのか」と強がりを云ったものの、現実の効力たるや凄いものがありました。社会党の後藤は筋金入りの文人政治家。同党の中でも異色の存在でした。全くの新人が勝てる相手達ではなかったといえます。

走りに走り、叫びに叫んだ末に

前年の2月の記者会見からちょうど1年、選挙区の4市6郡21町を歩きに歩き、走りに走りました。少人数の懇談会で地域の皆さんとお会いした際に、なるべく写真を撮るようにしましたが、これは今も私の宝物となっています。また、私の親族はこの地に多く、いとこやはとこ、その嫁やこどもといったように片端から挙げていくと優に500人を超える人びとがいました。父母は既に他界していましたが、双方の叔父、伯母を始めとして、いとこたちは健在でした。幾たびか集まって貰い、協力をお願いしました。長きにわたり故郷・姫路には不在だった男が突然選挙に出るといって戻ってきて、応援して欲しいと云うのですから皆面食らったはずです。

しかし、皆さん文句も言わずに陣列に加わってくれました。父母が精一杯お付き合いをしてくれていたおかげです。いとこ会をするなどして旧交を温め、その友人達に輪を広げて行って貰いました。友人関係では、小学校を2年で転校していましたので、小、中、高校と殆どが神戸市在住のために苦労しました。それでも心あつい竹馬の友たちの尽力で、昔の依りを取り戻していったものです。また、姫路慶應倶楽部の名簿をたどって、先輩や後輩にアタックしました。そんな中で、忘れられないのは、ある先輩が「うーん、君は公明党か。俺は自民党の先生の後援会に入ってるんだ。塾の後輩だから何とかしてやりたいけど難しいなあ」と云われたことです。のちに、自公選挙協力をする段になって、往時を思い起こし、笑いあったことが懐かしく蘇ります。

土下座から泣きに至るまでの必死の闘い

選挙公示後はまさに必死で、土下座はするわ、泣きまくりもするわの2週間でした。全ての遊説を終えて事務所前での演説は未だ投票前だったのに、負けの予感がして悔し涙の演説をしてしまいました。のちにそれを近くで聴いてくれていた自転車屋の主人から、あの演説は実に胸に迫るものがあったと云われたものです。負けて泣くより勝って泣けーと云いますが、私は泣いて負けました。実に悔しい、無念の敗北でした。「常勝関西」の旗に傷つけてしまった、と。

期間中さまざまな人の応援を頂きましたが、創価学会芸術部の岸本加世子さんの応援は当然ながら凄い人気でした。みゆき通りを挨拶しながら歩いたのですが、あっという間の人だかり、候補者の存在なんか全く関係なし。たちどころに二人は離れ離れになる始末。彼女は「赤松さん、しっかり横にいて」とたびたび、手を固く繋ぎなおしてくれました。(続く=敬称略)

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いきなり不祥事のラッシュに直面ー平成元年(1989年)【2】

党首の不祥事露見で前途に暗雲

平成元年(1989年)という年は、公明党の歴史にとって最悪の年でした。何しろ党首の不祥事(明電工株取引疑惑)が露見して、辞任に追い込まれた(5月17日)のですから。かつて30歳代半ばに颯爽と登場し数々の実績を挙げてきた矢野絢也氏でしたが、長年の政治家生活で結局は庶民大衆の代表ということを忘れてしまい、健全な金銭感覚を失ったというほかありません。総選挙に向けて私が挨拶回りを始めた矢先に、頭の上から泥水を浴びせられたようなもので、誠に残念無念の極みでした。

実は、公明党をめぐる不祥事は、政界全体を巻き込んだリクルート事件での衆議院議員の逮捕者も出していました。おまけに、地元・姫路市の男鹿島の砂利船汚職でも参議院議員が逮捕(88年1月)されていました。加えて他にも党に叛旗を翻す輩が散出されるなど、結党から25年の節目を過ぎて、綻びが目立ってきていたのです。「政界浄化」を旗印にした大衆の党・公明党のイメージは一旦地に落ち、泥まみれになってしまいました。世間の目は、「公明党よ、お前もか」との厳しいものとなり、党の信用は大きく失墜してしまったのです。逮捕された人には、私が若き日に憧れた先輩たちもいました。なぜ彼らが堕ちてしまったのか。今に至るまで考える課題であり続けています。

5月18日に公明党は緊急の中央執行委員会を開き、石田幸四郎委員長、市川雄一書記長の新体制を決めます。翌19日の昼過ぎに急遽党県本部で開かれた議員総会で、そのことを私は知るに至ります。とんでもない時に市川さんは重職を引き受けられたんだなあと、思うとともに、我が身の前に横たわる受難の定めとでもいうような厳しい前途を予感したものです。

石田・市川新体制に都議選、参院選のダブルパンチ

この年7月23日には参院選が行われました。竹下登首相がリクルート事件の直撃を受けて退陣したうえ、その後を担った宇野宗祐氏が女性スキャンダルに見舞われるという自民党にとっても悪条件の重なる中での選挙でした。しかも、竹下首相が導入を決断した消費税上げも当然ながら有権者に評判悪く、三つの悪い条件が重なったのです。
その結果、この選挙では自民党は、36議席しか獲得出来ず、66の改選議席から30も減らしてしまい、非改選の73を合わせても109議席にとどまるという大惨敗でした。一方、野党側は初の女性党首となった土井たか子氏の人気やら、マドンナ旋風などで社会党は、改選議席21をなんと倍以上も伸ばす52議席を獲得しました。加えて社会党系の野党統一候補の「連合」の当選者も加えると63議席になり、非改選組22議席と合わせると85議席の大躍進です。

こうした状況の中で、公明党は「竹入・矢野」体制の積年の病弊を払拭すべく、「石田・市川」の清新なイメージで挑もうとしました。しかし、結果は選挙区は4議席、比例区は6議席と、共に1減となって10議席に止まりました。改選前と合わせて21議席になったのです。特に注目される比例区票は、前回に獲得した743万票から134万票も減らしてしまいました。参院選前の7月2日に行われた都議選でも、29から26議席に減らし、25選挙区中22選挙区で得票減という、厳しい結果となってしまっていました。

参議院ではキャスティングボート握る

ただ、この選挙は後々に至るまでの大きな分水嶺になります。これを境に参議院の与野党逆転の構造が定着してしまうのです。つまり、衆院で法案が可決されても、参院で否決されれば、両院協議会で成案を得られなかったり、衆院で出席議員の3分の2以上の多数で再議決されない限り(首相指名や予算、条約承認は除く)、いかなる法案も成立しないという全く新しい事態が生まれたのです。

この参議院の新しい状況の中で、公明党の21議席は大変な重みを持つことになります。予算を伴う法律案を提案出来るだけではなく、参議院で自民党が過半数に17議席ほど足りない構造の中で、キャスティングボート(決定票)を握ることになったのです。つまり、公明党の政治決断で日本の政治が決定づけられることになりました。泥沼に喘ぐ公明党でしたが、一筋の光明が差し込む画期的な展開の兆しともなりました。

人生万事塞翁が馬と言うのでしょうか、はたまた毒薬変じて薬となるとでも言うべきでしょうか。ともあれ、この平成元年はのちのち市川さんが「航海中にマストが折れたような」と表現したように、とてつもない逆境に直面しましたが、公明党は「疾風に勁草を知る」を生涯にわたって座右の銘とした市川雄一という人物を舵取り役に得て、見事に乗り切っていくのです。(続く)

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それは記者会見でのハプニングから始まったー平成元年(1989年)【1】

兵庫県庁記者会見の場で

平成元年2月17日。兵庫県庁記者クラブでのことです。私は来るべき衆議院総選挙に先輩の新井彬之さん(当時55歳=故人)の後を受けて衆議院兵庫4区(旧中選挙区)から出馬することになり、記者会見に挑みました。実は、その場所に県庁職員として私の高校同期のM君が報道機関担当者としていたのには驚くと同時に心和む思いがしました。一通りのやりとりのあと、最後になって後方に座っていたある記者が突然手を挙げてこう言ったのです。
「あんたのことはよう知らんけど、応援したるわ。姫路で電器店を営んでる親父と弟の店で、電気製品を色々と買うてくれたみたいやから。お返しせんとなあ」
記者会見場がどっと笑いに包まれたのはいうまでもありません。この記者こそのちに神戸新聞の社会部長になった中野景介氏です。NHKの今をときめく堂元光副会長と県立山崎高校で同期の強者ですが、当時は知る由もありません。いきなりこんな有難い言葉を投げてくれるなんて、嬉しい限りです。無事に兵庫県庁に詰める記者たちとの出会いが終わってホッとしました。

姫路の住まいをどこにするか。悩んだ末に新井さんの家のすぐそばにあった戸建ての建売住宅を購入することに。亡父の遺してくれたお金を当てました。城北新町です。姫路競馬場の南西に位置した静かな住宅街です。新井先輩ご自身もかつて神戸市議から衆議院議員に転身(昭和44年初当選後6期)。二度の落選を経験されるなど、大変な苦労をされました。俳優・池部良風の2枚目で一世風靡の活躍を約20年間されたのですが、体調が思わしくなく引退を余儀なくされたのです。まさに燃え尽きたとの印象でした。ご自分の体験をあれこれと教えて頂きました。そばに住むことにしたのも先輩の政治的遺産を引き継ぐ上で好都合との判断からでした。

家族は一人娘・峰子の小学校卒業の3月を待って転居してくることに。3月20日に私も上京して、昭和47年から18年近く住んだ家の引越し作業をやりました。家内は40年、義母は60年あまり住み慣れた東京中野区白鷺の家とおさらばした(後は借家として活用)わけです。その心中たるや察して余りありましたが、当時の私はひたすら自分の初挑戦・当選しか念頭にありません。生まれて初めての地・姫路の新居に移り、二週間後に広峰中学校に入学をすることになった娘や妻の心境はそれはそれは大変だったと思いますが…。

ご挨拶回りの会話を全てメモに

新天地での私の戦いは、ひたすらご挨拶回りです。地域の創価学会の会員の皆さんのお宅を一軒一軒回る一方、大きな会合での幕間のご挨拶から、少人数での語る会での懇談やら会社訪問に至るまで、まさに疾風怒濤の日々が始まりました。最初の頃は、ただ闇雲にご案内頂いたところに行ってご挨拶するだけでしたが、やがて私は一軒ごとに回った先のお宅の特徴、相手と交わした会話をメモにして、帰宅後深夜にそれを整理していきました。一つひとつ覚えていったのです。次に会った時に、話す材料にするためです。やがて、メモを取らずテープに吹き込みもしました。なかなか大変な労苦でしたが、これがのちに大きく花開くはずと思えば楽しくもありました。

もう一つ忘れられないことは、実は私はそれまで、自転車に乗ったことがありませんでした。小学校2年の時に、小高い丘の上の家に住んだだため、その必要がなかったのです。選挙に出るとなると、当然ながら自転車を乗り回さざるを得ません。いい歳をして自転車の練習を始めることになりました。家の前の空き地でゴトゴトやってると、二階の窓から中学生の娘が「お父さ〜ん。背筋をもっと伸ばして〜。傾いてるわよ〜」と大きな声で注告してくれるのです。恥ずかしいやら、みっともないやらでした。一度だけ転びましたが、無事に〝免許を取得〟できたときの喜びは、恥ずかしながらとても大きいものがありました。(続く)

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喪失との戦いの末ー第2部平成編の はじめに

「平成」の始まりは印象的でした。昭和64年の新年になってすぐ、昭和天皇の容態が悪化し、とうとう一週間で身罷られたのです。つまり1月7日に。翌8日から新しい年号が始まりました。あの「平成」と書かれた色紙を持った小渕恵三官房長官(当時)と共に新時代は始まったのです。それから31年(正確には30年と4ヶ月ほど)続いた「平成」とは、どんな時代だったのでしょうか。極端に否定的な捉え方は、「失われた30年」というものに尽きます。また、昭和が「戦争の時代」だったことに比べて、戦争はなかったが、「大災害の時代」との規定づけもあります。確かに、阪神淡路の大震災から、あの福島第一原発の大被災をもたらした東北関東大地震に及ぶまで、数多い地震災害が日本列島を襲いました。そうした負の流れを食い止めるかのように、国民に寄り添われる天皇、皇后のお姿が目に焼き付いています。
そうした時代を私は政治家として駆け抜けました。新時代の到来に符節を合わせたように、平成元年(1989年)2月に記者会見をして出馬宣言をし、一年間走り回ったのですが、翌年の総選挙では次点の憂き目を見てしまいました。その後、苦節5年の末に沢山の皆さんの真心の支援を頂いて、ようやく当選を勝ち取ることが出来ました。平成5年(1993年)7月のことです。以来、6期20年にわたって衆議院議員を務めていくことになります。平成25年(2013年)暮れの引退までの25年間、四分の一世紀の自分の足取りをこれから回顧していきます。

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「戦後の平和」を生きてー第1部昭和編のあとがき(51)

昭和20年(1945年)に兵庫・姫路で生まれた私は、神戸を経て東京で暮らし、昭和63年(1988年)にまた故郷に還ることになりました。昭和という時代は、一般的に戦争で人生が分断された暗く厳しい世であったとされがちです。ただ、私の世代は文字通り「戦争を知らない子供たち」のトップランナーとして、荒廃から繁栄の右肩上がりの旨味を存分に味わってきました。明治生まれの父、大正に生を受けた母ー先輩世代の限りない辛苦のおかげで得た果実を真っ先に手にいれたのです。
50回にわたって私の少年期から青年期を回顧してきました。上京した19歳の時に
友人の下宿先で創価学会の座談会に出たことが、その後の人生の分岐点になりました。青雲の志を抱いて故郷を後にした人間が、いきなり日蓮仏法と出会い、池田大作先生という人生の師匠との巡り合いに繋がっていったのです。戦争の時代から平和の時代へー昭和史の大転換を池田大作という稀有の指導者の弟子の一人として、いわゆる「戦後民主主義」と呼ばれる時代を生きてきました。ここでも先輩世代の壮絶な労苦ゆえを様々に実感します。
高度経済成長の果てのバブル経済絶頂、そしてその破綻。昭和期の最後は〝いま再びの敗戦〟とさえ言われかねない経済的状況を迎えるに至りました。個人の幸せと社会の繁栄が一致する社会を作る、戦争のない平和な社会を目指すとの旗を掲げて誕生した公明党ーその機関紙・公明新聞の記者として懸命に生きた約20年。この時間を糧にして、次なる平成の世にどう立ち向かったか。経済的には〝失われた10年から20年〟と、否定的に捉えられ、社会的には「大災害の時代」とまで揶揄される次なる時代。令和の幕開けと共に、幕を閉じた平成の私の回顧録をやがて50回にわたって綴る予定です。

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ある夏の日突然にー故郷の姫路から衆院選出馬へ(50)

昭和63年春。それまで糖尿病や膀胱癌などを併発していた父の病状が悪化してしまいます。そして、とうとう4月2日に亡くなってしまいました。78歳でした。母の時と同様、またしても今際のときに間に合いませんでした。まさに親不孝者です。母の時とはまた違った深い悲しみで、しばし呆然としてしまいました。ただ、父は信仰を見事に貫いての足かけ13年間を過ごしました。その道に誘った息子の私として、いささかの満足感はありました。「お父さん、長い間一人で頑張ったな。これでようやく母さんと会えるね」と。地域の同志の皆さん始め多くの人に見送られての大往生でした。

その後、8月の後半だったでしょうか。事務所に一本の電話がかかってきました。市川代議士からです。党と学会の連絡会議に出ておられたはずでした。その時の声は珍しく興奮気味に聞こえました。
「赤松君、大変だよ。今日の会議で、君の名前が衆議院議員の候補にあがったよ。兵庫4区の新井彬之さんが体調悪く、次回は出られないので、そのあとだ。びっくりしたよ、ともかく知らせておくが、詳しくは帰ってからだね」
秘書として悪戦苦闘していた私にそんな話が舞い込むなんて。まさに青天の霹靂以外の何ものでもありませんでした。

議員会館の部屋で市川代議士と向き合いました。そのとき、こう言われたのです。
「君を私の秘書にしたのは、そばに置いて訓練するつもりだった。せっかく今日まで支えてくれたのに、君を衆議院候補に取られるのは正直言って、困る。だが、君の人生において、衆議院議員になれるかもしれないという、こんなチャンスは滅多にない。チャンスは前髪を捕まえろという。一回限りの君の人生だ。ようく考えて自分で決断しろ。繰り返すけど、私はこのままそばにいて欲しいというのが本心だ」

この優しい呼びかけに対して、私は迷うことなく、即座に答えました。
「ありがとうございます。出させてください。大した力はありませんが、生まれ故郷姫路を中心とする選挙区から衆議院議員に出られるなんて、願っても無いことで、本望です。よろしくお願い申し上げます」
無鉄砲というか、お調子ものというべきか。逡巡などせず、これはチャンスだと思ったのです。苦笑いしていた市川さんの顔が印象に残っています。「そうか、出るか。いなくなるんだな。仕方ないな」

こうして〝市川学校〟をわずか一年半ほどで中退することになってしまいました。私を代議士候補に推薦してくれたのは、野崎勲副会長(元青年部長)だったと聞きました。かつて、野崎さんから「太田君と井上君という君の仲間を二人とも本部に引っ張って、君を引っ張らず、悪いな」と言われたものですが、その時に私は、「いえいえ、私は公明新聞が向いています。それに何より市川さんが好きですから」と即座に答えていました。このことが頭に浮かんできました。

ここから、半年間。候補として、姫路に帰るまでは準備に大わらわとなりました。まず、選挙区で動くには車の免許を取得せねばなりません。43歳の年まで、自動車の運転はおろか、恥ずかしながら自転車にさえ乗ったことがありませんでした。まずは自動車教習学校へ通わせてもらうことになりました。武蔵小金井の尾久自動車学校へ通いました。ところが、実地はともかく、実は筆記試験に苦労するのです。二回落ちてしまい、市川さんから「お前、本当に学校出てるのか。うちの家内でさえ一回も落ちずにパスしてるぞ」と叱られました。11歳の娘にも笑われたのですが、車の筆記試験は難しかったというのが本音です。ともあれ年齢分だけの43万円かかって、ようやく晩秋には免許取得にこぎつけました。
一方、妻の慧子も遅れて免許を取るために、同じ自動車学校へ。こっちはすんなりと通りました。彼女は元々3歳の頃から、ピアニストになるべく、英才教育を受けて育ちました。桐朋音大付属高校に入学し順調にその道を歩んでいましたが、私との結婚でその後の道は閉ざされてしまっていました。辛うじて、ピアノの家庭教師をしてはいましたが‥‥。前途多難の私の選択に、妻も不承不承でしたが、未だ知らぬ夫の故郷姫路へと、旅立つ決意を固めてくれたのです。

東京創価小学校での秋の行事に、私たち夫婦が珍しく参加したときのことです。池田先生の奥様に思いがけずにお会いでき、お話を交わす機会に恵まれました。「この度、兵庫・姫路に帰ることになりました。娘は残念ながら、卒業しても関西創価中学には進学出来そうにないのです」とご報告しました。「そうねぇ。姫路じゃあ遠くて無理よね」と言ってくださり、「頑張ってね」と激励の言葉まで頂きました。

こうして、昭和63年の暮れに、私はひとまず単身で(翌年家族も)帰郷しました。新しい人生の船出に向かうことになるのです。

【昭和64年(1989年)1月 昭和天皇没 皇太子明仁親王即位、平成と改元】

※これで私の回顧録第1部昭和編は終わります。第2部平成編は、元年1月から衆議院選挙に立候補する準備をスタートするところから始まります。いよいよ、政治家としての回顧録に取り掛かります。しばらく、執筆の準備に時間をいただき、夏の終わりにも連載を開始する予定です。引き続きご愛読のほど宜しくお願い申し上げます。

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昼は秘書、夜は壮年本部長として(49)

この年、昭和62年(1987年)、私は中野区で壮年部の本部長という大事な立場をいただいていました。担当は鷺宮方面です。信頼し尊敬していた富岡さんの後を受け継ぎました。婦人部でコンビを組んだのは、時計店を営む小野沢徳三さんの奥さんの千代子さん。エネルギッシュでよく気のつく素晴らしい女性でした。ご主人は無類の優しいお人柄の信仰心厚い人でした。よく車の助手席に乗せていただき、区内を回ったものです。一年の短い期間でしたが、地区部長(副本部長兼任)をやったあとのことです。より大きな舞台で、責任ある立場で身が震える思いでした。

この立場で忘れられない思い出は、公明党の区議選において、支援母体側の責任者として、選挙支援活動の指揮をとったことです。候補者は西村孝雄さん。この人は東北大出身で公明新聞記者の大先輩。このとき48歳。満を持しての区議への転身をされて既に3期目。そういう大物を引き続き政治家に押し出す責任を担ったことは、本当に緊張しました。信仰の道に入って23年。先生と初めてお会いして渾身の激励をいただいてより、ちょうど20年目のことです。自分の全てを投げ打って、この先輩の4回目の当選に力を注ぎました。候補者の西村さんは、謙虚なお人柄のうえ、勉強熱心な方で、区議には惜しいぐらいの人でした。見事に当選を果たされたときは二人して抱き合って感激にむせんだものです。

翌昭和63年(1988年)6月。実に嫌な事件が発覚します。戦後最大の贈収賄事件とされるリクルート事件です。当時国会では、消費税(税率3%)導入のための税制関連法案が審議されていました。その真っ只中に、国民感情を逆なでする政治家の汚職事件が明るみに出されたのですから、大変です。リクルート社は同社のグループ企業の未公開株を店頭公開する前に、政治家、官僚、マスコミ、金融機関幹部にばらまいたのです。手にした連中はまさに濡れ手に粟の利益を得ました。この時には、中曽根康弘前首相、竹下登首相、宮沢喜一副総理兼蔵相ら数多い自民党の幹部が株譲渡の恩恵に浴していました。その責任を取って、のちに竹下首相は首相退陣に追い込まれます。この大事件、残念ながら公明党にも類がおよびました。池田克哉代議士らが翌89年5月に受託収賄罪で在宅起訴されることになるのです。

しかも、この事件で国民の政治家不信がまさに頂点に達しているときに、公明党を根底から揺さぶる一大不祥事が持ち上がります。矢野絢也委員長の明電工株取引疑惑です。これは、総額21億円もの巨額脱税事件で、逮捕・服役(懲役4年・罰金4億円)した節電装置メーカーの事実上のオーナーである中瀬古功との株取引にまつわる話でした。この事件は、明電工と他企業との業務提携発表を機に株価高騰を売り抜けて利ざやを稼ぐ、やはり濡れ手で粟の旨味を求めて政治家が群がったというものです。朝日新聞の一連の報道で、総額10億円にも及ぶ株取引の株購入者10人の名義人のなかに、矢野委員長とその秘書らの名前があったことが公になりました。本人は事実を否定したのですが、各紙が一斉に疑惑を報道するところとなり、やがて委員長辞任に追い込まれていきます。

市川国対委員長は、就任とほぼ踵を接して次々と起る党の幹部の不祥事に向き合うことになります。当時、そうしたことを何も知らなかった私は日中は秘書業に、夜は本部長として、走り回っていました。そんな、昭和63年(1988年)の夏にそれこそ驚天動地のことが起こってくるのです。

【昭和63年(1988年)3月 青函トンネル開通 4月マル優制度廃止 瀬戸大橋開通 6月リクルート事件 牛肉オレンジ3年後自由化で日米交渉決着 7月 自衛隊潜水艦が釣り船と衝突 8月 イラン・イラク停戦 12月 税制改革関連6法成立。竹下改造内閣】

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慣れぬ秘書業にもがき苦しむ (48)

代議士秘書ーこれって本当に大変な仕事をする立場です。一般的には、就職の面倒を見ること、結婚の紹介から始まって、地元支持者からの様々な要求、それを受けての省庁への口利き、依頼、そして委員会での質問作りのお手伝いに至るまで、実に多彩な問題の処理能力が求められます。もちろん、事務所での来客応対、あるいは地元へ代議士の代理として出向いたり、挨拶をするなどといったこともあります。市川さんの場合も、勿論そういうことはありましたが、より大事なことは「呼吸」でした。口に出さずとも、何を代議士が求めているのかを事前に察知して、瞬時に動き、手際よく手配するといった、要するに織田信長に仕えた木下藤吉郎のように、気が利くことが求められたのです。

私のような自分に関わることには熱心ですが、他人のことに関しては愚鈍で、それでいて自分が目立ちたいというタイプは、まずこういう気働きが苦手です。あらゆる場面でヘマをやって怒られる日々が続きました。取材をして原稿を書いたり、議論して企画を練るっていう風なことは得意でしたが、秘書業には馴染めませんでした。よく言われたのは「お前は人の言うことを聞かずに直ぐに判断して、口に出してしまう。一度じっくり自分の頭と心で咀嚼してから、喋るんだ」といったようなことでした。
あまりにも自分の無能力さに、幾たびか泣きたくなるような日々が続きました。女性秘書の国谷さんに愚痴を聞いてもらううちに、夜が明ける日もあったのです。

そんな時、いつも思ったのは市川さんの奥さんや息子さん、娘さんのことです。つまり、この家族の皆さんは底抜けに明るくて楽しい。厳しい主人、怒る父親とうまくやってる人たちを自分も見習おう、と。新聞記者時代と違って、秘書業は、より関係が近いが故に、叱咤激励の厳しさが身に堪えました。今までの甘い関係が木っ端微塵に打ち砕かれたのです。

何しろ、代議士と一緒に動いていて、電車の網棚に置いたかばんを忘れてしまったり、宿泊先で寝坊をするということさえあったのですから、自分で言うのもなんですが、恐ろしい秘書です。それでも我慢して市川さんは付き合ってくれました。この人は通常はむやみに怖い人ですが、同時に時に子どものような茶目っ気もある人でした。選挙区の挨拶まわりに同行して横須賀に行ったときのこと。電車を降りて駅のプラットホームを歩いている時に姿が見えなくなり、困ってしまいました。なんのことはない、隠れんぼのまねごとをして、こちらが探していると、柱の影から出てきて驚かしたりするのです。

また、ドライシェリーのティぺぺがお好きで、よく相手をさせられました。その時に、自分の読んだ本の話を聞かせてくれ、意見を求められます。壁打ちと称して、ご自分が読んで頭に入った本の情報を、ひとたび口に出して、それを私にいい、反応を見ながら、より知識を確実に身に付けようとされていたのです。そういうひとときはまさに珠玉の時間でしたが、同時に場面が変わると、鬼のように変身されて、地獄の時間でした。私はいつの日か、そういう変化を見抜くよう心がけ、映画の文句ではないけれど、「逢うときはいつも他人」と心得て、最初は慎重にかつ神妙に対応し、折を見て楽しいムードだと判断すれば、スイッチを切り替えて大胆かつ親しげに応対すると言う風に、硬軟自在に切り替える技術を会得していったものです。

また、平子君が抜けた後に、秘書を探せとのことで慌てました。色々と考え動いた末に、和嶋君に的を絞りました。公明新聞に入社して6年。記者として油が乗ってこようという時です。無残にも私は若木を手折るように、彼を秘書にすべく説得してしまいました。心強い相棒の誕生です。二人は一回り違いの酉年。気は合いました。よく市川さんから二人して怒られて〝謀反〟を企てようとしたことも、ないではなかったのです。腐った気分を立て直そうと、二人で観に行った米映画『フルメタル・ジャケット』(米海兵隊の新兵しごきの場面が有名)には妙に共感してしまいました。

こういう風に秘書の初年度は過ぎてゆきました。ところが、またまた公私ともに大きな出来事、重大な変化が起きてしまうのです。

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代議士秘書への曖昧模糊とした転身 (47)

昭和61年の12月。公明党は竹入義勝委員長から矢野絢也委員長に交代し、新たに書記長に大久保直彦、国対委員長に市川雄一との布陣にするとの発表を行ないました。「竹入・矢野体制」は約20年続いたものですから、交代は当然でしょう。ただ、二人セットですから、一気に若返らせるなり、イメージを変える必要があったと思います。「矢野委員長」にして一人残したのは、後から振り返れば大失敗でした。大久保新書記長とは、この人が初めて衆議院に出馬されるときから、選挙区が東京4区(旧・中野、杉並、渋谷)だったこともあり、私にとって親しい大先輩でした。ご自宅に呼んで頂いたこともあります。その人のナンバー2就任は率直に言って嬉しいことでした。

市川さんの国対委員長就任については、当初は内外に懸念する声が強かったようです。当時のこのポストは、海千山千の政治家の中でも、とりわけ変幻自在の柔軟な態度と、何よりも営業マン的雰囲気が要求される立場だと見られていたのです。市川さんは理論家肌で、理屈先行の人のため、そういうポジションには向かない、むしろ政調会長の方が適任と見られていたのです。何しろ、酒はあまり飲まない、歌も歌わないし、麻雀は全くやらない、ゴルフもからきし、とくれば想像できようと言うものです。ご本人もそのあたりを気にされていた節は多少ありました。ただし、それは表面上だけで、「人は概ね人を見誤ることが多い、相手がこちらを低く見ればそれだけ相手が判断を誤るだけ」などと言っていました。そのくせ、影では、お酒を飲む練習をしたり、歌もレコードを買い込んで、せっせと練習に励んだりしておられたようです。ただ、ゴルフだけはやっても上手くならないので、と諦めていました。

そんな公明党が新体制に沸いている状況の中、私の身に一大変化が起きます。市川代議士の秘書にならないかというお話でした。既に市川秘書として頑張っていた平子瀧夫君が、川崎市議選に出るということから、その後釜として白羽の矢が私に立ったのです。市川さんの選挙区とも無縁だし、新聞記者として未だ未だ伸びたいとの思いが強かった私は悩みました。何より一にも二にも政治家を影で支える秘書の仕事は私には向かない、と思っていたのです。

ただ、市川さんと初めて会ってから18年ほどの間、色々と啓発され、刺激を受けていて、更にもっと近くで深く大きく影響を受けたいとの望みも持っていました。近づきたいけど、したいことは他にある。進むに進めず、私の心は乱れました。そんなときに、中野区で(鷺宮本部長)お世話になることが多かった富岡勇吉さん(潮出版社社長)に相談しました。富岡さんは、「新聞記者というのは虚業だよ。人は一生のうち、どっかでやっぱり実業で生きねばならないね。秘書は実業だよ。君の将来にきっと役に立つから、お受けしてはどうか」と言われるのです。肚が決まりました。

ただ、正式に公明新聞を退職するということに踏ん切りがつかないまま、なんとなく昭和62年(1987年)正月過ぎに、衆議院議員市川雄一第一秘書として、国会に出向くことになったのです。したがって公明新聞社で、仲間たちの前で別れのご挨拶もせず、ズルズルと仕事場が変わってしまいました。気がかりでしたが、仕方ありません。そのせいか、「北斗七星」のライターは暫く続けさせて頂きました。この辺り、私の人生で、一番ファジーな部分となってしまったのです。

市川雄一事務所には、先輩秘書の平子君と、国谷明美さんという女性の二人がいました。国谷さんは少女のイメージそのまま。とても可愛くしかも聡明な女性です。市川さんの選挙での遊説隊の一員でした。それこそ度胸も愛嬌もある素晴らしい女性。一目で私は好感を抱きました。この女性となら、辛い秘書業もやっていける、と。尤も、ことはそんな簡単なものでないということは程なく分かるのですが‥‥。

【昭和62年(1987年)4月 国鉄分割民営化、JRグループ発足 5月 朝日新聞阪神支局襲撃事件 防衛費1%枠突破 売上税法案廃案 6月 日中閣僚会議北京で開催 7月 日米戦略防衛構想(SDI)協定 8月 教育臨調最終答申 11月 竹下登内閣】

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