村山自社さ政権という悪夢の根源ー平成7年(1995年)【16】

村山首相を追い詰めた市川雄一質問の真骨頂

村山富市という人物が日本の首相の座に就いていたのは、平成6年の6月30日から、平成8年の1月11日まで。ほぼ一年半に及びます。平成7年の一年間はまるまる首相をしていたわけです。その年の1月17日に大震災に襲われたのですから、就任半年後に未曾有の大震災に見舞われ、それから一年間、〝迷走〟を続けたことになります。この迷走の本質は、55年体制の表裏をなしていた自社両党が、ちょうどひっくり返ったことにあります。つまり、それまで表にいた自民党が裏方に回り、裏にいた社会党が表に回る。ひょっとこの面を顔の後ろにまわしていたものをくるりと裏返して表に回したように、私たちの前に現れました。

権力の使い方という面では自民党が少し助け、いわゆる弱者救済的政策展開では社会党らしさがチョッピリ顔を出したとは云えます。しかし、社会党は所詮は万年野党。あっという間にお里が知れてしまいます。その最たるものは、安全保障政策における一夜漬け的転換です。かつて「非武装中立」というスタンスを臆面もなく掲げて恥なかった政党が、政権に就くや否やあっさりとその態度を変えてしまうなどということが許されていいのでしょうか。ここを完膚なきまでに追及して、叩き壊したのが市川書記長の1月27日の衆議院予算委員会の総括質疑でした。

従来の社会党が自衛隊を違憲とした根拠は、憲法の何条のどの条文によるものなのか、また村山首相が衆議院本会議の答弁で自衛隊を合憲としたのは、憲法何条のどの条文なのかーこれだけのことを明らかにすべく約一時間をかけて市川書記長は追及したのです。村山首相はこれに対して、いったい何と答えたのか。答えは驚くべきことに、ひたすら「憲法ぜんぶんです」のみ。耳から聞こえてくるぜんぶんとは、果たして、前文なのか、それとも全文なのか。これををはっきりさせようとしても、村山氏は一切いわない。社会党が発行してきた文書によれば、憲法9条を根拠にして自衛隊を違憲としてきたことは明らかです。それを明確に云わせようとしたのですが、曖昧模糊とした「憲法ぜんぶん」を繰り返すばかり。前代未聞の珍答弁でした。一国の首相たるものが、自衛隊の違憲、合憲の判断基準を示し得ず、逃げまくったのです。ここに、この自社さ政権の悲劇の根源がありました。

朝日新聞の連載記事に登場

市川書記長から、常日頃「国会、とくに予算委員会の質問というのは、演説の場ではない。ショートクエッション、ショートアンサーで、相手の矛盾を浮き彫りにするんだ」と、聞いていました。まさにその通りのお手本のような質問の仕方に、こちらは感嘆するばかりでした。ただ、村山首相は蛙の面に何とやらだったのでしょうか。全く意にも介さず、今に至るまで弁明すら聞いたことがないのは、本当に不思議なことです。

目の覚めるような質問の一週間後、朝日新聞のコラム「主役 わき役」欄に上下二回にわたって私が登場することになります。一回目の見出しは「市川氏の強打浴びる『壁』」。「政務会長(市川氏のこと)は、構想の一端を私に話し、反応を見て考えを整理する。テニスの壁打ちなら、私は壁の役割。政務会長はボールをどこに飛ばすかわからない壁の方を好む」ーこう私は語っています。文末には「『まだ人を補佐する力はない。短期間で育てたいので、きつく当たることもある』と市川氏。強打を浴びて『壁』は時々へこまされる」と担当してくれた西前輝夫記者は書いています。二回目の見出しは「一本立ちしたい『元秘書』」と。それから25星霜。強打の主はもういません。今では、へこんだままの壁が残ってるだけです。

この頃、自民党の二階俊博衆議院議員(現同党幹事長)から電話があり、「山本集という画家が日刊スポーツ紙上で『ザ 政治家 日本を担ぐ50人』とのタイトルのもと、連載を書く。君のことも紹介しておいたから、宜しく」とのこと。この画家は知る人ぞ知る元ヤクザにして、智弁学園の初代野球部監督。「赤富士」を始め強烈な印象を与える絵を描くーそんなことは後で知りました。ともかく取材してくれるというなら拒まずとばかりに、当時は、片っ端からメディアに登場しようとしていた私です。二つ返事で引き受けました。「異色画家・山本集 永田町を往く」との上下二回にわたる連載(見出しは「復興への責任感じてます」「国会の古い仕組み変革を」)でした。文末に、山本集の「独白」として、「一年生議員とは思えぬ自信と雄々しさあふれる人や。持ち前の温かみで、兵庫選出の議員として、復興に向けて国会で頑張ってくれはると信じている。なかなか味のある政治家や」とありました。まるっきりお世辞だとは分かっていても、嬉しい思いがしました。(つづく)

 

 

 

 

 

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阪神淡路大震災の直撃で大わらわ【15】ー平成7年(1995年)

新進党が結成。公明党国会議員は合流へ

平成6年の暮れ(12-10)に横浜で新進党の結成大会が開かれました。平成6年は、細川、羽田、村山と3人もの首相が入れ替わり、その年の暮れに衆参合わせて214人をも擁する一大政党が誕生したのです。党首は海部俊樹、幹事長が小沢一郎とかつての自民党の看板の二人ですが、旧公明党からは、副党首に石田幸四郎、政務会長に市川雄一、国会運営委員長に神崎武法、参議院議員代表に黒柳明の各氏が就きました。この時の高揚感は内外ともに極めて大きいものがありました。何しろこれだけの規模で自民党に対抗する勢力が築かれたことは大変な期待があったわけです。同じ日に私の大学のクラス会が東京・田町の三田キャンパスで開かれたのですが、集まった20人ほどの級友たちから大いにもてはやされたものです。

ただ、公明党は新進党に参加した他の政党と違って、地方議員を3千人も抱えており、600人の党職員や日刊紙を発行するなど圧倒的に所帯が大きい。このため、一気に合流するわけにはいかず、地方議員主体の「公明」と国会議員(衆議院議員は全員、参議院議員は95年改選組)による「新進党」とに分かれざるをえませんでした。私は、新進党に参画しましたが、地方議員の仲間たちは藤井富雄都議会議員が代表となった「公明」と、大きく二つに分かれることになったのです。「分党・二段階方式」とのことでしたが、正直こんなことでいいのか、将来はどうなるのか。色々と不安でした。ですが、そういうものを押し流す時の勢いとしての〝もう一つの政権勢力必要論〟があったのです。

我が郷土を襲った大震災

翌平成7年。1月17日ー午前5時47分。強烈な揺れが突然姫路市中央部にあった私の借家にも襲ってきました。神戸市の私立高校に通っていた娘がちょうど朝風呂に入っており、「湯舟が揺れてる〜」、と悲鳴をあげるやら、妻が這いながら家中の火を消すやら大騒ぎでした。一瞬家がこのまま倒壊するのでは、との危惧がよぎりました。直後にテレビを付けても何も分からず、暫く経ってから、神戸市内の火災状況が映し出されたのを見て、ようやくことの重大さが分かってきました。垂水に住む弟や東灘区の赤羽一嘉代議士に電話をしました。弟はたまたま仕事が休みで、遠出をしようと出掛けるところ、東の空に異様な閃光のようなものを見たといいます。赤羽氏は家の中はめちゃくちゃ、付近の殆どの家は崩壊、近所の人を瓦礫の中から助け出してきたばかりだという。これは一大事、さあ、神戸に救援に行こうと車に乗ったものの、大混雑でにっちもさっちも行きません。知ってるところに電話をしようにも今度はかからない。で、姫路の仲間に呼びかけて、布団や毛布やらを集めて救援活動をと、急拵えの宣伝車で向かったのですが、加古川までがやっと。結局、その日は神戸まではたどり着けませんでした。翌日になって、心あるみなさんによる救援物資を積んで、加西市から三木市を経て、新六甲トンネルルートで三宮に向かいました。「トンネルをくぐればそこは戦場だった」という表現がピッタリするような惨状でした。トンネルの前の神戸市北区一帯は以前と同じのどかな風景でしたが、その対比が実に鮮やかだったのです。市川さんが後になって電話をくれ、「神戸はまるでミサイルでも撃ち込まれたみたいだな。不足しているものがあれば、送る。何でも言ってくれ。大変だろうが頑張れよ」と激励をいただきました。

震災直後の国会で

1月20日に開幕した通常国会では、三日前の大震災への対応を中心に、社会党の党首が政権を担う事態への根本的な質疑が行われることになります。赤羽代議士が被災者の一人として、衆院予算委員会で「これは天災じゃない、人災だ」と後々まで語られ伝えられた追及を村山首相らにしました。25年経ってその彼が国土交通相に就任したことに深い感慨を覚えます。私は新進党の常任幹事、広報企画委員会副委員長に任命され、国会では安全保障委員会や消費者問題特別委員会の理事などに所属しました。2月7日には安保委で、14日には消費者問題特委で、それぞれ質問。震災発生時の自衛隊の対応、被災者の避難生活への対策などについて質問しました。しかし、初動の遅れを県知事の責任にしようとする防衛庁長官、現場の実態を殆ど知らない経企庁長官。いずれも責任の所在が曖昧な答弁ばかり。無責任極まりない村山首相と、誰も彼も似たり寄ったりの頼りない閣僚の姿に唖然とするばかりでした。(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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暗黒の政権運営と四月会の策謀【14】ー平成6年(1994年)

反公明党・反創価学会の動き

村山自社さ政権の誕生と表裏一体の関係にあったのが四月会の存在です。これは同政権の成立直前の6月23日に設立総会が持たれたもので、評論家の俵孝太郎氏を代表幹事とする反創価学会の宗教団体、学者、文化人、ジャーナリストらの集まりとされます。河野洋平、村山富市、武村正義の自社さ三党の党首も揃って出席し、創価学会への誹謗、中傷発言を展開しました。このことから、この政権は、反公明党・反創価学会の旗色を鮮明にした「四月会内閣」だと別称されます。その急先鋒が、亀井静香運輸相でした。彼は、白川勝彦、島村宜伸氏らと共に、反創価学会の議員集団「憲法20条を考える会」を作り、民間団体である「四月会」と歩調を合わせて、国会内外での反公明党、創価学会の動きを強めていくのです。

亀井氏は、初入閣後の週刊誌インタビューで「これまで公明党と創価学会に対して、政府も手加減していたが、これからは違います」と、一宗教団体に対して、政治権力が介入し圧迫を加えようとする露骨な意思表明をするなど、「信教の自由」をうたい、「政教分離原則」を掲げる現憲法に真っ向から抵触する攻撃を仕掛けてきました。ことここに至るまでの国会では、細川政権誕生からーつまり自民党が野党に転落してからー一年2ヶ月ほどの間に、なんと延べ19人にも及ぶ自民党議員や2人の共産党議員らが執拗に公明党と創価学会との関係を取り上げる国会の委員会質問をしてきていたのです。

これらはいずれも憲法の規定を勝手に捻じ曲げ、自己流に解釈したものや、憲法の原則とは無関係のエセ政教分離論などが殆どでした。こうした誤った俗論・迷論を糺すべく機会を窺っていた公明党執行部は、憲法の政教分離原則とは何かを改めて国会の場で明らかにするべく立ち上がったのです。

政教分離原則を明確にさせた冬柴質問

平成6年(1994年)10月12日の衆議院予算委員会での公明党の冬柴鐡三氏の質問は、❶憲法20条で規定する「政教分離」原則とは、国家と宗教の分離、つまり国家権力と宗教の分離ということで、規制の対象はあくまで国家であって、政党や宗教団体を縛るものではない❷宗教団体が選挙支援を含む政治活動を行うことに何ら問題はなく、「集会、結社、表現の自由」(憲法21条)の上からも当然認められている権利である❸宗教団体がその活動の一環として政治活動を行うことができる以上、自らの施設の会館などを利用することも憲法上問題ない❹宗教団体が支援・支持する政党・政治家の政権参加も憲法上全く問題ないーといった従来からの国会論議で決着がついていることを、改めて大出峻郎内閣法制局長官とのやりとりを通じて明らかにさせました。冬柴氏はそのうえで、自社さ政権の三党首がこの憲法解釈を遵守するかどうか、を迫ったのです。3人は心ならずもかどうかは別にして、国会の場では遵守することを約束したのです。

矢野元党首の恐るべき発言

こうした四月会の蠢動がある一方、公明党の矢野絢也前委員長のとんでもない動きがありました。彼は政界引退直後に雑誌『文藝春秋』に手記を書いていた(1993年10月)のですが、そこに「政教一致とも言われても致し方ない面がある」などと、あたかも公明党と創価学会に問題が存在するかのように記していたのです。これを自民党などが見逃すはずがありません。下稲葉耕吉参議院議員ら自民党・共産党6人が計八回にわたってこの〝矢野手記〟を振りかざして追及してきたのです。

実はこの矢野元委員長との間に、私にとって生涯忘れ得ぬ出来事があります。初めて当選した平成5年7月の直後に関西出身の議員が集まる機会がありました。この時の選挙で、矢野氏は私と共に当選していた久保哲司氏(故人)と交替し、政界を引退しました。この会は、新旧の議員が集まってお互いの労をねぎらい、新出発を祝う会でした。その重要な場面での、休憩のひととき。椅子に座っていた彼は通りかかった私を呼び止めて「おい、お前が赤松か。お前は市川の子分やな。お前なんか落としたろうと思っとったのに、くそ、通りくさって」というのです。瞬間我が耳を疑いました。関西、いや全国の同志の皆さんが渾身の力を込めて応援していただいたのに、当の公明党・元委員長の、この言い草はありません。私は『文藝春秋』に不可解な手記を書いていたこの人物に、どうしてあんなものを書いたのですか、と問いただし、胸ぐらでも掴みたい思いがありました。しかし、ぐっと抑えて、「私は市川の秘書です。いやそれ以前に池田先生の弟子です。余計なこと言うんじゃないですよ」と言うがはやいか、彼の手を掴んでグイッと前に引っ張りました。彼は椅子から転げ落ちそうになりました。それを周りの先輩議員たちが支えました。これはその場にいた皆が知っていることです。ただ、この場のことだけに終わり、問題になることはありませんでした。これは一重に、もっと議員を続けたかったのに、市川書記長によって、引退に追い込まれたとの悔しさが彼にはあったのでしょう。坊主憎けりゃ何とかとのことわざ通り、前市川秘書である私に難癖をつけて本心を露わにしたのです。(つづく)

 

 

 

 

 

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混乱の渦中に海外視察やテレビ出演【13】ー平成6年( 1994年)

初のワシントン訪問、テレ朝出演

細川政権から羽田政権へと、公明党が中核となった政権が作動した93年8月からから1年足らずの間。新人ながら色々と取り組ませていただきました。副書記長、 政策審議会副会長、広報局長などの立場をいただいたのです。この間に私は初めて海外に視察活動に行きました。米国、スウェーデン、ノルウエーの三カ国に3月14日からの一週間でした。ワシントン、ストックホルム、オスロの三都市で、政府要人やら学術関係者らに会い、主に北朝鮮の核疑惑と、PKO(国連平和維持活動)についての考え方、取り組み方を巡って意見交換するのが目的でした。一緒に行ったのが、西村眞悟、樽床伸二らの若手政治家です。二人はのちになにかと物議を醸すことになりますが、私も含めて当時はまさに新進気鋭のトリオでした。

特にワシントンで思い出に残るエピソードでは、リンカーン記念堂でのこと。私は高校時代にリンカーンのゲティスバーグ演説を暗唱していました。今もなお事あるごとに口ずさんでおり、一種の隠し芸となっています。同記念堂に樽床氏と行って、彼に壁に書かれたスピーチの原文を見てもらいました。私はそれに背中を向けて、やおら暗唱していたものを口に出したものですから、彼が驚くことと言ったら‥‥。たわいもないことですが、懐かしい思い出です。

また、5月2日付けの朝日新聞の憲法特集のページに写真入りでインタビュー記事が掲載されました。「改憲視野に見直せ」との見出しで、「護憲か改憲かの論議から始めるのではなく、国際社会の中で日本がどうあるべきかという問題から憲法を考えていくことが大切だ。改正も視野に入れているが、当面は護憲的見直しを進めたい」などと偉そうに言っています。それから25年。事態は殆ど進んでいません。去年夏に産経新聞のインタビューに答えた(2019-8-9付け)ように、国会に幻滅するしかないというのが正直なところです。一方、初めてテレビ朝日のサンデーモーニングにも出演しました。出来栄えは今一歩。自分はどこまでも活字人間だなあと、自省した次第です。

予算委分科会で地元課題取り上げ

6月7日には衆議院予算委員会の分科会質問に立ちました。各省ごとに分科会に分かれて一人30分間の質疑をするのです。テレビ中継などないのですが、地域密着の問題が取り上げられる貴重な機会です。私は姫路駅の高架事業の推進や揖保川町の浚渫、馬路川の排水ポンプ機設置問題など、建設省(現国交省)関連の地元の課題を取り上げ質問しました。このうち、馬路川の問題は地域住民の有力者・森保昌さんの要望をかねてからいただいていました。雨が降るたびに床下から床上までにおよびそうな浸水に怯えなければならないのを、何とかしてほしいとの切なる願いでした。直接お話を聞いた上で、綿密な調査をして当日に臨みました。後に、大いに喜んでいただく結果が出て、胸を撫で下ろすとともに、地域住民の声を代弁することの大事さを痛感しました。

民間政治臨調での動き

6月29日の通常国会最終日に、前回述べたような経緯の末、村山富市自社さ政権が誕生。私ども旧連立政権は下野することになります。この間というもの、実に様々な動きがあり政局の舞台の表裏を十分に見させていただきました。表の舞台といえば、民間政治臨調主催の「政治改革推進・決起集会」で公明党を代表して挨拶する機会があり、「選挙区割り法を成立させることこそ政治改革の完結になる」などと述べたものです。この臨調のトップの一人は、住友電工の亀井正夫さんでしたが、この人は我が恩師・中嶋嶺雄先生と親しい関係にあったことや、小学校からの親友・三野 哲治君が同社の幹部(後に住友ゴム社長)だったこともあり、親しくさせていただきました。

また、連立与党の幹部たち、とりわけ小沢一郎氏との交友関係もあって、渡部恒三、山口敏夫氏らとの接触は興味津々たるものがありました。渡部氏はこの頃から今に至るまで飄々とした雰囲気を湛え、大人の風格がありました。一方山口氏は政界の牛若丸の異名通り、神出鬼没の振る舞いで右も左も、真ん中も振り回していました。市川側近ということもあって、私はこういう政界の大物から妙に可愛がられましたが、忘れられないのは、渡部氏の山口評です。ー「来ればうるさい。来なきゃ寂しい。記者と珍念(山口氏の愛称)」ー大いに笑えました。山口氏は今も変わらぬお付き合いをしてくれています。実にユニークで面白い個性の持ち主です。(つづく)

 

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少数政権潰え窮余の一策へ、激震続く【12】平成6年(1994年)

武村官房長官の信じられない言動

国民福祉税構想の挫折の影には首相と官房長官との呼吸の不一致という問題がありました。思えば細川内閣はある意味で瓢箪から駒とでも言うような予期せぬ展開で誕生したものだけに、内情はまさにてんやわんやの舞台裏だったのです。内閣の女房役・官房長官の存在は極めて重要ですが、武村官房長官は首相のミスを護るどころか逆に傷口を広げるような卑劣な態度に終始しました。尤もこれは突然のことではなく、前年の12月に古巣の自民党の幹部とは頻繁に会っていながら、与党代表者会議には一度たりとも顔を出さないで、与党幹部と議論をするそぶりもなかったことが問題視されていました。8会派による代表者会議での議論をまとめるのがいかに大変かを市川書記長から私は聞かされていただけに、武村氏はそんな会議には出たくなかったものと思われます。

政治腐敗事例の打ち止めとしての佐川急便問題

細川首相は内閣誕生以来次々と起こる難題に悪戦苦闘していました。女房役に護られるどころか逆に切りつけられるなど、まさに〝味方は少なし敵多し〟という現実だったのですが、公明党、とりわけ市川書記長はあらゆる場面で精一杯寄り添う姿勢を貫いていました。しかし、佐川急便グループからの一億円借り入れ問題が浮上。予算編成にとって重要な時期に1ヶ月も予算委員会が空転してしまうのです。野党・自民党もここが攻めどころとばかりに執拗に追及。結局同首相も堪えきれずに4月8日に辞任を表明してしまいます。政治改革の主目的は、政権交代可能な仕組み作りと、腐敗政治からの脱却という二本柱でした。ところが、皮肉にもそれを成し遂げた首相自身の台所から火が吹き出したのです。まさに、これにて打ち止め、試合終了とでもいうような趣きがありました。

羽田政権の綱渡り

細川首相退陣。代わって羽田孜首相が誕生します。自民党から小沢一郎氏と共に飛び出した人々と結成された新生党の中心者です。この羽田政権樹立の背景に見落とされてはならないのが、社会党の政権離脱の動きです。いくつかの要因がありますが、一つは大内啓伍民社党委員長による統一会派「改新」の結成でしょう。新生党、日本新党、民社党の三党によるものですが、この動きが社会党をして連立政権からの離脱に踏み切らせるきっかけとなりました。村山富市氏がのちに事あるごとに吹聴する小沢一郎、市川雄一両氏の影響から自由になりたいとの思いも重要なファクトだったと思われますが、この頃の政局の底流に流れていたものは、文字通り古い政治の悪弊とでもいうべきものが渦をなしていたかのように思われてなりません。

ともあれ羽田内閣は4月28日に発足します。土壇場で社会党や新党さきがけが離脱して、衆院178議席の少数与党内閣です。過半数割れで、誕生と同時に解散か総辞職かの選択を迫られるという厳しさでした。公明党からは、石田幸四郎総務庁長官、二見伸明運輸相、森本晃司建設相、日笠 勝之郵政相、近江巳記夫科学技術庁長官、浜四津敏子環境庁長官の5人の閣僚が入閣しました。身近な先輩が大臣に就任したということを喜ぶべきか、はたまた明日をも知れぬ脆弱内閣の前途を憂うべきか正直悩みました。この布陣を敷いた張本人の市川書記長は、何はともあれ公明党が天下を取ったという事実を日本政治史に刻印したことを忘れるなと、細川政権時に続いて、私に囁くように言われたことが印象的です。市川雄一という希代稀なる戦略家の内に秘めた思いの深さは私ごときには測りかねるところですが、この頃の微妙な達成感というものはそばにいた私にとっても大きいものがありました。

村山自社さ政権への急展開

6月29日に行われた首相指名選挙は決選投票に持ち込まれ、47票差で自民党が担いだ社会党の村山富市氏が、連立政権側の海部俊樹氏を破ってしまいます。自社さ政権の誕生です。これは窮余の一策という他ない驚くべき出来事でした。いわゆる自社55年体制ー表面は対決姿勢だが、テーブルの下では手を握り合ってきたーの悪あがきそのものです。「野合」「談合」「悪い冗談」「背信」などといった形容詞が内閣に冠されましたが、日本中はおろか世界中が呆れました。世界観が違うと思われてきた、水と油ほど違うはずの両党が一緒になるのですから。ことほど左様に当時の日本の政治は混乱を極めていました。

それを背景に対抗する勢力は、大きな夢を抱いて、もう一つの新しい政治勢力を数合わせではなく、現実的に作ろうとします。その動きの中心に私も否応なく放り込まれて行くことになるのです。(つづく)

 

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政治改革法が6年越しで遂に成立 平成6年(1994年)【11】

政治改革への産みの苦しみ

94年1月21日参議院本会議の採決では大波乱が起きました。自民党から5人の賛成者が出たものの、与党社会党から17人もの反対者が出て、結局法案は否決されてしまったのです。このため、連立与党側は衆議院から参議院に両院協議会の開催を求めましたが、自民党が当初難色を示し、混迷しました。26日になって、やっと自民党は設置を了承。初会合が開かれたのです。しかし、合意はならず、27日衆議院側協議会の議長だった与党側議長の市川公明党書記長は「協議は整わなかった」と協議打ち切りを宣言し、決裂に終わりました。

この協議会の決裂への過程は知る人ぞ知る、稀に見る鍔迫り合いならぬ乱闘寸前まで行ったと言われています。私は見ていたわけではありませんが、人づてで聴くと、与野党の大物同士の議員間(l衆議院議員とY参議院議員)で、売り言葉に買い言葉から、「なにい、表に出ろ」「なんだとぉ、その言い草は」となって、双方掴みかからんばかりとなったと云います。その際に、先輩l代議士を助けんと、机の上を走って駆け寄った議員(M衆議院議員)がいたとか。全く、国会って凄いところだと驚いたものです。

結局この問題の妥協は、土井衆議院議長の斡旋によって1月28日夜、細川首相と河野自民党総裁のトップ会談に委ねられます。その結果、細川首相の自民党への全面的譲歩で合意を見るに至りました。その内容は❶衆院小選挙区比例代表並立制の定数を小選挙区300、比例代表200とする❷比例代表の選出単位を11ブロックとする❸企業団体献金は政治家個人に政治資金管理団体一つとし、5年間に限って年間50万円を認めるーなどで1月29日 の衆参両院本会議で可決成立しました。これで、リクルート事件以来、国政の大きな対立点となっていた政治改革法案は、6年越しで遂に陽の目を見て成立することになったのです。

このことをどう見るか。既に四分の一世紀が経った今、政治改革法の功罪は相半ばしていると見られます。政権交代を促し、政治腐敗をなくすという意味では確かにプラス的側面が強いでしょう。ですが、比例区と小選挙区との甚だしい乖離、大衆迎合に陥りやすいマイナス面も指摘されます。当初想定された二大政党制は機能せず、むしろかつての55年体制の変形と見紛うばかりの自民党一強と、弱体化した野党の存在が目立ちます。尤も、公明党がこの20年連立与党を形成して、「政治の安定」に貢献していることは特筆されねばなりません。今後、安定から改革の進化へ、連立政治の質の向上が望まれます。

国民福祉税構想の挫折

政治改革法案が曲がりなりにも成立した直後、ホットするいとまもなく政権与党八会派にとって激震が走ることが起きてしまいました。消費税率を上げざるを得ないと判断した細川護熙首相が思わぬフライングをしてしまうのです。同首相は消費税を「国民福祉税」とネーミング(公明党の提案)したまでは良かったのですが、平成9年4月1日から3%を7%に税率を上げるとの記者会見での発表(2月3日未明)に際して、記者から、その根拠を問われて「腰だめの数字」だと述べてしまったのです。これは皆色をなしました。幾ら何でもそれはないだろう、との反応です。結局は、翌日の与党代表者会議で白紙撤回になってしまいますます。

この顛末の背景については、公明党的には色々と思いがあります。市川書記長が個人的に昵懇だった経済学者の宮崎義一氏(京都大名誉教授)から、消費税の持つ逆進性の緩和にも役立つ完全な福祉目的税にしてはどうかとの助言を受けて、完全な福祉目的税化を提案していました。そこに至るまで、何度も何度も衆参の全国会議員による議論を重ねていたのです。実はこれと相前後してコメの部分開放問題も焦点となっていました。この時点を遡ること3年前、90年4月に党内大議論の末に、部分的にせよコメの輸入を認めざるを得ない方向性を打ち出していたのです。

党内大議論をアピールする役割

私が議員になる前のPKO(国連平和維持活動)論議の時ほどではなかったようですが、それに決して劣らない党内議論が、税やコメの問題で展開されていました。兎にも角にも議論また議論、石田委員長、市川書記長率いるところの公明党は党内議論をどこの党よりも激しく展開。それを記者にアピールする役割の広報局長の私も大忙しでした。

ただ、増税については党内支援者からの反発は強く、国会報告会での質疑応答の場面で、厳しく注文を受けました。あまりに唐突過ぎるとの声です。私はこれからの時代には、「働く人々の数が極端に少なくなるため、所得税という直接税中心ではどうしても行き詰まる」「仕組みの歪みを是正するしかない」と述べました。年金・医療・介護に膨大なお金が一層必要になるだけに、税制の抜本改革が避けられないとの現状を話すことで、多くの方々は理解を示して下さったことを思い起こします。(続く)

 

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衆議院初質問とその余波ー平成5年 1993年【10】

褒め言葉と厳しい指摘と

初めて国会で私が質問する機会を得たのは、衆議院政治改革特別委員会。質問を終えたところに二人の大物議員がやってきました。一人は伊吹文明氏。もう一人は鹿野道彦氏。共に自民党のベテラン議員(鹿野氏は後に離党)です。のちに衆議院議長になる伊吹氏ですが、同じ委員会(税制特別委員会)に所属して海外視察に同行するなどご縁が色々と出来ました。この時をきっかけに随分と大事にしていただいたものです。また、鹿野氏とも様々なご縁があり、憲法調査会に同時期に所属して種々御指南をいただきました。

このお二人は、要するに「君の質問は良かったよ」と言ってくれたのですが、言われた本人は緊張していただけで、何が何やらわからずじまい。ただ、大物に褒められたということだけが残りました。一方、実はこの初質問で、党内の、しかも兵庫の先輩からビシッと注文をつけられました。冬柴鐵三さんです。私が「間断なく」と言ったがそれは、間違いだと。まだんなく、ではなく、かんだんなく、だと。これは指摘されるまで、全くずっと気がついていませんでした。新聞記者出身として顔から火の出るほど恥ずかしい思いをしました。

国会リポートを葉書で毎週発行

初当選した時から私は国会リポートという名目でハガキ通信を出すことにしました。選挙中に❶どこまでも普通の人間でいく❷どこまでも勉強し続けたい❸国会の現状を面白く解説したいーこの三つを自分の政治信条として支持者の皆さんにお約束したこともあり、ハガキで国会活動をリポートすることはその意味で重要な役割を果たすものでした。加えて週一回の駅頭演説も実施していきました。地元事務所は市内岩端町にあった叔父の古い家を借り受けました。この叔父は、先の大戦に少年航空兵に志願するなど筋金入りの軍国少年でしたが、従軍中に右腕を肩から失う大怪我を受け、傷痍軍人となっていました。しかし、持ち前の闘志で人生の舵取りに成功。姫路でも有数の資産家になり、傷痍軍人会の地元の会長もしていました。その事務所には先輩の新井彬之氏の秘書をしていた瀬川典也君が常駐してくれました。新米代議士を支える秘書として、東京の国会事務所の小谷伸彦君と共に、抜群の力を発揮してくれました。ありがたいことでした。

細川護熙内閣の誕生

選挙後の新政権樹立のキャスティングボートを握ったのは、日本新党(1992-1994)と新党さきがけ(1993-2002)でした。両党主導による小選挙区を含む並立制の提案に対して、公明党は不本意ながら(「連用制」で合意)、非自民政権の樹立による政治改革の実現を優先させ、細川連立政権の成立を推進したのです。8月6日の衆参本会議の首相指名投票で、細川日本新党代表が河野洋平自民党総裁を破って第79代の首相に就任したのと、衆議院議長に憲政史上初の女性議長に社会党の土井たか子氏が選ばれた時の議場の興奮は、今なお忘れがたいものがありました。

このあとの組閣で、公明党から石田幸四郎(総務庁長官)、神崎武法(郵政相)、坂口力(労働相)、広中和歌子(環境庁長官=のちに民主党に移動)の四人の大臣が入閣。政務次官には山口那津男防衛政務次官ら五人が就任したのです。この時に市川書記長の口をついて出た言葉が私には忘れられません。「形はどうあれ、我々はついに天下を取ったのだ」と。公明党の第一世代の一人として、恐らく感慨無量のものがあったのだと思われます。

各党の大物たちと同じ誕生日と分かる

そんなおり、私は政治改革特別委員会で、委員席に座って国会議員名簿を見ていますと、あることに気づきました。私の前に座っていた社会党の左近正男氏と私の誕生日が同じ11月26日だということがわかったのです。しかも、ついでに名簿をくっていくと、自民党の柿澤弘治(故人)、新生党の奥田敬和(故人)、民社党の中野寛成といったような大物政治家が皆同じ誕生日なのです。びっくりしました。その結果、合同誕生会をしようという話になり、それを聞きつけた小沢一郎氏からケーキと花束が届くというハプニングがありました。新人議員のくせに大物たちに混じっての誕生会となり、こそばゆい思いを抱いたものです。

細川内閣は政治改革内閣を旗印にしたのですが、その後なかなかことははかどらず苦労を重ねます。12月の国会リポート第4号にはこう書いています。

「政治改革」に明け暮れた一年だったにもかかわらず最終的な決着がつかないまま越年することは大変に残念なことです。関連4法案が衆議院を通過したことがせめてもの慰めかと思います。小選挙区比例代表並立制と政治家個人への企業・団体献金の禁止を盛り込んだ今度の改革案こそ、腐敗政治と決別するための重要な一歩と私は深く確信しています。それにつけても、審議入りの引き延ばしをした参議院自民党をはじめとする守旧派とでもいうべき勢力の根強さには、ほとほとあきれてしまいました。

初当選後の半年はこうして暮れて行きましたが、翌年からは、まさに疾風怒涛の時代が始まり、国会議員一年生の私も百戦錬磨の大物たちにもみくちゃにされていくのです。(つづく)

 

 

 

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苦節4年、ついに衆議院初当選果たすー平成5年(1993年)【9】

作家・宮本輝さんの応援演説を受ける

次点に終わった初めての選挙から3年が経った平成5年という年は、年明けから恐らく年内に総選挙になるとの予感がありました。地域を戸別に訪れる闘いも足掛け4年が経ち5年目に入りました。さあ、いつでも来いとの闘志が漲る中での新年を迎えたのです。前回の選挙では後援会長を横川豊信さん(兵庫シャンソン化粧品社長)に引き受けて頂いたのですが、今回は、長田高校時代の恩師の浅場一郎先生(神戸常盤短期大学事務局長=当時)に、新たに受けて頂きました。

この選挙では、それこそ関西一円はおろか日本中からの応援を頂きました。作家の宮本輝さんまで街頭での応援演説に来てくれたのです。「姫路の皆さん、芥川賞作家の宮本輝です。今日は私の親しい友人・赤松正雄さんの応援にやってまいりました」ーこういった口上を車の中から、そして街角での演説で繰り返し、支援を呼びかけてくれました。同世代の著名な人気作家の応援を得て百万の味方を得た思いがしました。その翌日、市内のある信用銀行の支店に挨拶回りに行った時のこと。受付の若い女性行員が私の顔を見て「あっ、昨日、宮本輝さんと一緒に歩いてた人だ」と口ずさんだのには、苦笑いせざるを得ませんでした。「私の応援に来てくれたんですよ」というと、「すみません。私、輝さんの大ファンなもんで。あの人の本、殆ど読んでます」と。

7月18日の投開票日ートップ当選でした。その喜びたるや、本当に筆舌に尽くしがたいものがありました。選挙事務所では誰彼となく抱き合い、涙を流して〝大大勝利〟を喜んでくれたのです。地元のサンテレビの放映で、兵庫一区で初当選した赤羽一嘉君と神戸と姫路の同時生中継という形で繋がり、言葉を交わしました。彼は慶大の後輩。13歳も年下です。一緒に当選したのは、まるで13年浪人した兄と初めて受験した弟が同時に大学に入ったような感じでした。

当選の直後に地元紙・神戸新聞の取材を受け、長いインタビューに答えたものが翌日の新聞に出ました。これまで新聞記者として書く側にいた人間が書かれる側に回ったのです。奇妙な、こそばゆさが実感でした。その時の担当記者が後に週刊誌記者へと転身し、『トップ屋稼業』を皮切りにジャーナリストとして破天荒な活躍をしていく男だったとは、神のみぞ知ることでした。

政治改革特別委員会で大物議員が隣に

国会には若き日より数えきれぬほど通って赤絨毯の上を歩いていましたが、当選して初登院するとなると、また当然ながら微妙に違います。国会職員に議員バッジを付けて貰い、自分の名の書かれた掲示板を触る辺りから、権力の魔性の囁きが聴こえて来るような思いがしたのです。数えきれない人々の汗と涙の支援の結晶だということを片時も忘れずに頑張らねばと誓いました。

幾つか所属した委員会で、最も脚光を浴びたのは政治改革特別委員会でした。時あたかも「政治改革」の嵐が吹き荒んでいたのです。予算委員室が質疑議論の場に当てられました。最初に座った席の右隣が太田昭宏、左隣が小沢一郎、つまり内外の〝時の人〟だった二人に挟まれたのです。小沢氏は当選回数、政治経験において百戦錬磨の強者です。一方、こちらは政治家といっても、純真無垢な赤子みたいなもの。違いすぎる者が並び座ったわけで、気もそぞろに自己紹介をしたことを覚えています。

また、『パンツをはいた猿』などの著作で著名な学者だった栗本慎一郎氏(新生党から初当選)が左隣(小沢氏の代理で)に座ったことも。この人は大学の先輩。つい昔話に花を咲かせてしまいました。慶大の学費値上げ闘争に話が及んだのですが、当時塾監局を不法占拠した塾生の中心は自分だったと、得意そうに語られたのには驚きました。

そんな中、ついに同委員会で質問に立つ日が来ました。私の国会議員初デビューです。(続く)

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自衛隊員の母の切なる問いかけー 平成4年(1992年)【8】

危険な地に子供を行かせたくないとの親心

日本中が湾岸戦争からPKO法で大騒ぎになっている頃、私はせっせと地元挨拶回りを続けていました。そんな時、支援者の皆さんと懇談をしていると、ある女性から質問を受けました。「公明党は自衛隊を海外に派遣する法律作りに熱心だと聞きます。平和を守る党がなぜそんな危険なことに取り組むのですか」というものでした。実はその方のご子息が地元・姫路にある陸上自衛隊第三特科連隊に就職したばかりで、やがてPKO法に従って危険な地に赴くのではないか、と心配されていたのです。私は、それを聞いて、❶PKO は紛争が終わった後に派遣されるもので、決して戦地に行くのではない❷国際社会の中で、日本も平和を築くための責任を果たそうとする得難い試みである❸国を守る自衛隊という崇高な仕事は、単なる就職先ではないとの自覚を母親も持つべきーだというお話を真剣に語りました。

当時は日本中がPKOに対して理解がなく、朝日新聞を筆頭に新聞メディアも大々的に反対論をぶっていました。例えば、法案審議が始まった時点の91年11月の朝日新聞の世論調査では、PKF(平和維持隊)への自衛隊参加には、賛成30%。反対は58%でした。法案に反対する社会党などが、採決妨害のために参議院本会議場で「5泊6日」、衆議院の本会議場で「4泊5日」もの信じられないほどの異常な牛歩戦術をとったりしたことが否が応でも不安を煽っていったのです。こうした状況を真正面に見据えながら、公明党は「世界の中の日本、かく生きるべし」との信念のもと、先に述べたような党内議論を進めていきます。その空気は少しづつですが、姫路にも伝わってきました。

家族たちそれぞれの闘い

臥薪嘗胆の3年余りは私は当然のこと、家族にとってもそれぞれ歴史に残る日々となりました。娘は広嶺中学校での3年間とほぼ重なりますが、生来の明るさもあって、初めての土地ながら頑張ってくれました。その学校関係で多くの友人が出来、妻も育友会組織の役員として奔走するようになりました。また、ピアノ教師としてそれなりの稼ぎをもたらしてくれたり、創価学会婦人部の地域における合唱団のピアノ弾きとしてお役に立てたようです。また義母は、60歳を過ぎて東京を離れてきたので、知り合いがいないことから俳句の同人誌メンバーとなって、西播磨に住む皆さんとの交流が始まりました。この人は筋金入りの学会婦人部なもので、近所で家を建築中の現場で、働いている作業員に聖教新聞を購入して貰うべく働きかけた、と言います。相手は日照権問題などで文句を言われるのでは、と錯覚したに違いないと、笑っていました。大したものです。

地域の先輩たちのあつい支援

さらに、この期間に姫路と深いご縁を結ぶことができたのは、ひとえに学会幹部の皆さんのサポートのおかげです。西口良三、得田昌義、嵐 輝雄といった大先輩にはとりわけお世話になりました。また、藤田康子さんら婦人部幹部にも。とりわけ、婦人部の二人の幹部が市内で信号停車中に後ろから追突されて大怪我を負われた時は魂消(たまげ)ました。兵庫の地では、かつて選挙がらみで、候補者が亡くなったりする大事故が複数続いただけに、この時ばかりは候補者の身代わりになっていただいたのかと正直思いました。しかし、比較的軽く済んで、この地の宿命転換になったのではないかと勝手に思った次第です。

選挙戦の背後では、姫路市議会の先輩たち、とりわけ井上市郎、伊藤孝、難波功らの先輩には様々の手助けを頂きました。新井彬之さんの激しくも厳しい戦いを耐え抜いた強者たちはこの地の隅々にまでおられ、機会あるごとに激励されたものです。それもこれも落選したからこそ身に染みて有り難みを感じました。西口さんから紹介頂いたある大手住宅産業のトップが、「貴君は落選したからこそ興味がある。当選していたらあまり私は関心持たなかったよ」という奇妙な激励を頂いて、大阪北の新地のとある場所に連れて行って頂きました。これもまた懐かしい思い出です。(続く)

 

 

 

 

 

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知られざるPKO法をめぐるてん末ー平成4年(1992年)【7】

湾岸戦争の余波と騒動のてん末

イラクのクウェート侵攻が発端となって起こった湾岸戦争。それが引き起こした国際社会の混乱。各国にそれぞれ波紋をもたらしましたが、とりわけ日本への影響は大きいものがありました。第二次大戦から45年ほどが経って、吉田茂の軽武装・経済至上主義のもとでの〝国のわがまま〟が通用しなくなったことがはっきりしたからです。気がついたら世界第2位の経済大国。そのくせ、軍事的には自立国家とは程遠く、全てが米国任せ。そんなことでいいのか、との問いかけが内外から高まったのです。

前回までに見た様に、日本は「ヒト・モノ・カネ」での対応を迫られた結果、まず「90億ドル支援」という格好で、カネの面でのその場しのぎをしましたが、ヒトの面では、慌てて作った「国連平和協力法」では到底国内での合意が得られなかったのです。その代わりに、国連のもとに存在していたPKO(国連平和維持活動)に着眼しました。この経緯を追うと中道主義・公明党の真価が発揮された最適のケースだったことが明瞭になります。私は当時は直接参画できる立場ではありませんでしたが、後々繰り返し当時の責任者だった市川書記長から聞くことになりました。

5原則導入の見事な闘い

この問題は、発端となった「90億ドル追加支援」から、「PKO法成立」のゴールまで2年かかったのですが、まとめ役として自公民三党の幹事長、書記長がその任にあたりました。ですが、本来中心となるべき自民党の幹事長が、小沢一郎から小渕恵三、綿貫民輔氏と次々と変わっていったため、自ずから公明党の市川書記長が主導することになりました。90年11月8日の自公民三党合意覚書から、91年5月7日の確認を経て、具体的な法制化作業が進められたのですが、一貫して市川書記長がこだわったのは、「PKO参加5原則」を法律そのものに明記し、盛り込ませることでした。つまり、❶紛争当事国が停戦で合意し、停戦協定を結ぶ❷紛争当事国が、国連のPKO 部隊の受け入れを合意する❸国連のPKO 部隊の活動は中立を厳守する❹上記の原則が満たされなかった時は、PKO 部隊の活動を中断、もしくは撤収できる❺武器使用は要員の護身に限る、というものです。

この5原則を法律に盛り込んだことこそ、時の政府の恣意的もくろみや逸脱行為から活動そのものを厳しくブロックすることになりました。反対し続けた社共両党は、PKOを「自衛隊の海外派兵」だとさけび、海外で武力行使に巻き込まれ、やがて戦争に加担することになると国民の不安を煽り立てていました。それに対して、断固として不安を取り除くために固執した結果がこの5原則でした。

全党挙げて展開した大議論

公明党は、この経緯の中で衆参全国会議員が参加する国会対策委員会を頻繁に開き、徹底して党内議論を進めたのです。これがいかに凄まじいものであったか。外交、安保、内閣の三部会合同討議や全員国対委員会の他に、ありとあらゆる機関を使い全てのレベルで党内論議を重ねました。その場に参加できなかった私は、兵庫県選出の先輩議員たちの報告を聞くだけでした。ただし、自分の頭で自らの意見を述べることに徹頭徹尾こだわる市川さんの手法を知っているだけに、手に取るように想像できました。のちに幹事長になる冬柴鐵三さんも当初はPKO派遣に慎重だったようですが、市川さんの前では無残にも論破されました。忙しい折にも関わらず時々激励の電話をいただき、その際に先輩や仲間たちの発言の様子を伺い知ったしだいです。

この党内議論で鍛えられたからこそ、その後の公明党を率いることになる山口那津男、井上義久両氏らの存在に繋がったと言えると思います。逆に言えばその議論を知らない私のようなものは、自ずと党を担う本格的な資格に欠けたという他ないのかも知れません。この間の具体的な成り行きは、『公明党50年の歩み』の第11章に詳しいので、譲ります。これは多くのみなさんに読んで欲しいと思います。というのはPKOを巡っての経緯は、殆どのメディア、論者が上っ面しか見ていず、正しい評価をし得ていないからです。市川さんは後々のメディアでの論評について、ほぼ全てのものに対して「全く分かっていない。デタラメを書いている」と吐いて捨てるように言っていたことを思い出します。丹波實国連局長や有馬龍夫内閣外政審議室長ら、当時法案作成に直接当たった人たちのみが市川書記長の振る舞いぶりを正当に評価していると云えました。また、PKO研究の第一人者の香西茂京大教授や国際法の専門家たる大沼保昭東大教授(当時=故人)らごく少数の学者、研究者たちだけがその価値を知って後々まで宣揚してくれたことは記憶にとどめたいものです。(続く)

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