【47】衆院選で4期目の当選(名簿順位2位)果たすー平成15年(2003年)❺

●マニフェストに、年金の抜本改定案盛り込まれる

平成15年(2003年)の後半は、衆議院が前回の解散・総選挙(平成12年6月25日)から三年が経っており、選挙ムードが漂っていました。各党とも初のマニフェストをつくることに熱心でしたし、野党は民主党と自由党の合併で大きな力合わせをしようとしていました。

公明党のマニフェストの特徴は三つの柱からなっており、第一章が税金の無駄遣いをやめるための方途。第二章が、改革に伴う痛みを緩和するための機動的できめ細かなセーフティネット(安全網)づくり、第三章が新しい平和主義の宣揚です。私が直接担当したのは、第三章ですが、世の中的に注目されたのは年金制度改革での政策の打ち出しでした。当時は坂口力さんが厚生労働大臣、政府における厚生労働行政の最高責任者。そこと連携をしたうえでのものでした。

最終的には年金改革関連法は2004年の6月に成立するのですが、その原型となるものは、この前年の衆議院選挙むけのマニフェストに盛り込まれたのです。

この案の原型となったものは坂口大臣が試案として提起、それを公明党独自の財源案を組み合わせて『年金百年安心プラン』として9月4日に発表されました。ネーミングの絶妙さも相まって、このプランは大いに有権者の評判を勝ち取ることに貢献したといえます。

●衆議院選挙で公明党34議席に。4期目の当選果たす

衆議院の解散は10月10日に。小泉首相は9月20日の自民党総裁選挙で再選を果たしていました。選挙直前に自由党と合併した民主党との間で、「政権選択」が問われる選挙となったのです。11月9日の投票の結果、自民党は解散時の247議席から10議席減らして237議席に後退しましたが、公明党は、小選挙区9、比例区では過去最高の873万票を得て25議席を獲得、合計34議席となることができました。

私自身はこの時は比例名簿の二番で、無事に4期目の当選を果たさせていただきました。近畿比例ブロックの公明党の名簿順位は一番だけが、党外部候補(池坊保子さん)に固定されており、それ以外は毎回変わっていました。二番は後にも先にもこの時だけ。嬉しくはありましたが、当選の感激は薄かったことは正直否定出来ませんでした。この時与党の一角を形成していた保守新党は9議席から4議席に減らし、選挙後に自民党と合併することになります。したがって、自公保三党(最終的には自公二党に)で、275議席を獲得し、絶対安定多数議席を得ることになりました。

これに対して、野党は、民主党が137議席から40議席も伸ばし、177議席としました。尤も、社民党は18から三分の1の6議席に、共産党は20議席から一気に半減し、9議席に落ち込みました。この結果で、はっきりしたのは、民主党と公明党の勝利と、社共両党の惨敗です。自民党は、公明党のおかげあったればこそ辛うじて面目を保ったといえましょう。

●イラクのサマワへ神崎代表飛ぶ

選挙戦が終わるのを待っていたかのように、イラクにおける治安状況は日々刻々悪化していき、とうとう11月末には日本人外交官の二人が、同国北西部を軽防弾車で走行中に襲撃される事件が発生しました。残念なことに二人は死亡してしまったのです。こんな最中に政府は、イラク特措法に基づく自衛隊派遣の「基本計画」を12月9日に閣議決定、18日には「実施要項」を決めました。派遣の日程については、「首相の承認を得て決定する」ことになったことを受けて、公明党としては、派遣予定地を実際に見ておく必要があるとの意向が高まりました。治安状況や支援についての現地のニーズを確認するためです。

神崎代表と遠山清彦代議士が急遽12月16日に現地に向けて出発しました。これについては、後日談ですが、外務省が「行くのは危険だからやめてほしい」「安全は保障出来ない」と相当うるさく食い下がってきたといいます。私は、行って安全を確認したことになると、その後もしものことあれば立場が決定的に悪くなるから、止めた方がいいのでは、と思ったのですが、神崎代表の決意は揺るぎませんでした。

視察日程は16日出発から22日の帰国までの6日間でしたが、実際には、経由地のクウエート滞在が長く、現地サマワは、3時間半だけでした。ですが、この僅かな時間が後々貴重な意味を持ちます。それはそうでしょう。自衛隊を危険な地に派遣するのですから、それを推進する政治の責任者のひとりとして、極めて重要な行動になったわけです。

具体的には、すでに、現地で支援活動に従事していたオランダ軍の司令官の案内で市内を視察する一方、陸上自衛隊が派遣された際の宿営地にも立ち寄りました。この現地視察を通じて、日本国内では窺い知れないさまざまな状況を確認出来て、神崎代表らとしては、「比較的安全であるとの印象を受けた」と記者会見で語ったものです。なお、小泉首相への視察報告については「政府としても緻密な調査を実施して、陸自の派遣については慎重の上にも慎重を期してもらいたい」と伝えました。

●毎日新聞、東京新聞に論評掲載

このイラク事態に私は二紙から意見を求められました。12月26日付毎日新聞と、12月30日付東京新聞に掲載されています。

毎日新聞では、「イラク復興支援で、公明党は人的貢献の必要性を認める立場から特措法を成立させた、ただ、イラクの治安が制定時に想定していた状況から格段に悪化しているのも事実だ。だからこそ、陸上自衛隊の派遣については慎重のうえにも慎重を期すべきだと主張している。私見を言うなら、他の地域と比較して安全と言えるサマワでの万一の犠牲を恐れて行動停止が許されるほど、国際社会における日本の存在感は小さくないはずだ。神崎武法代表のイラク行きには正直驚いた。現地を見たからには責任が一層重くなってくることは目に見えている。それを承知で足を運んだ責任感に、身内ながら敬意を表したい」

東京新聞では、5つの問いに答えていますが、その中で、ひとつだけ紹介したいと思います。

ー「平和の党のイメージと(今回のイラクへの自衛隊派遣容認と)合わないのでは?

私は時代に合わせ進化する平和の党だと言っている。『新しい戦争』の時代に入っている。『古い戦争』は国家と国家が戦った。新しい戰爭は、国家という形態を取らないテロリストがいつ襲ってくるか分からない。攻撃してくる主体がはっきり分からないのに、結果として受ける被害は、古い戦争の時代の局地的な被害と変わらない。そういう新しい戦争にふさわしい、新しい平和観、新しい平和主義が必要だ。それはテロを許さないために、自衛隊の活用を含め、あらゆる手立てを講じるということだ」

一方、公明党内部の党員、支持者からも強い疑念が起こってきていました。それについては公明新聞に私が大胆な見解を提示することで、理解を求めました。(2020-5-29 公開 つづく)

 

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【46】市川元書記長引退と心に残る言葉ー平成15年(2003年)❹

●後輩たちを前にした市川雄一元書記長の引退の発言

市川雄一公明党常任顧問(当時=元書記長)が政界を引退するにあたって、各メディアに取材を受け、発言をしました。それを紹介しつつ、私の思いをも合わせて記してみます。時系列的には、まず公明新聞9月27日付けのものが最初です。これは公明党の現職議員たちを前に引退の挨拶をされた際の発言が基になっています。

市川さんは、公明党書記長になって、まず公明党としての歴史観をどう持つのかを考えざるを得なかったと述べたうえで、「明治維新以来の近現代史、戦後史、東京裁判、憲法などをどう見るのか。あるいは、国家をどう見るのかという国家観、一国平和主義をどう乗り越えるのか、また公明党の平和観をどう作るのか」といったことについて、「絶えず自分の頭で考えて、本を読み、友人と語り、自分の思索を深めて、考え続け」たと強調。聞いている後輩たちに、「そういう骨太の政治家を目指していただきたい」と訴えました。私は常にこうしたことを直接聞いていながら、結局は本を読むという行為は続けたものの、自分の思索を深め、自分の頭で考えることは弱かったと認めざるを得ません。

また、市川さんは、当選した時に、尊敬する先輩から「議員であり続けることを目的にしてはいけない。議員は手段だ。議員という立場を使って何をやるのか、絶えず考えなさい」と激励されたことを引用し、「政党も同じで、存続することが目的ではなく、政党が理想とする政治をどう実現するのかという、手段としての存在が政党だ」と続けました。これを聞いていて、私は「常に何になるかを考えるのではなく、何をするかを考えろ」と市川さんから言われたことを思い起こします。そして、富士山を見て、人に仰ぎ見られる存在に自分もなろうと思うんだ、と激励を受けたことも。

最後に、自民党が長期低落傾向に陥っている原因について、「長年、政権与党で、自民党イコール政府、自民党イコール国家」だったのが、「冷戦が崩壊して、大競争の時代になったのに、政権与党でありさえすればいいと」思い続けたところにある、と強調。「今なんとかそれを改革しようとという小泉総理の真剣さに敬意を表しています」と結びました。小泉首相を就任当初はあまり評価していなかった市川さんでしたが、引退するに当たって、きちっと評価をし直されたことに、さすがだと思った次第です。

●4つの印象に残る仕事について語る

引退に際して、共同通信(10月9日)、讀賣新聞(10月10日)、東京新聞(10月10日)のインタビューに答えて以下のように発言しています。

ー公明党の果たした役割について、どう考えるか?

市川)国連平和維持活動(PKO)協力法は公明党という軸がなければ廃案だった。PKO法が周辺事態法、テロ特措法などにつながった。公明党の力が大きな道筋を与えた。(共同通信)

二大政党は、極端から極端に振れる。公明党が公明党であれば、埋没しない。国民は極端な右、左だけではない。対立軸も必要だが、合意形成の推進力は公明党に期待されている。(讀賣)

→市川さんは議員時代の自分の経験で印象深いのは、PKO 国会の他に、その前年1991年の湾岸戦争における多国籍軍への90億ドル支援と、細川政権、新進党の4つを挙げています。とりわけ、前二者の経験では、日本の命運そのものを自分が背負ったような極めて重い責任を感じたと言っていました。その当時、党内が真っ二つに賛否が割れて、衆参両院の議員が一日に幾たびも議論を繰り返し、ようやく党内の大勢が90億ドル支援に傾いたことを最も重要な思い出に挙げていました。

ー細川政権誕生の意味をどう捉えるか?

市川)自民党の単独支配を崩し、連立時代の幕を開けたことだ。それまで、ロッキード事件などカネのスキャンダルが相次いだが、自民党政権は変わらなかった。細川政権の誕生に尽力したのは、そこに何とか競争原理を導入し、政治腐敗をなくしたいとの思いからだ。(東京)

政権を取る準備をして(細川政権は)できたわけではない。そのもろさが崩壊、短命につながった。政治改革にエネルギーを全部吸い取られた感じだな。(新進党の失敗は)一つの政党になったが、そう簡単に融和できない。政権がとれなかった喪失感が求心力を失わせた。政党は選挙に勝てなきゃあだめだ。(讀賣)

→政治の活性化、腐敗防止を図るために、政党の組み合わせによる競争の原理が必要であり、それこそが小選挙区の導入に至る原因となったと、市川さんは言われた。現実に政治とカネの問題は改善したのかと、記者から聞かれて、「政治家個人への企業献金も禁止され、選挙制度改革がじわじわと効いてきた」と述べています。確かにその側面はあり、いっときよりも政治腐敗は姿を潜めたかに見えます。しかし、派閥はなくなり、かつての自民党内競争の原理が後衛に退いた感がします。しかし、その分、今度は権力の一極化による弊害が出てきていることは残念という他ありません。

●これからの政治への適切な助言

新聞社の要請を受けて、引退の弁を書いたのが朝日新聞(10月10日付)と、日経新聞(10月15日付)に掲載されました。

公明党はいま、改革のための「政治の安定」を与えている。小泉首相が立派な改革を唱えても数の安定がなければ、ガタガタする。政治への「空気」みたいな貢献なんですね。政治の安定は目に見えませんから。野党なら評論家でいいが、与党はそうはいかない。妥協もあるし、「公明党らしさがなくなった」とおしかりを受ける。だが、長い目でみれば、与党としての力量を持った政党に脱皮しつつあると思っている。(朝日)

創価学会と公明党との関係を言えば、結果責任は党にある。学会は支持団体として助言をするが、聞き入れるか聞き入れないか、という主体性は党にあるわけだ。だからその時々の執行部の力量、政党のかじ取りが非常に大事だと思う。今は憲法の議論をやった方がいい。日本人の頭で考え、書いた憲法を作る。作る過程の議論で日本の国家像が生まれてくるのではないか。結果は今の憲法とほぼ同じでも、やる価値がある。議論で政党も政治家も鍛えられ、選挙で裁かれていく、そういう時代が直前に来ている。(日経)

→「改革のための安定」を公明党が自民党に与えていると市川さんはここで述べています。この発言から17年ほどが経った今、安倍自民党はこのことの持つ意味を拳拳服膺してもらいたいものです。いつまでも続くと思うな、「親とカネ」ならぬ、〝公明党のバックアップ〟でしょう。また、憲法についての市川さんの指摘は、公明党の山口代表を始めとする後輩の皆さんにぜひ熟読玩味してもらいたいものです。例えば、動かない衆参の憲法審査会に対してあの手この手で動かす議論をするべきです。どこの政党がやらずとも公明党だけでも、と思います。(2020-5-26 公開 つづく)

 

 

 

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【45】公明党との連立讃える官房長官答弁ー平成15年(2003年)❸

●民主党と自由党の合併問題への警戒感

この年の7月23日に民主党と自由党とが合併に向けて調印をするという事態が起こりました。前年にその動きはあったのですが、両党の内部に反発する声があり、沙汰止みになったかに見えていましたが再浮上し、合意に漕ぎ着けたのです。この動きの背景は勿論、自民党にとって代わるもう一つの勢力を形成したいとの、二大政党制へのあくなき期待が存在します。より具体的かつ現実的な政治的背景を見ると、小沢一郎氏の執念が大きいと言えると思われます。新進党の失敗からしばらくなりを潜めたかに見えていましたが、ここに来て露わになってきたのです。

私はこの小沢氏の動きに対して、7月28日の国会リポートに、「警戒すべき民主・自由合併の動き」と題してこう書いています。

小沢党首の二大政党制への執念と見える試みは、私には少なからぬ衝撃です。この国にはなじまない制度との判断をしてきた身としては、小異を捨てて大同につこうとする小沢氏の挑戦には、若干の違和感を持ちつつも、大いに敬服に値するものと思います。公明党の与党入りの狙いはかねて私の言っているように、手を変え品を替えて、自民党政治の質を変えることにあります。決して自民党に無原則についていくことでもなく、ましてや与党であり続けることにのみ執着するものでもありません。その意味ではベクトルは逆ですが、小沢さんの行き方と、公明党の進み方は同じ意図を持ってるといっていいかもしれません。つまり、自民党を外から変えるか、内から変えるかの違いです。内から帰ることに失敗して、自民党を飛び出した人と、外から変えることの困難さに業を煮やして、連立を組んだ者との差は、口で言うほど簡単なものではないでしょうが‥。

問題は次の総選挙です。二大政党制に向かって収斂する方向に歩みを進めるのか、それとも再びその試みは斥けられるのか。私などは保守対リベラルの理念によって日本の政党は再整理されるべきだと考えてきました。今回のような形の自民党対民主党の対立軸では、例えていえば、「ごった煮対混ぜご飯」の対立のようで、よく分からないとくのが実態ではないでしょうか。つまりは、自民党も派閥の集合体ですが、新しい民主党も結局は旧政党の寄せ集めに過ぎず、理念、政策の隔たりは党内でも少なからずあって、似た者同士ということになります。根幹に及ぶ政策の一致を見ないと、選ぶ有権者の方は戸惑うばかりでしょう。

こう書いたあと、二大政党の対立の奔流の中で、弾き飛ばされないようにすべきだと、警鐘を鳴らしています。この見方はやがて正しかったことがはっきりするのですが、まだいささか先のことではあります。

●川戸恵子さんと国会内テレビで対談

この夏7月4日にTBSのCS放送「国会トーク フロントライン」に私は登場しました。この放送番組は国会記者会館に議員が呼ばれて、川戸恵子さんと対談するというもので、既に前年の7月19日にも出演して、これが2回目。川戸さんは少し年上の姫路出身の記者で、以前からそれなりに面識がありました。私のホームページを楽しみに面白く読んでいるなどと煽てられ、あれこれと話は弾みました。その中で、彼女がイラク支援法について、「有事法制の時と同じように、赤松さんは、小泉さんに厳しくおやりになって、小泉さんの方が完敗じゃないかっていう噂も出てるくらいです。どういうことからああいうやり方をなさったのですか?」と聞かれた。

以下、私の発言のポイントを要約すると次のようになります。

小泉首相は従来の自民党のリーダーが言わないことを言っている。本当に自民党政治を変える気があるのか、それともポーズだけなのか。この辺り、多少揺さぶって、真贋を試そうとしているのです。先だっての質問でも、公明党は与党の一員だけれども、緊張関係を持った関係でありたいということから質問を始めました。基本的には自民党のいいところを伸ばし、悪いところは直させるとのスタンスです。小泉さんには利用する価値があり、選挙になると、小泉さんでないと、与党は勝てないと思っています。そういうことから、前回の質問では厳しくやり過ぎたので、今回は少し手加減するーといった風に、使い分けしているつもりなんです。

随分、偉そうな言い方をしていますが、引き出し方のうまい女性アナウンサーにかかると、こういう発言がバンバン出てくるのでしょう。

●福田官房長官から重大な答弁引き出す

9月30日の衆議院テロ防止・イラク支援特別委員会で、私は福田康夫官房長官から重要な答弁を引き出すことができました。実は、私は質問の冒頭で、二大政党制がいいかどうかを問う前に、自公保政権を選ぶか、民主党政権を選ぶかが問われているが、感想を述べて欲しいといったのです。それに対して、同官房長官は「公明党が(連立政権に)参加してくださり、平和主義とか、国民一人ひとりの考え方を大事にするとか、弱者の視点といった自民党に不足しがちな時点で、国民のニーズを拾い上げてくれている。公明党と連合体をつくって、与党を組んでやってきたことは本当に良かった」と、実に率直に公明党の連立政権参加の効用を述べてくれたのです。

これまで様々な質疑を政府首脳とやってきていましたが、ここまでリップ・サービスをしてくれた人物は、誰もいません。私は答弁を聞いていて嬉しくなりました。思わず、次に立って、「(今の発言は)色んなところで利用させていただきます」と述べてしまいました。このくだりは、『公明党50年の歩み』の中にも引用されています。福田康夫さんとは実はこののち首相になられるまでも、なられてからも、さまざまな意味で深い仲になりました。その経緯についてはおいおい書いていきますので。

●市川雄一元書記長勇退へ

市川雄一常任顧問(元書記長)が次の衆議院選挙では出馬しないで、政界を引退するとのニュースは、すでにこの年の6月初めに明らかに(正式には9月公表)なっていました。公明党の内規である66歳定年を超え、衆議院議員の在職25年の節目を過ぎたことがその理由です。その時点で「現執行部は非常によく頑張っており、私の助言は全く必要としない」、「引退すべき時と判断した」とのコメントを出していたのです。確かに、自民党との連立を公明党が組んでからの3年ほどは、殆ど市川さんの表舞台への登場の機会は減っていました。細川政権から羽田政権への第1期与党時代ともいえる頃の八面六臂の活躍がピークとも言えました。日本共産党を憲法論争で完膚なきまでに論破し、旧社会党を翻弄し尽くす闘いをリードする中で、その日本政治史における輝ける金字塔を打ち立てられた功績は目を見張るものがありました。

市川さんはしばしば、人は得意の絶頂で失敗することが多い、高転びに転ぶものだとの意味のことを言われ、惜しまれて退くのが美しいともよく口にされていました。また、党内で多くの先輩に議員勇退の引導渡しの役割を果たしてこられた手前もあったと思います。まだまだ元気ですし、現役で力を発揮して欲しいとの声は内外に満ちていましたが、本人の強い意志で引退を決められました。

一時代の終わりを感じる寂しさが、わたしにはたとえようもなく迫ってきました。(2020-5-23 公開 つづく)

 

 

 

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【44】政治家生活10年の節目に記念の集いー平成15年(2003年)❷

●逆風の中、統一地方選挙(兵庫)で完勝

この年の4月は統一地方選挙がありました。与党になって初めての選挙でした。サラリーマン本人の医療費の窓口負担が2割から3割へと引き上げられたり、イラク戦争の反対キャンペーンがあるなど、かなりの向い風の中の選挙戦でした。厚生労働大臣が公明党の坂口力さんであったことや、平和の党のイメージが揺さぶられる状況の中だったことなど、厳しい戦いを余儀なくされました。私は、現実政治のリアリズムから目を逸らさず、同時に未来に向けての夢を語りつつ懸命の闘いを展開しました。とりわけ、少子高齢化時代における子育て支援策について述べる際に、男女共同参画社会の早期実現を訴えました。結果的に兵庫県は完勝でき、ホッとしたものです。

ただ、姫路市長選挙は、現職の堀川和洋氏(元海部首相補佐官)に、新人の石見利勝氏(前立命館大学教授)がぶつかる選挙で、公明党など既成政党は現職の堀川氏を応援しました。新人の石見氏は政党の支援を受けないというやり方を貫き、幅広い市民の支持を掴むことに成功したのです。これはまさに予想外のことで、いかに政党という存在が市民から信頼されていないかが骨身に染みました。同時に相乗りの怖さというべきものも思い知ったしだいです。様々な意味でこの市長選挙の教訓は大きく、首長選挙の難しさをつくづく感じました。といいますのも、政党、団体が支持や推薦をしたところで、現場では個々人の好悪の感情が首長の場合は大きく働くため、一筋縄ではいかないのです。

●イラク特措法と自衛隊派遣で毎日新聞に論考

イラク特措法を巡って毎日新聞が自民、民主、公明の三党に論考を求め、石破茂、枝野幸男氏と並んで、私が登場しました。6月30日付け、見出しは、「審議通じ懸念晴らす」。まず、冒頭に小泉首相がアメリカの軍事介入に支持表明をしたことについて、公明党が理解する態度を明らかにしたのは、「国際政治のリアリズムと国益優先」がキーワードだとして挙げています。イラクの大量破壊兵器が未だに発見されていないとはいえ、フセイン政権がかつて保有し、国内での虐殺に使用していたことは疑い得ません、と断定。イラクのクゥエート侵攻から湾岸戦争が始まり、今日までの13年間国際社会を裏切り続けてきたフセイン政権に断罪することは、やむを得ないとして、法案成立に賛成を表明したうえで、国会審議を通じて、この法案が持つ懸念を晴らす、としているのです。

具体的には、武力行使と一体化と見られる任務や国際標準に合わない武器の使い方などに疑念があるとすると共に、戦闘地域と非戦闘地域の区分けの困難さや今後治安が一層悪化した際にはどう対応するかなどの徹底検証が必要だとしています。「非軍事分野での国際貢献活動を自己完結組織の自衛隊が行うことは当然」との解釈を改めて確立する必要がある、との主張が中核の内容でした。

果たして疑念を晴らせたかどうか。今振り返って内心忸怩たるものがあることは否定できません。この辺については後々まで尾を引くことになります。詳しくは後ほどに記すことになります。

●議員生活10年の記念の集い開く

衆議院議員にとって10年は大きな節目であり、乗り越えるべき重要なハードルでした。衆議院本会議場の議員席が隣同士だった太田昭宏さんと、常々激励しあったものです。彼と私は年齢が同じで、議員になる前の職場も一緒、選挙に共に出て一敗地にまみれたのも同じだったこともあって、気が合いました。10年間は落選せずに頑張ろう、を合言葉に頑張ったのです。彼は小選挙区に回り、比例区の私とは圧倒的に厳しい立場になってしまいましたが‥‥。

そういう背景もあって、10周年を記念して(当選したのは平成5年7月18日)、7月11日にパーティーを開催することにしました。その集いを名付けて「10年ひと未来」とし、同名の小冊子を作りました。その巻頭に、以下のように記しています。抜粋してみます。

「無我夢中で走り闘った10年の軌跡を、日々の新聞(掲載記事)から拾ってみることにしました。驚くほどの分量になりました。単に10年ひとむかしの過去を懐かしむのではなく、そこから新たな10年への展望を切り開く思いで抽出し、ここにまとめました。ざっと目を通していただくとお分かり頂けますように、外交・防衛、憲法と一言で言えば安全保障についての主張や発言に関するものが殆どです。  私の好きな言葉の一つに、「10年一剣を磨く」というものがありますが、振り返れば私もそれに近い10年であったと言えましょう。これから次の10年にどう立ち向かうか。長いようで短い10年ー私はこれをあえて〝10年ひと未来〟と表現し、日本が明治維新、昭和の大戦に続く第三の開国期にふさわしい国家の装いを作っていく時期ととらえたいと思っています。政治も経済のありようも憲法もすべて選び直し、新たな国づくりに向かってひたすら前へ、未来へと突き進んで行きたいーこれが私の率直な思いであります」

いやはや、随分と気合のこもったというか、肩肘張った大袈裟な言いぶりです。いかに、10年が重要なハードルであったか、今更ながら赤面する思いです。今振り返りつつ、こうした回顧録を書くにあたって重要な資料になっているのは、たとえようもなくありがたいことです。(2020-5-20 公開 つづく)

 

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【43】「イラク戦争」で悪戦苦闘の日々ー平成15年(2003年)❶

●自公間の国家戦略の違いを超えて

平成15年(2003年)の始めのこと。讀賣新聞のコラム『政治を読む』欄に「公明党」「求められる国家戦略」との見出しが目に飛び込んできました。5日ほど前に私が国会リポートで『国家観の違いをどう乗り越えるか』とのテーマで書いたものが明らかにネタとして使われていました。書いた田中隆之記者は、当時よく私の部屋にきてあれこれと雑談をしていたので、そんな会話の中から閃いたものを生かしたに違いありません。案の定、コラムの末尾には、「今国会では、米国が検討している対イラク攻撃に伴う『イラク復興支援法』(仮称)、北朝鮮の核開発問題や教育基本法改正案などが争点になる。いずれも、国家観、国家戦略といった政治の根本にかかわる問題で、『政権を共にする政党同士が大筋で一致することが望ましい』(赤松正雄衆議院議員)のは当然だ。そのための党内論議を急ぐことが、公明党の責任与党としての成熟につながるはずだ」とありました。

私の発言をアンカー的役割を持たせて使ってくれたのはいいのですが、最後の締めくくり方が気に入りません。自公両党が国家観、国家戦略で一致することが望ましいのですが、そのために、公明党が党内論議を急ぐようにしろとの結論は、私的には不満足でした。つまり、両方の党にとって大事な課題なのに、公明党だけの課題のように言われるのは本意でないと思えたのです。早速に翌日の国会リポートで「国家戦略を求められるのは誰か」と題して、自民党にもその作業を促す論評を掲載したのです。このように、私は部屋に取材にやってくる記者との対話を通じて自分の政治家としてのものの見方、考え方を磨いていきました。かつて市川さんが私を壁打ちの壁にしたと同じように、私は記者を壁にしていきました。この田中隆之記者も、その後政治部長になり、論説委員長になっています。

●イラク戦争勃発に際して関西風問答

3月20日にアメリカがイラクに攻撃を開始しました。このところ不穏な機運が高まってきていましたが、やっぱりかという感じでした。直ちに公明党は、新たな国連安保理決議がないまま、米英軍が武力行使を開始したことは、まことに残念であり、遺憾であるとの党声明を発表、小泉首相が米国などの行動に支持を表明したことについて、神崎代表がやむを得ないものだとの談話を公表しました。これについて、一部野党は公明党がイラク戦争を容認したとか、「戦争賛成の公明党」といった短絡的なレッテル貼りの攻撃を仕掛けてきました。こうした事態に、党員、支持者の皆さんの間でも動揺は否めず、党本部にも批判の声が数多く寄せられました。地方議員も問い合わせへの対応でおわらわの場面が起きてきたのです。

私は直ちに、ファックス版の国会リポートで連日のように、その考え方をオープンにしました。中でも我ながら出色の出来栄えだと思ったのは、「イラク情勢をめぐる関西風一問七答」です。

まず問いは、「戦争はあかん。なんで米国は武力に訴えたんや。フランスやドイツがいうとったみたいに、もうちょっと時間かけて調べて、イラクを押さえこむべきやった。日本も米国べったりにせんと、いろいろ注文つけて説得せんかい」という風に関西弁にしました。答えも勿論、関西弁です。

「そない簡単に決めつけはんな。これは戦争ちゅうても、自分の国の中でも、毒ガスみたいな化学兵器や生物兵器つこうて残忍な殺人をしたり、国連が査察という調査をしようとすると、嘘、妨害、拒否をさんざんぱら繰り返して滅茶苦茶あくどいことをしとう指導者をやっつける懲らしめや」ーこんな感じで、ぜんぶで七つの答えを用意して分かりやすさを第一に、延々と続けました。

すると、東京新聞が『話のタネ』というコラムで「説明責任果たしまっせ」との見出しで、書いてくれました。先にも触れた高山晶一記者です。私のホームページをアドレス付きで紹介して、イラク戦争の解説を書くに至った経緯を説明。想定質問を引用した後で、こう続けていました。

「これは『テロ撲滅介入』みたいなもんで、普通の戦争とちゃうんちゃうか」「日本はいざという時(米国に)守ってもらうことになってるんやで」「北朝鮮ちゅうめちゃな国がそばにいてる日本はのんきにしとられへんで」などと説明している。公明党支持者の間では、イラク戦争をめぐる政府・与党の姿勢に異論も根強いが、赤松氏は関西人らしいやり方で「支持者への説明責任」を果たそうとしている。国民の理解を得るためには何でも試してみるという点は、どこかの首相より、ええんちゃうか」と。慣れない関西弁で締めくくってくれたのには笑えました。

●憲法調査会でも二回にわたり活発に発言

この頃、3月20日と27日の二日間にわたって、憲法調査会が開かれ、「イラク戦争」をどう考えるかについて、自由討議の場が持たれました。その際に私は以下のような発言をしています。

「12年間に17回もの国連決議がありながら、一向に自らの挙証責任を果たそうとしないイラクによって、大量破壊兵器がテロリストの手に渡る公算が極めて高いという現実に脅威を抱くアメリカを、だれが大袈裟だと言えるでしょうか。あの9-11以降、アメリカは変わったということの重みをまだまだ私たちはわかっていないという風に思われます」

「要するに、隠す気で有れば、(大量破壊兵器を)到底探し出すことなど出来得ないということを、私たちは悟ったのです。つまり、圧倒的に小さい、少量で大量破壊、大量殺人ということが簡単に果たせるのです。査察というのは、時間をかければいいというものでもないということを改めて知りました。査察をめぐる多くの誤解があることを、視察を通じて知ったことは大きな収穫でした。」(埼玉・大宮の陸上自衛隊化学学校に視察に行き、秋山一郎校長=元国連化学兵器禁止機関OPCW初代査察局長の話を聞いた、と述べた上で)

「あのボスニアヘルツェゴビナにおける民族浄化という事態に対して、NATOが空爆してからちょうど4年。あれは人道介入と言われましたが、今度は、似て非なるものというか、いや逆に、非だが似ているもの、というべきかもしれません。テロ撲滅介入と、私は呼びたいと思います。戦争はもちろん反対であります。同時に、大量破壊兵器にも反対です。そして、このテロ撲滅介入に立ち上がったアメリカの行動に、悲しみを持ちつつ私は理解できなくはないと言いたいと思っております」

今振り返ると、言葉を大事にしたい政治家としての真骨頂が出ているのではないか、と自分を褒めてやりたい気がしてきます。(2020-5-17 公開 つづく)

 

【43】「イラク戦争」で悪戦苦闘の日々ー平成15年(2003年)❶ はコメントを受け付けていません。

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【42】小泉訪朝、イージス艦派遣などで活発に発信ー平成14年(2002年)❻

●高松市で知った「小泉初訪朝」の驚き

小泉首相の北朝鮮訪問のニュース(2002-9-17)を私が知った場所は、香川県高松市でした。公明党が当時「列島縦断フォーラム」と銘打ち、地域の各種団体、商工会議所の代表、各地方自治体の首長、そして党員や支持者の代表の皆さんらと意見交換をする企画のために訪れていたのです。浜四津敏子代表代行をキャップとするグループの一員でした。その日の日程を終えて、何人かと夕食をするために大衆食堂に入った時にテレビを通じて見たのです。小泉首相の果敢な外交・行動力に驚き、深い敬意の思いがこみ上げてきました。ただ、訪朝全体についての評価は、一週間後の私の国会リポートを見ますと、今後の拉致問題の推移を見ないと定まらない、と述べています。以下、中核部分を抜粋してみます。

「最後の最後まで拉致被害者についての事実を隠してきた挙句、小泉首相ら日本側の強い抗議に対して、一転従来の態度を翻し、謝罪をしました。また、いわゆる不審船を含め、日本国民の安全に不安を与えている行為について、過去に一部の者がやったことだとして、あっさり認めるに至ったといいます」「ですが、これは返って不自然で、むしろ、次のように言ってくれた方が理解しやすいと思われます」と続けています。

「日本と北朝鮮は今なお戦争状態が水面下で続いており、日本を倒すために、工作員の侵入が必要であり、そのために日本語の習得始め工作に必要な能力を培うべく日本人を拉致した。工作船はその行為のために必要であった。しかし、これらを続けることは、もはや経済状況の悪化、慢性的食糧不足による飢餓のため、困難になった。したがって、戦争を仕掛け、危機的状況を日本にもたらすことを断念せざるをえない。国家指導者として自らの責任を痛感する」ーこう言ってくれたら分かりやすいのに、と。あの時の私の正直な気分です。

さらに、「しかし、そうではなく、皆他人事のようにいわれると、いかにも信じがたい」と述べるとともに、「実際に日朝交渉を再開するにあたって、拉致問題について誠心誠意の対応がなされるかどうかが鍵を握っています。日本の過去について謝罪が表明されているのに、北朝鮮の現在についての謝罪がないという平壌宣言の不釣合いがもたらす疑惑を解消するには、拉致被害者が生きて帰ってくることです。それがないのに、しゃにむに国交正常化に向かうことは、さらなる禍根を残すだけ」と結論付けています。この小泉訪朝での「平壌宣言」からもうすぐ20年。結局は拉致問題について曖昧な状況が今なお続いていることは無念というほかありません。

●イージス艦派遣での私の〝賛成論〟が日経社説に

11月に、政府はテロ対策特別措置法に基づく海上自衛隊のインド洋での活動を半年間延長することをきめました。アル・カイーダの壊滅がなされず、ドイツなど21カ国がアフガニスタンに展開する国際治安支援部隊の活動も続いており、戦いは終わっていないのです。そういう状況にあって、イージス艦を派遣することの是非が政治課題として浮上していました。新聞記者の皆さんから、公明党の見解をよく訊かれました。私は、11月11日付けの国会リポートで、自分の考え方をこう述べています。

「公明党の神崎代表が先週の記者会見で慎重論を表明したため、今回のテロ特措法の期限延長に伴って、イージス艦の派遣をすることは見送りの公算が高いものと見られています。私などは、この一年の経験を踏まえて、隊員が不安を感じるといい、イージス艦の派遣でそれが収まるというなら、出すことに反対ではありません。日本のイージス艦によって、より高度な情報収集能力が自前で完結するからです。(中略)日本は集団的自衛権はいかなる場合でも行使しないと、政策判断で決めているとの意思ははっきりしており、イージス艦を送る送らないは関係がないと思います」

これに日経新聞が飛びつき、20日付の社説に書きました。「公明党の赤松正雄衆議院議員は、ホームページ上で、イージス艦派遣に反対でないと書き、公明党内の慎重論の理由を『自民党幹部の中にも根強い慎重論があるなかで、公明党が先走るわけにいかない』と説明する」と。新聞が社説に一政治家の名前まで挙げて解説するということは稀れです。これを書いたのは同紙で外交・防衛分野を一手に引き受けて書いていた伊奈久喜記者でした。同社説は、「結局だれも表立って反対しないにもかかわらず、派遣が決まらない」と続け、「いったん政治問題化した以上、決着させるのは政治の意思である。それが発揮されなかった」と嘆いていました。伊奈さんは蝶ネクタイが似合うお洒落な着こなしの記者で、時々意見を交わす仲でしたが、4年前の2016年に急逝してしまったのはまことに残念なことでした。遺作となった『修羅場の外交交渉術』は読み応えのあるいい本で、もっと生きて沢山の本を書いて欲しかったと思います。

●『外交フォーラム』に私の〝見立て〟が掲載

この頃、『外交フォーラム』なる外交専門誌(田中明彦氏監修 現在は廃刊)の11月1日発行分の『「新しい戦争」時代の安全保障』という特集号の中に、私のことが紹介されました。「9-11の衝撃ーそのとき、官邸は、外務省は」というタイトルの無署名論考です。

「有事法案に至る一連の流れのなかで公明党は、ブレーキ役を果たしてきた。それに変化の兆しがある。公明党衆議院議員・赤松正雄は、有事法案にテロ、不審船などの新たな事態が含まれていないと党内で不満を述べた。党執行部は、有事法案の内容は限定的にすべきだと考えており対立を生じた。しかし、公明党の歴史を見れば、安保政策の現実化の流れは明らかではある。赤松によれば、公明党の歴史は次の三期に分かれる。

第一期は1964年から93年までの長かった野党時代である。反自民の小野党時代である。第二期は93年から99年までの非自民の新進党時代、93年から一年足らず細川・羽田政権で、与党にいた時期を除けば、いわば大野党時代である。第三期が99年以降であり、親自民・小与党時代である。公明党が与党に入ったのは、ガイドライン法と呼ばれた周辺事態法を成立させるためだった。2001年には時限法にしたものの、テロ特措法を成立させた。したがって有事法案など今後の安全保障関係の法制整備に当たっても公明党は大筋で現実的な対応をしていく。赤松はそう見る」ー誰が書いたか知らないけれど、私の見立てをほぼ忠実に再現してくれています。この見方は先年の安保法制の成立に至るまで、ずっと続いていくのです。(2020-5-14公開 つづく)

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【41】アウシュビッツ訪問で受けた衝撃ー平成14年(2002年)❺

●事態対処委員会の一員としてドイツへ

既に幾度か触れたように、有事法制を巡って国会では議論がなされ、私は様々な場面で発言をしていました。そんな折、議論の主戦場たる衆議院の武力攻撃事態特別委員会として、海外調査をする機会があり、メンバーの一員となりました。8月末のことで、訪問先はドイツ、ポーランド、スイスの三カ国でした。たまたま、この年の夏は、ヨーロッパを大洪水が襲い、エルベ川、ドナウ川流域の被害が大きく、ドイツはチェコスロバキア、オーストリアなどと並んで、大きな痛手を被っていました。旅の目的は、ドイツでは、有事法制を巡っての調査、ポーランドではアウシュビッツ収容所の訪問が主なものでした。なお、この旅では個人的都合で、スイスには行かず、単身、オーストリアを訪問しました。

ドイツでは、ポツダム会談の場所となったツェツィリエンホーフ邸で、連邦議会法務委員長のルペルト・ショルツ氏(元ベルリン自由大学教授、元国防大臣)との懇談が印象的でした。有事法制についてのドイツの体験や現状だけでなく、戦後処理やイラク攻撃への対応などテーマは多岐にわたりました。

ここでは、日独の戦後処理比較について、ドイツは戦争責任を明確にしているが、日本は曖昧だとの指摘について、私は日本国内での意見を持ち出してショルツ氏の考え方を聞いてみました。それは、ドイツは全ての戦争責任をナチスのせいにしただけで、国家としての謝罪や責任は明確にしていないではないか、というものです。つまり、ドイツの戦後指導者はやり方が巧みで、日本の指導者は下手だとの見方です。ショルツ氏はそれは誤りであり、ドイツは国としての責任は認めて、イスラエルやユダヤ人への高額の補償をしていると述べました。その上で、日本とドイツの国家イメージを比較されたのは興味深いものがありました。つまり、日本は戦前、戦後で国の有り様は全く変わっていないが、ドイツは新しく国を作ったに等しい、と。これが国際社会で決定的な違いを日独にもたらしたというのです。これにはなるほどなあと思わされました。

●ベルリンでの旧友との再会

実は、このショルツ氏について、前日にベルリン在住の大学時代の友人・梶村太一郎君から「明日君たちが会う予定のエルペン・ショルツ氏は大変な人物だよ。是非、文民統制などについて意見を聞くといいね」とのアドバイスを受けていました。梶村君は同地に住むジャーナリスト。時々雑誌『世界』や『論座』誌上に戦後のドイツと日本の戦争責任などをめぐっての対応ぶりの比較などで健筆を奮っていました。慶應在学中以来、実に35年ぶりくらいで、この時に再会をしたのです。

「ベルリンに住みついてもう四半世紀になるが、ここが気に入っているのは、この国で一番都会だからね。あとは全て田舎だよ。日本に比べて全く自由だし、気軽なことこの上ないよ」と言ってたことを思い出します。在ベルリンの各紙特派員との記者懇談会にも彼は同席していました。そこで、私は、今回の我々の旅の目標は、有事法制の整備状況だけではなく、戦後処理や歴史認識についてのドイツと周辺国との関係を調べることにある、と発言しました。これは彼を十分に意識してのものでした。

●やりきれぬ思いになったアウシュビッツ訪問

この視察旅で、大事な目的の一つは「ベルリンの壁」を見ることでした。既に一部を遺して撤去されています。私はかねてヨーロッパを舞台にした冒険スパイ小説に嵌っていて、ジョン・ルカレの『寒い国から帰ってきたスパイ』や中村正軌の『元首の謀反』などを読み、「壁」を生で見たいとの思いを強く持っていました。この時に現地に足を運んでの率直な感想は、意外に壁そのものが薄かったことでした。壁の裏側には、ナチスの秘密警察・ゲシュタポについての写真が展示されており、訪れた人々の目を奪っていました。アジアからの訪問者としては、南北朝鮮を隔てている〝38度線の境界〟に想いをいたさざるをえず、ベルリンと同様に消える日の遠からんことを祈ったものです。

さて、この旅のもう一つの柱は、ポーランドのアウシュビッツ訪問でした。第二次大戦中に、ナチスによって、ドイツ占領下の各地から、ユダヤ人、ジプシーたちをはじめとして、28民族、150万人もののぼる人々が次々と送り込まれて殺害された地です。ポーランドの首都ワルシャワから空路1時間、世界文化遺産にも指定されている古都クラクフから、さらに車で西へ54キロほど走ったところに、それはありました。

当時、日本語を使うたったひとりだけのガイド(中谷剛さん)が、真っ先に人間焼却炉の前に私たちを案内し、こう言いました。「毒ガスによってここで焼かれ、灰にされたという事実を知っていただければ、あとはもう説明などいりません。これで帰っていただいてもいいくらいです」と。囚人を鞭打つ台、監禁室、移動絞首台、飢餓室、さらには立ったまま身動きが取れない立ち牢など、およそまともな神経では考えられない悪知恵の限りを尽くした拷問の展示室のようなところに足早に案内してくれ、口早の説明を受けました。通常なら半日くらい、最低でも2時間はかけないと全体像が見えないと言われるところを、1時間で回ったのです。

ナチスが収容所から没収した生活用品などがガラスのショーケースに入った形で公開された建物でも息を呑みました。おびただしい数の衣服。身の回りのものを入れてきたであろうトランク、靴やブラシ。さらには遺体から取り外されたであろう義足や義手、メガネ。また、一見何だかわからなかったのが髪の毛の山。そこには三つ編みのお下げ髪まで。これらはもちろん一部で、現実には換金されたり、カーペットなど織物に化けたりしたといいます。

廊下には収容者の顔写真が展示されていました。一様に精気を感じることが出来ないものばかり。それでも絶望やら恐怖を窺わせる表情がなかったように思われたのは、収容所に着いてすぐとったものだからでしょう。未だ一縷の希望を持っていたに違いありません。まとめて毒ガスで殺され、捨てるのに面倒だから、焼却されるとは思っていなかったはずです。

やりきれぬ胸潰れる思いになった私は帰り道に、ようやくガイドの中谷さんと話す機会に恵まれました。「ポーランドにはいつから」「旧ソ連が崩壊し、東欧が次々民主化する前からです」「この仕事には」「5年ほど前から。もちろんこれ以外の仕事もしているのですよ」「日本人は大勢訪れますか」「ええ」

終始一貫暗い表情を変えずに、淡々と事実を述べていく彼に、もう少し脱線したり、明るい雰囲気でと、つい思ってしまいました。それではここで起こったこととの落差が大きすぎます。一切余分なことを拒否する峻厳な雰囲気が彼には漂っており、今でも深く印象に残っています。(2020-5-11公開 つづく)

 

 

 

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【40】「たったひとりの反乱」騒ぎに発展ー平成14年(2002年)❹

●「連立離脱」騒ぎを引き起こす

5-27から三日間、私はホームページの国会リポートで予算委員会集中審議の模様を上中下と三回にわたって克明に報告しました。見出しを並べますと、「体調不良か、超変人かー小泉首相の不可思議」(上)、「もはや『倒閣』に加わりたい気分」(中)、「難民問題に確たる方針なき現状あらわに」(下)といった具合です。このリポートを始めて3年あまり、回数にして180回を越えていました。少々調子に乗っていたかもしれません。確かに小泉首相は前回に見たように、新聞報道でもちょっとおかしいとの空気は漂ってはいました。ですが、「もはや『倒閣』に加わりたい」というのはいささかオーバーです。しかし、書いてしまったものは取り消せません。新聞各紙が飛びついてきました。

5-29、5-30付けで各紙がいっせいに書きたてました。「倒閣」に加わりたい 首相答弁に怒りー公明・赤松氏HPで(読売)、倒閣に加わりたい気分ー公明議員、ネットで首相批判(日経)、「熱冷めた」倒閣を宣言ー公明・赤松氏 HPで首相批判(東京)、公明・赤松氏「倒閣」宣言?ー鈴木氏問題首相答弁に不満(毎日)

これだけではありません。朝日新聞は、「さえない『盟友』」とのタイトルでのたたみ記事に、小泉首相 途切れる答弁、意味不明ー疲れたまってる?との見出しで、私とのやり取りを紹介。「赤松正雄氏の鈴木宗男代議士に関する質問に、なぜか瀋陽総領事館事件を持ち出して『非常事態にどう対応するのか、心構えが必要だ』。与党の一員の赤松氏ですら、自分のホームページに『でたらめな答弁』と書き込まざるをえなかった」と書きました。また、産経新聞は、どうしたの!?小泉さんー精彩欠く答弁/マスコミにも恨み節 公明・赤松氏「倒閣したい」ー与党から失望の声、との見出しで、事細かに報道しました。

●首相から間接的謝罪の弁届く

勿論、当選3回の人間が「倒閣」云々をひとりで口にしたところで、どうにもなるものではありません。ですが、そこがIT時代の微妙な側面で、一気にメディアに材料を提供してしまったということです。産経は、「党としてではなく、私個人の『反乱』」だと私のコメントを紹介しながら、「首相と公明党の微妙な関係も印象づける出来事といえそうだ」との論評も加えたのです。

この騒ぎは、首相からの間接的発信で一件落着しました。29日の夜に、「答弁に不満があるということなら、私の不徳の致すところかな」「質問が一つではない。前段、中段、後段があって、どれに答えればいいか全体を考えているもんですから」と釈明ととれる発言があったのです。讀賣新聞が30日付けで、「記者団に答える形で陳謝した」、と一段記事で書きました。尤も、同首相は、30日の昼に、公明党の中堅、若手議員と官邸でカレーを共にしながら懇談した場で、「あの時はヤジがひどくて、それをやり返したんだ。赤松さんは勘違いしたんだ」と釈明したと、東京新聞が掲載しました。この場に私は呼ばれていず、後で知ったのですが、結局はうやむやになったというところでしょうか。

この事件も、ひと段落がついた6月半ばになって、讀賣新聞が「政界投光機」というコラムで、「連立と独自性ー公明若手の『折り目』」という記事を村岡彰敏政治部次長が書いています。

小泉首相と私との行き違いについて触れた後、「その後日談である」、とした後にこう続けています。「赤松氏は、冬柴幹事長ら党幹部に、『不満があっても表に出すものではない』と注意された。ところが支持者からは、『よく言ってくれた』『非は非とすべきだ』という激励のメールが相次いだ」と、さらに「今月7日の公明党衆院議員団会議で、赤松氏は確信を持って主張した。『政治とカネをめぐる不祥事は、政治に清潔さを求めてきた公明党の過去を消し去るほど惨憺たる状況だ。連立のパートナーであっても、言うべきことを言わないと、やみくもに自民党を守ることになってしまう』」「公明党が自民党と連立を組んで二年半が過ぎた。政権の円滑な運営のために与党の連携を維持しつつ、どう党の独自性を打ち出すかは『永遠の課題に違いない』」「ここで注目すべきは、赤松氏の言動の底にのぞく自民党観と、政治構造の流動化の予感だ」と。

村岡記者は、このコラムで、公明党の中堅・若手の描く戦略は、〈今のうちに政策や政治姿勢における自民党との違いを明確にし、いわば『折り目』を付けておく。自民党の分裂や総選挙敗北など不測の事態によって連立解消に至れば、その折り目できれいに離れ、新たに政権を目指す〉ものであると、いささか大胆な予測をしているのです。私以外の公明党の人間にも取材をしたうえで、こういう結論に達したものと思われますが、まあ、「当たらずといえど遠からず」というよりも、〝当たらぬうえに近からず〟との感想を当時抱いたものです。この村岡記者はその後敏腕ぶりを発揮して、政治部長などを経て、今では同社の経営管理担当の副社長になっています。

●有事法制めぐりNHK日曜討論に出演

この頃、国会の内外で有事法制をめぐる議論が大きな争点になっていました。NHK テレビの「日曜討論」では、反対の立場が鮮明な社共両党に私は議論をふっかけたことが印象に残っています。例えば、共産党には、「我々与党は、滅多にないことであっても、万が一、外国から攻められたら、どうするか。いわば使ってはならないものを作っておく必要があるとの姿勢だが」、と前置きしたうえで、「あなた方共産党は、有事法制そのものに、反対なんでしょうか。二年前に日本共産党は、七中総で、いざという場合、自衛隊を使う必要がある場合には、使い方を考えねばならないという趣旨の決議をされていますが、それはどういうことなんでしょう?」と。

また社民党には、(抑止論は)古臭いとの発言をされたけれど、先週この場に出られたあなた方の党の人は、要するに、何も持たないのが一番いいという言い方をされていたけれど、それこそ古い考え方ではないのですか?」といったように。

●社共両党の安保観を問いただす

また、同じ頃、衆院憲法調査会では小委員会で、自由討論をしました。5月9日には共産党議員に、6月6日には社民党議員に、それぞれの党の安全保障観を問いただしました。これは、私の国会リポートで克明に一部始終を報告しています。それぞれとの細かな議論を掲載した後で、寸評をしており、注目されます。まず、共産党については、「中立自衛で、戦力や軍隊は持たない。しかも自衛隊は違憲という。そのくせ、なくすかどうかは別途考える。これではどうも分からない」と。

次に社民党については、「非暴力抵抗は美しい。実に。しかし、現実の責任政党としての政策選択肢は、そのような非現実的路線でいいのか」と。

今では見る影もない両党ですが、当時はそれなりに存在感がありました。それだけにこういう論戦が意味を持ったと思いますし、わたし的には手応えを感じたものです。(2020-5- 8 公開 つづく)

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【39】小泉首相との真剣勝負とハプニングー平成14年(2002年)❸

●小泉首相への初質問に立つー「季節外れの大雪現象」論を披歴

小泉純一郎首相に対する質問をする機会がようやくやってきました。5月9日のことです。武力攻撃事態法案などのいわゆる「有事法制」3法案を審議する特別委員会の場で、私は二日目のトップバッターとして立ちました。これは40分間、テレビ放映されました。実は、この質問は小泉さんが首相になってほぼ一年後に実現したもので、私としては満を持しての出番でした。冒頭に大要以下のような趣旨の発言をしました。後々このくだりを、色んな場面で使うことになります。自分としてはよほど気に入っていたに違いありません。

ー小泉総理の登場は、昨年の4月26日でしたが、様々な意味で話題を呼びました。それは、あたかも季節外れに大雪が降ったようなものでした。古い自民党政治の汚さをあたかも白い雪が覆い隠すかのように思えるものでした。しかし、雪はいかに積もろうが、必ず溶ける時がきます。雪は溶けると、かえってそれまでよりも汚い姿が露出してきます。今まさに一年が経って、当時の雪は溶けてしまい、かえって汚い姿、つまり自民党の醜い政治がむき出しになってきています。それを今度は大水で流さねばなりません。総理がそうされるなら、公明党はしっかり支えていきます。ー概ねこんな感じでした。

一年前の華やかなデビューは、季節が外れてから降る大雪のようだったけれど、結局私が懸念した通り、汚い地肌が出てしまい、自民党本来の姿がむき出しになってきたではないか。ここで一気に、大水で流しさる必要がある。その場合のセーフティーネットを張る役割は公明党が果たすから、やるべきことをやれと言いたかったのです。ただし、小泉さんだから(小さな泉の意)、あまり(流れは)大きくならないか、と余計な一言も忘れずに付け加えました。

●国際情勢をめぐる三つの視点を提示

有事法制関連法案に入る前提として、私は小泉首相に❶米国に言うべきことをきちっと言うべし❷アジアへの心配りを忘れるな❸日本独自の外交を展開せよーの3点を強調しました。❶については、日本はとかく米国にはものを言わないで追従する傾向がある、と。そうであってはならない。これはあたかも自民党と公明党との関係に似ているとの声があると、日米と自公とを対比させて質問しました。小泉首相は、自席から「そんなことない、公明党は言いたいこと言ってるよ」とヤジっぽく発言をした後、答弁席に立って「日本政府は米国にもどこに対しても言うべきことは言っている」と強弁しました。❷について私は、靖国神社への首相の参拝が「対中緊張」感をもたらしているとの観点から、配慮を怠るなと言ったのです。首相は、日中互いの立場があり、靖国神社に参拝することが、「日中友好を妨げるものではない」と述べました。❸については、具体的には、公明党がかねてから国連機関を沖縄に誘致するよう提案していることを挙げ、実現への努力を求めました。首相は、難しいが検討を重ねたいと従来からの姿勢を強調するだけにとどまりました。

本題の法案審議については、福田康夫官房長官とやりとりをしたあと、小泉首相に集団的自衛権問題については、「やれること、やれないこと」の整理をきちっとするべし、との私の持論を述べたうえで、首相の見解を求めました。首相は、人それぞれ色んな解釈や考え方があり、自民党内でも様々な角度から研究して欲しいと言っていると述べました。初手合わせは、私があれこれと持論の披歴をするばかりで、あまり噛み合った議論にはならなかったとの記憶があります。ただし私としては、言いたいことを言った満足感はありました。

●ハプニング招いた二度目の首相質問

二週間後に開かれた衆議院予算委員会(5-22)で、再び小泉首相とTV中継付きで質問することになりました。ロシア支援委員会問題と瀋陽総領事館事件の二つをテーマにした集中審議でした。前者は、鈴木宗男氏のロシア支援にまつわる証人喚問などを受けてのもの。後者は、中国の武装警官が瀋陽にある日本の総領事館に立ち入り、亡命を求めた北朝鮮住民を連行した事件です。実はこの時の私と小泉首相とのやり取りは少々変でした。実はその辺りについて、日刊ゲンダイの記事(5-24 付け)が、「小泉首相 飛び交う重病説」との見出しでこう報じたのです。

小泉首相のきのう午前の国会答弁は、誰が見てもおかしかった。公明党の赤松正雄衆議院議員が、「鈴木宗男問題は特殊な人物がたまたま起こした出来事なのか、それとも他に原因があるのか」と、〝宗男問題〟について質問。小泉首相の答弁は、こんな調子だった。

「鈴木問題と、今回の瀋陽、ロシア支援委の外務省の対応は相手国も違うし、いろいろ問題もあるが、私はご指摘の対応ぶりというか‥‥(沈黙)外務省の‥‥(沈黙)大きな問題もあるとの指摘については、私は確かに指摘の点もあると思うが、要するに、普段から‥‥(長い沈黙)非常事態にどう対応するか、心構えが必要だ」いったい何を言いたいのか支離滅裂。さすがに「何を聞かれているか分かっているのか!」とヤジが飛び、質問者の赤松議員が「総理、ちょっと、お疲れのようで」と気遣ったほど。

この記事、議事録と照合しても、(見出しはいささかオーバーですが)、ほぼ正確。こうした夕刊紙に特有の誇張や誇大表現が使われているわけではありません。いやむしろ現実はもっと深刻で、新聞は少し自制を効かせすぎているとさえ思えました。なぜかというと、小泉さんは二つの問題を取り違えてしまっていました。私が鈴木宗男問題を訊いたのに、瀋陽総領事館事件についての外務省の対応ぶりを答えていたのです。私は限られた持ち時間(35分)なので、それ以上こだわることは避けようとしました。すると、後ろの野党席から「きちっと答えろ」「(質問)止めるな」「もっと分かりやすく質問しろ」と猛烈なヤジが飛び交いました。

あまりにうるさいので、私は「後ろのヤジに答えるわけじゃありませんが、もう一度今の前半部分のことにお答えいただきたい」と再質問しました。すると、小泉さんは「私ははっきり答弁しているつもりですよ。具体的に言っていただければ、はっきり答弁しますし、抽象的な点だったら、抽象的に答弁します」ーこの答弁で私は少々切れてしまいました。自分がでたらめな答弁をしておきながら、開き直って、はっきり答弁してるといい、そのうえ、「具体的に」という。要するに、私の質問の仕方が抽象的だと言わんばかりだったのです。しかし、その後は態勢を立て直して、最後まで質問しました。ですが、終わってから、私の気分が収まらなくなってしまったのです。5日ほどが経っていましたが、ホームページに心情を吐露してしまいました。それが飛んでもない波紋を呼ぶことになってしまったのです。(2020-5-6公開 つづく)

 

 

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【38】雅子皇太子妃殿下との神戸での語らいー平成14年(2002年)❷

 ●阪神淡路大震災を記録する防災センターが完成

この年、平成14年(2002年)は、阪神淡路の大震災からあっという間に7年が経っていました。未曾有の犠牲者と大災害をもたらした、あの震災の全ての記録を残そうと、「人と防災未来センター」が神戸市内に建設されました。4月21日にオープニング式典、その前日にレセプションがあり、私も出かけました。レセプションの場に、皇太子ご夫妻がご出席されていて、参加者と短い時間ですがお言葉を交わしていただく機会がありました。お二人の間隔は少し離れた位置にあり、二筋の人の列が出来ました。私は雅子妃殿下の列に並び、順番が巡ってきた際に、二つのことを申し上げました。

一つ目の話題は、小和田国連大使(当時=妃殿下の父上)について。一度だけ飛行機内で隣り合わせになった時のことです。飛行機が離陸後、安定飛行状態に入り、食事を済ませられると、同大使はあっという間に、睡眠態勢に入られ、目的地のワシントンに着くまで、そのままの状態で眠り続けられたのには驚いた、と言うことを伝えました。旅慣れぬ私など、文字通り悪戦苦闘して、寝付けなかっただけに、極めて印象に残りましたと申し上げると、妃殿下はにっこりされて「あの人はどこでも寝られる人なんですよ」と言われたのです。

二つ目は、私の後輩の山本かなえ参議院議員が元外務省の職員だったので、同じ職場に勤務されていた妃殿下はご存知かどうか、聞いてみました。すると、「よく存じ上げていますよ。頑張ってくださいとお伝え下さい」とのご返事。まことに他愛もないことを話題にしてしまいましたが、実に丁寧にお応えいただき、嬉しい思いを抱いたことをよく覚えています。

大震災から7年。ようやく復興へのメドがついた神戸にそれまでも幾たびか足を運んでいただいたお二人の温かいお心に、心より感謝する思いを抱いたひとときでした。

●集団的自衛権問題で『世界週報』などに論文

また、この頃、集団的自衛権をめぐる議論も活発に行われ、私も様々な主張を各種の媒体に提起しました。そのうちの一つは『世界週報』4月16日号です。タイトルは「集団的自衛権を認め『やれること』『やれないこと』の明確化を」です。また、もう一つは、産経新聞の『私にも言わせてほしい』欄で「武力行使の一体化」をテーマに論考を寄稿しました。

『世界週報』の論文は、憲法を拡大解釈する勢力(いわゆる改憲派)と、憲法を縮小解釈するグループ(いわゆる護憲派)との二つの立場が、適正な解釈を妨げることになっていることを、4頁にわたってわかりやすく述べたものです。自分としては、出色の出来栄えだと今なお自賛できます。憲法の「改正」の是非を問う前に一度整理しないと、結局は「神学論争」と言われたり、逆におおざっぱな飛躍した論争だと言われてしまう、との趣旨です。

イメージ図を掲げつつ、以下のように表現しました。

憲法の適正解釈を正方形で表す。それを包む大円を描く際に、四隅にできる空間が拡大解釈部分を意味する。一方、正方形の中に小円を描くと、やはり四隅に隙間ができる。これが、縮小解釈部分を表現するわけだ。(図参照=ここでは省略)  あくまでイメージだが、これが長く日本の憲法や安保論争において取り沙汰されてきたもののポイントではないかと思う。このうち、集団的自衛権を巡って、今の憲法9条の規定ですべて認められるとすると、それは拡大解釈であろう。つまり、認められるものと、認められないものがあるということで、すべて認められないというのは、逆に縮小解釈であるということなのである。

このあと、具体的な例として、「9-11」のテロ事件に際して、NATOが発動した集団的自衛権の行使のように、アフガンに直接的な戦闘行動に参加することは、拡大解釈であり、後方地域で武器・弾薬の輸送を支援することなどを、武力行使と一体化と見なすのは縮小解釈だとしています。

産経新聞のコラムは、田原総一朗氏の「サンプロ」での発言や「週刊朝日」の記事に対する反論を書きました。周辺事態法は戦争法ではないのかとの批判に対して、「紛争に巻き込まれたら、その時点で業務を中断する、その意味では戦争に参画するものではない」と述べています。また、武力行使の一体化という概念については、「実力をもって阻止する行為そのものと、それ以外のものとは、区別した方がいい」と述べる一方、周辺事態法における対応については「憲法9条と前文の双方の精神を生かしつつ、日米同盟のきずなを強化していく『知恵』が働いている」と強調しています。

●安全保障問題議員訪米団に参加

安全保障問題を専門とする議員の訪米団の一員として、GWの只中の4月30日から4日間、ワシントンを訪問しました。これは「日米安全保障戦略会議」設立に向けての米政府関係者との意見交換と、ヘリテージ財団主催のシンポジウムへの参加などが主な目的でした。一緒に参加したのは、瓦力、久間章生、額賀福志郎、井上喜一、東祥三、末松義規氏らです。

この時のシンポジウムでの私のスピーチは、「世界同時多発テロと2つの失望」と題するものでした。一つは、ブッシュ米大統領が沖縄の米軍基地の縮小を言っていた(選挙戦で)が、「9-11」の結果、後退せざるを得ないこと。二つは、テロ対応として、これ以上の支援を日本に米国が期待されても期待外れに終わること。加えて、沖縄の米軍基地問題に触れ、日本は日米安保条約に基づき、ホストネーションサポートをしっかり行うが、米国はもっとゲストネーションマナーを弁えて欲しいと、強調しました。これは、米兵による婦女暴行問題、環境問題、軍事演習のあり方などを巡って傍若無人的行為が日常茶飯事であることを意識したものです。日米地位協定の差別的あり方に根源があるものですが、私はシンポジウムでだけでなく、米側との懇談の場でもしっかりと訴えました。

こうした言うべきは言うという私のスタンスは、少なからぬ反響を呼びました。旧知の各社現地特派員のお世辞的発言はともかく、米国に住んで40年が経つという沖縄出身のヴィクター・E・オーキムさんから、「沖縄に対するあつい心をお持ちのお話を聞かせていただき、感動いたしました。本当に嬉しかったです」との感想をいただきました。これにはこちらも感激しました。

この訪米は知日派として知られるアーミテージ国務副長官とも懇談する機会に恵まれるなど、なにかと収穫の多い旅ではありました。ですが、讀賣新聞の柴田岳特派員から、「多くの日本の国会議員が団を構成して訪米してくるけど、本当は個人で来られるべきですよ。そうでないと、実りある日米議員交流にはならない」と、きついアドバイスをいただきました。シンポジウムの時に、聴衆のひとりとして後部上方の座席にでんと座っていた彼のでかい身体に大きな懐かしい顔が、この言葉と共に、今もなお印象に残っています。(2020-5-3  公開 つづく)

 

 

【38】雅子皇太子妃殿下との神戸での語らいー平成14年(2002年)❷ はコメントを受け付けていません。

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