「戦後の平和」を生きてー第1部昭和編のあとがき(51)

昭和20年(1945年)に兵庫・姫路で生まれた私は、神戸を経て東京で暮らし、昭和63年(1988年)にまた故郷に還ることになりました。昭和という時代は、一般的に戦争で人生が分断された暗く厳しい世であったとされがちです。ただ、私の世代は文字通り「戦争を知らない子供たち」のトップランナーとして、荒廃から繁栄の右肩上がりの旨味を存分に味わってきました。明治生まれの父、大正に生を受けた母ー先輩世代の限りない辛苦のおかげで得た果実を真っ先に手にいれたのです。
50回にわたって私の少年期から青年期を回顧してきました。上京した19歳の時に
友人の下宿先で創価学会の座談会に出たことが、その後の人生の分岐点になりました。青雲の志を抱いて故郷を後にした人間が、いきなり日蓮仏法と出会い、池田大作先生という人生の師匠との巡り合いに繋がっていったのです。戦争の時代から平和の時代へー昭和史の大転換を池田大作という稀有の指導者の弟子の一人として、いわゆる「戦後民主主義」と呼ばれる時代を生きてきました。ここでも先輩世代の壮絶な労苦ゆえを様々に実感します。
高度経済成長の果てのバブル経済絶頂、そしてその破綻。昭和期の最後は〝いま再びの敗戦〟とさえ言われかねない経済的状況を迎えるに至りました。個人の幸せと社会の繁栄が一致する社会を作る、戦争のない平和な社会を目指すとの旗を掲げて誕生した公明党ーその機関紙・公明新聞の記者として懸命に生きた約20年。この時間を糧にして、次なる平成の世にどう立ち向かったか。経済的には〝失われた10年から20年〟と、否定的に捉えられ、社会的には「大災害の時代」とまで揶揄される次なる時代。令和の幕開けと共に、幕を閉じた平成の私の回顧録をやがて50回にわたって綴る予定です。

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ある夏の日突然にー故郷の姫路から衆院選出馬へ(50)

昭和63年春。それまで糖尿病や膀胱癌などを併発していた父の病状が悪化してしまいます。そして、とうとう4月2日に亡くなってしまいました。78歳でした。母の時と同様、またしても今際のときに間に合いませんでした。まさに親不孝者です。母の時とはまた違った深い悲しみで、しばし呆然としてしまいました。ただ、父は信仰を見事に貫いての足かけ13年間を過ごしました。その道に誘った息子の私として、いささかの満足感はありました。「お父さん、長い間一人で頑張ったな。これでようやく母さんと会えるね」と。地域の同志の皆さん始め多くの人に見送られての大往生でした。

その後、8月の後半だったでしょうか。事務所に一本の電話がかかってきました。市川代議士からです。党と学会の連絡会議に出ておられたはずでした。その時の声は珍しく興奮気味に聞こえました。
「赤松君、大変だよ。今日の会議で、君の名前が衆議院議員の候補にあがったよ。兵庫4区の新井彬之さんが体調悪く、次回は出られないので、そのあとだ。びっくりしたよ、ともかく知らせておくが、詳しくは帰ってからだね」
秘書として悪戦苦闘していた私にそんな話が舞い込むなんて。まさに青天の霹靂以外の何ものでもありませんでした。

議員会館の部屋で市川代議士と向き合いました。そのとき、こう言われたのです。
「君を私の秘書にしたのは、そばに置いて訓練するつもりだった。せっかく今日まで支えてくれたのに、君を衆議院候補に取られるのは正直言って、困る。だが、君の人生において、衆議院議員になれるかもしれないという、こんなチャンスは滅多にない。チャンスは前髪を捕まえろという。一回限りの君の人生だ。ようく考えて自分で決断しろ。繰り返すけど、私はこのままそばにいて欲しいというのが本心だ」

この優しい呼びかけに対して、私は迷うことなく、即座に答えました。
「ありがとうございます。出させてください。大した力はありませんが、生まれ故郷姫路を中心とする選挙区から衆議院議員に出られるなんて、願っても無いことで、本望です。よろしくお願い申し上げます」
無鉄砲というか、お調子ものというべきか。逡巡などせず、これはチャンスだと思ったのです。苦笑いしていた市川さんの顔が印象に残っています。「そうか、出るか。いなくなるんだな。仕方ないな」

こうして〝市川学校〟をわずか一年半ほどで中退することになってしまいました。私を代議士候補に推薦してくれたのは、野崎勲副会長(元青年部長)だったと聞きました。かつて、野崎さんから「太田君と井上君という君の仲間を二人とも本部に引っ張って、君を引っ張らず、悪いな」と言われたものですが、その時に私は、「いえいえ、私は公明新聞が向いています。それに何より市川さんが好きですから」と即座に答えていました。このことが頭に浮かんできました。

ここから、半年間。候補として、姫路に帰るまでは準備に大わらわとなりました。まず、選挙区で動くには車の免許を取得せねばなりません。43歳の年まで、自動車の運転はおろか、恥ずかしながら自転車にさえ乗ったことがありませんでした。まずは自動車教習学校へ通わせてもらうことになりました。武蔵小金井の尾久自動車学校へ通いました。ところが、実地はともかく、実は筆記試験に苦労するのです。二回落ちてしまい、市川さんから「お前、本当に学校出てるのか。うちの家内でさえ一回も落ちずにパスしてるぞ」と叱られました。11歳の娘にも笑われたのですが、車の筆記試験は難しかったというのが本音です。ともあれ年齢分だけの43万円かかって、ようやく晩秋には免許取得にこぎつけました。
一方、妻の慧子も遅れて免許を取るために、同じ自動車学校へ。こっちはすんなりと通りました。彼女は元々3歳の頃から、ピアニストになるべく、英才教育を受けて育ちました。桐朋音大付属高校に入学し順調にその道を歩んでいましたが、私との結婚でその後の道は閉ざされてしまっていました。辛うじて、ピアノの家庭教師をしてはいましたが‥‥。前途多難の私の選択に、妻も不承不承でしたが、未だ知らぬ夫の故郷姫路へと、旅立つ決意を固めてくれたのです。

東京創価小学校での秋の行事に、私たち夫婦が珍しく参加したときのことです。池田先生の奥様に思いがけずにお会いでき、お話を交わす機会に恵まれました。「この度、兵庫・姫路に帰ることになりました。娘は残念ながら、卒業しても関西創価中学には進学出来そうにないのです」とご報告しました。「そうねぇ。姫路じゃあ遠くて無理よね」と言ってくださり、「頑張ってね」と激励の言葉まで頂きました。

こうして、昭和63年の暮れに、私はひとまず単身で(翌年家族も)帰郷しました。新しい人生の船出に向かうことになるのです。

【昭和64年(1989年)1月 昭和天皇没 皇太子明仁親王即位、平成と改元】

※これで私の回顧録第1部昭和編は終わります。第2部平成編は、元年1月から衆議院選挙に立候補する準備をスタートするところから始まります。いよいよ、政治家としての回顧録に取り掛かります。しばらく、執筆の準備に時間をいただき、夏の終わりにも連載を開始する予定です。引き続きご愛読のほど宜しくお願い申し上げます。

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昼は秘書、夜は壮年本部長として(49)

この年、昭和62年(1987年)、私は中野区で壮年部の本部長という大事な立場をいただいていました。担当は鷺宮方面です。信頼し尊敬していた富岡さんの後を受け継ぎました。婦人部でコンビを組んだのは、時計店を営む小野沢徳三さんの奥さんの千代子さん。エネルギッシュでよく気のつく素晴らしい女性でした。ご主人は無類の優しいお人柄の信仰心厚い人でした。よく車の助手席に乗せていただき、区内を回ったものです。一年の短い期間でしたが、地区部長(副本部長兼任)をやったあとのことです。より大きな舞台で、責任ある立場で身が震える思いでした。

この立場で忘れられない思い出は、公明党の区議選において、支援母体側の責任者として、選挙支援活動の指揮をとったことです。候補者は西村孝雄さん。この人は東北大出身で公明新聞記者の大先輩。このとき48歳。満を持しての区議への転身をされて既に3期目。そういう大物を引き続き政治家に押し出す責任を担ったことは、本当に緊張しました。信仰の道に入って23年。先生と初めてお会いして渾身の激励をいただいてより、ちょうど20年目のことです。自分の全てを投げ打って、この先輩の4回目の当選に力を注ぎました。候補者の西村さんは、謙虚なお人柄のうえ、勉強熱心な方で、区議には惜しいぐらいの人でした。見事に当選を果たされたときは二人して抱き合って感激にむせんだものです。

翌昭和63年(1988年)6月。実に嫌な事件が発覚します。戦後最大の贈収賄事件とされるリクルート事件です。当時国会では、消費税(税率3%)導入のための税制関連法案が審議されていました。その真っ只中に、国民感情を逆なでする政治家の汚職事件が明るみに出されたのですから、大変です。リクルート社は同社のグループ企業の未公開株を店頭公開する前に、政治家、官僚、マスコミ、金融機関幹部にばらまいたのです。手にした連中はまさに濡れ手に粟の利益を得ました。この時には、中曽根康弘前首相、竹下登首相、宮沢喜一副総理兼蔵相ら数多い自民党の幹部が株譲渡の恩恵に浴していました。その責任を取って、のちに竹下首相は首相退陣に追い込まれます。この大事件、残念ながら公明党にも類がおよびました。池田克哉代議士らが翌89年5月に受託収賄罪で在宅起訴されることになるのです。

しかも、この事件で国民の政治家不信がまさに頂点に達しているときに、公明党を根底から揺さぶる一大不祥事が持ち上がります。矢野絢也委員長の明電工株取引疑惑です。これは、総額21億円もの巨額脱税事件で、逮捕・服役(懲役4年・罰金4億円)した節電装置メーカーの事実上のオーナーである中瀬古功との株取引にまつわる話でした。この事件は、明電工と他企業との業務提携発表を機に株価高騰を売り抜けて利ざやを稼ぐ、やはり濡れ手で粟の旨味を求めて政治家が群がったというものです。朝日新聞の一連の報道で、総額10億円にも及ぶ株取引の株購入者10人の名義人のなかに、矢野委員長とその秘書らの名前があったことが公になりました。本人は事実を否定したのですが、各紙が一斉に疑惑を報道するところとなり、やがて委員長辞任に追い込まれていきます。

市川国対委員長は、就任とほぼ踵を接して次々と起る党の幹部の不祥事に向き合うことになります。当時、そうしたことを何も知らなかった私は日中は秘書業に、夜は本部長として、走り回っていました。そんな、昭和63年(1988年)の夏にそれこそ驚天動地のことが起こってくるのです。

【昭和63年(1988年)3月 青函トンネル開通 4月マル優制度廃止 瀬戸大橋開通 6月リクルート事件 牛肉オレンジ3年後自由化で日米交渉決着 7月 自衛隊潜水艦が釣り船と衝突 8月 イラン・イラク停戦 12月 税制改革関連6法成立。竹下改造内閣】

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慣れぬ秘書業にもがき苦しむ (48)

代議士秘書ーこれって本当に大変な仕事をする立場です。一般的には、就職の面倒を見ること、結婚の紹介から始まって、地元支持者からの様々な要求、それを受けての省庁への口利き、依頼、そして委員会での質問作りのお手伝いに至るまで、実に多彩な問題の処理能力が求められます。もちろん、事務所での来客応対、あるいは地元へ代議士の代理として出向いたり、挨拶をするなどといったこともあります。市川さんの場合も、勿論そういうことはありましたが、より大事なことは「呼吸」でした。口に出さずとも、何を代議士が求めているのかを事前に察知して、瞬時に動き、手際よく手配するといった、要するに織田信長に仕えた木下藤吉郎のように、気が利くことが求められたのです。

私のような自分に関わることには熱心ですが、他人のことに関しては愚鈍で、それでいて自分が目立ちたいというタイプは、まずこういう気働きが苦手です。あらゆる場面でヘマをやって怒られる日々が続きました。取材をして原稿を書いたり、議論して企画を練るっていう風なことは得意でしたが、秘書業には馴染めませんでした。よく言われたのは「お前は人の言うことを聞かずに直ぐに判断して、口に出してしまう。一度じっくり自分の頭と心で咀嚼してから、喋るんだ」といったようなことでした。
あまりにも自分の無能力さに、幾たびか泣きたくなるような日々が続きました。女性秘書の国谷さんに愚痴を聞いてもらううちに、夜が明ける日もあったのです。

そんな時、いつも思ったのは市川さんの奥さんや息子さん、娘さんのことです。つまり、この家族の皆さんは底抜けに明るくて楽しい。厳しい主人、怒る父親とうまくやってる人たちを自分も見習おう、と。新聞記者時代と違って、秘書業は、より関係が近いが故に、叱咤激励の厳しさが身に堪えました。今までの甘い関係が木っ端微塵に打ち砕かれたのです。

何しろ、代議士と一緒に動いていて、電車の網棚に置いたかばんを忘れてしまったり、宿泊先で寝坊をするということさえあったのですから、自分で言うのもなんですが、恐ろしい秘書です。それでも我慢して市川さんは付き合ってくれました。この人は通常はむやみに怖い人ですが、同時に時に子どものような茶目っ気もある人でした。選挙区の挨拶まわりに同行して横須賀に行ったときのこと。電車を降りて駅のプラットホームを歩いている時に姿が見えなくなり、困ってしまいました。なんのことはない、隠れんぼのまねごとをして、こちらが探していると、柱の影から出てきて驚かしたりするのです。

また、ドライシェリーのティぺぺがお好きで、よく相手をさせられました。その時に、自分の読んだ本の話を聞かせてくれ、意見を求められます。壁打ちと称して、ご自分が読んで頭に入った本の情報を、ひとたび口に出して、それを私にいい、反応を見ながら、より知識を確実に見つけようとされていたのです。そういうひとときはまさに珠玉の時間でしたが、同時に場面が変わると、鬼のように変身して地獄の時間でした。私はいつの日か、そういう変化を見抜くよう心がけ、映画の文句ではないけれど、「逢うときはいつも他人」と心得て、最初は慎重にかつ神妙に対応し、折を見て楽しいムードだと判断すれば、スイッチを切り替えて大胆かつ親しげに応対すると言う風に、硬軟自在に切り替える技術を会得していったものです。

また、平子君が抜けた後に、秘書を探せとのことで慌てました。色々と考え動いた末に、和嶋君に的を絞りました。公明新聞に入社して6年。記者として油が乗ってこようという時です。無残にも私は若木を手折るように、彼を秘書にすべく説得してしまいました。心強い相棒の誕生です。二人は一回り違いの酉年。気は合いました。よく市川さんから二人して怒られて〝謀反〟を企てようとしたことも、ないではなかったのです。腐った気分を立て直そうと、二人で観に行った米映画『フルメタル・ジャケット』(米海兵隊の新兵しごきの場面が有名)には妙に共感してしまいました。

こういう風に秘書の初年度は過ぎてゆきました。ところが、またまた公私ともに大きな出来事、重大な変化が起きてしまうのです。

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代議士秘書への曖昧模糊とした転身 (47)

昭和61年の12月。公明党は竹入義勝委員長から矢野絢也委員長に交代し、新たに書記長に大久保直彦、国対委員長に市川雄一との布陣にするとの発表を行ないました。「竹入・矢野体制」は約20年続いたものですから、交代は当然でしょう。ただ、二人セットですから、一気に若返らせるなり、イメージを変える必要があったと思います。「矢野委員長」にして一人残したのは、後から振り返れば大失敗でした。大久保新書記長とは、この人が初めて衆議院に出馬されるときから、選挙区が東京4区(旧・中野、杉並、渋谷)だったこともあり、私にとって親しい大先輩でした。ご自宅に呼んで頂いたこともあります。その人のナンバー2就任は率直に言って嬉しいことでした。

市川さんの国対委員長就任については、当初は内外に懸念する声が強かったようです。当時のこのポストは、海千山千の政治家の中でも、とりわけ変幻自在の柔軟な態度と、何よりも営業マン的雰囲気が要求される立場だと見られていたのです。市川さんは理論家肌で、理屈先行の人のため、そういうポジションには向かない、むしろ政調会長の方が適任と見られていたのです。何しろ、酒はあまり飲まない、歌も歌わないし、麻雀は全くやらない、ゴルフもからきし、とくれば想像できようと言うものです。ご本人もそのあたりを気にされていた節は多少ありました。ただし、それは表面上だけで、「人は概ね人を見誤ることが多い、相手がこちらを低く見ればそれだけ相手が判断を誤るだけ」などと言っていました。そのくせ、影では、お酒を飲む練習をしたり、歌もレコードを買い込んで、せっせと練習に励んだりしておられたようです。ただ、ゴルフだけはやっても上手くならないので、と諦めていました。

そんな公明党が新体制に沸いている状況の中、私の身に一大変化が起きます。市川代議士の秘書にならないかというお話でした。既に市川秘書として頑張っていた平子瀧夫君が、川崎市議選に出るということから、その後釜として白羽の矢が私に立ったのです。市川さんの選挙区とも無縁だし、新聞記者として未だ未だ伸びたいとの思いが強かった私は悩みました。何より一にも二にも政治家を影で支える秘書の仕事は私には向かない、と思っていたのです。

ただ、市川さんと初めて会ってから18年ほどの間、色々と啓発され、刺激を受けていて、更にもっと近くで深く大きく影響を受けたいとの望みも持っていました。近づきたいけど、したいことは他にある。進むに進めず、私の心は乱れました。そんなときに、中野区で(鷺宮本部長)お世話になることが多かった富岡勇吉さん(潮出版社社長)に相談しました。富岡さんは、「新聞記者というのは虚業だよ。人は一生のうち、どっかでやっぱり実業で生きねばならないね。秘書は実業だよ。君の将来にきっと役に立つから、お受けしてはどうか」と言われるのです。肚が決まりました。

ただ、正式に公明新聞を退職するということに踏ん切りがつかないまま、なんとなく昭和62年(1987年)正月過ぎに、衆議院議員市川雄一第一秘書として、国会に出向くことになったのです。したがって公明新聞社で、仲間たちの前で別れのご挨拶もせず、ズルズルと仕事場が変わってしまいました。気がかりでしたが、仕方ありません。そのせいか、「北斗七星」のライターは暫く続けさせて頂きました。この辺り、私の人生で、一番ファジーな部分となってしまったのです。

市川雄一事務所には、先輩秘書の平子君と、国谷明美さんという女性の二人がいました。国谷さんは少女のイメージそのまま。とても可愛くしかも聡明な女性です。市川さんの選挙での遊説隊の一員でした。それこそ度胸も愛嬌もある素晴らしい女性。一目で私は好感を抱きました。この女性となら、辛い秘書業もやっていける、と。尤も、ことはそんな簡単なものでないということは程なく分かるのですが‥‥。

【昭和62年(1987年)4月 国鉄分割民営化、JRグループ発足 5月 朝日新聞阪神支局襲撃事件 防衛費1%枠突破 売上税法案廃案 6月 日中閣僚会議北京で開催 7月 日米戦略防衛構想(SDI)協定 8月 教育臨調最終答申 11月 竹下登内閣】

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「死んだふり解散」に振り回されながらも(46)

ご存知『笑っていいとも』は、タモリが司会したフジテレビ系で32年間(1982〜2014)もの長きにわたって放映され続けた人気番組です。この番組の企画を担当していた横澤彪さんを登場させようということになりました。コラムニストとして売り出し中だった泉麻人さんとの対談を考えたのです。打合せに行ったのは、公開番組の収録場所の新宿アルタ。出向いた時のことは忘れがたいです。エレーベーターで明石家さんまさんと一緒になったり、公開放送中の場面をついでに会場で見させて貰ったりしました。その日のゲストは女性スポーツ評論家の長田渚左さん。テレフォンショッキングの場面で会場にカメラが突然移動して、私が一瞬映ったとか。どうでもいいことですが、面白い経験でした。

このパンフ作りの過程は、まさに抱腹絶倒ものですが、これを全て公開することは残念ながら出来ません。当時のチーム仲間の間で、ばらすことはタブーにしているのです。皆墓場まで持っていくことにしたのに、キャップの私が今ごろ破るわけにはいきません。ただし、あまりに思わせぶりなのも何ですからちょっとだけ。キーワードの一つは、久里洋二(アニメ作家)さんであり、もう一つはゴジラだということぐらいは触れても、禁を犯したことにはならないでしょう。みんなごめんね。ともあれ、編集長としての私の能力はここまでが限界だと思うに至り、密かに後衛に退く決意をしました。

この当時の首相は中曽根康弘氏。就任以来、既に4年を超えており、世間的には飽きが来ていました。ただ、官房長官の後藤田正晴氏の名采配ぶりもあって、しぶとい政権運営を展開し、夏に予定された参議院選挙に向けて準備に余念はありませんでした。当時の政治課題は、一票の格差是正をめぐる公職選挙法改正問題でした。1980年に衆参同日選が行われ、自民党が大平首相の急逝ということもあり、大勝を博していただけに、〝柳の下のどぜう〟を狙うのではないかとの観測はありました。

しかし、公選法が改正された結果、その中身を世に知らせるためのいわゆる「周知期間」が30日あることから、同日選断念の空気が支配的になってきていました。後藤田官房長官の「この法改正で、首相の解散権は制限される」との発言も援護射撃の役割を果たします。ところが、5月27日に臨時国会を召集する閣議決定をし、6月2日の国会開会冒頭に、一気に解散を断行してしまうのです。

そのやり方たるや、強引の一言です。野党の反対で本会議場での解散詔書朗読が出来ないと見るや、衆議院議長室に各党各派の代表者を集め、そこで坂田道太議長が直ちに読み上げたのです。その結果、7月6日に衆参同日選が決まりました。このことについて、中曽根首相は後に「(同日選は)正月からやろうと考えていた。定数是正の周知期間があるので、解散は無理だと思わせた。死んだ振りをした」と語ったのです。このことから「死んだ振り解散」と呼ばれるようになります。

選挙の結果は、自民党の304議席という圧勝に終わりました。社会党は86議席の大敗北です。そんな状況にも関わらず、公明党は見事に57議席を獲得。自民党の地滑り的勝利の影に見失われがちのなかでも、しっかりと足場を固めました。この時の状況を私は7月20日付けの北斗七星で、こう分析しています。
「六十年代は、次の段階としての本格的な連立・連合の時代とみられた。しかし選挙結果は、自民党の圧勝で憲法改悪も可能にしかねない事態へと、大きな逆流をみせた。自民党圧勝の主原因は、衆参同日選というルール無視であり、挑戦者・社会党のひ弱さとみられる。社会党の『万年野党の代償』としての逆流をどうはね返すか。これからの三年という『時間の政治学』の持つ意味は大きい」と。

こうした状況を踏まえ、この年の暮れに公明党も大きく脱皮し、変身することになりますが、ついでに私の人生も信じられないような転回をすることになります。

【昭和61年(1986年) 5月 東京サミット開催 7月衆参同日選挙 第三次中曽根内閣 8月 新自由クラブ解党、自民党に復党 9月 社会党委員長に土井たか子(初の女性党首) 11月 中曽根首相訪中 伊豆大島の三原山大噴火 12月 国鉄分割民営化法】

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雑誌、小冊子『F』作りに汗をかく(45)

前回述べたように、昭和61年には社内人事で、理論誌『公明』の編集部に移動していました。部長は、平林朋紀さん。雑誌編集の経験豊富な大先輩です。雑誌作りの基礎から教えていただきました。日刊の新聞編集とは違って、企画性が重視されます。時々の時事課題を睨みながら、数ヶ月先のプランを立て、社内上層部のオッケーが出れば、書き手の学者、評論家にアタックしていきます。私も世に出て17年。かつてお世話になった恩師は勿論のこと、友人たちも学者の世界でそれなりの地位を築いていました。例えば、慶大時代のクラス担任だった小田英郎先生にはアフリカ論、高校同期で都留文科大教授になっていた岩見良太郎君(後に埼玉大教授)には都市計画などで原稿を書いて頂きました。

また、会いたいと思った文化人にもそれなりのテーマを決めて、取材や寄稿して貰う段取りをしました。中でも思い出深いのは画家の岡本太郎さんと作家の水上勉さんに「日本人論」を依頼したことです。原稿を頂く際に、束の間会っただけですが、岡本さんには永遠を感じさせるほどの眼力に圧倒されてしまいました。また、作家の水上勉さんとは、宮本輝さんと作風が似てることについて、あれこれお話し出来ました。

また、この年の初めには、社内で党勢拡大に役立てるために、新たに小冊子めいたものを作ろうとの機運が起こってきたのです。参院選が夏にあるため、いかにそこでの勝利を掴むか、編集局の腕の見せどころとなりました。そのプロジェクトチームには新進気鋭の連中が選ばれました。中島、梅沢、加島、赤星、和嶋、岡本、井出、小林といった何れ劣らぬ手練れの後輩たちです。このうち和嶋君は、慶大ハワイ総会で会った後、大手損保会社に就職が内定していたのを取りやめ、あつい心意気を持って公明新聞に入ってきていました。このチームの中心に私が選ばれたのです。公明新聞の2年後輩(歳は一緒)で、既にこの頃は創価学会本部の職員に移動し、全国男子部長の立場についていた太田昭宏さんが、〝友情出演〟めいたアドバイザーとして参画してくれました。

このチームは私にとって、ある意味で編集人としての集大成になります。色んなことがあり、まさにてんやわんやの舞台裏でした。私が最も力を込めたのは、このパンフレットのネーミングです。苦労した挙句、『F』とすることに決まりました。エフとは、そのものズバリ、友人・フレンドのFで、賛否両論ありましたが、私には由来に確かなる手応えがありました。実はそのあたりについて、少し後になって「北斗七星」欄に書いていますので、そのくだりを引用してみます。

ー小売業の繁栄にとって、かつてはP要素が重要だったが、新しい時代の消費や流行を左右する若者をとらえる際には、F要素が大事になってきているという。つまり、フィーリングが合えば、遠かろうが、高かろうが、少々は構わないという顧客の増大が、豊かさ、文化的雰囲気の向上につれて顕著になってくるというわけだ◆Fで始まる単語にはプラスイメージのものが多い。Friend、Fresh、Fortune、Funny、Fight、Flexibility(友、新鮮な、幸運、面白さ、闘志、柔軟性)‥‥といった具合に。しかもFの発音が、ほんの少し下唇を歯で噛んで軽く発音するという、日本語になく、アルファベットでもこの語だけ(Vは濁るところが少し違う)と、ちょっとシャレているのも、若者感覚に合いそうだー

実は、このあたりのことを私が気づいたのは、博報堂生活総合研究所の『タウンウオッチング』を読んだことに始まります。そこには「人が街を歩くと、時代の空気にあたる」とあり、商店街が支配される経済原理を『PFダイナミクス』と名付けていたことから着想したのです。

こう言えば、単なるフレンドの頭文字のFからとったものではない、とお分かりいただけるはず。ともあれ、このパンフの巻頭企画をどうするか。悩みに悩みました。そこで、当時人気のテレビ番組『笑っていいとも』に行き着いたのです。

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宮崎義一・市川雄一対談で軽井沢へ(44)

昭和58年の春4月に、一人娘の峰子は嬉しい事に東京創価小学校に入学していました。本人よりもどちらかと言えば、母親や祖母の熱心な願いがかなった形です。生まれた時に名付け親を池田先生にお願いして、つけていただいていました。おおらかで、明るい子に育っていました。住んでいたのが西武沿線の鷺宮ですから、学園までは一時間前後です。小学生にとっては、決して近いとは言えぬ距離でした。きちっと行けるかどうか不安でしたが、なんとか通い始めることになりました。

同期(8期生)には、私の先輩や同僚といった知人、友人の子供達が多く、私も珍しく出席した入学式ではなんだか妙な気分でした。池田先生が作られた学校に子供が通えることに、素直に親子共々喜び合ったものです。入学のための面接で、担当の先生から「毎朝、顔と歯を磨いてますか」と訊かれ、「ハイ」と微妙な嘘をついたのを、あとで母親から咎められ、「磨いてる時だって、あるじゃない」と開き直った子です。学校から家に帰って、カバンを玄関におき、そのまま遊びに行って、翌日、玄関に置いたカバンをそのまま持って登校するという離れ業を殆ど毎日やっていました。

昭和61年には、4年生になっていました。朝夕出会う鷺宮駅の駅員と親しくなったり、下校時に時々疲れてしまい、終点の西武新宿駅まで着いてしまって、また折り返すことがしばしばでしたが、最早そういうこともなくなってきていました。

この年の夏のこと、市川さんと私は連れ立って軽井沢に行きます。著名な経済学者で横浜国大や京都大教授を経て、当時東京経済大学教授をされていた宮崎義一先生の別荘を訪ねたのです。配属になったばかりの党の理論誌『公明』の仕事で、ご両人の対談を企画し、私が司会役ということで同道させていただきました。夏のこの地は最高です。清々しい空気を吸いながら白樺の生い茂った道を歩いて向かいました。

市川さんは初当選から10年。既に当選5回のベテラン。党の中央執行委員で副書記長、政調副会長、安保部会長などを兼務していました。事あるごとに、編集部の要請に応じて、『公明』誌上で識者との対談企画を引き受けてくれていました。この時は、宮崎さんが書いた『複合不況』という岩波新書を題材に、その背景などを語って貰おうということから実現したものです。わざわざ軽井沢まで行かずとも、東京か横浜で良かったのですが、そこはもう編集者としての気分です。折角だからと、避暑地を選ばせて頂きました。

編集部として、この宮崎さんの本を次のように紹介しています。
本書では、世界経済を①先進国②産油国③非産油途上国④共産圏の四グループに分けて、石油危機以降の現代経済の動向を分析している。構成は、❶ケインズ主義はなぜ新しい世界不況に有効性を失ったか❷発展途上国に供与された銀行ローンは貧困克服に寄与したか❸覇権国家の交替はあるか❹多国籍企業世界は地球の荒廃を救いうるかーの四テーマに答える形式になっている。随所に最新のデータがグラフや表として盛り込まれているうえ、ヒューマニスティックなタッチで危機的状況にあふ世界経済の抱える課題への処方箋が示されており、読むものの心を打たずにはおかない。

市川さんは、冒頭で「かつてマルクスが誰も資本主義を分析していないときにやったと同じように、この書では、世界資本主義の今日的分析を鋭くなさっており、まさに現代版「資本論」、久しぶりに知的興奮を覚え、大変な感銘をうけました。累積債務のくだりで、北が南を収奪する論理を明快に書かれているところは、とりわけ胸打たれました」などと過剰なくらい評価されています。宮崎さんも「そんなに言っていただいて感謝感激です」と受けていました。

まさに、今となっては〝遠い日の砲声〟ですが、学究肌の市川さんの面目躍如たるところが髣髴としています。あの日、二人の知性のぶつかり合いの現場を見た私は幸せ者でした。

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ある庭師との出会い。地区の最前線で奮闘(43)

創価学会に入会以来、学生部、男子部、高等部担当などの活動を続けてきましたが、昭和60年の秋には壮年部へ進出することになりました。39歳の年齢では当然です。女性の場合、結婚と同時に婦人部になるのですが、男性の場合は40歳前後まで若い連中と付き合い続けるわけです。関西から中野区に戻って3年ほどが経っていました。地元の鷺宮・大和町地域のある地区を担当することになりました。

それはもう緊張しました。老いも若きも男も女も、みんなまとめて面倒みなくてはなりません。それまでのように、広範な地域での若い男性だけの激励に走っていた段階からすると、全くの様変わりです。お年寄りの悩みや、ご婦人たちとの呼吸合わせなど、何もかもが初体験なもので、正直言っておっかなびっくりでした。どうすれば、この100人ほどになんなんとする人たちをまとめ、皆に信仰の喜びを味わってもらえるか。池田先生のご指導を地域の隅々にまで行き渡らせるにはどうしたらいいか。悩みました。

どんな人たちが自分の担当地区に所属されているかを把握するために、まず聖教新聞を配達する婦人部の皆さんと一緒に、一軒一軒回ることを思いつきました。3人の配達員と一日づつ、とりあえず三日に分けて、配達区域を回るのです。昔予備校時代に新聞配達をしたことを思い出しながら、拠点のお宅の前で、早朝の時間帯に待ち合わせました。その時の気分はまさに、舞台に初登場する役者のように、緊張したものです。その結果、どこにどういうひとがおられるかが朧げながらわかるようになり、また、今度の地区部長はやる気満々だとの評判もたちました。一石二鳥の効果があったのです。

そういう地域のなかに、鈴木明という昭和7年生まれの壮年がいました。当時53歳。私より13歳上。顔中皺だらけの小柄な人でした。植木職人の棟梁でしたが、若い時から酸いも甘いも味わい尽くした苦労人です。この人は信仰歴こそ浅かったのですが、いきなり目の前に現れた私のような新米地区部長を文字通り〝可愛がって〟くれたのです。

実に多彩な趣味の持ち主でした。少し前まではバイクを乗り回したり、馬の調教にも関わったといいます。いわゆる男が心得ておくべき嗜みの諸事万般に、一家言も二家言もある人でした。中野新橋で若い頃に鳴らしていたとかいうだけあって、私が知らない世界に滅法明るい人でした。それでいて、堅い世界にも関心があって、色んな分野の本も読んでいたのです。徳子さんという奥様も不思議な魅力を湛えた小柄で優しい人でした。鈴木さんと知り合って、ある意味で私の人生観に、微妙な変化が来し始めたかもしれません。ともあれ、彼は、庭師の棟梁というものは顧客のお宅の縁側で庭の木を見ながら、その家の奥様とあれこれ話をするのが大事な仕事なんです、と言ってたことが遠い記憶の底から蘇ってきます。

地区にあって、どう壮年部員を逞しくするかについて悩んだ挙句、私は彼を軸にして壮年懇談会を毎週開くことを思いつきました。夜9時から、二人がテーマを決めて対談する方式で、会合を進めるのです。時に時事問題であったり、日蓮大聖人の御書を通じての教学研究など多岐に話題は広がりました。その場に、未入会の壮年部員や普段会合にでたがらない方々を、婦人部の皆さんに連れ出して貰うことにしました。その時々の話題に応じて、スペシャルゲストスターをお招きして、話題に加わって貰いもしました。

中野区に住む旧知の薬科大学の教授や小学校の先生、知り合いのお医者さんや弁護士さん、また先輩幹部もお招きして、普段聞けない色んな話を聞かせて貰ったのです。この企画を通じて、ひとりの人が立ち上がれば、次々と人材は奮い立つとの原理を改めて確認出来た思いがしました。

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公明新聞コラム『北斗七星』担当者に (42)

【昭和60年(1985年)2月創成会結成 3月 ソ連、ゴルバチョフ書記長就任。3月 科学万博つくば85開催 6月 男女雇用機会均等法成立(翌年施行) 8月 中曽根首相、戦後初の靖国神社公式参拝 日航ジャンボ機墜落】

1985年(昭和60年)。公明新聞の一面下のコラム『北斗七星』の担当をすることになりました。入社してから16年目のことです。新入社員の頃から、新聞記者として、密かに目標にしていたことでした。とうとう自分が書けることになったことは、険しい山登りをした挙句、ついに頂上に到達したかのように嬉しい思いがしたものです。社説を書くことや人物をいかにうまく描くかということも大事な課題でしたが、コラムには、また別の味があります。二週間に一度のサイクルで回ってくる原稿書きに一意専心、頑張りました。

初めての機会は、10月27日付けです。私にとって記念碑的作品ですので、全文転載してみます。

今日から読書週間が始まる。ほぼ同時期に、二十一年ぶりの優勝に沸く阪神タイガースとこれを迎え撃つ西武ライオンズとのプロ野球日本シリーズが続く◆例年にも増しての喧騒の中、秋の夜長を読書で過ごすことは、プロ野球ファンならずとも困難を要することかもしれない。が、年頭の読書計画を全うするためにもここは頑張りたいところ◆活字文化から映像文化への傾斜が強まっているとはいえ、活字を通じての情報入手は、クリエイティブ(独創性)という点で圧倒的な強さを持つ。それだけに、読書を習慣とした人間は幸せだ◆作家・城山三郎氏は読書法を①集中豪雨型②交流・交易型③気まぐれ型にわけ、時に応じ、必要に合わせて駆使する。昭和二十八年から仲間五人で、日曜日の午後をつぶし読書会を必ず開いてきてるという城山氏のまねは到底できなくとも、せめて、気まぐれだけでなく、読書週間ぐらい集中豪雨的にまとめてどかっと読書にひたりたいもの◆限られた人生の持ち時間、読める本はたかが知れている、として計画だてて読むのをあきらめるか。だからこそ、寸暇を惜しんで読書に挑戦するか。どちらの生き方を選択するかで、おのずと人生の実りは違ってこよう◆横浜国大の岸本重陳教授は「大学生なら、ひと月に5千㌻は本を読め」と呼びかける。「それくらいの読書量を必要不可欠に伴うほどの認識渇望がなければウソ」(「世界」八五年五月号)という同教授は「学生の時でさえ五千㌻も読めないのだと、あとはどうなる」と厳しい。いつか世の中のことを「分かったつもり」になってしまった社会人の耳にこれは痛く響く(赤)

そこはかとなく教え諭すような上から目線が気になる文章です。実はこれ、予備校時代の原体験に基づいています。本屋での棚に並んだ膨大な書物を前に、ある友人と交わした会話ー本はこの世に読み切れぬほどあるのだから、まじめに読むのは諦めるか、だからこそ一冊でも多く読もうと、挑戦するかーが頭から離れなかったからです。あれから20年ほどが経って、この文章を「北斗七星」に書き、それからまた、35年ほどが経って改めて今読み直してみて、変わらぬ思いを抱きます。

本を読むことに執念を抱き続けた私は後年になって『忙中本あり』なるタイトルで読書録を出版するに至ります。これはまた、数多のエピソードをもたらすのですが、それを披露するのは後日のお楽しみということに致します。ともあれ、昭和60年という年は、私の「文章修行」にとって、一つのピークであり、新たな門出へのプロローグとなったのです。

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