どこまでも続くものとしての「人間革命」

「人間革命」なんて、出来るわけないやんー私が家族の中で一人信仰生活に入ってまもない昭和40年代半ば頃に、母は泣くようにこう私に呟いたものです。若い世代の「社会革命」への渇仰が時代の隅々までを覆っていた時に、創価学会の池田大作先生が高らかに掲げたものこそ「人間革命」の旗印でした。マルクス主義による社会変革の押し寄せる波に対して、本能的に忌避感を抱いた私にとって、この言葉の持つ響きには心底から揺さぶられる魅力を感じました。熱い思いで、人間変革こそ先行すべき指標だと語る息子に、母は「若さ」への、そこはかとない危機感を持ったようです。

母の思いの背景には、人間革命という言葉の響きに、人の性格を変えるというイメージがつきまとっていたようです。世に遍く広がる変身願望的なるものには、人の成り立ち、佇まいをガラッと変えてしまう、いかにも今の自分からあたかも別人のようになることへの期待感があります。しかし、仏法では性格は三世変わらないものとして捉えており、人間革命とは、もっとリアルな観点にたつものとの位置付けです。

池田先生は、「人の幸福を祈れば、その分、自分が幸福になっていく。人の健康を祈れば、その分、自分の健康も守られるーこれが妙法の不思議な力用(りきゆう)である」と述べられ、人間の偉大さは「『利己』と『利他』のどちらに力点があるか」だと迫られています。そして「『利己』から『利他』へと」の「ダイナミックな生命の転換」を「偉大なる人間革命」と規定されています。

かつて、自身の病としての肺結核を、闘病最中における池田先生との劇的な出会い(昭和43年4月26日)が機縁となって根治させたものの、50年代になって、次々と新たな障魔が立ち現れました。母の胃がん発病、妻が身篭った子供の相次ぐ流産と早産。義父の倒産と多額の負債。個人的悩みの多発を前に、解決を祈りつつ、心の底から「もっと大きな問題で悩みたい」と思ったものです。自分及びその周辺のことではなく、日本の、世界の難題に立ち向かいたいと。あれから40年ほどが経って、確かに大きなことで悩めるようにはなりました。

こうしたことを総合して勘案すると、人間革命をより具体的に分かりやすく表現すると、境涯革命ということになりましょうか。小さな、自分のこと、身の廻りのことしか考えられない境涯から、大きい、他人のこと、世界のことを考え悩む境涯へ。これが人間革命というものの実態だと思います。従って革命成就は固定的に捉えるというよりも、常に動的なものとして見るべきかもしれません。「利他」の命を身に定着させるべく、「利己」に走りやすい我が身の至らなさを常に自戒するー終わりのない持続的なものとしての人間革命。亡き母に認めて貰いたい一心は今もなお続いています。(2019-1-31)

 

 

 

 

 

 

 

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