Monthly Archives: 3月 2020

(14) すぐそこにまできた生老病死の旅路の果て❶

生老病死ー最近、この言葉を改めて実感するようになっています。生死の間に割って入った二文字。老と病。これは、どちらが先にやってくるか。当然ながら、若い頃はどちらも意識しませんでした。しかし、このところ、身体の各部位に痛みやら不都合を感じるようになって、老いを意識し、病いを気遣うことが常態になってきました。未だ、心臓と脳は健全な様子であるかに思われます(実のところはわからないだけでしょうが)。つまり、車で言えば、エンジンは快調ですが、部品が壊れてきているように思わざるをえないのです。部品を直したり、新たなものと取り替えればいいのかどうか、大いに悩むところです。

著しい眼の衰え

まず、眼。20歳前から近眼になり、メガネをかけました。途中、40歳を超えて、コンタクトレンズのお世話になりました。ソフトコンタクトの便利さ。装填したままうたた寝から目覚めた時の心地よさと言ったらなかったです。メガネだとかけないとお先真っ暗ならぬ、ぼーっとした状態ですが、コンタクトをしたままだと、くっきり、ハッキリ見えます。ただ、歳をとって、老眼が入ってきて、近くが少々見辛くなり、メガネに戻しました。いわゆる遠近両用のメガネに。以来、30年近い歳月が流れました。そろそろ、白内障の恐れが忍び寄ってきていることを感じます。先だって、眼科に行くと、早晩手術を、と。それよりも数年前に突然片方の眼に何やら訳の分からぬものが映じ、驚いたことがありました。およそ30分くらいでそれは消えたのですが、その間は実に怖かったことを覚えています。あれはさて、何だったのか。あの瞬間もはや、まともな映像、景色は見られないのか、とさえ思ったものです。

私の眼は左右でかなり視力が違うようですが、今のところ、本や新聞を読むときに、老眼鏡のお世話にならずとも裸眼でいけます。ただ、左右均等でないため、長時間文字を見ていると、段々と平行に見ておれず、左右歪んだ持ち方になってきているようです。そのうち、ものが読めない、見ることが出来ない時が来るのでは、との恐怖感が漂ってきます。五感のトップ・眼は外界の情報を真っ先に取り入れる器官だけに、これの老化による損傷は堪えます。網膜に映じていても、意識が明瞭でないと、それは情報としては頭脳に定着しない。いわゆる〝節穴〟状態といえます。いわゆる「虚ろな眼差し」だともいえましょう。昨今、近視なのにメガネをかけない状態で室内で生活をしていることが多いのですが、虚ろな眼差しから「虚ろな認識」が常態になるかのごとき危惧を抱きます。こういう状態が長く続くと、認知症になりやすいのではないかとの恐れさえも起きて来るのです。

片方は聞こえない耳

次に耳です。私は実は左の耳が子供の頃から難聴でした。原因はハッキリしません。若い頃は左側から話しかけられると、いちいち身体を相手の方に向き直って、正面から聞くように心がけました。そのままにしていると、曖昧な受け答えになり、お互いが迷惑するからです。そのため、かえって丁寧な人だと誤解されたことも。寝る時など、健常な右の耳を下にして休むと、一切聞こえないので、雑音が気になりません。随分重宝したもので、人間何が幸いするかわからないと思ったものです。

しかし、この健常な右耳も最近どうも、不調を感じてなりません。テレビの音や映画館で聞くセリフがどうも聞き辛くなってきました。妻との会話も幾たびか「えっ、何?なんだって?聞こえないよ」と繰り返す自分に気づきます。その上、時々、右耳の奥の方が痛いような、むず痒いような微妙な症状が頻発します。以前に、横浜にある名医といわれる耳鼻咽喉科の医師に徹底的に診てもらいました。その時は左耳を手術することで、一気に回復するのでは、との淡い期待を抱いていたのですが。診断後、その医師は、「貴方の左耳は手術をしても健康な人の耳に比べて、30%ぐらいしか治りませんね。それでもやりますか」と訊いてきました。止める判断をしました。以来、耳鼻咽喉科の門は潜っていません。

姫路に、耳鼻咽喉科の名医で、個人的にも尊敬している藤森春樹先生(今は引退され、医院も閉鎖)がいらっしゃるのですが、その門を潜ることも遠ざかったままになりました。先輩たちも見ていると、75歳あたりを過ぎると、補聴器のお世話になっている人が多いようです。私も時間の問題だろうと覚悟しています。余計なことが聞こえない方が長生きするとかといった冗談半分の言い回しも、所詮は戯れ言に過ぎないものと思われます。(2020-3-23 つづく)

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(13)新型コロナウイルスの世界蔓延と日蓮仏法

スペイン・インフルエンザとペスト

新型コロナウイルスの感染が世界中に広がりを見せています。この事態を前にメディアでは様々な情報が乱れ飛んでいます。近過去の似たケースとしては、ほぼ100年前の「スペイン・インフルエンザ(通称スペイン風邪)」が挙げられ、古典的な事例としては中世ヨーロッパの「ペスト」が挙げられることが多いようです。スペイン風邪については、讀賣新聞の橋本五郎氏が3月7日付同紙「五郎ワールド」で書いていたのが注目されました。

それによると、死亡者は世界全体で2000万人から4500万人。日本でも猖獗を極めて、内地・外地合わせて74万人とも(速水融慶大名誉教授『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』の推計)いわれる、としています。それだけの膨大な人々の生命が奪われながら、歴史の上であまりにも扱われ方が少ないと指摘、その理由を「政治の不在」にあると強調しています。今回の国家的危機の感染症対策においても、政治の断固たる姿勢が肝心だと力説しているのです。

ペストについては、実は私自身がかつてアルベール・カミユの小説『ペスト』を読み、深い感銘を受けたものの、料理の仕方に悩み読書録「忙中本あり」に書くのを怠っていました。それをようやく先日書いたのですが、公表するのがいいかどうか躊躇していました。ところが28日付毎日新聞の夕刊に『新型肺炎 ペストが手引』の見出しのもと、「カミユ著 各地で在庫切れ」「伝染病で街封鎖 現状重ね」などと大きく報じられていました。これを見て慌てて公開しました。二番煎じ、後出しジャンケンだと思われたくなかったからです。

立正安国論と日蓮大聖人の確信

日蓮大聖人の時代も、こうした伝染病や感染症のような〝死に至る病〟がしばしば広がっていました。有名な『立正安国論』(文応元年=1260年7月)の冒頭の一節が浮かびます。「旅客来りて嘆いて曰く近年より近日に至るまで天変地夭・飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上にはびこる」ー大地震や疫病の続発、蔓延で乱れきった末法という時代状況の中で、今こそ正法を立てることで一国の安寧をもたらすべきだと、その後のご生涯をかけて語りに語り、動きに動かれます。国家の指導者を諌め、国民世論に訴えられたのです。

ここでの飢饉疫癘(ききんえきれい)の疫癘こそ、今でいえば新型コロナウイルスにあたるといえます。また、大聖人は、日女御前御返事というお手紙の中で、「聖人をあだめば総罰一国にわたる又四天下・又六欲・四禅にわたる、賢人をあだめば但敵人等なり、今日本国の疫病は総罰なり(中略) 国に聖人あれば其の国やぶれず」(御書全集1248頁)と強調され、法華経の行者であるご自身の大確信を披瀝されています。

ボーダレス世界の中で

今はグローバルな世界の環境変化が一段と進んでいます。中国武漢から発生したものが世界各地に飛び火しているわけですから。この事態を今に生きる我々はどう捉えたらいいでしょうか。ボーダレスになった地球上で、創価学会SGI の会員は各国に増えてきており、聖教新聞紙上でも、会合が開かれなくなった日本を励ますように、海外での会合の模様が報じられています。あっちは大丈夫なのだろうか、と気を揉まないわけにはいきません。様々な国々で偏狭なナショナリズムが台頭し、新たな分断を生み出している状況の中で、人類が気づくべきことは、正法の確立の必要性ではないでしょうか。

地球が一体化した状況の中で、日本発の信仰が世界各国に流布しています。そうした状況下では、先の大聖人の御書の一節をどう読むべきでしょうか。こういう議論の展開をしますと、大地震や疫病・感染症の発生は人知では如何ともしがたく、それを「罰や総罰」などといった捉え方をすることはナンセンスそのもの、宗教者の我田引水的思い込みなどいい加減にしてほしいとの声が聞こえてきそうです。しかし、そうステロタイプ的に捉えるのもいかがかと思います。先哲、賢人の知恵に学ぶことも極めて大事です。日本国のところを世界に置き換えて読む誘惑にかられます。ただし、それは踏みとどまるべきでしょう。大聖人は日本の鎌倉時代という限定された状況下で述べられたからです。

もはや狭い一国で、感染症の対策を講じている時代ではなく、地球上の国々が一体感に立って、共に手を携えてこうした難局に立ち向かう必要があります。かつて池田先生は地球民族主義を掲げることの大事さを強調され、毎年の1-26のSGI提言でも、持続可能な地球の存続に向けて、国連の諸機構の取り組むべき課題を提言されています。

また、そのスピーチ集「希望の明日へ」の最終章「平和への道標」の結末節「生命の世紀」において、以下のように結んでいます(平成3年9月)。

新しい世紀ーそれは、〝話し合い(対話)〟と〝助け合い(協調)〟による平和の世紀である。国境を超えた地球共同体の出現である。そうした共通の目標に向かって、世界は大河の流れを形成しつつある。

いよいよ、日蓮大聖人の仏法が、世界の民衆から求められ、その偉大さが実証される時がきた。時代が仏法に近づいているのである。本格的な世界広宣流布の時がきたことを確信していただきたい。

このスピーチから既に28年余りが経っています。今回の出来事も地球上の全ての国々が日蓮大聖人の主張に思いをいたす良い機会になればいいと思います。(2020-3-13)

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