(24)三島の死から50年ー自ら生命を絶つということ

●三島由紀夫の割腹自決のニュースに接した50年前

毎年11月25日がくると、作家・三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地において、東部方面総監を人質にし、バルコニーから1000人ほどの隊員を前に10分足らず演説をしたあと、割腹自殺したことを思い出す。翌日の26日が私自身の誕生日だから尚更だ。今年はあれから50年、半世紀が経つ。新聞やテレビなどでも取り上げられ、私が75歳の誕生日を迎えたこともあって、より印象が強いことは否定できない。後期高齢者という一般的な人生の終末期を迎え、改めて「三島の自死」を通して、人間が自ら生命を絶つことについて考えたい。

50年前のあの日、私は25歳の誕生日の前日だった。勤め先の公明新聞社の編集室でニュースに接した。ショックだった。戦争が終わって25年が経つ昭和45年に、著名な作家が自衛隊員に「憲法改正」を呼びかけ、クーデターへの決起を促し、それが叶わぬと見るや、割腹し首を落とすかたちで死を選ぶとは。敗戦の前後に、何人かの軍人や政治家が腹を切って死ぬ選択をしたことは記憶にある。しかし、以来25年、高度経済成長を成し遂げ、日本が経済的にはなんとか蘇ったと見られる時点で、こうした〝古色蒼然とした作法〟で三島が逝ったことは、まことに多くのことを考えさせられた。

一つは、彼が45歳という通常の人間でいう、働き盛りであったこと。『豊饒の海』いう作品を書き上げ、肉体を鍛え上げた彼は紛れもなく人生のピークを迎えていた。老いさらばえた姿を人に見せたくない、それを残したくないという「三島美学」の発露であろうか。美しいものはその記憶の消え去らぬまに、消滅せねばならぬとの強迫観念に囚われていたとの見方で、私としては三島らしい死に方だと自らを納得させた。そういう生き方、死に方もあるのだ、と。

● 「生と死」を考え続けるきっかけ

あの日を遡ること5年余り。昭和40年3月に日蓮仏法と出会い、私は創価学会に入会していた。19歳の春だった。「生命の尊厳」なることを改めて学び、戦争の世紀だった20世紀から、来たるべき新世紀を「生命の世紀」にするべく立ち上がった。大学で政治学を齧って卒業し、政党機関紙記者になって一年半。政治的活動の只中で三島由紀夫から「何のためにお前は生きるのか」を突きつけられた思いがした。その時の我が回答は、法華経の凄さを学び、「南無妙法蓮華経」と唱えることの大事さを友人知人に伝え切り、池田大作先生と共に広宣流布に邁進するために生きる、であった。

創価学会との出会いがなく、大学も慶應でなく、行きたかった早稲田に(受験すれども失敗)行っていたら、どうであったか。恐らく学生運動に惹きつけられ、その陣列に加わってしまったに違いない。勿論、自分の性格、人としての成り立ちからして到底過激な〝左翼革命闘争〟にはついて行けず、中途で挫折したことは容易に推測出来る。しかし、縁あって「仏法中道主義」と出会ったおかげで、吹き荒れる社会革命の嵐に巻き込まれずに済んだ。三島由紀夫の自決の姿に哀れを催しこそすれ、共鳴するところは全くなかったのである。

ただ、生命より大事なもの、自らの生命を賭してまで、自衛隊員たちに決起を呼びかけた彼の強い思いは伝わってきた。あれからの50年の歳月の大半を、私は安全保障分野において、新聞記者として、また国会議員としてウオッチしつつ書き、発言してきた。とりわけ、憲法調査会や審査会に身を置くなかでの自身の行動は、憲法9条の理想と現実の乖離解決との戦いであり、時に応じて三島の呼びかけを思い起こしたものである。その中で日米安保条約のもと、独立とは名ばかりの〝半独立国家〟日本の悲哀を噛み締めてきたことも間違いない。

●生き辛さ募る一方の社会で

戦後民主主義教育の只中で生きてきた私は、戦後の「米ソ対決」から昨今の「米中対立」に至るまで、米国に軍事的保護を求めつつ、精神だけは自立を見失なうまいとする生き方に依拠してきた。憲法9条の目指す「恒久平和」実現に身を委ねつつ、真の独立を日本が勝ち取るのはまだまだ先のことと諦めてきたといえよう。そんな自分にとって、三島の行為は、過激な思い込みと間違えた方法論による自滅に見えたのである。ただそうではあるが、生と死の狭間で、長生きすることだけが尊いのか、との問いかけから自由にはなれなかった。短くも激しく生きることの貴重さが強迫観念のように迫ってきたことは否定できない。

加えて、歳をとるということは、同志の死を見送る機会が増えることを意味する。あの人、かの人が死んでゆく。それぞれ自己の人生への充足感、満足感を持って往かれたのだろうが、もう少し生きて欲しかったとの思いがこちら側には残る。それは私自身の「広宣流布」への捉え方による。それは予め決められた一定のゴールを指すのではなく、日常の生命的存在の勢いのある流れそのものだとしても、中々難しいものが残りかねない。結局は果てしないエンドレスゲームに翻弄され続けるのではなく、どこかで折り合いをつけて、〝これでよし〟とする自己充足の目標を見出すことなのだろう。この辺り、これからの私自身の大いなる課題である。

三島由紀夫、川端康成ら著名な知識人から、身近な友人、知人に至るまで、自死、自殺を選ぶ人は跡をたたない。どんな人でも、生命を自ら絶つ瞬間は精神の正常さを見失っている時だと、私は思ってきた。真っ当な神経ならどんなことがあっても、生きる選択をとるはず、と。しかし、その一定の限界線を超えると、そうはいかなくなる。人を自殺に追いやる要因はそれこそ人の数だけあろうが、昨今の経済的厳しさなど追い討ちを迫る〝生き辛さ指数〟も加速度を増す勢いだからだ。

●自分の信ずる「物語」に生ききること

三島由紀夫の50年後の様々の企画を見聞して、新たに知った三島由紀夫の死についての説明がある。それは、彼が学徒出陣による徴兵を免れるために、肺浸潤を装った、つまり仮病を使ったというのである。多くの友が戦地で死にゆく中で、自分だけが虚偽の行為、卑怯な振る舞いで逃げたことが、彼の存在そのものに深く災いをもたらした。その負い目から抜け出すために、あのような過激な自死の道を選んだというのだ。

これは従来の多数説と根本的に違う。従来は、「昭和20年の早春に赤紙が来たとき、たまたま気管支炎で高熱を発していたのを、医者が肺結核と誤診したため、不合格となり、三島は父と共に、喜び勇んで即日帰郷した」というものであった。新しい説の方が50年経って、不可解な三島の自決の理由を説明するのに、事実とは違っていても、腑に落ちやすいとはいえる。凡人の私としては、事実と違っていてもそう信じたい欲望にかられる。その方が面倒な「三島由紀夫論」の迷路から脱却出来るからでもある。

人はそれぞれ自分が信ずる「物語」に生きる。それが破綻したり、挫折した時に、絶望を味わい、生きることを中断する誘惑に負けるものと思われる。人生の晩年にあっても、内から外から様々な妨害、障害の魔の手が伸びてくる。そうしたものに迷わされず、初心を貫徹することの大事さに思いが至る。若き日の熱き想いを持ち続け、最後まで走り続けようと銘記したい。(2020-12-2  一部再修正)

 

 

 

 

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