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(27)90歳で逝った作家と100歳でなお元気な作家から学ぶ

▲半藤一利さんのこと

先日作家の半藤一利さんが逝去されたことを新聞報道で知りました。この人の娘婿にして参議院議員の北村経夫氏は産経新聞記者の頃からの友人です。お悔やみのメールを送りました。直ちに北村さんから、返信があり、そこには、昨年暮れまでは原稿を書いていましたが、今年に入って食事を摂らなくなられて、急速に衰えられたとありました。「『燃え尽きた感』がします、『俺はもういいよ、迷惑かけたくねえから、死にてえよ』と言いつつ逝かれた」と。「見事でした」と結ばれた返信が返ってきました。私も見習いたいものと思います。

現職時代、私が半藤さんに会わせて欲しいとの願いをぶつけると、他の友人からも同じ要望があり、一緒でよければとのことで承諾をいただきました。4人でお会いし食事をしたのですが、開口一番、「あなたはくだらない本を随分と読む人ですねぇ」と、ぽつり。事前に私の著作『忙中本ありー新幹線車中読書録』を献本していたことへの反応だったのです。私は、半藤先生の本も入ってるのですが、と言いたいのをぐっと堪えて「政治家の資産公開をするよりも、どんな本をどのように読んだかといった読書録を公開する方が情報公開としては良いと思うのです」ときっぱり述べました。それには、半藤さんもそれは仰る通りですね、と言ってくれたことを昨日のようにまざまざと思い起こします。

90歳で亡くなった半藤さんは、最後の最後までジャーナリストの生き様を貫かれたと思われます。彼は若き日に『文春』編集長だったと聞くと、右寄りの論調の人物と見がちですが、リベラルな視点を常に忘れないバランスの取れた論考で鳴らした人であったと私は尊敬していました。

◆瀬戸内寂聴さんのこと

その残念な訃報と踵を接して、女流作家の瀬戸内寂聴さんのコラム『寂聴 残された日々67』ー「数え百歳の正月に」(産経新聞1-14付け)を目にしました。

「母の死んだ歳(51歳)に出離しなかったら、私は果たして今まで生きていただろうか。中尊寺の奥の部屋で、髪をおろしながら、私は内心『おかあさん、これでよかったのね』と、あの世の母に呼びかけていた。まさか、あの時にこの世で百歳まで生きのびるなどと考えられただろうか。数え百歳を迎えて振り返る時、何とまあ、百年の短かかった事よ、という感慨のみに包まれてくる」

〝百年の短かった事よ〟という表現に、やっぱりなあとの感慨に私は包まれてきます。寂聴さんとは一度だけ新幹線車中で見かけたのですが、声をかけるのは憚られました。話す中身に躊躇したのです。今ならあれもこれもテーマは浮かんできますが。尤も車中、ついでに、という乗りは褒められたことではないでしょう。今でも、この人独特の笑顔が忘れられません。百歳を迎えて、ご自分の母親とのやりとりを記される感性に好感を抱きます。

●そして自分のこと

ついこの間、満75歳の後期高齢者の歳になって、私もまた、あっという間だったことを実感しました。これから仮に25年生きたとしても、長かったなあとの感慨に浸ることは恐らくないだろうと思います。私の母は満58歳で亡くなり、父は満78歳でこの世を去ったために、漠然と私は68歳を超えることが第一目標でした。その歳に衆議院議員を公明党の内規で定年退職したので、とりあえず次なる目標は、父の死んだ歳を越えることが目標です。あと3年です。

最近私は、今取り組んでいる課題に熱中することが何より大事だと思っています。課題に熱中するといっても、それは通常の仕事というのではなく、創作活動と言うのが相応しいかもしれません。我を忘れるほど、没我の時間が長いほど、トータルとしての人生を実感出来る時間は長くなるのではないかとの確信めいたものが芽生えてきています。一番的確なたとえとしては、芸術家がその制作活動に没我の状態で邁進するあり様を想起します。芸術家ならぬ凡人としては、いわゆる芸事でも、趣味でも、あるいは読書でも。それは何でもいいからものを作り出す知的作業と言えましょうか。といっても、それを長いと感じるかどうかは別問題。

充実した時間の只中で、生に熱中し集中力を持って生きてる流れの中で、(気がついたら=勿論本人でなく回りが)死に至っているということが理想でしょう。そうなっても後悔なきよう日頃から準備を怠らないことだと、今は思うに至っています。(2021-1-19)

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(26)戦いすまぬうちに日が暮れて

かつて若き日に交わした母との会話。「『人間革命』を目指すこの信仰は凄いでぇ」と言った私に、母がポツンと、ひとこと。「人間革命なんて出来るわけないよ」ーあれから50年が経ちましたが、未だに耳朶に残っています。

母のその言葉に反発する思い強く、その後の歳月を「人間革命」にこだわって生きてきました。母が還暦を待たずに胃癌で逝ってしまって、はや40数年が経ちます。大正6年生まれだったあの人は生きていたら、もうすぐ104歳です。時々、枕元に立って、「どうや、人間革命の方は?」と、問いかけてくる声が聞こえてきます。

私が信仰の道に入った経緯の一部を始終を熟知する、中学校時代以来の親友が昨年晩秋でしたかに、さりげなく私にこう言いました。「赤松は変わらないなあ、代議士を20年やっても昔のまんま。地位や立場が、人を変えるというけど、お前の場合はちっとも変っとらん」と。これは正直、ショックでした(多少褒めるニュアンスはあれ)。わかっているつもりですが、改めて親しい友からそう言われると。つくづく俺ってダメだなあ、成長しとらんとの思いが強まり、我が胸を苛み、苦しめます。

そういえば、私が現職時代に陰に陽にお世話になり、仕事上のご指導を賜った池田門下の兄弟子は、ことあるごとに私にこう言って励ましてくれたものです。「人が大きく成長する、いい方向に変わるというのは、ひとえに責任感のあるなしに左右される。周りが思いもよらぬ抜擢であっても、本人がそれに『責任』を感じて、その立場を守り、まっとうし抜けば、自ずとそれに相応しい力がついてくるものだ」と。29歳の若さで編集長の立場に立ったひとーそして縦横無尽の活躍をしたーならではの言葉だと感心したものです。

周りを見回しても、歳が私よりも若く、経験が浅い後輩たちの中で、次々と頭角を現して大なる仕事を成し遂げてきた人は枚挙にいとまがないと言っても過言ではありません。そういう人とつい我が身を比べてしまい、なんで自分は、と卑下してしまい落ち込む気分を味わうこともありました。他人との比較ではない、自分自身の過去と今とを比較するのだ、とは分かっていても、です。いや、それは正確ではありません。それをすると尚更、変わらぬ自分自身に驚きさえ感じてしまうのが関の山なのですから。

そうした自身の生き方の傾向を自省するにつけて、一つはっきり自覚出来ることがあります。それは直面する課題と真っ向から向き合わずに、先送りしてしまう性癖が自分にあるということです。思い起こせば、若き日に肺結核で苦しみ、中年になって脳梗塞や大腸憩室炎を患ったり、という直接身体的な病に晒された時は流石に必死に唱題に励み、快癒を祈りました。そして、衆議院議員選挙に出馬して7度の生きるか死ぬかの戦いの際にも、猛然と闘争心を掻き立て祈りました。しかし、そうでない時は、客観的に見てたとえ大事なポジションについた時であっても、真剣さが足らないと言わざるを得ない対応ぶりだったと言えるかもしれません。つまり、一言で言えば、戦時、非常時と、平時、常時が違いすぎたということでしょうか。いや、自分にばかりこだわりすぎて、世のため人のためにという基本姿勢が弱かったというしかありません。

気がついたら、すっかり日が暮れてしまっています。「戦いすんで日が暮れて」と一般的に言われますが、私の場合、「戦い未だすまぬうちに日が暮れた」ということでしょう。若き日に、「親孝行したい時に親はなし」とか、「光陰矢の如し」や「少年老い易く学成り難し」との言葉を聞き流していた我が身に哀れを催します。尤も、ここは、「生涯青春」の精神、「未だ懲りず候」の気構えで行くしかない、と開き直っています。そのうち、母が現れて、「エッ。お前変わったなあ、誰かと思うた。見まちごうた」と微笑んで言ってくれることを信じて。(2021-1-11 一部修正1-17)

 

 

 

 

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