【76】君たちはどう戦うのか──西山太吉『記者と国家』を読む/3-12

 元毎日新聞記者の西山太吉が先日亡くなった。彼は1972年(昭和47年)に沖縄返還をめぐる密約取材で、国家公務員法違反容疑を受け逮捕された。最高裁で有罪が確定(1978年)してからも、「密約文書」開示請求訴訟を起こすなど、国家の「機密」を相手に戦い続けた。事件が発覚した当時、私は公明新聞記者になって3年目。日中国交回復問題に、沖縄返還交渉に、政党機関紙政治部記者として少なからぬ関心を持ち推移を追っていた。後に衆議院議員になって、外務委員会に参考人として招致された彼に直接問う機会もあった。西山は「国家と情報開示」というテーマに向き合う上で、貴重な存在だった。後に続く「記者」の視点から垣間見ることにしたい◆冒頭の読売新聞の渡邊恒雄(現主筆)との若き日のスクープ合戦は興味津々。親友だった2人の運命はやがて相反する。方や読売のドンとして君臨し、一方は後半生を裁判三昧で戦う。「権力対新聞」と題した第1章の結末は、「渡邊という新聞界の超大物の秘密保護法制への積極参加は、権力対新聞の本来の基本構造を、根底から塗り変えてしまった」とある。権力そのものに寄り添っていった渡邊と、その暗部に挑み続けた西山という風に両記者を単純に比較するのは不適切かもしれない。毎日新聞の後輩が西山のことを「生涯、傲岸不遜。勝手放題で競艇好き。正義の味方は似合わない」(3-6付け『風知草』)と突き放して書いていたのは興味深い◆この本で西山が最も力説するのは、戦後日本の国のかたちが、長州一族(岸信介、佐藤栄作、安倍晋三)によって「根底から変革された」という点である。「日米軍事共同体」の完成が露わになったからだと言いたいようだが、これは陰の部分が表に出てきただけ。米国の掌で踊ってきた戦後日本に基本的な変化はない。一貫して真の「自主独立」とはほど遠く、いまさら国のかたちが変わったとまで大げさに強調すべきほどのことではなかろう。戦前の「天皇支配」から、戦後の「米国支配」へと、根底からの変革は1945年から始まっている。77年経った今、米国への追従は益々強まっているのだ◆西山は「イラク戦争」と「沖縄米軍基地」に見られる日米関係の真相を衝く。前者において、日本は「CIAがでっちあげた偽情報にもとづく」米国の強い要請で、「参戦」した。その総括は未だなされていない。それを曖昧にしたまま、「ウクライナ戦争」でのロシアを非難する真っ当な資格は米国にも日本にもないと私は思う。後者で米国は、米軍再編における海兵隊のグアム移転に伴う費用負担を迫る。その実態たるや「もはや同盟の関係でなく、主従の関係である」と西山は嘆くのだが、何を今更との感は拭えない。ことほど左様に「敗戦」の後遺症は深く重いのである。仮に米国を見習うとするなら、「情報公開」だろうが、日本にその強い風は未だ吹いてこない。「暴走し、衝突し、灰神楽を立てながら進む暴れん坊だった」(前掲の「風知草」)西山は、遅れ来る「記者」たちに対し「すべて主権者たる国民に正確な事実を報告する義務がある」と神妙に言い遺して去って逝った。(敬称略 2023-3-12)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【75】ありきたりのことを鍛え直す─小山哲・藤原辰史『ウクライナのこと』を読む/2-24

 ウクライナでの戦火が続く。ロシアのプーチン大統領が「特別軍事作戦」の名で軍事侵攻を始めた日から今日24日で一年。心騒がぬ日はなかった。昨秋、欧州政治に明るく心優しい友人(元T新聞政治部長)がウクライナ関連本をどっさり贈ってくれた。その中から〝すぐれものの一冊〟を紹介したい。タイトルには、頭にそっと「中学生から知りたい」との添書きがつく。その意味は、「基本に立ち返る」ことだけではない。①大人の認識を鍛え直す②善悪二元論を排除して相対化する③国際政治学的分析でなく歴史学的分析に立つ──の3つが含まれる。ポーランド史と「食と農の現代史」を専門とする歴史家2人の共著。〝どうするこの事態〟との観点だけの軽いものとは違って深い趣きがある◆冒頭、「自由と平和のための京大有志の会」の「ロシアによるウクライナ侵略を非難し、ウクライナの人びとに連帯する声明」(2022-2-26)文が掲げられる。これを受けて、今回の出来事をどうとらえるか?❶ロシアの軍事行動は、純然たる国際法違反である❷ロシアとロシア人を同一視してはいけない❸プーチン病気説には最大限の警戒心を持ちたい❹歴史を学び直して、点検し、少しでも改善する努力が大事である❺旧来の戦争観では追いつかない事態である──極めて的確なとらえ方でわかりやすい◆尤も、こう認識したのはいいが、そのあとの「地域としてのウクライナの歴史」(小山)を読んで、生半可な知識が見事に吹き飛んでしまった。まったくこの地のことが分かっていない自分に愕然としたのだ。それを次の「小国を見過ごすことのない歴史の学び方」が癒してくれる。私たちの大国に偏った歴史の理解の浅さを自覚させた上で、「NATOとロシアという二項対立図式から離れ」ることの大事さが力説される。プーチンによるウクライナの民間人の殺戮を欧米と同じ角度から批判するのでなく、「(欧米とは)異なった論理で、欧米より厳しく批判する糸口を見つけ出すこと」を迫る。「地政学風の力のゲームの議論」から、〝二項対立の罠〟に陥った論調。巷の現状に如何ともし難い我が身も反省するしかない◆最後の質疑での「日本がこれから中国の軍事大国化と米国との同盟の狭間でどのように生きていくか」という問いかけに対する答えが白眉だ。「あくまで中立であることを早期に宣言するという道を私たちはあまりにも最初から諦めている。この思考停止こそ、実は危険ではないか」とのくだりである。対米追従一本槍のお家芸になす術なしの我々国民大衆も耳が痛い。いま〝落日のムード〟が強い日本で、「米国か中国か、将来、どっちにつくのか」との〝地獄の選択〟を思考上で弄ぶ向きが少なくない。それをここでは嗜めつつ、「このテーマについてずっと考えています」と結ぶ。それは私とて同じ。自主独立の道と強靭な外交力の展開──「占領状態」を形の上で脱して70年。未だに見果てぬ夢の域を脱していない現実に天を仰ぐ。(2023-2-24)

 

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【74】国のかたちを阻む戦後の形──船橋洋一『国民安全保障国家論』を読む/2-20

 コロナ禍とウクライナ戦争によって、日本という国が改めて「国家の形」を持っていないことがはっきりした。阻んでいるのは「戦後の形」である──船橋洋一氏は、この認識のもとに、国家と経済と国民の3つさながらの安全保障の構想を早急に確立すべきだとこの本で強調している。「天は自ら助くるものを助く」との「自立」の大事さを強調した格言をサブタイトルに使い、明治開国の時代の「独立自尊の精神」の学び直しを、「ウクライナの指導者と国民」によって教えられたとする。2020年春のコロナ危機から2022年春のウクライナ危機までの2年間に書かれた評論集を一冊にまとめた本──幾多の知的修練を経た、時代を代表する言論人の所産を前にして、中国への関心と共にその背中を追いかけてきた私は感慨深い◆筆者は湾岸戦争(1990-91)の時に「一国平和主義」が問われ、東日本大震災による福島第1原発事故(2011)の際には、「絶対安全神話」(ゼロリスクの建前)が問われ、今、コロナ危機にあっては、「平時不作為体制」が問われているという。前二者はともかく、3つ目は補足が必要かもしれない。コロナ禍は、国民の生命と暮らしを守るために、〝信頼に足る政府〟の役割が決定的に大事である。いざという場合に、国民の自由な行動を制限し奪ってしまうのだから。平和憲法のもとで、「自分の国さえ平和であれば」「原発は事故を起こすはずがない」「平時は別に何もしなくてもいい」──このような〝危機管理ゼロ〟でよしとしてきた戦後の形の是非がいままさに突きつけられているのだ、と。この認識には誰しも共感するに違いない。「湾岸戦争」は遠い海外の中東でのこと、「福島第1原発」も日本だが特殊なケースと、たかを括っていた日本人も、我が身のそばの〝死に誘う接触者〟がいつ襲ってくるかもしれないとなれば事は別である。しかも、「ウクライナ」は「湾岸」の再現とも見え、「尖閣」「台湾」を連想させる◆船橋さんは「湾岸」時に「日本の(カネさえ払えばとの)身勝手さが恥ずかしかったし、右往左往する自民党政権が情けなかった」と。さらに「尖閣ショック」時には「民主党政権の不甲斐なさと外交無策ぶりに憤りを覚えた」と嘆く。そして今は、コロナ危機に直面しながら、「泥縄だったけど、結果オーライ」(第一波での民間臨調)の能天気ぶりは、「デジタル敗戦」から医療崩壊寸前に追い込まれた「ワクチン敗戦」(第四波)を生み出したからだ、と手厳しい。それに触れた上で、「日本に特異なのは危機対応における国家としての明確な司令塔と指令系統がしばしば『総合調整』の場でしかなく、また、平時と有事のそれぞれを律する法制度の明瞭な切り分けがなく、いわばグレーゾーンの曖昧性を残している」と指摘。「日本は自由を守り、民主に則るためにも有事の法制度を構築しなければならない」と根源的な課題を挙げる◆事ここに至るまで危機管理対応ができないまま戦後77年が経った。私が『77年の興亡』で主張したのは、戦前の明治憲法の下での天皇支配による軍国主義に代わって登場した、「国民主権・基本的人権・恒久平和主義」の戦後憲法の内実の脆弱さだった。それは「国の形」と呼ぶにはあまりにも理想に過ぎた。国際政治の過酷さの現実に耐え得る強靭さを兼ね備えていないという他ない。船橋さんは、第1部「国家安全保障:レアルポリティーク時代の幕開け」で、「最も恐ろしい日米中の罠」を、こう書く。「米中対立が軍事対立へと激化すると、日本は米国の同盟国としての義務と自らの実存的必要性のギリギリの矛盾に直面させられる」ので、これを回避するべく、「中国に日本の自国防衛の意思と能力、日米同盟の抑止力の有効性、科学技術力とイノベーションの力を常に理解させるべきである」と。米中対決の中で日本が選択肢を失う罠に陥らぬことを力説してやまない◆グローバル化の進展と共に、経済・通商の分野では益々国家の枠組みを超える交流が望まれる。コロナ禍発生時には、国家間相互の支援の機運向上が期待された。しかし、時代の流れは不幸なことに国家の内外を問わぬ〝分断化〟が拍車をかけている。民主主義国家と専制主義国家の枠組みの危機到来などと騒いでいる中で、国の形さえ定まらぬ日本の漂流は哀れと言うほかない。戦後の形の最たるものである憲法の見直しこそが求められていると、私には思えてならない。(2023-2-20)

※他生のご縁 市川、中嶋、西村氏らとの繋がり

 船橋洋一さんとのご縁は市川雄一先輩の介在があってこそです。かつて西村陽一記者(後に常務取締役)が『プロメテウスの墓場』を書いた時に、4人で中国、ロシアを語り合ったのが最初で、印象深い出会いでした。

 後に、中嶋嶺雄先生が秋田国際教養大学でシンポジウムをされた時のコーディネーターのひとりが船橋さんでした。秋田までわざわざ聞きにいったものです。私の処女出版での催しに世話人に名を連ねて頂きもしました。

 

 

 

 

 

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【73】「巨悪」と「被災」に挑む「仕事人」──西岡研介『噂の真相 トップ屋稼業』を読む/2-13

 『神戸新聞』から『噂の眞相』へ。新聞記者からトップ屋へと転身した筆者は、その後、週刊誌などを舞台にフリーランスの物書きとして活躍している。この本が世に出たのは2001年。あの頃、直ぐに読んだ。新聞記者時代の彼をそれなりに知っていて、大いに興味を持ったからだ。読み終え、不思議な爽快感を感じた。こういう男に睨まれると、スキャンダルの主は怖いだろうなあと思った。うち続く不条理な出来事。その影でうそぶく悪者。誰かこんないい加減な奴を始末してくれないものか。世間一般の秘められたる期待を背に、快刀乱麻を断つ‥‥。実は、新しい年を迎えた2023年1月8日に久しぶりに放映された新シリーズ『必殺仕事人』(東山紀之主演)を観た。スカッとした。そして、改めてこの本を思い出し、ほぼ20年ぶりに再読した。「そうか。西岡は『仕事人』なんだ」と独りごちた。〝強きをくじき、弱きを助ける〟──彼の人生の〝変わりばな〟となった本を前にして、そう合点する◆彼がターゲットにした最初の人物は、N高検検事長。いわゆる女性スキャンダル。いつでもどこでも起こってきたし、今もある不祥事。珍しくはない。だが、この事件は、やくざな『噂の眞相』が取り上げたものを、かたぎの『朝日新聞』が追いかけてトップ記事にしたことが違った。結果的にはスクープした西岡記者の名を高からしめるに十分だった。彼の手にかかった有名人は数多いが、この本で読者としての私の印象に残ったのはN弁護士、I元知事、M元首相の3人。本には勿論それぞれ実名で激しく攻撃されているが、故人であったり、噂の域を出ぬものもあったりするのではと、あえて実名は書かない。彼は新聞記者から『噂眞』に転職した理由を、「マスコミ報道が孕む『構造的欠陥』に悩んだ私は、批判の対象を権力者、しかも大物に絞るというこの雑誌の編集方針に共鳴したからこそ」と書き、そこに「逃げ込んだ」と心情を吐露している。彼のいう「構造的欠陥」とは「『ペンを持ったお巡りさん』よろしく、捜査当局と一緒になって、罪を犯した『元一般人』を追い回し、その過程で罪なき人まで傷つけ、時には『冤罪』まで作り上げる‥‥」ことを指す。耳の痛い事件記者は多かろう◆この本は、いわゆる大物の「噂」を追って一撃を加えるトップ屋の実像を描いただけではない。阪神淡路大震災に直面した地元記者としての、辛くいたたまれない経験もしっかり書き込まれている。加えて「災害や事故、そして犯罪による被害者に対して傍若無人な振る舞いをして恥じないマスコミは必ず社名を挙げ、徹底的に批判した」とまで述べて、自分の属した世界に厳しい刃も向け続けた。しかし、彼は、それと同時に、自身が転職をした背景に「自分は震災から逃げた」ことも忘れていない。この時から約10年後の2012年4月に出版された『ふたつの震災 [1・17]の神戸から[3・11]の東北へ』は、同僚記者だった松本創との共著だが、その思いへの決着の書でもある。「一瞬にして5000人以上の命が失われ(最終的な死者は6434人)、住民や警察、消防による懸命の救出活動が続いていた現場で、西岡はあまりに無力だった。救出を手伝うでもなく、悲しみにくれる遺族にカメラを向けることはもちろん、声を掛けることもできず、ただただた佇んでるだけだった」──ここから始まる「神戸から東北へ」の被災地でのトップ屋の筆致はいかに、と新たな西岡を追う読者の心は妙に高まるのだ◆「阪神・淡路大震災で私たちの前に立ち塞がった最大の敵は、自らの記憶も含めた『風化』だった。当時、ともに20代のチンピラ記者だった私たちはそれに、いともたやすく打ちのめされた。(中略) 今後も東北の被災地を歩き、愚直に、言葉を紡いでいく──。阪神淡路大震災で味わった無力感や後悔を今も抱え続けるもの書きの、ささやかな抵抗である」。こう、西岡記者はあとがきを結んでいる。スキャンダルへの厳しいタッチと大震災地への優しい眼差しと。ジャーナリズムが追う二つのジャンルは、「人災と天災」という2つの災害を前に立ち向かう人の心根をも分ける。新聞記者として人生のなりわいをスタートして、政治家を経て今は、元記者として老境を迎えた私も、西岡記者の激しさと優しさを前にして共感することは少なくない。『仕事人』の原点は、社会悪、巨悪への怒りである。その点を忘れぬようにと、自らを戒める。と共に、縁あった記者であり、トップ屋の行く末も見届けたい。(2023-2-13)

※他生のご縁  取材する側からされる側へ

●筆者と初めて会ったのは、私が衆院選に出馬した時。今からほぼ30年前。彼は候補者を担当する駆け出しの記者。その後の〝変身〟が信じられないほど「純な印象」でした。と、思う私自身も似たり寄ったりでしたが‥‥。

●ここで取り上げたように、彼は堂々たるもの書きに〝進化〟していきました。彼の活躍を見るたびに私も原点を銘記するのです。

 

 

 

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【72】医師と患者の軋轢の原因──小松秀樹『医療崩壊』を読む/2-7

 コロナ禍に入って4年。いっとき盛んに危惧された「医療崩壊」も、落ち着いてきたかに見える。この言葉をメディア上で最初に私が聞いたのは、小松秀樹さんのこの本による。既に出版後17年ほどが経つ。ここ数年使われている「崩壊」とはいささか異なった意味合いだった。コロナの蔓延によって、医師や看護師からベッド数に至るまでが足らずに、通常の医療行為が出来なくなるということではない。医師たちが診療に対する患者の不満やら、警察官僚の介入などに至るまでの攻撃から逃避する現象をさす。著者はそれを「立ち去り型サボタージュ」と命名している。勤務医が病院から、より小さな病院や町医者へと転身するかたちをとるようになることを意味する。この現象は、その後も止まることなく、じわり着実に浸透している。そこにコロナ禍が襲いかかった。より一層事態は深刻になっていることは間違いなさそうだ。医療が抱える深刻な課題を考えざるをえない◆この本を小松さんが書いた当時は東京の虎ノ門病院の泌尿器科部長だった。実は、これより先に、『慈恵医大  青戸病院事件』を出版し、患者と医師の対立がこれ以上増幅すると、日本の医療は崩壊すると危惧して警鐘を乱打した。その事件は、前立腺全摘手術を施行された患者が低酸素脳症で死亡したことから、同病院の医師3名が逮捕された(2003年9月)ことに起因する。小松さんは当時、「国民に極悪非道の医師像が刻印された」としている。その3年後にこの本を書き、翌年『医療の限界』を出している。1作目は、発端としての「事件」を描き、2作目では、広範囲な問題の「所在」を明かし、3作目で、医療への幻想を断つべく持論の「普及」を図った。こうした一連の「医療危機」を訴える三部作は、話題を呼んだものだ。いわゆる「医療ミス」は、日常茶飯の出来事のように見えるが、その判別は難しい。医師の側を非難するメディアの力に抗する存在は珍しい。まして、開業医ではなく、勤務医の立場からの擁護論は新鮮だった。小松さんは、前者のバックにある「医師会」に対抗して、弱い立場の勤務医のための「第二医師会」の創設まで提唱した◆著者は「医療崩壊の原因は患者との軋轢」にあり、そこから「使命感を抱く医師や看護師が現場を離れつつある」との認識を示す。そこから起きる「医療の崩壊を防ぐために」、「医療事故・紛争に関して現状を改革し、医療への過剰な攻撃を抑制する必要がある」という。少し前にテレビで『ドクターX』なる番組が人気を博し、「私失敗しないんです」とのセリフが流行語のように使われていた。どんな病状でもいかなる事態にも100%の成功はあり得ないが、それをやってのけるスーパー女医への憧れは、正反対の現実を裏返した庶民願望の表出だった。現実は至るところで、「軋轢」が噴出している。どんな名医でも新人の頃は手元は覚束ない。いかなる患者もやがて必ず死ぬ。にも関わらず、病院に、巷に外科手術は100%の期待感に満ち溢れている。このギャップから始まって、善意の医師と患者が相互に憎悪の対象になり、いつ何時混乱の坩堝と化すかもしれない◆小松さんは、個別具体的な対応策の前に、最も大事なことは、「死生観を含めて医療についての考え方の齟齬が大きいことが最大の原因である」として、「まず最初に、日本人の行動様式を含めて、基本的な認識と考え方について、国民に注視される中で象徴的議論を行い、総論としての齟齬の解消を図らねばならない」としている。言いたいことはそれなりにわかるものの、なんとなく回りくどく釈然としない。要するに、「死生観を含めた医療の考え方」とは、死への覚悟と延命措置のバランスに尽きよう。医療は万能ではない、基本は持って生まれた個人の生命力と寿命に由来するとの思想、哲学にあると思う。昨今、日本人の長寿化に伴い人は限りなく生きるもので、よほどでないと死なないといった勝手な考え方が蔓延している。それゆえ、「日本人の行動様式を含めた基本的認識」は、従来の医療従事者への尊敬と信頼が薄れて、クレイマーの対象へと貶められている。ともあれ、極めて重要な問題を提起された。しかし、小松提案の「国民注視の象徴的議論」は宙に浮いたまま。まことに残念なことである。(2023-2-7)

※他生のご縁  虎ノ門病院で「腎臓結石」の手術を受ける

 実は私は小松さんの三部作が出始めた頃、たまたま偶然に、虎ノ門病院の泌尿器科にお世話になりました。小松部長の指導担当のもと、若い医師によって「腎臓結石」の手術を受けたのです。いらい、親しくなりました。

 その結果、党の理論誌『公明』誌上で、医療にまつわる対談を行いました。その後、私は厚生労働省で「高齢者医療改革」を担当するような巡り合わせに。およそ医療についてはド素人だったので、小松先生の理論が大いに刺激になりました。あれからほぼ20年。色々と毀誉褒貶がおありになったようです。残念なことに疎遠な関係が続いてしまいました。

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【71】見えない国家像── 中山太郎『実録 憲法改正国民投票への道』を読む/1-31

 「外交・防衛」と「憲法」は、20年間の衆議院議員生活の中で私が特に関心を持ってきた、2つのテーマである。この分野で多くの先輩、同僚と知己を得てきたが、両方に最も足跡を残された政治家といえば、中山太郎氏であろう。戦後日本が初めて国際貢献を問われた湾岸戦争当時の外相(1989-91)であり、憲法改正国民投票法成立時の衆院憲法調査特別委員長(2007年)であった。憲法調査会の時から所属していた私は、中山会長にはお世話になった。現役時代に関わった法律の中で最も大きいと思えるものが、この憲法改正国民投票法である。成立までの一部始終を「実録」と銘打ったこの本を読むことで、改めて『日本国憲法』のいまを考えるきっかけとしたい。世界の国々の憲法の中で、一度も改正されたことがない日本国憲法。実は、その改正の手続きを定めた法律でさえ60年もの間なかった。この本からは「改正」の前提となるルールをまず作ろうという当時の政治家たちの熱い思いが伝わってくる◆憲法調査会から特別委員会を経て現在の憲法審査会に至る3つの憲法議論の舞台の裏方が事務局である。その局長を一貫して務めてきているのが橘幸信氏(現在衆院法制局長)だが、第一章で中山会長が橘局長を怒鳴りつけた場面がでてくる。海外出張で会長が留守であった間に、調査会運営に政府関係者を入れることにしたとの「橘報告」に対して怒った。「憲法論議に政府なんかに手を突っ込ま」せてはいけないとの趣旨だった。普段は温厚極まりない会長と憲法と国会の生き字引のような局長のバトル・エピソードを知って、今更ながらに憲法調査会の尋常ならざる佇まいに感心した。国会議員の3分の2の賛成がなければ改正の発議ができない憲法を調査、審議するにあたって中山会長はいつ何時もそれを忘れなかった。それ故に野党議員との関係を痛いほど大事にし続けた。序章に、怒号の中での採決となった日のことが生々しく描かれた「野党による混乱の『演出』」は迫力満点だ。修羅場の直後に、福田康夫理事(当時=元首相)と、中山氏との会話が味わい深い。「あなたは老獪な政治家ですね」「いや真面目過ぎるんです」と◆改正手続き法の論戦の全てが終わった直後、会長を囲んで私を含む4人の与党理事が委員会場で談笑している写真が最終章のとびらに使われている。そのうちの1人船田元氏が与野党協議を振り返って「三党で話を煮詰めていく作業は非常に面白いものでした。(中略) 『あ、こういうことで政策が決まっていくのか』とか、『政党の壁を越えて妥協するというのはこういうことなのか』と感じる瞬間があって、これは知的刺激でした」と述べている。しかし、安倍首相(当時)の発言などが災いし、枝野民主党筆頭理事がその立場を離れるといった事態が生まれた。その無念さの披歴に私も共感した。この審議の経過の中で、地方公聴会などで国民の声をしっかりと聞くことに私はこだわった。理事懇談会の場での発言がきっかけとなって「『二ヶ所で地方公聴会、中央公聴会を追加で一回』がスムーズに決ま」ったことが明かされている◆先年、憲法調査会発足後20年を期して各種メディアがその後の憲法改正論議を振り返るインタビューを試みた。その際に、私も取材を受けた。かつて公明党にも「自衛隊明記案」があったが、との問いかけに「党内では少数意見だったが、間隙を縫って滑り込ませたという記憶がある。安倍首相が9条加憲を掲げたのは、公明党に対する変化球だろう。だが、加憲であるはずの公明党が、その球にバットを合わせようともしない。見逃しばかりではなく、ファウルになっても党内や与党間でもっと議論をたたかわすといい」と述べた上で「公明党は合意形成に努力をせず、『安保関連法で事足れり』と護憲に戻ってしまっている」(毎日新聞2020-2-8付け)といささかオーバーラン気味に答えている。中山氏はあとがきの文末で、これからは、「3つの9条」(戦争放棄と79条の裁判官の報酬引き下げ禁止、89条の私学助成等の禁止)だけに焦点を当てた憲法論議は過去のものとなる、と予測した上で、生命倫理や環境権などの新しい論点が持ち上がってくると述べている。そして「その時には、『護憲派』『改憲派』などという言葉はもうなくなっています。ただ、日本をどういう国にしたいかの理想のぶつけ合いだけがある」と。私もこの中山氏の見通しに共鳴するが、依然議論は停滞しているのは残念だ。この国にいま必要なのは、求められる国家像の提示とその徹底した議論であろう。(2023-1-31)

※他生のご縁 印象深い医師の視点

 中山太郎氏は、政治家であると共に、医師でした。憲法調査会の様々な場面でも科学についての重要な視点を持っておられたのが印象に残っています。

 私が初めて本を出版した際に、それを記念する会を開いたのですが、壇上には発起人になって貰った学者、文化人ばかり。「政治家のパーティーとは思えなかったねぇ」と後に感想を述べてくれた中山さんにも上がって貰えば良かったと、今頃後悔しています。

 

 

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【70】ネグレクト、虐待を防ぐために── 阿部憲仁『人格形成は3歳まで』を読む/1-24

 三つ子の魂百まで──昔からよく聞いてきたし、しばしば口にするフレーズだ。人の性格や気質などのあり様は、ほぼ三歳ぐらいで決まり、幾つになっても変わらんという意味に私は理解してきた。青年期に、気弱な自分を変えたいとの思いもあり、日蓮仏法の門を叩いた。だが、「宿命転換は出来ても、性格は変えられない」と知って失望したものだ。それから60年近く経った。今ではしみじみとその意味が分かる。人間形成は、環境で決まるか、それとも、生まれながらのもので決まるのか。こんな議論も繰り返してきた。結論は二者択一ではなく、どっちも影響するということに落ち着いたものだ。そういう過去を思い出す本に出会った◆『人格形成は3歳まで』の著者・阿部憲仁氏は、国際社会病理学者で桐蔭横浜大の教授だが、実は20年来の私の親しい友人でもある。副題に「最新凶悪犯罪分析に基づく子育ての参考書」とある。28人の凶悪犯を分析し、幼少期の家庭環境に問題ありを実証した上で、最終章に「家庭における親子の在り方──子育てマニュアル12の法則」がまとめられている。「失敗した者たちから学ぶ『こう育ててはいけない』という反面教師的なマニュアル」なのだ。1995年の阪神淡路大震災以降、この30年近く〝大災害の時代〟の到来と呼ばれてきたが、同時に〝凶悪犯罪多発の時代〟とも言われる。日本の社会も自然環境も、「安全・安心」はもはや神話の領域とさえ。〝子育てこそ最大のテーマ〟と施政方針演説で述べた岸田首相や政治家に読ませたい。少子化対応で予算分配にしか関心がないようでは、あかんよと。阿部さんはアメリカで、「ギャング、マフィア、白人至上主義者ら数多くの凶悪犯罪者たちと直接やり取りを重ね、彼らの家庭環境と犯罪タイプを含めた人格分析に努めてきた」経歴の持ち主である。かねてその体験を仄聞してきたが、改めてその所産を披歴され、怖い犯罪者の顔に辟易しつつページを繰った。いやはや、よう書くなあと呟きながら◆安倍晋三元首相射殺犯の山上徹也を筆頭に、28の類例が考察される。ここではかねて気がかりだった3つの事件の分析を取り上げたい。一つ目の山上の犯行は、「『母親の愛情のネグレクトによる無差別殺人』と同じ心理メカニズム(常態化した攻撃性)によるもの」だと断定する。「怒りの放出先が、元凶(母親)に向かわず」、旧統一協会から元首相へと移行していった流れの分析は鋭い。3年前のSNSでの「俺は努力した。母のために」との「悲痛な叫び」は、「自分の犯行を『正当化』するための後付けの大義名分である」と。二つ目は、「元厚生労働事務次官連続殺人事件」。愛犬が保健所で殺処分されたことに対して、所管官庁のトップに「復讐」した。父が献身的な交通指導員だった家庭で、顧みられずに息子は育った。「親の偏った生き方によるネグレクトによってポッカリと空いた穴」をどう埋めるか。心の闇は愛犬の死から40年余後に炸裂する。その原因は「子供の感情を完全に無視した父親の非道による」と。三つ目は、「元農水事務次官長男殺人事件」。この事件の元凶は、「『学歴』のような自分の表面的な価値観でしか子供を見ることのできない親の姿勢」。両親に、子供の時から「ネグレクトされ続けた」長男は44歳の時に、元事務次官の父親とぶつかった末に殺害された◆著者は、凶悪犯罪を単発自爆型=ネグレクト系環境(親から子に関心が向けられない)と、犯行継続型=虐待系環境(子どもに不自然な力がかけられる)とに大別する。幼児期に、ネグレクトや虐待を受けて育ったら、こんな恐ろしい犯罪に関わる人間に育つのかと、改めて思い知らされる。そうならぬために①家庭は、子どもが社会に出る準備の場②親はもう一度自分自身の性格や行動を見つめ直そう③子どもが自立して生きていける力をつけてやる④親が子に愛情を与えなければ「人」として育つことはできない──などの12のマニュアルが興味深い。「子育ての主役はあくまで『母親』である」との11番目のマニュアルを発見して、父親失格の私など正直ホッとした。読み終えて、人間が本来持って生まれた資質は、主役・母親、脇役・父親の「ネグレクトや虐待」によって、残酷にも捻じ曲げられることは明確になった。私は、「日本の危機は、〝団塊世代の子育ての失敗に起因する〟」との自論を持ってきた。今さら、〝孫育て〟に妙な手や口を出して、事態をさらに悪化させぬよう、じっと見守るしかなさそうだ。(2023-1-24)

※他生のご縁 「熊森協会」が繋いだ出会い

 阿部さんとのご縁は、一般財団法人「日本熊森協会」に始まります。2人ともクマと自然を愛してやまぬもの同士。両方の連れ合いを交えて4人で幾たびか東京・新大久保でお好焼きの鉄板を囲んだことも懐かしい。

 彼が英語の達人と聞いて、私は恥を忍んで個人塾の生徒になるも挫折。その師が私につけた渾名は「永遠の受験生」──これは〝生涯学習〟の志を捨てぬ私の本質を見事に突いた名ネーミングと密かに満足するしだい。

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【69】「縁」が支えるコミュニティ──岩見良太郎『場のまちづくりの理論』を読む/1-17

 

 東京一極集中を防ぐことを目的に、地方移住を希望するものに対して、国が支援金を補助する試みがある。だが、なかなかうまくはいっていない。人為的に住む場所を誘引されても、そう簡単にことは運ばない。仮に色んな条件が適合したとしても、その「場所」で、自分が好ましい「場」が得られるかは、別問題だ。高齢になってひとり暮らしを余儀なくされても、住み慣れた「場所」を離れがたいのは、楽しい仲間たちとの「場」があるからに違いない。一方、地方では商店街に「シャッター通り」が随所に目立ち、少し人里離れたところでは「限界集落」化現象も珍しくない。陸の孤島といっても決して言い過ぎでない「場所」に、孤独を強いられる〝場なし〟の老人も多いのだ。この状況をどうするか──そんなことを考えている時に、我が友人にその道の専門家がいることを思い出した。灯台下暗しとはこのこと。高校同期で、現在、埼玉大名誉教授の岩見良太郎さん。都市計画と地域社会の関わりを研究してきた専門家である。早速彼の本を読むことにした◆実は、学生時代に、彼が「住民運動」に関わっていると、風の噂で聞いていた。その中身が、区画整理、再開発であることを初めて明確に知った。住民主体の、人々が住みやすい本当のまちとは何かとの問題意識を持ち続けて学問的アプローチをしてきたのだ。『場のまちづくりの理論』は、専門書で少々とっつき難い。このため、読みやすそうな『「場所」と「場」のまちづくり イギリス編・日本編』を先に読み、専門書は後回しにした。この二段構えは成功した。先に読んだ方は、いわば実践書。彼が若き日に1年余り家族と共に滞在した英国と日本の、〝まちづくり探訪〟比較の書である。彼の学問的思索の結実の書と、それに至るヒントを掴み得た本を同時に読み、これまで政治家の端くれとして、「住みやすいまちづくりを目指して」という言葉をいかに軽く、いい加減に使ってきたかを思い知った。以下2冊の読書録を合わせ書く◆「現代都市計画批判」とサブタイトルにあるように、この本のコアは、日本の都市計画がいかに住民本位でなく、不動産業中心であるかを具体例を挙げつつ実証しているところにある。同時に、英国編でも日本編でも、住民の反対運動がまちづくりの過程で登場する。かつて私が若き日に歩き回った中野区上鷺宮や、国会議員時代に幾たびか訪れた二子玉川など懐かしい事例には目が釘付けになった。英国編でユニークな公開審問会を傍聴したくだりにも惹きつけられた。公開審問官制度とは、都市計画が実行に移される場合に、関係住民が参加して徹底的に議論する仕組み。審問官というのは中立的な立場で判断を下す公人をさす。岩見さんはたっぷり時間をかけて議論する英国人に感心する一方、諸手を上げて賛同することは出来ないと冷静な分析も加えていて興味深い。討論が苦手な日本人をめぐるエピソードには目が痛いが、同時に民営化は英国社会になじまないなどの視点も盛り込まれ、日英文化比較論も楽しめる◆著者はこれまでの「都市計画」を批判した上で、代案としての「場のまちづくり」をこの2冊で提示した。従来とは全く異なる「都市計画を暮らしの中に埋め直し、くらしの活動そのものとして、まちづくりをとらえるという発想」によるものだという。この表現では具体的なイメージは湧いてきづらいが、最終章の「参加の場所づくり」における「縁」というキーワードを使った、公園や福祉と防災のまちづくりや、特別養護老人ホームの柔らかな場所づくりなどの事例がわかりやすい。さらに、日本編における足立区の防災果樹園や京都西新道商店街のまちづくりのケースなどを読むと、一段とはっきりする。この本を読み私の問題意識と連動して、二つ気にかかることがある。一つは、「阪神淡路」や「東日本」などの大震災後のまちづくりに、住民の意思が殆ど反映されていないという点。元衆院国土交通委員長として、内心忸怩たる思いがある。もう一つは、『人新世の「資本論」』で著者の斎藤康平氏が世界のまちづくりの好例として挙げているスペインのバルセロナなどでのコミュニティづくり。岩見さんのまちづくりの理論と、これは明確に繋がっていよう。神戸での高校同期の友の本を読み、失われた歳月と若き日の希望を取り戻し、世界の明日を語りたい思いでいっぱいになっている。(2023-1-17)

※他生のご縁 ベッカムに出逢い家族連携でサインをゲット

 岩見さんとは、長田高校16回生の同期。公明新聞時代に、都市計画にまつわる学問を彼がやってると聞いて、寄稿を依頼するため、新宿に呼び出したものです。その顔には、昔かけてたメガネはなく、颯爽と裸眼で現れたのには驚いたことを覚えています。

 『場所と場のまちづくり』は、各章の合間に挟まれたコラムもめっぽう面白いのです。あのイギリスが誇るサッカーのベッカム選手と町中で彼と家族3人が出逢った時の話には笑えました。とっさに奥さんは彼のパーカーを脱がせ、娘さんにサインペンを買いに走らせ、自分は若い女学生たちの列に並んだというのですから。

 

 

 

 

 

 

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【68】デザインが世界を変えた──中西元男『コーポレート・アイデンティティ戦略』を読む/1-11

 デザインによって企業経営が根本的に変わり得ることを、25の実例で示した本を読んだ。深い充足感に浸っている。長く、コーポレート・アイデンティティ、略して『CI』の何たるかを漠然としか知らずにきた我が身を恥じると共に、一本の補助線のおかげで幾何の問題が解けたようにストンと腑に落ちた。著者の中西元男さんは、Progressive Artist Open System (PAOS)の代表として、50年余も活躍してきた。日本におけるCI戦略コンサルタントの第一人者である。実は我が母校・長田高校の誇るべき先輩でもあり、知己を得てから四分の一世紀ほどが経つ。PAOSは「デザインでここまで出来るのだというケーススタディを個別企業のコンサルティングにおいて数多く築きあげてきた」が、これはその「網羅的概括的紹介版」である。そこには、企業経営というものが、知的かつ美的に展開することがどんなに大事かということが事細かに分かりやすく描かれている。コンサルティングにあたっての戦略の形成過程が文章や図式などで惜しみなく披露されている。完成を見たロゴやその展開ぶりを前にして、誰しも納得するほかない◆CIの具体的表れとしてのロゴマークやロゴデザインで、経営戦略を表示出来得る、もっと言えば、商売そのものがうまく運ぶとは信じられないという向きは少なくなかろう。結果としてのロゴを皆甘く見ていて、それが生み出されていく過程と一体でセットになっていることに思いが及ばない。かくいう私も大事だとは分かっていても、それとこれとは煎じ詰めれば別と見ていた。それを①企業経営を変える②製品のブランド力を高める③企業フィロソフィを形にする④大企業の体質を変える⑤ビジュアルで価値向上をはかる⑥中小企業を活性化する──など全部で6つの角度から、成功例を解き明かしている。ベネッセコーポレーション、ケンウッド、INAX、NTTドコモ、松屋、東レ、NTTなどといったおなじみの企業が次々と登場する。まるで、病院の待合室で偶然、知人友人に会ったときのように、私には新鮮な驚きだった。そういえば、この本、患者のカルテとも読める◆ここで今私が挙げた企業7つは、いずれもPAOSが挑戦した仕事の中でも、とりわけ成功例だったと思われる。というのも、同社が「経営にイノベーションを起こすPAOSの歩みは、世界でも稀な戦略的デザインの成果の歴史」とのタイトルのもとに発行した、色鮮やかなペーパーには、冒頭にこの7社が取り上げられている──*地方の中小企業に飛躍的な発展の道を拓いた〈ベネッセ〉*経営不振企業を見事に蘇らせた〈KENWOOD〉*新事業開発で確固たる将来基盤を築いた〈INAX〉*歴史に残る名ブランドを生み出した〈NTT  DoCoMo〉*百貨店業界の通念を覆し目を見張る企業再生〈松屋銀座〉*企業内価値体系の変革で先進先端企業へ蘇業〈TORAY〉*115年の官営通信業にサービス業化への道を開いた〈NTT〉──といった具合に。企業名が違っているのは、CI戦略の使用前と使用後の相違による。これらの企業を筆頭に、成功例は殆どと言っていいほど、経営トップ周辺と中西さんとの呼吸が最初からピタッとあっていたというのは興味深い。この辺り経営もCIもいかにも人間的だと思われる◆尤も、そうとばかり言えないケースも幾つか出てくる。そのうち偶々私と関係の深い業界である毎日新聞については考えさせられる。新聞メディアはこの当時(本は2010年発刊)以上に、もっと存在危機に直面している。その原因は、ネットの普及もさることながら、「新聞社が経営体としては極めて古い体質である」ことだという点だ。「毎日」は、世界初の戸別配達を始めた日本最古の新聞社だが、随分前から退潮傾向にあり、私の友人(同大阪本社元最高幹部)は、「もはや『毎日』は不動産業で、新聞社ではない」と自嘲げに言う。その都度、「いや『毎日』こそ最後の『ぶんや』と言える記者魂を持った侍が多く、読ませる記事が多い」と、私は肩を持ってきた。なぜこの新聞社が低迷を続けてきたかについて中西さんは具体的に触れた上で、それを打開する手立てを提案した。だが、競合紙は気付いても、残念なことに『毎日』は受け入れなかった。「せっかく必要な種蒔きはしてきたのに」と悔しさが伝わってくる。新聞社だけでなく、この10数年の間、日本には構造不況業種が続々と増えている。既成の企業全体の地盤沈下が厳しい状況下で、CIはどう力を発揮しているのか。私はこの本を読んで、急に気になり出した。戦後日本の右肩上がりの時代の水先案内人の真骨頂がいま問われているのでは、と。(2022-1-11)

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【67】「頼朝」と「家康」の違い─呉座勇一『武士とは何か』を読む/1-4

 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が年末に終わって、脚本家の三谷幸喜を改めて見直してみたり、あれこれの俳優の出来栄えを、ひとしきり友人たちと論じたりもした。一番の効用は「鎌倉」という時代や武士の捉え方について関心を深めたことであろう。偶々、図書館で呉座勇一の『武士とは何か』の存在を知って読むに至り、大いに刺激を受けた。この人については新進気鋭の歴史家としてかねて注目してきたが、我が見立てに狂いなきことを実感した。この本は源義家から、伊達政宗までの33人の「中世武士たち」の言葉──名言、暴言、失言──を抽出した上で、その特徴を描きだしている。対比されるのは江戸時代に生きた「近世武士たち」の『葉隠』『武士道』といった書物で確立されたいわゆる〝武士的なるもの〟とは全く違う武士像が展開されて、まことに興味深い。『鎌倉殿』の時代を生きた武士たちがほぼ半分ほど登場して来ることから、映像を後追いする感もあり、懐かしさの中で、日本史の学び直しにもなる◆「武士とは何か」と、あらためて問われると、天皇=朝廷を武力で守ることを職業にした人たちというところだろうか。私は、平家と源氏の抗争の中で確立していった集団という風に、漠然と考えてきた。学問的には、「荘園の中で成長した上層農民が自衛のために武装して武士になった」との説が定着していたが、今は完全に否定され、発生を京都の武官に求める新説が唱えられたものの、論証は十分でなく、「武士発生論は手詰まりの状況にある」という。そこで、呉座は、歴史学会の伝統的なアプローチではなく、「武士の気風、メンタリティーを考える」ことにしたというのである。学者の世界の面倒でうるさい議論をとりあえず棚上げして、下世話な角度から考えようという姿勢は大いに賛成である◆中世と近世の武士──大河ドラマで比較すると、鎌倉殿の時代の武士たちと、家康が作った徳川の時代の武士とでは、気風が全く違うというわけだ。頼朝は御家人に所領を与え、御家人は頼朝のために戦う。この基本が崩れると、さっさと離れて違う主人を求める。「つまり、中世の主従関係は互いに義務を負う双務的関係である」。一方、江戸時代に出来上がった武士の世界は主君への忠義が絶対視された片務的関係である。現代日本では、ややもすると今に近い江戸時代の武士に親しみを感じる傾向があり、その眼で鎌倉殿・北条執権の時代を見てしまう。すると、簡単に主従関係が壊れることに違和感を抱く。身内でも次々と殺し殺される残虐性に少々辟易する一方、ドライな主従関係に新鮮さを持った向きもあろうか。江戸期に比べて、鎌倉期では独立心が旺盛だったといえるのだ。その辺りを比較して描いていく手法は小気味いい◆著者は、33人の武士たちの様々な発言を手際よく料理しながら、様々な歴史学者たちの旧説や新説を紹介していく。例えば、有名な藤原定家の「紅旗征戎、我が事にあらず」について、戦や政治にまつわる出世に関心を向けず、詩歌の世界に没頭した定家のこころぶりといったこれまでの定説を破って、彼がその道についていくだけの力がなかったからだとする説を紹介している。天の邪鬼な私など大いに共鳴する。また小説家の井沢元彦との論争をめぐっても触れられており、面白い。歴史学者をいいように叩いてきた井沢と、呉座の間では週刊誌上での公開質問状などのやりとりがあるが、私は井沢ファンとして、歴史学会を向こうに回して、喧嘩をふっかけた意気や壮なりと評価してきた。呉座がこの本で学者の様々な新旧の学説をわかりやすく紹介しているのは、この論争の影響もあるに違いない。(敬称略 2023-1-4)

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