【第1章 第7節】中国を舐めていると日本は没落し続ける━━邉見伸弘『チャイナ・アセアンの衝撃』を読む/12-2

 経済のリアルな現場からの新鮮な報告

 中国を分析する際に、政治の視点が経済を見る目をどうしても曇らせる。やがて中国が世界の覇権を握るとの予測をデータの裏付けと共に示されても、頭のどこかで打ち消す響きが遠雷のように聞こえてくるのだ。しかし、経済のリアルな現場からの報告は、全く違う印象をもたらす。邉見伸弘『チャイナ・アセアンの衝撃』は、これまでの「中国観」を台風一過の青空のようにクリアにしてくれる出色の本である。著者は、モニターデロイト及びデロイトトーマツコンサルティングのチーフストラテジスト及び執行役員/パートナー。豊富な図表、グラフを駆使し、章ごとに分かりやすいポイントをまとめてあり、読みやすい。

 この本が世に出て既に5年近い。中国が醸し出す経済状況は変化を見せ、ややもすればその「減速」を指摘する向きも多い。ここでは、出版2年後に著者が補講的に発表した論考「チャイナ・ASEANの変質と加速」(Voice2023年4月号)を併せ読みながら、その実像を見抜く目を養いたい。アジアに関心を持つすべての人に役立つこと請け合いである。

 まずは本の方から。「日系企業はここ5年で中国からの撤退が続く。大きな理由はコスト増だという」「自動車産業等においては日本企業がタイを中心に圧倒的なシェアを占めていることもあり、中国製品は安かろう、悪かろう、アフターメンテナンスでまだまだといった認識だ(中略)日本企業は簡単に切り崩せないという視点もある」━━こうしたくだりには、どこか中国を舐めて見る癖のある身には合点がいく。人権に無頓着で、お行儀も悪い、そのくせ計算高い。平気で交渉相手を騙す。そんな国民性を持った国の企業と付き合うのはとても骨が折れる━━これが概ね日本人の「対中商売観」だと思ってきた。中国に永住を決めた「和僑」の友人でさえ、ついこの間まで中国企業との商いはよほど習熟した者でないと危険だ、との見方を振りかざして憚らなかった。

 そんな見方で敬遠するうちに、彼我の差は益々開いたのかも知れない。中国の都市経済圏の凄まじい発展ぶり。地続きのアセアン都市圏との綿密な繋がり。自分たちが「知らないことを気づかない」うちに、怒涛のように様変わりしている「チャイナ・アセアン関係」。その実態が鮮やかに描かれていく。中国で人口が1億〜2億級の都市群が全土で5群もあるという。日本の人口は減りこそすれ増えはしない。この比較ひとつでも打ちのめされるに十分だ。著者は、国際会議やビジネスミーティング、会食等の場を通じた情報交換を貴重な情報源に、海外に出れば、現地不動産屋の案内で、津々浦々の人々の生活ぶりを収集してきた。コロナ禍にあっても、公開情報を丹念に読み込み、筋トレをするかのように、報道との差に繰り返し目を凝らす。その地道な作業の結果が見事なまでに披露されていくのだ。

 「減速」に幻惑されては実態を見損なう

 ついで2023年の論考に目を向けたい。著者は、パンデミック前に比べれば中国経済は「減速」したかに見えるが、ASEAN各国との結びつきは基本的に勢いを保ったままであることを強調。とかく適切に認識しようとしない日本人の見方に警告を発し続ける。両者間における「インフラとデジタルの融合は、チャイナ・ASEAN経済圏においてすでに完成しつつあり、経済合理性に鑑みれば、パンデミック下でも貿易や投資の額は上向くのは自然な流れであった」と強気である。いや、それどころか、随所で「日本よりも中国に関心を抱く」ASEAN諸国の実態に目を向ける。ただし、それでも、経済成長をし続けるASEAN諸国への眼差しは地に足をけており浮ついてはいない。「ASEAN諸国は中国に呑み込まれるか否か」という「黒か白か」の議論では現実を見誤るという指摘には目を覚まさせられる。「いまではむしろ中国が欲しがるサービスや技術が手元にある。ASEAN諸国はすでに『選べる立場』へと成長している」というわけだ。この辺り、大いに刮目せねばならない。

 その上で著者は、「リテラシー・ギャップ」が最大の課題だという。日本人は、「国外で、政治でもビジネスでも教育でも、実際に何が起きているかを知らぬままに議論をし意思決定を重ねている」と手厳しい。具体的には、経済発展レベルは都市ごとに異なるのに、「ワンチャイナ」の視点では判断を曇らせることや、「ASEAN諸国の主要都市の経済水準は、日本の政令指定都市にも肉薄・凌駕する勢い」だから、「狭い意味での常識で考えては陥穽にはまりかねない」と。結論として真のアジアの世紀は水平方向の地域経済回廊の構築からもたらされるもので、ASEANと日本、そして広義では米国も含まれるべきだ」というのである。読む者の世界観を確実に広げてくれる素晴らしい論考に強い充足感を覚えた。

【他生のご縁 尊敬する先輩の後継者】

邉見伸弘さんは私の尊敬してやまない公明新聞の先輩・邉見弘さんのご長男。随分前から、親父さんからその消息は聞いていました。「慶応に入った。君の後輩になった」「卒業して経済の分析をあれこれやってる」と、それがやがて「中国関係の本を出した。読んでやって欲しい」となりました。

「父から市川さんと赤松さんのことは、本の話と共にずっと聞いて育ちました」━━頂いたメールの一節です。心揺さぶられました。父子鷹を見続ける読書人たりたいと思うばかりです。

※出版に伴う準備のため、一部加筆修正しました。(2024-12-6)

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【第2章 第2節】背筋伸ばすキリスト者の説教━━曽野綾子『晩年の美学を求めて』/11-18

〝嘘好き〟で〝正直嫌い〟の小説家の本分

 全部で28本のエッセイ集。何歳であろうが、「人生」を考える者にとって貴重な指針が満載されている。とりわけ自分の「老い」を自覚し、どう残された時間を過ごそうか悩む人には、良き「手引き書」になろう。私の様な「晩年」にさしかかった老年には、越し方のチェック集とも言える。身につまされながらも、日の入りまでの僅かな〝いとま〟に修正を試みようとの気持ちになった。作家で元日本財団会長の曽野綾子とはどんな人物なのか。著者自身はその「性格の複雑さ」と「悪い性癖」の由来について、「不幸」と「信仰」の2つを挙げる。「不幸」は少女時代の父の暴力から母を庇うための抵抗から始まった。その結果受けた「顔の腫れ」を取り繕うための学校での「嘘」。家に帰って現実逃避のために読む「小説の世界」。子供の時から「二重生活」の持つ重要な意味を知ったからだという。

 一方、カトリック信仰で、世間的な〝情緒的行為〟の「愛」とは違う、見返りを期待しない〝尽くすべき誠実〟という、もうひとつの「愛」を知ったからだ、と。そこから「ほんとうの愛は作為的なもの」であって、「正直など何ほどの美徳か」とまで言い切る。私はここに、〝嘘好き〟で〝正直嫌い〟の小説家・曽野綾子の本分を見る。

 最も納得したのは「自立と自律」についてのくだり。若き日から人任せで(家庭では親や妻、会社では女子社員や秘書)、何も自ら手を汚したことのない人間が老いてから、自分では何も出来ずに困り果てるというケースが事細かに語られる。私もろくすっぽ「自律」が出来ていない口だ。家事の一切を妻任せできたため、今となっては無能者同然。洗濯機、掃除機の動かし方もままならず、衣服、下着の畳み方もいい加減。料理はオムレツもカレーも出来ないし、味噌汁さえ真っ当に作れない。著者は「料理、家事は段取りの塊であり、連続」であって、「頭の体操にはこれほどいいことはない」と強調。「単純作業」として、「家事」を馬鹿にしてきた男どもへの攻撃は収まらない。発展途上国の過酷な環境に比べて圧倒的に恵まれた条件下にありながら、それを見ようとさえしない「現代日本人の甘さ」を突く曽野さんの筆先はどこまでも鋭い。

性善説と性悪説に分けることの是非

 他方、キリスト者としての著者の考え方は、異教徒として感心することと、やや違和感を感じるところがある。一つは、「希望を叶えられない人生の意味」が昨今教えられていないことについて。昔は親も世間も、「その不幸の中で、人間として輝くことができることも教えた」のに、今は、「いい年をした老人までが『安心して暮らせる社会を保証しろ』などと国に要求する。そんなものは初めからどこにもないことが、年を取ってもまだわからない」のかと手厳しい。新約聖書の中の「ヘブライ人の手紙」の11章からの引用を通して、「信仰を抱いて死ぬ」ということの尊さを明かすのだ。さらに。「志半ばに倒れる」ことは人間共通の運命であるのに、「社会的弱者」がそういう目に遭うのは、政府が悪く、社会が堕落しているからだとする風潮を嘆く。私はキリスト者のこの視点に共鳴すると共に、「今の日本」がとかく責任を転嫁し、なんでも人のせいにしがちになっていることを憂え、その片棒を担いでいないか、と自省する。

 二つ目は、人間存在の有り様をめぐる「性善説」と「性悪説」の考え方について。曽野さんは小説家らしく「性悪説は最低限、推理小説の話の種にはなるが、性善説を小説にするのは極めてむずかしい」とジョークぎみにいう。ただ、この二分法は仏法徒としては単純過ぎて物足りない。生命は一瞬に三千種の状態を孕むとの「一念三千論」などのダイナミックな理論を持つ仏法の方が奥深く見える。縁する環境如何でどうにも転ぶ人間だからこそ、〝善の方向〟へと強く導く具体的作業としての日常的祈りが必要なのだ。

 また、「戦争でも災害でも、『語り継ぐ』ということはほぼ不可能で無意味だ」とされる。「老年にとって、また死に至る病にある人にとって、半世紀先の平和より、今日の美学を一日づつ全うして生きる方が先決問題だ」とし、「平和運動が、戦争の悪を語り継ぐことだけであるはずがない。戦争を忌避するというのに、親を放置しておいて、何が平和か」とまで。「平和への希求」に伴いがちな「偽善者」の匂いを嗅ぎ分けるのに急なあまり、「偽悪者」ぶりが過ぎて「勇み足」をおかされているように見える。尤もそこに妙な心地よさは漂う。

●他生のご縁 衆議院憲法調査会での出会い

 2000年の10月12日。私は国会で曽野綾子さんとささやかなやりとりをしました。聞いたのは、21世紀の政治家像。「嘘をつくから政治家は嫌い」と言われるのなら「こんな政治家なら好きよ」って聞かせて、と迫ったのです。彼女は、「何かうれしくなるようなことを聞いていただいた」と述べたあと、「明確な哲学とあえて危険を冒すという姿勢を持つ政治家に」と明言。政治家は誰もがわかってることを言うのではなく、「わかる人はついてこい」と言って欲しい、と。

 また、子供の教育に関して、私は「確立された個に接触することの大事さ」という持論を述べました。これには全く同感とされ「(強烈な個性との出会いで)びっくりしたり、怖気を震ったりなんかしながら、こういう風にものは考えられるのかと思って私自身を伸ばしていただいた」と、「若き日の幸せ」を印象深く語ってくれました。

 

 

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【153】次作を待ち続けた30年━━西村陽一『プロメテウスの墓場』を読む/11-10

 『プロメテウスの墓場』が世に出た1995年当時は今と同様に、あるいはそれ以上に内外の情勢は混乱を極めていた。とくにソ連の崩壊で、いわゆる「東」は上を下への大騒ぎだった。20世紀の世界が轟音たてて変わりゆく中、同時中継を見るようにこの本を貪り読んだ。著者は1992年から5年ほど朝日新聞記者としてモスクワにいた。この本では激動するかの国の舞台裏を渾身の取材で露わにして見せた。題名は「原子力」をギリシア神話のプロメテウスに見立て、その末路を表す。行き場を失った原子力潜水艦、武器商人を介して闇マーケットに流される核物質、海洋投棄される核廃棄物などの実態をリアルに描き、その無惨な姿を墓場に喩えた。書き出しは印象深い。「真冬の北極圏は、太陽に見放される、12月、うっすらと明るくなるのは、午前11時過ぎから午後2時くらいしかない。漆黒の闇に包まれる夕刻ともなれば、凍てついた道の上を最大で秒速三十メートルの寒風に乗って吹雪が走る。ところどころにたつ街灯の鈍い光に照らされた雪は、まるで蛾の乱舞のようだ」━━ロシア北極圏のムルマンスク州にある町・ボリャルヌイの冬を鮮やかに描きだし惹きつけてやまない◆この本を読み終えたその時から、次作を待ちに待った。国際政治の内幕を次々に読み聞かせてくれるはず、と期待したからだ。朝日新聞のエースのひとりとしての呼び声高く、モスクワ勤務から後にアメリカ総支局長へと栄進し、やがて政治部長となり、更に経営陣の様々な重要なポストに就いていったが、共著は何作かあったものの、単著としては一向に2作目は目にすることが出来なかった。本業が忙しかったと思われるが、待つ身も辛かった。あれからほぼ30年。あの当時を強く意識させる本が出た。『記者と官僚』━━外務省主任分析官だった作家の佐藤優さんとの対談本である。腕組みした2人が互いに背を向け、思わせぶりな目でこちらを見やっている写真が表紙に。思わず目を逸らしたくなる。強いインパクト。サブタイトルには「特ダネの極意、情報操作の流儀」とある。総選挙の対応で慌ただしい日々が続いた後に、一気に読んだ。帯に「暴こうとする記者。情報操作を目論む官僚。33年の攻防を経て互いの手の内を明かした驚愕の『答え合わせ」とあるように、ソ連崩壊前夜の1991年2月に初めて2人が会った時以来の、虚々実々の駆け引きの全貌が登場する。前作と趣は異なれど〝30年の期待〟を裏切らぬめっちゃ面白い本である◆処女作を回顧するかのようなくだりを見つけた。「地元ロシアのメディアに先んじて、冷戦時代の地図には載っていないシベリアなどの核封鎖都市の数々を訪ねたり、中央アジア、ロシア、ベラルーシの戦略核ミサイル基地や極北の原子力潜水艦基地の内部に入り込んだり、核物質密輸の犯罪集団を追跡したりという、今だったら確実にスパイ罪で捕まるような危ない取材をすることができました」と。30年前と今を繋ぐ〝西村タッチ〟は、〝かくも長き不在〟を詫びるおみやげのように登場するのだ。この本は、拙著でいう『77年の興亡』の末に、共に危機的状況を迎えた「記者と官僚」という2つの職業の〝華やかなりし頃の成功譚〟でもある。待ち受ける苦難の道を厭わずに挑戦する若者や、越し方を振り返る高齢者にとって、学び慈しむ教訓が満載されていてとても得難い。とりわけ①国益の罠②集団思考の罠③近視眼的熱意の罠④両論併記の罠⑤両論併記糾弾の罠という「5つの罠」には考えさせられた。我が政治家人生にとっても痛恨の一事であった「イラク戦争の顛末」は②を噛み締めることで改めて深い反省へと誘わせられる◆この対談で、私が惹きつけられたのは第6章「記者と官僚とAI」。ここでは記者が書く原稿、官僚が取り組む「答弁対応」へのAIの導入といった問題から、既存メディアの生き残りの道に至るまでが語られ、示唆に富む。西村さんが「メディアの敗戦」について「メディアがコストをかけて取材したニュースコンテンツについて、まっとうな対価を得ることがないまま、世界中で巨大プラットフォーマーに対するニュースの提供が広がったことを意味」するとした上で、「正当な対価を組織的に求めるべきだ」としている点は注目されよう。この辺り、〝30年の不在と復活〟へと思いは馳せる。なお、佐藤氏が「近年朝日新聞が集中的に扱ってるテーマの中で、唯一評価しているのはホストクラブ問題なの」と述べたのに対して、「唯一か?(笑)」と西村さんが返したところには心底笑えた。また、一連の「朝日新聞の失敗」への弁明もさりげなく盛り込まれていて、それはそれで読み応えがあった。(2024-11-10)

●他生のご縁 公明番記者いらいの〝読書仲間〟

 西村陽一さんとは彼が公明党の番記者をした短い期間のお付き合いが「始まり」でした。どっちも本が好きで、会うたびにどちらからか「今何読んでるの」と聞いたものです。

 偶々私がワシントンを訪れた際に、彼はアメリカ総局長をしていましたが、その次に出会ったのは朝日新聞大阪本社が新しくなった時の「披露宴」。私は万葉集学者の中西進先生と一緒に出席していました。なんとその場に彼は常務取締役で東京からやってきたのです。

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【152】「米英愛」関係から見えてくる「日韓」━━林景一『アイルランドを知れば日本がわかる』を読む/11-6

 〝いびつな位置関係〟と〝ぼんやりした部分〟

 司馬遼太郎の「街道を行く」シリーズの『愛蘭土紀行』を読んでアイルランドという国に興味を持った。その本を携えて首都ダブリンに行ったのは2006年のこと。待ち受けていてくれたのは駐在大使の林景一さんだった。日愛友好関係に貢献された方を表彰する式典に、日本政府を代表(町村信孝外相の代理)して出席した━━というと大袈裟だが、ウソではない。石破茂氏らと共に防衛庁の省昇格に伴う課題調査のためドイツと英国を訪問した帰途に、ひとりロンドンから寄り道をした。当時の私は厚労副大臣だった。林さんの外交官人生の〝イロハのイロ〟としての米英両国。大使デビューはアイルランド。その任を終えて、この本を出版された。読むと、アイルランドを〝補助国〟にして、米英と日韓の関係を〝ロハ〟(只)で解説してもらった気がする━━というのは言葉遊びが過ぎようか。太平洋を真ん中にした地図では隠れている英愛両国が、大西洋を中心にして見直すと、目の前に現れる。と同時に、日本は視界から消える。そんな〝いびつな位置関係〟による〝ぼんやりした部分〟を鮮明に見せて貰った━━随分と得をした読後感を味わえる本である。

 中学校の時に林さんは映画『大脱走』を観て、主題歌を口ずさんだ。その英語体験から話は始まる。以下、『風と共に去りぬ』『黄色いリボン』『タイタニック』『名犬リンチンチン』など懐かしい映画やドラマの話が続いてワクワクする。映画好きがかつて嵌まった物語の背後に、アイルランドの歴史が秘められていたことが分かってドキドキもする。西部開拓史にも南北戦争にもアイリッシュが深く関わっているうえ、現代の野球やボクシングなどスポーツや美術、文学など芸術の分野でも活躍する人たちが数多い。アイルランドから累計700万人もの移民がアメリカに渡り、現在4000万人ものアイリッシュ系アメリカ人がいるとのこと。ケネディ、ニクソン、レーガン、クリントン氏ら大統領経験者たちも20人ほどに達するとは驚く。英国から新天地を求めた人々によって米国は建国されたと、単純に考えていた者にとって、アイルランドの役割は〝新発見〟だが、カトリックとプロテスタントの違いなどキリスト教を軸に的確に腑分けする著者の記述は実に分かりやすく面白い。

 「最も近く〝最も憎い国〟」という位置付け

 そして舞台は英国へ。「最も近く〝最も憎い国〟」との位置付けは、今もなお火種が燻る「北アイルランド」問題を持ち出すまでもない。だが、林さんが大使在任中にこの問題は政治的には「大団円」を迎えた。両宗派のトップを首班とする自治政府が成立した。この本の執筆時点で残っていたエリザベス女王のアイルランド国訪問も、「早晩実現する」との著者の予測通り、3年後に実現したのである。「ケルト」神話に始まる古きアイルランドの歴史を紐解き、英国による侵略、植民地化、併呑の流れを描く。「一方の英雄、守護神はもう一方の極悪人」と聞くと、直ちに日韓の関係に思いが浮かぼう。矢内原忠雄(元東大総長)の「英愛」と「日韓」の関係史を比較した論考に遡った上での著者の見立ては興味深い。「英愛和解」への5つの視点のうち、「(両国が)歴史的わだかまりのマグマを北アイルランド和平構築への協同というエネルギーに変えていった」ことの効果が高く評価される。その過程でアイルランドの「英国憎悪」の必要性が消滅し、それが和解を容易にした、と。

 最終章では、彼の国を「姿見」として、日本が己がふりをただす試みに挑む。以下、日愛比較の私見を示したい。「人間以外に資源がない」とのハンディを抱える日本とアイルランド。教育に力を入れようとする姿勢や移民・外国人に対する親切な接し方には共通点を感じるものの、「小国ゆえの『弱い者の見方』」という指摘には違和感が漂う。比べるには国の規模が違い過ぎるのかもしれない。日本では国民レベルでの「小国」との認識が客観的にはギャップがあり、自画像にズレが生じている。「中立国への固執」については、日本人にとっても見果てぬ夢。柄は大きいくせに未だひとり立ち出来ていない子どものような日本。小国であっても背筋の整った大人の国柄ぶりを発揮するアイルランド。私には無性に眩しく見える。

●他生のご縁 国会で、ダブリンで、東京界隈で幾たびも

 林景一さんとのお付き合いは長く、もう30年近くになります。衆院外務委員会に所属することが多かったので、条約局長、国際法局長だった林さんにはしばしばご指南を賜わったものです。そのつど優しく丁寧に深い蓄積を披露してくれました。

 アイルランドに滞在した2日間はめくるめくような時間の連続で、あの場所、この町へと案内いただきましたが、あらかた忘却の彼方に。残っているのは彼の心細やかな気配り、目配りの手触りの温かさです。

 ダブリンの大使館での式典で私は岡室美奈子早稲田大学教授(のちに坪内逍遥演劇博物館館長も兼務)を紹介されました。アイルランドが生み出した劇作家サミュエル・ベケット(ノーベル文学賞受賞者)を研究する女子学生だった頃に、司馬遼太郎さんと出会ったことが『愛蘭土紀行』に出てきます。林大使が取り持ってくれたご縁を大事して、その後も3人で懇談を重ねました。この集いのたびに私は〝司馬さんの影〟を見てしまいます。

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【第3章 第4節】古今東西そこかしこに数多の実例━━山内昌之『嫉妬の世界史』を読む/11-1

仏教の十界論における位置付け

 人間が他の人を嫉み(ねたみ)、妬く(やく)ことを「嫉妬」というのだが━━著者は他人が順調であり幸運であることをにくむ感情としている━━人間存在にとって実に厄介なものである。仏教の「十界論」では、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界の4つを「四悪趣」との名称で、人間の陥り易い〝悪しき生命状態〟に括っており、嫉妬界というのはない。全くの私見だが、5番目の「人界」(6番目以降は、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界)に含み込まれているのではないかと勝手に思っている。それほど人間と、切っても切れない感情だからだ。その「嫉妬」にまつわる古今東西の様々なエピソードを集めた本が『嫉妬の世界史』である。著者はイスラム世界を中心に国際関係史に透徹する知を持つ。この本は同氏の世界史考察の流れの中から溢れでた、珠玉の逸話を集めたものといえよう。200頁足らずの小さな新書版だが、とても深くて重い内容に彩られており、実に面白くてためになる。

 日本における具体例で注目すべきは、森鴎外である。夏目漱石と並ぶ明治期を代表する文人だが、同時に軍医でもあった。彼は生涯〝二足の草鞋〟を履き、「二刀流」の使い手だった。その彼が妬み妬まれたのは「医の世界」での人間関係が主だが、それは同時に「文の世界」との関わりを持っていた。著者は、軍医としての鴎外を人事を敏感に栄誉と屈辱を入り交わらせて感じ取るタイプと規定する。『舞姫』や『智慧袋』といった作品の中で、自身の鬱憤を晴らす表現を盛り込んだというのだから只事ではない。前者でライバルへの批判をあてこすり、後者では「よせばいいのに『自分は上司に認められず同輩にも受け入れられず、才能は自分よりも劣る者が上に立っている』とまでやってしまった」というのだ。当然ながら周りからは激しい攻撃の対象となった。著者は『鴎外漁史とは誰ぞ』との作品には「鴎外の不平不満と愚痴が渦巻いている」とまで明かす。ここまで「嫉妬」という感情に翻弄されながらも、文学において見事な地位を築き上げたのは立派というほかない。しばしば比較される漱石に、好感を抱いてきた私にホッとする思いが宿るのは自然な感情だろう。

 3つの国の3人の「独裁者の業」

 一方、眼を外国の例に向けよう。ローマ皇帝の時代。「政治力、軍事力、大衆の支持も、他のすべてもあった」ポンペイウスは、それゆえ自信家であり、そのため、同輩の嫉妬に嵌まり込んだ。「偉大な個人」になれた可能性があったのに、実際になったのは「大器晩成型でプレイボーイ」のカエサルだった、と。しかし、そのカエサルも「嫉妬と反感のうずまくローマ政治の複雑さに足をからめとられて非業の死をとげた」。塩野七生の『ローマ人の物語』を巧みに引用しながら、「男の嫉妬の怖さ」を披瀝してやまない。他方、「独裁者の嫉妬」のトリオはスターリンと毛沢東と金日成。「平等思想の美名のもとで、人間の嫉妬を構造化し、密告や中傷を日常化する体制をつくりだした」「マルクス主義と共産主義の罪は深い」との記述のもと、この3つの国の3人の「独裁者の業」とでもいうべきものを暴いていく。この嫉妬史は、それぞれプーチン、習近平、金正恩へと今に続いており、山内さんだけでなく誰しもが続編を書けそうなのは怖い。

 嫉妬は女の専売特許のようにかつて扱われた趣きがあったが、それこそ男の女への妬心というのは、ギャグか。人間関係だけでなく国家相互の嫉妬にも著者は目を向け、かのイラクのサダム・フセインのクウエート侵略を挙げる。隣国の豊富な石油埋蔵量に嫉妬した挙句だ、と。朝鮮半島でも貧困の「北」が「南」の繁栄を妬む構図は誰でも思い浮かぶ。

 最後に「嫉妬されなかった男」に一章が割かれている。嫉妬続出の後にさわやかに顔を出すのは陸軍元帥・杉山元。彼は、陸軍大臣、参謀総長、教育総監という「陸軍三長官職をすべて経験した稀有な存在」でありながら、目立った嫉妬や反感を受けなかった。そのわけを山内さんは、定見がないように見える「茫洋とした態度」をとりながら、「緻密な計算の上に立つ保身術」を身につけ、「勝負に出るときは度胸もあった」からだという。「粘り強くハラを見せない」タイプなのだ。

 最後に登場するのは、徳川三代将軍家光の庶弟・保科正之。この人物が日本史の裏面でひっそりとだが燦然と輝く位置を占めていることはつとに有名だ。その大きな理由として「嘘をつかない政治家」だからという。「気性がまっすぐな人間に嫉妬する同僚は少ない」とのことだが、昨今の政治の世界で見出し難いように思われるのは恥ずかしい限りである。

【他生のご縁 名通訳者から紹介され、一夜懇談】

 厚生労働省で仕事をした僅か一年ほどの間に、米国、ニュージーランド、ベトナム、英国、ドイツ、アイルランドと旅をする機会に私は恵まれました。そのうちベトナムは国際会議への出席でもあり、なうての英語の達人がサポートしてくれました。著名な英語通訳者の田中祥子さんのことです。

 この人に紹介していただいたのが山内昌之氏でした。中東を話題にしたことから同氏が田中さんとも大変親しい仲だとわかり、3人で夕食を共にすることになったのです。世界各国のお国事情から大相撲の話まで、世界を跨ぐ話題であっという間の数時間でした。昨年よりの横綱審議会委員長も宜なるかなと思ったしだいです。

 

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【150】「ヤングケアラー」に見る日本の困惑━━高嶋哲夫『家族』を読む/10-25

 木陰が恋しかった酷暑の夏から、待望の秋めいた季節が到来した。と同時に疾風迅雷のごとく、「石破茂首相」が誕生して2週間余で衆議院総選挙が公示された。その直前に出版されたこの本は、まさに今回の選挙における最大の争点にすべき課題を取り上げている。そういうと、一瞬「えっ、どうして」と思われる向きも多いかもしれない。「家族」という極めて当たり前の言葉を掲げられて、選挙の争点との繋がりは分かりづらいかもしれない。実は、日本が直面する様々な問題を、次々と取り上げて小説化してきた著者が、これこそ今の日本の根底的課題だとして提起する作品だからである。副題をつけるとすれば「あなたはヤングケアラーを知ってるか」だろう。ケアをする若い人━━親の世代の面倒を看ざるを得ない子ども世代のことを一般的には指す。高嶋さんと私はこの数年とても親密な関係になって色々と教えていただき、意見を交換する仲だが、この本には彼の小説家人生のある意味で総決算といってもいいほどの思いが込められていると、確信している。政治家が真っ先に読むべき本に違いない◆少子高齢化、認知症、貧困、格差、少年犯罪、いじめと引きこもり、学校教育現場の荒廃など、現代日本が抱えている問題はすべて「家族」に帰着し、みんな繋がっている、というのが著者の見立てである。「ヤングケアラー」問題を、国会で幾たびも取り上げて、政府当局を糺し、追及している私の後輩女性参議院議員がいるのだが、彼女を冷めた眼でみる人たちは少なくない。おおむね古い考え方をする男性年配者たちに多いと思われるが、共通するのは、「国会は天下国家を論じる場所ではないか」「ヤングケアラーって、家族の中で貧乏くじひいた不幸な一員に過ぎない」といった決めつけである。しかし、この本はミステリー小説風にぐいぐいと引き込ませる。ハッピーエンドではないものの、読み終えた時には、爽やかさもあって、問題解決への息吹も吹き込まれた感が漂う◆住宅火災の跡から3人の遺体が出たことからこの小説は始まる。━━3人はその家の45歳の母親と22歳の息子と72歳の祖母である。その一方で、火災発生とほぼ同時に19歳の長女が家から飛び出し、通りでタクシーにはねられた。意識不明の状態が続く。この悲惨な事件は介護に疲れた長女の仕業ではないかとの警察筋の見立てで進行していくが、それに疑問を持つ29歳の雑誌記者の笹山真由美が真実の解明に動くとの筋立てである。亡くなった3人のうち、息子は12歳の時の交通事故が原因で寝たきり状態。祖母は介護を必要とする認知症。父親が先年に癌で亡くなっており、看護師の母親が家計を切り盛りし、長女が幼い時から日常的に看護と介護を担当するという典型的なヤングケアラーだ。この家族を縦軸に、真由美の元新聞記者の65歳の父親の2人の家族を横軸に物語は展開する。この父親もアルツハイマー型認知症が進行しつつあるというのだ◆ヤングケアラーであること自体は決して不幸ではない、むしろ家族の絆を深めゆく重要な要素であるという考え方が全体のトーンを貫く。ここに実は重大な現代社会の病巣を解きほぐす鍵が潜む。かつての「姥捨山の物語」は、いまの「施設預け」へと変貌し、「老老介護」の悲喜劇を彩る。他方、ヤングケアラーは若者への肉体・精神的負担増を強いる一方で、密度の濃い人間の絆を育む重要な接点の役割を果たす。家族という社会の最小単位をもう一度原点から考え直す機縁となることに現代人は気づかねばならない。著者の高嶋さんは、負のイメージで捉えられがちなヤングケアラーをむしろ社会の復興に役立てようとしている。もちろん、それは自助や共助任せでよしとするのではなく、足らざる公助を仕組みとして充実させようとの狙いがあるはず。ともあれ、バラバラになりがちな〈個人、家族、社会〉の一体的結合に向けて、大いに考えさせられる特異な役割を持つ好著である。(2024-10-25)

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【第4章第2節】粋な生き方を貫きゆくなかで━━帯津良一『後悔しない逝き方』を読む/10-9

患者さんが教えてくれた32の心得

 以前に、この著者(帯津三敬病院名誉院長)の『粋な生き方』という本を取り上げた際に、この本も一緒に読んでいたのだが、書くことはせずにいた。この人の本はどれも興味深く読めて、役に立つ。サブタイトルに「患者さんが教えてくれた32の心得」とある。「生・老・病・死」の4ジャンルごとに、①元気なころ②老いを意識したころ③病を得たとき④死を意識するころ━━の4章をあてて、それぞれについての「心得」に言及している。常日頃の患者との接触を経て、教えて貰ったというより、気付かされたものを展開してるに違いない。それぞれの章から、印象に残るくだりを挙げてみる。

 まず、①では、「いのちのエネルギーを高めて生きること」が「真の養生」だとして、人生の価値は長さだけではなく「質が大切」だとする。29歳で大腸がんで亡くなった女性患者は、地質の研究に一生を捧げた人だった。亡くなる3週間前に書かれた詩を帯津さんは読み「地質を通して地球の46億年の歴史を見て、宇宙の 150億年を感じてきた」に違いないと見抜く。「80年90年とかからないと卒業できないのが凡人なら、若くして亡くなる人の多くは養生の天才で、短い時間で単位をとることができた」と。そして「健康は大切ですが、健康ばかりに目が向かって、『古狸が穴の中で眠りこけている』ような生き方はやめて、何かに燃える生き方をしよう」と呼びかける。ほぼ80年を生きてきて、未だ中途半端な身でしかない我が身には耳が痛い。

 ②では、「年を取ったら、大いに羽を伸ばして、あちこち飛び回ればいい」と、老後は自由を謳歌しようと、提案する。その際に江戸期に生きた著述家・神澤杜口が、日本各地の伝説や異聞を集めた『翁草』全200巻を著したことを実例として挙げて、絶賛している。しかもこの人物は44歳の時に妻に先立たれており、以後40年間の一人暮らしの間でこれだけの偉業を成し遂げたのだ。これこそ「大きな自由」ではないか、と。帯津さんも奥さんに先立たれており、一人暮らしを謳歌している。妻という存在は、若い時は「恋人」だったが、やがて「妹」から「姉」になって、ついには「母」を経て、「看護士」「介護士」に成り果てる━━というのが定番。これが私の持論である。ならば、どこかの時点で一人立ちして生きるのもいいものかも知れない。

意気揚々と死後の世界に旅立つ

 次に、③では、〝患い上手〟=名患者になるすすめを説く。「自分が名患者になれば、周囲にあるものがすべて名医、妙薬に変わる」といい、「自分が変わる。そしたら、結果的にまわりも変化してくる」と。このセリフは、信仰の世界の真っ只中で若き日から生きてきた私は、よく聞いてきたし、自身もまたよく使ってきた言い回しだ。自立した個人の「一念の転換」によって、客観的事情はいかようにも変わる、と。主観の意志の強さしだいだというわけだ。だが、果たして「医療」に十分な効力があるかどうか。主体としての患者本人の意志の強さと、助縁者の医師との共同作業的側面があろう。患者の気ままさは勿論許されないが、医師に頼りすぎもまた少なからざる問題を引き起こす。

 ④では、46歳で亡くなった哲学者の池田晶子の「池田は死んでも、わたしは在る」との言葉を引用して、「池田晶子というレッテルを貼ったひとりの人間は消え去ってしまうけれども、私の本質であるいのちは永遠に残る」との名言を遺したと、絶賛している。これを聴くと、私は、日蓮仏法でいう「空仮中の三諦論」を思い起こす。生身の人間は一代の寿命が尽きて物質的(仮諦)には、消え去ったかに見えても、人間存在を成り立たせてきた性格(空諦)や、いのちの本質(中諦)は変わらず、永遠に流れゆくというものである。池田の言葉は見事にこの仏教哲理と相呼応していると思われる。

 「死後のこと」について、帯津さんはとても大事なことを言っている。「この世に未練を残して嫌々あっちの世界に行くのではなく、『決断』して『選び取って』、意気揚々と旅立っていく」ことが大事だとした上で「想像力を最大限に発揮して、それにふさわしい魅力的で楽しい世界をイメージするようにしています。そうすれば、その瞬間が来るのを大いに楽しみにできるようになるのです」と。この「死後の世界のイメージを持っておこう」との提案は中々大事でユニークなもののような気がする。帯津さんは、死に際しては、「虚空」に向かうロケットのように最高の爆発力で勢いよく飛び立とうという。そううまくいくかなあと思いつつ、一日の終わりのささやかな酒宴に舌鼓を打つことだけは、帯津方式を真似をして実践している私なのである。

【他生のご縁】国会での前議員の会合で講演を聴く

 衆議院議員のOB会に帯津良一さんが見えて講演をされた時からの繋がりです。年齢は私よりほぼ10歳上の小太りの方でした。初お目見えから既に10年。今はもう90歳寸前でしょうが、粋なじいさんぶりは更に、磨きがかかっているようです。

 夕方が来ると、病院に勤務する女性の医師、看護師、各種従業員たちとテーブルを囲んで酌み交わす。それが最大の楽しみです、と語られた時の嬉しそうなお顔とお声の響き。それは今もなお耳朶から離れません。

 

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【第1章第7節】好きこそプロの始まり━━荻巣樹徳『幻の植物を追って』を読む/10-2

ビートたけし氏との対談を手がかりに

 「たかだか勉強ができないだけで何も落ち込む必要はない。むしろ逆に勉強ができないことによって、自分だけしかできない方向に導かれていくことがある」──世界的なナチュラリスト(植物学者)であり、「四川植物界名人」などの称号で知られる荻巣樹徳さんが「子どもたちに言いたいこと」として、挙げている言葉だ。また若者には、「もっと自分のお金を使いなさい。自分に投資しなさい」とも。80歳を目前にした私が己が人生を振り返って心底から共鳴する。

 名著『幻の植物を追って』は、残念ながら〝猫に小判〟で、私の興味はあまり惹かない。美しくて珍しい草花が気高く掲載された本を捲りながら、「植物と人間の差異」の大きさへの理解に悩み続けた。だが、この本を著者から頂いて10年余りが経った頃、漸く分かる糸口を見つけた。かのビートたけし氏との対談(『たけしの面白科学者図鑑 地球も宇宙も謎だらけ』所収)を読むに至ってからのことである。ここではご両人のやりとり──たけし氏の「聞く力」を手がかりに、未知の世界への探訪に挑んでみた。

 荻巣さんは5〜6歳の頃から植物の栽培に興味を持った。万年青(おもと)、万両(まんりょう)、細辛(さいしん)など伝統園芸植物を栽培するようになったのは中学生の頃というから驚く。著者の生まれ育った愛知県尾張地方は古くから園芸が盛んな土地。それもあって、異常なほど植物が好きで好きで仕方なかったようだ。一日も早く〝植物のプロ〟になりたかった荻巣さんは、高校を出て直ぐに、欧州に渡り、ベルギーのカラムタウト樹木園を始め、オランダのポスコープ国立試験場やイギリスのキュー王立植物園(ハーバリウム)、さらにはウィズレイ植物園などで学び続けた。そして30歳を過ぎて1982年に中国の四川大学へ行って学生になり、そこに収蔵されている標本約11万点を閲覧し、すべて頭に叩き込んだ。そして翌1983年ロサ・シネンシスの野生種を再発見して、世界を驚かせた。欧米人が標本を採取した後に、実物を見た人がおらず、詳しい自生情報など一切不明だった。それを70年ぶりに明らかにしたことで一躍有名になったのである。

中国とベトナム国境奥深くフィールドワークに

 この発見にまつわる逸話は興味深い。植物を探すという行為は、時間の制約上、移動しながら探すしかない。時速35キロくらいの車で動きつつ、直径2-3センチほどの植物を視認していく。動体視力が重要なのだが、中国のバラの野生種を全種類、頭にインプットしていたからこそ見つけることができたといわれる。そしてそれは運がよかったのであり、自分の力ではなく、「縁」だと強調されている。「同じ生物としてこの地球に生まれたからには、その『隣人』の存在に気づかないまま会えなくなってしまうというのは悲しいです」と、四川大地震のような自然災害や人為的な自然破壊を恐れている。「植物調査の過程で、縁あって『初めまして』と隣人の存在に気づくのが、僕のできることなのだろう」との述懐がとても新鮮というか、奥ゆかしい。異国の山中で、突然出くわした植物に、「どうも、お初に。待ってくれてたんですね」と語りかける荻巣さんを想像するのは微笑ましい限りだ。

 以前に、この人が中国とベトナムの国境奥深くへとフィールドワークに行かれると聞いて、同行させて貰おうかと考えたことがある。いいですよ、行きましょう、とご承諾頂いた。だが、いくら「現場第一主義の公明党」の人間だからといっても、それは足手纏いだろうと諦めた。荻巣さんは、私が付き合った人の中で、紛れもなく最高の位置を占める「知の偉人」だが、その「知」は、並大抵な努力で培われたものではない。普段は大阪豊中での研究室仕様のマンションにひとりで暮らしておられる。かつて「奥さんはどこに?」と訊いた。「東京です」「えっ、別居状態ですか?」「ええまあ。勿論、時々会いますよ」──浅はかな想像力で、あれこれと思いをめぐらせたが、全貌はわからぬままになっていた。それが、「たけしとの会話」で遂に明らかになった。「月に2回ぐらいは仕事で東京に来ます。しかし、その時、家へは泊まりませんね。家に帰ると、食事やお風呂の用意ができてるでしょう。それが人をダメにしますね」「そういうことが身につくと、まずフィールドワークはできなくなります。風土病など、いろいろな病気にかかる恐れもあるし、まさに命がけです」と。この人、およそ生きぬく覚悟の出来具合が違うと、心底から思い知った。(2024-10-2)

【他生のご縁 西播磨の植物研究所での出会い】

 荻巣さんとの出会いは西播磨の山崎町にあった「植物研究所」です。とある企業の尽力で貴重な植物が保存されていました。初めてお会いしたのは懇意にしていた当時の白谷敏明町長(後に宍粟市長)さんのごの紹介でした。いらいほぼ30年、幾たびも常に新鮮で、実りある会話をさせていただいた。時に2人きりで、また、古くからの友人や植物好きを交えて。

 ご時世から企業メセナに頼られることにも限界が生じて、その植物研究所が移転やむなきの事態になり、新たなる場所を求めることになってしまいました。なんとか探して差し上げたいと焦っているのですが、いまだに見つけられていないのはとても残念なことです。

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【147】元防衛官僚による真摯な批判と反省━━柳澤協二『検証 官邸のイラク戦争』を読む/9-25

 多くの人生を分けた「イラク戦争」の検証

 イラク戦争(2003〜11年))において大量破壊兵器をサダム・フセイン政権が保有していると信じた米英軍が侵略攻撃をし、同政権を破壊した。ところが後にそれは嘘偽りの情報に基づくものであったことが判明した。米英の当事者たちはそれぞれ誤った情報で動いたことを認めた。ところが日本政府は今に至るまでそれをせず、「検証」を行った形跡すらない。実は、この戦争において首相官邸で自衛隊のイラク派遣の実務責任者を務めたのが標題作の著者・柳澤協二氏である。現役時代に外交・防衛に関するテーマに関心を強く持った私は、さまざまな場面でほぼ同世代の柳澤氏と付き合う機会があった。定年後の今もなおその関係は続いているが、防衛官僚と与党政治家の身として、「イラク戦争」への〝批判の眼差し〟には共振するものがある。2010年に公明党理論誌『公明』誌上で、簡潔な形にせよ私は反省の弁をまとめた。その意味で立場の差は微妙にあるものの、この書を紐解いて「共戦の譜」を読む思いさえした。

 著者が退官後のほぼ4年の歳月をかけて、個人的に「イラク戦争を検証する試み」を成し遂げた所産がこれである。現代における「戦争の意味」に立ち返り、「無駄な戦争」と言われてきた「イラク戦争」を完膚なきまでに分析し総括した、極めて意義深い仕事だ。同時代を生きた政治家のひとりとして心底から敬意を抱く。イラク戦争への疑問を踏まえての総括(序章)に始まり、米指導者の戦争決断への思考過程の分析(第1章)、防衛研究所所長としての思考の方向性(第2章)、小泉政権の戦争支持に至る流れの分析(第3章)、自衛隊派遣の意思決定(4章)、派遣から撤退までの官邸の対応(第5章)、イラク戦争後の政策課題(第6章)を経て、「日本の国家像」を求めた終章まで、著者の思考の軌跡が惜しみなく披瀝されていて興味は尽きない。政権を支える役目を持った官僚が、自らも少なからず関わった政策決定の是非を批判を込めて検証するというのは、「防衛」分野では初めてのことではないか。かつての仲間たちの不満や怒りを存分に感じながら、何故にこの決断に踏み切ったか。柳澤氏のこの検証公開から12年ほどが経った今、改めて振り返ることは「日本と戦争」を考える全ての人にとって欠かせぬ作業だと思える。

戦後日本が初めて経験した自衛隊派遣

 中東・イラクでのアメリカの戦争に同盟国であるがゆえに参加するということは、戦後日本が経験したことのない初めてのものだった。憲法によって禁止された「国際紛争を解決するための武力の行使」であり、政府がそれまで一貫して否定してきたものだったのである。かつて「極東」という位置を巡って関わり方が大論争になった「ベトナム戦争」や、憲法前文にある「名誉ある地位」を占めることが契機になった「湾岸戦争」などとは明らかに違った。このため自衛隊の派遣については、戦闘地域から離れた後方地域での人道復興支援に限定した。戦闘に巻き込まれたら撤退するとの条件付きであった。米英をはじめとする同盟国とも戦争をめぐる価値観の不一致をそのままにした上での〝歪な同盟の展開〟だったのである。こうした背景を持つ戦争について著者は、「イラク戦争」において日本は、「戦後の平和国家としての自己認知を否定した」とズバリ位置付けた。しかもその「自己認知」は、「変動するアジアの中で、漂流を続けている」とまで明確に言ってのけている。

 かつてイラク戦争真っ盛りの時に、米国の戦争に支持をした小泉政権のパートナーとして公明党は同調した。イラク北部のクルド族への虐待やら大量破壊兵器の存在を否定しないフセイン政権の真偽入り混じった〝挙動不審〟と〝乱暴狼藉〟に、私は公明新聞紙上で論考を上下2回にわたって書き、イラク非難の論陣を張った。「湾岸戦争」から引き続く「13年戦争」と捉えるべきだ、と。ペンと同時に兵庫県下各地で党員支持者の皆さんの前で、平和の党・公明党は座したまま理想を説く口舌の党ではなく、「行動する国際平和主義の党」だと強弁しまくった。少なからぬ男女党員の納得しがたい表情や声が今も目に浮かび、耳に残っている。こうしたことから、前述したように、誤った情報による政策判断のミスを率直に認めたものだった。柳澤氏の「検証」を読んで我が意を得たりと共感すると共に、与党の一翼を担う存在の一員として、政権の内側から戦争関与にどう歯止めをかけるかという立場の困難さを考えざるを得ない。

★他生のご縁 定年引退後に同じ「安保政策研究会」に所属

 柳澤さんは定年退職と前後して、ある新聞紙上に政府批判の論考を書かれた。ほぼ同じ頃、挨拶に見えた際、私は「人生後半に良い生きる道を見つけましたね」と不躾な思いを率直に吐露したことを思い出します。

 その後、一般社団法人「安保政策研究会」で彼は常務理事、私は理事になりました。再会した折に「(立場の変化で)昔の仲間を失った分、新しい友人が増えました」と、苦笑いしつつ述懐されました。その点、私とは昔も今も変わらぬ関係であることには不思議な思いを抱きます。

 この本の中で、柳澤さんの防衛研究所所長時代の後輩で長尾雄一郎第一研究室長のことがでてきます。私は彼のことを、同期だった石井啓一(公明党前代表)君と共に、高校生時代からその将来を嘱望していました。長尾君は残念ながら急逝してしまったのですが、遺稿となる文章(『我が国の安全保障上の国益』)を仲間が校正したとのくだりに触れて、柳澤氏との浅からぬご縁をも感じました。

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【第3章第2節】「日本政治」の変革に尽きせぬ想い━━ジェラルド・カーティス『政治と秋刀魚』を読む/9-19

 「説得する政治」未だ見えず

 米コロンビア大名誉教授のジェラルド・カーティス氏の「日本政治」についての興味深いインタビュー記事が「小泉進次郎氏の恩師」(毎日新聞2024-9-19)との添書き付きで出ていた。この中で、同氏は崩れた自民党の構造をどう立て直すのかとの議論が総裁選で全くないことやら、9人の候補者の公平さを重視しすぎる結果「討論にならない討論会」になっていることなどを懸念している。また、日本の政党政治そのものが大きな問題に直面しているのに、小選挙区制度を改めるべきだとの議論さえ出てこないのは残念であると発言をしていて注目されよう。

 この人は昭和42年(1967年)の総選挙に立候補したある自民党候補に密着取材して『代議士の誕生』との著書を発表したのを契機に、日本政治のウオッチャーとして長年活躍してきていることでもよく知られている。今回取り上げた標題の著作は、サブタイトルに「日本と暮らして四十五年」とある。昭和39年(1964年)、23歳の時にコロンビア大学の大学院生として初来日していらいの見聞録風政治論考なのだが、今から16年前の2008年7月に出版されたものを改めて再読した。

 周知のように、自民党は2007年の参院選で大敗し、2009年の衆院選でも惨敗。旧民主党中心政権への交代を余儀なくされた。この本はそのちょうど狭間の激動期に著されたもので、その時から15年が経つ。当時は突然辞任した安倍晋三氏に代わって福田康夫首相が誕生したばかりのときで「日本の政治は新しい混乱期に入った」とある。この後、麻生太郎首相の時代を経て民主党政権へと移っていくのだが、〝今再びの政権末期〟と言っても言い過ぎではないほどの自民党の体たらくを横目に、日本通の米国人政治学者の15年前の見立てから今何を学ぶべきかを考えざるを得ない。

 この著作でカーティス氏が最後に強調しているのは「説得する政治」の展開の必要性である。「具体的な改革の是非について、政治家が国民にわかりやすく説明して、議論して、説得する努力が必要である。野党だから与党の政策に反対する、与党だから野党の反対があるにもかかわらず押し付けようとするといった政治をやめて、新しい『説得する政治』を展開していく必要があると思う」と、最終章の「思考の改革」で結んでいる。残念ながら、第二期の安倍政権も、その後の菅、岸田政権も「説得する政治」が、実を結んだようには見えない。

「中間党」たれとの公明党への言及

 一方、この本で、カーティス氏は公明党について重要な指摘をしていた。「(三党の連立政権が実現した1999年)そのとき、公明党が小渕総理の呼びかけを断って与党でもなく野党でもない『中間党』という立場を取ったなら、日本政治で初めて国会という立法府が政策立案の重要な場になったはずだとそのとき私は思い、今もそう思っている」とのくだりである。同氏は、ドイツの自由民主党(FDP)の例を挙げて、左右両勢力のどちらにも与しない生き方を、公明党もとっていれば良かったのに、政権党であり続ける選択をしたために、今や「自由に動きが取れなくなった」と嘆いている。この見方は、「中間党」との表現の当否はともかくとして、的を射ていると私は思う。あるときは自民党、またある時は立憲民主党や維新、国民民主党など野党と手を組む手法は「中道政党」としての魅力ある政治選択であると思われるからだ。そんなことがこの本を再読しながら頭をよぎった。

 いかにも「後出しじゃんけん」みたいに思われるかもしれないが、公明党の与党化をめぐっては、この20年こうした選択肢の是非が出ては消え、消えてはまた浮上してきたのは事実である。自民党と立憲民主党の党のトップを選ぶ選挙を見ながら、なぜ公明党は、来し方行末を検証し予測する論争をしないのかとの思いは強い。冒頭の毎日新聞のインタビュー記事で、カーティス氏が、与野党の動きを占うなかで公明党の〝この字〟も出てこないのは残念というほかないが、〝音無しの構え〟あるのみの〝沈黙の集団〟では仕方なかろう。

 自民党と公明党の〝連れ立ち大敗〟との結果を得て、かつて拙著『77年の興亡』で懸念した通りになった。「与野党伯仲」は天が与えた僥倖の巡り合わせである。これをチャンスと捉えて、公明党の活躍を目にもの見せてほしいと祈るばかりだ。

【他生のご縁 「9-11」直後の大沼保昭氏宅にて】

 ジェラルド・カーティス先生と私のご縁は、あの2001年9月11日直後に遡ります。かねて親しくさせていただいていた大沼保昭東大名誉教授(故人)から、杉並区の自宅にカーティスさんが来られるので、一緒にどうか、とのお誘いをいただいたのです。それまで、殆どご縁がなかった私でしたので、喜んで出かけました。

 当初は市川雄一書記長も一緒の予定だったのですが、急用で来られず私だけになりました。その時は「9-11」直後とあって、大沼さんのところには新聞社からの「コメント依頼」などが寄せられて大忙しの状況。カーティス先生の文字通り怒り狂った様相、佇まいがとても印象的でした。日頃の沈着冷静さはどこへやら、「1812年の米英戦争以来、初めて首都が攻撃されたこと」への屈辱に立ち上がる「ナショナリストの姿」に私は只々呆然としていたものです。

 

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