【149】粋な生き方を貫くなかで━━帯津良一『後悔しない逝き方』を読む/10-9

 以前に、この著者(帯津三敬病院名誉院長)の『粋な生き方』という本を取り上げた際(No143/8-23号)に、この本も一緒に読んでいたのだが、書くことはせずにいた。この人の本はどれも興味深く読めて、役に立つ。サブタイトルに「患者さんが教えてくれた32の心得」とある。「生・老・病・死」の4ジャンルごとに、①元気なころ②老いを意識したころ③病を得たとき④死を意識するころ━━の4章をあてて、それぞれについての「心得」に言及している。常日頃の患者との接触を経て、教えて貰ったというより、気付かされたものを展開してるに違いない。それぞれの章から、印象に残るくだりを挙げてみる◆まず、①では、「いのちのエネルギーを高めて生きること」が「真の養生」だとして、人生の価値は長さだけではなく「質が大切」だとする。29歳で大腸がんで亡くなった女性患者は、地質の研究に一生を捧げた人だった。亡くなる3週間前に書かれた詩を帯津さんは読み「地質を通して地球の46億年の歴史を見て、宇宙の 150億年を感じてきた」に違いないと見抜く。「80年90年とかからないと卒業できないのが凡人なら、若くして亡くなる人の多くは養生の天才で、短い時間で単位をとることができた」と。そして「健康は大切ですが、健康ばかりに目が向かって、『古狸が穴の中で眠りこけている』ような生き方はやめて、何かに燃える生き方をしよう」と呼びかける。ほぼ80年を生きてきて、未だ中途半端な身でしかない我が身には耳が痛い◆②では、「年を取ったら、大いに羽を伸ばして、あちこち飛び回ればいい」と、老後は自由を謳歌しようと、提案する。その際に江戸期に生きた著述家・神澤杜口が、日本各地の伝説や異聞を集めた『翁草』全200巻を著したことを実例として挙げて、絶賛している。しかもこの人物は44歳の時に妻に先立たれており、以後40年間の一人暮らしの間でこれだけの偉業を成し遂げたのだ。これこそ「大きな自由」ではないか、と。帯津さんも奥さんに先立たれており、一人暮らしを謳歌している。妻という存在は、若い時は「恋人」だったが、やがて「妹」から「姉」になって、ついには「母」を経て、「看護士」「介護士」に成り果てる━━というのが定番。これが私の持論である。ならば、どこかの時点で一人立ちして生きるのもいいものかも知れない◆次に、③では、〝患い上手〟=名患者になるすすめを説く。「自分が名患者になれば、周囲にあるものがすべて名医、妙薬に変わる」といい、「自分が変わる。そしたら、結果的にまわりも変化してくる」と。このセリフは、信仰の世界の真っ只中で若き日から生きてきた私は、よく聞いてきたし、自身もまたよく使ってきた言い回しだ。自立した個人の「一念の転換」によって、客観的事情はいかようにも変わる、と。主観の意志の強さしだいだというわけだ。だが、果たして「医療」に十分な効力があるかどうか。主体としての患者本人の意志の強さと、助縁者の医師との共同作業的側面があろう。患者の気ままさは勿論許されないが、医師に頼りすぎもまた少なからざる問題を引き起こす◆④では、46歳で亡くなった哲学者の池田晶子の「池田は死んでも、わたしは在る」との言葉を引用して、「池田晶子というレッテルを貼ったひとりの人間は消え去ってしまうけれども、私の本質であるいのちは永遠に残る」との名言を遺したと、絶賛している。これを聴くと、私は、日蓮仏法でいう「空仮中の三諦論」を思い起こす。生身の人間は一代の寿命が尽きて物質的(仮諦)には、消え去ったかに見えても、人間存在を成り立たせてきた性格(空諦)や、いのちの本質(中諦)は変わらず、永遠に流れゆくというものである。池田の言葉は見事にこの仏教哲理と相呼応していると思われる。「死後のこと」について、帯津さんはとても大事なことを言っている。「この世に未練を残して嫌々あっちの世界に行くのではなく、『決断』して『選び取って』、意気揚々と旅立っていく」ことが大事だとした上で「想像力を最大限に発揮して、それにふさわしい魅力的で楽しい世界をイメージするようにしています。そうすれば、その瞬間が来るのを大いに楽しみにできるようになるのです」と。この「死後の世界のイメージを持っておこう」との提案は中々大事でユニークなもののような気がする。帯津さんは、死に際しては、「虚空」に向かうロケットのように最高の爆発力で勢いよく飛び立とうという。そううまくいくかなあと思いつつ、一日の終わりのささやかな酒宴に舌鼓を打つことだけは、帯津方式を真似をして実践している私なのである。(2024-10-9)

【他生のご縁】国会での前議員の会合で講演を聴く

衆議院議員のOB会に帯津良一さんが見えて講演をされた時からの繋がりです。年齢は私よりほぼ10歳上の小太りの方でした。初お目見えから既に10年。今はもう90歳寸前でしょうが、粋なじいさんぶりは更に、磨きがかかっているようです。

夕方が来ると、病院に勤務する女性の医師、看護師、各種従業員たちとテーブルを囲んで酌み交わす。それが最大の楽しみです、と語られた時の嬉しそうなお顔とお声の響き。それは今もなお耳朶から離れません。

 

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【148】好きこそプロの始まり━━荻巣樹徳『幻の植物を追って』を読む/10-2

 「たかだか勉強ができないだけで何も落ち込む必要はない。むしろ逆に勉強ができないことによって、自分だけしかできない方向に導かれていくことがある」──世界的なナチュラリスト(植物学者)であり、「四川植物界名人」などの称号で知られる荻巣樹徳さんが「子どもたちに言いたいこと」として、挙げている言葉だ。また若者には、「もっと自分のお金を使いなさい。自分に投資しなさい」とも。80歳を目前にした私が己が人生を振り返って心底から共鳴する。名著『幻の植物を追って』は、残念ながら〝猫に小判〟で、私の興味はあまり惹かない。美しくて珍しい草花が気高く掲載された本を捲りながら、「植物と人間の差異」の大きさへの理解に悩み続けた。だが、この本を著者から頂いて10年余りが経った頃、漸く分かる糸口を見つけた。かのビートたけし氏との対談(『たけしの面白科学者図鑑 地球も宇宙も謎だらけ』所収)を読むに至ってからのことである。ここではご両人のやりとり──たけし氏の「聞く力」を手がかりに、未知の世界への探訪に挑んでみた◆荻巣さんは5〜6歳の頃から植物の栽培に興味を持った。万年青(おもと)、万両(まんりょう)、細辛(さいしん)など伝統園芸植物を栽培するようになったのは中学生の頃というから驚く。著者の生まれ育った愛知県尾張地方は古くから園芸が盛んな土地。それもあって、異常なほど植物が好きで好きで仕方なかったようだ。一日も早く〝植物のプロ〟になりたかった荻巣さんは、高校を出て直ぐに、欧州に渡り、ベルギーのカラムタウト樹木園を始め、オランダのポスコープ国立試験場やイギリスのキュー王立植物園(ハーバリウム)、さらにはウィズレイ植物園などで学び続けた。そして30歳を過ぎて1982年に中国の四川大学へ行って学生になり、そこに収蔵されている標本約11万点を閲覧し、すべて頭に叩き込んだ。そして翌1983年ロサ・シネンシスの野生種を再発見して、世界を驚かせた。欧米人が標本を採取した後に、実物を見た人がおらず、詳しい自生情報など一切不明だった。それを70年ぶりに明らかにしたことで一躍有名になったのである◆この発見にまつわる逸話は興味深い。植物を探すという行為は、時間の制約上、移動しながら探すしかない。時速35キロくらいの車で動きつつ、直径2-3センチほどの植物を視認していく。動体視力が重要なのだが、中国のバラの野生種を全種類、頭にインプットしていたからこそ見つけることができたといわれる。そしてそれは運がよかったのであり、自分の力ではなく、「縁」だと強調されている。「同じ生物としてこの地球に生まれたからには、その『隣人』の存在に気づかないまま会えなくなってしまうというのは悲しいです」と、四川大地震のような自然災害や人為的な自然破壊を恐れている。「植物調査の過程で、縁あって『初めまして』と隣人の存在に気づくのが、僕のできることなのだろう」との述懐がとても新鮮というか、奥ゆかしい。異国の山中で、突然出くわした植物に、「どうも、お初に。待ってくれてたんですね」と語りかける荻巣さんを想像するのは微笑ましい限りだ◆以前に、この人が中国とベトナムの国境奥深くへとフィールドワークに行かれると聞いて、同行させて貰おうかと考えたことがある。いいですよ、行きましょう、とご承諾頂いた。だが、いくら「現場第一主義の公明党」の人間だからといっても、それは足手纏いだろうと諦めた。荻巣さんは、私が付き合った人の中で、紛れもなく最高の位置を占める「知の偉人」だが、その「知」は、並大抵な努力で培われたものではない。普段は大阪豊中での研究室仕様のマンションにひとりで暮らしておられる。かつて「奥さんはどこに?」と訊いた。「東京です」「えっ、別居状態ですか?」「ええまあ。勿論、時々会いますよ」──浅はかな想像力で、あれこれと思いをめぐらせたが、全貌はわからぬままになっていた。それが、「たけしとの会話」で遂に明らかになった。「月に2回ぐらいは仕事で東京に来ます。しかし、その時、家へは泊まりませんね。家に帰ると、食事やお風呂の用意ができてるでしょう。それが人をダメにしますね」「そういうことが身につくと、まずフィールドワークはできなくなります。風土病など、いろいろな病気にかかる恐れもあるし、まさに命がけです」と。この人、およそ生きぬく覚悟の出来具合が違うと、心底から思い知った。(2024-10-2)

★他生のご縁 西播磨の植物研究所での出会いから新天地を求めて

 荻巣さんとの出会いは西播磨の山崎町にあった「植物研究所」です。とある企業の尽力で貴重な植物が保存されていました。初めてお会いしたのは懇意にしていた当時の白谷敏明町長(後に宍粟市長)さんのごの紹介でした。いらいほぼ30年、幾たびも常に新鮮で、実りある会話をさせていただいた。時に2人きりで、また、古くからの友人や植物好きを交えて。

 ご時世から企業メセナに頼られることにも限界が生じて、その植物研究所が移転やむなきの事態になり、新たなる場所を求めることになってしまいました。なんとか探して差し上げたいと焦っているのですが、いまだに見つけられていないのはとても残念なことです。

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【147】元防衛官僚による真摯な批判と反省━━柳澤協二『検証 官邸のイラク戦争』を読む/9-25

 イラク戦争(2003〜11年))において大量破壊兵器をサダム・フセイン政権が保有していると信じた米英軍が侵略攻撃をし、同政権を破壊した。ところが後にそれは嘘偽りの情報に基づくものであったことが判明した。米英の当事者たちはそれぞれ誤った情報で動いたことを認めた。ところが日本政府は今に至るまでそれをせず、「検証」を行った形跡すらない。実は、この戦争において首相官邸で自衛隊のイラク派遣の実務責任者を務めたのが標題作の著者・柳澤協二氏である。現役時代に外交・防衛に関するテーマに関心を強く持った私は、さまざまな場面でほぼ同世代の柳澤氏と付き合う機会があった。定年後の今もなおその関係は続いているが、防衛官僚と与党政治家の身として、「イラク戦争」への〝批判の眼差し〟には共振するものがある。2010年に公明党理論誌『公明』誌上で、簡潔な形にせよ私は反省の弁をまとめた。その意味で立場の差は微妙にあるものの、この書を紐解いて「共戦の譜」を読む思いさえした◆著者が退官後のほぼ4年の歳月をかけて、個人的に「イラク戦争を検証する試み」を成し遂げた所産がこれである。現代における「戦争の意味」に立ち返り、「無駄な戦争」と言われてきた「イラク戦争」を完膚なきまでに分析し総括した、極めて意義深い仕事だ。同時代を生きた政治家のひとりとして心底から敬意を抱く。イラク戦争への疑問を踏まえての総括(序章)に始まり、米指導者の戦争決断への思考過程の分析(第1章)、防衛研究所所長としての思考の方向性(第2章)、小泉政権の戦争支持に至る流れの分析(第3章)、自衛隊派遣の意思決定(4章)、派遣から撤退までの官邸の対応(第5章)、イラク戦争後の政策課題(第6章)を経て、「日本の国家像」を求めた終章まで、著者の思考の軌跡が惜しみなく披瀝されていて興味は尽きない。政権を支える役目を持った官僚が、自らも少なからず関わった政策決定の是非を批判を込めて検証するというのは、「防衛」分野では初めてのことではないか。かつての仲間たちの不満や怒りを存分に感じながら、何故にこの決断に踏み切ったか。柳澤氏のこの検証公開から12年ほどが経った今、改めて振り返ることは「日本と戦争」を考える全ての人にとって欠かせぬ作業だと思える◆中東・イラクでのアメリカの戦争に同盟国であるがゆえに参加するということは、戦後日本が経験したことのない初めてのものだった。憲法によって禁止された「国際紛争を解決するための武力の行使」であり、政府がそれまで一貫して否定してきたものだったのである。かつて「極東」という位置を巡って関わり方が大論争になった「ベトナム戦争」や、憲法前文にある「名誉ある地位」を占めることが契機になった「湾岸戦争」などとは明らかに違った。このため自衛隊の派遣については、戦闘地域から離れた後方地域での人道復興支援に限定した。戦闘に巻き込まれたら撤退するとの条件付きであった。米英をはじめとする同盟国とも戦争をめぐる価値観の不一致をそのままにした上での〝歪な同盟の展開〟だったのである。こうした背景を持つ戦争について著者は、「イラク戦争」において日本は、「戦後の平和国家としての自己認知を否定した」とズバリ位置付けた。しかもその「自己認知」は、「変動するアジアの中で、漂流を続けている」とまで明確に言ってのけている◆かつてイラク戦争真っ盛りの時に、米国の戦争に支持をした小泉政権のパートナーとして公明党は同調した。イラク北部のクルド族への虐待やら大量破壊兵器の存在を否定しないフセイン政権の真偽入り混じった〝挙動不審〟と〝乱暴狼藉〟に、私は公明新聞紙上で論考を上下2回にわたって書き、イラク非難の論陣を張った。「湾岸戦争」から引き続く「13年戦争」と捉えるべきだ、と。ペンと同時に兵庫県下各地で党員支持者の皆さんの前で、平和の党・公明党は座したまま理想を説く口舌の党ではなく、「行動する国際平和主義の党」だと強弁しまくった。少なからぬ男女党員の納得しがたい表情や声が今も目に浮かび、耳に残っている。こうしたことから、前述したように、誤った情報による政策判断のミスを率直に認めたものだった。柳澤氏の「検証」を読んで我が意を得たりと共感すると共に、与党の一翼を担う存在の一員として、政権の内側から戦争関与にどう歯止めをかけるかという立場の困難さを考えざるを得ない。(2024-9-25)

★他生のご縁 定年引退後に同じ「安保政策研究会」に所属

 柳澤さんは定年退職と前後して、ある新聞紙上に政府批判の論考を書かれた。ほぼ同じ頃、挨拶に見えた際、私は「人生後半に良い生きる道を見つけましたね」と不躾な思いを率直に吐露したことを思い出します。

 その後、一般社団法人「安保政策研究会」で彼は常務理事、私は理事になりました。再会した折に「(立場の変化で)昔の仲間を失った分、新しい友人が増えました」と、苦笑いしつつ述懐されました。その点、私とは昔も今も変わらぬ関係であることには不思議な思いを抱きます。

 この本の中で、柳澤さんの防衛研究所所長時代の後輩で長尾雄一郎第一研究室長のことがでてきます。私は彼のことを、同期だった石井啓一(公明党新代表)君と共に、高校生時代からその将来を嘱望していました。長尾君は残念ながら急逝してしまったのですが、遺稿となる文章(『我が国の安全保障上の国益』)を仲間が校正したとのくだりに触れて、柳澤氏との浅からぬご縁をも感じました。

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【146】「日本政治」への尽きせぬ思い━━ジェラルド・カーティス『政治と秋刀魚』を読む/9-19

 19日付けの毎日新聞に米コロンビア大名誉教授のジェラルド・カーティス氏の「日本政治」についての興味深いインタビュー記事が「小泉進次郎氏の恩師」との添書き付きで出ていた。この中で、同氏は崩れた自民党の構造をどう立て直すのかとの議論が総裁選で全くないことやら、9人の候補者の公平さを重視しすぎる結果「討論にならない討論会」になっていることなどを懸念している。また、日本の政党政治そのものが大きな問題に直面しているのに、小選挙区制度を改めるべきだとの議論さえ出てこないのは残念であると発言をしていて注目されよう。この人は昭和42年(1967年)の総選挙に立候補したある自民党候補に密着取材して『代議士の誕生』との著書を発表したのを契機に、日本政治のウオッチャーとして長年活躍してきていることでもよく知られている。今回取り上げた標題の著作は、サブタイトルに「日本と暮らして四十五年」とある。昭和39年(1964年)、23歳の時にコロンビア大学の大学院生として初来日していらいの見聞録風政治論考なのだが、今から16年前の2008年7月に出版されたものを改めて再読した◆周知のように、自民党は2007年の参院選で大敗し、2009年の衆院選でも惨敗。旧民主党中心政権への交代を余儀なくされた。この本はそのちょうど狭間の激動期に著されたもので、その時から15年が経つ。当時は突然辞任した安倍晋三氏に代わって福田康夫首相が誕生したばかりのときで「日本の政治は新しい混乱期に入った」とある。この後、麻生太郎首相の時代を経て民主党政権へと移っていくのだが、〝今再びの政権末期〟と言っても言い過ぎではないほどの自民党の体たらくを横目に、日本通の米国人政治学者の15年前の見立てから今何を学ぶべきかを考えざるを得ない。この著作でカーティス氏が最後に強調しているのは「説得する政治」の展開の必要性である。「具体的な改革の是非について、政治家が国民にわかりやすく説明して、議論して、説得する努力が必要である。野党だから与党の政策に反対する、与党だから野党の反対があるにもかかわらず押し付けようとするといった政治をやめて、新しい『説得する政治』を展開していく必要があると思う」と、最終章の「思考の改革」で結んでいる。残念ながら、第二期の安倍政権も、その後の菅、岸田政権も「説得する政治」が、実を結んだようには見えない◆一方、この本で、カーティス氏は公明党について重要な指摘をしていた。「(三党の連立政権が実現した1999年)そのとき、公明党が小渕総理の呼びかけを断って与党でもなく野党でもない『中間党』という立場を取ったなら、日本政治で初めて国会という立法府が政策立案の重要な場になったはずだとそのとき私は思い、今もそう思っている」とのくだりである。同氏は、ドイツの自由民主党(FDP)の例を挙げて、左右両勢力のどちらにも与しない生き方を、公明党もとっていれば良かったのに、政権党であり続ける選択をしたために、今や「自由に動きが取れなくなった」と嘆いている。この見方は、「中間党」との表現の当否はともかくとして、的を射ていると私は思う。あるときは自民党、またある時は立憲民主党や維新、国民民主党など野党と手を組む手法は「中道政党」としての魅力ある政治選択であると思われるからだ。そんなことがこの本を再読しながら頭をよぎった◆いかにも「後出しじゃんけん」みたいに思われるかもしれないが、公明党の与党化をめぐっては、この20年こうした選択肢の是非が出ては消え、消えてはまた浮上してきたのは事実である。自民党と立憲民主党の党のトップを選ぶ選挙を見ながら、なぜ公明党は、来し方行末を検証し予測する論争をしないのかとの思いは強い。冒頭の毎日新聞のインタビュー記事で、カーティス氏が、与野党の動きを占うなかで公明党の〝この字〟も出てこないのは残念というほかないが、〝音無しの構え〟あるのみの〝沈黙の集団〟では仕方なかろう。未だ、自民、立憲両党の選挙戦の決着はついていない。今からでも間に合う。両党の選挙終盤に向けて公明党発の何らかの発信をすべきだと思うのだが。(2024-9-19)

※他生のご縁 「9-11」直後の大沼保昭氏宅にて

 ジェラルド・カーティス先生と私のご縁は、あの2001年9月11日直後に遡ります。かねて親しくさせていただいていた大沼保昭東大名誉教授(故人)から、杉並区の自宅にカーティスさんが来られるので、一緒にどうか、とのお誘いをいただいたのです。それまで、殆どご縁がなかった私でしたので、喜んで出かけました。

 当初は市川雄一書記長も一緒の予定だったのですが、急用で来られず私だけになりました。その時は「9-11」直後とあって、大沼さんのところには新聞社からの「コメント依頼」などが寄せられて大忙しの状況。カーティス先生の文字通り怒り狂った様相、佇まいがとても印象的でした。日頃の沈着冷静さはどこへやら、「1812年の米英戦争以来、初めて首都が攻撃されたこと」への屈辱に立ち上がる「ナショナリストの姿」に私は只々呆然としていたものです。

 

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【145】究極の「歴史探偵」ここにあり━━半藤一利『荷風さんの昭和』を読む/9-12

 この本は、「歴史探偵」こと半藤一利さんが、永井荷風の日記『断腸亭日乗』をベースにして、昭和の始めから20年の敗戦までの、戦争への道にいたる「日本の社会と風俗」を描いたもので、「生きた歴史解説の書」とでも言えようか。とても面白くてためになる。平成6年(1994年)の1月から1年12回にわたってある雑誌に連載されたものを大幅に加筆して出来上がった。世に出て既に30年になる。半藤さんは亡くなって3年余りが経つが、私はこの人と生前に一度だけだが食事をご一緒したことがある。拙著『忙中本あり』を出版して暫く経ったころだった。事前にその本を贈呈していた。因みにそれは私の処女作で、1999年初から2000年末までの2年間100週に読んだ約300冊の読書録である。そこには半藤さんの名著『戦う石橋湛山』も入っている。その時の会話は殆ど忘却の彼方だが、挨拶も終わらぬうちに頂いた言葉だけは鮮明に覚えている。「貴方はくだらない本を随分沢山読んでる人ですねぇ」と。ホントのことをズバリ言われた気もして、本心は満更でもなかった。それもあってか、その後この人の本は『日本のいちばん長い日』『昭和史』『戦後史』『漱石先生ぞな、もし』を始め、せっせと読んできた。ただし、この『荷風さんの昭和』は未読だった◆取り上げられた荷風は、明治から昭和にかけて活躍した小説家だが、ここでは先の大戦を鋭く批判した日記(大正6年-昭和34年)が「原資料」となっている。世の中がお上から下々まで戦争讃美に流された時代風潮に抗して、無視し贖い続けた「反骨の人」として名を馳せている。かねてより深く尊敬してその足跡を追ってきた、半藤さんは江戸の戯作者もどきの側面を持つ荷風をその実情を露わにすべく面白おかしく描き切った。慶應の教授でもあった荷風にかねて関心を持った私は、若き日に岩波書店版『断腸亭日乗』全集7巻を購入して、書棚に並べた後、押入れに突っ込んできた。しかし、御多分に洩れずおよそ開くこともなく、放ったらかし。今回半藤さんの「手ほどき」を受けるとあって、初めて紐解いた。頁を捲ると、何やら異様な黴臭いにおいがしてきて始末が悪かったが目をつぶったしだいだ。この本の醍醐味は、江戸期から明治・大正期を経て昭和の戦争に突入し、やがて日本が「滅亡」するまでのおよそ100年を、硬軟両面に分けて、交互にじっくり観察したことにある。例えば、第1章が「この憐れむべき狂愚の世━昭和3年〜7年━」とくると、第2章は「女は慎むべし慎むべし」とくる。以後奇数章はお硬く、偶数章はぐっと柔らかい。第4章など「ああ、なつかしの墨東の町」と銘打って、「玉の井初見参の記」━━色街探訪が展開されるという具合だ。因みにその前段の3章「『非常時』の声のみ高く」では、「天皇機関説」をめぐる言論界の様相が見事に抉られている◆戦後第一世代の私はそれなりに、戦前の時代状況を学んできたとの自負はあった。しかし、この本を読んで、そんな経験や考察がいささかぐらつきかねないことがよく分かった。例えば、我々は「日清・日露の勝利」をピークに、大戦前の40年ほどを一括りにして「軍事力拡大の時代」として見てしまいがち。だが、これでは荒っぽ過ぎる。昭和9年5月末に逝去した日露戦争最大の殊勲者・東郷平八郎元帥は「国葬」の扱いだった。だが『日乗』では殆ど触れず、日本海海戦における功績は別人にありとの見方を提起している。そして、半藤さんは荷風の指摘を肯定した上で「大功はすべて東郷ひとりに授け、事実を秘匿した。おかげで、日露戦争後の日本はリアリズムを失って、どんどん夜郎自大のとんでもない国になっていく」と、「反薩長史観」的見方を、我が意を得たりとばかりに展開している◆昭和5年5月生まれの半藤さんは、20年11月生まれの私とは15年半ほど歳上だが、この差は実に大きい。彼はものごころついた時に軍人が幅を効かし行く時勢を存分に見聞きし、のちに荷風さんの命懸けの反戦の振る舞いを検証しているのだ。学徒動員に駆り出される寸前に敗戦を迎えた、いわば〝寸止め世代〟でもあって、「国家悪」を凝視する態度が実にきめ細かく堂に入っている。私の15歳の頃といえば「60年安保」の年。大学を卒業する頃が「70年安保」前夜。大学紛争が東大から日大まで燃え盛った。半藤さんより少し上の「学徒動員世代」の恨み辛みがあたかも世代を超えて乗り移ったかのようであった。とは言うものの、時代背景そのものは戦前の「亡国の翳り期」と、占領期を経て「興国の勃興期」とでは、比べるべくもないといえよう。ともあれ、戦後世代は、「荷風・一利」連合チームの硬軟相和す攻めの前に、なす術なしなのである。(2024-9-13)

●他生のご縁 娘婿との繋がり

半藤さんとのご縁のきっかけは、彼の娘婿・北村経夫産経新聞政治部長(現参議院議員)との出会いに始まります。とある赤坂の居酒屋で偶然知り合って以来親しくなりました。北村氏は山口県出身。安倍晋三元首相と気脈を通じ合った気骨あふれる長州人です。義父がすんなり娘の結婚相手を認めたのかどうか。大きな謎です。

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【144】この夏こんな本を私は読んでいる(下)━━『気をつけろ、トランプの復讐が始まる』『国家の総力』『日蓮の思想』/8-31

 過去に経験しなかった被害をもたらしかねない━━前評判がめっちゃ怖かった大型台風が我が居住地域のすぐそばをかすめながら、殆ど雨らしい雨ももたらさず、東へと移動していった。8月31日という子どもの頃には、いい思い出のない〝夏の終わり〟の奇妙な体験をしながら、夏休みの宿題ならぬ、この夏の読書を進めている。日本の首相に直結する「自民党総裁選」については、私のような70歳台後半の政治ウオッチャーにとっては、もう一つワクワク感が湧いてこない。むしろ、名うての弁舌家で、元首相の野田佳彦氏が名乗りを上げた「立憲民主党代表選」の方が面白くなってきた◆そんな状況を背景に、まず月末ギリギリに読み終えたのが宮家邦彦の『気をつけろ、トランプの復讐が始まる』である。米大統領選の雲行きは、つい先頃の「ほぼトラ」(ほぼトランプで決まり)から、トランプ襲撃事件を経て、民主党の候補者差し替えによって、「もしトラ」(もしトランプが再選したら)へと、様変わりした。そうした状況を背景に出版されたばかりのこの本は、実に面白い。手軽に読めて、分かりやすい。最も興味深いのは最終章の「安倍元首相なき日本の『もしトラ』生存戦略」だ。「天才的『じゃじゃ馬馴らし』政治家」としての安倍晋三は、その回顧録に余すところなく見事に描かれている。著者は安倍に代わりうるトランプと渡り合える政治家を探すのは難しいと思ってきたが、彼は「いじめっ子」であるとのオーストラリアの首相の論考を読んで考えが変わったという。「勇気をもって立ち向かい、率直に話し、本人に利益になることを伝え、繰り返し強く説得する」しかない、と。さて、そういう能力を持った総裁候補はいるのか。「いじめっ子」を巧く扱えそうな人物は見つからず、「いじめられっ子」ならすぐ浮かぶ。ともあれ、総裁選に勝利した候補はこの本を直ちに読むべし◆私の高校同期の女友だちで笑医塾・塾長である高柳和江から、7月後半に「この本絶対読まなきゃあ」と電話があり、送られてきたのが『国家の総力』。これまで彼女の専門の医学や文明論的な分野のもの、また塩野七生の本などを勧められてきたが、今回のものは異色。兼原信克と高見澤將林という「外交・安保」官僚の最強コンビが組んで、いざ「台湾有事」が現実のものになったら、日本はどう立ち向かうかを、語り合ったものである。これまで、自衛隊の元将官たちと議論したものは読み、ここでも取り上げたことはあるが、この本は、エネルギー安保と食料安保から始まり、シーレーン防衛、特定公共施設と通信、貿易と金融といったテーマを、それぞれのエキスパートと共に詰めた議論を展開している。色々と触発されるが、「石油危機後の『油断』に対応する戦略備蓄の話がエネルギー安保の話として語られますが、有事の際の日本のエネルギーをどう確保するかという議論がない。これはおかしな話です」(兼原)と、戦後日本がエネルギーを防衛政策から切り離してしまったことを嘆いている。自公政権にあって、公明党が中道とはいえ、リベラル的指向が強い分だけブレーキ役を果たしているのかどうかが気になる。「台湾有事」について大枠を聞き、語ることはあっても、ここまで細部にわたっての議論はあまりお目にかからないだけに得難い本である◆最後は、植木雅俊の『日蓮の思想━━御義口伝を読む』である。仏教学者の中村元の直弟子として、お茶の水女子大で博士号を取得した著者は、サンスクリット語に熟達した仏教思想家だ。これまで難解な専門書は別にして、数多い著作を読んできて、京都と大阪で開かれたNHK文化センターでの講義にもそれぞれ5回ほど受講したことがある。その著者が日蓮大聖人が弟子日興上人に語り伝えた『御義口伝』を題材にして日蓮思想を語ったこの本は、とてつもなく価値があると思い、飛びついた。まだ完読するまでには至っていないが、総論の「南無妙法蓮華経とは」から始まり、「自己の探究」「汝自身を知れ」「日蓮の時間論」と続き、「日蓮の仏国土観」「日蓮の死生観」で終わる、全10章430頁に及ぶ本は読み応え十分である。特に「時間論」に惹かれた。これまで創価学会の池田大作先生の『御義口伝講義』を懸命に読んできたつもりだが、市井の一学者によるこの解読書は新鮮な印象を受ける。これからじっくりと、読み進め新たなる境地を切り拓きたいと思っている。(敬称略 この項終わり 2024-8-31)

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【143】この夏こんな本を私は読んでいる(中)━━『粋な生き方』『嫉妬論』『冷戦後の日本外交』/8-23

 本のタイトルって、それなりに大事ってことを思いっきり感じたのがこのほど読んだ帯津良一さんの2冊。『粋な生き方』と『後悔しない逝き方』である。前者が2014年10月、後者が同年12月初版と、踵を接して出版されている。出版社は違うけれど、明らかに「生と死」を一対のものと意識して世に問うたものと思われる。かつて国会で開かれたOB議員の会合でこの人の講演を聞いていらい、ファンになった。ともかく話が面白い。そして本も。お医者さんの書いた本だからどちらも健康に関わりがあるのは当たり前だが、前者は生き方に、後者は死に方に関わる。共に、サブタイトルめいた文句がついており、前者には「病気も不安も逃げていく『こだわらない』日々の心得」。後者には「患者さんが教えてくれた32の心得」。中身はダブっているところもあり、後者はここでは省く◆前者は目次から拾うと39の心得が、5章に分けて掲げられている。①挫折を知る人ほど、大輪の花を咲かせる②あきらめない、こだわらない③日々、ときめいて生きる④上手に恋する「粋な人」⑤凛として老いるといった具合に。著者とはほぼ10歳年下の私だが、圧倒的に興味深いのは4章。中でも「恋は、生きる上で最高のエネルギー源になる」「別れをかなしむことはない。別れは必ずくるように、再会するときも必ずくるから」「家族とは、ときどき会うほうが、『遠きが花の香り』でうれしいもの」の3つに関心を抱いた。帯津さんは奥さんと死別されて長い。仕事が終わると看護師、医師、事務員さんたち女性と、一献傾けながら話しを交わすのが最高のひとときといわれる。〝恋する爺さん〟の片鱗がここから伺えて興味深い。別れと再会については、夫人の亡骸を見ながら「向こうへ行ったら真っ先に謝らないといけないな。それまで少し待っていてほしい」と、心の中で語りかけ、やがてあっちの世界で会えることを楽しみにしているという。家族との関係も、「毎日顔を合わせていると気に食わないことばかりが目につきますが、たまに会う関係だと、ありがたく思える」というくだりには100%同感だ。ともあれ一読をお勧めしたい◆前回取り上げた『本居宣長』(先崎彰容著)のくだりでも述べた、山本圭(立命館大准教授)の『嫉妬論』をその後読みだした。「民主社会に渦巻く情念を解剖する」というサブタイトルがついているように、「嫉妬」という厄介な感情の有り様について、社会との関係から深い洞察を試みたユニークな新書である。「嫉妬」が現代政治に絡んで姿を表すのは、最もポピュラーなのは「生活保護費」をめぐる議論だが、これからやってくる「ポスト資本主義」社会ではいかなる問題が待ち受けているか。著者は、現在論壇の世界で話題になっているコミュニズムの新展開に矛先を向ける。つまり、私がかつてこのブログで取り上げた斎藤幸平、松本卓也氏らによる『コモンの自治論』(No.100)などを意識している。私などは「熱い思い伝わるも虚しい実現性」といった軽いタッチで論評したものだが、山本氏は、「コモンとして民主的に共同管理するとき、これまで気にも留めなかった差異が途端に顕在化する」うえに、「社会主義のプロジェクトの足を掬うことになるかもしれない」から、「こうした負の感情に何らかの仕方で向き合う必要がある」と、「嫉妬」の取り扱いに絡めて、「コモンの自治」への懸念を示している。流石だ◆あと、今読み終えて深い満足感を覚えているのは『冷戦後の日本外交』。これは自民党の元副総裁で外相や外務政務次官を幾たびもこなして文字通り日本外交の下支えをしてきた高村正彦氏による聞き語り、つまりオーラル・ヒストリーである。聞き手の中心は元内閣官房副長官補の兼原信克氏。これは実に読み応えがあった。高村氏は「安保法制」において、「集団的自衛権」の部分的容認の作業を公明党の北側一雄副代表との間で仕上げたことで知られるが、それ以外についてはあまり業績は一般に伝わってきていない。それを、兼原氏と、川島真(東大教授)、竹中治堅(政策研究大学院大教授)、細谷雄一(慶大教授)の4人で見事なまでに掘り起こしている。実は私は高村氏という政治家をよく知っていると思ってきたが、「希代の外政家」との表現に接して驚きを禁じ得ず、我が不明を恥じ入った。率直に言って大いに見直したが、自民党内ではそれこそ「嫉妬」の対象にならざるを得ないような気がしてならない。この本については、項を改めて詳しく論じたい。(2024-8-23)

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【142】この夏こんな本を私は読んでいる(上)━━『百年の孤独』『本居宣長』『神なき時代の「終末論」』/8-17

 私の『忙中本あり』は、今は一週間に一冊のペースで本を取り上げ、読後感を表現している。この5月3日に『ふれあう読書━━私の縁した百人一冊』上巻を出版してからは、下巻の上梓を目指して、自分がご縁をいただいた著者の本を取り上げてきている。しかし、会ったことも見たこともない著者の本も読むことは、もちろんある。出版準備にかまけてばかりいないで、そういう普通の本も取り上げようと、この夏まとめて今読んでいるところだ。お盆の時節も過ぎてしまったが、ここでこの半月あまりに読んだ本の「読書録」を一気にまとめて取り上げてみたい。読み終えたものも、いままさに読み続けているものも、読み始めたばかりのものもある。種々雑多だが、かつて20年以上前に「週間日記風」に書いた手法を久しぶりに思い出して、まとめてみた★パリオリンピックの始まる前、本屋の店頭に大々的に宣伝されていたのがガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』(鼓直訳)の「文庫化」だ。この本は20世紀文学屈指の傑作として礼賛されるものだが、今まで手にせずにきた。読み始めてそれなりに時間が経った(オリンピックが終わってもこっちは未だ終わらない)。登場人物が入り組んでいてよく分からず、筋立ても理解に苦しむ。そのくせセックスに関する場面だけはリアルそのもの(当然だろうが)。久方ぶりにこの手のものを読んだが、すぐまた難解な記述に戻って、興味が続かない。こんなことの繰り返しで、まだ全体の三分の一も進んでいない。それでも放り出さないでいるのはひとえにこの本の評判の高さゆえ。「解説」で筒井康隆も「新潮社からラテン・アメリカ文学の最初の一冊として出された本書を読んだ時の衝撃は忘れられない。『この手があったか』と驚く程度の生易しいものではない。文学への姿勢を根底から揺るがされたのだ」と書いている。こうした言葉に焚きつけられてはいるのだが、さてどうなることやら★一方、今年のNHK 大河ドラマの源氏物語『光る君へ』は、30回を超えて佳境に入ってきた。『源氏物語』の映像化と聞いて連想したものとは違って、中々本題に入らないものだからヤキモキしていた。尤も世界に誇る日本最古の小説も、〝閨房狂いの読み物〟と見られなくもないので、「千年の秘事」というべきかもしれない。実は偶々フジTV系の人気番組『プライムニュース』で、思想家の先崎彰容が登場して『嫉妬論━民主社会に渦巻く情念を解剖する』の著者・山本圭と議論していた。その際に先崎が『本居宣長━━「もののあはれ」と「日本」の発見』なる本を出版したばかり(5月)だと、知った。本居宣長が『源氏物語』の読み手として最高峰の位置を占めるとされていることから、直ちに飛びついた。これは実に読みやすく面白い。あっという間に読み終えた。当初、先崎が小林秀雄の向こうを張って「もののあはれ」論に新解釈で挑もうとしているのかと期待したが、そうではなかった。「解釈の歴史」に挑戦することで、今風の日本論の展開を試みたもので、それなりに啓発された★ほぼ同時に『神なき時代の「終末論」』という魅力的なタイトルの本をやはり思想家の佐伯啓思が6月に出したことを知って、読み始めた。これは、「自由」「活動条件」「富」の拡大を目指して、走り続けることが幸福に直結すると信じる楽観的な現代人のあり様に、くさびを打ち込む意欲的な試みである。しかもその背景に、『旧約聖書』における「終末論」に基づく歴史観が「神なき現代」にあっても、アメリカとロシアを突き動かしているという。現代文明を形作ってきた「西」の深層を「東」に位置する中国や日本はどう捉えるか。極めて興味深いテーマを佐伯がどう「料理」しているのか━と、小躍りしたい気分で読み進めた。結果は、いささか〝ないものねだり〟ではあった。つまり、「西」の背景を抉っているだけで、「東」には手がつけられていない。まあ、「神」や「終末論」とは、直接的には「東」は無縁だから仕方ない。だが、「東」とて間接的に巻き込まれて生きている。傍観は許されない。先に読み終えた先崎の『本居宣長』では、中国を「西」として、捉えていた。この2冊、これから「文明への思索」を深める契機として、活用することになりそうだ。(敬称略 2024-8-17)

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【141】価値誇れる地域へ歴史の「活用」━━久保健治『ヒストリカル・ブランディング』を読む/8-10

 コロナ禍を経て、日本には今再びのインバウンドの波が寄せてきている。数多の外国人がなぜ今日本にやってくるのか。恐らく、彼らの住み慣れた地域とは全く異なった風景の中で、およそ特異なものが手に入るからだということではないか。テレビで、信楽焼(しがらきやき)の狸に群がる外国人の姿を見てそう思った。そんな折もおり、新進気鋭の学者から『ヒストリカル・ブランディング』なる新書が送られてきた。サブタイトルは、「脱コモディティ化の地域ブランド論」とある。議員を引退してほぼ10年、コロナ禍に襲われる前の、前半5年間は地域活性化に向けて、あれこれと取り組んだものの、悪戦苦闘の末に一旦休止を迫られた。そこへこの本の登場。渡に船である。著者は、亡き旧友の息子。歴史研究者から一転、起業家として経営に携わる。現場を走る若き学者兼経営者の入魂の一冊に深い感銘を受けている。地域起こしに取り組む多くの人々に実践の指南書として勧めたい◆この本は二部構成で、一部が「観光によるヒストリカル・ブランディング」で、具体例として北海道の小樽運河と千葉県佐原の大祭を取り上げる。二部は、「商品開発による地域ブランディング」。千葉県横芝光町の大木式ソーセージという地場産業のブランド化と、熊本県菊池市の菊池一族をファンコミュニティによるブランディングとして登場させている。それぞれ実践形態を述べた後、理論編を付け加えている。さらにコラムとして、「失敗の検証」にも言及しており、理解するための工夫が凝らされている。4つの実例のうち、私は「小樽運河」しか知らない。その「小樽」にしても「保存か開発か」をめぐって60年に及ぶ壮絶な戦いがあったことまでは、知識はおぼろげ。「運河戦争」が終結して、いわゆる「観光地化」をみたのは40年前の1984年から。運河誕生から百年が経ってようやくブランドとして確立した。ここからブランドが持つさまざまな機能を利用して価値を高めていくブランディングが始まる。今そのとば口に立ったばかりだというのだ。父祖の地・小樽をルーツに持つ著者らしい思い入れがじわりと伝わってくる◆西日本の「小京都」に比して、関東には、「小江戸」と呼ばれる町が幾つもある。佐原もその一つだが、呼び名は「江戸優り(まさり)」が相応しく、独自性を誇る。その中核をなしたのが「大祭」である。無形価値としての祭りを可視化した経緯が明解に語られ、歴史が「対立から対話に」至った道のりが理解できる。一方、地場産業としてのソーセージ作りをブランド化したケースでは、地域の青年たちが大木式ソーセージの発祥に遡って、受け継がれてきた技術の成り立ちを探求する。彼らは創業者・大木市蔵の弟子たちが開いた店を一軒また一軒と、全国各地に訪ね探してきた。また、熊本県菊地市の菊地一族についても興味深い。熊本県北部を流れる菊地川流域を淵源とするのだが、南北朝時代に九州統一を果たした一族で、豊かな歴史文化を持つ。菊池市観光協会が官民連携で実施したプロモーション施策「菊池ファンクラブ」が主体となって、「菊池こそ九州の首都なり」と勝手に宣言した物語へと発展させていく。具体例の後の理論編で、大事なのは地域の歴史の「文献資料の読み込み」との指摘があり、ハード頼りだけではいずれコモディティ化は免れないと、厳しい◆世界文化遺産・姫路城も、現実的には観光客は京都、広島への通過地点で、宿泊を伴う消費拡大は今ひとつ。私は地元選出の議員として、伊勢のおかげ横丁や京都・太秦の映画村に見倣って〝リアルな城下町〟を作ろうと呼びかけた。時の市長は研究を進めたようだが、「文化財保護法」の厚い壁に遮られ挫折した。引退後は淡路島を拠点に瀬戸内海島めぐりを目指す一般社団法人の専務理事として、万葉集学者・中西進会長、ヨット冒険家・堀江謙一副会長らと共に夢を育むプロジェクトに取り組んだ。関西国際空港との連携航路などにも挑戦して大きく羽ばたきかけたものの、コロナ禍の直撃を受けて敢えなく構想は沈んだ。この本のコラム「失敗の検証」その一「歴史文化観光を推進しても上手くいかない」を読むと、身につまされる思いがする。いま「敗者復活」に向けて新たな挑戦の気概が仄かながらも漲ってきた。(2024-8-10)

【他生のご縁 親子二代にわたる繋がり】

 著者の父親と私は今から50年あまり前、東京・中野で青春を共有した仲でした。この本には「両親の介護も年々その重さが増していった」とか「介護と仕事の両立」などといったくだりに出会います。その都度、親思いの息子の苦労が偲ばれ、胸詰まる思いがします。

 「おわりに」では、「本書を、いつも見守ってくれていた父・勝、母・和子、兄・精一に捧げたい」と結ばれています。5歳ほどで逝った兄・精一君との両親の様々な思い出━━弟・健治君は兄の生まれ変わりだと聞いた日のことなど、私には懐かしく甦ってくるのです。

 

 

 

 

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【140】あなたも私もみんな揃ってがんになる?━━中川恵一『がんの練習帳』を読む/8-3

 この本のまえがきには、「『死なないつもり』の日本人へ」とのタイトルがつけられ、書き出しは「日本人のおよそ2人に1人ががんになります」で始まっている。そして、65歳以上の高齢者に限れば、2人に1人ががんで死亡している、と続く。だが、現実には現代日本人はあたかも死なないつもりで生きてるようだ、と。どうしてだろう。恐らく心で思ったり、口に出したりすると、きっと実現してしまうとの、日本人特有の〝縁起担ぎ〟的傾向が災いしているのに違いない。なるべく日常的生活の中に〝死にまつわること〟を遠ざけ、考えないようにすればいい、というわけだ。しかし、著者はそんなことでは、がんになって慌てふためくのがオチで、「不本意な治療を受けてしまい、後遺症に苦しんで後悔する」ことになると警告する。そして「がんになる前に、がんを知る「練習」が必要」なことを訴えている。私はかねて中川恵一さんと知己を得てきた。だから、〝がんについての教え〟は知ってるつもりだった。だが、この本を読むと、改めてうーむと唸ることばかり。かじっただけで、実は何も身についていないことを思い知った◆「練習帳」と銘打ったこの本では、練習①が総論で「本当にがんを知っていますか?」とのクイズから始まって、がんの全体像を描く。その後、②肺がん③乳がん④前立腺がん⑤直腸がんの4つの「闘病記」がリアルに公開されていく。練習⑥では「余命」をめぐる「体験記」でトドメを指す。今風に言うと、マジ面白くてヤバい読みもので構成されているのだ。実は私の母は胃がんで還暦前に亡くなり、父は喜寿を祝ったものの80歳直前に膀胱がんなどで逝ってしまった。そんな両親の経験から、自分も死ぬ時は、胃がんか膀胱がんのどちらかだろうと思いこんできたが、この本を読んで、「がん遺伝説」は誤りだと知った。がんは「悪い生活習慣」に起因し、「検診サボタージュ」が手遅れを招く。つまり、予防には、「生活習慣の改善」と「定期的な検診」が最善の策というわけだ。それに、日本では今、胃がんや子宮頸がんなど「感染型」のがんが減っていて、増えているのは前立腺がんと乳がんが多いことも恥ずかしながら知らなかった。食生活の欧米化、肉食型が原因である◆4つの闘病記はいささか不謹慎ないい方だがめっちゃ面白い。例えば、「前立腺がん」については、原宿のマンションに夫婦で暮らす63歳のお金持ちの男性の「性機能の維持」をめぐるケース。高級クラブの女給との秘密の関係で揺れ動くドラマ仕立てなのである。「手術・ホルモン治療・放射線治療」という3つの主な治療法と〝勃起との関係〟を巡って、医師と患者、その妻、その愛人が絡み合う非喜劇が展開される。他方、「乳がん」については、43歳のバリバリのキャリアウーマンのケース。最初に診て貰った医師から「乳がんです。お乳はとった方がいいですね。入院の手続きをして帰ってください」とにべもなく告知される。彼女それには「先生、その言い方はひどくありません?初めからお乳を残す気がないんじゃないですか!私、結婚前だし」と激しくあがらう。医師は機嫌をそこね「まずは命の心配をしたらどうですか。いやなら、お乳を残せる医者を探したらいいでしょ。私はもう知らないから」と突き放す。陰鬱になりがちな話題がユーモア交りで巧みに料理されていて味わい深い◆更に圧巻は、巻末の〝最期の迎え方〟。著者は、告知される「命の残り時間」の精度が高まる中で、日本社会は「核家族化や病院死が進み、『死の練習』は難しくなり」、「共同体の絆も弱まり、死に向き合い、死を支えるパワーを失っている」と強調する。世界各国では、強い力を持つ宗教が「死の練習」を支える役割を果たしているのに、宗教心の希薄さで際立つ日本は「『死の受容』は非常に困難になって」いるからだ。ここでは、膵臓がんで「余命3ヶ月」を宣告された75歳の元ナースの妻と78歳の認知症の夫のケースが紹介される。家族に看取られた見事なまでのいまわのきわが印象深く描かれていく。中川さんは、「がんで死ぬということは、『ゆるやかで、予見される死』を迎えることを意味する」として、それを「人生の総仕上げ」の期間と捉えることを勧めている。そうすれば、「がんもそんなに悪くない」と思えるはずだ、と。さて、19の歳から「臨終のこと」を習い続けてきたはずの私も〝80歳の壁〟を間近に意識するようになった。若き日に体育の時間に苦手だった跳び箱に挑む直前の時のような心境に今はある。(2024-8-3)

【他生のご縁 公明党政調の強いアドバイザー】

 いつの頃か、公明新聞の親しい先輩の引きで、中川さんとお会いするようになって、様々なご指導をいただくようになりました。心臓麻痺のようにポックリ死ぬのと、がんで余命を告げられて死ぬのと、どっちがいいでしょう?って、訊かれたことを思い出します。どっちも嫌だって、思ったものですが、さて今は?

 

 

 

 

 

 

 

 

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