〝いい医者〟に巡り会うかどうかが緊急時には全てかもしれない。かつて深夜の麻雀帰りの帰路で大阪駅構内の階段を踏み外した友人が脳挫傷を負いながら生き延びることが出来た。雀友が担ぎ込んでくれた駅近くの病院に著名な腕利きの脳神経外科医が偶々夜勤でいたことが幸いした。逆に、〝下手な医者〟に当たると悲劇になるケースは数多ある◆映画『評決』では、医療ミスを犯した2人の著名な医師を庇い、裁判長をも巻き込む大弁護団が、ポール・ニューマン扮する飲んだくれから変身した弱小弁護士に最後の最後に敗訴する姿を描く。被害を受けた産婦は生ける屍状態になった。「示談」が家族、弁護士を揺さぶり、医学書まで著述する〝立派な医者〟の影も色濃い◆誤診を恐れていてはまともな医師は育たない。ローマは一日にしてならず、立派な医師も同様だろう。しかし犠牲になる患者はそれではおさまるわけがない。この辺りのせめぎ合いは日常茶飯事かもしれぬ。だが、人の生命を左右する「医療と法律」のどぎついまでのぶつかり合いが陪審員の良識で見事な解決に導かれる。爽やかさを感じた人は多かろう◆つい先年のこと。友人が通勤途上の西明石駅東口改札口を通った直後に意識不明になって倒れた。放置されたまま、ものの数分も経っていたら確実に死は免れなかった。ところがその場に備えられていたAEDを使って呼吸蘇生を施し、病院に通報してくれた〝奇跡の人〟がいた。未だ名さえ知らぬその人の存在がなかったら‥‥。通り合わせた〝ただの隣人〟によって生かされた、この生命を大事に世の役にたっていきたいと語る友の姿が眩しかった。(2026-4-20)。
【84】戦争の悲惨を体感する━━「舞鶴引揚記念館」を訪ねて/4-15
地には満開の桜。空はどこまでも青く、群青色の舞鶴湾はふところ奥深く抱き抱えてくれた。軍港から引揚港へ。立ち並ぶ赤れんがと漂う潮風と。街のそこかしこからは、再会の歓びが沸き立ってくるかのようだ。いつまでもこの平和が続いて欲しいとしきりに思った。
昭和の終わりに東京から生まれ故郷の兵庫・姫路に戻った僕は、京都の北端にある舞鶴市に行ってみたいと思っていました。当時出来たばかりだった「舞鶴引揚記念館」(1988年昭和63年開館)の見学がお目当てでした。大学同期の親友が此の地に住んでおり、尚更その思いが強かったのです。ところが日常の繁忙の中で機会を逃し続け、平成の30年間はおろか令和になっても行かぬまま歳月が経ってしまいました。それがこのたび遂に念願が叶ったのです。
先の大戦終結時に旧満州、朝鮮半島、旧ソ連から「引き揚げ」てきた人々を受け入れた港は、舞鶴を筆頭に博多、浦賀、佐世保、仙崎など10を数えますが、舞鶴港には昭和21年から33年までの13年の間におよそ66万人が帰ってきたといいます。引揚者は全部で約660万人ですから、ほぼ1割に当たります。
⚫︎身近なところにいたシベリア抑留者
縁は異なもの味なもので、私が姫路に帰ってきて住んだ地のご近所にあった電器店の経営者が、実はシベリア抑留者の次男でした。当の親父さんとも平成の初めから面識はあったのですが、具体的な体験談などは聞かないまま、今頃になって知るところになりました。きっかけは、その次男氏(69歳)が神戸新聞の読者欄に書いた「シベリア行きは無理か‥」という見出しの一文を読んだことです。終戦時に占守島で旧ソ連の捕虜になった親父さんは、コムソモリスクで4年間の抑留生活を送り、極寒の中での森林伐採をさせられた苦節の日々を過ごしたといいます。
新聞には親父さんが亡くなった30年前にお袋さんと一緒に記念館に行った時のことも書かれていました。親父さんの亡くなった年齢に今年彼がなったこともあり、シベリアに行きたいとの思いがするもののウクライナ戦争で渡航は無理なのが残念だという風な内容でした。早速メールで、舞鶴記念館に行きたいと思っている僕の思いを送ったところ、「車で一緒に行きましょう」と、実に嬉しい返事が帰ってきました。ということで、共通の友人も誘って3人で僕の舞鶴の友人宅へと向かうことになったのです。姫路から車で2時間。懐かしい友の案内で舞鶴を堪能してきました。
⚫︎悲惨な抑留者収容所生活の再現を前に
記念館の玄関先の床には旧ソ連、蒙古を始めとする抑留先の地図が収容所名と共に広がっていました。大小合わせると2000箇所もあったようですが描かれていたのはほんの一部です。白樺の木の皮に書き込まれた日記の一部やら「南の空 ふし拝む朝夕の點呼 一入思ひ深かる」「冬木立凍てし夜半に月蝕けし」などの和歌や俳句を始め、スプーンなど食器の製作品も展示されている幾つかの部屋をじっくりと見回りました。当時の収容所内部を再現した人形(写真)が眼を奪い、そっくりそのままという「体験室」もしつらえてありました。
館内では案内担当の女性が丁寧に説明をしてくれるので随時やりとりが出来ました。その合間に、くだんの友人が親父さん直伝のエピソードを披露してくれたのですが、これが実に興味深かった。空腹に耐えられず猫を煮て食べたために独房入りになった話だとか、伐採作業の結果を誤魔化すために知恵を凝らした事などを語るのです。聞いた方があれこれ口を挟むことから随所で「珍問答」が展開されました。〝戦人の苦労平人知らず〟ともいうべき事態に自省をしつつも常識を逸脱した非業の所産を前に、やりきれなさを払拭したい思いに瞬時囚われてしまったのです。このあと舞鶴湾を一望できる丘に登ったり、赤レンガパークを訪ねたりしました。
⚫︎新たな世界大戦の始まりを予感して
2022年に製作された映画『ラーゲリより愛を込めて』は多くの人たちに感動を与えたものの、リアルさには欠けるとの辛口の批評も聞きます。あの映画を観た人も見ていない人も共にこの舞鶴の「引揚記念館」に来ることは大事だと思いました。戦争はありとあらゆる「悲惨さ」を伴う残酷極まりないものですが、空襲のたびに防空壕に入ったり、竹槍での訓練をしたといった程度の話しか親から聞いたことがなかった僕にとって、シベリア抑留の実態をつぶさに見ることは大いなる刺激を伴う経験でした。
人生の最終盤近くになって、戦後抑留者の家族が身近にいることが分かってきました。公明党の斉藤鉄夫前代表の親父さんもそうです。また旧帝国陸軍の幹部だった瀬島龍三氏の部下で抑留された軍人の長男である勝瀬典雄氏も引退後親しく付き合っている友人です。彼とは、戦後日本の課題をめぐる議論を繰り返ししてきました。この夏には、シベリア、蒙古抑留を追い続けるジャーナリストの井手裕彦さんを迎えての講演会を開催しようと企画中です。戦間期が終わり、新たな大戦勃発の空気が強まる中で、誰しもが「戦争体験」を見聞きした上で、発信する重要性を日々痛感しています。(2026-4-15)
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【83】公明党は「答えの出ない事態」に耐えられるか?━━帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ』を参考に/4-10
兵庫県の公明党議員OBの会に太田昭宏元代表を招いた会合からほぼ1ヶ月が経った。あの会合で同氏は、「ネガティブ・ケイパビリティ」(負の能力、陰性能力)の大事さをさりげなく口にした。「中道」の塊を作るべく、衆院レベルの公明党と立憲民主党が合流して新党「中道改革連合」を作ったものの、選挙の結果は大惨敗だった。この事態を前にして、今後の新党と公明党の舵取りをどうするかで悩む者にとって「負の能力」は貴重に違いない。ここでは、その辺を作家で精神科医の帚木蓬生氏の同名のタイトルの本(写真)を参考に考えてみた。
⚫︎シェークスピアと紫式部に学ぶ
帚木さんのこの本最大の読みどころは第八章。シェークスピアと紫式部の2人がいかに「負の能力」を持っていたかを説いている。シェークスピアについては、「リア王」や「マクベス」「ハムレット」、「真夏の夜の夢」「ベニスの商人」などなど代表作で展開される〝悲喜劇の葛藤〟を次々と挙げた上で、それぞれの主人公たちがどう「不確実さの中に、性急な結論を持ち込まず、神秘さと不思議の中で、宙吊り状態を耐えて」いったかを論じている。
一方、紫式部については25頁ほども費やして、『源氏物語』のあらすじを通覧して、いかに「物語の構成のうまさ、人物群の描き分けとからみ合いの絶妙さに感嘆させられた」かを説明している。その結果「物語を光源氏という主人公によって浮遊させながら、次々と個性豊かな女性たちを登場させ、その情念と運命を書き連ねて、人間を描く力業こそネガティブ・ケイパビリティで」あり、光源氏という存在そのものが「負の能力」の具現者だったと述べている。「この宙吊り状態に耐える主人公の力がなかったら、物語は単純な女漁りの話になったはず」とまでいうほどの入れ込み様に触れて、僕は改めてこの物語の底力を知る思いがした。
尤も、物語を例にしてネガティブ・ケイパビリティの実例だと言われてもリアル感はイマイチである。具体的な事実や現実の歴史の上での実例を挙げてくれないと迫真性にかけると思ってしまう。
⚫︎子供にも「持ちこたえることの大事さを」
そこで、次の章「教育とネガティブ・ケイパビリティ」を追ってみた。そこには教育現場で、どうやってもうまくいかない解決困難な事例が山積みだとして、「負の能力」の必要性を説いている。帚木さんが講師を務める「森田療法セミナー」の受講生である臨床心理士から受け取った手紙が〝いい得て妙な実例〟かもしれない。「どうにもならないように見える問題も持ちこたえていくうちに、落ち着くところに落ち着き、解決していく。人間には底知れぬ『知恵』が備わっていますから、持ちこたえていれば、いつかそんな日が来ます」とある。
その手紙の文末には、「『すぐには解決できなくても、なんとか持ちこたえていける。それは、実は能力の一つなんだよ』ということを、子供にも教えてやる必要があるのではないかと思います」との言葉が添えられていた。帚木さんは、これが第九章の骨子を言い尽くした手紙だとまで礼賛してやまない。
「待てば海路の日和あり」ということわざを思い出す。じっと待っていれば幸運はやってくるというわけだが、果たしてそううまくいくのか。大概の人間はイラついて〝生兵法で怪我〟をしてしまうのがオチではないかと思われる。
⚫︎不寛容さの背後にポジティブ・ケイパビリティ
そこで最終章に進む。「寛容とネガティブ・ケイパビリティ」では、世界や日本の歴史の事例を通し、寛容さと不寛容さとの関係を鮮やかに示していく。政治の場での分かりやすい実例はドイツのメルケル首相の粘り強さとトランプ米大統領の我儘放題の比較であろう。2人の対比は分かりやすい。
また戦争に至る軌跡での「為政者のネガティブ・ケイパビリティの欠如」として「どうにもままならない宙ぶらりんの状態を耐えることなく、ええいままよ、とばかり戦争に突入していく、情けない指導者たちの後姿」として満州事変を挙げ、堪え性のない政治家と武力に頼る軍人の無惨な性癖を叩く。「軍人の論理からすれば、どうにもならない難局を打破するには、戦争しかないのが当然です。針の糸を通すようにして、何とか解決の道を探る、ネガティブ・ケイパビリティは、軍人の頭にはありません」し、「軍隊はネガティブ・ケイパビリティとは無縁の存在」だという。
ここでネガティブの反対としてのポジティブ・ケイパビリティ(正の能力、陽性能力)を振り回すことの非に気がつく。「宙ぶらりんに耐える」能力と、「快刀乱麻を断つ」能力の背後には、寛容の優しさと不寛容の性急さが介在するのだ、と思えてストンと腑に落ちる。
⚫︎「中道」の塊を作ることへの努力やいかに
さて、そこで新党「中道」がこれからどう進むことが望ましいのかとの課題に戻る。公明党から分離していった仲間たちが立憲民主党と新しい党を作っていこうと苦労を重ねている。前途には様々な難題がうず高く待ち構えており、まさに公明党も「中道」も宙ぶらりん状態である。えーい、面倒だ。元へ戻ったらスッキリするとの「正の能力」を発揮したくなってしまうのは人の世の常かもしれない。それを思い止まり、じっくりと中道の塊を構築する作業に時間をかけて行けるのかどうか。
2022年に拙著『77年の興亡━━価値観の対立を追って』で、僕は自民党との連立に躍起となるあまり中道主義を放置してしまったかに見える公明党を嗜めた。それから3年、高市早苗首相の奇策に対抗するための〝窮余の一策〟だったかもしれぬとはいえ、立憲民主党との新党「中道」結成の選択には我が意を得る思いがしたものである。筋書きなきドラマの展開に舌なめずりをするだけでは無責任の謗りは免れないというほかない。(2026-4-10)
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【82】現代葬祭・埋葬事情を考える━━親の「看取り」を終えて/4-5
僕は32歳の年の暮れに実母と別れた。あれからほぼ50年。桜の花が咲き始めた先頃、妻の母を失った。この間に父親2人もこの世を去っているので、遂にというか、やっとと言うべきか、4人の親たちがみんないなくなった。今回は親との別れから現代埋葬事情について考えてみたい。
⚫︎天寿を全うした義母と早くに逝った実母と
義母は享年101歳。20歳過ぎで中野区鷺宮に嫁いできて、63歳で兵庫・姫路に娘夫婦と共に転居するまで東京暮らしだった。気丈な江戸っ子で、夫の家業の失敗で家を無くし、どん底生活を味わいながらも弱音を吐かずに乗り切った。30歳代半ばに日蓮仏法に帰依し、どんなに辛くても題目をひたすらあげた。借金取りを折伏して追い返したり、近所で新築の家があれば大工さんたちに日照権の話を持ち出して聖教新聞購読拡大を図ったりするなど、真偽疑わしい「武勇伝」が昔からある人だった。
姫路に来てからは俳句の会に入って30数年間句作を重ね、90歳代で句集『十三夜』に百句をまとめて橡青啄木鳥集(とち青ゲラ集)同人に推挙されるまでになった。私ども夫婦はせいぜい人気テレビ番組「プレバト」での夏井先生と梅沢富美男のバトルを楽しむ程度。俳句を嗜む域にさえ到達できずにいる。「屋根の上 猫かしこまる 十三夜」という俳句の値打ちもあまりわからぬ親不孝ものだった。
夫と死に別れたのちの義母の後半生は近畿各地への句会仲間との吟行や句作に励む日々で充実していた。だが90歳半ば以降の晩年は老人介護施設でお世話にならざるを得ず、寂しかったと思う。そうせざるを得なかった義息としては申し訳ない思いで一杯だった。60歳直前に胃がんで逝った僕自身の母は、最期まで夫の献身的な看護を受けた。病院のベッド脇に布団を持ち込み、お風呂に入れてやったと聞く。2人の母親のどっちが幸せだったか。答えは難しい。
⚫︎明るく楽しい葬儀を目指して
義母の葬儀に際しては家族葬ということで出来る限り質素に済ませることにした。しかし、葬儀場の都合がつかず息を引き取ってから6日間も式典までの時間を要した。朝10時45分から1時間の葬儀には20人ほどのご近所の方々と俳句の仲間に来ていただいた。お陰様でこの地域に縁の薄かった義母にしては暖かい見送りが出来た。有り難かった。斎場での火葬を経て骨上げを済ませたのが3時過ぎ。あっという間だった。
義父と実父母の通夜、葬儀はいずれも自宅で行なった。昭和の世のことである。実父母の場合は悲しさが先立ちあまり覚えていない。義父の場合は僕の新築したばかりの家の部屋数が多く、各部屋ごとに関係者を分け、実に盛り上がったことを覚えている。その葬儀一切を義母が取り仕切った。以後、通夜は明るく楽しくやるものと決めた。知人の通夜に行って唄をうたい、盛り上げすぎて顰蹙を買ったこともある。今は昔のことである。暗いのは嫌いな性格だからだが、「永遠の生命」との観点からも、旅立ちは明るく陽気にしたいものと思う。
⚫︎「土葬か火葬か」の論争の背後にあるもの
斎場からの帰路、火葬と土葬を巡って昨今起きている「埋葬論争」に思いがよぎった。昨年10月の宮城県知事選で、現職の村井嘉浩氏が苦戦の結果辛勝した背景に、「イスラム人と土葬」の問題があったのである。ひとたび「土葬」を認める発言を同氏はしたものの、後に撤回したことを対立陣営の参政党側から突かれた。この問題は、外国人労働者の拡大問題が根底にあり、従来は争点化することのなかったものが浮上することになった。
参政党という新興政党の躍進がここ数年目立つ。だが僕はこの党に課題提起力はあっても、永続性には懐疑的である。同党を題材に雑誌に長編ルポを掲載したある作家は、同党の主張の特徴を①大衆が感応する怒りや不安、恐怖で有権者の共感や不安を呼び覚ますアジテーションに長けている②問題の解決策に関心が薄い③組織の成長とともにその主張を変化させてきた━━の3点だとする。現代日本社会を騒がせ揺るがせることに主眼を置いた奇怪な存在だ。
弔いのあり様をめぐる外国人との差異に目をつけ「日本人ファースト」との主張に絡める戦術は、選挙戦において一定の効力を発揮している。問題の本質は、人間の最終末期の尊厳に関わり、人類的課題として取り扱われるものだろう。個人的には日本人の大多数が認める火葬でいいと考えるが、早急な決断は不必要かもしれない。
⚫︎火葬費、葬儀代高騰のリアル
葬儀を終えた翌日、ビデオに撮り溜めていた映画『最高の人生の見つけ方』(原題The Bucket List)を偶々観た。ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンによる「生死」という重いテーマを明るく楽しく面白く見せる優れものの映画だった。中盤あたりで2人が「火葬か土葬か」の議論をするのだが、火葬派が、遺骨を珈琲の缶に入れると香りがいいからとの場面には大いに笑い、共感した。
東京では現在「火葬費の高騰」が問題化している。公益性が極めて高い課題に行政が不作為ではないかとの指摘には首肯出来る。地方に住む者からすると、葬祭にまつわる費用も大いに高い。「小さなお葬式」=安いは葬祭業者の描くイメージ戦略である。基本的価格に次々と付加価値めいたものが提示され、結局は倍増以上の価格になってしまう。親孝行と葬儀のリアルの狭間で残された者はただ漂うしかない。(2026-4-5)
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【81】「過疎」を跳ね返す可能性を探る━━ある地域活性化セミナーから/3-30
⚫︎にぎやかそ━━賑やかそうな過疎の町
いま、日本の至る所で地域おこしに取り組む試みは数多い。私も議員を辞めてから四国・徳島県南部の海沿いのまち・美波町の地域活性化に関わるようになった。今回はさる3月25日に同地で開かれた『地域活性化セミナー』に参加した際の模様を中心に報告したい。
町役場に入ると「にぎやかそ 美波町」のポスターが目に飛び込む。「賑やかそうな過疎の町」という意味だと思われる。数年前に町内挙げての大激論の末に決まったキャッチコピーだという。僕はこれを見るたびに妙にいとおしい気持ちになる。月夜の大浜海岸からの幻想的風景は観る者をして瞬時遠い古代に誘う。この海岸には「赤ウミガメ」が産卵にやってくる。松林の中に立つ「日和佐うみがめ博物館」は日本一の規模と中身を持っており貴重な施設なのである。
毎年秋10月にこの海岸で行われる「日和佐八幡神社秋祭り」は町中の人びとがやってきて盛り上がる。四国の「お遍路」は徳島・霊山寺から第一歩が始まるが、ここの町にある薬王寺が23番目で同県最後の「札所」である。高台にある同寺の展望台から見下ろす風景(写真)は、町の中心部が一望できる。ご多分に漏れず人口は減少の一途をたどり、かつて存在した高校もなくなって、若者たちの流出も止まらない。この町の賑わいのカギを握るのが「道の駅日和佐」であることから、その有り様を見直す試みがいま本格的に始まろうとしている。
⚫︎鮮やかだった学者たちの競演
3月25日の夜6時から(株)道の駅日和佐の主催、一般社団法人「未来を創る新教育推進会」(会長=相島淑美神戸学院大教授)の共催で、セミナーが開催された。終日振り続いた雨にも関わらず会場に駆けつけた春田裕計議長ら町議会関係者や町民代表らで場内は熱気がこもっていた。司会は日和佐をご先祖からのルーツにする勝瀬典雄氏(元関学大講師)。全国を飛び回る地域おこしプランナーであり、この日の催しの仕掛け人でもある。タイトルは「道の駅 日和佐の可能性を考える」。講演に立ったのは相島教授の他に、石賀和義神戸学院大教授と山川拓也流通科学大准教授。いずれも聞き応えがあった。
相島氏は元日経記者で翻訳家でもあり、今は茶道を通して「おもてなし」の研究もするチャーミングな経営学者。この日は、日本本来のおもてなしは「場」を作って楽しむことにあるとした上で、訪れる人びとと一緒に町も自分たちみんなが幸せになる「場」を作っていこうと強調した。味わい深い「町の活性化手引き話」に強い感銘を受けたしだい。
石賀氏は、日本銀行勤務を経て大学教授になって4年。学生たちと渾然一体になる〝かたちの面白さ〟に嵌っている人と私は見た。「兵庫県における道の駅の経営サポートを実践」との演題で、国交省主催の「道の駅大学連携事例発表会」でのご自身の取り組みを語った。私の選挙区だった宍粟市波賀町のケースの紹介は〝彼の地あのひと〟が思い出されるリアルなお話の連続で無性に懐かしかった。こんな先生と一緒に学べる学生はさぞ楽しいに違いない。
山川氏は観光業に携わったのち学問の世界に。前日まで香川県琴平町での継続的な仕事に携わってそのまま移動。「観光の世界的かつ中長期的な潮流」との講演は、実に興味深く「観光から〝歓交〟へ」との展開には大いに感じ入った。流通科学大はダイエーの創始者・中内㓛が魂魄を留めて世に問う大学。私の母校長田高の大先輩でもあり、「創立80周年記念式典」で2人だけで控室で語り合ったものだ。私は議員を辞めたのち「コロナ禍」までの数年を「瀬戸内海島めぐり協会」(中西進会長=万葉集学者)で過ごした。山川氏の精緻な「観光学講義」を聞きながら中内、中西という2人の「商いと学問の巨人」の微笑む姿がなぜか我が脳裡に浮かんできた。
3人の学者の凝縮された講演の合間に、司会の勝瀬氏が当意即妙で長い繋ぎの言葉を添えて参加者の理解を促していった。この4人のスピーチはぜひ紙化して、関係者だけでなく地域おこしに興味を持つ向きに提供して欲しい。
⚫︎「南海トラフ」への防災を基礎に四国を一国に
この日の会合の冒頭の挨拶は、道の駅日和佐の社長であり美波町の町長の影治信良氏。この人は現在「全国道の駅連絡会」会長も務める。むべなるかなと思ったのは、辺境の地のトップだとは信じられないほどオシャレで粋な政治家に見えることだ。進む道を間違われたのではと思ってしまうほどだ。
質疑応答を経て最後の挨拶に私が立った。議員時代に事務所を支えてくれた女性スタッフが上智大を出たあとハワイでウミガメの産卵を記録するアルバイトをしていたことや、現在住む西明石の海岸がウミガメとの縁が深いこと、お遍路さんの真似事をした菅直人元首相との特別な関係など山ほど海のように語りたいことがあったが、時間の都合で全部カットして、話したのは一つだけ。四国4県が本当の意味で一つになることの大事さについてだった。近い将来必ず起こる南海トラフ大地震に備えるために、四国4県が一丸となってしっかり防災に取り組まねばならない、と。
締めくくりに2001年に誕生した国土交通省の初代衆議院委員長として、道の駅日和佐のリニューアルを契機に、美波町が大きく発展していくようお手伝いしますと述べることも忘れなかった。(2026-3-31 一部修正)
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【80】新党「中道」、憲法、イラン情勢をどう捉えるか/3-25
先の衆院選で自民党が未曾有の議席増を果たす一方、新党「中道」は大惨敗を喫した。明年の統一地方選挙で公明党は「中道」と合流するのか、更に2028年の参議院選挙はどうするのかの問題や、日本のこれからにとって大事な憲法をめぐる問題および米国とイスラエルのイラン空爆など大いに気になるところだ。これら緊急課題について、以下私の考えを述べたい。
①公明党と新党「中道」のこれからについて
明年の統一地方選まで4月でちょうどあと一年となる。公明党は現状のままの党名でいき、「中道」には合流しない方向のようである。ただ、中道の大きな塊を作っていきたいとの方向性に変わりはなく、先の臨時公明党大会でも改めて確認されていた。それからすると、明年以降も公明の看板をかけ続けるというのはいささか違和感がないわけではない。
実は従来からの地方議会、特に市町村議会では政党を名乗らず無所属でいくケースも多い。かつては保守系無所属とか革新系無所属などといった呼称が用いられることもあった。それからすると、中道系無所属という呼び名でもいいのではないかという気もする。新党結成という大きな決断をした背景については、メディアでもしだいに明かされつつあるが、高市早苗首相の新年早々の国会召集冒頭解散の奇襲に、奇策で対応したとの見方が強い。衆院における中道の活躍、参院における公明党、立憲民主党の動向が気になるところだが、早急に相互理解を深め、日本をどうするかのビジョンを共有して欲しいものだ。
②憲法について
現行の日本国憲法は戦後米国の占領下の1946年11月3日に誕生(公布)した。以来80年間一度も改正されることなく施行されてきた。様々な課題のうち国家の安全を担う行使力の主体である「自衛隊」の位置付けさえ規定されていない。自民党は結党後70年、「改憲」を党是にしてきた。一方、かつての社共両党や立憲民主党など「リベラル」勢力は「護憲」の立場。この二項対立の中で議論は平行線だった。この状況を打開するために、「護憲」から「加憲」に立場を変えた公明党は、環境権など新たな規定の盛り込みを提案したものである。
2012年に自民党が作った憲法草案は、①自衛隊の「9条明記」②緊急事態対応③参議院の合区解消④教育の環境強化の4項目を優先課題としてきた。だが、この10年近く憲法審査会での論議でも合意には至っていない。先の衆院選の結果、自民党単独で3分の2の議席を確保したことから「改憲」の機が高まったかのように見る向きがあるが、参議院は依然少数与党であり、変化は起こりそうにない。
実は「自衛隊明記」については、公明党は太田昭宏代表当時に問題提起したが、自民が前向きになると逆に撤回してしまうなど、「加憲」よりも「護憲」に戻った感が強い。新党「中道」が新たな塊を作れるかどうか。まずは、参議院の公明、立民と中道三党間での徹した憲法論議がカギを握るものと思われる。
③米国のイラン空爆、ロシアのウクライナ戦争など国際法無視の流れをどう捉えるか。
米国は第二次大戦後の80年、政権の如何を問わず性懲りも無く他国の内政に関与してきた。世界の警察官というと聞こえはいいが、自立した国家主権を時に潰しにかかる。かつてのベトナムへの介入は「赤化ドミノ」、イラクは「大量破壊兵器」が口実だった。今イランには「核使用阻止」のための先制攻撃である。これらが国際法違反であることは論を待たない。しかし今や「力の平和」が大国の通常の論理になり、国際法無視が常態になっている。
一方、ロシアのウクライナ戦争はもう4年を超えた。この国も米国と同様というより開びゃく以来、「侵略」を変わらざる性とする。共産中国も本質は大同小異で、特に隣国は油断も隙も見せられない。つまり、米中露の「専制3大国」は、第二次世界大戦後80年の戦間期に、建前では国際社会の和平への協調姿勢を見せながらも、本音では国益優先を隠さないできた。しかし、今や建前と本音のマダラ模様は一変したと見ざるをえない。
放置すると「世界大戦三たび」が現実のものになってしまう。国連を無力と諦めるのではなく、三大国以外とりわけEU、日印などの中堅国家群の連携が大事で、外交力の見せどころだ。日本は中東において日米同盟下にありながらイランとの関係に注力してきた歴史を持つ。イラク戦争で犯した「情報詐欺の愚」を今再び繰り返すのではなく、自前の「人間外交」を縦横無尽に展開する時である。
その点で希望を持つべきなのは、各国の市民レベルの連帯力ではないか。かつて米国には権力を諌めるジャーナリズムの力が横溢していた。ロシアにも中国にも伝統的な文学、芸術に基盤を持つ壮大な文化力がある。こうした市民、一般知識人層の連帯力を結集するチャンスではないか。国境を越えた権力の横暴に対抗しうるのは、民衆レベルの共同戦線しかない。ここは新党「中道」、公明党の出番であると考えるのだがどうだろうか。(2026-3-25)
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【79】不屈の「共戦の友」たち━━年に一度の議員OBの集いから/3-20
兵庫県下の公明党の議員OBたちが年に一度集まる機会がある。私がその会の代表世話人を務めており、例年は年初に開くのだが今年は衆院選があったので3月14日になった。党中央から太田昭宏代表を招き、県本部に82人の共戦の友たちが参加した。この会での模様の一部を今回はお伝えしたい。(写真は終了後に会員とやりとりする太田代表と私)
⚫︎闘病中、回復後など様々な姿
最も高齢のメンバーで90歳過ぎ。若い人で60歳代後半。現役時代の任期は短い人で1期4年、長い人で8期32年の人と幅が広い。引退後も人それぞれだが、年金生活といっても悠々自適とはいかず、様々なアルバイトで苦労している人も少なくない。それよりも高齢になると、身体に不都合をきたして病院に入ったり、老人保護施設にお世話になる人なども増えてくるし、連れ合いを亡くしてしまう人も多い。そのような仲間たち相互に励まし合う組織である。今回の集いでは県下10のエリアごとに特徴的なひとを選んで冒頭に紹介した。
まず、洲本市のOさん。このところ体調がかなり思わしくなく、主治医から厳しい診た手を受けているが、先般の洲本市議選では後輩2人の勝利を目指して渾身の闘いを展開された。その結果は女性候補がダントツの当選、もう1人の壮年候補も厳しい条件のなか見事に当選を果たすことが出来た。この日の会合は参加が危ぶまれたが、何としても皆に会いたいと、きてくれた。洲本から高速バスに乗って三宮に到着し、休みながら歩いて会場へ。私は国際会館南の途中まで出迎えたが、会った時には思わずハグして、あたりの目も構わず抱きしめた。長時間座るのは疲れるので懸念されたが、最後まで真剣な顔つきで参加して頂いたのは心底から嬉しかった。
西宮のYさんは、3年半前の統一選の直前に、脳の障害を一時的にきたし倒れてしまい意識不明状態になったと聞く。急遽、夫人が身代わりで立候補して当選された.。その後本人は奇跡的に回復した。後遺症もない。今は元気になって妻を逆に支えておられるとのこと。見事に復活された姿に万雷の拍手でみんな喜んだ。他にも加古川市のNさんは去年自転車運転中に転倒して背中や腰を強打された。だが無事に回復されその後米寿の祝いを迎えられた。
⚫︎地域での貢献の活動あれこれ
尼崎市のM、T、Mさんらのトリオは皆さん市選管委員長の要職を2年づつ合計6年にわたってこなされた。20数年前に市議会で思わぬ不幸な出来事があり、それに巻き込まれたメンバーたちだが、苦難を乗り越えて大事な仕事をし終えた喜びを味わっておられた。私も当時の苦労をそれなりに知るものとして、とても嬉しかった。但馬方面からは去年現役を卒業してOBになったばかりの豊岡市のA、新温泉町のT、香美町のNさんら3人が遠路遥々参加していただいた。また、大阪の和泉市から兵庫・川西市に転入してこられたNさんも初めての参加。ご挨拶を頂いたが、「常勝の絆」のバトンを和泉から川西に頂いたような気がしてならなかった。
更に、神戸市長田区のFさんは、このたび地域安全街づくり知事賞を受賞された。県議会議員を終えられた後、自治会長として数千世帯が住む広大な区域をまとめられ、地域報まで定期的に発行されている。受賞の喜びを語られる姿に改めて労苦がしのばれた。また、今回後輩のHさんと総支部世話人を交代された姫路市のNさん(今回は欠席)は、3万人の老人会の会長を長年にわたって続けられている。奥さんを十数年前に亡くされており、1人暮らしを続けながら地域発展のために粉骨砕身頑張っておられる姿には本当に頭が下がる。今回OB会の顧問になって頂き、少し楽をしていただこうと思ったが、ご本人は、Hさんをしっかり支えて共戦すると「ライン」を通じて誓って下さっている。
こういう仲間の様子を短い時間だったが私から紹介させて貰った。大いに皆さんに喜んで頂いたのは嬉しかった。
⚫︎議員をしながら自治会長をも
一方、高砂市のSさんと、西宮市のUさんから活動報告をして頂いた。Sさんは、なんと23年にわたって自治会長をしておられる。議員時代に初めて引き受け、終わってから今もなお引き続いてされている。私は議員を辞めてから5年ほど姫路で自治会長(副会長、顧問含め)をやったが、とてもやりがいがある仕事だと分かった。また、Sさんは、後継の市議に小学校の校長先生を辞めた人を得た。この後輩議員に対して、自身が取り組んできた地域の約千人の住民一軒一軒に挨拶周りをするように伝授したというが、言われた方は毎回の定例会ごとに通信報を作成してそれを持って一軒ずつ配布しているとのこと。凄いことと驚き、心底感心したしだいである。
また、Uさんは、既に亡くなっている先輩市議Tさんの未亡人と共に、過去3回の国会議員選挙の支援の闘いを展開された経緯を語ってくれた。ひとりで回るよりも、一緒に回ることで、今は亡き先輩と共通の懐かしい友人に会えたことをとても喜んでおられた。未亡人の方も亡夫の友人に会えて、久闊を叙することができ一石二鳥だと言っておられた。そんな微笑ましい闘いぶりに、参加者も大いに感じ入ったに違いない。(2026-3-20)
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【78】「終わっていない」のに再稼働の動き━━東日本大震災から15年/3-15
⚫︎切な過ぎる「風の電話」
東日本大震災から15年が経った。様々なイベントや記憶すべきテレビ放映番組を見た。そのうち忘れ難い印象のものが2つあった。一つは「風の電話」。岩手の大槌町のあるお家の広い庭の一角に電話ボックスが置かれ、そこから亡くなった家族や行方不明の人に電話をかける(実際には独り言だが)という試みである。もう一つは、震災後の復興に向けての選択が正しかったかどうかを問う「当事者の告白」である。これは15年前から復興に向けて地元行政が取り組んできた事業のその後の推移を追ったものだが、うまくいかなかったケースを当事者たちが赤裸々に告白していた。
共にNHKによるものだが前者は、実は数日前に「時をかけるテレビ」(2016年放映)で、震災5年後の映像を再放送していた。観ていて泣けた。無性に涙が溢れ落ちた。「一つ父さんに聞きたいことがある。‥‥何で死んだんだよ」とか「いつもあんたと電話で、生きてる?ってお互い言ってたね。会いたいなあ」や、「お父さんごめん。いつも臭いってばっかり言って」など。最もこたえたのは子ども3人と共に残された妻が亡き夫に語りかけるところだ。あまりに切な過ぎてここに書けない。
⚫︎計画した企業誘致や集落移転の失敗
ふと思ったのは、「永遠の生命」を信じて生きてきた人たちの呼びかけがあってもいいなってことである。「そっちのみんな元気してるか?こっちは相変わらず元気しているよ。安心してくれ」っていう内容のがあったけど、もっと明るく語れないかと、思ってしまった。突然津波に巻き込まれて、あっという間に生命を絶たれてしまった身内への呼びかけは終わることのない会話であろう。後者の番組は、また違った意味で見るのが辛かった。復興を夢見た川内村の村長が計画した企業誘致がうまくいかないことや、津波の再来を恐れて高台に作った集落が当初は10世帯という枠組みがありながら集まらず5世帯に変更したが、これで地域コミュニケーションが成り立つのかとの懸念が起きているとのことなど、正直に告白していた。
かつて、復旧・復興を目指した地域の計画を前に描いた構想が立ち行かなくなっていることは大きな課題であろう。それを打開するには、常に計画を見直すことや、「事前復興」と言った予防的復興計画の重要性が指摘されていた。確かにそうした事前と事後双方からの飽くなき執念ともいうべき対応が望まれよう。
⚫︎凄い復元力で元に戻ろうとする「原発」
一方、15年経った今最大の懸念は、「福島原発事故」への対応である。毎日新聞11日付のオピニオン欄「論点」で、元国会事故調調査統括の宇田左近さんが語る「福島原発事故から15年」はとても重要なものである。全ての日本人が読むべきだろう。この人物は政府から2011年12月に憲政史上初めて設置された政府から独立した調査機関の責任者。延べ千人超の関係者へのヒアリングを行い、翌年7月に600頁を超える報告書を公表した。その冒頭は「事故は終わっていない」で始まる。それから15年。福島県内には「帰還困難区域」が未だ残り、ふるさとに帰れない住民が多数いる上、「第一原発」の廃炉作業も終わりは見えず、人が近づけないほど放射線量が高いごみをどうするのかも決まっていない。こんな状況では到底「事故が終わった」とはいえない。にもかかわらず、大手電力会社や政治を取り巻く空気は、原発「再稼働」を許容する方向が強い。
中部電力・浜岡原発では耐震設計の目安となる「基準値震動」のデータ不正操作が発覚した。この現実は衝撃的だ。大手電力会社の隠蔽体質とそれを見抜けぬ原子力規制委。「使い終わった核燃料の最終的な行き場もないまま。その中で原発推進の合意が形成されているのが今の日本の姿です」と述べ、「(この15年原発は)すごい復元力でかつての姿に戻った」という。
⚫︎防災庁のトップに石破茂前首相を
巨大地震への備えを強調する論考も注目された。そんな中で私が最も気がかりなのは、来年政府が新設する予定の防災庁の方向性である。毎日新聞12日付の社説は、その指揮系統の明確化を強調していた。防衛省、国土交通省、厚生労働省と防災庁の役割分担が明確でないとして、「縦割りを排して円滑に連携できる具体像を早急に示せという。
ここで、私が注目したいのは、石破茂前首相の動きである。彼こそ防災庁の設置を強く主張した張本人である。高市早苗首相の旋風の前に忘れられがちだが、石破さんが防災庁について軌道に乗るまで率先して差配を振るうべきだと提案したい。前首相が後の内閣で財務相になったり、副総理になったりするケースは散見されるが、新設の省庁のトップにそれを提案した当時の首相が就くことは今までにないと思われる。ここはぜひ、石破さんの登用を期待したい。(2026-3-15)
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【77】友遠方より播州路に来たりて分かったこと/3-10
大学時代の旧友が細君と共にさる3日に播州路にやってきた。彼は三重県伊勢の出身で今は横浜に住む。若き日より京滋阪奈和の関西5府県には足繁く訪れたようだが、兵庫とは比較的に縁が薄かった。ところが完全にリタイアして年金生活に入ったこの5年ほど、ちょっと様子が違ってきた。播磨の奥深さに開眼したかのようなのだ。今回はお目当ての「京都旅」の前に、赤穂から高砂へと行くから付き合ってくれとの前触れ。喜んで同行役を引き受け手練れの車係を2人手配した。初の奥方連れに粗相は許されない。彼女は花嫁の時は厳密には未だ女学生だった。披露宴ではみな驚き呆れ羨んだものである。以来半世紀。かつての乙女は気品溢れる熟女に変身していた。茶と花の道は言うに及ばず香道を嗜むも達人の域で、時にフランスなどで腕前(鼻前か)を披露されてきたと聞く◆赤穂での運転は古くからの創価の友・Oさんにお願いした。この人は水彩画、油絵から随筆、詩に至るまで多彩な趣味を持つ。昨年、念願だったエッセイ集『萩簾』を上梓されたばかりだ。旧友には既に紹介済みで気心合う仲である。姫路で一緒した僕らは、O
さんと坂越駅で合流し、大避(おおさけ)神社に。私は厳かな古めかしいこの神社のことも、更に僅かな海域を挟んで熊がうずくまって睨んでいるように見える生島(写真)についても共にその来歴を知らなかった。僕らとほぼ同年輩の宮司さんから、大避神社の御祭神が聖徳太子との縁深く、雅楽や能楽の祖と崇められていること、生島に葬られたのち大避神社に祀られたことなど歴史の数々を教えて貰った。加えて毎年10月に繰り広げられる「坂越の船祭」の由来なども知った。神殿前の社の天井部分に掲げられた数多の額像や陳列された貴船の姿にしばし見惚れたしだいである。小雨降る中の帰り道。神社の山門前の坂道を経て見やった生島は、来た時と違って優しい母熊が横たわってるように見えた◆次に瀬戸内の海が一望出来るはずの(この日は生憎見えず)小高い丘の上のホテルに移動し、4人で「海の幸」を楽しんだ。Oさんが師事する詩人・谷川俊太郎の著作『旅』(絵=香月泰男)を肴に小宴は盛り上がった。ここ数年水彩画を嗜み始めた旧友がその道の先輩と絵を語らう姿は、門外漢の僕にはチョッピリ眩しかった。食後の訪問先は大石神社。鳥居の前の歩道脇に並ぶ47義士の石像。初めて目にした夫人は喜びの声を女学生のように上げていた。2時には赤穂を離れ、加古川へ。ここでは我が公明党の後輩で長年苦楽を共にしてきたY君の運転で、高砂神社から松右衛門生家跡、十輪寺を経て鶴林寺への2時間コース。これまた、殆ど僕が訪れぬままに時が経った名所旧跡ばかり。高砂神社と鶴林寺は兎も角も後はなし。我が畏友は事前に関係する書物類を十二分に学んでいたように思えた◆このコースになぜ松右衛門生家跡か。これは彼が玉岡かおる『汎神 北前船を馳せた男』を読んだために違いない。工楽松右衛門なる人物は廻船業を営みながら帆布(松右衛門帆)を発明するなど、日本の海運業界を支えたという。高砂が生み出した得難い庶民の英雄であるのに、恥ずかしながら僕は殆ど知らなかった。高砂神社には松右衛門の銅像、十輪寺には玉岡さんの文学碑(写真)があった。この地
域には友人、知人も多くいてしばしば歩きまわっていながら、神社仏閣の類にとんと足を踏み入れる習慣がなかった。旧友は各地の歴史的建造物を、昔から今まで飽くことなき好奇心で追いかけ続けている。その彼が「播磨」を賞賛する。とても文化的素養の高いひとを沢山生み出している地だと。一方、デビュー当時から親しい仲の玉岡かおるさんは、次々と播磨が生み出した人物を描いている。残念ながら僕はその小説群に挑んできたとは言い難い。2人と僕との生き方の比較を通して、改めて自分の拙さを思い知らされゾッとした。西明石への帰りの車中、数日来の風邪による寒けもぶり返してきたようだ。(2026-3-10)
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【76】夜明け前の日本を動かした影のネットワーク━━宮本輝『潮音』全4巻を読む/3-5
宮本輝さんの『潮音』全4巻をやっと読み終えた。去年の晩秋から読み始めたので、それこそ一年越しだ。実はこの本、人情ものに目がない読書家・日笠勝之さん(元郵政相)が贈ってくれた。僕の妻が輝さんファンだと知ってのお心遣いだった。本人が喜んだのはいうまでもない。ただし、いつまで経っても仏壇脇に積まれたまま。で、1冊づつ僕がそっと手をつけ、読み終えるごとに戻しておいた。著者初めての時代小説。しかも幕末から明治維新を経て、西南戦争までの約30年という近代日本激動の夜明け前を描いた興味深い内容だった。これまで明治維新関連の小説は司馬遼太郎のものを始め、数多手にしてきたが、これは一味も二味も違う。越中富山の薬売りの生活に目線を据え、腰を構えた上で、〝日本革命〟の背後に横たわった知られざる動きを追った異色の物語でもある。根幹をなすのは富山の売薬業者と薩摩藩と清国と廻船問屋という四者の密貿易ネットワーク。それを見事に仕立て上げて見せた◆明治維新については、270年ほど前の関ヶ原の戦いで負けた側の「復讐戦」というざっくりとした見立てがある。改めてその辺を痛感させられた。この本ではあくまで歴史の背後に潜む動きが過不足ない形で盛り込まれている。「薩長土肥」と呼称される四つの藩、なかんずく薩長二藩が権力を手中に収め、君臨していく様子が赤裸々に描かれていくが、薩摩の背後にこんな仕組みがあったとは、ついぞ知らなかった。しかも富山の薬売りが介在していたとは二重の驚きだ。薩摩という九州最南端に位置する地域は、あたかも独立国家の風があると見られてきたが、改めてその方向性の強さが確認された。ただしそれも西南戦争で多くの有為な青年が亡くなり、さらに日清、日露の二つの大戦でも犠牲者が大量に出て、すっかり様変わりしたとの思いが消えない。つまり、明治維新で名を馳せた地域はひとしなみに現代日本では元気が無くなり、画一化しているように思われる。この辺りは東京一極集中及び横浜、名古屋、大阪、福岡といった東海道、山陽道ラインの大都市への人口集中のなせるわざと言えよう◆富山の置き薬の記憶は我が幼少期にもある。薬そのものは飲んだ覚えは殆どないが、薬業者が置いていった紙風船の類は微かに懐かしい。越中富山の「反魂丹」などといった呼び名も朧げながら甦る。尤も、富山の薬売りのネットワークが薩摩を始め全国ここかしこに張り巡らされていたとは、この本で初めて気付いた。北前船が北海道から日本海、瀬戸内海を経て京都に至る海のルートで様々な商品を交流し、情報伝達役をも果たしていたのと同様に、九州西岸伝いに薩摩へ、そして琉球を経て清国までにも至る売薬人コースも大きな力を持っていたのである。それにしても、あの時代、遠方への交通機関は船だけ。あとは駕籠や馬であろうが、基本は歩きだったに違いない。よくぞまあと改めて感心する。旅の途上における事故の生々しい描写も胸を打たずにおかない◆周知のように著者は法華経の信仰を持つ。随所に人生における戦いへの対処ともいうべき教えへの言及が顔を出して興味深い。魔との戦い、各種の障害はなぜか集中的に襲ってくるとか、厳冬のような試練も必ず暖春の到来で乗り越えられるといったように。第四巻の終焉近くで原因不明の悲しい自死事件が起こる。冒頭に予告があり、そのことが原因で主人公が大病に陥るという設定だが、不透明で不可思議な空気漂う現代的風潮にも通じる不可解さを感じさせる。この小説の主たる舞台である八尾は、「おわら風の盆」で知られるが、この本でも哀しさ漂うラストシーンへの運びに八尾への仄かで切ない印象が重なり響く。尤も、主人公夫婦の若き日の微笑ましい愛の交流を、徒然草第62段「こひしく」の引用でそっと忍ばせる手法など心憎い。ただし、仮名手本忠臣蔵11段目「合印の忍兜」を登場させた場面に僕は戸惑った。読む人の教養レベルが試されているかのようで心震える。この人ならではの知的味わい深さで、心乱されたり慰められたりして心ぜわしい。ただし仏壇脇の本は元通り4冊に戻っていても、妻からの問いかけも反応すらも未だない。(2026-3-5)
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