【4】40年余も続くコッポラのメッセージの難解さ━━『地獄の黙示録』を観て/7-29

 サイゴンが陥落、米軍が撤退してベトナム戦争が終わってから、今年で50年が経つ。第二次大戦後直ぐの朝鮮戦争を始めとして数多の戦争に関わってきた米国とその国民にとって、今なお深い傷を残している最大の戦争は、間違いなくベトナム戦争であろう。私のような日本の戦後世代(米国と違って戦後はひとつだけ)にとっても、あのベトナム戦争は平常は忘れているが、あたかも時に応じて痛みを発する腰痛のように我が身を襲う。そんな私が忘れられない映画がフランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』である。公開されて1年ほど経った1980年に立花隆氏が書いた『誰もコッポラのメッセージが分かっていない』という論考を、雑誌『諸君!』(文藝春秋社)同年5月号で読んだ。しかし、いくら読んでも、彼のいう「分かっていない」ということさえよく分からなかった記憶がある◆キリスト教というものに馴染んでいないと、この映画でコッポラが伝えたかったことはわからない、と大筋思い込んだ。立花氏のような深読みは稀れな存在だ、と。しかし、映画公開から40年。30代後半の人間も70代後半になった。相変わらず、キリスト教には自信はないものの、人生経験はそれなりに積んだと思い直し、「特別完全版」のビデオを観た。久方ぶりの2度目の鑑賞だ。前半の戦闘場面中心のリアル部分は分かりやすいことこの上ない。ワグナーの『ワルキューレの騎行』が響き渡る中での騎馬隊風飛行戦、弾丸飛び交う中でサーフィンに興じようとするくだりなど狂気の沙汰と思いつつ興奮させられる。慰問に訪れた踊り子に兵士たちが熱気を帯びるシーンは当然のことながら、フランス人たちとの食事場面での戦争の意味をめぐる議論の面白さもそれなりに分かった。しかし、後半のシンボリック部分の展開については相変わらず分かり辛い◆仕方なく、改めて、立花隆さんの力を借りざるを得ず、『解読 地獄の黙示録』(文春文庫)を読んでみた。この本は、第一部が雑誌『文藝春秋』2002年年2月号『地獄の黙示録』「22年目の衝撃」、第二部が、前述の『諸君!』1980年5月号「『地獄の黙示録』研究」、第三部が、書下ろし中心となっている。第二部から読むと、なぜ分からなかったかが①字幕の訳し方の拙劣さ②日本との文化的背景の違い③映画製作者が下敷にしたものへの予備知識の欠如━━などの原因によることがはっきりした。尤も、キリスト教的世界の人々にとって常識となっている「聖杯伝説」や「父殺しと母親への姦通願望」などは理解不能である。せいぜい、分かったのは、米軍の規律に叛逆したカーツ大佐と、命礼を受けて彼を殺しに向かったウイラード大尉という2人の関係の読み取り方について、子に自らを超えさせようとする父親と、それを乗り越えて新たな人間に生まれ変わった息子、との捉え方ぐらいだろうか◆第三部で、立花氏は、この映画はドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』のようなもので、「その問題意識の重さと深さにおいてこれ以上のものはない」とまで持ち上げ、絶賛している。映画としての完成度はある程度落ちても仕方がなく、哲学的、思想的な価値の高さがそれを補って余りあるというわけであろう。いやはや凄い入れ込み様である。なるほど、キリスト者にとってはそうかもしれないとは思う。コッポラの制作意図をここまで読み込んだ人はそうざらにはいないとも思う。しかし、私のような仏教徒や一般的な無神論者からすれば、いまいち腑に落ちない割り切れなさは残る。そういう点も含めると、この映画評を名作『人間のかたち』で取り上げた塩野七生氏が、後半の「(カーツ大佐については立花隆氏の)解釈で充分」とさらりとかわし、前半部分にのみ口を挟んでいたのはさすがという他ないように思われる。(2023-7-29)

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