「この映画をみるために私は生まれてきたと言ってもいい」とは、私の母校長田高校の先輩で尊敬する映画評論家の淀川長治さんの弁。感激家のあの人なら言いかねないと思う。先日私は3度目観てまだ興奮さめやらない。映画の舞台は大晦日、嵐のなかニューヨークからアテネに向かう巨大客船ポセイドン号。古いこの船を全速力で走らせようとする船主の意向と、それに抗う船長。船酔いに苦しみながらも、それぞれの人生における至福のひとときを過ごす老若男女。「朝はきっとやってくる、光を探し続けよう」との歌声と流れるバンド演奏。これらが大きな衝撃音と共に一瞬止み、暗転する。マグニチュード7.8の海底地震が発生した。津波によって船は横転。船底と甲板が逆さまになってしまった。以後、大惨事にも耐えて、生き残ったものたち数人の必死の脱出行が始まる。息もつかせぬ生死隣り合わせの1時間余りの冒険(アドベンチャー)である。刻々と沈みゆく船に、轟音とどろかせ襲いくる海水の恐怖。諦めの心情と、生への強き意志が交錯するなか、ジーン・ハックマン扮するスコット牧師の凄まじいまでの強気のリード。ひとりまた一人と犠牲者を生み出しつつも一条の光を求め進む◆印象的な場面を挙げる。一つは、船好きのロビン少年の普段からの知への興味、蓄積が危機に生きる。子どもを子どもだからとなめてはいかんと痛切に感じた。二つは、右か左か、行手を決める際の命令口調のスコットにいちいち反発する刑事のロゴ。些細なことだが我々の日常にも多い。事の本質とは違う次元での差異が大きな亀裂を人間関係に生み出す。三つ目は、太った身体の女性ローゼン夫人がほぼ最終場面で圧倒的に重要な役割を果たす。水中に潜って一行の進路を確定するに際して、彼女が若い頃に潜水の選手だったことを明かす。皆は信じようとしない。が、先行したスコットからの連絡がない〝万事休す〟の場面で、飛び込む。そしてスコットに九死に一生を与えたところで、本人が心臓マヒで急死する。これには心底泣けた。映画史に残る名場面だと思う◆この映画は底流にキリスト者の「神との対話」という問題を潜ませる。船が横転する前、乗り合わせた2人の牧師が言い合う。現実重視で自由を尊ぶスコットと、原理に忠実で抗うことを避けるジョンとの間で。スコットは、「ひざまづいて神に祈れば全てうまくいく?ばかばかしい。2月に暖房が欲しいと神に祈っても手が冷たいだけ。祈るより家具を燃やした方がいい」と。これに「正当なおしえではない」というジョン牧師に、「祈るだけが教会じゃない。もっと現実的に」というスコットは、上層部からアフリカ赴任を命ぜられ、「自由を得られる、望みが叶った」と喜ぶ。「縛られず、批判もされない私なりに神をみつける」と喜ぶ場面がまぶしい。直後の甲板上の「臨時教会」で彼はこう説教する。「神は多忙だ。人間の想像を超える遠大な計画をお持ちだ。だから個人には注意を払わない。個人に重要なのは、過去と未来を結ぶという点だけ。子供や孫に何かを示す、人類にどう貢献するか。だから神に救いを求めてはならない。自分の中の神に祈り、戦う勇気を持つのだ。大事なのは勝つ努力だ。神は挑戦者を愛する。あなたの中の神が共に戦ってくれる」と。分かりやすい◆そして、最後の最期。スコットは空中に浮かぶかのようなハンドルにぶら下がったまま、噴き出す蒸気を止めるため、一縷の望みを持って必死に回す。その時に口にした命懸けの叫びが胸を打つ。「神よ。これ以上何が欲しい。ここまできたんだぞ。自分たちの力で。助けてくれとはいわん。だが邪魔をするな。ほっといてくれ。もっといけにえが欲しいのか。あと何人だ。まだ足りないなら私を奪え」と。彼の必死の力で蒸気は止まる。だが、そこで力つき火の中に落下する。見終えて考えることは多い。平穏な日常とパニック。そして人間と思想、信条、宗教と哲学。キリスト教と仏教、イスラム教。思いは人間l、地球から宇宙へと駆け巡る。果てしなく。「生死の狭間」という究極の場面での、人間と人間の作った「神」との〝せめぎ合い〟を、この映画ほど赤裸々に描き出したものは他にないように思われる。ここでも、神は「沈黙」して語らない。(2024-7-7)