【13】天才と紙一重の能力持つ障害者━『レインマン』を観て/10-24

 知能指数それ自体は高く、時に驚異的な記憶力を発揮するものの、自分自身の感情をコントロールしたり、自己表現がうまくできないという、サヴァン症候群(アスペルガー症候群とは似て非なるもの)の患者が主人公。幼くして擁護施設に入ったまま歳月が過ぎ30代になって、父親が死んで初めて彼の弟が兄の存在を知るという設定。弟は自由奔放な利己的な青年で、生前の父とは没交渉の関係(原因は彼にある)にあり、その遺産は殆ど全て障害者の兄にあてられた遺書を知って愕然とする。一転、その遺産を自分のものにすべく、兄を拉致し、施設から遠く離れたロサンゼルスに連れていこうと画策する◆墜落の危険性を挙げて、飛行機に乗ることを兄が徹底的に拒否するため、飛行機なら3時間の距離を3日かけて車で移動する道中のてんやわんやを描くロードムービーでもある。兄をダスティン・ホフマン、弟をトム・クルーズが演じる。実話のモデルがいて、作家のバリー・モローが取材して脚本を書くことを決意したという。どんなに分厚い本でも一読しただけで覚える並外れた記憶力と、4桁の掛け算や平方根を瞬時に言い当てる能力は超人的。その一方で、人の話を理解して想像することはできず、いわゆる社会的常識には全く欠ける。こうした特性の披歴で、観るものは釘付けになってしまう。とりわけレストランで、爪楊枝1ケースがこぼれた瞬間にその本数を言い当てたり、ラスベガスのカジノで次々と数字の記憶力の威力を見せつけられ、驚きの連続◆他方、最初は遺産目当てで、自分も次男としてそれ相応のものを貰わねばと、裁判も辞さぬ姿勢で強気一辺倒だった弟だが、次第に兄への肉親の愛情に目覚めていく。この辺りの展開はそれなりに見せ場があるものの、今ひとつ胸にぐっとこない。別れの場面など伏線があっただけに、ひと工夫があるものと期待したのだが、肩透かしに終わってしまう。結局は、超能力の〝見せ物的側面〟のオンパレードで終わったように思われる。「レインマン」(雨男)というタイトルの由来も、説明が中途半端なままで落ち着かない◆昨今、私たちの身の回りに、知的障害や自閉症などの発達障害のあるこどもたちや大人が散見される。この映画の主人公のように、特別際立った能力ではなくとも、普通の人間を大きく上回るような才能を持ちながらも、日常生活に馴染まないことから差別やいじめの対象になってしまうのは忍びない。社会全体としてこういった発達障害への取り組みを考える必要があろう。この映画はあまりにも極端な才能の羅列に終わってしまっているようなのは残念だ。発達障害って意外に凄いじゃないってひっそりと思わせて欲しかった。というのが私の率直な感想である。(2023-10-24)

 

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【12】人間はひとりじや生きられない━━『最強のふたり』を観て/10-17

 首から下が全く麻痺して動かず、感じない━━という状態の人がこの映画の主人公。身体の不自由さを除けば、大金持ちであることがもたらす、あらゆる自由を持っている。そしてその彼を〝あらゆる面で支える〟人がもう一人の主人公。彼は身体は屈強そのものだが、経済的にも、家庭環境的にもあらゆる意味で貧しい。フランス人とアフリカ系黒人。見終えて確かに〝最強の〟という形容詞はこの二人にとってとても相応しい。二人合わせて最強なのだが。この映画はどんな人間でも一人では生きられないということを示唆していて、素朴に助け合うことの大事さを訴えているように私には思われる◆この映画は実話に基づく。1993年の事故ののちに、2001年に出版された本が原作だ。パラグライダーの事故で頚椎損傷になったフランス人大富豪(フィリップ)と、介護人として雇われた貧困層出身の移民・アルジェリア人(アブデル)。この2人の演じる笑いと涙のコメディになっているのだが、泣いて笑ってその後にズシンと重くて深いテーマが迫ってくる。私は、最近歳のせいかなみだもろくなって、何を見ても聞いても、泣いてしまう。そして、すべて笑いでごまかしたい気になる。この映画はそこらの機微を見事に捉えている◆フィリップが足の上に熱湯がかかっても反応しない場面に、つい体をよじったり、特製の手袋を渡されて〝下の世話〟を迫られるシーンには、つい実写を見たくなったり(現実はそれはなし)してしまった。また、フィリップが、恋文を書いてるのを見て、余計なお節介をしたあげくに、デートを設定するアブデル。それを土壇場になって逃げるフィリップに同情したり、と。逆にグライダーに乗ろうと迫られて逃げようとするアブデルと、それを笑いながらサポーターつきで空を飛ぶフィリップに同調してみたり、と。あれこれ現代世界が抱える問題が顔を出しつつ、起伏に富んだ展開は胸を打つ◆実はつい先日、私の親しい友人・蔭山照夫さん(83)と会って懇談した。この人の息子さん(武史さん)は、難病・筋ジストロフィーのため、若くして寝たきり状態になったが、40歳台半ばで先年亡くなるまで、パソコンをベッドの上で仰向けのまま、センサーを通じて動かし、その意志を家族に友人に伝え続けた。子どものころに書いた『難病飛行』と言う本が原作となって、このほど映画が完成し、神戸の映画館での上映が終わったばかりだ。この映画の試写会の模様は「後の祭り回想記」112に書いた。武史さんの「不自由だが、不幸ではない」との言葉と、彼を支えた両親や実姉(広田由紀さん)、音楽演奏家の「ちめいど」ら友人たちの献身ぶりが、映画『最強のふたり』を見て、あらためて思い出された。人間は、支え合って強くなるという当たり前のことと共に。(2023-10-17)

Leave a Comment

Filed under 未分類

【11】知的障害の父親の果てしなき愛━━『アイアム サム』を観て/10-11

この映画は、知的障害を持つ(7歳ぐらい)男性が子どもを育てることができるか、というテーマ。この映画では母親は出産とともに消えてしまい、悪戦苦闘しながら父親は頑張る。子どもの年齢に追い抜かれて、問題は深刻に。現実には、起こりそうな設定だが、育てるのはまず上手くいかないと思われる。それをやってしまう過程が、何とも言えず感動的に描かれており、惹き込まれた◆この映画の魅力は、サムを演じたショーン・ペンの演技力だ。障害を持つ人びとのしぐさを徹底して学び、それらしく振る舞う。われわれの身の回りにいる障害者とまったく同じに見え、およそ演技によって培われたものとは思えない。また、4人ほどのサムの友人たちも登場するが、見事なまでの障害者ぶりだ◆見どころは、当初は関わりを避けていた女性弁護士の変身。愛が冷え切った彼女自身の家庭との対比は鮮やかである。裁判の成り行きは、障がいのある実父に育てられるのが子どもにとって良いのか。それとも里親のところに預けられ、時々会うのが良いのかといった二者択一で進む。正解はいずれとも言えず、切なさが募るばかりである◆知的障害者をめぐる映画といえば、先にトム・ハンクスの『フォレスト・ガンプ/一期一会』を観た。こっちは知的障害というものの、いつの日かランニングの名手になり、ラグビー始め各種のスポーツで名を馳せるという、いささか夢物語っぽいものだった。サムの方は母親不在で父親の献身的愛が印象的だが、こっちは父親不在、母親の不滅の愛が胸に迫る。どっちも長く忘れられない。(2023-10-24一部修正 障がい→障害と記述)

Leave a Comment

Filed under 未分類

【10】本にも映画にもなじまぬ?「辞書作り」──『舟を編む』を観て/9-25

 

 いい映画は原作の小説もいいとは必ずしも言えない。が、あまりパッとしない小説は、映画もやっぱり良くないとは言えそう。この場合の良い、悪い、パッとするしないは、本人の主観だから、まあそうだろうと思う。三浦しをんの小説『舟を編む』は、かつて読んだときに、退屈だったというのが実感だった。畏友・井上義久(元公明党幹事長)が何かのコラムで随分褒めていたので、自分の見方に偏見があったかと思い改め、映画(監督・石井裕也)を観た。しかし、大筋私の印象は変わらず、やはり退屈な代物だった◆ただし、主役の松田龍平、宮崎あおいなどの俳優個人への興味はあったし、辞書を作るという作業の重みはそれなりに、いやそれ以上に感じられた。松田龍平を初めて映画で観たのは大島渚の『御法度』だった。新選組における男色という禁断の世界を描いたもので、映画そのものはあまり出来がいいとは思えなかったが、松田のクールな雰囲気だけはかなりインパクトが強かった。土方歳三役のビートたけしよりも遥かに。喜怒哀楽を殆ど出さぬ表情は特異なもので、『大渡海』なる辞書作りに青春を賭ける役どころははまっていた◆一方、宮崎あおいといえば、かの徳川末期から明治維新の激動期を描き名作との誉れ高かったNHK大河ドラマ『篤姫』を観て以来である。2008年22歳という史上最年少の若きヒロインが、この映画に登場したのは5年後。松田に合わせたような抑え気味の演技は妙に存在感があった。その彼女は今ほぼエンディングに入っている朝ドラの『らんまん』のナレーター、舞台回し役として、さらに10年後の37歳の今に姿を現したうえ、主人公・万太郎の祖母役と孫の二役の松坂慶子と、ダブル二役のご対面があったばかり。円熟味を増しきった先輩とこれからの後輩の共演は違う意味で見応えがあった◆辞書を作る作業は想像を絶する困難を伴うことは、新聞、雑誌作りにそれなりに関わった経歴を持つ私にはよく分かる。膨大な材料を文字通り「編む」作業は、一字一句たりとも間違いは許されない。そういう行為を10数年かけてやり遂げるという設定は、あだやおろそかには出来ない困難な営みだろう。ついこのほどたかだか70ページ足らずの小冊子『新たなる77年の興亡』を出版したばかりの私だが、その文章校正は「しんどかった」。書くも涙、語るもなみだの本作りであった。だが、本来はあれも、これも地味なしごと。それを活字で表現したり、映像で描写しようというのは、やっぱり面白いものではなく、「馴染まない」というのが私の結論である。(2023-9-28  一部修正)

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【9】日本の皇室とつい比較する──『英国王のスピーチ』を観て/9-17

 スピーチといえば、私は数々の失敗を繰り返してきた。当たり外れがあって、最終的には8勝7敗で辛うじて勝ち越しかなあ、というのがかなり甘目の自己評価。この映画はそんなそんじょそこらのヘナチョコ政治家の演説とは違って、原稿を読むとはいえ、国王の演説に纏わるものである。しかも英国の国王が吃音(どもり)のために、苦労に苦労を重ね、幾多の失敗ののち、なんとか克服してスピーチがうまくできるようになったというお話。その陰で、回り道を伴走した言語聴覚士の存在があったのだが、この人と国王との〝山あり谷あり〟のコンビぶりが胸に迫る◆殆ど実話通りとか。主人公のジョージ6世は、昨年9月に亡くなったエリザベス女王の父君。その彼女が5-6歳のまだ幼女だった頃、おじいさんのジョージ5世に代わって後を継いだ伯父のエドワード8世が身の不始末から国王就任まもなくに退位してしまう。そこでお鉢が弟君に当たる父に回ってきた。しかし、ご本人は、ひどい吃音。家族内の普段の会話とか、怒りに任せた時は吃らずに喋れるが、スピーチなど緊張を伴う場面になると、もうお手上げ。それを直そうと、のちの女王陛下(エリザベス女王の母上)が密かに手を打つところから舞台は幕を開け、息もつかせぬ面白さ◆あれこれと見せ場は続くが、わたし的には、英国王の家族団欒のありさま──父親が娘たちと戯れたり(モーニング姿で足を折り曲げてペンギンに扮して見せる)、即席のジョークで小話を聞かせて喜ばせる場面がとても面白かった。国王の子供が女の子2人なのと対照的に、言語聴覚士の子どもが男の子2人だったことも、英国の普通の家庭(この家のルーツはオーストラリア)を想像させて興味をそそる。それよりもっとご愛嬌だったのが、英国の首相や閣僚に扮した俳優たち、とりわけ、明らかにそれと分かるウインストン・チャーチルがいかにもと、笑わせる顔つきだったことだ◆この映画を見て、つくづく感じ入ったのは英国王室の自由さ加減。2010年の制作だが、よくぞここまでというほど開けっぴろげ。国王役に極めつけのありとあらゆるスラングを喋らせるあたり、女王陛下はどう観たのだろうか。要するに、普通だと、〝ちょめちょめ〟などという風に誤魔化すはずのところを(字幕もそのまま)全部曝け出す。尤も、別に隠すこともない。日常生活そのままなのだから。しかし、日本だととてもこうはいかない、と思う。ただし、英国王室の紊乱ぶりは日本のそれの比ではないが◆そうあれこれ思って見終えた時に気づいたのは、50年前に読み、今また再読している池田大作先生と英国の歴史家・アーノルド・トインビー博士の『二十一世紀への対話』の一節(129頁)である。池田先生が「世界的な趨勢として、王制はしだいに形骸化し、姿を消していく方向にあると思います」と水を向けたあと、将来の予想を訊く。同博士は「こんにち、君主制が次第に姿を消しつつあるということは、もはや人々が国家を神と感じることがなくなり、むしろ、しだいに一種の公共事業体とみなすようになってきて」おり、「非常に望ましいと考えております」と答えている。敗戦直後に生まれ、戦後民主主義の只中で育った私が最初から今に至るまでその存在のあり方を考え続けてきたのが「天皇制」であるだけに、この対話は極めて印象深い。(2023-9-17)

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【8】待ち遠しい「地球民族」の理念確立──『グリーンブック』を観て/9-8

 天才的ジャズピアニストが全米を演奏旅行する。その旅の運転手兼ボディガードとの二人三脚が描かれた映画なのだが、ピアニストが黒人、付き人が典型的な陽気なイタリア人であることがもたらす奇妙奇天烈な展開が実に楽しい。時に涙し、笑いを誘われ、ハラハラどきどきさせられて、最後はとても嬉しくなる──そして「人種差別」なるものがばかばかしく感じられるのだ。タイトルは、黒人旅行者への注意書き的案内書のこと◆当初、イタリア人〝用心棒〟は、この黒人に違和感を持ってギクシャク感があったが、次第に共感を抱くようになり、真に頼り甲斐あるパートナーになっていく過程はすこぶる好感が持てる。とりわけ、彼が家で帰りを待つ女房殿に旅先からたどたどしい手紙を書くのだが、それを雇用主が代筆ならぬ口伝する場面が実に秀逸なのである。また、このピアニストは同性愛者なのだが、警察に勾留されてしまう場面が切なく悩ましい◆名だたる音楽芸術家でありながら、黒人差別の前には無力で、ホテル内のレストランから排除される場面を始め、随所でアメリカ社会における黒人差別の実態を突きつけられ、中間的黄色人種としても、我が事のように苛立ちを覚える。人種差別については、肌の色の違いによるトラブルは、違いが明確なだけにわかりやすい。差別の所在が露骨な分だけ、赤裸々な対立感情をもたらす。一方、日本における、被差別部落問題やいわゆる第三国人差別のようなものは、外見上はわからない点があるだけに陰湿な争いに発展したり、根深い傷を負わせることになる◆この映画のラストシーンでは、ひとたびイタリア人運転手兼ボディガードと黒人ピアニストが帰宅して別れることになる。ついで、ひとり寂しいピアニストが思い立って相棒のうちを訪問すると、喝采で迎えられ、賑やかに皆で無事の帰還を祝い合う場面へと展開する。この辺りの呼吸がなんともいえず好ましく、微笑ましかった。劇場でなら、思わず拍手が出たに違いない。こうした問題解決の根源は、「地球民族」というような表現を専らにする思想哲学に裏付けられた、宗教の流布以外にないと思わせられる。(2023-9-8)

Leave a Comment

Filed under 未分類

【7】南アの人種差別をラグビーから考えさせる━━『インビクタス/負けざる者たち』を観て/9-1

 

 暑い熱い真夏の炎天下での高校野球をテレビ観戦していて、あらためてスポーツの持つ力を思い知った。この3月には、WBC第5回大会での日本の優勝に国中が湧いた。そんな興奮さめぬ中で、南アフリカの1995年ラグビーワールドカップ初優勝に至る経緯を描いた『インビクタス/敗けざる者たち』を観た。2008年制作。監督はクリント・イーストウッド。アパルトヘイト(人種隔離政策)に激しく抵抗し、獄中27年を経て1990年に大統領に就任したネルソン・マンデラ氏の国家再建ぶりを背景に、白人と黒人の心技一体化したプレーへの流れは、まことに爽快で、観るものをして深い感動を抱かせた◆マンデラを演じたモーガン・フリーマンが本人そっくりと思われたのはご愛嬌だったが、手に汗握る戦いを演じ切った主将役始め選手たちの演技力にも現実さながらのリアルさが印象深い。ここではあらためてラグビーという格闘技的スポーツの魅力に感じ入った。現実はことほど左様にスムーズに運んだかどうか疑問なしとしないが、スポーツが人種差別による分裂国家を、一変させる媒介の役割を果たしうる可能性を見せつけた功績はたとえようもなく大きいと考えさせられる◆この国の人種差別の凄まじさを描いた映画といえば、1987年製作・公開の『遠い夜明け』(リチャード・アッテンボロー監督)を思い起こす。デンゼル・ワシントン扮するスティーブ・ピコという黒人とドナルド・ウッズなる白人新聞記者の深い友情の絆をもとに、獄中下のマンデラの言語を絶する苦闘もさもありなんと想起させる映画だった。ピコの虐殺の背景を暴く本を書く決意をした、ウッズの飛行機を使った亡命に至る脱出劇はハラハラドキドキの連続で見応えがあった。ボツアナへ家族ぐるみで逃亡する最終シーンに、南アフリカ内に浮かぶ島のように存在するレソト国を経由する場面がある。実は現役時代に、私はこのレソト国の抱える課題解決に関わったことがあり、あたかも映画の中で実際にサポートしたかのような錯覚を持った◆この映画のエンディングでアパルトヘイトの犠牲になった人々の名前が延々と出てくる。その字幕を見ながら、アフリカ大陸の行方を思わざるを得なかった。21世紀はアフリカの世紀と言われてきたように、欧州各国の植民地支配からの脱却を経て今新たなる勃興の時を迎えてはいるものの、プーチンのロシアと習近平の中国による狡猾極まる専横的進出に直面している。現在の苦境を脱して、自主独立の社会を保ち得る国家群が多数出現するのかどうか。これ以上の犠牲者を出さぬよう人類の知恵の結集を望みたい。(一部修正 2023-9-3)

Leave a Comment

Filed under 未分類

【6】先住民族への差別と思い当たるフシ━━『燃える平原児』を観て/8-18

 ロック歌手として20世紀後半に世界に名を馳せたエルビス・プレスリーが俳優に徹した映画。彼の出演した映画は30本を超えるものの、歌手の力量とは別に駄作ばかりとの評価が専らのようだ。だが、私としてはこの映画を高く評価したい。それは人種差別の原型としての先住民アメリカ・インディアンの問題をわかりやすく描いている活劇映画だからで、今なお新鮮な輝きを持つ◆筋立ては単純明快。アメリカにおける西部開発途上に起きた、白人と原住民とのあつれきを克明に描き、飽きさせない。どころか手に汗握る面白さだ。プレスリーはインディアンの母と白人の父の間に生まれた次男(長男は父の連れ子で白人)の役どころ。この映画を観ていて、その昔西部劇に入れ込んだ我が若き日を思い起こした。あの頃は騎兵隊が善と思い込んだ、単純そのものの〝勧善懲悪好き〟の鑑賞者だった◆アメリカという国は、ずっと昔から住み続けてきた先住民を蹴散らし、アフリカから基本的には奴隷としての黒人を連れきたって、人権を好き放題に蹂躙してきた歴史を持つ。もちろん善意の人も数多いたし、現に今もいるのだが、人種差別のはなはだしさにおいて世界でも今なおトップに位置するお国柄である。見方によるとはいえ、現代世界の善きも悪しきもこの国発のことが多すぎると私は憂うひとりである◆もちろん、日本人の民族差別も並みではない。最たるものはアイヌ民族への仕打ちであろう。先日NHKのラジオ深夜便を聴いていて、スペイン在住の音楽家の川上ミネさんの言葉と音楽紹介に心底撃たれた。この人は、世界中を歩いてありとあらゆる音楽を聴いてきたが、自分の求めていたものはアイヌの人々のそれであったというのだ。評価は分かれるだろうが、アイヌを無視し続けてきた日本人の耳にはこたえるものといえよう。そんなことをも、この映画を観て、ラジオを聴いて感じさせられた。(2023-8-18)

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【5】『グッドバイ、アメリカ』って映画作って━━『グッドモーニング、ベトナム』を観て/8-9

 ベトナム戦争を描いた数多くの映画の中で、私はこの作品に今のところ最も好感を持っている。「平和」を愛する人々にとって、戦争映画はいかなるものも残酷に違いなく、ひとの身体が壊れゆくシーンには眼をそむけたくなるはず。しかし、この映画はひとときそれを忘れさせる何かしらの魅力がある。恐らくそれは欺瞞なのだろうが、〝身近な人間臭さ〟には負けてしまう。もちろんやがて悲しい結末が待ち受けているものの、それなりに余韻は残って印象深い。戦争映画嫌いの人にもお勧めだ◆戦争遂行のために兵士の意気を高揚させるラジオ放送。この映画を成功させたのは、ロビン・ウイリアムス演じる米軍ベトナム放送のDJ役の喋りのうまさとロックの軽快さに尽きよう。言葉と音楽の連弾は、あたかも波打ちぎわの潮騒のなかで聞く蝉しぐれのようで、煩いが妙に気持ちいい。加えて、ベトナム人の側からも描いて見せているという、未熟ながらも視点の平等性に惹かれた。ベトナム人をまるで犬畜生としてしか扱わない米映画の中で、これは「ベトコン」の側からの見方も垣間見られ、熱帯夜に吹く一陣の風の赴きがある。その前段として、アオザイが似合うとてもチャーミングなベトナム人女性(チンタラ・スカバトナ)とその兄という役回りを持ってきたのは興味をそそられた。主人公が恋心を抱くのはご愛嬌だが、随所にユーモアを取り入れ惹きつける◆声を聞くだけだった人気DJに、トラックなどで移動途上の兵たちが町なかで出会い、やりとりを交わす場面がとても人間的で面白かったが、それ以上に、ベトナム人たちのための英語教室の授業風景(DJが教師に潜り込む)が和ませた。実際にこういうことがあったとは想像し難いが、束の間の笑いが楽しい。かねて世界一粘り強い兵隊を擁するのはベトナムで、可憐で清楚な印象で魅惑するのはかの国の女性たちだと私は思い込んでいる。この映画で、前者はともかく、後者は紛れもなくその意を強くさせた爽やかなヒロインの登場だった。ほかの映画での彼女の出演を見てみたい◆韓国は別格として、イラン、インドが映画新興国として力を入れているのに比し、ベトナム映画についてはほとんどその実態が見えてこない。しかし、徐々に多様で個性的な映画が作られつつあるという。ベトナムの側から見た「戦争」がどんなものになるのか。先日、NHKの映像の世紀「バタフライ・エフェクト」で観た(5-29放映)、米のマクナマラ元国防長官との会見場面でのヴォー・グエン・ザップ将軍の発言(真の自立を勝ち取るまで戦争は続けるつもりだった)は、この国の人びとの途方もない奥深さへの興味をそそってやまないものだった。ベトナム人によるその映画の題名はさしづめ『グッドバイ,アメリカ』がいいかも。その映画ができるまで、米国は戦争の非に気づかないのかもしれない。(2023-8-9)

Leave a Comment

Filed under 未分類

【4】40年余も続くコッポラのメッセージの難解さ━━『地獄の黙示録』を観て/7-29

 サイゴンが陥落、米軍が撤退してベトナム戦争が終わってから、今年で50年が経つ。第二次大戦後直ぐの朝鮮戦争を始めとして数多の戦争に関わってきた米国とその国民にとって、今なお深い傷を残している最大の戦争は、間違いなくベトナム戦争であろう。私のような日本の戦後世代(米国と違って戦後はひとつだけ)にとっても、あのベトナム戦争は平常は忘れているが、あたかも時に応じて痛みを発する腰痛のように我が身を襲う。そんな私が忘れられない映画がフランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』である。公開されて1年ほど経った1980年に立花隆氏が書いた『誰もコッポラのメッセージが分かっていない』という論考を、雑誌『諸君!』(文藝春秋社)同年5月号で読んだ。しかし、いくら読んでも、彼のいう「分かっていない」ということさえよく分からなかった記憶がある◆キリスト教というものに馴染んでいないと、この映画でコッポラが伝えたかったことはわからない、と大筋思い込んだ。立花氏のような深読みは稀れな存在だ、と。しかし、映画公開から40年。30代後半の人間も70代後半になった。相変わらず、キリスト教には自信はないものの、人生経験はそれなりに積んだと思い直し、「特別完全版」のビデオを観た。久方ぶりの2度目の鑑賞だ。前半の戦闘場面中心のリアル部分は分かりやすいことこの上ない。ワグナーの『ワルキューレの騎行』が響き渡る中での騎馬隊風飛行戦、弾丸飛び交う中でサーフィンに興じようとするくだりなど狂気の沙汰と思いつつ興奮させられる。慰問に訪れた踊り子に兵士たちが熱気を帯びるシーンは当然のことながら、フランス人たちとの食事場面での戦争の意味をめぐる議論の面白さもそれなりに分かった。しかし、後半のシンボリック部分の展開については相変わらず分かり辛い◆仕方なく、改めて、立花隆さんの力を借りざるを得ず、『解読 地獄の黙示録』(文春文庫)を読んでみた。この本は、第一部が雑誌『文藝春秋』2002年年2月号『地獄の黙示録』「22年目の衝撃」、第二部が、前述の『諸君!』1980年5月号「『地獄の黙示録』研究」、第三部が、書下ろし中心となっている。第二部から読むと、なぜ分からなかったかが①字幕の訳し方の拙劣さ②日本との文化的背景の違い③映画製作者が下敷にしたものへの予備知識の欠如━━などの原因によることがはっきりした。尤も、キリスト教的世界の人々にとって常識となっている「聖杯伝説」や「父殺しと母親への姦通願望」などは理解不能である。せいぜい、分かったのは、米軍の規律に叛逆したカーツ大佐と、命礼を受けて彼を殺しに向かったウイラード大尉という2人の関係の読み取り方について、子に自らを超えさせようとする父親と、それを乗り越えて新たな人間に生まれ変わった息子、との捉え方ぐらいだろうか◆第三部で、立花氏は、この映画はドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』のようなもので、「その問題意識の重さと深さにおいてこれ以上のものはない」とまで持ち上げ、絶賛している。映画としての完成度はある程度落ちても仕方がなく、哲学的、思想的な価値の高さがそれを補って余りあるというわけであろう。いやはや凄い入れ込み様である。なるほど、キリスト者にとってはそうかもしれないとは思う。コッポラの制作意図をここまで読み込んだ人はそうざらにはいないとも思う。しかし、私のような仏教徒や一般的な無神論者からすれば、いまいち腑に落ちない割り切れなさは残る。そういう点も含めると、この映画評を名作『人間のかたち』で取り上げた塩野七生氏が、後半の「(カーツ大佐については立花隆氏の)解釈で充分」とさらりとかわし、前半部分にのみ口を挟んでいたのはさすがという他ないように思われる。(2023-7-29)

Leave a Comment

Filed under 未分類