この映画を政治家一年生に見せたらいい。心底そう思う。実はちょうど今、私の友人である小説家の高嶋哲夫さんが、いじめを根絶するために、自身の書いた小説『ダーティー・ユー』(米国からの帰国少年が友と自身へのいじめと闘う物語)を映画化して、日本中の子どもたちに見せ、いじめを根絶する運動を展開しようとしている。それもいいが、政治家の資質が問われている現在の社会・政治情勢の中で、この映画を必見のものとすれば、相当程度に影響が強いと思われるが、どうだろうか。1939年(昭和14年)に作られ公開された『スミス都へ行く』の詳しいあらすじは、いわゆる「解説」に譲る。要するに、地方選出の新人議員が中央の議会で、子どもたちのために故郷の森にキャンプ場を作ることを巡って、古参政治家や新聞社を経営する資産家と闘うとの筋書きである。議会の成り立ちさえ知らない初々しい議員が、ベテラン美人秘書の手取り足とりの助けの元に、活躍する展開は現実にはあり得ないとの思いがわだかまる。だが、それを上回る面白さが圧倒するのだ。典型的な勧善懲悪ものだが、既存のエスタブリッシュメントを、ひとしなみにでっぷりと太った俳優ばかりを当て、のっぽの痩せ型のスミスと対比させたり、議長役のここぞとばかりに見せる微笑みなど役者の細部の演技力が抜群に効果を発揮しているように思われる◆この映画の主人公はもちろんジェームズ・スチュアートである。その昔の西部劇『リバティ・バランスを射った男』が妙に印象に残っており、私はファンである。ここでも彼は上院議員の役を演じていたが、誠実そのものの風貌に好感が持てる。私生活でもスキャンダルとは無縁で、生涯ひとりの女性と添い遂げたそうだ。スターの座に定着するきっかけになったのが、このスミス役だが、この映画での重要な役割を果たすのは実はキャンプ場の完成を待望するボーイスカウトの子どもたちだ。そして、もう一つ興味を惹かれたのは議場における子どもたちの存在である。プロ野球の球場におけるボールボーイの役回りと同じように、いやそれ以上に議員の世話を焼き、かいがいしく動く姿が見えて、強い関心を抱かせる。米国の議会政治の上で、実際にそうだったのかは定かではないが、重要なアイデアだと思われる。日本でも国会に子どもを導入すればいいのになどと、つい夢想してしまう◆勿論、この映画で骨格をなすのは、スミスが演説をし続けて、自身の主張を述べるくだりである。このシーンを観ていて、私の現役時代に立憲民主党の枝野幸男議員が延々と演説をした場面が思い出された。聞いてる方はひたすら退屈で眠気を催すばかりではあったが、長演説をやってのけた彼への畏敬の念は今も残っている(彼は、2018年8月に安倍内閣への不信任決議に際して、2時間43分に及ぶ史上最長演説をしているが、これは直接私は聞いていない)。政治家に求められる資質の中でも、演説力は最たるものに違いない。尤も、現実には、聞いていて興味をぐんと惹かせる名演説はそうザラにはない。個人的には、1995年4月に石原慎太郎氏が衆議院議員在職25年の表彰を受けての演説の最後に、「これにて議員を辞職する」と突然表明したものが印象深い。尤もこれは中身よりも「意外性」に打たれたものかもしれない。(彼は、その後18年経って国会に復帰して、2013年2月に、〝暴走老人〟の「国民への遺言」と自称する演説をしたが、これも直接は聞いていない)◆映画を論じてきたつもりが、横道に逸れてしまった。1939年(昭和14年)にこういう映画を作るって、凄いことだと改めて痛感する。この年に日本で公開された邦画は、『土と兵隊』『春雷』などで、米国での『風と共に去りぬ』『駅馬車』『スミス都へ行く』と比べると愕然とする。三作とも今もなお名作として燦然と輝く。敗戦後に、日本の科学技術力が米国に比べて劣っていたから負けたのだとの議論が多かったが、それもさることながら、文化芸術の分野でも大きく遅れていたことは歴然としていよう。戦後の勃興期に日本においても数多の名作が登場したものの、今80年が経って、今ふたたび遅れた映画界の惨状が話題になっているのは無念だ。そんな中で、真田広之が製作し主演した米のテレビドラマ『SHOGUN 将軍』が脚光を浴びている。これは、日本における過去のキャリアを全て捨てて、ハリウッドにおいて一から出直す〝修行〟をした彼の真っ正直な生き方がもたらしたものであろう。先日ある評論家の克明な解説をテレビで見聞きして深い感銘を受けた。真のプロフェッショナルとは何かを知った思いがする。こういう営みが日本映画の今後にどう影響を与えるか注視していきたい。(2025-2-10)