Category Archives: 未分類

【63】これぞ究極の時代劇━━黒澤明監督『七人の侍』をまたも観て/5-5

⚫︎「七人の侍」の感動を呼ぶ3つの角度

 幾たびかみて、みるたびに新たな感慨を抱き感動を覚える。紛れもなき時代劇最高傑作の一つである。過去にこの映画を英国の映画関係者がその道に進む予定の若者たちに、様々な角度から講義している記録映像を見たことがある。相当前のこととて細部はすっかり忘れてしまったが、この映画がいかに監督と脚本家たちが考え抜いて作り上げられたものかを礼賛していたことだけは明確に覚えている。ここでは、私自身が感動した3つの角度と4つの場面について述べてみたい。

 野武士の群団に襲われ続けたある集落の農民たちが浪人たち7人を雇って、多くの犠牲を伴いながらついに追い払うという物語。第一の感動は、ラストシーンで「勝ったのは農民たちだ」とのセリフを浪人たちのリーダー(志村喬演じる勘兵衛)が口にしたように、無法な盗賊どもに対して傭兵の力を借りた農民たちが艱難辛苦の末に勝利を掴んだことである。このストーリーは弱者の生きゆく道を指し示して印象深い。第二は、7人の侍たちを雇うにあたっての苦労談と、戦闘に備えての綿密な陣立てと、雨中の壮絶な戦いという3つの切り口にみる鮮やかな展開である。映画は休憩を挟んで2部構成だが、実質的には3つの段階があり、そのいずれにも〝農民のしぶとさ〟とその力を引き出す侍との力合わせが光る。第三には、侍と農民双方における老、壮、青三世代の持ち味の発揮が胸を打つ。壮年の凄みと若者の初々しさと年寄りの老獪さがこれほど巧みにミックスされた映像は稀有だと思われる。

⚫︎時と空間を超えて忘れがたい名場面4つ

 この映画には忘れ難い名場面が幾つもあるが、4つに絞る。第一は、三船敏郎扮する菊千代が農民集落にたどり着いて、馬に乗ったのはいいものの、この馬を乗りこなせず、落馬するシーン。農民や侍たちが遠くから見ているところ、藁葺き小屋が続く場面で左から右へと走り込むが、出てきた時は馬のみ。しばらく経って菊千代が足を引き摺りながら「おーい待て、こらぁ」と叫んで追いかける場面。閑話休題の笑いが新鮮だ。いつもの剣豪のイメージとは打って変わって、三船が道化役を演じ切る珍しい役どころだがその極めつきシーンがこれである。

 第二は、千秋実扮する平八が、農民と侍の連合軍に「旗印」が必要と、六文銭ならぬ6つの丸の下に三角印と、「た」という字を幟に書く。丸は侍6人を意味し、三角は半人前の菊千代とのことで笑いを誘う。「た」の字は田畑のたで、百姓たちを象徴する、とのこと。戦いの最中は皆の心意気を表して翻るものの、平八始め多くの戦死者を出した後はたまらなく切ない思いに駆られてしまう。心に響く音楽と共に長く心に残る。

 第三は、宮口精二扮する寡黙で必殺仕事人ともいうべき侍の刀捌き。一貫して不死身の剣術家の佇まいで、若い木村功演じる勝四郎の憧れのまと的存在だが、不覚にも最終場面近くで鉄砲に撃たれてしまう。その時にも敵の弾道の方向を仲間に示した上で斃れる。骨の髄までの剣の使い手を感じさせ、印象深い。雨中、泥の中での壮絶そのものの働きぶりは観るもののこれぞ記憶に永遠に残るに違いない。

 第四は、盗賊たちのねぐらを3人の侍と、女房を連れ去られた農民の利吉らが襲う場面。酒池肉林の宴のほとぼり冷めやらぬところに、火が放たれた。燃え盛る火の中から逃げ出てきた女房と利吉の目があった瞬間。彼女の顔が激しく強張り、再び火中に戻る。その両者の心情たるや察して余りある切なさだ。これまた燃え盛る火と共に長く忘れられない。

 以上、いたって思いつくままの恣意的な感想を述べてみた。当然ながら人それぞれに印象は異なろう。こういう名作を観ることが出来て、日本人で良かったなどという大袈裟な思いを抱くのは私だけだろうか。(2025-5-5)

※これにて映画録(懐かしのシネマ)はお休みにします。短い間でしたが、ご愛読に感謝します。

Leave a Comment

Filed under 未分類

【62】遥かなる日本の遠い過去の記憶━━『山の音』『浮雲』『浮草』を観て/4-17

 『浮雲』『浮草』と浮くっていう字がつく日本の映画を2本観たあと、3本目の『山の音』に「浮気」とつけてみたくなった。この3本にとくに関連性はない。この数か月の間にNHK BSで放映されたものを観て、単純に並べただけである。しかし、観終えて、テーマ及び製作者側の意図やら演技者の特徴などに思いを致すとそれなりに共通するものが浮かび上がってくる。テーマは三つとも「人の世の愛の行方」で共通する。原作は、映画の公開順に『山の音』(1954年)が川端康成(脚本は水木洋子)、『浮雲』(1955年)は林芙美子(脚本はこれも水木洋子)と、共に小説家の手になるのに対して、『浮草』(1959年)は監督の小津安二郎が脚本(他に野田高梧も)も書いた。監督は後の2本とも成瀬巳喜男である。主演は、『山の音』が原節子と山村聰。『浮雲』が高峰秀子と森雅之。『浮草』が京マチ子と中村鴈治郎。いずれも女優の方が光り輝く印象が濃く、男優は揃ってぐっとしぶい◆映画よりも原作の方が名高いのが『山の音』だろう。『雪国』と並んでノーベル賞作家・川端康成の代表作とも言われる。「鎌倉のいわゆる谷の奥で、波の聞こえる夜もあるから、信吾は海の音かと疑ったが、やはり山の音だった」━━裏山から音がすることを自分の「死期を告知されたのではないかと寒けがした」と続く。主人公・尾形信吾は63歳の設定。今時なら、前期高齢者にも届かない年齢ゆえ違和感が強いが、同居する嫁の菊子に淡い恋心を抱くには相応しい年恰好と言えよう。この小説は、老いが迫る家長夫婦と、結婚2年目にして早くも外に女を作った息子とその妻、2人の子どもを連れて、出戻りした娘という崩壊の気分が溢れる中で展開する。ある夜古女房のいびきで眠れぬ信吾は、咽をつかまえてゆすぶった。「はっきり手を出して妻の体に触れるのは、もういびきをとめる時くらいかと、信吾は思うと、底の抜けたようなあわれみを感じた」━━小説ではこうした表現が目立つが、映画の印象は、舅と嫁の2人だけが時に生き生きしている風に見えた。尤も、菊子に扮した原節子は存在感がありすぎ。どうにも新妻には見えないうらみが私には残った◆『浮雲』も小説が名高い。ただし未読の身には、双方を比較する術がない。いくら林芙美子と水木洋子という「不世出の作家2人の大作」と言われても、成瀬、高峰について「生涯の代表作」と聞いても、ピンとこない。ひたすら陰々滅々。くっついては離れ、離れてはまたくっつく腐れ縁の男女の鬱陶しい映画だとしか思えなかった。主役2人の設定は、戦争中のベトナムで出会った農林省の技師・富岡兼吾とタイピスト・幸田ゆき子。出会いの地は、遠過ぎて我が想像力が飛翔する邪魔になった。しかし最終盤で富岡の新任地・屋久島でゆき子が病に伏し、結局は死に至ることとなって俄然哀れさを催す。否が応でも切なさが高まった。遠く離れた異国の地と日本の辺境の地。密林風の湿地帯という似て非なる故郷と遠く離れた土地での出会いと別れ。くどくどしいとしか見えなかった男女の仲、人間というものの切なさが一気に爆発した。ただし、ここでも高峰秀子の役どころが最後まで違和感を伴った。彼女は私にはどうしても『二十四の瞳』の女教師のイメージが強く、崩れた女の役は似合わない。つい先に観た松本清張原作の『張込み』での凶悪犯の元愛人役もハマっていなかったように思えた。同じヒロインの女優を観るにしても、いつどの順番で観るかで大きく違うという当たり前のことに改めて気づかされた◆となると、『浮草』の登場人物はピッタリだった。旅芸人一座の座長役の鴈治郎と女芸人で愛人役の京マチ子はハマってる。若き日の若尾文子や川口浩、そして杉村春子ら脇を固める役者達もいい。なお、この映画は小津安二郎のものでは珍しくカラーである。前二者が白黒だったこともあり、華やいだ雰囲気で楽しめた。小津の第二の故郷・三重県志摩郡界隈でロケ撮影(唯一この映画だけとのこと)したとあって、地元の空気感がそこはかとなく漂っていた(かに思えた)。降りしきる雨の中、路地を挟んで主役の男女2人が激しく罵倒し合う場面は迫力満点。かと思うと、路地の先で交差した道を行き交う僅かな人の姿。縦軸と横軸の行き交う構図は小津作品独特のものと思え、私的にはかつて観て印象に残る『おはよう』以来とても懐かしい。一座も厳しい経営難にあって解散に追い込まれ、身の振り方に座長以下全員が悩んだ末に何とか落ち着く。次なる地に向かう鴈治郎とマチ子の争いの果てに戻った日常性。先ゆく所に何が待ち受けているか。うち続く苦労か。それとも?家族の崩壊と蘇生、夫婦の死に別れ、職場の破綻と生き残り━━人情絵巻が脳裏と眼底にそれぞれ浮かび沈む。我が住まいの深夜のダイニング。映画思索のひとときはひっそりと幕を閉じた。(2025-4-19 一部修正)

Leave a Comment

Filed under 未分類

【61】観る側の期待と裏切りの勝手な交錯━━『夜の大捜査線』『大脱走』『ゴースト/ニューヨークの幻』を観て/4-10

 『夜の大捜査線』を観て、シドニー・ポアチエのファンになった人が多いというのはうなづける。めちゃかっこいい。顔、格好で判断するなといわれても、一般的に白人と比べて、黒人や黄色人種は見劣りがする。つくづく天は不公平だと思うが、時々例外的な存在もある。ポアチエはその代表格だろう。しかし、この映画でアカデミー賞主演男優賞を取ったのは保安官役のロッド・スタイガーだったというのには驚く。白人至上主義者が多い中で、黒人に理解ある役どころの好演ぶりが買われたのか。保安官として間が抜けたところをふんだんに見せながら黒人刑事を引き立てる演技力が買われたのか。ともあれ顔形でなく中身が買われたのだけは確かだろう◆この映画で不思議なのは、事件の黒幕がてっきり綿花栽培園の経営者だと思わせておきながら、結果はハズレで、通りすがりの痴漢的犯罪だったことだ。こっちの想像通りだった方が最終的にはカタルシスが大きく、観ていた人間の溜飲が下がるのに、と妙に残念に思った。そういえば、この間観た『大脱走』もがっかりする結末だった。ドイツの捕虜収容所にいる米欧系の兵隊たちが周到な準備の末に大量に脱走を試みるものの、ことごとく失敗に終わるのだ。考えてみれば失敗は当然なのだが、観る方は最後まで成功を期待してしまう。それに、主役の(と思しき)スティーブ・マックイーンの役どころがいまいちよくわからない。浮いているというのだろうか。こういう映画は、もっとハラハラドキドキに徹した面白いものにしてほしいものと思った◆そこへいくと、あまり期待せずに何となく観てしまったけど、後で妙にズキンと応えてきたのが『ゴースト/ニューヨークの幻』。愛する女性と一緒にいた男性が無惨にも殺された。その男の霊が、愛する女性を守るべく活躍して憎っくき犯人に復讐するというもの。元来そういうSFじみた奇想天外なストーリー展開は嫌いな私だが、この映画は違った。デミ・ムーアが演じた女性のあまりの可憐さに胸キュンとなったせいか。姿が見えないだけに、突然生死を分かち裂かれた恋人同士の切ない思いがグイグイと迫ってくる。亡くなった人間の霊が活躍するという映画は以前に観たフランスのジャン・コクトーの傑作映画『オルフェ』がそうだった。あの映画も堪能したものだが、面白い手法ではある◆この映画で妙に活躍するのが黒人女性霊媒師役のウーピー・ゴールドバーグ。とても美的鑑賞には堪えられないマスクなんだけれど、それがゆえのど迫力が何とも言えず胸締め付けられる。彼女はこの役でアカデミー助演女優賞に輝いた。この映画はデミ・ムーアが演じた陶芸家と恋人のパトリック・スウェイジの陶芸シーンが有名になったというのだが、2人の映画での新居がニューヨークで20世紀半ばから若い芸術家が移り住むようになったソーホーにあるという設定。実はついこの前に読んだ渡辺将人氏の『アメリカ文化の副読本』で、そのあたりについてを知るに至った。そんなこと知ってもどうというものでもないが、なぜか得をした気にはなる。(2025-4-10)

Leave a Comment

Filed under 未分類

【60】懐かしくてやがて悲しき昭和哉━━黒澤明監督『天国と地獄』を観る/4-2

 今から60年ほど前に公開された映画『天国と地獄』(昭和38年)を初めて観た。週を跨いで、『野良犬』(昭和24年)『悪い奴ほどよく眠る』(昭和35年)と合わせて全部で3本立て続けで。いずれも黒澤明監督。三船敏郎主演である。断っておくがこのコンビの映画は大好きで、これまで時代劇の方は『7人の侍』『用心棒』『椿三十郎』『蜘蛛巣城』を始めとして殆ど観てきた。『隠し砦の三悪人』の助演女優・上原美佐(この一本で映画界から引退したと聞く)が大好きだというのは結構黒澤映画通だと自認しているのだがどうだろうか。なぜ半世紀もこの有名な映画3本を観ないまま放置してきたのか。単にテレビで取り上げてくれなかっただけ(いや取り上げていたかも知れないが、目に触れなかった)。他意はない。実は黒澤明、志村喬コンビの『生きる』は、2度ほど観た。最も好きな現代劇映画である◆冒頭に挙げた今回初めて観た3本のうち、一番面白かったのは『悪い奴〜』。結婚披露宴の場面から始まり、ウエディングケーキの7階部分の薔薇のマーキングやら、三船が西村晃を本当に窓から落とすかのような迫真の演技(西村はこの後、亡霊に悩まされて気が狂う役なのだが実にうまい)。黒澤プロダクション第一作ということで気合が入ったのだろうが、「公団汚職」で死に追いやられた「父親の復讐」を描いた。デュマの『モンテ・クリスト伯』を参考にしたというのだが、3本のうち、脚本担当に橋本忍が入ってたのがこの一作だけという点に私は目をつけたい。『天国と地獄』は、前半の誘拐事件の発端から導入部分と、後半の犯人探しからエンディングがプッツリ分かれてしまった印象が濃い。犯人役の山崎努と三船の数年後の出会いも間が抜けた感が否めない。観客はどうしても「怨恨」を誘拐の原因に期待してしまう。カタルシスを感じるからだろう。「地獄」の生活に喘ぐ自分から見て、「天国」の住人のような金持ちは許せぬとの「論理」は弱く映る◆ただし、『天国と地獄』での犯人が麻薬を手に入れるために民衆のダンスの乱舞風雑踏に紛れ込むシーンは、何だか『天井桟敷の人々』の最終場面を思い出させられ印象深い。加えて、麻薬の禁断症状にのたうち回る女を演じた役者は鬼気迫るものがあった。実際にヤクが欲しくて苦しむ人間を見て練習したに違いないと思わせる。これに比べて、『悪い奴』の方では、いかにも安物のロケでの大道具風の岩場に閉じ込められた志村喬の役どころが哀れに思えた。脚本展開では『悪い奴』が面白いが、細部の人の配置は『天国と地獄』が引きこまれる(画面の構図がみごと)。後半のオシャレな靴屋の前に佇む三船に、山崎がタバコの火を貸してくれと近づく場面には驚いた。ただ、三船の存在感が圧倒的な分だけ、いかにもとってつけた感がした。それにしても、昔の映画では男たちが圧倒的にタバコを吸うシーンが多い。禁煙が当たり前の今とは隔世の感がある◆小道具としてのタバコに加えて昭和の映画で欠かせないのが、扇子や団扇の類い。もちろん夏場限定だが、ともかく「暑いあつい」の言葉と、急に煽ぐ扇子の波が止まることでの舞台回しの展開が面白い。先に観た松本清張原作の『張込み』でも、冬に観ていても画面を通じて汗ばむ空気が伝わってくるかのようだった。昭和30年代初めから映画を劇場で観てきた者にとって、この3部作に登場する俳優はとても懐かしい。藤原釜足、千秋実、伊藤雄之助らお馴染みの特徴的な顔を数え上げればキリがない。「おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉」(芭蕉)が思い浮かぶ。登場する2人の子役(島津雅彦と江木俊夫=共に昭和27年生まれ)を除いて、監督も役者も全員この世にもはやいない(だろう)というのはなんともはや寂しい。(2025-4-2)

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【59】戦争の終え方にこころ揺さぶられる━━映画『日本のいちばん長い日』を観て/3-11

 『日本のいちばん長い日』━━昭和20年8月14日正午から翌15日の正午までの24時間。アジア・太平洋15年戦争(第二次世界大戦における大東亜戦争とも呼ばれる)の敗北・終戦が決定づけられた一日を描いた映像である。あれから80年が経った年に、1967年(昭和42年)と2015年(平成27年)に公開された新旧二本の映画を、改めて同じ日(3月10日)に続け様に観た。文藝春秋の編集者から作家になった半藤一利の同名の小説を原作に、前者は岡本喜八、後者は原田眞人が監督をした。両作品への評価は観る人によって様々に分かれようが、昭和20年11月に生まれ、今年80歳の私には圧倒的に前者のインパクトが強い。それはひとえに登場する〝俳優たちとのご縁〟に依る。三船敏郎演じる阿南惟幾陸軍大臣と、笠智衆扮する首相・鈴木貫太郎の、硬軟好対照をなす手だれのツートップの佇まいは、「戦争映画」の枠組みを超えて胸騒がせ感動させるのだ。前者へのそういう通俗的な捉え方に反発する向きが後者を誕生させたに違いない。漠たる印象でいえば、油絵と水彩画の違いと言えようか。個性強い濃い映像に、凡なる人間は惹きつけられる◆以下、印象に残る場面に触れる。ポツダム宣言受諾を拒み続ける強硬な陸軍内部の意向を表明せざるを得なかった阿南が、ひと段落がついたのちに「ご迷惑をかけた」と鈴木に詫びるシーンが第一だ。別れたのちに老宰相が「阿南は暇乞いに来たのだ」と呟くくだりはグッときた。その流れの先に、阿南が割腹自決する場面が続く。ここでは瞬時東条英機の銃弾による自死未遂事件が頭をよぎるのは如何ともしがたい。日本人の「死生観の原点」とでもいうべき感情が湧き起こる。次に、戦争終焉が間近に迫っているのに、なお徹底抗戦を続ける動きは、「2-26事件」を惹起させ、いかにも切ない。天皇の玉音放送の録音盤捜索をめぐる映像はいささか執拗に過ぎる。戦争終結に最後まで抵抗する態度を取り続けた厚木空軍基地の場面も忘れがたい。自爆飛行に飛び立つ航空機に日の丸旗を振りつつ見送る子どもたちとその背後から聞こえてくる「予科練の歌」には、虚しさが頂点に達する。最後の最後まで本土決戦を呼びかけることで、武人の意地を見せようと、馬上からビラを撒き続ける兵士とそれを拾い上げる浮浪児たちのラストシーンはパロディだった◆観終えて、心に迫りくるのは私好みの脚本家・橋本忍と岡本喜八監督の〝シリアスさ二重奏〟であろうか。数々の名作を生み出した橋本と岡本の〝個性的映画の二枚看板〟のしたたかな技巧に唸る。私のような世代からみると、惨殺される近衛師団長役の島田正吾や情報相を演じた志村喬、米内光政海軍相役の山村聰などなど、一人ひとりの役者の放つオーラに目眩む思いがしたというのは大袈裟だろうか。ただ、天皇の実像を徹して伏せたのは、戦後20年余における天皇在世当時としてはやむを得ないものだったろうが、40年経った今からみると、主役不在の感否めず違和感が漂う。この点に限っていえば、後者の本木雅弘演じる天皇の存在感は胸迫るものがあった。なお、リメイク版の映画で阿南役を演じた役所広司は私の好きな俳優だが、直近にみた『PERFECT  DAYS』の公衆トイレ清掃員のイメージが強過ぎた◆さて、戦争が何はともあれ幕を閉じて━━ソ連の理不尽な侵攻は日本人として忘れ得ぬ卑劣さが残るものの━━80年後の今日の国際情勢をどうみるかに視線を転じたい。まずはロシアという国家の狡猾さと、戦争終結の困難さである。ウクライナにしてみれば、あたかも白昼堂々無惨にも押し入られた強盗殺人犯にそのまま居座られるような形では終わらせたくないと思うのは当然過ぎる。しかし、現実はそう簡単ではない。このまま戦争状態が続けば更なる犠牲者が増える。かつての日本が原爆2発を広島、長崎に落とされるまで、奈落の底にある自己を自覚出来ず、ズルズルと地獄の淵に落ち至ったことを思い起こす必要がある。もちろん、ことの次第が違い過ぎる。しかし、勝手に侵攻してきた傍若無人の相手に屈服することは許せないとの感情論だけでは持たない。ここは、知恵の限りを尽くしてひとたびは後退しても、のちのちの復興、興隆に賭ける必要があろう。戦争の因果、経緯は全く違うものの、日本やベトナムの歴史には、壮絶な戦争を経験したのちに見事に復興したことが見て取れる。このことが持つ意味をウクライナも考えるしかないように思われる。(敬称略2025-3-12)

 

 

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【58】したたかなユダヤ民族の淵源━━『ディファイアンス』(果敢な抵抗)/3-3

 第二次大戦末期。ナチス・ドイツ占領下でのポーランド(現ベラルーシ西部)におけるユダヤ人の戦いを描いた小説『ディファイアンス ヒトラーと闘った3兄弟』が原作。実話に基づいたものだとされる。映画のキャッチコピーは『人間として生きるための〔抵抗〕だった」。現在のベラルーシ西部の森の中に隠れ潜み、ナチスの捜索、攻撃に徹底して戦った経緯が描かれる。様々な人々が合流していく途上での軋轢、葛藤が観るものを惹きつける。最後まで観ると、登場人物たちのその後が字幕に映し出される。無事生き延びた人たちがいたとの経過にほっとする。ユダヤ人についてはナチスにやられ放題だったとの印象が濃かった。そのくせ、昨今のイスラエルの強国ぶりとのイメージギャップに戸惑いもあったが、これを観てその溝が埋まり、したたかな民族の淵源が分かったような気がする◆この映画を観ながら戦争(戦闘)の起こる場所としての森の役割を考えた。森は平地と違って人が身を隠すのにうってつけである。そう考えていく中で、我々世代の青年期に世界を震撼させたベトナム戦争を思い起こさざるを得ない。遠く離れたアメリカ大陸から空路飛び至たった米海兵隊員たち━━米国は、共産主義によるドミノ倒しを恐れて、南ベトナムに傀儡政権を擁立し、北に向けて侵攻をし続けた。先日NHKテレビで放映されたバタフライ・エフェクト『ベトナム 勝利の代償』では、ホー・チ・ミンとヴォー・グェン・ザップの両軍事戦略家に率いられた「ベトコン」の神出鬼没、変幻自在の戦いぶりが圧巻だった。長きにわたる苦闘の末にベトナムの勝利を可能にしたのは密林であり、森林だったように思われる。森の中にまさに蟻の道のように張り巡らせた地下壕や地下道を自在に使って出没した兵士たちの必死の献身こそ大国アメリカを翻弄しまくった。勿論、その犠牲はこれまた異郷の地からの想像を遥かに超える。「平和の代償」は限りなく血塗られたものだったのである◆一方、21世紀初頭に起こったイラク戦争は、砂漠の多い地における戦争だった。ここでも遥か彼方から降りきたった米海兵隊は灼熱のもと砂の嵐に悩まされ続けた。ベトナムほどに人間の抵抗は強くなかったかのように思われるが、大自然の要塞が防御するイラク兵に味方した側面は強い。イラク戦争の少し前に終焉を迎えたアフガン戦争も岩石や砂地といった自然の要塞を巧みに活かしたアフガン民族兵たちの粘りによって、ソ連(現・ロシア)軍やアメリカ軍の侵攻を跳ね返した。他方、2025年ただいまの時点で、4年目に入ったウクライナ戦争と、3年目に入ろうとするガザ戦争は、ともに隣り合わせた国家、民族の戦いである。遠来の異国軍の介入と違って隣国同士のいさかいは、勝手知ったる土地勘や気候風土もあって、解決が難しい側面が強いかのように思える◆さて、第二次大戦が幕を閉じてから80年。標題の映画が描いたのは、ドイツに20世紀半ばに現れた特殊な政党・ナチスによる狙い撃ちの狂気に抵抗するユダヤ人たちの姿だった。欧州各地での地獄のユダヤ人狩り、ジェノサイド(皆殺し)に、なすところなく犠牲になったように私などは見がちであった。しかし、そんなひ弱な民族ではないことがこの1世紀近い歳月が証明して見せた。ガザでの戦闘を見れば、ユダヤ人たちがいかにしたたかで粘り強く、自国自民族を守るためには、隣国他民族の殺戮をも厭わない強者であることが明白になった。一方で、4年目に突入したウクライナ戦争も停戦の兆しが未だ見えない。ロシアと踵を接する辺りがいかなる地形かは詳らかにしないが、ベトナムやイラクでの戦いに比べて隣り合わせに住む人間同士の殺し合いとあって、より悲惨さが募る。トランプ大統領の傍若無人ぶりの所作振る舞いには呆れるものの、全否定しづらい側面もなしとしない。21世紀も四分の一の時間が過ぎ、前世紀の反省から期待された道が遠のき「生命否定の世紀」になろうとしているのは悔しく情けないばかりである。(2025-3-6 一部修正)

 

Leave a Comment

Filed under 未分類

【57】「原爆の父」の映画に抜け落ちた生命観━━『オッペンハイマー』を観て/2-25

 2年前のこと。人類史上初めて投下された原子爆弾を作った男とその仲間たちの物語の映画が米日双方で話題になった。原作はカイ・バードがピューリッツア賞を受賞した『「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』。映画はクリストファー・ノーマンが監督した『オッペンハイマー』。その人物とは、著名な原子核物理学者で、マンハッタン計画と呼ばれた原爆開発プロジェクトを主導すべく任を与えられたロバート・オッペンハイマーである。先の大戦の終盤にあって、ヨーロッパ・エリアに吹き荒れたナチス・ドイツの猛威と、東アジアからアジア全域を襲った日本軍国主義の脅威をどう収束させるかがすべてだった。原爆完成の瞬間の喜びの声はこれで戦争が終わり、米兵たちが家に帰ることが出来るからと見られた。被爆国日本の視点は、広島と長崎で20万人を超える人々がなぜあのような地獄を味合わねばならなかったのかの一点であった。両者の目線は全く違う。公開から2年が経って、核戦争の脅威が一段と厳しさを増す中で観ると、この映画は、「原爆の父の光と影」を追ってはいるが、それだけに過ぎないことに強い不満を抱く。人間の生命の重大さへの感性の描写が欠落していること、に◆当時、ドイツやソ連も原爆開発に躍起となっているとの情報もあり、壮絶な〝一番乗り競争〟の最中であった。この映画ではそうした背景のもとで、原爆が作られ、現実に日本の広島、長崎に落とされた惨劇を勝利と喜んだ情景と、その後彼が共産主義者に見立てられ、赤狩り(マッカーシズム)の対象になって、〝栄誉を剥奪〟される場面が交互に描写される。「栄光」はカラーで、「悲劇」の方は白黒でと、フィルム映像が使い分けられるものの、早いテンポで展開する人間群像の真実を見抜くのは中々容易ではない。劇場で見損なった(気乗りがしなかった)私は、つい先日ようやくビデオで観た。2回観たが、正直理解するのに時間がかかった。映画で印象に残ったのは、突然感の強いオッペンハイマーが不倫をするベッドシーンと、彼がのべつまくなくタバコを口にしていたこと。後年咽喉ガンで死んだオッペンハイマーの死因との関連に思いが至った。オッペンハイマーの加害者としての「慚愧の思い」と、核拡大阻止への「罪滅ぼし」を目のあたりにして、湧き上がる「今更感」は複雑である◆この映画の背景には、ドイツと日本のファシズムと、ソ連のコミュニズムという2種類の全体主義への恐怖があり、それを抑える米国の使命感の高揚は伝わってくる。しかし、その一方で、人間の「生命」というものを思いやる視点は全く感じられない。原爆投下で亡くなった人々の数やどんな状況で死を迎えたかの一端は「言葉」ではあっても、「映像」はゼロに等しい。いかに非人間的な殺戮兵器を作ったのか。戦争を終わらせるとの目的のために(ドイツでも日本でもどちらでもよかった)かくほどまでの残虐な行為がなされる必要はあったのか。そこまで思考の輪を広げていった上で、科学者の影の部分に光を当て、戦争の無意味さをついておれば、単なる個人の悲劇を描いたものを大きく超える意味合いを持つ映画になったのにと、惜しまれる◆偶々、先の大戦における敗者・日本の戦争責任を追及する「東京裁判」において、たったひとり「日本無罪論」を主張したインドのパール判事の主張を思い起こした。小説『人間革命』第3巻「宣告」の章で著者の池田大作先生の描く同判事の〝たった一人の反乱〟は強く胸に迫る。それによると、パール判事は「検察側のいう全面的共同謀議は、被告らにはなかった」と説く。なぜなら「日本の被告たちは、二八年(昭和3年)から四五年(同二十年)の敗戦まで、十七代の内閣が交代した十数年の間に、次々と国政の舞台に登場したのであって、ナチスのような共同謀議に参画していたと、直接、証明される証拠は一つもない」と、ナチス・ドイツとの違いを明確に述べているのだ。しかも、太平洋戦争において、「(ドイツが行った)常軌を逸した殺戮命令」に近いものは、「連合国によってなされた原子爆弾使用の決定である。この悲惨な決定に対する判決は後世が下すであろう」と、アメリカ大統領らの原爆投下決定を厳しく糾弾している。勿論のことだが、このようなパール判事の主張は「日本の太平洋戦争を、いささかも肯定しているものではない」と、池田先生は注意を喚起していることも、忘れられてはならない。こう言った視点がこの映画に挿入されていればと、ついないものねだりをしてしまうのは私だけだろうか。これから20年後の戦争終結百年ぐらいまでには、原爆投下の無意味さと残虐さを描く、日米合作の映画が待たれる。(2025-2-26   一部修正)

Leave a Comment

Filed under 未分類

【56】思わせぶり満載で楽しさ一杯━━『或る夜の出来事』を観て/2-17

 見終えて3週間ほど経つが、今も記憶に鮮明に残る。実に面白かった。フランク・キャプラ監督の手になる爽やかな喜劇である。米国では「スクリューボール・コメディ」と呼ばれるジャンルに属すそうな。要するにドタバタでなく、ひねりが幾重にもあってためになる楽しい映画ということか。苦しいことのみ多く、楽しいことがなさそうな石破茂さんに見せてあげたい。前回取り上げた同じ監督による『スミス都へ行く』と併せて彼にいま見せると、喜ぶことうけあい(だろうと思う)。父親が嫌う男を好きになって結婚をしようとする娘。どこにでもある話だが、この親父がめちゃくちゃ大金持ちで、娘がとことんじゃじゃウマだと少し様子が違ってこよう。親父お抱えの船の中で娘は軟禁状態だったのだが、咄嗟に海に飛び込んで逃げ出す、てなところから話は始まるのだ◆この娘の逃避行に絡んでくるのが、編集長から「クビだ」と罵倒された、粋メンだけどヘンチクリンな新聞記者。この2人、ニューヨーク行きのバスの中で偶々一緒に乗り合わせる。娘の失踪に多額の懸賞金がかかったこともあり、記者はこの家出話の一部始終を書こうとの下心あってか、何かと世話を焼く。娘は当初、徹頭徹尾避け通そうとするが、やがて、という筋立て。その旅の途上であれこれと気を揉ませるシーンが続出するってしだい。道中、相席の男客からうるさく絡まれ難渋している娘を、「人の女房になにをする」とばかりに助けを買ってでる場面や、長い車中での〝暇つぶし的歌合戦風シーン〟など見応えたっぷり。ちょっと離れたところには航空機、近場は車が通り相場で、列車は勿論のこと、長距離バスも殆ど馴染まない米国での珍しい光景が続く◆この記者を演じるのがクラーク・ゲーブル。家出娘役はクローデット・コルベール。ゲーブルといえば、『風と共に去りぬ』が忘れがたい。あの映画でも、ビビアン・リー扮する稀代まれな(と思える)ジャジャウマ娘を相手にしていた。この役者は、はみ出し女をコントロールする役回りがうってつけのように見える。一方、記者役で思い出すのは『ローマの休日』で、堅苦しい一行から抜け出した王女と一日付き合うグレゴリー・ペックである。大富豪の娘と王家の娘を扱い、その顛末を記事にしようとするところも、この2つの映画はおんなじ。いやそれどころか、男ものパジャマを女が身につけるシーンなどなど、細かい場面で似てる場面が色々と出て来る。比べてみるのも映画の味わい、見どころかもしれない◆もう一つ、この映画で印象深いのは、「ジェリコ(エリコとも)の壁」の登場である。身知らぬ関係の若い男女が一つ部屋で夜を過ごす羽目になって、さてどうなるか。この映画で、ゲーブルがコルベールと同宿することになって、2人のベッドの間にロープを吊るし、毛布をかけて仕切りながら、ジェリコの壁云々と口にする。これは旧約聖書のヨシュア記に由来する伝説の一つで、キリスト教的世界ではしばしば使われる話とのことだが、難攻不落の城=壁を意味する。ラストシーンで、角笛が鳴る云々とのセリフが聞こえるが、それによって壁が崩れるという算段である。こう読んでもわからんという向きは、ものの本ならぬネットで調べて頂くしかない。この映画が発端なのかどうか。以前に見た映画でも同じようなシーンがあったような。漱石の小説『三四郎』にもあった(この場合は畳の上での境界)ぞ、という風に。ひらひらと我が記憶は飛び回るのだが。それがどうしたと言われそうなので、ここらあたりで止めておく。ともあれ、フランク・キャプラはすごい。彼の主な作品で未だ見ぬ『オペラハット』を早く見てみたい気持ちで今はいっぱいだ。(2025-2-18)

Leave a Comment

Filed under 未分類

【55】あれこれと夢想を呼び寄せるリアルさ━━『スミス都へ行く』を観る/2-10

 この映画を政治家一年生に見せたらいい。心底そう思う。実はちょうど今、私の友人である小説家の高嶋哲夫さんが、いじめを根絶するために、自身の書いた小説『ダーティー・ユー』(米国からの帰国少年が友と自身へのいじめと闘う物語)を映画化して、日本中の子どもたちに見せ、いじめを根絶する運動を展開しようとしている。それもいいが、政治家の資質が問われている現在の社会・政治情勢の中で、この映画を必見のものとすれば、相当程度に影響が強いと思われるが、どうだろうか。1939年(昭和14年)に作られ公開された『スミス都へ行く』の詳しいあらすじは、いわゆる「解説」に譲る。要するに、地方選出の新人議員が中央の議会で、子どもたちのために故郷の森にキャンプ場を作ることを巡って、古参政治家や新聞社を経営する資産家と闘うとの筋書きである。議会の成り立ちさえ知らない初々しい議員が、ベテラン美人秘書の手取り足とりの助けの元に、活躍する展開は現実にはあり得ないとの思いがわだかまる。だが、それを上回る面白さが圧倒するのだ。典型的な勧善懲悪ものだが、既存のエスタブリッシュメントを、ひとしなみにでっぷりと太った俳優ばかりを当て、のっぽの痩せ型のスミスと対比させたり、議長役のここぞとばかりに見せる微笑みなど役者の細部の演技力が抜群に効果を発揮しているように思われる◆この映画の主人公はもちろんジェームズ・スチュアートである。その昔の西部劇『リバティ・バランスを射った男』が妙に印象に残っており、私はファンである。ここでも彼は上院議員の役を演じていたが、誠実そのものの風貌に好感が持てる。私生活でもスキャンダルとは無縁で、生涯ひとりの女性と添い遂げたそうだ。スターの座に定着するきっかけになったのが、このスミス役だが、この映画での重要な役割を果たすのは実はキャンプ場の完成を待望するボーイスカウトの子どもたちだ。そして、もう一つ興味を惹かれたのは議場における子どもたちの存在である。プロ野球の球場におけるボールボーイの役回りと同じように、いやそれ以上に議員の世話を焼き、かいがいしく動く姿が見えて、強い関心を抱かせる。米国の議会政治の上で、実際にそうだったのかは定かではないが、重要なアイデアだと思われる。日本でも国会に子どもを導入すればいいのになどと、つい夢想してしまう◆勿論、この映画で骨格をなすのは、スミスが演説をし続けて、自身の主張を述べるくだりである。このシーンを観ていて、私の現役時代に立憲民主党の枝野幸男議員が延々と演説をした場面が思い出された。聞いてる方はひたすら退屈で眠気を催すばかりではあったが、長演説をやってのけた彼への畏敬の念は今も残っている(彼は、2018年8月に安倍内閣への不信任決議に際して、2時間43分に及ぶ史上最長演説をしているが、これは直接私は聞いていない)。政治家に求められる資質の中でも、演説力は最たるものに違いない。尤も、現実には、聞いていて興味をぐんと惹かせる名演説はそうザラにはない。個人的には、1995年4月に石原慎太郎氏が衆議院議員在職25年の表彰を受けての演説の最後に、「これにて議員を辞職する」と突然表明したものが印象深い。尤もこれは中身よりも「意外性」に打たれたものかもしれない。(彼は、その後18年経って国会に復帰して、2013年2月に、〝暴走老人〟の「国民への遺言」と自称する演説をしたが、これも直接は聞いていない)◆映画を論じてきたつもりが、横道に逸れてしまった。1939年(昭和14年)にこういう映画を作るって、凄いことだと改めて痛感する。この年に日本で公開された邦画は、『土と兵隊』『春雷』などで、米国での『風と共に去りぬ』『駅馬車』『スミス都へ行く』と比べると愕然とする。三作とも今もなお名作として燦然と輝く。敗戦後に、日本の科学技術力が米国に比べて劣っていたから負けたのだとの議論が多かったが、それもさることながら、文化芸術の分野でも大きく遅れていたことは歴然としていよう。戦後の勃興期に日本においても数多の名作が登場したものの、今80年が経って、今ふたたび遅れた映画界の惨状が話題になっているのは無念だ。そんな中で、真田広之が製作し主演した米のテレビドラマ『SHOGUN 将軍』が脚光を浴びている。これは、日本における過去のキャリアを全て捨てて、ハリウッドにおいて一から出直す〝修行〟をした彼の真っ正直な生き方がもたらしたものであろう。先日ある評論家の克明な解説をテレビで見聞きして深い感銘を受けた。真のプロフェッショナルとは何かを知った思いがする。こういう営みが日本映画の今後にどう影響を与えるか注視していきたい。(2025-2-10)

Leave a Comment

Filed under 未分類

【54】「戦後80年の闇」を切り裂く光線━━『ラーゲリより愛を込めて』を観て/2-2

この映画が公開されたのは2022年。「懐かしのシネマ」で取り上げるには最近のもの過ぎて、相応しくないかもしれない。ただ、テーマそのものは、先の大戦後にソ連・シベリアに抑留された日本兵の物語だから、十分に「懐かしい映画」ではある。この映画が世間であれこれ話題になっていた頃、たまたま私はシベリア抑留者に関わる団体との繋がりができて、それこそ懐かしい〝昔馴染みの関係者〟と出会う機会があった。そこでの議論を交わすにつれて、この映画の存在や評判を聞き、ぜひ観たいとの思いが募っていった。ところが巷間上映中にはうまくタイミングが合わず、ようやく2年ほどが経った今頃になって観ることができた。今どきの俳優、つまり戦争を知らない子供たちを親に持つ若い世代が演じる戦争映画を観て、思うことは多い。映画の前半から中盤にかけての収容所内部のお話は、いささか定番過ぎるように私には思えて、あまり気が乗らなかった。だが、終盤は俄然惹き込まれた。観終えて深く印象に残る場面もあり、大いに充足感を感じている◆この映画は辺見じゅんによる『収容所からきた遺書』なるノンフィクション小説を原作とする。第二次世界大戦に日本が中国東北部(旧満州地域)を足がかりに参戦する中で、満洲鉄道の調査部に勤めていた山本幡男(二宮和也)も招集され、兵士となる。戦争終結の流れの中で、土壇場で対日戦に参戦したソ連軍は、山本一家が住むハルピンをも戦火に巻き込む。妻もじみ(北川景子)と4人の子供たちは戦乱の中を辛うじて逃げるものの、幡男はソ連軍の捕虜になってしまう。やがてシベリアに送られるのだが、ロシア語の出来る彼は収容所の中でも特異な役割を果たす。幡男は仲間たちを励ましながら、妻との別れ際に「必ず帰国するから」との力強い言葉を発した自らの約束を支えに生きる。零下40度を超える極寒の中での強制労働にも耐え抜く。しかし、ついに咽喉ガンを発病。病床に臥し、余命幾許も無いことを伝えられ、ベッドの上で遺書を書く、といった筋書きで、終盤を迎える。この辺りまでの推移は激しい戦闘や、拷問など見慣れたものにとって、物足りなさを感じるような、どちらかといえば平凡な展開に感じたのだが、彼が死んで、仲間たちが帰国したくだりで一挙に急展開する◆遺書を日本に持ち帰ろうとしても、ソ連側に取り上げられる恐れがあった。仲間たちは、遺書を4つに分けてそれぞれが文面を記憶し、再現するという手立てを考える。この着想が凄い。仲間たちの深い情愛に打たれる。記憶に落とし込み頭脳に刻印されたものが帰国後に再現され幡男の妻に届けられた際の感動は胸を打つ。かつて大震災によって全てを失った人がインタビューを受けて語っていた言葉が思い出された。震災と津波によって家財道具など、ありとあらゆるものを流されてしまったが、身につけた踊りだけは忘れません、と。人間の習得した作法、習慣、躾がいかに貴重であるかを思い知ったものである。人間は何でも溜め込み、抱え込むものの、記憶に刻み、身に覚え込ませたものほど強いものはない◆シベリア抑留所問題ほど理不尽で残酷なものはない。私がいつも観るNHKテレビの『バタフライエフェクト』は、世界の歴史における様々な出来事を丁寧に伝えてくれるドキュメンタリー映像だが、戦争の負の連鎖はやりきれない。シベリア収容所問題もそのうち登場するだろうが、この映画のような心温まるエピソードの映画化もいい。今年は戦後80年の区切りであり、戦後処理で積み残された未解決の問題が山積しているだけに、これからの動きも活発になるに違いない。私の友人に、父親がソ連の捕虜になった人がいる。当時のソ連は、捕虜を赤化する、つまり共産主義で洗脳する試みを組織的にやったとされる。一方、その実態を突き止めようと、米国は終戦後シベリア抑留帰国兵たちを躍起になって調査した。その辺りの事実関係を解き明かしたいとの強い意思を、その友人は持っている。こうしたことを知るにつけて、戦後は全く終わっていないとの思いを強く抱かざるを得ない。この映画からの連想も果てしなく広がりゆく。(2025-2-2)

 

Leave a Comment

Filed under 未分類