1943年に作られたこの映画を初めて観たのはもう50年も前だったか。鐘が鳴り渡る冒頭の映像が印象的だった。それと同時に『For Whom The Bell Tolls 』 とのタイトルの響きが妙にリズミカルに聞こえ、口にするのも心地よかった。その意味するところは当時はわからなかったが、つい先ほど長き歳月を隔てて結末を知った上で観ると、なるほどと合点がいった。スペインを舞台に全体主義と共和主義といった思想的立場を異にする勢力がぶつかり合った内戦。この戦いには、ヨーロッパはもとより世界的な規模で関心が高まった。ナチスドイツの台頭に呼応するがごとくに、スペインのフランコ守旧派政権が横暴を振る舞う兆しを見せた辺りから、自由を求める空気を背景に、同国の内外で抵抗するゲリラ活動の動きが強くなった。それに触発されたアーネスト・ヘミングウエイが同名の小説を書いた◆映画は、ゲイリー・クーパー演じるロバート・ジョーダンと、ヒロインのマリア役のイングリッド・バーグマンのラブロマンスのインパクトが強いために、組織化とは程遠い少数のパルチザンの生の姿とでも言うべきものが霞んで見えた。観る側の嗜好にもよるが、わたし風にはいささか2人の存在が浮き上がった感が強い。ラブシーンに出くわすごとに、敵の進路を阻む橋梁爆破の目的に、もっとまじめに取り組めって、言いたくなるような気分に支配されたものだ。その若い2人の動きよりも、パブロ役のエイキム・タミロフと、ピラールを演じるカティーナ・パクシヌの夫婦の役割が突出して面白く、印象深い。とりわけゲリラ活動への参加に逡巡し、二転三転する夫を尻目に、男勝りの役どころと巧みな優しさを織り交ぜて見事に演じたパクシヌには、その〝豪快な風貌〟と共に傑出した存在感に圧倒された。夫役のタミロフも抜群の演技力で際立っていた。脇役あってこその映画というフレーズを堪能させてくれた◆ヘミングウエイの小説とその映画の関係というと、『老人と海』を持ち出したくなる。複雑な内面を映画という媒体は描くには相応しくないがゆえに、普通の人間にはどうしても映画は平板に見えてしまいがちだ。この映画もスペインの内戦の中で、共和主義に身を投じてファシズムの波に抗おうとするアメリカ人青年の内面を描き出すにはあまり成功しているとは思えない。観る側の鑑賞力の拙劣さのせいなのだろうが、その行動の背後にあるはずの意志の重みとでも言うべきものが伝わってこないのは残念である。『老人と海』は私のような鑑賞者にとって退屈さとの戦いだったが、こちらの方は恋愛映画的趣向に逃げ込む恐れがあるように思われる。その点、小説を予め読み、補助的作用を自身に講じてから映画に臨むことが大事かもしれない◆第二次世界大戦に至るヨーロッパの思想的背景は、ソ連とドイツの双方に展開した二つの全体主義のうち、反ヒトラー・ナチズムの色彩が色濃く、もう一方のスターリニズムの悪しき本質は表層には大きくは出てきていなかった。このため、思想的構図は、ヒトラー・ドイツとムッソリーニ・イタリアの連合軍対共産主義スターリン・ソ連をも含む自由主義ヨーロッパという奇妙な枠組みに見えた。その時点では、国境を越えて自由を守る連帯の動きが高まって、ジョージ・オーウェルら多くの文化人、知識人たちの支援の輪が渦巻いていた。結果は虚しく空を切り、行く手に禍根を残した。いらい80年余の歳月が流れ、その間に多くの戦争が飽くなく繰り返された。そして今、専制主義ロシアと自由主義国家群から支援されるウクライナとの間での戦争が2年を越えて続く。これは広い意味で旧ソ連邦内内戦と見られ、米欧による反露代理戦争の側面もあろう。さらにパレスチナ・ガザの地でもイスラエルとの間で殺戮の連鎖が収まらない。これはまた〝第5次中東戦争〟の様相を呈して、光は全く見えない。誰がために血は流れ、弔鐘は鳴り止まぬのか。今ほど〝人類の知恵〟が試されている時はない。(2024-4-1)