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【29】スペイン内戦と反戦への志し━━映画『誰が為に鐘は鳴る』を観て/4-1

 1943年に作られたこの映画を初めて観たのはもう50年も前だったか。鐘が鳴り渡る冒頭の映像が印象的だった。それと同時に『For Whom The Bell Tolls 』 とのタイトルの響きが妙にリズミカルに聞こえ、口にするのも心地よかった。その意味するところは当時はわからなかったが、つい先ほど長き歳月を隔てて結末を知った上で観ると、なるほどと合点がいった。スペインを舞台に全体主義と共和主義といった思想的立場を異にする勢力がぶつかり合った内戦。この戦いには、ヨーロッパはもとより世界的な規模で関心が高まった。ナチスドイツの台頭に呼応するがごとくに、スペインのフランコ守旧派政権が横暴を振る舞う兆しを見せた辺りから、自由を求める空気を背景に、同国の内外で抵抗するゲリラ活動の動きが強くなった。それに触発されたアーネスト・ヘミングウエイが同名の小説を書いた◆映画は、ゲイリー・クーパー演じるロバート・ジョーダンと、ヒロインのマリア役のイングリッド・バーグマンのラブロマンスのインパクトが強いために、組織化とは程遠い少数のパルチザンの生の姿とでも言うべきものが霞んで見えた。観る側の嗜好にもよるが、わたし風にはいささか2人の存在が浮き上がった感が強い。ラブシーンに出くわすごとに、敵の進路を阻む橋梁爆破の目的に、もっとまじめに取り組めって、言いたくなるような気分に支配されたものだ。その若い2人の動きよりも、パブロ役のエイキム・タミロフと、ピラールを演じるカティーナ・パクシヌの夫婦の役割が突出して面白く、印象深い。とりわけゲリラ活動への参加に逡巡し、二転三転する夫を尻目に、男勝りの役どころと巧みな優しさを織り交ぜて見事に演じたパクシヌには、その〝豪快な風貌〟と共に傑出した存在感に圧倒された。夫役のタミロフも抜群の演技力で際立っていた。脇役あってこその映画というフレーズを堪能させてくれた◆ヘミングウエイの小説とその映画の関係というと、『老人と海』を持ち出したくなる。複雑な内面を映画という媒体は描くには相応しくないがゆえに、普通の人間にはどうしても映画は平板に見えてしまいがちだ。この映画もスペインの内戦の中で、共和主義に身を投じてファシズムの波に抗おうとするアメリカ人青年の内面を描き出すにはあまり成功しているとは思えない。観る側の鑑賞力の拙劣さのせいなのだろうが、その行動の背後にあるはずの意志の重みとでも言うべきものが伝わってこないのは残念である。『老人と海』は私のような鑑賞者にとって退屈さとの戦いだったが、こちらの方は恋愛映画的趣向に逃げ込む恐れがあるように思われる。その点、小説を予め読み、補助的作用を自身に講じてから映画に臨むことが大事かもしれない◆第二次世界大戦に至るヨーロッパの思想的背景は、ソ連とドイツの双方に展開した二つの全体主義のうち、反ヒトラー・ナチズムの色彩が色濃く、もう一方のスターリニズムの悪しき本質は表層には大きくは出てきていなかった。このため、思想的構図は、ヒトラー・ドイツとムッソリーニ・イタリアの連合軍対共産主義スターリン・ソ連をも含む自由主義ヨーロッパという奇妙な枠組みに見えた。その時点では、国境を越えて自由を守る連帯の動きが高まって、ジョージ・オーウェルら多くの文化人、知識人たちの支援の輪が渦巻いていた。結果は虚しく空を切り、行く手に禍根を残した。いらい80年余の歳月が流れ、その間に多くの戦争が飽くなく繰り返された。そして今、専制主義ロシアと自由主義国家群から支援されるウクライナとの間での戦争が2年を越えて続く。これは広い意味で旧ソ連邦内内戦と見られ、米欧による反露代理戦争の側面もあろう。さらにパレスチナ・ガザの地でもイスラエルとの間で殺戮の連鎖が収まらない。これはまた〝第5次中東戦争〟の様相を呈して、光は全く見えない。誰がために血は流れ、弔鐘は鳴り止まぬのか。今ほど〝人類の知恵〟が試されている時はない。(2024-4-1)

 

 

 

 

 

 

 

 

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【28】反戦とナショナリズムと映画の今昔━━映画『カサブランカ』を観て/3-24

 地中海に面した北西アフリカ・モロッコ最大の都市カサブランカを舞台に、第二次世界大戦末期に当時その地を支配していたフランスの反独活動を描いた映画である。ハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンが主役のラブロマンスを乗せた魅惑的な作品でもある。その頃のカサブランカには、ナチス・ドイツの侵略で、戦災火中のヨーロッパから中立国ポルトガルを経て、アメリカに逃げ渡ろうとする人々が多く集まってきていた。主人公のアメリカ人リックはパリ陥落前に別れた恋人イルザ・ラントと、彼が経営する「カフェ・アメリカン」で偶然に再会するところから物語は始まる。話は、昔の恋人2人に、今はイルザの夫でドイツ抵抗運動の指導者のチェコ人・ヴィクター・ラズロ(ポール・ヘンリード)と、フランス庶民地警察のルノー署長(クロード・レインズ)の2人が絡み、それぞれ、三角関係、男同士の友情を縦軸、横軸にして展開していく◆この映画、見どころは多いが、私的には、フランスの反独姿勢が貫かれた〝国歌うたい合い〟場面が最も強く印象に残る。カフェ店内でドイツ軍士官たちがドイツの愛国歌「ラインの守り」を歌い、居合わせた客にも合唱強要しようとした時に、ラズロがこれに憤慨してフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」をバンドに演奏させて、多くの客たちが立ち上がって歌い出した場面。期せずして独仏国歌競唱になった。このシーンを観て、思わず国家と歌の関連性を思わずにいられなくなった。オリンピックを始めスポーツの勝利を祝して国歌が演奏されるが、日本の場合「君が代」がいかにも不釣り合いに聞こえてならぬ思いを持つのは私だけだろうか。重々し過ぎて勇壮なイメージと遠いのだ。かねて、「第二国歌」制定論を提唱してきた身としては、この映画で改めてその思いが〝鎌首をもたげた〟しだいである◆他にも反独のレジスタンスを強く滲ませるくだりは多い。特にルノー署長が自ら対独抵抗活動のシンパであったことを明らかにして、ミネラルウオーターに描かれた「ヴィシー水」のラベルを見てゴミ箱に投げ入れるところや、リックに自由フランスの支配地域であるブラザヴィルへの逃亡を促す場面などを、後から知って考えさせられた。前者では今から70年以上も前に飲料水ボトルが出回っていたフランス有縁の地域の先進性と、フランス領コンゴのブラザヴィルの独自の政治的位置に思いを馳せることになった。この映画のラストシーンは、特筆すべき興味深いものがあるが、とりわけ、新旧2人の愛する男性のどちらを選ぶかの選択を迫られたイルザに、土壇場で身をひいたように見えるリックと、その彼に生への展望を開かせたルノー署長とのあつい心の交流がグッと胸に迫ってくる◆先の大戦での戦場としてのヨーロッパは、この映画を始めとして、連合国の視点からの対独レジスタンス活動をテーマにした映画が多い。一方、アジアでは、中国大陸やインドシナ半島が戦場になったものの、大日本帝国の侵略への民族横断的な抵抗活動を主題にした映画はあまり記憶に浮かばない。これは映画という芸術が比較的早くから国民生活に根ざしてきたヨーロッパ社会と、近代への旅立ちに遅れたアジア社会との差異に関係するのだろう。戦争の最中にこんな映画を作った国の凄さを改めて思う一方、それから80年ほどが経った今、ウクライナやパレスチナ始め世界各地で続く戦火の中で、映画関係者はどうしているのだろうと考えざるをえない。(2024-3-24)

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【27】男と女の真の有り様に迫るラストシーン━━キャロル・リード監督『第三の男』を観て/3-13

 

  映画と原作の関係は通常は小説などが先に出て、映画は後に続くケースが多い。だが『第三の男』は、映画が公開されてのちに、小説が出版された。ただし、映画の構想をめぐって、監督のキャロル・リードと原作者グレアム・グリーンが綿密に意見を交わし、脚本的なものを作り上げていったとされる。名作映画のランキングで最高の位置を占め続けるものとして有名であるため、私は随分昔に観た。ラストシーンと観覧車と音楽の印象が強く、細部は忘却の彼方であった。つい最近改めて観て、その後、小説も読んだ。この小説の序文は、あたかも映画制作の経緯や評価の役割を果たす一方、とても興味深い内輪話ともいえる。映画だけしか知らないという人は是非、この一文は読まれた方がいい。私はグリーンの「この映画は物語よりも良くなっている」との記述、とくに結末についてのリードとの論争(ハッピーエンドか否か)が「結果は彼の見事な勝利だった」との潔さに感銘を受けた◆第二次世界大戦でドイツ傘下で連合軍と戦ったオーストリアは、完膚なきまでに敗北の悲哀を被った。かつてハプスブルグ家の統治のもとで栄華を誇った都市は、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連という4カ国によって4地域に分割の憂き目にあい、共同管理の体制に委ねられていたのである。その占領下の空気が至る所に伺えるウイーンを舞台に、20世紀半ばの時代背景と共に、サスペンス劇が展開されゆく。僅かながらの欧州旅(ウイーンを含む)の経験が私にもあるのだが、その街並みの中で広告塔の存在が気になった。街ゆく者の目を時に奪いかねない、日本には珍しい存在だと思ってきたが、これが意外な意味を持ち得ることをこの映画で知った。グリーンは物語(小説と映画を合わせて表現)の構想練り上げの最終段階の苦悩を、英国情報部の若い将校が昼食の機会に話してくれたことで打ち破ることが出来たと、序文の中で明かしている。巨大な地下下水道が張り巡らされ、そこで働く地下警察の存在である。そこへの隠された入り口を果たしたのが広告塔であり、この物語の中で、「第三の男」が神出鬼没をしたカギを握ったのだ◆緊張感漂うこの厳しい冬の物語の中で、一陣の温風の役割を果たしているのが、主人公(ジョゼフ・コットン演じるマーティンズ)の筆名デクスターと同姓の高名な作家と取り違えられたエピソードである。講演者と勝手に間違えられた彼が、参加者から厳しい質問を受けたり、サインをする場面は本筋とは関係ないが、著者の息抜きサービスとして妙に面白い。それに加えて、小説にはウイーンを占領した4カ国の国民性めいたものを忍び込ませている。ヒロイン、アンナ・シュミットが着替えをする場面に居合わせた4人の対応について《ソ連兵は、性的興味とは無縁で、ただ自分の義務を果たすだけ。アメリカ兵は騎士らしく背を向けながらあれこれ意識していたはず。フランス兵は衣装ダンスにうつる女の着替える姿を冷ややかに楽しむ。イギリス兵は次にどんな手を打つべきかと思案しながら、廊下に立っていた》──これは欧州で時にもてはやされるジョーク集を連想させられ楽しい◆第三の男、ハリー・ライムを演じたオーソン・ウェルズが観覧車の中で、かつての友ジョゼフ・コットンから、闇のペニシリンで人間の生命を奪ったことを批難される。その際に、「ボルジア家の三十年の圧制はミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、そしてルネサンスを生んだが、スイスの五百年のデモクラシーと平和は何を生んだ?鳩時計さ」との名セリフを吐いたことが印象深い。これは原作になく、ウェルズが19世紀のイギリスで活躍したホイッスラーのある文章から脚色したものだとされる。今の日本に使ってみたい誘惑に駆られるものの、ただ、それは戦後100年足らずの平和のなかでの、この30年の無為との対比になりそうで、持ち出すのは憚れる。むしろ、映画のラストシーンでアリダ・ヴァリ扮するヒロインが並木道の向こうから歩いてきて、毅然とした表情を崩さず、佇む男に一瞥もくれず歩み行く姿が、新旧2人のいい加減な男への訣別のメッセージに私の眼には写って、慄然とする。(2024-3-13)

 

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【26】人間心理の危うさ脆さ不可思議さ━━黒澤明監督『蜘蛛巣城』を観て/3-6

 シェイクスピアの名作『マクベス』をベースに、日本の戦国時代に置き換えた「能」の様式が全編に漲るメイドイン・日本らしい意欲作。黒澤明監督、三船敏郎主演への期待に違わず面白い内容で、しかもためになった。三船敏郎演じる鷲津武時と、千秋実扮する三木義明の2人の武将は謀反を起こした敵を討ち、その帰途の森の中で占い師風の老婆に出会う。その女から不思議な予言を聞く。その中身は、武時がやがて北の館の主を経て蜘蛛巣城の城主となり、義明は一の砦の大将になって、のちにその子が蜘蛛巣城の城主になるというもの。聞いた当座は、2人とも一笑に付すがやがて、事態はその老婆の言う通りになっていく。その間に、武時の妻・浅芽(山田五十鈴)の企みが、心揺れる武時を自在に振り回して次々と撹乱してしまう。あたかも老婆の予言を筋書き通りに運ぶようにことは進み、遂には悲劇へと発展する◆大きくいえば「予言」、身近には「占い」といったものは人の心を動かし、振り回す。自分に好都合なものは信じ、不都合なものは無視するといった次元で済めば、かわいいものだが、この映画のように、自分にとって望ましいことを、自ら介入して暴力的に事実を捻じ曲げて実現するとなると、もう大変だ。自縄自縛に陥り、破滅は必至に違いない。奥方・浅芽が、自ら敵に仕立てた相手を殺した。やがて手についた血を洗い流そうとして、幾たびも試みるシーン。どうにも落ちないと言って、必死に手を洗う姿は迫真の演技でおぞましい。男を動かすのは女の力、犯罪の影に女ありなどといった俗言を思い起こして余りあるほどのリアルさが見るものを揺さぶる◆という風に、妻に影響され揺さぶられ、結局は老婆の予言のままに、墓穴を掘り転落する武将をあたかも能のシテのごとくに見事に演じた三船敏郎はさすがだ。数多の弓矢を全身に浴びる有名なラストシーン。この場面は、実はホンモノの矢が混じっていたという。大学弓道部の学生によって射られたようだが、ひとつ間違うとお陀仏になりかねない場面を撮らされて、後に三船はあの時は死ぬかと思って怖かったと述懐したとのこと。また、騎馬の伝令役など三役をやってのけた土屋嘉男は、幾たびも乗馬シーンを繰り返し取り直しさせられ、頭にきて、遂に黒澤監督を馬で追いかけ回したという。その際の鬼気迫る目つきに同監督は命の危険を感じたとか。ともあれ、迫真性を出すため、映画撮影は演じる方も、演じさせる方も、ともに命懸けということだろう◆この映画を観ていて、私は「予定調和」ということについて思いをめぐらせた。世の中の動きが想定通りであるとか、予め決められたかのように進むことを「予定調和」という。様々な場面で自分があらかじめ想定した事態通りになることを期待することは少なくない。この時の心理は、予言や占いの想定を期待してしまう心の動きと共通しているような気がする。これはまた、昨今流行りの「陰謀論」を信じやすい人びとの心理背景とも共通していないか。『蜘蛛巣城』が描く人間心理の危うさ、脆さ、不可思議さは、現在只今のわれわれの周りに漂う状況をも捉えているかのように思われてならない。(2024-3-6)

 

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【25】石油の持つ威力と魔力と━━映画『ジャイアンツ』を観て/2-28

 いつも欠かさずに観ているNHKドキュメンタリー番組『バタフライ・エフェクト』。さる2月21日は、「石油 世界を動かした〝血〟の百年」だった。冒頭は、ジェームズ・ディーンの遺作となった映画『ジャイアンツ』の一場面。掘り当てた油田から勢いよく天に向かって噴き上げる石油と、顔から身体中を油だらけにした彼が「俺は大金持ちだ」と喜び叫ぶシーンが印象的だった。映像では、「実はこの役にはモデルがいた。伝説の石油成金グレン・マッカーシーである」と続く。随分以前の映画を思い出して改めて観た。ディーンは主演ではなく、ロック・ハドソンとエリザベス・テーラーの夫婦2人が中心だったと気づく。1956年12月に日本でも公開された米映画で、監督はジョージ・スティーヴンス。雄大なテキサスの自然を背景に、この地に住む家族の30年に及ぶ人生を描く。石油を掘り当てた中盤の場面以降、人が変わっていく主人公のリアルな様子が気掛かりだった◆ディーンの映画は『エデンの東』『理由なき反抗』と3部作全てを観たが、どれも若さ漲る爽やかな演技だった。屈折した心情を表現し得て胸打つものと感激した。前者は、旧約聖書のアダムとイブの生んだ双子の兄弟カインとアベルの物語を下敷きにしたとされる。キリスト教に縁の薄い日本人にとっては、父親の愛をめぐって仲の悪い兄弟の話ぐらいにしか受け止められない。その観点に立つと、〝兄弟は他人の始まり〟というだけにその関係は難しいし、父親というものの子らへの不平等性もわからなくはない。兎にも角にも人間同士は喧嘩が絶えないということはよく分かる。それだけにラストシーンでの父との和解の場面は深く胸を打つ。意地の悪い女性看護師のおかげかと、ひねくれた見方が頭をもたげてくる。後者はもっと単純に、今の日本でもよく見られる親子の不和で破綻しそうな家庭が舞台。どこにでもいそうな若者の虐めっぽい争い。「チキン・ラン」と云われる崖っぷち目指して車を走らせ、車が海へ落ちる寸前に飛び出す度胸試しには、さすがアメリカと妙な感心をした◆標題作の『ジャイアンツ』は、米テキサスに2400平方㍍もあろうかという広大な土地を持つ牧場主に、東部の名家の娘が嫁いでくるところから始まる。西部との風習、習慣の違いの中で戸惑いながら、家長ともいうべき夫の姉の姑的存在に苦しみつつ、嫁は頑張る。前半は米女性の生き方(といっても裕福なケースだが)をめぐって展開するが、その中にディーン演じる牧童が登場、波乱の存在を漂わせる。家長の姉が落馬死するが、遺言で土地の一部を牧童に残す。その土地から後に石油が噴出する。牧場使用人たるメキシコ人の役割も人種的偏見の捉え方という重いテーマが浮き沈む。後に、結婚を通じて家族の一員となるのだが、そういった伏線も張り巡らせられ、美しく壮大な西部の風景が見る人の眼を奪ってストーリーは進み、引き込まれる◆石油が一気に全てを変える。牧童が大金持ちに変身する様は、俳優ディーンの人生をダブらせて見せ、おまけに残酷にも「石油」のなせる業をも予感させる。この映画が公開されたときには、彼はこの世に存在していなかった。世界の映画史上不滅の興行実績を作ったのも無理からぬことと思われる。具体的な映画の展開を追うのはこの辺りで止す。24歳の若さで散った名優の遺作。彼が生きていれば93歳。この一文の冒頭で触れたドキュメンタリーのタイトルを思い出したい。石油と血を対比させたものだが、100年という歳月の類似性も興味深い。「石油」については我が日本も「持たざる国」として翻弄されまくり、遂に「一国滅亡」に至った。20世紀は「戦争の世紀」と云われる(残念ながら21世紀も続く)が、同時にそれは〝石油の100年〟でもあった。地上で、海上で、空中で、人間が作った〝動くもの〟すべてに関わり、これからも恐らくそうであり続けるだろう〝石油の命脈〟に思いを馳せるとき、映画『ジャイアンツ』とジェームズ・ディーンが甦ってくる。(2024-2-28)

 

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【24】嫌われ者の「地獄の選択」━━『ウインストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』を観て/2-20

 先の大戦で、英国は、ヒトラー・ドイツの怒涛の侵略を前に、「平和交渉」という名の降伏か、大いなる犠牲も厭わぬ「徹底抗戦」をするかの「地獄の選択」を迫られた。時の首相には、話し合いによる宥和の道を進もうとしたネヴィル・チェンバレンに代わって、ウインストン・チャーチルがついた。そこから映画は始まる。チャーチルは時に65歳。波瀾万丈の経歴の持ち主で、その人柄は国王でさえ、敬遠するほどのコワモテ。いわば嫌われ者であった。挙国一致内閣を組閣し、チャーチルは自分に反対する有力者をもそばにおいた。究極の危機を前に、国家の行く末を案じるトップたちが膝詰めで議論する場面や、いざという時に人の心を捉えて離さぬ巧みな演説力など、政治に関心を持つものにとって魅惑的な興味深い場面が相次ぐ◆首相のスピーチ原稿などをタイプライターで打つ女性秘書や、糟糠の老妻などの脇役も光るものの、ストーリーはチャーチルの独壇場。時に怒り飛ばし、詰り、我が道を行く。葉巻タバコを片時も離さず、昼夜に違わずアルコールを口にする。時には朝からも。実際のチャーチルはこの通りだったのだろうが、よくぞ身体が持ち、判断に誤りをもたらすことがなかったのかと感心するのみ。要らぬ心配さえしてしまう。映画を観ていて、かつての鉄の女・サッチャー首相を思い起こした。男女の違いはあれ、危機に強い宰相の側面は酷似しており、面白い。そして、〝そっくりさん〟とはいわぬまでも、よく似た風貌の首相役(ゲイリー・オールドマン)を作り上げた特殊メイクを担当したのは日本人の辻一弘氏。数々の賞を取って話題になったが、当の俳優の演技力の巧さだろう◆戦争映画でありながら、一切戦闘場面は出てこず、首相の決断にいたる背景の描写のみ。この映画の圧巻は、国王から市民の本当の意見を聴くべきだと言われて、初めて地下鉄に乗って乗客との即席対話をするシーン。ナチス・ドイツの侵略の脅威を前に降伏してもいいのか、それとも犠牲を厭わず徹底して抗戦するのがいいのかとの率直に問いかけるところは胸に迫る。降伏を拒否する子どもに至るまでの皆の声「ネバー」が相次ぐ場面だ。その後、閣僚たちに、一人ひとりの市民の名を挙げて、世論の現状を伝えるところは、いささか芝居がかっているとは思えるものの、率直な大衆の声を聞く姿勢と見えて好感が持てる◆先の大戦では、日本は独伊と共に枢軸国側に立って侵略国家の側にあった。欧米連合国の柱だった英国とは真逆の立場のため、比較に意味はない。しかし、沖縄戦も敗色が色濃く、本土決戦をするかどうかのあの〝究極の選択〟を前にしての、政権の中枢と天皇の判断の姿が頭をよぎる。英独の間にはドーバー海峡が、日本と大陸との間には東に太平洋、西に東シナ海や日本海などの存在がある点で、共に海洋国の優位さがないわけではなかった。あの大戦の終結から80年足らず、日英の境遇はなんとなく似てきた。英国はかつての覇権国家の地位を米国に譲り、GDP順位も5位に甘んじるようになって久しい。チャーチル、サッチャーに比せられるリーダーとは無縁で、国際舞台では米国の脇役が定番。一方、日本も米に迫る勢いだった中曽根康弘首相時代(1982-87)をピークに、今では昔日の面影なき斜陽ぶりで、4位に沈む。「対米追従」がはまり役である。チャーチルの英姿の背後に、沈む日英両国が垣間見えたというのは、僻みすぎか。(2024-2-20)

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【23】漲るフランスの逆説風反骨精神━マルセル・カルネ監督『天井桟敷の人びと』を観て/2-13

 世界でも屈指の恋愛映画をみたのか。それとも、歴史上類い稀なレジスタンス映画をみていたのか。いずれにせよ、フランス映画『天井桟敷の人びと』(マルセル・カルネ監督)は、とてつもなく魅力に溢れた名作であることは間違いない。若かき日には、主演の女優と男優のインパクトの弱さ(双方共に私の主観ではあまり顔かたちが美形ではない)が気になった。それに比べて脇役の男たち(女たらしの俳優、泥棒詩人、大富豪の伯爵、乞食まがいの変な男)の強烈な個性溢れる存在感が印象に残った。前編(「犯罪大通り」)と後編(「白い男」)の主演女優の大人の女の魅力に紛らわされた(のかもしれない)。一方、年を経て今再びみると(正確にいうと、解説付きで)、がらり雰囲気が変わってきて、一筋縄で捉えられないフランスという国と人びとの凄みが伝わってくる◆そう、この映画の一般的なみかたをここで繰り返してもあまり意味がない。ここではレジスタンス映画(ではないか)との観点からのアプローチをこころみたい。全てのポイントは、この映画が実際に作れらたのが、ナチスドイツにフランスが占領されていた1942-1944年ぐらいのことだったという点であろう。日本も主たる戦争相手(米国)に占領されたが、それは戦争が終わってからのこと(1945-52)だった。フランスは、ヨーロッパ全体が戦争で疲弊し未だ続いていたさなかの占領だった。ただし、映画の時代設定は、1820年頃、19世紀前半。フランス革命からほぼ30年後。日本でいえば、明治維新前50年くらいの江戸時代後期にあたる。ともあれ、注目せねばならないのはナチスの占領下に作られたということだ◆映画のファーストシーンは、芝居小屋で賑わうパリの大通り。エンディングはカーニバル(ここでは謝肉祭)の風景──幕開けと幕が降りる舞台を見上げ、見下ろす観客を捉えきって、映画は終始する。舞台の真下の席や左右の特別観覧席、はるか後方最上階の天井桟敷とを対比させつつ。繰り返すが、公開された時は戦争終結前だった──庶民の活気に満ち溢れたシーンで始まり、お祭りの騒ぎの中で終わる。これは凄い。暗い気分など吹っ飛ばす勢いに感嘆する。「自由・平等・博愛」の気分が横溢していた「革命後」から、ナチスの傀儡ヴィシー政権下のフランスへ。この映画の前編では落ち目だが自由奔放な女芸人のガランスが、後編では富豪の囲い女として、財産はあれども、不自由極まりない女に変わった姿で登場する。この一身の変化はフランス国家の変貌ぶり(表面でなく本質的に)と重なると見られるのかもしれない。恋する男との変わらぬ愛と、そして変わってしまった生活。フランスという国が、そこに住む人びとが、あらゆる意味で個性豊かであり、反骨精神に満ちた逆説を駆使する存在だと知った(そういう見方を提示された)者として、この映画を素直に恋愛映画だとみることはできなくなる◆確かに、洒落た名セリフ「恋するものにパリは狭すぎる」「貧乏人から自由な愛まで奪うの」などや巧みな小技が満載、随所に挿入されていた。極めつけは、主役の女優の名前が「ガランス」だということか(もしれない)。これは「フランス」とほぼ発音が類似している。エンディングで主人公のバチストが「ガランス!ガランス!」と何度も叫ぶにつけて、「フランス!フランス!」と祖国の名を叫んでいるように聞こえる。という、フランス文学者の野崎歓(東大名誉教授)の着眼が鮮やかに光る。熟達の士の「映画解説」を知って、まるで自分は違う映像を見ていたかのように感じてしまう。我が身の鑑識眼の拙さに哀れが募る。いや、「手品師の種明かし」を知ってしまった〝禁断のお得感〟に身が震えてくる。(2024-2-14)

 

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【22】西部劇の真骨頂に痺れる一方で懸念も━━フォード監督『駅馬車』を観て/2-2

 アパッチ族の襲撃を受けて危機一髪という場面で、遠くから聞こえてくる騎兵隊のラッパ。お決まりの西部劇のシーンだが、私もかつて子どもの頃に何度も興奮して胸ときめかしたものだ。映画『駅馬車』(1939年製作)はその典型に違いない。ジョン・フォードが監督で、ジョン・ウエインが登場する。その古典的名作を改めて観た。そこで幾つかの記憶違いというか、我が幼稚さゆえに見落としていたことから、新たな気づきに出会った◆一つは、主演はジョン・ウエインではなく、女優のクレア・トレヴァーであったこと。確かに映画のポスターを見ても、トップに出てくるのはジョン・ウエインではない。当時のふたりは格違いだった。正確には彼はこの映画でスターの座を獲得して、以後ジョン・フォード監督のもとで活躍したというべきなのだろう。この映画でも登場するのは、ぐっとあと。駅馬車に乗り合わす7人の客(ほかに御者と保安官)の最後である。乗客の中心は、出発の場所アリゾナ州トントを追い出され、ニューメキシコ州ローズバーグへ向かう男女2人(1人が主演の娼婦役。もう1人が酔っ払いの医者)。あとは、若い貴婦人、小心者の酒商人、曰く付きの銀行家、賭博師といった怪しげな面々。そこへ途中で乗り込むお尋ね者の銃の使い手であるリンゴ・キッドというのがジョン・ウエインの役回り◆この道中での人間模様が描かれていくのだが、映画の流れは専ら、いつ、ジェロニモが襲って来るのかにあり、それをリンゴが無事に追い払うことができ、到着地にいる3人の悪漢兄弟をうち倒すかにあった。町を追い出された2人の背景に女性の民権運動と禁酒法があるなどということは預かり知らず、映画の冒頭場面でこれらの動きが挿入されていても、子どもの頃には気づかなかった。一方、この映画を観ていて昔は気付かなかったが、時代の流れの中で、気付くのが、先住民への配慮が全くないこと。容赦なく殺されるだけの襲撃場面を観て、いささか哀れを感じざるを得なかった。手に汗握って観終えて、やがて悲しきインディアンというわけなのだが、そこは仕方なかろう。加えて、悪漢たちとの1対3の決闘シーンもあまりにあっけない。もうひと工夫有れば(例えば『第三者が介入した『リバティ・バランスを射った男』のように)と思わないでもない。決闘シーンは銃の音だけというのはいかにも寂しい。などと思うのは、無い物ねだりと言うべきか。この映画のいかにもハリウッド風のハッピーエンドを観て、昔はほっとして、今は物足りなく思うのは、年を重ねたせいかどうか◆ジョン・フォードはアカデミー賞を4つ取っているが(①男の敵②怒りの葡萄③我が谷は緑なりき④静かなる男)、西部劇ではなぜかゼロ。この監督は、かつて、マッカーシズム(赤狩り)が全米を吹き荒れた時に、共産主義的立場を肯定も否定もせず、当時合い争った両者をともに庇ったことで知られる。そして、映画人が集った場において、自身のことを「私はジョン・フォードです。西部劇を撮ります」と単純明快に述べたことでも知られている。政治的立場に固執せず、気取らず素朴に映画を愛し抜いた人だったと言えるのだろう。『市民ケーン』や『第三の男』で有名なオーソン・ウエルズは、『駅馬車』を40回以上も観て映画作りに役立てたことを公言して憚らなかった。それだけ、映画の基本が満載されているということだと思われる。(2024-2-2)

 

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【21】辿り着いた地もまた地獄━━スタインベック原作、フォード監督の『怒りの葡萄』を観て/1-23

1940年上映の『怒りの葡萄』は、ジョン・スタインベックの同名の小説が映画化(ジョン・フォード監督)されたものである。1930年代の経済恐慌が背景に、干ばつも加わり、農家は農地の拡大を目指す大きな資本に飲み込まれる。失業の嵐の中、職を求め、生活再建を目指して、故郷オクラホマから新天地カリフォルニアに向けて家族全員が家具一切を大きなボロ車に乗せて移動する物語である。そして勿論、その流れは一家族だけでなく集団の動きであった。向かった先には素晴らしい新土地は待っていず、結局は搾取されるだけの失望の地でしかなかった。人々の希望は潰されて、怒りが胸中に渦巻く。その地には、生きる糧は全くなかった。聖書の流れを汲むこの映画のタイトルはそれらを象徴したものだ。80年も前の映画ではあるが、この世における社会と人間の関係、自由と拘束、家族の絆と生き方、男と女といった重要なテーマが満載されていて、極めて重要な問題提起をしてくれている。とくに私は性の違いの持つ深い意味に改めて気付かされた。実に味わい深い秀作だ◆「ロードムービー」と言われる一連の作品がある。米大陸を車で横断する過程における様々な物語を描く。それは同時にストーリーの展開の中で、通り過ぎる街々が重要な役割を果たす。『イージーライダー』『俺たちに明日はない』『真夜中のカーボーイ』などを始め、この半世紀以上の映画史の中で枚挙にいとまがないほど。その先駆を行くものがこれだ。この映画の主人公のひとりを演じるヘンリー・フォンダは後に大成するが、この映画では初々しい青年だ。1930年代が描かれた時代と道を親父ヘンリーが、1960年代を描いた舞台とロードを息子ピーター・フォンダが共に駆け抜けたというのも面白い対比ではある。前者は経済恐慌で失業に抗う労働者の姿、後者はコカインの密売に関わる反体制の若者たちという風に、時代背景も担い手も違う。『怒りの葡萄』での旅立ちの場面は、大型トラクターが家を押し潰す衝撃的シーンから始まり、筆舌を尽くせぬ苦労を経て漸く到達したカリフォルニアの風景も内実も、想像していたものとは全く違う◆現在只今の日本にあっては大地が割れ、家屋が押し潰され、集落が孤立するとの能登半島大地震の襲来による悲劇が、この映画と重なる。また戦争で難民と化した人々のウクライナやパレスチナのガザ地区での悲劇を即思わせる。食べるものがなく、寝る場所にも事欠く映像は、全く今の世界と二重写しなのだ。故郷を去るのを嫌がった老父母が旅の始めと終わりに相次ぎ倒れ死に、身籠った妻を見捨てて若い男は姿を消し、やがてお腹の子は流産する運命に。胸詰まらせ心痛ませる場面の連続だが、心優しい人の子どもへの配慮の場面も挿入される。とりわけ、住民自身の自治で固めたキャンプに行き着いたところでは、まさに地獄に仏といった様相だった。が、それも束の間のこと。やがて追い払われる羽目に。途中自警団的動きとトラブって人を殺めたり、週末のダンスという楽しい企画も暗転する危機に遭遇したり、ハラハラどきどきの連続で手に汗握る◆そんな映画はハッピーエンドでは終わらない。ラストシーンの車中での母の強さ漲るセリフが胸を撃つ。一家の長が夫ではないことは映画の展開でも明白であるが、当の本人が「お前が家族を引っ張ってくれ。ワシはもうだめだ」と心情を吐露した後の、母親役のジェーン・ダウエルのセリフが際立って印象深い。彼女はアカデミー助演女優賞にこの映画で輝いたが、その大黒柱そのものの存在感たるや、堂々たる体つきや目つき顔つきだけではない。「女は男より変わり身が上手だ。男はものごとにすぐとらわれる。人の生死、農場の事、何にでもすぐとらわれる。逆に、女は川のように、流れている。滝もあれば、渦もある。けど、流れが止まったりしない。それが女なんだ」──ここは痺れた。私の50年余連れ添った家人も「いちいち身の回りに起こる出来事に一喜一憂しない。起きたことは仕方ない。色々あっても気にしない」と言う風な物言いを決まってする。その都度どうも腹がすわっているのは、俺よりこいつ(男より女)だなあと思ってきた。それを実感させられたラストシーンだった。この場面は小説の終わり方と全く違っている。映画のリアルなインパクトに杯を上げたい。(24-1-23)

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【20】「あんたたちはどう死ぬのか」の問いかけ━━黒澤明監督『生きる』を観て/1-15

 映画の持つ底力を思い知った。もうすぐ死ぬと自覚した時に、人はどう振る舞うか。ここでは、自暴自棄となって享楽に身を任せ、家族との距離を感じ、若者の生命力との触れ合いを求める。そして、若者の一言から人のために役立とうと、〝人が変わったように生きて死んだ〟ケースである。子供たちのための公園の建設をなし終えた後、ブランコに乗りながら、🎵生命短し、恋せよ乙女〜と、「ゴンドラの唄」を口ずさむ場面が印象深い。昭和27年封切。真正面から人生の意味を問うたものとして、日本映画の最高峰のひとつと位置付けられてきた。後期高齢者として後があまりない私は「どう生きるか」より「どう死ぬか」に関心を持つ◆この映画が世に出た頃は、米占領下。当時は胃癌は確実に死に至る病とされ、告知は普通されなかった。担当医の告知を避けた微妙な言い回しが面白い。役人の世界を見事に揶揄(出色は主人公のミイラ、なまこ、定食などのあだ名)しつつ、世の人間関係のパターンをあぶり出し、笑いを誘う。なぜ、かの課長はあれほどまでに執念を持って公園建設に動いたかの説明は、最後の通夜の場面でのやりとりまで、なされない。その間の謎解き、心理描写が際立つ。そして、「親の心子知らず」を地でいく息子と嫁に、霊前でも和解の場面はない。この映画を作った黒澤明、橋本忍、小國英雄らの脚本、演出の巧みさは、中心と外縁の対比の妙から小道具に至るまで心憎い限りである。「生まれ変わろう」と、主人公が決意する場面で、後ろに映し出される若者たちの誕生祝い。ハッピバースデーツーユーの歌声がこだまする。新しい帽子(当時の男は中折れ帽を被った)が、かくほどまでにものを言わせる映画も珍しい◆主婦たち市民が市当局にいくら要望を出しても、たらい回しにあう姿は、行政の執行者と被執行者の市民との関係の象徴として今に続く。就職して役人になって30年。同じことの繰り返し。いったい自分は何をしてきたのか。妻に先立たれた主人公は、ひたすら息子のためだった、と自身に言い聞かせる。しかし、その息子と嫁は父親の遺産をあてにしているだけ。その本心を偶々知ってしまった。飲めない酒を居酒屋でひとり口にしている時に偶々出会った小説家との一夜の豪遊。以後、人生初の無断欠勤。数日経って、職場の若い女性が決済ハンコを貰いにやってくる。いらい、その女性と幾たびか会うことになる。いわゆる女遊びの類いでは到底ない。その女性にも気持ち悪いと嫌われながら、「君に会うとあったかくなる」「若い活気が羨ましい」とのセリフ。男と女、老若という生き物の原初的形態を思わせて、身につまされる。一連の動きは風の噂として拡散する。そして、役所を辞めて玩具工場で物作りをするようなったその女性の「課長さんも何か作ってみたら」との言葉が引き金になって、一念発起する◆人生の意味をどこに見出すか。職場での出世。カネの使い方。遊びの種類と程度。男と女といったところから、病気と死、ホワイトカラーとブルーカラーの違いに至るまで、万般の人生模様を気づかせ、考えさせてくれる。主人公が残された人生を公園建設にむけて主婦たちと共に、かつて邪険に扱ったことを反省して、他の課の課長や助役にまで幾度も説得に向かう。このシーンを観ていて、政治の現場に身を置いたものとして、実に考えさせられた。偶々つい先日読み終えた『実験の民主主義』(読書録No.110)は、立法権に比べて議論の対象にならない行政権(執行権)の改革について深い考察が展開されていた。前者は「選挙」(有権者)がカギを握るが、後者は「ファン」(支援者)がキイーだと、読んだ。「市民相談」を通じて、大衆が悩む政治課題の解決に取り組んできた公明党の存在。政治におけるアマチュアの役割を世に宣揚し続けてきた政党。その新旧の有り様にまで考えを及ぼさせてくれた。いやはや、実に奥深い映画を観た。(2024-1-15)

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