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【19】史上最大のエンタメ誕生とその裏側━━『ローマの休日』と『トランボ』を観て/1-5

 映画『ローマの休日』は、過去に観た映画の中で、最もわくわくしたものだ、と思う人は多いだろう。王女が束の間自由の身になってローマの町中を〝冒険する〟設定が何より魅力的である。1953年公開。恐らく既に観た多くの人にとっては、ここでの記述にあまり興味はわかないはず。そういう人たちには、この映画誕生の裏舞台を描いた一本『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』(以下『トランボ』と略)をお勧めしたい。これはこれでまた非常に考えさせられるいい作品だから。そして、未だ『ローマの休日』を観ぬ人たちには、早く観るようにお勧めしたい◆ヨーロッパ最古の王室のアン王女(オードリー・ヘプバーン)が、親善旅行の流れで、イタリア・ローマにやってくる。日常の物足りなさからひとり街中に飛び出す。未知の経験あれこれの後に、疲れてベンチに寝てしまう。そこへ偶然でくわした新聞記者ジョー(グレゴリー・ペック)が自分の住まいに連れ帰るのだが、その身分を知り密かに大スクープを、と目論む。その流れで起こるさまざまなエピソードが描かれる。ここで、この映画を観たひとたちが話題にする好みのシーンを語り合うと、どうなるか。私の場合は、一番面白かったのは、後半での大乱闘の場面。はちゃめちゃの連続。映画でこんなに笑ったものはない。第二に、ドキッとしたのはライオン像の口に新聞記者が手を入れるシーン。食いちぎられたと、ウソとわかっていてもたじろぐ。あの場面はアドリブだったという。彼女は知らされてなく、自然な形だった◆全てが終わって、王女が会見の際に記者たちに囲まれた場面がいいという向きもあろう。王女と記者が何も言わずに見つめ合う場面。ここは見事な相互の想いが行き交う、忘れ難い名場面だ。もちろん人によって受け止め方は違う。市内を2人がスクーターで乗り回す場面がいいとか、王女が髪の毛をカットするところとか、隠しカメラ付きライターの登場が面白かったといったように。それを挙げあって、楽しむのも面白いと思われる。また、昨今「4Kレストア版」といった新しい映像による再放送がなされているが、その際に細部の場面で時計の針の動きをよく見ると、瞬時に針が回る。カメラの使い方を追うというのも一興かもしれない◆さて、もう一本の方は、この映画の原案を書いた人物が、戦後アメリカに吹き荒れた「赤狩り」の犠牲者だったことだ。共産主義者を告発し、映画の世界から追い出そうとした〝思想的排除の嵐〟を描いた『トランボ』は、時代の怖さを思い知らされる。と同時にその恐怖の中で、断固として初志を貫き通し、転向することのなかった脚本家の強さに心底感動する。その背後に家族の逞しさ、とりわけ最後の場面は忘れえぬ感動である。ダルトン・トランボが脚本をお風呂に入ってタバコを吸いながら描く場面とか、留置場に入るに際して、素っ裸で検査される場面は、わかっていながらそこまでやるか、と妙に感心した。この映画と並んで年末のテレビで観たドキュメンタリー『映像の世紀 バタフライエフェクト』も興味深いものだった。「夢と狂気渦巻く百年のハリウッド」で、その実像が描かれていたが、この「トランボ」についてももちろん取り上げていた。私的にはその昔興奮して観たカーク・ダグラスの『スパルタカス』も脚本は同じ人物だったことを知って驚いたしだいである。(2024-1-5)

 

 

 

 

 

 

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【18】たまらなく懐かしい「昭和」がここに━━小津安二郎監督 映画『お早よう』を観て/12-28

 あと僅かで終わる今年・2023年は、映画監督小津安二郎が亡くなって60年、生誕120年でした。このことを記念して幾つかの媒体で特集が組まれたり、その作品が放映されたりしたので、改めてご覧になった方も少なくないと思われます。『東京物語』や『秋刀魚の味』といった代表作はさることながら、『お早よう』って作品は全く知りませんでしたが、NHKのBSをビデオで観て、色んな意味で感じるところが数多くありました。とりわけテレビが一般家庭に普及し始めた頃に小学生だった私の世代にとって、まるで60数年ほど前にタイムスリップしたかのように思える懐かしい映画でした◆昭和34年(1959年)に制作されたもので、小津の50作目になる記念碑的作品だといいます。東京の多摩川沿いの住宅地といっても、向こう三軒両隣りがひしめきあった庶民そのものの生活ぶりが描かれており、とても興味深いものです。テレビがない家庭での子どもと親とのトラブルを縦軸に、近所付き合いの中での噂話による揉め事を横軸にしたコメディタッチの映画。佐田啓ニ、久我美子、笠智衆、沢村貞子ら当時の有名俳優が続々と出てきますが、設楽幸嗣(したらこうじ)が子どもの主役で登場するのには、私と同世代の人だけに、まるで昔の同級生に突然出会ったような思いがしました。子ども同士がおでこをつつくと、おならがぷっと出るという遊びが題材に使われています。ついでに便が出てパンツを汚してしまうという設定には驚きました◆小津監督は「なんでもないことは流行に従う 重大なことは道徳に従う 芸術のことは自分に従う」という言葉を残しているように、自分の好みを貫き通す人だったようです。「愛情が持てないものはあまり取り上げたくない」とも述べていますから、彼の表現したシーンには愛情がこもっていたはず。あの当時の大相撲は若乃花(初代)の全盛期(栃若時代の異名あり)だったのですが、この映画の中のテレビの実況中継場面に「北葉山」が登場(相手は冨樫=後の柏戸)したのにはファンだった私は泣けました。なにしろ、闘志剥き出しの関取で、負けた時に土俵を拳で叩く様を未だに覚えているぐらいですから◆小津は戦争に従軍した数少ない映画人だったことはよく知られています。一方、生涯独身で母親と同居していたことはあまり知られていません。かつて與那覇潤は『帝国の残影──兵士・小津安二郎の昭和史』の中で、戦争を体験をしていながら直接的に戦争を想起させることは描かず、一方、家庭を持ったことがないのに、ひたすら家族を表現し続けたことを対比して評論していました。この本については、作者が『中国化する日本』で颯爽とデビューした後の作品だったことから覚えていますが、その謎探しについては記憶に定かではないのが残念です。思想家の趣きさえ漂う小津は、「ストウリイそのものよりもっと深い『輪廻』というか『無常』というかそういうものを描きたいと思った」と述べています。作家の平山周吉氏(『東京物語』の主人公の名に因んだペンネーム)は今年、大部の評伝『小津安二郎』を書いたことをETV特集『小津安二郎は生きている』で知りました。読んでみたいものです。(2023-12-28)     ※文中の小津の発言はETV特集から引用。

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【17】「宗教と自立」「国家と自由」など夢想広がる━━『ショコラ』を観て/12-13

 「ショコラ」(チョコレート)には思い出がある人は多いだろう。私の場合は、英語、フランス語、中国語など各国語による「チョコレートはいかがですか?」という言い回しを書いたコピーを見たことだった。お菓子の小ちゃな箱に入った宣伝戦略の一環だった。英語やそれをそのまんま転用する日本語はともかくとして、フランス語を粋だと感じ、「巧克力」と書いて「チョウクゥリ」と発音する(ように聞こえる)中国語って面白いなぁって感心したものだ。というこの出だしは余談。この映画は20年ほど前に制作されたもので、「ラブコメディ」というジャンルに仕分けされている。だが、私には「宗教と自由」「国家と自立」という重大な問題を提起する、結構お堅く、考えさせられる映画にチョッピリ思われた◆ストーリーをザックリ私風に気ままに紹介したい。ある美しい女性が娘と共にとある村に吹雪のなかやってくる。この村はキリスト教の教会を中心に動いており、熱心な信者の村長と神父の支配下にある。彼女はそこでショコラを製造・販売するお店を開く。この女性は自立心旺盛で勝手気まま。宗教的因習、村の習わしには従おうとしない。このため当初は徹底して〝排除の嵐〟に遭う。だが、夫婦や親子の葛藤を始め、人それぞれに様々な悩みを持つ。そんな村びとたちがひとりまた一人と、この店にやってきて女店主に悩みを打ち明けるようになる。これまでの村の秩序が破壊されて嬉しくない村長は、次々と彼女に嫌がらせをしかけてくる。そこに流れ者のナイスガイが現れ、絡んできて‥‥といったお話しが繰り広げられる。表面的にはわかりやすい◆ショコラは、当然ながら「自由」のシンボル。教会は「束縛」の元凶として描かれる。前者は美しく若い女性が、後者は頑固で権威的な古い男性がその役割を演じる。男中心の社会の中で、虐げられる女たち。宗教的束縛から脱して生きようとする新しい人間と、これまで通りのパターン化した日常に安住する古いタイプの人間と。キリスト教という人類数千年の歴史を先駆けた(と見られる)宗教の負の側面が思いっきり強調される。21世紀の劈頭に作られたこの映画は、既に常識と化した日常的しきたりに改めて挑みかかるかのよう。欧米社会では「神」の存在を軸に全てが動く。欧州では政党の名前にキリスト教が冠せられ、米大統領は聖書に手を置いて誠実性を誓う。甘いショコラが〝禁断の味〟として挑発するように私の眼には映って、内実的には意外に難しい◆こうしたテーマが中国で、そして日本で描かれたらどうなるか。共に、宗教の有り様が「ショコラ」の風土とは違うなかで、私の夢想は広がる。明治維新の前夜、欧州の先進国家の餌食になった隣国を見て、我が先達たちは明日の我が身かと恐れた。それから150年余。共産主義的専制国家が繰り出す〝統治の罠〟と、それに抗する〝人民の乱〟は未だ、時おり聞こえてくる〝遠い砲声〟でしかない。かつての従属国家から「自立」へと脱皮し大きく飛躍した中国。だが、民衆が失ったものは余りに大きい(ように見える)。「自由」を渇望する民衆はなぜ蜂起しないのか。一方、「無宗教者天国」の日本は、お上から下々まで、自己抑制を知らぬ勝手気ままな〝無法者の楽園〟と化した(かのように思われる)。国家そのものが漂流している(かに見える)日本。そこにあって、真の「自立」を求める大衆の自由な動きはなぜか未だ起きてこない。巧克力とチョコレートは何処にあるのか。(2023-12-13)

 

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【16】サッカーと国家間競争の起源━━『コッホ先生と僕らの革命』を観て/11-25

 阪神とオリックスの優勝を祝うパレードで沸きかえった大阪・御堂筋と兵庫・神戸市役所前通り。このニュースをテレビで見て思うことが幾つかある。セリーグとパリーグの違いから始まって、本拠地と野球ファンの関係、大阪と兵庫の風土の差に至るまで、尽きぬ思いが湧き出でる。そんな折に、今年のサッカーJリーグでヴィッセル神戸優勝の報が伝わってきた。30年前に私が国会議員になった頃に、Jリーグが生まれ、サッカーブームが起こった。その頃、野球とサッカーの比較を政治の動向に例えて、旧55年体制は野球であり、サッカーは政治改革の時代だと見立てたものだ。端的にいうと、野球は攻めと守りが立て分けられて進むが、サッカーは目まぐるしく攻守が入れ替わるということに着眼したものだ◆そんな思いに浸っていた時に、サッカーというスポーツの由来を考えさせてくれるいい映画に出くわした。タイトルは『コッホ先生と僕らの革命』(2011年独映画)。時は1874年、ドイツのブラウンシュヴァイクのギムナジウム(日本の中学校)に元卒業生がドイツ初の英語教師として英国から母校に帰ってきた。英国で始まったサッカーを身につけてきたコッホ先生である。彼が、その存在すら知らなかった子どもたちや大人たちに、サッカーの面白さを分からせるまでの悪戦苦闘ぶりが描かれる。ついこないだ観た米映画『今を生きる』のキーティング先生を思い出させるような見事な授業風景だが、違うのは時代とドイツというお国柄。上意下達ぶりは尋常じゃなく、英国由来のものは徹頭徹尾反発される◆最初はコッホ先生を敬う気持ちのなかった子どもたち。彼らがサッカーの面白さに気づき、やがて学校当局や後援会組織の弾圧を跳ね除けるまでに立ち上がる様子が続く。学校の授業や体育館でサッカーを禁じられると、近くの森の中の広場で手製のゴールを作って、密かに興じる。それがバレてしまうも、また違う手をあみだす。そこに資産家(PTA会長)の父親と息子の葛藤、貧しい工場労働者の息子と母親の軋轢が対比されるように盛り込まれ、退学騒ぎへと発展するも、それも解決といった風に進み、最終的にコッホ先生の英国の友人の先生が子どもたちを連れて来ての英独子ども対抗サッカー戦。親たち始め地域住民が手に汗握る場面で思わずこちらも興奮してしまうという具合である◆幾世紀をも跨ぐ英独の歴史的敵対関係に思いをはせつつ、日本のスポーツの運命を考えた。明治の初めに米国から伝わった野球をめぐっては、先の大戦時の障壁を乗り越えて、今では大リーガーとして最高位の立場に大谷翔平選手がつくまでの存在になった。ヨーロッパでの人気は野球よりも専らサッカーだが、米国はその逆である。ところが日本では、後発ながら野球もサッカーも、そしてラグビーもバスケットボールも、といった風におよそ世界中のスポーツをとりいれて、そこそこに戦っている。前述したように、私はかつて自民党一党支配の55年体制下の政治を野球に例え、それが崩れた政治改革の時代はサッカーのようなものだと見立てた。それが30年経って、「55年体制復活」と言われるような事態が、野球人気の高まりとともに起きてきた。さてさてこれからの推移やいかに。(2023-11-26 一部修正)

 

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【15】政敵より手ごわかった「認知症」━━『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』を観て/11-16

 英国史上初の女性首相だったマーガレット・サッチャー(1925-2013)は「鉄の女」と呼ばれたことはよく知られている。その命名の由来は、鉄のような強靭な意志を持つ反共産主義者ということで、ソ連の軍事ジャーナリストによるものだとされる。しかし、引退後の晩年は「認知症」に苦しんだことは日本ではあまり知られていない。少なくとも、大西洋を超えた最も近い同盟国のドナルド・レーガン米国大統領が、アルツハイマー型認知症に苦しんだ事実ほどには。ジョン・キャンベルによる伝記の映画化で、ほぼ事実に忠実に描かれているとのこと。イギリスという国柄を学び、英国議会の猛烈でリアルな論戦の実際を見る上でも大いなる刺激を受けたが、とりわけ人間サッチャーの生き方に強い感動を覚えた。〝ひ弱な日本の政治家〟にこの映画を観ることを勧めたいが、普通の市民にはむしろ「認知症」の何たるかを知るための格好の教材だという点が重要かもしれない◆彼女は食料雑貨店の娘からオックスフォード大経済学部を出て24歳での初出馬は落選したものの、その後弁護士を経て9年後に当選、政治家になった。首相に昇りつめるまでも困難をきわめたはずだが、映画はさらっと流す。むしろ、なってからの約10年間(1979-1990)の奮闘ぶりが見どころだ。IRA(アイルランド共和国軍)のテロ活動に手を焼き、低迷する経済を立て直す上での労働党との熾烈な戦いを続けながらも、サッチャリズムと呼称された新自由主義の旗を振り続けた。そんな首相像のなかで、とくに印象的なのはフォークランド紛争(対アルゼンチン)との取り組み。遠く離れた島(英連邦所属)での戦争に反対する米国国務相らに対して、彼女は米国が日本の真珠湾攻撃を受けた時と同じではないか、と愛国心をかきたてていた。この戦争に非難の火の手は世界中に沸き立ったものだが、毅然として、敢然と乗り切った彼女の姿勢は、文字通り〝鉄の女〟にふさわしい豪胆ぶりに映った。ただし、戦争で生命を失った兵士の遺族に対して、涙をうかべつつ国家への貢献を讃えるべく手紙を書くシーンは、さすがに胸を揺さぶった◆しかし、この映画最大の見どころは、引退後の認知症との闘いであろう。健常な時と異常をきたした時が映像上で入り乱れて次々と展開するのは観る方も混乱してしまう。私自身にも、誇大妄想狂に悩む家族(90代半ばの義母)がいるので、身につまされた。死んでそばにはいない夫や遠くにいる息子と勝手に話す場面や、会議に出かけて首相当時の発言を繰り返すところ(頭の中と現実との混濁)など、切ない。どんな人間でも陥る可能性があるとはいうものの、「鉄の女」と呼ばれたほど強固な意思を持っていた元首相の老後の惨めな姿は見るに忍びない◆サッチャーそっくりに(多分見える)メリル・ストリープの老若使い分けた演技力は見事だ。政治家人生の〝よき伴走役〟だった夫との日常的なふれあい、すれ違いを巧みに演じ、妻としての優しい心遣いを、認知症最中に遅れて垣間見せるのはいじらしいほど。彼女自身より10年早く亡くなった夫との〝幻影の交流〟は、いとしささえ。男女、立場の違いなど比較するべくもないが、20年の政治家を経験した私にも、去りゆきし過去における〝妻の献身〟がだぶってよみがえり、胸うずく思いになる。そんな中、この映画に挿入された一瞬の場面が忘れ難い。ケン・フォレットのスパイ小説『針の眼』をサッチャーが手にしていたのだ。彼女の首相就任(1979年)直後にブレイクした本だった。ページをめくる彼女に夫・デニスが「最後は女が男を殺す」とネタバレを。監督も芸が細かい。若き日に読んだ私が今なお最も興奮させられた本として第一に挙げたいものだけに、突然映像に出てきたのには、驚いた。あたかも亡くなった旧友が突然目の前に出てきたように懐かしかった。「サッチャー観」には賛否両論あるものの、ともあれ、いい映画だった。(2023-11-16)

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【14】主役の〝リアルな自殺〟と重なって━━『いまを生きる』を観て/11-6

 実に味わい深い青春映画だった。老人には、遠くに過ぎ去った若き日を思い出させ、いくばくかの悔恨とそれなりの満足を味合わせてくれるはず。そして若者には、これからの生き方に大いなる修正を迫るに違いないと思われる━━などといっても勿論受け止め方はそれぞれ違って当然。ただし、ここで登場するロビン・ウイリアムズ演じる教師ジョン・キーティングのような豪快無比でユニークな人には、まずお目にかからないだろうということはみんな思うに違いない◆時は1959年、舞台はアメリカ・バーモントにある全寮制の厳格極まる高校という設定。その学校を卒業したキーティングが新任教師として赴任するところから物語は始まる。この教師は「人生の真実は徹底して自らの自由な思索から見出すべし」を信念に持つ、独創的で自由奔放な教育の限りを尽くす。プリチャードの教科書『詩の理解』(架空の人物の作品)でのその部分のページを破り捨てろと、実地に要求して授業中に実施させるほど。彼自身が教壇の机の上に立ってみせ、皆にも自分の机に立たせることで、視点を変えることがいかに大切かを訴えるといった具合。ともかく全てが破天荒。そんな教師が高校時代に「死せる詩人の会」(Dead Poets Society)という私的詩読グループを作って秘密の洞窟に集まっていたことを知った高校生たちは、同じことを自分たちも真似るようになり、学校側や親との軋轢が広まっていく◆そんな中で、演劇に目覚める高校生と、医学を目指せと強要する父親との間で葛藤が起こり、最終的にその子は自殺を選んでしまう。そこから〝犯人探し〟が始まり、グループ一人ひとりへの追及へと波及していく。やがて彼らが抱える秘密が暴かれていき、教師・キーティングの責任が問われて、学校を追われることに。しかし、高校生たちの胸中には彼の熱い思いがしっかりと彼らの体内に根を下ろすに至っていた。替わるべき新しい教師が授業を担当するなか、荷物を取りに教室にきたキーティングと、高校生たちの無言での思いが交錯する場面が胸に迫る。代替の教師が驚きの表情を見せるのを横目に、ひとりまたひとりと机の上に立ち、親愛の思いと教師への深い継承の意思を表現してゆくのである。感動的だった◆この映画を観てごく平凡な我が青春を思い出す。まじめさだけが取り柄の受験高校の出来の悪い高校生だった。卒業してから何十年も経って、それなりに我が周りにもワルがあれこれいたし、彼らを上手く〝調教した〟異色のセンセイもいたことを知った。自分の預かり知らぬところで〝青春を乱舞〟した仲間たちがいたことに驚き、我が鈍感さに恥入った。自分は、ひと時代前の世代に馴染みの本を後生大事に読み漁る風を装っていたに過ぎなかった。勿論、この映画のような展開はないものの、それなりの青春まがいを演じていたつもりだったのだが。過ぎ去ってみれば何もかもが苦々しく甦ってくる。そんな思いを掻き立てさせる映画に心底痺れた◆後日談だが、主人公の教師役を演じた俳優の顔がついこの前に観た映画の主役と重なりながら、肝心の映画名がなかなか思い出せなかった。見終えて『グッドモーニング、ベトナム』(No5で紹介)だったと漸く思い出した。そして現実にウイリアムズが10年ほど前に鬱病から自殺をしていたことも知った。彼が歴代最高のコメディアンであり、日本好きで多くのファンがいることも、何もかも知らなかった。(この辺り、恥ずかしながら、世の中の普通の映画ファンからすれば異色な自分が昔から変わっていないことに気付く) 映画のなりゆきとの落差と、うつろいゆく現実の人生の残酷さに胸締めつけられる想いとが交錯した。やるせない思いが募るのは如何ともし難い。(2023-11-6)

 

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【13】天才と紙一重の能力持つ障害者━『レインマン』を観て/10-24

 知能指数それ自体は高く、時に驚異的な記憶力を発揮するものの、自分自身の感情をコントロールしたり、自己表現がうまくできないという、サヴァン症候群(アスペルガー症候群とは似て非なるもの)の患者が主人公。幼くして擁護施設に入ったまま歳月が過ぎ30代になって、父親が死んで初めて彼の弟が兄の存在を知るという設定。弟は自由奔放な利己的な青年で、生前の父とは没交渉の関係(原因は彼にある)にあり、その遺産は殆ど全て障害者の兄にあてられた遺書を知って愕然とする。一転、その遺産を自分のものにすべく、兄を拉致し、施設から遠く離れたロサンゼルスに連れていこうと画策する◆墜落の危険性を挙げて、飛行機に乗ることを兄が徹底的に拒否するため、飛行機なら3時間の距離を3日かけて車で移動する道中のてんやわんやを描くロードムービーでもある。兄をダスティン・ホフマン、弟をトム・クルーズが演じる。実話のモデルがいて、作家のバリー・モローが取材して脚本を書くことを決意したという。どんなに分厚い本でも一読しただけで覚える並外れた記憶力と、4桁の掛け算や平方根を瞬時に言い当てる能力は超人的。その一方で、人の話を理解して想像することはできず、いわゆる社会的常識には全く欠ける。こうした特性の披歴で、観るものは釘付けになってしまう。とりわけレストランで、爪楊枝1ケースがこぼれた瞬間にその本数を言い当てたり、ラスベガスのカジノで次々と数字の記憶力の威力を見せつけられ、驚きの連続◆他方、最初は遺産目当てで、自分も次男としてそれ相応のものを貰わねばと、裁判も辞さぬ姿勢で強気一辺倒だった弟だが、次第に兄への肉親の愛情に目覚めていく。この辺りの展開はそれなりに見せ場があるものの、今ひとつ胸にぐっとこない。別れの場面など伏線があっただけに、ひと工夫があるものと期待したのだが、肩透かしに終わってしまう。結局は、超能力の〝見せ物的側面〟のオンパレードで終わったように思われる。「レインマン」(雨男)というタイトルの由来も、説明が中途半端なままで落ち着かない◆昨今、私たちの身の回りに、知的障害や自閉症などの発達障害のあるこどもたちや大人が散見される。この映画の主人公のように、特別際立った能力ではなくとも、普通の人間を大きく上回るような才能を持ちながらも、日常生活に馴染まないことから差別やいじめの対象になってしまうのは忍びない。社会全体としてこういった発達障害への取り組みを考える必要があろう。この映画はあまりにも極端な才能の羅列に終わってしまっているようなのは残念だ。発達障害って意外に凄いじゃないってひっそりと思わせて欲しかった。というのが私の率直な感想である。(2023-10-24)

 

 

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【12】人間はひとりじや生きられない━━『最強のふたり』を観て/10-17

 首から下が全く麻痺して動かず、感じない━━という状態の人がこの映画の主人公。身体の不自由さを除けば、大金持ちであることがもたらす、あらゆる自由を持っている。そしてその彼を〝あらゆる面で支える〟人がもう一人の主人公。彼は身体は屈強そのものだが、経済的にも、家庭環境的にもあらゆる意味で貧しい。フランス人とアフリカ系黒人。見終えて確かに〝最強の〟という形容詞はこの二人にとってとても相応しい。二人合わせて最強なのだが。この映画はどんな人間でも一人では生きられないということを示唆していて、素朴に助け合うことの大事さを訴えているように私には思われる◆この映画は実話に基づく。1993年の事故ののちに、2001年に出版された本が原作だ。パラグライダーの事故で頚椎損傷になったフランス人大富豪(フィリップ)と、介護人として雇われた貧困層出身の移民・アルジェリア人(アブデル)。この2人の演じる笑いと涙のコメディになっているのだが、泣いて笑ってその後にズシンと重くて深いテーマが迫ってくる。私は、最近歳のせいかなみだもろくなって、何を見ても聞いても、泣いてしまう。そして、すべて笑いでごまかしたい気になる。この映画はそこらの機微を見事に捉えている◆フィリップが足の上に熱湯がかかっても反応しない場面に、つい体をよじったり、特製の手袋を渡されて〝下の世話〟を迫られるシーンには、つい実写を見たくなったり(現実はそれはなし)してしまった。また、フィリップが、恋文を書いてるのを見て、余計なお節介をしたあげくに、デートを設定するアブデル。それを土壇場になって逃げるフィリップに同情したり、と。逆にグライダーに乗ろうと迫られて逃げようとするアブデルと、それを笑いながらサポーターつきで空を飛ぶフィリップに同調してみたり、と。あれこれ現代世界が抱える問題が顔を出しつつ、起伏に富んだ展開は胸を打つ◆実はつい先日、私の親しい友人・蔭山照夫さん(83)と会って懇談した。この人の息子さん(武史さん)は、難病・筋ジストロフィーのため、若くして寝たきり状態になったが、40歳台半ばで先年亡くなるまで、パソコンをベッドの上で仰向けのまま、センサーを通じて動かし、その意志を家族に友人に伝え続けた。子どものころに書いた『難病飛行』と言う本が原作となって、このほど映画が完成し、神戸の映画館での上映が終わったばかりだ。この映画の試写会の模様は「後の祭り回想記」112に書いた。武史さんの「不自由だが、不幸ではない」との言葉と、彼を支えた両親や実姉(広田由紀さん)、音楽演奏家の「ちめいど」ら友人たちの献身ぶりが、映画『最強のふたり』を見て、あらためて思い出された。人間は、支え合って強くなるという当たり前のことと共に。(2023-10-17)

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【11】知的障害の父親の果てしなき愛━━『アイアム サム』を観て/10-11

この映画は、知的障害を持つ(7歳ぐらい)男性が子どもを育てることができるか、というテーマ。この映画では母親は出産とともに消えてしまい、悪戦苦闘しながら父親は頑張る。子どもの年齢に追い抜かれて、問題は深刻に。現実には、起こりそうな設定だが、育てるのはまず上手くいかないと思われる。それをやってしまう過程が、何とも言えず感動的に描かれており、惹き込まれた◆この映画の魅力は、サムを演じたショーン・ペンの演技力だ。障害を持つ人びとのしぐさを徹底して学び、それらしく振る舞う。われわれの身の回りにいる障害者とまったく同じに見え、およそ演技によって培われたものとは思えない。また、4人ほどのサムの友人たちも登場するが、見事なまでの障害者ぶりだ◆見どころは、当初は関わりを避けていた女性弁護士の変身。愛が冷え切った彼女自身の家庭との対比は鮮やかである。裁判の成り行きは、障がいのある実父に育てられるのが子どもにとって良いのか。それとも里親のところに預けられ、時々会うのが良いのかといった二者択一で進む。正解はいずれとも言えず、切なさが募るばかりである◆知的障害者をめぐる映画といえば、先にトム・ハンクスの『フォレスト・ガンプ/一期一会』を観た。こっちは知的障害というものの、いつの日かランニングの名手になり、ラグビー始め各種のスポーツで名を馳せるという、いささか夢物語っぽいものだった。サムの方は母親不在で父親の献身的愛が印象的だが、こっちは父親不在、母親の不滅の愛が胸に迫る。どっちも長く忘れられない。(2023-10-24一部修正 障がい→障害と記述)

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【10】本にも映画にもなじまぬ?「辞書作り」──『舟を編む』を観て/9-25

 

 いい映画は原作の小説もいいとは必ずしも言えない。が、あまりパッとしない小説は、映画もやっぱり良くないとは言えそう。この場合の良い、悪い、パッとするしないは、本人の主観だから、まあそうだろうと思う。三浦しをんの小説『舟を編む』は、かつて読んだときに、退屈だったというのが実感だった。畏友・井上義久(元公明党幹事長)が何かのコラムで随分褒めていたので、自分の見方に偏見があったかと思い改め、映画(監督・石井裕也)を観た。しかし、大筋私の印象は変わらず、やはり退屈な代物だった◆ただし、主役の松田龍平、宮崎あおいなどの俳優個人への興味はあったし、辞書を作るという作業の重みはそれなりに、いやそれ以上に感じられた。松田龍平を初めて映画で観たのは大島渚の『御法度』だった。新選組における男色という禁断の世界を描いたもので、映画そのものはあまり出来がいいとは思えなかったが、松田のクールな雰囲気だけはかなりインパクトが強かった。土方歳三役のビートたけしよりも遥かに。喜怒哀楽を殆ど出さぬ表情は特異なもので、『大渡海』なる辞書作りに青春を賭ける役どころははまっていた◆一方、宮崎あおいといえば、かの徳川末期から明治維新の激動期を描き名作との誉れ高かったNHK大河ドラマ『篤姫』を観て以来である。2008年22歳という史上最年少の若きヒロインが、この映画に登場したのは5年後。松田に合わせたような抑え気味の演技は妙に存在感があった。その彼女は今ほぼエンディングに入っている朝ドラの『らんまん』のナレーター、舞台回し役として、さらに10年後の37歳の今に姿を現したうえ、主人公・万太郎の祖母役と孫の二役の松坂慶子と、ダブル二役のご対面があったばかり。円熟味を増しきった先輩とこれからの後輩の共演は違う意味で見応えがあった◆辞書を作る作業は想像を絶する困難を伴うことは、新聞、雑誌作りにそれなりに関わった経歴を持つ私にはよく分かる。膨大な材料を文字通り「編む」作業は、一字一句たりとも間違いは許されない。そういう行為を10数年かけてやり遂げるという設定は、あだやおろそかには出来ない困難な営みだろう。ついこのほどたかだか70ページ足らずの小冊子『新たなる77年の興亡』を出版したばかりの私だが、その文章校正は「しんどかった」。書くも涙、語るもなみだの本作りであった。だが、本来はあれも、これも地味なしごと。それを活字で表現したり、映像で描写しようというのは、やっぱり面白いものではなく、「馴染まない」というのが私の結論である。(2023-9-28  一部修正)

 

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