繰り返しの無意味さを指摘する文脈で、「お題目のように無意味なことを繰り返す」云々という表現を、私たちは時々目にすることがあります。こうしたことに出くわすたびに、私はなぜ、名目、主題だけを繰り返すことに、宗教批判まで加えるのかと疑問を抱きます。お題目が意味がなく、無価値であるってどうして断定出来るのか、との素朴だけど重要な疑問です。
かくいう私もお題目を唱えることへの違和感がなかったか、と言いますと、当然ありました。紙に書かれた文字を見つめて、口に南無妙法蓮華経と唱えることを繰り返して、どうして人は成仏でき、幸福になれるのかとの疑問をずっと抱いてきました。かつて先輩に会うたびに、この根本的疑問を突きつけて、その人の答え方を聞き出そうと迫ったものです。
この世における究極の最高の実体を、具現化したもの(御本尊)に対して、身も心も尊敬の念を抱きつつ南無妙法蓮華経と繰り返すことで、自らの体内に宿る尊極の生命状態が湧き出てくる、というのが行き着いた答えの決定版です。信仰生活の中で感得し、体得出来ました。簡単に言ってしまえば、最高のものに縁することで、同等のものが自らの五体から出てくるという原理です。その原理は、主体と環境の関係でいい表せます。
宗教といえば、頼る、すがるイメージ。つまり、自立ではなく、他者依存の傾向が強いものとして、位置付ける向きが多いと思われます。私もそう捉えていました。しかし、日蓮仏法を知って、それは全く違うことに気付きました。自己に内在する最高究極の仏界の生命状態を、仏界を具現化したものとしての御本尊を前に(縁すること)おいて唱題することで、内より引き出すことは、いわゆる他者依存ではないということを自覚したのです。しかもその祈りは、「誓願」を本旨とします。誓いと願いの一体化です。誓いの意思あるところに、願いの成就ありと言えるのです。日蓮大聖人は「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり」(日女御前御返事1244頁)と述べています。ここで言われている「仏」とは、いわゆる最高無上の人格との位置付けよりも、生命力に満ちたパワフルな人との捉え方を私はしています。(2019-1-15)