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(18)便器の中が真っ赤になった日のことー「生老病」の旅路の果てに❹

◉赤ワインがそのままでたと勘違い

いやあ、あの日のことは忘れがたい。毎夜毎夜アルコールを飲む機会が多く、その日もしこたま赤ワインを戴いて、宿舎に帰りました。で、尿意を催したので、トイレへ。そこの便器は大小兼用のもので、元気よく立ったままでいたしました。すると、もう真っ赤な色の液体が便器の下部分いっぱいに。驚きました。一瞬、ん、さっきのワインがそのまんま出たなあって思ったのです。笑い事じゃあありません。本当にそう思ったのです。ですが、酔眼朦朧状態の頭でも、その誤りに気づかないわけはなく、血尿だとやがて分かりました。

血の小便が出るくらい苦しみ悩んだとか、勉強をしたとか、物の本やら、人づての話に聞いたことはないわけじゃあありませんが、自分の泌尿器から排出されるとは思いませんでした。翌日、慌てて近所の病院に行ってかかりつけ医に診てもらいました。右の背中の腰部分のやや上のところー腎臓部をレントゲン写真を撮るなどの検査の結果、腎臓結石であるとの見立てでした。

その時より二十年ほど前のこと。同じ部分が痛くなったことがあり、以後数回同じような症状でしたが、いずれの時も、水分を余計に取って、身体を揺らせば大丈夫との素人治療法でいづれも事なきを得たものです。ある時などは、ビールを飲んで縄跳びをしろっていう人がいて、その通りやると、見事に小さくて可愛い石が先端部からぽろんと落ちてきたことがありました。しかし、今回ばかりはそういうわけにも参らず、入院手術ということになってしまいました。かかりつけ医の指示で、虎ノ門病院に行き、入院ということになってしまったのです。

◉ファイバーをペニスの先に入れ、出すときの痛さ

この時の腎臓結石の手術は、いわゆる切除を伴う外科手術ではなく、外側から強力な力を加えて体内にある石を破砕するというものでした。これは上手くいくとどうということはないのですが、下手をすると、破砕された石の一部が尿管に止まったりすると、激痛を伴います。知人から、尿管結石でまさに死ぬ思いの痛さを感じたとの話を聞いていて、怯えもしました。ただ、この手術自体は全く痛くなくて済んだのですが、尿管を通って石が体外に出やすくするため、ファイバーをペニスの先から体内に通す作業と、それをまた数日経って外す時の痛みは結構厳しいものがありました。そして入れてる間の小便時も、まるで絞り出すようで。

腎臓結石はなりやすい体質の人間がいて、私などその代表のようです。今も時々腎臓が痛みを感じるときがあります。この手術を担当してくれた(実際には総括)のが、同病院で泌尿器科部長だった小松秀樹医師です。この人にはその時点で『慈恵医大青戸病院事件』という著書があることを、私は知っていました。病院における医療手術の成否に対して警察が介入してくることの問題点を追及した本です。私は自分の手術の面倒を診てもらったことをきっかけにして大変親しくなりました。しばらくして、私のかつての古巣の公明新聞社の理論誌『公明』誌上で対談をすることにもなりました。懐かしい思い出です。

ただ、小松秀樹先生はその後、日本の医療の現状にかなり過激な姿勢をしめされるようになり、厚生労働省的には敬遠する向きが強くて、なんとなく私とも疎遠になってしまいました。『医療崩壊』なる書物を朝日新聞からだされたり、千葉にある亀田総合病院の副院長になられたりしましたが、なにかと同病院内でトラブルがあって、裁判沙汰にまで発展してしまったと聞いています。腎臓結石で痛み出すと、決まって小松先生を思い出すのも妙なご縁ではあります。(2020-5-25  公開)

 

 

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(17)腰から足へ。不愉快な痛みの主役交代ー「生老病」の旅路の果てに❸

☆38年間悩み抜いた腰痛、そして決別のとき

今を去る50年あまり前のこと。私は公明新聞政治部に配属になり、自分の机を始めていただいた。入社して三ヶ月ほどが経っていた。それまでは決まった席はなく、流浪の旅人のようだった。ようやくスチール製の立派な机をあてがわれ、少しその位置を変える必要に迫られた。よせばいいのに、ひとりで持ち上げ定位置に移動させようとした。その瞬間、グキッと腰に来た。魔女の一撃。ぎっくり腰である。堪らぬ痛さで、地下の休憩室に横たわらせて貰った。さあ、それからが大変。ありとあらゆる治療を試みたが、基本的には腰痛が常態となり、全治せぬまま、以来38年間というもの、恒常的な腰痛持ちになってしまったのである。

腰痛の痛みは、私の場合まず朝起きた時に来るのが常だった。ズーンとおも〜い感じが腰一体に漂い、不快そのものの目覚めは思い出すだに辛い。整形外科、鍼灸治療などを続け、7〜8割は治ったかに見えて、根治せぬまま月日が経った。20歳台から50歳台の働き盛りを腰痛とともに過ごしたのである。少しの時間立ち続けたり、歩いたりすると、たちどころに辛くなって、椅子に座って休むことを余儀なくされることが多かった。

そんな私が60歳の節目を迎えて、あることをきっかけに全く痛みがなくなった。不思議なことである。今に至るまで、つまりほぼ15年ほど腰の痛みはない。朝もスッキリ起きられるーそれ以外の理由で寝覚の悪いことはあるが。その理由は二つ。一つは、のちに語ることになるが、10キロほど痩せたこと。もう一つは、カイロプラクテイックとの出会いである。

後者は、厳密に言うと、日本カイロプラクターズ協会の最高幹部の治療を受ける幸運に恵まれたことが全てだ。詳しくは、Kindle版『腰痛にはカイロが一番』に書いたので、参照していただければ幸いである。要するに私にはカイロ治療が見事な効き目を発揮した。それがあって、その後、同協会の名誉会長をお引き受けしている。この10年あまりというもの、時々腰のメンテナンスにカイロ治療をしている。

このため、腰痛に悩む人には、一に痩せること、二にカイロ、そして三にはストレッチ体操、と言ってきている。この三つのどれが欠けても上手くないように思われる。このように腰の痛みと決別できたあたりで、今度は足の方に妙な痛みが出てきてしまった。

☆痛風、水虫そして‥‥

イタリアからローマへの旅の途上でのこと。突然右足親指付け根の異常な痛みに襲われた。尿酸値が高い。痛風である。それからの顛末は、私のHP回顧録『日常的奇跡の軌跡』に詳しく書いたので、参照していただければ幸いである。ただ、今に至るまで、再発は全くない。恐らく、あの症状の前にかなり、ワインを飲みアルコール類を飲むに任せたことが原因だろうと思われる。知人に、若き日より老年に至るまで、痛風薬を飲み続けている人がいるから、私の場合は幸せだと思うしかない。

ついで、水虫に悩まされた。熱心に治療をせぬまま、放置していると、数本の指の爪先が変形をきたしてきた。そうなってからあれこれ、あちこちの病院で治療をしたものの、芳しい結果は得られない。夏に裸足の人を見て、きれいな爪を見ると羨ましい。今では左足の指先一本だけだが、お化け爪になっており、治らない。先頃、ある著名な作家の本を読んでいて、一日の終わりに足の指を手で擦り、その日の労をねぎらっているとの記述を読んだ。彼は一本ずつ指に名前をつけてさえいるという。なるほど、えらいもんだと心底から思う。

加えて、足の指先にゴワゴワ、ザラザラ感がある。今から7-8年ほど前、姫路城周辺のウオーキング、ランニング中に、靴に砂が入っているのでは、と思うので靴を脱いだ。なんともない。思えばそれがきっかけだった。あれから病状はじわじわと進捗し、今では冬は異常に冷たさがあり、寝る時には足湯をしたり、コタツや暖かくなる貼り薬風のものが欠かせない。夏は逆に、異常に暑さを感じる。少し歩くだけで異常な火照りを感じるのである。水で冷やすことが欠かせない。時には、缶ビールをあてがうことも。缶ビールの缶の効用は飲むだけではないことを今頃になってわかり、苦笑するしかない。

内科から始まって、神経内科、外科、整形外科とあらゆる病院に通い、医師の診断を仰いだ。血液検査、血流検査全て結果に異常は現れない。漢方医に行き、漢方薬を飲み、鍼治療も耳にして貰ったが、効き目は全くない。もはや、痛みを感じ、違和感があるのは生きてる証拠と諦めているのが現状である。医師から「西洋医学の限界かもしれません」と言われ、「治ったら、ぜひ教えて欲しい」と囁かれた。漢方医から「お役に立てず申し訳ない」とも言われた。さて、どうするか。そのうち新たな顛末記を披露したい。(2020-5-15)

 

 

 

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