Monthly Archives: 6月 2021

【11】仏法を根底にした慈悲の政治ー小説『新・人間革命』第3巻「月氏」の章から考える/6-12

●アショーカ大王の石柱の前での語らい

香港からシンガポール、セイロンを経て、1月31日に一行はインドに入ります。2月1日にはデリーのラージ・ガートに。マハトマ・ガンジーの記念碑前で、お題目を三唱した後に、伸一は深い感慨に包まれました。そして112頁から122頁まで10頁にわたって、「ガンジーの休みなき戦い」に触れられています。ガンジーと戸田先生に共通する戦いについて述べたあと、伸一は「歴史上、誰もやったことがない。やろうともしなかった。その広宣流布の道を行くことは、ガンジーの精神を継承することにもなるはず」と強調されているのです。強いインパクトをうけます。

その後のアショーカ大王の法勅を刻んだ石柱の前での語らいは、122頁から20頁に及び、極めて重要な中身を含んでいると思われます。そのテーマは、「仏法を根底にした慈悲の政治とはどういうものか」ということです。

「仏法の慈悲を理念とするなら、多くの新しい着眼点が見出され、新しい政策が創造されるはず」として、伸一は、①社会的に弱い立場の人を守ろうとすること②一人ひとりの生活を豊かにする人間優先の政策③生命の尊厳を守り、確かな平和を実現すること④人類益の探求という発想を確立していくことーなどを目標に挙げています。これらが、その後4年ほど経って公明党の理念と政策の中に取り入れられていったのです。(125頁)

結党(昭和39年、1964年)から30年余。自民党政治の改革を外から試みることの困難さを味わった公明党は、21世紀に入って直ぐ自民党からの要請を受けて、連立政治に参画し、内側からの改革に着手することに方針を転換しました。いらい20年余が経ちます。この間、様々な紆余曲折がありましたが、仏法の慈悲を根底におく政治に執心してきたことはいうまでもありません。ただ、未だ改革の道は終わらず、途上にあるのです。与党にあっても、原点を忘れずに初心貫徹に邁進していくことにどこまでも期待したいと思います。

その際に、連立政治の組合せ相手を、未来永劫変わらず固定して考えてはならないと思います。自民党が公明党の原点に照らして不都合な存在であるなら、変えていくことも辞せず、です。手を替え品を替えてでも、国民大衆のための政治を実現するのが公明党の本旨のはずだからです。民主主義の政治の基本のひとつは、政権交代が可能かどうかにあります。公明党のスタートにはその実現に熱い思いがあったことを私は忘れません。(2021-6-12)

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【10】香港の現在とこれからに注目ー小説『新・人間革命』第3巻「仏法西遷」の章から考える/6-7

●一国二制度の香港の動向を固唾を呑んで見守る

山本伸一は、昭和36年1月28日から2月14日までの18日間、香港(当時イギリス領)、セイロン(現在のスリランカ)、インド、ビルマ(現在のミャンマー)、タイ、カンボジアの五カ国一地域の訪問に出発します。この旅の目的は、「日蓮大聖人の御予言である、〝仏法西還〟の第一歩を印し、東洋の幸福と恒久平和への道を開くことにあった」とされています。

日蓮大聖人は、「月は西より東に向かへり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり」(御書588頁)と諫暁八幡抄で述べられています。これは、釈尊の仏法がインドから東へ流れ、日蓮大聖人の仏法がインドに還るという兆しだとの趣旨です。「戸田城聖は、その御聖訓の実現を、創価学会の使命として、伸一を始めとする青年たちに託した。もしも、創価学会がなければ、この仏法西還の御本仏の御予言も、虚妄なってしまったにちがいない」と述べられています。(29頁〜30頁)

この旅を第一歩として、香港への伸一の足跡は、4度ほどを数えます。大乗仏教が今の中国から朝鮮半島を経て日本に伝来したのは6世紀半ばのことです。それから西還の動きは、千数百年を経た21世紀の今、創価学会の出現と闘いによって現実のものとなってきています。ただ、厳密に言えば、現代中国と宗教の関係は不確かな側面が強く、日蓮仏法も広く民衆の受け入れるものとはなってはいません。その意味では、歴史的に見て中国から英国領へと支配国家の移転に伴う香港での広布の状況は象徴的意味合いがあるものと思われます。

今、「一国二制度」の地域としての香港は、中国との関係が注目されています。民主化の存続を求める自由香港の動向がどうなっていくのか。「宗教の自由」が損なわれるようなことがないように、ひたすら固唾を呑みつつ見守っています。

●「永遠の生命」をどう捉えるか

この章で私が注目したのは、「生命が永遠であると聞きましたが、人は死んだあと、どうなるのでしょうか」との一婦人の質問に、伸一が8頁にわたってやさしく丁寧に答えているところです。

56年前に入会するに際して持っていた私の問題意識は、「人間はなぜ根本的に不平等なのか」というものでした。社会体制を変えたところで、一人ひとりの人間の持つ宿命的なる要素は変わらないということに尽きます。伸一は、「宿命が、どこから生じたのかを、徹底して突き詰めて行くならば、どうしても、今世だけで解決することはできない。生命が永遠であるという観点に立たざるをえません」ーこう述べています。(63頁)

〝この観点に立つしかない〟ー死後の世界は誰しも経験出来ないものである限り、62頁から70頁までの伸一の説明のエッセンスとしての、この言葉が全てを物語っていると思います。その観点に立って、私自身は生き抜き、根本的なところでの人生の不平等感からの脱却を果たし、宿命は必ず転換出来ると感得することができました。

その上で、75歳になった私が今感じることは、死に別れた父母や弟らから、尊敬する数多の先輩、友人たちまでのあの人、この人との〝再会への渇望〟です。「会いたい」「話したい」との思いが募り、夢で逢うこともしばしば。その都度、「永遠の生命」の観点からの捉え方として、これでいいのだろうか、と自問します。若き日に思い描いた「悟りへの欲求」と食い違っていないか、と。(2021-6-7)

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【9】生命の根本法は全てを包含するー『新・人間革命』第2巻「民衆の旗」の章から考える/6-2

●内なる生命の至極の法とは

昭和35年11月27日に、第2回学生祭が日比谷公会堂で開かれました。学生部の雑誌『第三文明』の発刊が実現した直後、ここでは演劇『三国志』が上演されました。「戸田先生亡きあと世界広布の大業に続こうとする後継の決意みなぎっていた」もので、伸一は「確かな手応えを覚えた」のです。

その際の講演で、山本伸一は「あらゆる思想、哲学も、南無妙法蓮華経という生命の究極の『一法』、すなわち大聖人の仏法に立脚してこそ、真の人間の幸福を実現しゆくものとして開花するのであります」「真実の人間復興、文芸復興を進めていくには、人間を開花させる、内なる生命の至極の法を求めてゆくことが不可欠です」と語る一方「南無妙法蓮華経とは生命の根本法であり(中略)、いっさいの思想家、哲学者の説いた哲理というものは、いわばその一部分を示しているにすぎない」(296~299頁)と、真の宗教と思想、哲学との関係を述べています。

私が座談会で折伏を受けた昭和40年(1965年)頃、世の中は政治的にも思想的にも左右の激突で、「資本主義対社会主義」の二極対立の様相を呈していました。「民衆の旗」に描かれる舞台の5年後になります。私は大学に入ったら、一生持するに足りうる思想、哲学を身につけよう、そのためにあらゆるものを学ぼうと心に決めていました。そこへ、真っ先に生命の根本法を説く日蓮仏法が目の前に現れたのです。以来56年。紆余曲折を経ながら、御本尊を拝み(信)、友人、知人を折伏し(行)、仏法哲学を学ぶ(学)という、創価学会活動に邁進してきました。

●思想、哲学をリードする真の宗教とは

哲学、思想、宗教ーこの関係をどう捉えるか。哲学は、人文科学の中に学問として位置付けられています。一方、思想は「文化」の範疇、宗教は「文明」の次元のものというのが私の把握の仕方です。一般的には宗教=非科学的なものと決めつける傾向が強く、哲学的側面からの分析に不慣れな向きが多いようです。創価学会も数多の誤解を受けてきています。

欧米先進国の間では、昔から今に至るまで良しにつけ悪しきにつけ、キリスト教という宗教を軸に政治も社会も動いています。中近東・アラブ世界からアジアにおけるイスラム教も同様です。そこへ行くと、日本は宗教の位置付けが違っています。冒頭での山本伸一の指摘する宗教と思想・哲学の関係は一般的には理解されにくい環境にあったと思われます。

半世紀ほどが経ち、時代は無思想の風潮、支配的哲学なき時代と言われて久しいものがあります。今に生きる人々を惹きつけるに足る思想・哲学が見当たらないというのです。日蓮仏法の哲学性、創価思想の卓抜さに傾倒するに至ったものからすれば、自家に伝わる「伝家の宝刀」の存在を忘れて嘆く人々を見るようで、もどかしい限りです。

今、SGIの飛躍的展開と共に、その哲学性、思想性が注目されるようになりました。「世界宗教」としての存在が脚光を浴び、漸く本来の価値に人々が気づくようになってきたのです。(2021-6-2)

(2021-6-2)

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