【12】釈尊の教えと現代に至る展開ー小説『新・人間革命』第3巻「仏陀」の章から考える/6-17

●時間と人の意識の有無

伸一は埋納の儀式ののちに、釈尊が悟りを得たとされる場所から、修行をした前正覚山といわれる山を望みつつ、その生涯に思いを馳せたのです。165頁から250頁まで、この章全てをあて、その歴史に触れられています。そのうち、悟りを得た時の釈尊の初めて味わう境地について、以下のように説かれています。

ー大宇宙も、時々刻々と、変化と生成のリズムを刻んでいる。人間もまた同じである。幼き人も、いつかは老い、やがて死に、また生まれる。いな社会も、自然も、ひとときとして静止していることはない。(182頁)

このくだりを読み、時々刻々に刻まれる「時」を人が意識しないのは、いつなんだろうかと、考えたくなります。日常的には、①寝ているとき②我を忘れて何かに熱中しているときの二つ。眠りから覚めて時を意識し、熱中していたものから我を取り戻して、時間の経過に気づきます。一方、人生という長いスパンでいえば、③生まれてからしばらくの幼児の頃④死ぬ間際の意識不明の状態の時の二つでしょうか。赤ん坊や幼児の姿を見て、あの頃は何も考えてなかったなあと思い起こし、年老いて意識が混濁している状態の人を見て、人生の終焉に思いが及びます。

以上の場面のうち、①②③では、あたかも時が静止しているように思われます。今私は自身が後期高齢者になって、眠るという行為や、ものごとに熱中することに幸福感を求める自分に改めて気づきます。また、赤ん坊や幼児の姿に限りない希望と人の生命の奥深さを感じます。④のような、死ぬ経験だけは未だしていないために、その意識不明状態のなんたるかを語れませんが、案外大したことはないのかしれないと思うのです。

「ひとときも静止していることはない」時。それに、「時よ止まれ」と詮ない声をかけたくなり、時の「静止」に憧れ続ける人間。「ねむる」「熱中する」という「無意識」「化死状態」が、むしろ生の前進を支え、未来を約束する。その存在のパラドックス(逆説)に、この世とあの世を橋渡しする、悟りに通じる鍵が潜んでいるのだろうと考えるのです。

●厳格な戒律と単純明快な教えと

「当時のインドでは、苦行など禁欲主義を尊ぶ伝統があり、修行者には、厳格な生活の規律が重んじられていた」(228頁)という状況が語られたあと、「釈尊の教えの根本は、何ものにも紛動されない自分をつくることであり、戒律はあくまでそれを助けるものに過ぎない。釈尊には、厳格な戒律で人を縛るという発想はなかった」(229頁)と述べられています。

釈尊の悟りに端を発した仏教は、これより先、「八万法蔵」といわれるようにありとあらゆる教えに、細分化されていきます。「なにものにも紛動されない自分をつくる」ための方策が、当の釈尊の教えの中にそれこそ数多存在しており、後の仏弟子たちの「宗派選択」に、現代人をして「紛動」させるのです。厳格な戒律で人を縛るものから、限りなく自由なものまで、同じ仏教といっても千差万別です。それを見事なまでに整理し、現代人に適合したかたちで、日常生活に取り入れられるように、表現していかれたのが日蓮大聖人なのです。(2021-6-17)

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