Monthly Archives: 8月 2021

【27】「楽土の沖縄」へ思い新たにー小説『新・人間革命』第6巻「若鷲」の章から考える/8-31

◆「戦場に消えた住民」に見る沖縄の悲劇

昭和37年7月16日。山本伸一は学生部の代表たちとの懇談の場で、御書講義の開始を始め、学生部旗や学生部歌の制作など、根本的な方向性を示します。部員1万人の達成も実現し、大いなる船出の時期を迎えた学生部に、渾身の力を込めて育成に取り組む姿が描かれていきます。

翌17日には、沖縄に飛び、沖縄本部完成の落成式に臨みました。幹部任命式のあと、屋上にあがり、場外で立ち去りかねていた多くの人を前に、演壇から語りかけました。(316頁)

「沖縄はあの太平洋戦争で、本土防衛の捨て石にされ、多くの方々が犠牲になられた。しかし、創価学会の広宣流布の戦いには、誰人たりとも、またひとりたりとも犠牲はありません。すべての人が、最後は必ず幸福になられるのが、日蓮大聖人の仏法です」

伸一の沖縄訪問はこれが三回目。この後も、しばしば沖縄を訪れ、激励を展開しています。「沖縄の悲劇を、深く深く命に刻み、恩師の平和思想実現のために、広宣流布の大空に雄飛しようとしていた」のです。

「沖縄の悲劇」についてこの夏、私は改めて深い衝撃を受けました。NHKBS1テレビでの『戦場に消えた住民〜沖縄戦知られざる従軍記録〜』(8月23日放映)がそれです。この映像では戦闘要員ではない、普通の住民が、炊事婦や看護要員として、ある日突然に連れ去られる様子とその後の行方を克明に追っています。未公開資料を取り入れ、実在する当時の少年の証言をもとに、消えた母の足跡を辿り、遂にその最期の場所を突き止めるのです。明るいタッチのイラストが却って悲劇性を高めるようで、胸打たれずにはおきませんでした。

あの沖縄の悲劇をもたらしたアジア・太平洋戦争の終幕から、明年で77年を迎えます。この歳月は、日本が近代化の幕を明けた「明治維新」から、敗戦に至った昭和20年までの77年とちょうど重なります。亡国の時から今日まで、日本は懸命に復興をめざし、経済大国となり米国と肩を並べるまでになりました。しかし、その内実は、実りある豊かなものであるのかどうか。今に生きる日本人はもう一度原点に立ち返って、精神の復興、文明の飛翔に向けて、体勢を整える時だと思います。

伸一の「楽しく、愉快に、幸せを満喫しながら、この沖縄を楽土に転じていこう」との叫びが耳に響き、胸にこだまします。明年から「今再び」の思いを込め、新たな旅立ちを始めよう、と。

◆『第三文明』にまつわる思い出の一文

この章の圧巻は、学生部の代表に対して伸一が「御義口伝講義」を始めるところです。昭和37年8月31日、第一回の講義の模様が詳細に語られていきます。このくだりが現実に聖教新聞紙上に登場するのは、1997年春のことですが、私が入会したばかりの1960年代半ばの頃は、学生部の先輩から、しばしばそのやりとりの一部を聞いていました。ここでは、学生部長の渡吾郎の他に、田原薫、増山久、臼田昭、上野雅也ら4人のことに触れられています。皆私が直接お世話になった大先輩で、憧れていた人たちばかりです。このうちの一人が、「私たちが文章を書くことも、経と考えていいか」と、質問をします。(333頁〜370頁)

伸一は、これを肯定したうえで、「思想も、哲学も、理念も、文によって表現される。言論は広宣流布の生命線といえる」と、強調し、この当時、学生部の理論誌『第三文明』の編集に携わっていたその学生を「言論界の王者に」と激励しています。(352頁)

実は私も学生部時代に、『第三文明』に一度だけですが、寄稿したことがあります。昭和47年4月号に掲載されました。「緊急課題となった日中国交回復」のタイトルで、「もはや、政府の決断には期待がもてない 今こそ国交正常化に向けての国民運動を」との添書き付きです。当時の私は、公明新聞政治部の新米記者でした。赤木公正というペンネームで、4頁にわたって、ああだ、こうだと拙論を展開しています。今読み返すと恥ずかしい限りですが、意気軒高に佐藤栄作首相の対中政策を批判しています。

今私は、思想、哲学の分野で、二陣、三陣と創価学会の理念を世に宣揚する俊英たちが登場することをこいねがっています。キラ星の如き人材たちがいるはずですから、そろそろ表舞台に登場して欲しい、と。(2021-8-31)

 

 

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【26】中道政治と対立軸ー小説『新・人間革命』第6巻「波浪」の章から考える/8-27

◆イデオロギーにとらわれず是々非々で

昭和37年6月7日第六回参議院選挙が公示され、公政連(公明政治連盟の略称)推薦の9人が立候補し、選挙戦が始まります。支援の原動力になった婦人たちが、現場で訊かれて困惑したのが、公政連は「保守か、革新か」の問題でした。山本伸一は、次のように述べています。

「公政連は、保守や革新といった従来の判別には収まりきらない、中道をめざす政治団体です。この中道というのは、中間ということではありません。従来の資本主義、あるいは社会主義といったイデオロギーにとらわれることなく、国民の幸福と世界の平和を、どこまでも基本にして、是々非々を貫く在り方といえます」(262頁)

公明党の前身、公政連が世に出て60年。時代の流れの中で、政治の対立軸としての「保守」「革新」の仕分けが、変化てきました。ソ連の崩壊と共に、社会主義イデオロギーが後衛に退き、「革新」に替わって「リベラル」という、〝より穏健な革新〟とでも定義付けられる対立軸が浮上してきました。1990年代のことですから、ほぼ30年前になります。今は一般的には「保守対リベラル」といった枠組みで語られることが普通になっています。

では、「保守」は不動かといえば、「真正保守」なる立場を強調する人々がいます。「中道」についても、公明党以外にも看板にかけずとも「中道右派」、「中道左派」と自称、他称する向きがあります。公明党が自民党と連立与党を組んで20年余。「保守中道」と呼ばれることもあったりする一方、リベラル色は公明党こそ強いと見る傾向もあるなど、いささか曖昧模糊の様相を示して、政治評論の現場は混乱していると言わざるをえません。

改めて、中道とは、「イデオロギーにとらわれずに、是々非々を貫く」政治スタンスであるとの〝原点〟に立ち返って、見極める必要があろうかと、思われます。

◆労組の宗教への無知、無関心が元凶

この当時、各政党が、創価学会をどのように見ていたかについて、朝日新聞の昭和37年7月4日付け夕刊の「参院の第三勢力、創価学会」と題する記事が、引用されています。

「自民党は創価学会が将来、自民党に対抗してくるような政治勢力にまで成長するものとは見ていない。(中略)しかし、社会党や共産党の場合は保守党の場合より深刻のようだ。かつて北海道の炭労組織が創価学会に食荒らされたことは、いまなお革新政党幹部の記憶に生々しい」(277~278頁)

この記事は、いわゆる革新勢力の退潮が創価学会の興隆と対比されて解説されていて興味深いものがあります。上記に続き、宗教に関心が薄いと言われる労働者の世界に、創価学会が進出していく様子が危機感を持って記述されています。元を正すと、北海道の炭労幹部が、「組合に所属する学会員に、陰湿な圧迫を加えてきた」ことが発端です。この章では、秋田の尾去沢鉱山と長崎・佐世保の中里炭鉱の労働組合の「組合除名」にまで発展していく経緯が語られていきます。(279~303頁)

労働組合という、働くものの側に立つ人々が、宗教という最も人間存在の根底にねざす問題に無知であり、創価学会を舐めてかかったことが、今日までの衰退の大きな要因だと思われます。日教組、国労などの労働者組織のリーダーの姿勢は、組合員の数量的減少が顕著になってきていても、事態の本質を掴めずにいるようです。かつて兵庫県には、「連合五党協」という名の、労組「連合」を中心にした共産党を除く各政党の集まりがありました。反自民党政治を看板に掲げたグループで、私は公明党の県代表として加わり、労組代表の皆さんと親しく付き合いました。「今は昔」の懐かしい思い出です。(2021-8-27)

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【25】反転攻勢への道は決断一つー小説『新・人間革命』第6巻「加速」の章から考える/8-23

◆御書講義への取り組み方

昭和37年2月27日、中東訪問から帰った伸一は、各地で渾身の御書講義を展開して、弘教を加速する原動力の姿を示していきます。

「彼は、その講義に全魂をかたむけ、真剣勝負で臨んだ。講義が終わると、体中の力が抜けてしまったように感じられることもしばしばあった。(中略)講義で強調すべきポイントは何かを考え、皆がより明快に理解できるよう、どこでいかなる譬えやエピソードを引くかにも心を配った」(196頁)

このように、懸命の準備を、「強い祈りのこもった唱題」と共にしている場面を読むにつけ、私は、自分が入会した時のI地区部長の御書講義の確信漲る姿を思い起こします。昭和40年杉並区の座談会場は決して立派な家でなく、むしろ薄汚れた感がせぬでもないところでした。しかし、同地区部長の明確で確信溢れた講義は今もなお耳朶に残っています。私も、その後、青年部幹部として、懸命に御書講義に取り組みました。ですが、人々の心を打ったか、明快だったかどうか、心もとないものがあります。今の各地区で行われている講義が、単なる読み合わせに終わっていないかどうか。これもいささか気になります。

それにつけても、この章の冒頭に描かれる福岡市博多港周辺の〝ドカン〟と呼ばれる地域の光景こそ、創価学会の日常の一つの原点だと思います。私が信仰の原点を培わせていただいたお家も、今思い返せば、かけがえのない生命錬磨の道場だったなあと、有難い思いでいっぱいになります。(165頁~190頁)

教学部の幹部に対して「広宣流布のいっさいの責任を担う自覚をもっていただきたい」との言葉に始まる重要な指摘があります。(192〜193頁)私はかつて高等部の人材育成グループ「藍青会」(東京二期生、三期生)の副担当をさせていただきました。その時の正担当が時の教学部長でした。後にこの人は退転し、創価学会に敵対するのです。であるがゆえに、私は断じて学会の正義を守り伝える役割を果たさんものと、強く決意しました。この時の高校生の中から多くの逸材が各界各分野で羽ばたいていることは大きな誇りです。

◆最も真面目で誠実な宗教団体

4月15日に、北海道本部での地区部長会に出席した伸一は、「北条時宗への御状」の講義を行います。(212〜216頁)その中で、ある政界の指導者に語った言葉が登場します。

「私たちは、政治を支配するなどといった考えで、同志を政界に送り出したのではありません。学会の目的は、どこまでも民衆の幸福と、世界の平和にあります。そのために、日々、心を砕き、行動している。最も真面目で誠実な宗教団体が創価学会です」(213〜214頁)

この時から約60年。今日本も、そして世界もまさに危機に瀕しているとの見方があります。コロナ禍で各国は右往左往するばかり。地球環境は荒廃の一途を辿りゆく状況下に、自国中心主義の横行と分断の進行は止まることを知らない、と。これをどう見るか。創価学会、SG Iの存在があり、公明党も与党にいながら、と悲観視し、成り行き任せにするか。それとも「真面目で誠実な創価学会」あらばこそ、と、近未来における事態の好転を確信して、自身の出来ることから着手するか。どちらに行くかは、我々の決断一つだと思います。(2001-8-24)

 

 

 

 

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【24】文明の滅びは今もなおー『新・人間革命』第6巻「遠路」の章から考える/8-19

★哲人政治と衆愚政治のはざまで

一行は、イラン・テヘランからイラク・バグダッド、トルコ・イスタンブールを経て、ギリシャのアテネに到着(2月4日)します。パルテノン神殿などを訪れ、アゴラの遺跡を歩きながら、語り合います。このうち、ソクラテスとプラトンの師弟関係、とくに「哲人政治」についての言及に私は注目します。(92頁~119頁)

「プラトンはアテネの民主主義の功罪を底の底まで見つめていた。人間の魂が正しく健康でなければ、いかなる制度も正しく機能しない。(中略)つまり、「魂の健康」を育む哲学こそが、民主制を支える柱なのである」(116頁)

   このくだりを読んで、日蓮仏法を信奉する人間たちによって構成される公明党こそ「哲人政治」の担い手であるとの思いを持った、私自身の若き日を思い起こしました。その思いは20年間の衆議院議員としての現役時代を経て、勇退後8年の今も変わりません。ただ現実に展開されている日本の政治が民主主義が正しく機能した結果か、と問いかける時に、いささか心許ない思いになります。昨今、〝衆愚政治〟批判が語られますが、それよりもむしろ、リーダーの欠如や政治家の資質そのものが問題だ、と思わざるを得ません。

 伸一が、衆愚政治などへの非難について「民衆の健全なる魂の開花がなければ、真実の民主はありえない。結局、民衆を賢く、聡明にし、哲人王にしていくことが、民主主義の画竜点睛であり、それを行っているのが創価学会なんだよ」との確信のこもった言葉を読んで妙にホッとします。その気分は政治家の責任回避なのかもしれないと自省しますが。

★高度に発達した文明が滅ぶ共通の原因

2月6日には、エジプト・カイロに到着、アフリカの大地に、山本伸一が初めて立ちます。8日にはエジプト博物館に足を運び、カイロ大学で経済学の講師をしているというドイツ人の青年学者と語り合いました。彼から、高度に発達した文明を持った国々が滅び去った共通の原因は何かと訊かれます。その際の伸一の答えが印象に深く残ります。

伸一は、国内の経済的な衰退や内乱、他国による侵略、あるいは疫病の蔓延、自然災害など、その時々の複合的な要素の存在を指摘した上で、「本質的な要因は、専制国家であれ、民主国家であれ、指導者をはじめ、その国の人びとの魂の腐敗、精神の退廃にあったのではないでしょうか」と述べたのです。(129頁)

文明の興廃を語る時、我々はややもすると、遠い過去の出来事として捉え、今我々が身を置いている文明のことではない、と思いがちです。しかし、そうではなく、例えばいまの日本文明の行く末においても、容易に滅びの時を迎えかねないと、思わざるをえません。今の日本は、相次ぐ自然大災害に加えて、疫病の蔓延に襲われ、指導者の腐敗が日常的に人の口の端にのぼっているからです。それを防ぐ最後の砦は、民衆の健全な魂の存在ではないか、と身の引き締まる思いになります。(2021-8-19)

 

 

 

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【23】中東へのアプローチの奥深さー小説『新・人間革命』第6巻「宝土」の章から考える/8-15

◆自己の一念で、いかなる地も宝土に

 1962年(昭和37年)1月29日に山本伸一一行は、イラン、イラクなど中東方面の訪問に出発します。イスラム教の視察が主たる目的です。テヘランに到着する際に、伸一は1943年11月28日から、同地で行われた第二次世界大戦後の世界の流れを決めた、米、英、ソ三国首脳によるテヘラン会議に思いをこらします。その時に彼の胸中をよぎった思いが読むものの胸をうちます。

 「三国の首脳が武力によって、世界史の流れを変えようとしたのに対して、今伸一は人間の精神の力によって、人類の融合と永遠の平和を開こうと、このテヘランに、人知れず中東訪問の第一歩を印したのである。それは、遠く、はるかな道程ではあるが、断じて進まねばならぬ、彼の使命の道であった」ーこんな壮大な展望を抱いた指導者が他にいるでしょうか。このくだりを読むにつけ、私は胸が熱くなり、居住まいをたださざるをえないのです。

 この第一歩は決して遠くを見るだけの夢想ではなく、身近な人への激励から始まります。この地に馴染めず、日本に帰りたいとの思いを持つ女性への激励は、全ての人に通じる大事なものと思えます。「仏法というのは、最高の楽観主義なんです。苦しみのなかに、寂光土があると教え、どんな悪人や、不幸に泣く人でも、仏になると教えています。そこには、絶望はありません。あるのは、無限の幸福への可能性を開く、無限の希望です」「信仰とは無限の希望であり、無限の活力です。自己の一念によって、どんな環境も最高の宝土となる」ーこの激励を受けた女性は一転、覚悟を決めて、この地で頑張り抜く決意を固めます。(29頁〜40頁)

 どんな人でも自身の思いと相違した土地で生きていかざるを得ない場面に遭遇します。こんなはずではなかった、もっと自分に合う場所があるはず、と思い悩むことが少なくないのです。その都度、このテヘランの女性のケースを思い浮かべることが大切であるように思われます。

◆高度なイスラム文明の淵源を探る

 テヘランに到着した日の夜、ホテルの一室での3人の青年と伸一とのイスラム教をめぐる語らいは、極めて興味深い内容と思われます。キリスト教、仏教と並び世界三大宗教の一つに位置付けられていながら、日本人に馴染みが薄いイスラム教を考える上での大事な水先案内だといえます。(40頁~60頁)

 ここで、伸一は❶イスラムが古代ギリシャの知的遺産を継承、発展させ、ヨーロッパに伝えたこと❷イスラム教は、生活全般にわたる宗教上の規範が人びとの向上的な生き方に結びつき、優れた文明をつくり出す大きな力になっていたこと❸イスラムの思想には、この世は本来いいものだとの肯定があり、それが人間の知識や文化を肯定し、イスラムの威光が及ぶ世界を荘厳する生き方を促したことーなどの点を強調しています。こうした捉え方は、日常的にあまりお目にかかりません。どちらかといえば、暴力的な、反社会的イメージが一般的です。

 その理由について、伸一は①キリスト教世界がイスラムの急速な拡大を恐れた②両文明間に対話がなく、対立の溝を深めた③キリスト教の側に、恐れと誤解と嫉妬があり、それが憎悪と偏見を作り出したーことにあると指摘しています。加えて、創価学会への非難、中傷も同じで、世界に共通した事実だということを述べています。

 イスラム教については、慶大名誉教授の井筒俊彦氏の研究を私は注目しています。この人の『イスラーム』を読んで、仏教との類似性、共通性に着眼した捉え方に刮目させられたからです。イスラム教においても、仏教における「阿頼耶識」と同一の概念があることなど、驚く思いで読んだことを思い起こします。(2021-8-15)

 

 

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【22】「政治と宗教」への曲解ー小説『新・人間革命』第5巻「獅子」の章から考える/8-9

●「学会が支援などしなくても」当選できるように

 時は移り、舞台は昭和37年(1962年)に。1月17日の国会開幕と同時に、政治団体としての「公明政治連盟」の発足が記者会見で表明されます。ここから、政党についての考え方や、政治と宗教の関係についての伸一の原理的な捉え方が述べられていきます。(300頁~336頁)

 これに関連して、政治団体の結成について、伸一が前年の春に創価学会の幹部たちを前に語った話が述べられていますが、次のくだりが注目されます。

「やがては、学会が支援などしなくとも、この政治団体の政策と実績に、多くの国民が賛同し、また、一人ひとりの議員が幅広い支持と信頼を得て、選挙でも、悠々と当選するようになってもらいたい」(309頁)

 これは、今から60年前の発言ですから、その当時の伸一の期待であったと言えるでしょう。そこには強い願望が込められていました。今、公明党の議員に対して、幅広い支持と信頼が得られているかどうか。私自身、そういう議員にならねばと決意し、実践もそれなりにしました。後輩たちもみんな懸命に闘っています。ただ、学会の支援を得ずして到底当選は覚束ないというのが現実です。

 しかし、それでよしとせずに、自分の力で悠々と当選できるように、常日頃から努力すべきだと、みんな思い続けています。「理想と現実との立て分け」で割り切ることはせずに、ひたすらあるべき理想に近づけようとするところに、活路は開く、と。学会の支援に頼り切りの公明党議員ではなく、候補者本人の力が主で、足らざるを補ってもらうという形を、求め続けたいものと思っています。

●日蓮主義者たちの与えた誤解

 さらに、伸一は、戸田城聖から受けた「王仏冥合論」についての考え方を思い起こしていきます。その中で、日本の歴史の中での、いわゆる日蓮主義者について触れられた箇所が私にはとても重要に思えます。

「いわゆる日蓮主義者たちは、大聖人の教えをねじ曲げて国家主義的に解釈し、『精神の闘争』を放棄して侵略やクーデター、テロに走っていった(中略)結局、彼らが行ったことは、仏法の精神を根底から覆すものであった。まさしく『摧尊入卑』(さいそんにゅうひ=尊きを墔きて卑しきに入れる)であり、大聖人の仏法を砕き、歪曲して、自分たちの偏狭な考えのなかに取り入れたにすぎない」(328頁)

 この日蓮主義者たちー田中智学、石原莞爾、井上日召、北一輝らーの主張や振る舞いが大聖人と関わりの強いものとして、日本社会に定着してきました。このことが多大な誤解を日本社会に与えてきたのです。昭和の初めに牧口常三郎先生が創価教育学会を創立され、戦後から今に至るまで戸田城聖、池田大作先生が創価学会として、正しい日蓮大聖人の姿とその理念、哲学を伝えられてきました。

現役時代に私は、新聞記者や大学教授らを始めとするいわゆる知的支配層に属する人々と付き合いました。彼らの頭脳の中に、日蓮主義者のイメージが刷り込まれていることを実感したことが少なからずありました。それは、さすがにかつての時代を背景としたテロ、クーデターに直結するものではありません。ただ、公明党については、過剰な政治志向を持つ宗教団体に支配された政党との見方が強いのです。これを変え、まっとうな見方に正すーまだまだ道のりは遠いように思われますが、頑張りたいと思います。(2021-8-9)

  

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【21】無視された青年の歴史的集いー小説『新・人間革命』第5巻「勝利」の章から考える/8-2

★一紙も取り上げなかった創価の青年の集い

 昭和36年10月23日にヨーロッパから帰国した伸一は、この年の総仕上げの活動に全力を挙げていきます。そのハイライトが11月5日に国立競技場で開かれた男子青年部の総会と11月12日に開かれた横浜・三ツ沢競技場での女子部総会でした。前者は10万人、後者には⒏5万人の男女青年が参加していました。嬉々として集う青年たちの姿と総会の模様が描かれる一方、時代背景に横たわる課題について、こう記されています。(195頁~253頁)

 「青年には、時代と社会を担いたつ責任がある。しかし、青年たちに、その使命を自覚させることのできる指導者も、民衆の幸福と平和を約束する指導原理を示せる指導者もいなかった。そこに、不世出の大指導者である戸田城聖に代わって、青年たちの進むべき大道を開く、伸一の使命もあった」

 この日集った青年たちが「新しき人間世紀の幕を開く主体者として、生涯、広宣流布に生き抜くことを固く心に誓い、それを自身の誇りとし、誉れとしていた」ことに触れた上で、過去に改革に立ち上がった青年たちとの比較がなされています。それは、「武力による改革」ではなく、「人間革命という人間自身の生命の変革を機軸とした、平和裏に漸進的な社会の改革」であって、「民衆が主役となる時代の建設であった」というのです。

 さらに、「この十万人の男子部総会は、まさに、新たな人間の復権の勃興を象徴とする歴史的な集いといえた。ところが、それを報じた、一般の新聞は一紙もなかったのである」と続きます。(225頁)

 この当時16歳だった私は、前年の安保条約改定に反対する世の中の空気に強い関心を持っていました。暴力革命も辞さぬ極端な左翼思想と、政治的動きに関心を示さないノンポリ層の間に立って、選択すべき道に思い悩んでもいました。当時、創価学会の存在を知らず、真面目に人間変革から社会の変革へと繋げようとする青年たちがいることなど、想像すらできませんでした。

 新聞その他のメディアは、10万人もの青年が集まっていても、一宗教団体の偏頗な思想に取り憑かれた連中の集まりぐらいにしか捉えていなかったものと思われます。その後状況は多少変わり、創価学会の大きな催しや池田先生の平和提言などについて、それなりに取り上げられてきてはいます。

 しかし、創価の青年の心意気にたち至るような記事にはとんとお目にかかりません。公明党と創価学会といえば、いつも「婦人部」についてのステロタイプな視点ばかり。それなりに意味はありますが、青年の生き方の観点から創価学会の及ぼす影響について、メディアが触れようとしないことに、私は疑問を抱きます。

★実態とイメージのギャップの差を埋めること

 ついで、舞台は女子部総会へ。終了後、青年の育成の仕方や課題について、伸一の思索と戸田とのやりとりが披歴され、惹きつけられます。(248頁)

 「伸一は入会当初、青年部の先輩たちの姿を見て、学会が好きになれなかった。先輩たちの多くは、権威的で威圧的であり、自らはなんの責任も負おうとはしなかった。彼は、そんな姿に、いつも失望していた」とあり、率直にその思いを戸田城聖にぶつけます。戸田からは、「それなら、君自身が本当に好きになれる学会をつくればよいではないか」と、「明快な答え」が返ってきます。

このことがきっかけとなり、後に伸一は音楽隊の結成や体育大会の開催など「理想的な学会をつくる」ために企画実行していったことが記述されています。このくだりを読み、私は、創価学会の本質と一般的なイメージのギャップということを考えます。伸一がかつて感じた「失望」が、草創期の学会には確かにあり、それが世の学会観を形成するのに一役買っていたのです。それを払拭すべく伸一は苦闘し、見事に〝好きになれる〟学会をつくりあげました。

 私などはむしろ入会以前の創価学会への思い込みと、肌身で感じる実感との落差に驚きました。見ると聞くとでは、大違いだったのです。聞いていたイメージは、権威づくめのピラミッド型組織。現実に見たのは自由闊達な円型組織。これを世に説明せずにおくものか、と率直に感じて、友との対話の中で、あらゆる場面で話していったのです。(2021-8-2)

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