【27】「楽土の沖縄」へ思い新たにー小説『新・人間革命』第6巻「若鷲」の章から考える/8-31

◆「戦場に消えた住民」に見る沖縄の悲劇

昭和37年7月16日。山本伸一は学生部の代表たちとの懇談の場で、御書講義の開始を始め、学生部旗や学生部歌の制作など、根本的な方向性を示します。部員1万人の達成も実現し、大いなる船出の時期を迎えた学生部に、渾身の力を込めて育成に取り組む姿が描かれていきます。

翌17日には、沖縄に飛び、沖縄本部完成の落成式に臨みました。幹部任命式のあと、屋上にあがり、場外で立ち去りかねていた多くの人を前に、演壇から語りかけました。(316頁)

「沖縄はあの太平洋戦争で、本土防衛の捨て石にされ、多くの方々が犠牲になられた。しかし、創価学会の広宣流布の戦いには、誰人たりとも、またひとりたりとも犠牲はありません。すべての人が、最後は必ず幸福になられるのが、日蓮大聖人の仏法です」

伸一の沖縄訪問はこれが三回目。この後も、しばしば沖縄を訪れ、激励を展開しています。「沖縄の悲劇を、深く深く命に刻み、恩師の平和思想実現のために、広宣流布の大空に雄飛しようとしていた」のです。

「沖縄の悲劇」についてこの夏、私は改めて深い衝撃を受けました。NHKBS1テレビでの『戦場に消えた住民〜沖縄戦知られざる従軍記録〜』(8月23日放映)がそれです。この映像では戦闘要員ではない、普通の住民が、炊事婦や看護要員として、ある日突然に連れ去られる様子とその後の行方を克明に追っています。未公開資料を取り入れ、実在する当時の少年の証言をもとに、消えた母の足跡を辿り、遂にその最期の場所を突き止めるのです。明るいタッチのイラストが却って悲劇性を高めるようで、胸打たれずにはおきませんでした。

あの沖縄の悲劇をもたらしたアジア・太平洋戦争の終幕から、明年で77年を迎えます。この歳月は、日本が近代化の幕を明けた「明治維新」から、敗戦に至った昭和20年までの77年とちょうど重なります。亡国の時から今日まで、日本は懸命に復興をめざし、経済大国となり米国と肩を並べるまでになりました。しかし、その内実は、実りある豊かなものであるのかどうか。今に生きる日本人はもう一度原点に立ち返って、精神の復興、文明の飛翔に向けて、体勢を整える時だと思います。

伸一の「楽しく、愉快に、幸せを満喫しながら、この沖縄を楽土に転じていこう」との叫びが耳に響き、胸にこだまします。明年から「今再び」の思いを込め、新たな旅立ちを始めよう、と。

◆『第三文明』にまつわる思い出の一文

この章の圧巻は、学生部の代表に対して伸一が「御義口伝講義」を始めるところです。昭和37年8月31日、第一回の講義の模様が詳細に語られていきます。このくだりが現実に聖教新聞紙上に登場するのは、1997年春のことですが、私が入会したばかりの1960年代半ばの頃は、学生部の先輩から、しばしばそのやりとりの一部を聞いていました。ここでは、学生部長の渡吾郎の他に、田原薫、増山久、臼田昭、上野雅也ら4人のことに触れられています。皆私が直接お世話になった大先輩で、憧れていた人たちばかりです。このうちの一人が、「私たちが文章を書くことも、経と考えていいか」と、質問をします。(333頁〜370頁)

伸一は、これを肯定したうえで、「思想も、哲学も、理念も、文によって表現される。言論は広宣流布の生命線といえる」と、強調し、この当時、学生部の理論誌『第三文明』の編集に携わっていたその学生を「言論界の王者に」と激励しています。(352頁)

実は私も学生部時代に、『第三文明』に一度だけですが、寄稿したことがあります。昭和47年4月号に掲載されました。「緊急課題となった日中国交回復」のタイトルで、「もはや、政府の決断には期待がもてない 今こそ国交正常化に向けての国民運動を」との添書き付きです。当時の私は、公明新聞政治部の新米記者でした。赤木公正というペンネームで、4頁にわたって、ああだ、こうだと拙論を展開しています。今読み返すと恥ずかしい限りですが、意気軒高に佐藤栄作首相の対中政策を批判しています。

今私は、思想、哲学の分野で、二陣、三陣と創価学会の理念を世に宣揚する俊英たちが登場することをこいねがっています。キラ星の如き人材たちがいるはずですから、そろそろ表舞台に登場して欲しい、と。(2021-8-31)

 

 

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