【31】危うく、脆い「核抑止論」ー小説『新・人間革命』第7巻「操舵」の章から考える/9-18

●豪雪に負けない人たちの感動的な記録

 昭和38年1月24日の夜に、新潟県下で降った豪雪によって、富士宮市の総本山大石寺からの帰りの団体列車が立往生した事故 が起きます。この章冒頭で、その顛末が語られていきます。車中には新潟支部と羽越支部の会員約900人が乗っていました。この時の豪雪は「三八豪雪」と言われ、北陸・信越地方に記録的な被害をもたらしたものです。宮内駅で止まったまま。最終的に60時間もの間、閉じ込められた登山者たちを激励する輸送班員や、幹部の振る舞い、周辺の学会員たちのおにぎりなどの炊き出し、参議院公明会の議員たちの実態調査や救援対策などに動く、真剣な姿が克明に描かれています。(295~319頁)この豪雪で、26本の列車が止まり、そのうち6本が27日まで立往生し、乗客はパニック状態に陥ったりするなど、惨憺たる状態が随所で起こったといいます。想像するに難くありません。「そのなかで、学会員の乗った団体列車では、皆、最後まで整然と行動していたことは注目に値しよう。それは長岡の同志の救援も含め、信仰の力を証明するものであった といってよいだろう」(319頁)と記されています。

 私も昭和42年、大学3年の夏から冬にかけて、数ヶ月の間だけ、輸送班員をしたことがあり、総本山に向かう会員輸送の任務につきました。忘れもしないことには、品川駅の団体待合所に行く時間に寝坊して遅刻してしまったことがあるのです。一般の登山客と同じ時間に到着するあり様で、本山に着くまで、罰として、輸送班員の魂である腕章を付けさせて貰えませんでした。それから暫くして、肺結核に罹ってしまい、あえなく退任する羽目になったのです。遅刻の汚名をそそぐ活躍もなく、病気になり輸送班を辞めるとは恥ずかしい限りでした。尤も、その発病から私の信仰が本格的に始まり、人生の骨格をなす体験を掴むことになるのですが‥。

そんな私ですが、今でも🎵前進漲る我学会の、今若獅子は毅然たり、で始まる「輸送班の歌」は誦じています。懐かしい思い出です。であるがゆえに、この豪雪に直面した列車に任務担当でついていた輸送班の先輩たちを、とても誇らしく思います。また、「現場第一主義」で駆けつけた先輩議員たちの行動にも。

●依然として幅利かす「核抑止論」

海外訪問から1月27日に帰った伸一は、諸会合への出席の合間に、ケネディ大統領との会見の準備に力を注ぎます。彼は、戸田先生が「第一の遺訓」とした「原水爆禁止宣言」(1957年)について語り合い、世界平和への突破口にしようと強く期していました。この宣言は、原水爆を使用したものは、ことごとく死刑にすべきだというものです。原水爆を絶対悪と断ずる、その思いの中で、核兵器の製造を可能にする、正当化の論理に使われてきたのが「核抑止論」だとして、厳しく言及しています。(320頁~321頁)

「核兵器を正当化していたのが、いわゆる核抑止論であった。つまり全面核戦争になれば、人類が滅びるかもしれないという恐怖が、〝戦争を抑止する〟というのである」「全世界を震撼させたあの事件(キューバ危機)は、核抑止論という〝恐怖の均衡〟による平和の維持が、いかに脆く、危ういものであり、それ自体、幻想に過ぎないことを、白日のもとにさらしたといえる」

「核抑止」の考え方は、残念ながら世界の外交現場でも、国際政治学の分野でも、一定以上の大きな力を持ってきました。結果として、曲がりなりにも世界が滅びず、一応の平和が保たれているではないか、という主張に要約されます。核は悪だとする立場とは真っ向から対立してきました。そんな中、僅かではあっても、着実に前進をし、希望の光を繋いできたのが、国連NGO のひとつとしての創価学会SGIの一連の運動です。

「核兵器禁止条約」の実現を待望する動きにも拘らず、「核抑止論」があいも変わらず幅を利かせています。しかし、世界は「米ソ冷戦」の時代とは大きく変わり、ソ連の消滅から米国の後退、中国の台頭という新たな段階に入っています。この環境の流動化の前で、従来の考え方にとらわれない、新しい構想の兆しも見えてきています。理想と現実の狭間で、退かない、絶えざる核廃絶への努力が求められているのです。(2021-9-18)

 

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