Monthly Archives: 10月 2021

【37】高等部結成とその後ー小説『新・人間革命』第9巻「鳳雛」の章から考える/10-31

●高等部発足と高等部長との思い出

 1965 年(昭和40年)7月11日。日大講堂での第八回学生部幹部会の席上、高等部長として、上野雅也が任命されました。高等部の発足は既に前年に発表されており、これより本格的に同部の活動が開始されます。10月1日には学会本部での部旗授与式に伸一が出席して、重要な話をしました。

「私も諸君に対して、〝早く生いたて〟との思いでいっぱいです。私が会長である限り、諸君の道を開き、見事に広宣流布の総仕上げをさせてあげたい。どうか、今日、集まった高等部の第一陣の幹部の諸君は、十年先、三十年先、五十年先までも結束を固めていっていただきたい。そして創価学会を守っていただきたい。学会員を守っていただきたい。民衆を守っていただきたい」(153頁)

  この言葉を聞いた全国の高等部員は上野高等部長のもと、深い自覚と決意のもと、輝かしい戦いを展開していきます。私は当時入会したばかりの学生部員でしたが、高等部員たちの凄さは後年になって知ることになります。とりわけ上野雅也こと上田雅一高等部長には、大学の先輩として、大学会第一回総会(43-4-26)での出会いに始まり、数限りない激励を受けてきました。池田先生との出会いの直後、下宿先の母屋の方から「上田さんから電話ですよ」と言われ、学生部の仲間の上田某君と勘違いし「おお、上田君か」と電話口に出てしまいました。苛つく声で「本部の上田です」と言われたこと、赤面の極みでした。

 138頁から5頁にわたり彼の体験が語られていますが、若き日の苦闘を初めて知り、感動を新たにしました。「豪快だが心の優しい少年」との表現には、思わず笑みが浮かびました。確かに「豪快そのもの」の指導をされる青年幹部として、一時代を作った人だと思います。私とは4歳ほど兄貴分ですが、到底追いつけない〝でっかい境涯〟の先輩でした。

●鳳雛会メンバーのたくましさ

 高等部に結成された鳳雛会、鳳雛グループの野外研修が箱根の仙石原で1966年(昭和41年)7月16日に開かれます。伸一は、その日が日蓮大聖人が『立正安国論』で国主諫暁された意義深い日であることを、「永久に忘れないでいただきたい」と強調します。(180-193頁) このくだり前後に紹介される浅田茂雄や、工藤きみ子は共によく知っている仲間です。前者とは初の青年部訪中団で一緒しましたし、後者とは後に高等部担当幹部として共戦した仲です。二人ともあの日の誓いを断じて忘れない素晴らしい指導者に成長しました。

 ここには登場しませんが、高等部結成に馳せ参じたり、鳳雛会で薫陶を受けた人を私は数多く知っています。中でも、のちに某民放の報道局長になったS氏や、外務省の課長になったH氏は、共に私とは大学同窓で、よく高等部時代のことや先生との契りを聞かされたものです。彼らの入会は子どもの頃からで、後発の私は羨ましく思いました。鉄は熱いうちに打て、といいます。高等部に対する伸一の打つ手の細やかさに感動するばかりです。

●懸命に関わった藍青会員たち

 私は高等部担当幹部を20歳台に5年ほどやりました。自分の入会が19歳で、高校卒業後一年経っていたので、高校生を激励し、育てることの重要性がよく分かっていました。都内の新宿区、港区、千代田区の高校生と付き合ったり、副高等部長として人材育成グループの藍青会を担当もしました。東京の場合は連絡事務担当に過ぎませんでしたが、東北、北海道の高校生男女30人ほどには1年間、半年と御書講義に現地まで通いました。

 沢山の思い出があります。東京の藍青会グループとは、仙石原の研修所に一緒に行きました。そこに、テレビ記者や外務省の役人になって活躍している友人たちを呼び、高校生たちに話をしてもらいました。少しでも刺激を受けて欲しかったからです。北海道や東北の高校生とは一緒に卓球やゲームなど遊びにも興じ、あれこれと交流を深めたものです。

 そんな中から、医者、大学教授、弁護士、新聞記者、放送記者、政治家など多士済々の人材が輩出していることは嬉しい限りです。私は彼、彼女らがほぼ全員学会っ子として2世、3世だったので、現実に信仰体験を持つことの重要性を強調しまくりました。「親がやってるから」「気づいたら信心していた」「信心の凄さは分からない」というのではあまりにも残念です。信仰の極意を会得するには、体験をつかむしかないと訴えたのです。

 池田先生がうたれた高等部、中等部、少年部結成という若い世代へのくさびが今になって大きく実を結び、見事に羽ばたいている姿を見るにつけ、その先見性に感嘆するばかりです。また、たとえ千万分の一でも、お役に立てたことを誇りに思います。(2021-11-3 一部修正)

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【36】「人類史的実験」とは何かー小説『新・人間革命』第9巻「新時代」の章から考える/10-22

●公明党の結党前夜における壮絶な思索

 1964年(昭和39年)4月1日に総本山に落成した大客殿で、第二代会長・戸田城聖先生の七回忌法要が行われました。そして同年5月3日に本部総会が行われ、席上、伸一は、4つの重要な目標を示します。そのうちの一つが、公明政治連盟をめぐる問題についてのものです。創価学会政治部としての公政連を解消し、独自の路線を歩むことを提案し、了承されます。この決断に至る経緯が49頁から61頁までにわたりくわしく触れられていきます。

 衆議院に進出することがいかに危険を伴うことであるかを巡って、心底から悩まれたことが分かる重要な心象風景がここには記述されています。中でも、57頁に「民衆の手に政治を取り戻すことは、不可欠な課題と見えた」が、「それにともなう危険はあまりにも大きく」、「学会が撹乱されないとも限らない」との危惧が披歴されます。しかし、「大聖人の仏法を社会に開くためにあえて突き進まざるを得ないであろう」というのが結論として述べられていきます。更に、「いわば彼は、広宣流布の人類史的実験に挑もうとしていた」と、その心情を語っているのです。

 私たちは、創価学会の政治進出について、しばしば世俗的な軽々しい論難にでくわすことが多くありました。例えば、政党を作って衆参両院に議席を持つことで、権力を奪取し、布教に役立てようとしている、とか。こんなに苦労して、選挙活動をせずとも、〝高みの見物〟ではいけないのか、など。しかし、ここで「人類史的実験」との記述に接して、厳粛な気持ちにならざるをえません。

 「大衆の手に政治を取り戻すこと」が公明党の役割だとすると、いつ、どのような状況が生まれたら、ゴールといえるのか。与党化することで、〝権力の魔性〟に魅入られることにならないのか。政治の安定と改革の両立への絶えざる挑戦を忘れていないかー公明党の人間として50年余になる私が、考え続けるテーマです。「実験の途中放棄」になってはならないとの思いのもと、生涯をかけてあるべき姿を追い続ける覚悟でいます。

●フィリピンでの語らいと今年のノーベル平和賞

 5月12日から15日間、伸一はオーストラリア、セイロン(スリランカ)、インド訪問の旅に向かいました。その旅の冒頭、フィリピンのマニラに経由、僅かな時間に3人の会員に会い、激励をするのです。その際に、いかに同地での布教が困難であるかの訴えを聞いて、次のような印象深い言葉を発しています。

 「地涌の菩薩はどこにでもいる。この国にだけは、出現しないなんていうことは絶対にないから大丈夫だよ。真剣に広布を祈り、粘り強く仏法対話を重ねていけば、必ず信心をする人が出てきます」(66頁)「戸田先生も戦時中の弾圧で、みんなが退転してしまったなかで一人立たれた。そこから戦後の学会は始まった。一人立つ人がいれば、必ず広がっていく。それが広宣流布の原理だよ」(67頁)

   この時の語らいがフィリピン広布の「永遠の誓いの種子」となり、やがて大きく花開くことになりました。このくだりを読んで、私は、ちょうど今年のノーベル平和賞の受賞者に選ばれたこの国のジャーナリストを思い出しました。強権的な政治を強める政権の動きに敢然と立ち向かう勇者に、勿論直接の関係はありませんが、フィリピンの会員たちの勇姿が重なり、強い共感を抱くのです。

●オーストラリアでのテレビ局インタビュー

 伸一一行は、次にオーストラリアのシドニーからメルボルンへと移動します。16日にテレビ局のインタビュー取材を受けました。当時、雑誌などによる学会批判がこの地でも横行しており、伸一を独裁者と見る風潮さえ強かったのです。悪影響を振り払い、学会理解を深めるために、伸一は準備を整えたうえで、挑みます。

 簡潔で的を射たインタビュアーの質問は、創価学会が「軍国主義的な団体であり、軍隊同様な組織を持っているのではないか」との観点など、多岐にわたっていましたが、役職が「参謀」「部隊長」「隊長」といった軍隊を思わせるものであることについてのやりとりが注目されます。この疑問は、日本でも草創期の学会に付き纏ったものでした。

 伸一の答えは明快です。「学会ほど平和団体はありません。誤解です」とした後、役職名は〝平和の戦士〟との自覚による、と述べています。その方が意気盛んに活動を進めることが出来る、とも。確かに、「課長や係長」ではまるで、会社の延長みたいですから。

 私もかつて、この名称にヒエラルキーを感じ、反民主主義的であると思いました。現実との認識ギャップに違和感を持ったものです。組織が勃興する時と安定期に入った時は自ずから異なることに気づいたのは、入会後10年ほどが経ってからのことでした。(2021-10-23  一部修正)

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【35】「弾圧」から「表彰」へー小説『新・人間革命』第8巻「激流」の章から考える/10-13

●「侵略の犠牲」になった韓国民衆への思い

 1963年(昭和38年)11月23日米テキサス州ダラス。ケネディ米大統領が暗殺されたニュースが全世界を駆け巡りました。その時の衝撃と彼に対する伸一の熱い思いが語られます。(289-302頁)

 翌年1月15日に韓国7都市に日本の幹部が交流訪問する予定になりました。これを契機に、「激流」の章は、58頁にわたり韓国と日本の関係、韓国での学会員の壮絶な戦い、伸一の韓国初訪問へと、触れられていきます。(314-372頁)

 「仏教伝来」から文化の恩恵まで、大恩ある韓・朝鮮半島に対して、いかに日本が厳しい姿勢で挑んできたか、歴史的事実に沿って語られたのちの次のくだりが胸に響きます。

 「だが、不屈の人びとは、〝魂の虐殺〟に等しい、日本の蛮行に耐えに耐えた。その間、幾千幾万の決死の勇者たちが、独立の炎をともし続けた。光なき痛哭の大地に、自由と希望の夜明けが到来することを絶対に信じて」(323頁)

 日本人は豊臣秀吉の〝朝鮮征伐〟から、明治の〝征韓論〟を経て、日清戦争後の35年間の朝鮮半島支配に至るまで、日本民族の勇猛さ、日本近代の素晴らしさの観点のみで見る傾向が強くあります。自国の大衆の苦悩には目を向けても、隣国の民衆の喘ぎには目を背けてきました。それに比して、ここでの伸一の「日本帝国主義批判」の凄まじさには、自らの非に改めて気づかされます。

 ややもすれば「日本優位論」が鎌首をもたげ、隣国民族を下に見てしまいかねない気風。今もなお、韓国、北朝鮮での反日の空気の根源に目を向けず、表層的な反韓気運を持続させるのみの世論。ここらあたりに問題の所在があることを痛感せざるをえません。

●執拗な弾圧にめげない韓国学会員の逞しさ

 1964年(昭和39年)1月の韓国への日本からの派遣が決まった頃から韓国政府の学会への批判が始まります。「創価学会は反民族的な性格を持つため、韓国では布教を禁止する」との文教部長官見解が表明されました。韓国政府の誤認識から出たものとの認識に立ち、学会では直ちに「韓国問題をめぐって」と題する長文の特集記事が聖教新聞に掲載されました。(349頁)

 しかし、韓国国内では、学会員が突然刑事に逮捕され、拘置所に拘束されたり、信仰ゆえの迫害にあっていきました。しかし、皆懸命の唱題に励み、逆に体験を掴む会員が増えていきました。ただし、自分勝手な幹部も出て、会内にいくつかのグループができるなど、様々な障害が発生します。幾多の紆余曲折を経て、1976年(昭和51年)に「仏教会」という全国統一組織が出来るようになりました。最終的に、1979年(昭和54年)に、農水産部長官から、1984年(昭和59年)には大統領から表彰を受けるまでになったのです。(369頁)

 韓国政府の弾圧の執拗さにめげず、この60年近い歴史の中で、見事な足跡を残してきた韓国の学会員の逞しさは、大いに宣揚されるべきものと思われます。軍部独裁などの時期も含め、韓国国内事情も複雑なものがあります。情報も我々に届かない傾向があり、軽々に論じることは出来ませんが、私は韓国における日蓮仏法の未来こそ、世界広布の成否を占うものと思えます。

 北東アジアの平和にとって、韓国の動向は決して無視できません。「在韓米軍の撤退」、「北朝鮮との宥和」など、時の政権の身の振り方一つが重要な影響をもたらします。ひたひたと増える学会員の息遣いの与える影響が決して無視できないと思われます。彼の国の浮沈の鍵を握る学会員の動きを、少ない情報の中で注視していきたいものです。

●苦節の末に、政府から表彰受け、伸一の訪韓が実現

 長きにわたる韓国の学会員への弾圧の歴史にもかかわらず、遂に大統領表彰まで受けるようになったことは、特筆できることです。その上で、1990年(平成2年)のソウルでの東京富士美術館所蔵の「西洋絵画名品展」のオープニング式典に出席するため、伸一が初めて訪韓しました。また1998年(平成10年)には、慶煕大学から名誉博士号を贈られての授与式に出席しました。その際に、SGI韓国仏教会本部を初訪問したのです。(370頁)

 このくだりは、非常に抑えた筆致で書かれているのが、かえってことの重要性を際立たせているように私には思えます。「初夏の風がさわやかであった。同志は待っていた。1964年(昭和39年)に、試練の嵐が吹き荒れて以来三十四年、メンバーはこの日が来ることを、夢に見、祈り、待ちわびてきたのである。それは伸一も同じであった」と。

 欧州の「冷戦」に終止符が打たれて、〝分断国家ドイツ〟に平和が訪れて30年余。今も朝鮮半島には、冷酷な「北緯38度線」が厳然と存在しています。「嫌韓」「反韓」の機運を超えて、もっとこの隣国民衆の幸福に関心を持たねば、と思うのです。(2021-10-13)

 

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【34】最も易しいことが最も難しいー小説『新・人間革命』第8巻「清流」の章から考える/10-7

●「敵」に対して常に意識を持て

 1963年(昭和38年)7月言論部が発足し、第一回の全国大会が開かれます。前年の11月に月刊雑誌『言論』が発刊されていました。これは民衆の支配を目論む権力の野望や、「正義の言論」を封じ込めようとする邪悪な動きに対抗する目的を持って作られたものです。かつて私も愛読しました。創価学会批判が大手を振って週刊誌や月刊誌の紙面を賑わしていた頃と違って、昨今は少々様変わりをしています。ただいつ何時、またぶり返してくるやもしれません。

 「常に正確な情報をつかんで、敏速に応戦していく。敵との攻防戦においては、このスピードこそが死命を制する」(202頁)「正義の言論の矢を放ち続けることである。その不屈なる魂の叫びが、人びとの心を揺り動かす」(204頁)とあります。

 現在の「敵」と呼べる集団は、日蓮仏法の亜流派や「日本会議」や共産党のような左右の政治勢力など、より専門化してきています。公明党の与党化とも相まって、以前のような自民党筋からの攻撃は、なりを潜めています。ですが、だからといって、学会理解の深化とは必ずしも一致しません。そのあたりを踏まえて、批判精神をたぎらせて、いつでも応酬できるように「腕」を磨いておく必要があろうと思われます。

●何があっても疑わないこと

 長野市で7月30日に開かれた中部第二本部での幹部会に出席した伸一は、会場で「功徳を受けたという方は手を上げてください」と呼びかけます。そして、信仰は「自分が功徳を受けるためのもの」であり、「そのための仏道修行であり、学会活動である」ことに触れます。さらに、「幸福の要諦は自分の心に打ち勝つことであり、何があっても『無疑曰信』(むぎわっしん=疑いなきを信という)の清流のごとき信心が肝要であることを訴えていった」のです。(208~209頁)

   さらに、ここで、疑いのない信の代表例として赤ん坊が母親のお乳を呑んで成長することが挙げられています。確かに赤ん坊はそうです。お母さんのお乳が気に入らないとか、もっと違うものが欲しいという赤ん坊などいるはずありません。ただ、それと信仰も同じようにせよ、と言われても、これは難しい。ある意味、最も易しいことで一番難しいのが「信じる」という行為であり、ひたすら「拝む」「祈る」ということです。

 普通は、「疑う」気持ちが起こります。私もそうでした。今もなお、そういう気持ちが皆無かというと、それこそ疑わしいでしょう。ただ、言えることは、いわば〝絶体絶命の時〟に、「拝む」と、不思議なことに〝追い詰められた状況〟が一変するのです。勿論、すぐにというわけではありません。それなりに時間はかかります。私の場合、これまでの信仰生活56年の間に、真底から困り悩んだケースが三回ほどありました。

 一度は22歳のときの肺結核、二度目は衆議院選挙の落選後の二度目の挑戦、三度目は、私の身から出た錆とでもいえることが原因で鬱状態に陥ったことでした。議員時代のことです。それぞれ、あれこれ理屈を言ってる場合ではありません。ともかく助かりたい、何がなんでもこの苦境を脱したい一心になりました。他の解決法はなく、もう拝むしかない、という状況でした。そして、3ヶ月から半年くらいの間に、それぞれ地獄の苦しみがパッと消え、平常に戻ったのです。その間、共通しているのは、しゃにむに、無我夢中で拝んだということなのです。文字通り清流のような心境でした。(2021-10-9一部修正)

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【33】本迹を立てわけていく重要性ー小説『新・人間革命』第8巻「宝剣」の章から考える/10-2

●本物か偽物か、「歳月は人を淘汰する」

 昭和38年7月6日、伊豆下田で青年部の水滸会研修が開かれた時のこと。宿舎の旅館の広間で質問会が行われます。伸一は、教学上の問題から、社会の改革と人間革命の関係など多岐にわたる質問に答えていきます。その中で、鮫島源治という青年について語られているくだりに注目しました。彼の質問は、「信心の筋金が入った人間とは?」というもの。答えは、「一生涯、学会についてくる人間のことです。(中略) どんなことがあっても、学会につききっていくことのできる人間が、信心の筋金の入った人だ。それしかない!」です。

 この人物は、「後年、副会長になるが、最後は学会に反逆し、無残な退転者の道を歩んでいくことになる」とあり、その記述の前後に「鮫島」という人間についての当初の伸一の思いが語られています。「歳月は人間を淘汰する」「30年間、見続けていこう」と。(114-114頁)

 この鮫島のモデルとなった当の本人から、幾度か私も指導を受ける機会がありました。元教学部長、元弁護士らの退転者とも、高等部、中野区担当者として私は接触したことはありましたが、この人物は青年部長だったため、一番真剣に話を聞いたものです。その理論の展開の仕方にユニークさを感じ、シャープな言葉遣いにも惹かれました。今から思えば、その顔立ちがかっこよかったという、他愛もない理由が強かったのですが‥‥

 先日、長く創価学会批判の急先鋒だったある人物が亡くなったとの報に接しました。生前、彼は鮫島の影響を強く受けていたことをあらためて知るに至りました。二人とも「野心、野望で動き、学会を自分のために利用しようとする心」に負けたに違いありません。同時に、人間関係の「縁」についても、考えざるをえません。「毒」を持った人と関係を強めずに、清らかな生命の持ち主と繋がることの大事さを痛切に感じます。

●「百六箇抄」の壮絶な講義

 同年  7月19日、伸一は、京都へと赴き、京都大学の学生を中心に、関西の学生部幹部への「百六箇抄」講義の発足式に臨みます。この「百六箇抄」は、日蓮大聖人から、第二祖日興上人に授けられた相伝書であり、「本因妙抄」と併せて、〝両巻抄〟とも〝血脈抄〟とも呼ばれてきました。御書は、「西洋的なものの考え方だけでは」、「東洋的な演繹法の思考」を、とらえることはできない。だから「仏法の発想に立っていくためにも、帰納法的な論理を超えた相伝書の「百六箇抄」を学ぶにことが大事だと、されています。

 この講義を始めるにあたって、一人ひとりの自己紹介から始まります。野村至・勇兄弟、田川浩一、中野恵利子、滝川安雄、高木与志郎、奥谷拓也、上畑英吉らの京大生が次々と登場します。この場面は私にとって、圧巻です。ほぼ全員、この場面の後に、良い縁を持つに至る先輩ばかりだからです。ひとりだけ退転していった人物が触れられていますが、それを除き、皆素晴らしい実証を示してきた人たちです。(131-158頁)

 この記述の中で、伸一自身が戸田城聖先生から直接この「百六箇抄」講義を受講した際のことが出てきます。「冒頭の『理の一念三千・一心三観本迹』の講義だけで、三日間を費やして」、講義が終わると、「これまで話してきたことは、すべて暗記し、生命に刻むことだ。この一箇条を徹底して学び、深く理解していくならば、後の百五箇条もわかってくる。また、この『百六箇抄』が、わかれば、ほかの御書もわかってくる」とまで。

 この御書の重要性を諸先輩から聞きながら、私は結局中途半端な理解に終わっているがゆえに、未だ情けない教学理解の状態にあることを思い知るのは無念なことです。ただ、ここで展開される本迹についての講義は分かりやすく、胸の底に落ちます。「自分は今、広布のために、人間革命のために生きているのか、一念は定まっているのかーそれを見極めていくことが、私たちにとって、『本迹』を立て分けていくことになるし、その人が最後の勝利者になっていく」とあります。「広宣流布に生き抜く人生こそが『本』で」、社会的な地位や立場は「迹」であるとの指摘。これを銘記して生き抜いてきただけに、後悔はありません。未だ、足らざるを補うために、今から、これからが本番と決めて、日々戦っていこうと決意しています。(2021-10-2)

 

 

 

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