Monthly Archives: 12月 2021

【47】「権力の魔性」との不断の戦いー小説『新・人間革命』第11巻「躍進」の章から考える/12-29

●公明党の衆議院進出と党の未来像の発表

 1967年(昭和42年)1月6日に東京・千代田区の日本武道館で開かれた新春幹部会は、極めて画期的なものになりました。山本伸一が公明党の創立者として、党のビジョンを明らかにしたのです。その背景には衆議院進出を図ろうとする公明党に対する強い警戒の空気が世に充満していたことがあります。それを粉砕するべく、党の未来像を明確にしたのです。(331-333頁)

 「中道政治で平和と繁栄の新社会」の建設をモットーに掲げ、内政、外交に渡る様々な方向性を打ち出しました。ここで、注目されるのは、中道政治の中身を明確に示したことです。「一言でいえば、仏法の中道主義を根底にし、その生命哲学にもとづく人間性尊重、慈悲の政治ということになります」と述べ、更に、人間性尊重の政治とは、「人間生命の限りない尊厳にもとづき、各人各人の個性を重んじ、あらゆる人が最大限の幸福生活を満喫していけるようにすること」であり、「社会の一切の機構も、文化も、そのためにあるものと考え、政治を行う」ものだと、定義づけました。

 この時から半世紀を超える時が流れました。中道政治を標榜する公明党は、今、保守政治の自民党を内側から改革するために、〝与党内野党〟たるべく戦っています。と同時に、革新・リベラルの野党勢力との戦いも進めています。そこには、まさに二刀流の使い手としての役割が求められているわけです。一部に、昨今の公明党は自民党に取り込まれており、中道主義が見えないとの評価があります。「安定」を重視するあまり、「改革」が軽視されていないかとの懸念でしょう。この懸念を吹き飛ばす戦いが望まれます。

●権力の魔性との戦い未だ終わらず

 初の衆議院選で公明党は見事に25人の当選を果たします。挨拶にきた党幹部たちに対して、伸一は極めて重要な指導をします。将来、保守、革新それぞれの勢力と妥協し、様々な政策選択をすることになるだろうが、「根本は国民の幸福のためであることを忘れてはならない」し、「政権に参画したとしても、徹して権力の魔性とは戦い抜くことです。そうでなければ、公明党の存在意義はなくなってしまう」と厳命を下しています。

 「公明党の掲げる中道政治、すなわち人間主義の政治が、日本の潮となり、世界の政治哲学の潮流となるかどうかに、二十一世紀はかかっていると、伸一は考えていた」との記述に触れて、私は身震いする思いになります。「権力の魔性」との戦い以前に、〝金銭の魔力〟や〝生活の乱れ〟による〝自損事故〟で、残念ながら脱落してしまう議員が少数とはいえ、散見されます。「政治革命」への戦い未だ止まずの思いで、「中道政治」の確立に向けて戦わねば、と思うことしきりです。

●「皆が燃えていた」55年前と今との対比

 会長就任7周年の5月3日の直前に、伸一は三年半ぶりに新潟県を訪れ、会館の起工式に臨み、記念撮影など同志の激励に力を注ぎます。その際に9年前の〝佐渡での指導〟が語られ、そして日蓮大聖人の獅子王のごとき戦いに触れられていくのです。(354-400頁)

  この中で、伸一は、「日々、自分を磨き鍛えていくこと、つまり持続の信心」の重要性を語っています。「信心とは間断なき魔との闘争であり、仏とは戦い続ける人のことです。その戦いのなかにこそ、自身の生命の輝きがあり、黄金の人生がある」ー佐渡の金山にこと寄せて、「黄金の人生論」が展開されていきます。

 このくだりを読んで、「躍進」の章の冒頭の記述を改めて思い起こさざるをえません。「皆が燃えていた。自分たちが一生懸命に動いた分だけ、未聞の広宣流布の扉が確実に開かれ、時代が、社会が、大きく変わっていく手ごたえを、誰もが感じていた」との記述です。昭和42年と令和3年。55年ほどの時間差があります。「皆が燃えていた」当時と今と。仮に対比するとしたら、「持続の信心」にいささかの狂いが生じているのではないか、と自省する次第です。

 このあと、広宣流布途上において大難が必至であることが強調されます。そして、公明党が衆議院に進出してから一段とその予感がする、と。「仏法の慈悲を根底にした人間主義の政治の実現に、本格的に着手した」創価学会の動きは、政治権力の悪を断とうとするものであり、「諫暁に通じるがゆえに、それを排除せんとする画策がなされ」ていくのは当然だ、と。その後、時代は、まさにここでの記述通りに進展し、創価学会への厳しい波濤が増していくのです。

 今、公明党の与党化の中で、権力やその周辺との軋轢はなりを潜め、奇妙なまでの静穏さが目立ちます。果たして、これは前進と見るべきなのでしょうか。少なくとも権力の魔性との戦いに終わりはないことだけは、はっきりしています。(2021-12-28)

 

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【46】創価の大運動と中道主義ー小説『新・人間革命』第11巻「常勝」から考える/12-23

●「7つの鐘」という壮大なロマン

 行動こそが新しい波を起こす。行動こそが人を触発する。そして、行動こそが、民衆の勝利の歴史を織り成すのであるー北南米指導から帰った伸一は、全国を「疾風のごとく」、会員の激励に走ります。そんな中、1966年(昭和41年)5月3日の本部総会で、創価学会が広宣流布の指標としてきた「七つの鐘」(昭和5年の学会創立から、7年ごとを節目とする目標)について再確認するとともに、「第七の鐘」の鳴り終わる昭和54年を目指そうと、呼びかけました。

 入会から一年経ったばかりだった私は、この「七つの鐘」という表現に接して、心底から感動を覚えました。その時点では第六の鐘(昭和40-47年)が鳴っていたのですが、更に第七の鐘(昭和47-54年)を目指そうとの師匠の大号令に壮大な〝人間革命のロマン〟を感じました。その後2001年からは第二の「七つの鐘」が鳴り始めており、来年2022年より「第四の鐘」が鳴り始めることになります。当面のゴールは、2050年。さらに池田先生は、23世紀半ばまで見据えた展望を後に表明されています。その構想の遠大さにただただ驚くばかりです。

●雨の文化祭と「常勝関西」の淵源

   1966年(昭和41年)9月18日。兵庫県西宮市の甲子園球場での「関西文化祭」は、台風の影響による雨の中で開かれました。このため後々「雨の文化祭」と呼称されることになりますが、関西創価学会にとって「雨」は、また特別な意味を持つことが記されています。実は雨中での行事はこの時で、三度目。最初は、1956年(昭和31年)4月、大阪、堺の二支部連合総会。「雨に打たれながら、同志は誓いを新たにし、それが一万一千百十一世帯の弘教をはじめ、『常勝』の不滅の金字塔を打ち立てる起爆剤となった」のです。次に翌年の7月17日の中之島中央公会堂での「大阪大会」。伸一が不当逮捕され、出獄した日の「雨」でした。(242-272頁)

 「試練の風雨のなかで、決然と勝利の旗を打ち立ててきたのが、まぎれもなく、関西の広布の歴史であった」との記述に表れているように、この時の文化祭の一部始終は、「常勝関西」の深い基盤なす描写の連続に思われます。私は関西人でありながら、自らの信仰における実践場が東京であったため、この「雨の甲子園」を始めとする関西の闘いと、池田先生のそれへの称賛を常に眩しく感じ、時に嫉妬すら覚えてきたことを告白します。

 後に、その関西の只中で選挙を闘い、数多の人々の壮絶なまでのご支援をいただきました。その大庶民群のど根性の凄さを何度も味わったのですが、その背景に師匠の圧倒的な労苦の作業があることを痛切に知るに至りました。

●ベトナム戦争の最中での中道主義からの提言

 この頃、アジアを暗雲が覆っていました。ベトナム戦争の泥沼化です。第二次世界大戦が終わって20年ほどしか経たぬ段階で、戦勝国同士間の思想的対立が混迷を極め、ベトナムを舞台に火を吹いたのです。ここではこの戦争の経緯が詳細に語られています。(273-317頁)

 伸一はこの状況下にあって、苦悩を深め、激しく心を痛めていきます。1966年11月3日の青年部総会で、仏法の平和思想を語る中で、戦争解決に向けての重要な提言をします。

 「日蓮仏法に基づき、肉体、物質にも、心、精神にも偏することのない、生命の全体像に立脚した「中道主義」を掲げ、「生命の尊厳」の時代を築きゆくのが、創価の大運動である」との一節こそ、米ソ対決の修羅場と化した、ベトナム救済への大宣言でした。この信念をもとに、伸一は仏法の「空仮中の三諦」論と中道主義について述べていきます。「三諦」という生命の法理に基づいて、現代の支配的思想を位置付けるくだりはまさに圧巻です。(286頁)

   「唯心思想は、空諦の一部分を説いたものといえますし、唯物主義は仮諦の一部分を説いたにすぎません。実存主義もまた、中諦の一部分の哲理にすぎない。しかも、その三諦は別々であり、あくまでも爾前経の域を出ません」「この唯心、唯物、実存の各思想・哲学を包含し、またそれらを指導しきっていく中道の哲学、中道思想こそ、日蓮大聖人の仏法である」ーこの断言に、希望の灯を見た多くの青年たちが断固とした決意で、立ち上がっていきました。

 更に、この後、現実の日本政治における公明党の役割について、改めて、党利党略でなく、「国民大衆の利益を第一義に、大衆福祉をめざす政策を実践する政治」が「永遠の在り方」であると断言しています。「常に現実的であると同時に大局観に立った、高い次元の政策を実践していくというのが、中道主義に生きる政治家の行動でなければなりません」ーこの指針が、現在ただ今、一段と強く胸に迫ってくるのです。自公連立20年余で、中道主義を埋没させてなるものか、と。(2021-12-23)

 

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【45】人に光を与える仕事ー小説『新・人間革命』第11巻「開墾」の章から考える/12-17

●ペルー・リマで示された三つの要諦

「人間がなしうる最も素晴らしいことは人に光を与える仕事である」(南米解放の父・シモン・ボリバル)ーこの印象的な言葉で始まる章の「時」は、1966年(昭和41年)3月。「舞台」は、ペルー。そしてアルゼンチン、パラグアイ、ボリビア、ドミニカへと移っていきます。今から半世紀よりもっと前に、中南米各地に伸一一行は、光を与えて行くのですが、その闘いの一部始終は読むものをして深い感動に誘います。

 「人がどうあれ、自分が広宣流布のために苦労し、働いた分は、すべて自身の功徳となり、福運なっていくのが仏法です。人の目はごまかすことができても、峻厳な仏法の因果の理法は、絶対にごまかせない」ーリマのホテルに集まった「先駆けの友」を前に、伸一は、人生の大勝利者になるための三つの要諦を語っていくのです。(137-141頁)

 第一はお題目。「嬉しい時も、悲しい時も、善きにつけ、悪しきにつけ、何があっても、ただひたすら、題目を唱え抜いていくことです。これが幸福の直道です」第二の要諦は教学。「その仰せを信じて、心を定め、御文のままに精進していく。そうすれば、〝まさにその通りだ!〟と、実感し、御本尊への大確信をもつことができる」。第三の要諦は信心の持続。「人生、最後が大事です。一時期は、どんなに頑張っていようが、やがて、信心から離れ、学会から離れていってしまうならば、なんにもならない」

 「一言一言、メンバーの生命の奥深く、開墾のクワを振るう思いで、全力を注いでの指導であった」ーこのくだりを読み、まさに今から56年前(昭和43年4月26日)に池田先生にお会いし、直接頂いた指導を思い起こします。肺結核に悩んでいた私に、「お題目だよ、いまこの瞬間から百万遍の題目を決意するんだ。必ず治る。百万遍でダメだったら、また百万遍と、治るまで続けるんだ。大丈夫だ」と。このご指導を胸に、『このやまひは仏の御はからひか・そのゆへは浄名経・涅槃経には病ある人仏になるべきよしとかれて候、病によりて道心はをこり候なり』(妙心尼御前御返事1480頁)の一節を身で読むべく、来る日も来る日も頑張りました。そして、医者が驚く結果が出たのが5カ月後。その報告を同年10月8日に再び先生にお会いできた日にしたのです。

 「人生、最後が大事」ーちょうど2030年の創立100周年まで10年という時点と、私が後期高齢者の仲間入りした時とが重なります。85歳へのカウントダウンが始まりました。既に1年が経過。どんなゴールを迎えられるか。「人に光を与える仕事」のたとえ真似事でもせねばと、〝逆転大勝利〟を深く期しているところです。

●アルゼンチンの苦闘の27年と栄光の今

 伸一のブラジル訪問とは別に、少し先行して春木征一郎ら幹部がアルゼンチンを訪れていました。ほぼ同時並行の南米指導でしたが、伸一の姿が見えないブエノスアイレスの会合を担当した春木は、全魂を込めて失望する同志の激励にあたります。「今日はアルゼンチンの新しい出発の日です。生きるということは、歴史を創るということです。それぞれが、自身の幸福とアルゼンチンの広布の新しい歴史を、創っていこうではありませんか!」との言葉に「魂の閃光が闇を破るような、誓いの拍手が轟いた」と、表現されています。(166頁)

    春木征一郎のモデルは元プロ野球・東急セネタースの白木義一郎投手です。関西のあの歴史を作った昭和31年の参議院選挙の候補者でもありました。関西創価学会の最高責任者として、全地域の津々浦々まで足を運び、また手紙や葉書を書いて激励されました。その足跡の凄さは今なお語り継がれています。私はつい先日、兵庫県の北西端・美方郡のT元女性町議と兵庫県の議員OB会で会いました。彼女も入信当初に白木さんから受けた激励が忘れられないと語っていました。常勝関西の礎を創った凄い大先輩を心底から誇りに思います。

 アルゼンチンに伸一が初訪問するのは1993年(平成5年)のことで、この時より27年後。かくも長き間、待ち望んだ人たちの心情が思いやられます。その間、伸一は「アルゼンチン大学関係者や芸術家、駐日大使、また大統領と会見するなど、日亜両国の友好と教育・文化交流に全力を注いできた」のです。また、春木も同志たちに真心こもった激励の手紙を送り続けたに違いありません。

 「1990年(平成2年)には、アルゼンチン政府から、最高栄誉の一つである『大十字五月勲章』が山本伸一に贈られ、各大学からの顕彰も相次ぐことになる」とあります。ちょうどそのくだりを読んだ折、聖教新聞(12月9日付け)一面を見ました。ブエノスアイレス市から、創価学会の教育・平和推進への多大な功績をたたえる顕彰状が贈呈されたとの報道がなされていたのです。(2021-12-16)

 

 

 

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【44】時空を超えた〝共戦〟ー小説『新・人間革命』第11巻「暁光」から考える/12-13

●ブラジル広布の最前線での偏見を払拭する闘い

 1966年(昭和41年)3月10日。伸一はニューヨークからブラジル・リオデジャネイロに向かいます。6年前に続き二度目の訪伯でした。同国は2年前に政変があり、民政から軍政に変わったばかりで、独裁的傾向を強め、政情も不安定でした。創価学会の進出についても、無理解のもたらす悪意に満ちた情報が流され、警察の監視も異常を極めていたのです。

 時あたかも公明党の結成直後でもあり、創価学会がブラジルでも政党を作るのではないかとの疑問が渦巻いていました。そうした空気を背景に、伸一はジャーナリズムのインタビューを受けて、誤認識を正すために積極的に対話を続けます。(16-26頁)

   「宗教団体がなぜ政界に進出したのか」「政教一致を目指すのか」「ブラジルでも政党をつくる計画はあるか」ーなどの質問に、「(各国での政治への対応は)その国のメンバーが話し合って決めるべき問題」で、個人的考えとして「政党結成の必要は全くない」と明確に答えました。更に、日本に政党を作ったのは、「日本の再軍備という問題」が理由ですと述べています。「かつて日本は、アジアを侵略したにもかかわらず、本当の意味での、反省もない。それで軍備に力を入れればどうなるのか。軍事大国化し、間違った方向に進みはしないか」との懸念があったことを表明しました。

 こうしたやりとりを通じて、ジャーナリストがそれまでの自身の勘違いを改めて、客観的な報道をしたことが明らかにされていきます。これについて「真実は、語らなければわからない。沈黙していれば誤解や偏見のままで、終わってしまい、結果的に誤りを容認し、肯定することになる」と、結論づけられています。

 私はこのくだりに強い共感を覚えます。創価学会、公明党の動きについて、本当のことをどんどん発信しなければ、誤解を呼びかねないと思います。公明党については、与党化してから20年を超えた現在、権力への批判が弱まってる懸念があります。私はそうであってはならぬと、積極的に発言することを心がけています。

●リオの一粒種の闘いとパウロ・フレイレとの〝共戦〟

   ブラジルは、日本からの移民が最も多い国であり、日系人も沢山在住し、2世、3世と後継者も数多くいます。しかし、日系人が多いサンパウロの広布拡大ぶりに比べて、リオデジャネイロは立ち遅れていました。その地での〝一粒種〟として、造船会社の技術移住者夫婦が闘いゆく姿は感動的です。(27-33頁)

   リオの広宣流布を本格的に進めるためには、日系人だけでなく、現地の人々に布教をせねばと、ポルトガル語を必至に覚えて、懸命に仏法を語っていった夫妻の日常が胸を打ちます。「来る日も、来る日も、懸命に題目を唱えては、仏法対話を日課のように続け抜いていった」「やがてそのなかから、一緒に勤行をする人が誕生し、病を克服した体験や、経済苦を打開した体験が生まれ始めた。この生き生きと蘇っていく事実の姿を目の当たりにして、さらに信心をする人が増えていった」ー5年後には166世帯にまで拡大していったのです。

 同地を訪れた伸一に、夫妻は何千世帯のサンパウロに比べて遅れている現状に、もどかしさと申し訳なさを感じて「恥ずかしい限りです」と、責任感溢れる言葉を示すのでした。伸一は、たった一世帯から「百六十六倍に発展したことになる」と、その労をねぎらい、焦る必要はない、と次のように激励します。

「大事なことは、最初の決意を忘れることなく、一日一日が前進であった、勝利であったという、悔いなき力強い歴史を、我が身につづっていくことです。つまり、〝今日、何をするのか〟〝今、何をするのか〟を、常に問い続け、必死になって、挑戦し、行動し抜いていくことです。(中略) すなわち、広宣流布のための連続闘争こそ、仏の所作を実践している尊い姿であり絶対的幸福への軌道なんです」と。

 同じ頃、日本の東京で、まさにこの指導通りの日々を暮らしていた自分を思い出します。あれから55年余。「連続闘争」がいつのまにか、「非連続」や「だらだら」になっていないかと、深く反省します。生きてる限りは「連続闘争」の日々であらねば、と。

 ブラジルでの広布に思いを寄せている矢先に、同国北東部の名門学府ペルナンブコ連邦大学から、池田先生に名誉博士号が贈られたとの聖教新聞の記事(12月7日付)が目に飛び込んできました。この記事の中で、パウロ・フレイレという〝ブラジル教育の父〟と呼ばれる同大学の卒業生のことが宣揚されていました。「貧しい民衆の教育に生涯をささげ、1964年の軍事クーデターで祖国を追われた後も識字教育を推進した」と。このくだりを読み、その直後の池田先生の訪伯を思い、時間と空間を超えたパウロ・フレイレとの〝共戦〟を実感せざるを得ないのです。(2021-12-13)

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【43】オンリーワンへの工夫ー小説『新・人間革命』第10巻「桂冠」の章から考える/12-6

●病気の原因についての事細かなアドバイス

 1965年(昭和40年)11月4日関西本部で奈良県本部の最前線幹部との記念撮影会が行われました。撮影の合間に、伸一は体の悪い人がいるかどうかを聞き、様々なアドバイスを個別にしていきます。そのうち病の原因について、天台大師の『摩訶止観』を引用し、日蓮大聖人が六つに分類されていることを紹介したうえで、詳しく述べています。(296〜307頁)

    『一には四大順ならざるゆえに病む・二には飲食節ならざる故に病む・三には座禅調わざる故に病む・四には鬼頼りを得る・五には魔の所為・六には業の起こるが故に病む』(御書1009頁)ーこの六つの原因を御書の御文に即して、説明されていますが、一〜三が、気候の不順、飲食と生活の不節制を指すことは容易にわかります。問題は四〜六です。四の鬼とは、「体の外側から襲いかかる病因」を意味し、五の魔は、「生命に内在する各種の衝動や欲求などが心身の正常な働きを混乱させること」です。さらに、六の業とは、「生命自体がもつ歪み、傾向性、宿業が病気の原因になっている場合」とされています。

 生命力の源泉たる信心に、医学の力を借りて四までは治せる(ウイルスによるものも含む)が、五の魔と六の業によるものは、医学の力を尽くしてもそれだけでは治らず、「御本尊への強い信心によって、魔を打ち破り、業を転換していく以外にない」と断言されています。(300頁)

  「魔と業」ー私はこれを人が生きていく中で、ヨコ軸とタテ軸双方から襲ってくる二大障害と捉えています。人が今生きている環境の次元のものがヨコ軸、一方人が過去世から生きてきた歴史の次元からのものがタテ軸です。

 人は日常的に、強気と弱気が交錯する中で生きています。最も卑近な例でいえば、ついさっきまで強気で積極的な姿勢でいたのに、些細なことに影響を受け弱気になり、消極的になるケースが専らです。これはいわゆる「魔が差す」と言われる次元での話です。仏法でいう魔とは、仏道修行の途上でそれを妨げようとする様々な働きを意味します。したがって、魔に打ち勝つ、魔に負けるとの表現が用いられるのです。

 魔が人の生存する環境の中で、意識内の動向に左右されるものであるのに比し、全くそれが及ばない、過去世から現世に至る、意識外の事象に影響されるものが業だと思います。生まれつき人が持っている生命の傾向性とでもいうのでしょうか。人智を超えたところで人は幸不幸に左右されます。そういった枠組みの全貌を業というのです。いわゆる運命的な、人間存在の基底部の色合いを業というのだと私は捉えています。

 これらは通常の自覚や意識を強く持っていても、とても対応しきれません。それを打ち破り、転換していくには、御本尊への真剣な唱題しかない、というのが結論です。

●日の当たらぬポジションに立ったらどう対処するか

 この年の11月13日に起こったパナマ船籍の観光船ヤーマスキャッスル号の火災を通して、小さな失敗の積み重ねが大事故に至ることが語られ、小事が大事であり、大問題も小さなことから始まると指摘されています。それに続いて、伸一は年末に学会本部と聖教新聞社の各部署をくまなく点検する中で、陰で黙々と清掃作業に取り組む職員を見出します。ここから、小事を疎かにせぬ重要性について言及されていくのです。(338-339頁)

 「伸一は彼に桂冠を捧げる思いで、深く頭を下げ、丁重に礼を言った。ひとことに本部職員といっても、脚光を浴びる、華やかな部署で働く人もいれば、目立たぬ職場で、陰で本部を支える人もいる。人は日の当たる場所にいて、期待され、賞賛されている時には、はりきりもする。だが、その部署や立場を外れた時に、どこまで真剣に、意欲的に、仕事に取り組んでいけるかである」

 私は自分にしかできないことに取り組むことが、陰に回った時における自分の身の処し方で最も大事なことではないかと、考えます。従来と同じ次元で自分の立居振る舞いを考えるのではなく、全く新しい角度から、挑むことが大事です。自分にしかできないことをやるという自負心が人を支え、自身の自己肯定感に繋がっていくと思います。オンリーワンの心意気です。とりわけ高年齢になったら、より一層この気持ちが重要だと感じます。

 超高齢社会を迎える中で、かつては60-70歳でゴールを迎えることができて、それなりに〝終わりよければ全てよし〟ということが通用してきました。ところが、今ではそこから10-20年と平均寿命が延びていることから、認知症や被害妄想狂といった不幸が襲ってきています。若き日にどんな頑張った人でも悲惨な末路を迎えかねないのです。ここでも、最後まで信仰を貫く上での独自の工夫とでもいうべきものが必要になってくるのではないでしょうか。(2021-12-13 一部最修正)

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【42】〝臆病の岬〟の先を見据えてー小説『新・人間革命』第10巻「新航路」から考える/12-1

●西ドイツの炭坑で働きながら広布に活躍する青年たち

 1965年(昭和20年)10月19日、伸一はフランス、西ドイツ、イタリア、ポルトガルの4カ国に向かいます。この旅の目的は、文化交流を推進することで、民衆の心と心の結合による平和の礎を築くことでした。その前に、北海道、神奈川から10人の青年が、炭鉱で働きながらドイツ広布に人生をかけて闘うことに至る話が感動的に語られます。(227-272頁)

  世界広布に立ち向かう人々の戦いはこの小説の中で数々登場しますが、最も印象に残るのがこの炭坑夫たちのエピソードです。美しい満月の夜に夫が妻に「あのお月様は、日本のお母さんも見ているお月様だ。だから、雪子は、独りぼっちじゃないんだよ」と、炭坑夫として必死に頑張る仲間たちとの絆を語る場面は涙なしに読めないところです。「なかなか会えないが、ぼくの心はわかってくれるね」との夫の言葉に、妻は「黙って頷いた。その目に涙がひかり、やがて声をあげて泣き始めた」。「広布に生きる、温かい、夫の心に包まれている嬉しさに雪子は泣いたのである」と。(254頁)

   伸一はこのくだりの後に、「妙法広布のためにはいかなる苦労も引き受けようと決意し、青年たちが西ドイツに渡った瞬間に、既にドイツの広宣流布の大前進は決定づけられた」と述べています。「今の一念に、いっさいの結果が収まっている」との「因果倶時」の原理を知るにつけ、その確信を深めます。日本の私たちも様々な地域の広布を任され、その責任を担っています。一ブロックの担当であろうと、一行政区の議員であろうと、その原理は同じでしょう。愚痴や文句を言わずに頑張ろうと決意を新たにするばかりです。

   ●スカラ座招聘への民音責任者の懸命の祈り

 次に一行はイタリアのミラノに飛び、スカラ座の日本招聘に向けての交渉に当たっていきます。難しい交渉の成功に向けて担当した秋月青年部長の戦いへの伸一のまなざしが注目されます。前進の報告を受けて、伸一は「そうか。それはよかった。秋月君の一念だね」との言葉のあと、「秋月は、音楽・芸術の国際交流という民音の使命を果たすために、スカラ座の招聘が実現することを、ひたすら祈り、唱題し続けてきた」と述べられています。交渉の成就に向けて一念を込めた祈りの重要性がひしひしと伝わってきます。

 重要なことは勿論、些細なことであっても自身の責任に関わることには、ひたぶるな祈りを持って、事にあたろう。それを自ら身で示し、いつも教えてくれた尊敬してやまない私の今は亡き大先輩の言葉と姿が、耳と目に甦ってきます。

 「音楽・芸術には、国家や民族の違いを超えて、相互理解を深め、民衆と民衆の心を結ぶ力がある。音楽・芸術をもって、世界中の人々の心を結ぶことが、私の願いである」(281頁)ー我らが師匠・池田先生の凄さの一つはこの言葉に表れています。音楽・芸術の持つ力を知っている人は幾らでもいますが、皆観念にとどまっており、現実にそれを可能にすべく尽力してきた人は極めて稀なのです。

●エンリケ航海王子と「新航路」を開く勇気

 さらに一行はポルトガル・リスボンへ赴きます。世界史における大航海時代の覇者であるこの国について、戸田先生が「ポルトガル人の勇気は大したものだ」と讃えられたことを紹介した後、エンリケ航海王子の戦いについて具体的に語られていきます。(282-291頁)

   「ポルトガルの歴史は、臆病では、前進も勝利もないことを教えている。大聖人が『日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず』(御書1282頁)と仰せのように、広宣流布も臆病では絶対にできない。広布の新航路を開くのは、勇気だ。自身の心の〝臆病の岬〟を越えることだ」(290頁)

   「我事において後悔をせず」とは宮本武蔵の残した『独行道』21か条の中に出てくる名言ですが、常々自分に言い聞かせてきました。これについて小林秀雄は名著『人生について』で、「後悔などというお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、そういう確信を武蔵は語っているのである」などと解説しています。

 臆病と後悔ーたびたび〝臆病の岬〟を越えられず、後悔したことがありますが、これからはそれを忘れて、ひたすら岬の向こうを見据えて、自分をごまかさず生きようと思っています。(2021-12-12 一部最修正)

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