Monthly Archives: 1月 2022

【52】国境を超えた友情ー小説『新・人間革命』第13巻「金の橋」の章から考える/1-26

●学生部総会(1968-9-8)での歴史的「中国提言」に至る背景

 戸田先生と池田先生の師弟の絆はたとえようもなく強固ですが、世界の平和実現に向けての国境を超えた友情を育む姿勢にも見事なまでに反映されています。1968年(昭和43年)9月8日に開かれた学生部総会での中国問題での提言はまさに、戸田先生の原水爆禁止宣言に匹敵する極めて重要な内容でした。この章ではその講演に至るまでの日中関係の経緯と後継の学生部へのあつい思いとが協和音を奏でながら展開されます。(8-51頁)

   伸一の中国への思いは、戸田から受けた個人授業に全て起因します。「伸一は、この授業を通して、中国の気宇壮大な理想と、豊かなる精神性に、深く、強く、魅了されていった」ことに始まり、「歴史を正しく認識し、アジアの人びとが受けた、痛み、苦しみを知ることです。その思いを、人びとの心を、理解することです」との発言に尽きます。

 ここでは、日本の政界の松村謙三、経済界の高碕達之助、文学界の有吉佐和子の3人がいかに中国との関係において、献身的な努力をしたかが丁寧に語られます。これを通じ、のちに周恩来首相と伸一との国境を超えた友情が育まれるに至る背景が明確になります。この当時、大学3年生だった私など到底知り得なかったことばかりですが、大きな構想のもとでの対中関係の構築への労作業を知って、深い感銘を受けました。この章には、これからの日中関係を考える上での重要な情報が満載されていると思うのです。

    ●大学別講義から大学会の結成へ、「後継育成」の思い

 伸一が学生部総会の場で、日中国交回復に向けての提言を行う決断をしたのは、ひとえに後継の人材群を育てるためでした。「日中友好の永遠なる『金の橋』を築き上げるという大業は、決して一代限りではできない」し、「世紀を超えた、長く遠い道のりである限り、自分と同じ心で、あとを受け継ぐ人がいなければ、成就はありえない」との思いだったのです。

 だからこそ、この頃から大学別講義が行われ、大学会の結成が相次ぎました。私も岡安博司副理事長による『撰時抄』講義を数回にわたって受けました。また、4月26日に結成された慶大会に馳せ参じました。肺結核闘病中だった私はそこで、初めて池田先生の謦咳に接し、百万遍の唱題で必ず治るとの根源的指導と共に、温かいものを食べ、早めに寝ることなど、生活上の細かなアドバイスまで受けることができたのです。未熟な信心だった私は、後で考えれば無謀にも、恐れを知らぬ直裁さで大師匠にぶつかっていきました。

 すべての大学会の結成式に出席した伸一は「一人ひとりのメンバーを、我が生命に刻み付けようと必死であった」し、「それぞれの家庭の状況にも、丹念に耳を傾けた。彼は、共に同志として、皆の生涯を見守っていく、強き決意であった」と記されています。私自身まさにそう書かれている通り、生命の底からの激励を勿体なくも受けられたのです。

●歴史的提言の持つ意味

 9月8日の総会で、伸一は内に大学紛争、外にプラハ事件といった荒れ狂う環境にいた学生たちに、原因としての「世代間断絶」「生命哲学の欠如」といった問題から説き起こします。そして、中国との国交回復を実現するための3項目の提言(①国交正常化②国連加盟③経済・文化交流)など、後の国際政治に少なくない影響を与えた「77分の講演」を展開していきました。ここでは、その内容は勿論、その後の内外への影響にまで触れられ、さながら日中裏面史の赴きがあります。(52-85頁)

  当時、慶大で中国論をかじりかけていた私は、この講演を聞き「中国問題」を人生のテーマにしようと深く決意するに至りました。後に公明新聞の記者になり、政治家になってからもこの問題を追い続けました。その間、東京外大(慶大講師)から秋田国際教養大学長になられた中国問題の権威・中嶋嶺雄先生との交流に恵まれたことは大いなる幸運でした。また、記者時代から秘書を経て政治家として支えた市川雄一元書記長との様々な切磋琢磨からも、多大な彩りを得られたのです。

 それから54年。中国の人口は7億から14億人へと倍増しました。周恩来のような指導者は見当たりません。習近平のもと建国100年を迎える2049年へとひた走る中国と、未だ半独立の状況を脱し得ていない日本。両国を取り巻く状況は様変わりしました。明治維新から敗戦そしてコロナ禍と、二つの「77年のサイクル」を経た日本は、まさに正念場です。

 あの時の「私の中国観に対しては種々の議論があるでしょう。あとは賢明な諸君の判断に一切任せます」と、「(日中間に金の橋を築く大業は)一代限りでなく、世紀を超えた長く遠い道のり」だとの発言がわが耳にこだまします。政権与党の一翼を担う公明党よ、バランサーの役割を忘れるな、と。(2022-1-26)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【51】「何のため」を追い求めてー小説『新・人間革命』第12巻「栄光」の章から考える/1-20

●人間精神の開拓作業としての〝詩心〟

 「地涌の友よ いま 生命の世紀の夜明けに 陣列は幾重にも布かれたのだ」ーこの出だしで始まる、山本伸一の詩「栄光への門出に」と共に、1968年(昭和43年)の新年は明けました。この中にある「生命の世紀」との表現に、読むものは皆、未来への重大な使命を感じざるを得なかったのです。「戦争と殺戮の20世紀から、平和と生命の尊厳の21世紀へと転換しゆくことこそ、学会が成し遂げようとする広宣流布の目的である」ことを、私も強く自覚しました。22歳になったばかりの私は、55歳で迎える21世紀に大きな希望を抱いたのです。

 しかし、現実は、前年暮れに大学での定期検診の結果、肺結核と診断され、一年の入院治療を医師から宣告されていました。それに従うことは、親が信仰をしていなかった当時の私には、到底できませんでした。学会から離れよ、と親がいうのは目に見えていたからです。我が身の境遇の厳しさに愕然としましたが、新年号の詩とともに、負けるものかと大いに発奮し、親に内緒で通院しながらの下宿での闘病生活を始めました。

 伸一のさまざまな詩には、私も本当に根源的な勇気と希望をいただきました。「少年のころから、詩が大好きだった」という伸一は、「年齢を重ね、人の心が殺伐としていく世相を目にするにつれ、この〝詩心〟ともいうべき豊かな精神の世界を、人間は取り戻さねばならないと、思うようになっていった」と、その心情を吐露しています。そして、「仏法を弘める広宣流布の運動は、詩心を復権させる、人間精神の開拓作業である」との結論に到達した経緯が語られていくのです。(290-296頁)

●創価学園の出発の日を迎えるまでの日々

 この年4月8日、創価学園(中学、高校)が開校され、第一回の入学式が行われました。1950年(昭和25年)に恩師戸田城聖から学校設立の構想を初めて聞いて18年の歳月が流れていました。その間に伸一が着々と準備を重ね続け、この日を迎えたことが明かされていきます。(296-330頁)

   その数々の動きの中で、学校設立に伴うお金の問題が最も注目されます。学校建設の候補地を探すために伸一は妻の峯子と共に、小平市の玉川上水が流れる閑静な土地に向かいました(昭和35年4月5日)。その地に決める決断をしたのですが、オニギリを食べながら二人が語り合う場面は一幅の名画の趣きがあります。設立に要する費用を心配する峯子に「大丈夫だよ。ぼくが働くよ。これから本を書いて、書いて、書き続けて、その印税で、世界的な学園を必ず作ってみせるよ」と、伸一は言い、峯子は微笑んで頷いた、とあります。このくだりを読むにつけ、偉大な創造者の気構えの壮大なることに打ちのめされる思いです。

 それから6年後、昭和41年4月10日。購入した土地を視察した際に、伸一はその雑木林のあたり一帯が美しく保たれていることに瞬時気付きます。調べると、近隣の同志たちの真心による清掃(6年間で100回を数えた)のおかげだったのです。「今、創価高校の建設の話を聞いて、寄付をしたいと言ってくださる同志も大勢いる。この清掃といい、寄付の件といい、無名の庶民である会員の皆様が、創価教育の城を築き、守ろうとしてくださっている」ーこの創立者あったればこそ、創価学園は今日まで見事な発展をしてきました。この頃から今まで、ずっと創価学園の姿を見てきた者として、ただ感動あるのみです。

●学園寮歌の作成経過と高校生の心意気

 7月14日に寮祭(栄光祭)が行われ、そこで高校生たちが作った寮歌が披露されます。この寮歌が完成するまでの経緯は、生徒たちからの60編ほどの歌詞が寮長の永峰保夫の元に集められるところから始まります。その中で、大倉裕也という高校生の作品が選ばれ、音楽の教師である杉田泰之が作曲を担当しました。そして、一番から四番までからなる寮歌「草木は萌ゆる」が完成したのです。(349-356頁)

   「草木は萌ゆる武蔵野の 花の香かぎし 鳳雛の 英知をみがくは 何のため 次代の世界を 担わんと 未来に羽ばたけ たくましく」ーこの歌を聴いた伸一は、「いい歌だね。さわやかで、すがすがしい。そして、力強い。二十一世紀に羽ばたかんとする、学園生の心意気がみなぎっている。名曲が完成したね」と感想を述べています。そして、すぐのちに、五番の歌詞を自ら作って、〝師弟合作〟にするのです。

 「富士が見えるぞ 武蔵野の 渓流清き 鳳雛の 平和をめざすは 何のため 輝く友の 道拓く 未来に羽ばたけ 君と僕」ー「輝く友の 道拓く」の箇所には、学園生のために命がけで道を拓こうと決めた、伸一自身の決意が込められていた、と記されています。

 この歌の中で繰り返される「何のため」こそ、創価学園の永遠の精神だといえます。(2022-1-20)

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【50】遥かなる人文字の東京文化祭ー小説『新・人間革命』第12巻「天舞」の章から考える/1-14

●創価文化会館の完成と落成入仏式での講演

    1967年(昭和42年)9月1日。東京・信濃町学会本部に隣接して創価文化会館が完成しました。創価学会の会館に「文化」のニ文字が冠せられるのは、この建物が初めてでした。昭和44年4月16日に私は公明新聞社に入社しましたが、その日の朝、偶々池田先生と本部の玄関先でお会いし、激励を受けました。その後、文化会館地下の集会室での勤行会に連ねさせていただきました。また、5階の大集会室で開かれた昭和52年の中野兄弟会総会では、池田先生の前で中野区男子部長として挨拶をさせていただく栄誉に浴しました。若き日の数々の思い出をこの文化会館で刻むことができたのです。

 この文化会館の落成入仏式で、山本伸一は「第三文明建設の新しい雄渾なる第一歩をこの立派な創価文化会館から踏み出せましたことを、私は最大の喜びとするものであります」と切り出したあと、以下、強く胸に響く重要な講演をします。(199頁)

 「広宣流布とは、一口にしていえば、日蓮大聖人の大仏法を根底とした、絢爛たる最高の文化社会の建設であります。(中略) すなわち、色心不ニの大生命哲学を根幹とした、中道主義による文明の開花であります。今や資本主義も、社会主義も行き詰まり、日本もアジアも、さらに世界も、大きな歴史の流れは、一日一日、一年一年、この中道主義に向かっていることは間違いありません。また、それが時代の趨勢であると、私は断言しておきたい」と、述べたのです。

 この時から55年ほどが経ち、社会主義は凋落し、資本主義も変質を余儀なくされています。日本にあって、「新しい資本主義」なる言葉を時の首相が使うというのも、行き詰まっているからに他なりません。一方で、今の世界は無思想、哲学なき時代とも言われています。日本での政治における中道主義をめぐる現状は悪戦苦闘が続いているように見えますが、暗雲を吹き払う動きが必ず起きる、いや起こしてみせると深く期している仲間たちは多いものと信じています。

●東京文化祭ー人文字と先輩と陰の苦労者たちと

 この年、10月15日。東京国立競技場で開かれた東京文化祭。「すべてが未曾有の祭典であった。すべてが感動の大ドラマだった。すべてが歓喜の大絵巻であった。すべてが希望の未来を映し出していた」ーこう表現される文化祭の一部始終がこと細かに描かれていきます。(204-270頁)

 このとてつもない文化祭に、私も参加できました。4万2千人の人文字の出演者の一人として。今なお不思議に記憶に残っているのは、色彩板(画用紙の束だったように記憶します)の片隅にあけられた穴から見た競技場の風景です。中央の指揮所から出される合図信号を見て、次々とその〝色彩紙〟をめくっていったのです。大学3年生だった私は興奮して、その穴からひたすら前方を覗いていました。その人文字の全貌を知ったのは、ずっと後のこと。映画を見て初めてその凄さを知りました。

 この一大ページェントの演技、演出の責任者は、副男子部長の久保田直広でした。後に男子部長になり、衆議院議員となった大久保直彦さんがモデルです。彼は民主音楽協会(民音)の職員として、海外の著名なバレエ団の受け入れにあたるなかで、舞台の研究をしてきたのです。「その経験から、文化祭を一つの舞台ととらえ、全体を貫くテーマを設けようと考えた」とされます。そのテーマは「世界平和」。見事な総合芸術の顕現化として、日本中をあっと言わせました。

 文化祭の準備から当日の動きのすべてに目配りした記述の最後に、伸一は陰で作業をしてきた場外の役員の激励にあたります。「皆さんが黙々と頑張ってくださったお陰で、大成功の文化祭となりました」ーその声がけに「使命に生きる青春の誇りが満ちあふれていた」との描写がなされて、読むものの胸を撃ちます。

 この後、伸一のところに、青年部幹部が文化祭大成功の報告にやってきます。皆の感想を聞きながら、伸一の顔は次第に曇っていきました。「青年部の首脳たちが、文化祭の成功に酔い、本人たちも気づかぬうちに、心に、うぬぼれと油断が兆しているのを感じた」のです。「みんな、自分たちは、大したことをやったと思っているんだろう!」との厳しい声と共に、陰の力があってこその成功であることを忘れている姿勢を嗜めていきました。「東京文化祭というのは、既にもう過去のことなんだ。過去の栄光に酔いしれていれば、待っているのは敗北だ」と、文化祭直後に、青年部幹部の慢心と油断を注意したのです。

 大久保さんは私の下宿先の中野区に隣接する杉並区在住で、ご自宅にも行ったことがあります。仰ぎ見る大先輩でしたが、親しくさせていただきました。いつも笑みを絶やさぬ兄貴分でした。その背中を見るたびに、文化祭での戦いが染み込んでいるのだと、思ったものです。(2022-1-14)

 

 

 

 

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【49】地域おこしの要諦ー小説『新・人間革命』第12巻「愛郷」の章から考える/1-8

●松代での担当幹部への厳しい心構え

  地震大国・日本ではどこでも、いつ何時、強い大地の揺れに襲われるか知れません。長野県松代は、1967年(昭和42年)の時点で、その2年ほど前から、群発地震の恐怖に苛まれていました。欧米の旅から帰国した山本伸一は、5月末から6月にかけて関西の同志の激励に走った後、6月23日に松代を訪れます。ここでは、その訪問に先立つ経緯が述べられます。その中で、同地を担当する幹部への伸一の指導が強く興味を惹きます。(113-118頁)

    昭和40年11月11日。松代に行く前にやってきた黒木昭に対して、伸一は「幹部が現地に行き、会合に出たり、メンバーと会うのは、ただ情報を伝えるためではない。勘違いされては困る。みんなを触発し、一念を変え、決意を固めさせるために行くんです」と。ーこれを聞いて、黒木は緊張と戸惑いの顔を見せます。それに対して、「では、どうすれば皆の一念を変えることができるのか」として、さらにこう述べています。

「それには、まず、中心者である君自身が、自分の手で、この松代に広布の一大拠点を築いてみせると、心の底から決意することだ」と強調し、「必死さがなければ、広布の新しい歴史など、開けるわけがない」「遊び半分の人間に何ができるというのだ」「幹部が、口先だけの演技じみた言動で、同志が動くなどと思っているなら、甚だしい思い上がりだ」と続きます。これに、黒木は「私自身が、全力で戦い、松代から日本を立て直すつもりで頑張り抜きます!」と、決意を込めて応えました。伸一は黒木の肩に手をかけ、「そうだその意気で戦ってくるんだ。松代の同志には、強い愛郷心と、深く大きな使命がある。必ず、変毒為薬することができる。一人ひとりが住民の依怙依託となって、地域を守り抜いていくんだ」と励ますのです。

 ここには、地震による危機的状況に陥った地域をどう励まし、立ち上がらせるかについての基本的な取り組み姿勢が余す所なく述べられています。この30年でも阪神淡路で、新潟で、熊本で、岩手、宮城、福島などで連続して続く大地震災害ーそのつど、この原理を思い起こして、多くの幹部が現場に赴き、戦いました。

 黒木昭のモデル黒柳明さんと初めて私が会ったのは、この場面のほぼ2年後。以後、凄まじいまでの迫力での参議院予算委での質疑や、ユーモア溢れる語り口調での応援演説、信じがたいテレビのバラエティ番組出演などを見て、そのつど驚き、感心し、呆れてもきました。同一人物であるとはとても思い難い立居振る舞いでした。しかし、共通していると見えるのはいつも〝この人独自の一途さ〟がうかがえることでした。こんな兄弟子と同時代を生きてきたことを誇りに思いつつ、今も時々電話などで言葉を交わしています。

●観光地として見事に飛翔した飛騨高山の戦い

  小諸、松代への訪問を経て、長野県での指導旅が、総合本部長・赤石雪夫への「逃げるんですか!」との一言、カメラマン矢車武史の大失敗への激励など、印象的なエピソードが盛り込まれて、描かれていきます。(119~158頁)  そして、舞台は岐阜県高山市へ。ここでは飛騨の歴史が語られた後、総支部長・土畑良蔵や10歳の少女・丸山圭子の体験や交流が描かれて胸を撃ちます。(159~195頁)  この中で、私が注目したいのは、飛騨高山の地域おこしについての伸一の考察と、現実の展開です。

 飛騨高山は今でこそ日本有数の観光地としての地位をしめていますが、伸一が初訪問する前年の昭和41年には20万人にも満たない観光客数でした。それが、43年には2倍になり、「74年(同49年)には約200万人となり」ました。今はご多分に漏れずコロナ禍で苦境に喘いでいますが、昭和40年代後半の激増ぶりは本当に凄い数字です。

 この辺りの背景について、「こうした繁栄の陰には、地域の発展を祈り、我が使命としてきた、多くの同志の知恵と献身が光っている」とされ、「地域の振興に尽力してきた学会員も少なくない」とあります。そして、「村(町)おこしや地域の活性化は、どこでも切実な問題であるが、特に過疎の村や山間の地などにとっては、存亡をかけた大テーマであろう。だが、住民が、その地に失望し、あきらめをいだいている限り、地域の繁栄はありえない。地域を活性化する源泉は、住民一人ひとりの愛郷の心であり、自らが地域建設の主体者であるとの自覚にある」と結論づけられています。

 このくだりを読んで直ちに兵庫県各地の過疎地域が思い浮かびます。なかでも但馬の美方郡村岡町で頑張る元町議の姿です。なかなか実を結ばない戦いに、時にあきらめに近い思いが湧き出てきたようですが、今は思い直して懸命に考えられるだけの全てを結集して地域おこしに取り組んでいます。私もまずは彼自身への激励に全力を注いでいます。(2022-1-8)

 

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【48】油断は禁物、小事が大事ー小説『新・人間革命』第12巻「新緑」の章から考える/1-2

●真剣ということ
 
 どの言葉も、最も的確に、相手の心をとらえていた。魂の琴線をかき鳴らし、歓喜の調べ、勇気の調べを奏でた。ー山本伸一は1967年(昭和42年)5月13日にハワイに誕生した寺院の入仏式に出席した後、ハワイ会館で待ち受けていた会員一人ひとりに激励に次ぐ激励を展開していきますが、その際の情景がこう語られています。そして、それをつぶさにそばで見ていた日系アメリカ人幹部が、のちに「どうすれば、ああいう言葉をかけることができるのでしょうか」と伸一に問いかけます。(22-24頁)
 それ対する答えは「私は真剣なんです!」。さらに、「特別な秘訣や技巧などはない。真剣ーこの二字のなかには、すべてが含まれる。真剣であれば、勇気も出る。力も湧く。知恵も回る」と続きます。実は、この日系アメリカ人幹部の問いは、そのまま私自身が初めて池田先生に会い、その場に居合わせた仲間たちへの様々な激励に接した時(昭和43年4月26日)に抱いた思いと同じでした。いったいどうしてこのように、それぞれの人間にピッタリの言葉が泉のように湧き出でてくるのだろうと、不思議でならなかったのです。
 ふざけや、油断、怠惰など一切寄せつけない「真剣さ」こそがその源泉であることを、ここの記述から知って、改めて慄然とする思いです。あの日に眼前で展開された、凄まじいまでの一人ひとりへの懇切丁寧な言葉の連射は、半世紀を超えて今になお鮮明です。様々な局面で、ややもすれば、安易な姿勢に陥りがちな自分は、痛烈に反省するしかありません。

 ●「小事が大事」という原理

 この章における伸一の海外各国の訪問先は、アメリカ(ハワイ、ロサンゼルス、ニューヨーク)から、フランス、イタリア、スイス、オランダと移っていきます。各地における会員との「心の結合」がつぶさに描かれており胸を撃たずにはおきません。フランスでは交通事故を起こした川崎鋭治への、こと細やかな激励が展開されています。(48-62頁)

 半年間にも及ぶ入院治療が必要になった大事故を起こした彼の事故の顛末は、我々の日常に起こりうることで、まさに身につまされます。疲れが溜まっていたにも関わらず、長時間の運転をしたのです。その背後には、「信心をしているから」「題目をあげているから」大丈夫だとの思いがあったと推察されます。それが大事故に繋がってしまったのですが、「小さなミスや小さな手抜きが、魔のつけ込む隙を与え、取り返しのつかない大事故を生むのだ。ゆえに小事が大事なのである」と記述されています。大聖人の「小事つもりて大事となる」(御書1595頁)との御金言をひいて。
 
 私も交通事故については大きな体験が二つほどあります。一つは、疲れているのに運転をして、ほんの一瞬目を瞑ってしまい道路左の橋の欄干に擦ってしまったことです。もし、右にハンドルを切っていたら、対向車と衝突してた可能性大でした。もう一つは、妻を助手席に乗せて運転していた際に、突然左前輪がパンクしたのです。スピードは殆ど出していず、一方通行三車線の真ん中を走っていたため、これも助かりました。
 実は、この日の前日、遠出をした帰りに高速道路を走って帰るのを止めて、一般道をゆっくり帰ったのです。もし、高速道を走っていたら、間違いなく、車は横転して、事故死も起こり得たと心底からゾッとしました。おかげさまでこのように私の場合は、不思議にも守られました。しかし、二度あることは三度あるとの例えもあります。以後ハンドルは極力握らないようにとの妻の厳命を受けたしだいです。

 ●子どもへの信心の継承

 スイスのチューリッヒ空港に出迎えた高山光次郎という青年と、その母サチについての体験談は、子どもと母親をめぐる信心の継承について、深く考えるきっかけになります。(86-91頁)

 「我が子の幸せを願い、信心をさせたいという母の一念は、必ず通じていくものだ。それには、絶対に願いを成就させるのだと決めて、弛まず、決してあきらめずに、真剣に唱題し抜いていくことである」とあります。また、「子どもは、日々、親の姿、生き方を見て、信仰への理解と共感を深めていく」とも。
 
 こうした指導はしばしば聞き、目にするのですが、現実はなかなか簡単にはいかないものだともいえます。私も長い間の信仰生活の中で、様々のケースを見てきましたが、見事に親子の継承がうまくいってる場合と、そうでないケースがあります。それを分つものは何か、と考えた時に、やはり、「一念の深さ」だと思います。心のどこかに、子どもには子どもの人生がある、信心を強制してもうまくいかない、といった迷いがあるなら、やはり結果は出ないのです。「子どもに信心を継承していくことは仏法者としての責務であり、そこにこそ、真実の愛がある」との記述はズッシリと重く響いてきます。(2022-1-2)
 

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