Monthly Archives: 8月 2022

【83】「文化」「教育」重視の価値観──小説『新・新人間革命』第21巻「共鳴音」の章から考える/8-23

●会長就任15周年と伸一会の発足

 1975年(昭和50年)5月3日、会長就任15周年の佳節がめぐってきました。ここではその間の戦いに触れたのちに、創価学会の目的が広宣流布、「立正安国」の実現にあることが改めて述べられていきます。(225-244頁)

 【この広宣流布は、「安国」という、社会の繁栄と平和の実現をもって完結するのである。「安国」なき「立正」は、宗教の無力さを意味していよう。また、「安国」がなければ、個人の幸福の実現もない。ゆえに、「立正安国」にこそ、仏法者の使命がある】(226頁)

   日本の宗教界の殆どがあまり「安国」に関わろうとせず、深い関わりのある政治を傍観してきました。それではならじと、公明党が結成されたのです。「社会の繁栄と平和の実現」がまだまだ遠く、「世界の平和」が「一国の平和」だけでは事足りないがゆえに、世界の各国を繋ぐSGIの結成もみてきました。壮大な「立正安世界」の動きにこそ、人類の行く末を握るカギがあると確信します。

 また、この日に、「伸一会」が結成されました。かつての水滸会に代わって、新しい創価学会を担う人材育成のためのグループです。この時の伸一の指導が胸に響きます。「戸田先生は、青年に対して『宗教家になれ』とは言われなかった。『国士たれ』と言われた。そこには、宗教の枠のなかにとどまるのではなく、さまざまな道に通じた指導者になってほしいとの思いがありました。広く、全人類の平和と幸福を築き上げることこそ、仏法の目的です」(239頁)

  このほぼ2年後に結成された伸一会2期生の一員に私も加わりました。果たして、戸田、池田両先生のお心に叶った「国士」足り得ているかどうか。深く自省する一方、未だまだこれから頑張らねばと決意しています。

●ローマクラブのベッチェイ博士との対談

 この8日後、伸一はフランス、イギリス、ソ連訪問に出発します。この年、三度目となる海外訪問で、旅程は18日間。フランス訪問の目的のひとつは、ローマクラブのアウレリオ・ペッチェイ博士との会談でした。同クラブは、1968年(昭和43年)に、天然資源の無駄遣い、人口爆発、環境破壊などによる人類の危機を回避するために、同博士らが中心になって、世界各国の学識者や経営者らに呼びかけられ、発足した民間組織です。トインビー博士が伸一との対談後に、同博士と会うことを勧めていました。対話の輪がすぐさま広がったのです。

 文化交流の必要性、人間教育のあり方、時代状況を把握する方途など、多岐に渡った2人の対談で、日本の進むべき道について伸一が主張したことが、注目されます。「政治の次元は、必ず力の論理が、経済の次元では、利害の論理がどうしても先行する」とした上で、「これからの日本は、平和主義、文化主義の旗頭として、国際社会に、人類に貢献すべきです」と述べています。(269頁)

   明治維新から77年間、軍事優先できた日本は一国滅亡の危機に瀕し、戦後77年間というのは一転、経済優先できました。今、未曾有のコロナ禍危機に直面して、あらゆる意味で、これまでの価値観の転換が求められています。そんな時だからこそ、「日本の新しい在り方を『文化』『教育』に置いていた」伸一の考え方は、先駆的かつ重要な提案でした。ローマクラブの地球環境を守ろうとの動きは、今SDGsの動向へと結実し、地球的関心を高めています。その始まりもこの2人の対談と無縁でなかったと、感動を新たにするのです。

●「励ましの対話」の極意

 この章で私が強く感銘を受けた箇所は、フランス学会員の中核である長谷部彰太郎への励ましの場面です。パリ滞在5日目の17日にパリ会館から西に一時間ほどのところにある新しく彼が購入した家に、伸一は向かいます。実は彼は家を買うべきかどうか悩んでいました。画家であった彼には、定収はなく預金もありません。会合のための部屋が欲しく、将来のことを考えて、前年来日の折に、伸一に相談していたのです。

 その際に、伸一は、「断じてフランスで家を購入するぞ、と決めて真剣に祈ること」が大事だと強調、「ただ家がほしいというだけではなかなか叶わないかもしれない」とアドバイスします。長谷部はそれに対して、意外な顔をして、「何か、祈り方があるのでしょうか」と尋ねました。伸一はこう答えます。(290頁)

 「あります。フランスの人々の幸福と繁栄のために、広宣流布を請願し、祈り抜いていくことです」と、述べた後、事細かに具体的な祈り方を教えていきました。そして購入したら、必ずその家を訪問すると約束したのです。ここに、「励ましの対話」の極意を見いだします。伸一は、相手の悩みに対し、具体的な祈りのあり方を伝えて、目標も提示し、更に次の出会いも約束しました。長谷部はその心に必死に応えようと祈り動いたのです。(2022-8-27)

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【82】友好の輪は「誠実と信義」から──小説『新・人間革命』第21巻「人間外交」の章から考える/8-20

●佐藤栄作元首相との深い絆

   SGIの発足から米国での国連事務総長、国務長官との会見を終えた伸一は、一転、日本国内で政治家や大学の総長、各国の駐日大使らとの会見、交流を重ねていきます。まさに人間としての外交の真の展開をしていくのです。なかでもノーベル平和賞受賞直後の佐藤栄作元首相との会談は印象的です。実はこの二人の出会いはこの時(1975年2月)が初めてではなく、最初は1966年(昭和41年)1月の鎌倉・長谷の別邸でのことだったことが明かされます。以下、まずその時の元首相の発言から。

 「『人間革命』読みましたよ。厳しい言葉がありますね。総理よりも一庶民が偉いと書いてある」「創価学会は純粋ですね。気持ちがきれいだ。純粋に国のためを思っていることがよくわかる」──小説『人間革命』の感想から始まり、「若い世代が国の将来を思う心をなくしてしまった。本当に残念なことです」「欧米には、宗教的モラルがあるが、日本人には自らを律するものがないのが心配です。しかも、本来、モラルの模範を示すべき政治家が、決して模範になっていない、これは極めて由々しき事態です」──と、吐露しています。

 そして、吉田茂と一緒に写した写真の前で、「私の師匠です」と誇らかに。【一国の総理が自分の師匠を尊敬し、誇りをもって紹介する姿に、伸一は〝この人は心から信頼できる〟と思った】とあります。そして、「あなたの師匠は戸田さんでしたね」との元首相の問いかけから、師弟論に話は進みました。(107-113頁)

   私が初めて国会に取材記者として〝廊下トンビ〟をしたのは昭和44年。時の総理・佐藤さんの発言を予算委員会で聞いたのもその頃でした。その後約20年、歴代の首相の姿を見続け、一転、議員に選んでいただいてからの20年も。色んなことがありましたが、国会で走っていた私が、衛視に囲まれ前を歩く佐藤首相に危うくぶつかりそうになりました。そして、「言論問題」が取り沙汰され、心なき野党議員の論難に対し、とても冷静で適切だった佐藤首相の答弁ぶり。こんなことを思うにつけ、風格のある人物だったことを思い起こします。

●福田赳夫元首相とも

 続いて、福田赳夫元副首相(当時)との懇談も、1975年(昭和50年)3月に。「会長のことは、佐藤総理からも、よく伺っています」で始まりました。【一人の人と、誠実と信義で結ばれていくならば、そこから、友情の輪は幾重にも広がっていくのである。一人を誠心誠意、大事にすることだ。「一は万が母」(御書498頁)である】──ここでは、「心の財」や青年の育成についての会話が弾んだと、あります。(123-128頁)

    当時、私は入社6年目、30歳。仕事の上では「自民党批判」をあの手この手で展開していました。福田さんとの思い出は皆無ですが、後に自公政権で首相となったご子息の福田康夫さんとは、予算委員会で「大連立批判」の質疑をしたものです。個人的にも親しく付き合いました。福田さんについては、「対中国観」が安定していると感心したしだいです。突っ込んで聞く機会は逃しましたが、今も尚、強く印象に残っています。

●第三次訪中での鄧小平氏との会見

 この後4月に伸一は第三次訪中に向かいます。そこで、鄧小平副総理と2度目の出会いをします。この時、毛沢東主席、周恩来首相は健在でしたが、主席は高齢、首相は健康に問題がありました。中国を代表する鄧氏との間で、米ソ、中ソ関係など世界の情勢を巡って率直な意見交換がなされます。また、日中平和友好条約の締結についても。この時の会談で、最も注目されるのは、「覇権」に関する考え方です。鄧氏は、この当時の大国に対して、どこまでも「反覇権」を貫くことを強調したのです。

 この場面の後に、鄧小平氏は再び失脚し、その後2年ほどが経ってまた復活し、不死鳥のごとき活躍をしていきます。現代中国の礎を作ったのはまさにこの人物だといえます。今の中国を見ていて、鄧氏が伸一との会談で、中ソ関係の行く末について「問題は指導者です。今後、どんな人物が現れるかです」と述べたことが強く私の心を捉えて離しません。そっくり、そのままこれからの中国にも当てはまるからです。この時から、半世紀が経ち、中国は大きく国力を高めました。今この国の一挙手一投足が世界の関心を集めています。

 「反覇権」を中国自らが貫くのか。また、これからのこの国の指導者には誰がなっていくのか──この2点に私の興味も集中しています。私たちは現在の中国の指導者の表面上の発言や動きを見て一喜一憂しがちですが、底流に流れるものを見据えていく必要を痛切に感じます。伸一が渾身の力を込めて築いた日中関係をどう発展させていくか。後継者たちが残された遺産をどう活かしゆくか。大学時代からだと60年ほど、いつも考えるところです。(2022-8-21)

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【81】平和の種を蒔いて一生を終わることー小説『新・人間革命』第21巻「SGI」の章から考える/8-15

●まだまだ遠い、地球的規模の人類の統合の道

 「SGI」(創価学会インターナショナル)が誕生したのは1975年(昭和50年)1月26日のこと。西太平洋の米国の準州・グアムで開かれた「第一回世界平和会議」の席上、結成されました。この章では、そこに至るまでの経緯が詳しく述べられていきます。当初は51カ国・地域、158人の代表が集い(参加希望は74ヶ国・地域)、国際仏教者連盟(IBL)が結成されました。この組織は、各法人、団体の互助会的傾向が色濃いものでした。このため、信心の指導が受けられ、学会精神の学べる国際機構を待望する声が巻き起こり、直ちにその場で発展的解消がなされてSGI結成へと、進んだのです。(7頁~44頁)

    この会議で挨拶に立った伸一は、【「異体同心なれば万事を成じ」(御書1463頁)の御文を拝し、生命尊厳の哲理を根本に、各国の民衆が団結して進んでいった時に、必ず永遠の平和が達成されると強調。さらにトインビー博士との対談の折、戦争の歴史であったこの世界を、どのようにして世界国家、世界連邦へと統合するかについて語り合ったと述べた。(中略)  博士がこの対話を通して、〝将来地球的規模で人類の統合がなされる時には、世界宗教が広まることが重要な役割を果たすであろう〟との考えに立つようになったことを紹介した】と、あります。

 さらに、伸一は、50年前の対談の別れ際に同博士から、「世界の人びとのために、仏法の中道哲学の道を、どうか勇気を持って進んでください」と言われた、とも語っています。そして最後に、「自分自身が花を咲かせようという気持ちでなくして、全世界に平和の種を蒔いて、その尊い一生を終わってください。私もそうします」と結んでいます。(42-43頁)

 それ以後、今日まで、SGIは大きな前進を示していますが、地球的規模の人類の統合への道はまだまだ遠い現状です。だから諦めるとか、ただ嘆くのではなく、その実現に向けて、これからも長く続くであろう道を、幾多の困難をも乗り越えていくしかないといえます。私たちにとって、仏法の中道主義を知った喜び、そして日々平和の種を自分は蒔き続けているのだとの確信こそが、何ものにも代え難い手応えだといえましょう。

 ●ガーナ広布にかけた日本人

    世界平和会議でのスピーチを終えると、各国代表のテーブルを周り、激励の言葉をかけていく伸一の様子が紹介されていきます。シンガポールとマレーシア。そしてガーナのリーダーが登場します。このうち、ガーナ指導長・南忠雄についての記述が私には印象深く迫ってきます。というのも、この人物のモデル薬袋(みない)聖教新聞海外常駐特派員は神奈川県横須賀市の人で、それなりに私も面識があったからです。

 「同じ一生ならば、アフリカの人びとの幸福のために人生を捧げ、広宣流布のパイオニアとして名を残すことだ。それが君の使命だ。崇高な使命に生きられるということが、どんなに素晴らしいか、やがてしみじみとわかる時がくるよ」──伸一はこう激励をし、南は元気いっぱい昭和49年に現地赴任していきました。いらい、マラリアに罹り大変な目にあいながらも見事に使命を果たし、9年後の昭和58年にはアフリカ初の会館を完成させます。遠いアフリカの地での獅子奮迅の戦いが察せられ、深い感動を覚えました。

 実はこの春に薬袋さんは亡くなられたと聞きました。既に聖教新聞を定年退職されて、日本に帰ってきておられました。崇高な使命を果たされたアフリカでの生活の一端や現地の様子を聞きたいものでしたが、果たせずにお別れしてしまったことは残念でした。

●複雑な韓国の内部事情

 一方、この章の最後に、世界平和会議に参加出来なかった韓国の状況について、伸一が心を砕いていく様子が述べられています。当時、韓国は三つのグループに分かれて、複雑な内部事情がありました。(96-100頁)

 「もしも、こんな状態が続けば、当事者だけでなく、全メンバーが、いや一国が不幸になってしまうからだ。それは何も韓国に限ったことではない。世界のいずこの組織であっても、清らかな信心が流れないようになれば、幹部の腐敗と堕落が始まり、利害に絡んだ派閥争いや、分派活動が起こることになるだろう。絶対に、そんなことをさせてはならない」──こう、伸一は会議終了後の打ち合わせで語り、韓国の団結をSGIとしての最初のテーマに掲げて、皆で総力をあげて対応することにしたのです。その結果、最終的には2000年(平成12年)4月に、韓国SGIの法人設立が許可されるようになりました。

 韓国こそ最も日本との関係が難しい国です。この間の関係者の皆さんの大変な努力を思うとき、つくづく能天気な自分を反省します。何事も一朝一夕には成就しないことを改めて痛切に感じるのです。(2022-8-15)

 

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【80】中国首脳との深くあつい出会い──小説『新・人間革命』第20巻「信義の絆」の章から考える/8-10

●周恩来首相との感動的、劇的な出会い

 ソ連訪問から2ヶ月ほどが過ぎた1974年(昭和49年)11月中旬。中国の北京大学からの招待状が伸一に届きました。12月2日の2回目の訪中までに伸一は、第一次訪中の感想を述べた著作(『中国の人間革命』)の執筆など、「日中友好」の絆を深めるあらゆる手立てを講じていました。この章の冒頭は、両国の関係改善から強化について、心の配り方について、深く考えさせられる示唆に富んだ内容です。(297-326頁)

    中ソの関係悪化という背景を受けて、両国の間を取り持つ糸口となる働きをしたいとする伸一は、鄧小平副総理との会談で「ソ連は中国を攻めようとはしていません」との見解を伝えました。同副総理は「それは大変に難しい判断を必要とします」と述べただけ。多くを語りませんでした。会談の冒頭での「問題は複雑です」との発言と合わせ、中国側の裏事情を感じさせるに十分な様子でした。伸一は機敏な対応で話題を変えます。このくだりからは、私は手に汗握る外交の機微といったものを感じ、興味津々の思いを深めました。(329頁)

   そして最終の舞台で周恩来総理との劇的な場面が登場します。体調が極めて悪く入院中であった同首相から、会いたいとの強い希望が伝えられてきたのです。

 【総理の手は白かった。衰弱した晩年の戸田城聖の手に似ていた。伸一は胸を突かれた。二人は互いに真っすぐに見つめ合った。伸一は痩せた総理の全身から発する壮絶な気迫を感じた。時刻は12月5日午後9時55分であった】76歳と46歳──「最初で最後の、生涯でただ一度だけの語らいとなった。しかし、その友情は永遠の契りとなり、信義の絆となった。総理の心は伸一の胸に、注ぎ込まれたのである」──こんなにも心に食い込む出会いの表現に、私はかつてであったことはありません。(338頁。345頁)

 この語らいで、伸一が「中国は世界平和の中軸となる国です」と述べたことに対して、周総理は「私たちは超大国にはなりません。また、今の中国は、まだ経済的にも豊かではありません。しかし、世界に対して貢献はしてまいります」と応じています。ここで使われた「超大国」とは、当時の米ソ両国を意識した、世界の覇権を求める国という意味でしょう。今、中国は経済的には米国に迫りつつあり、あらゆる意味でその「貢献」が問われています。周恩来と習近平──2人の「しゅう」が同じ「心根」を持った人であって欲しい、ということが率直な日本人の願望です。有為転変の世界をリアルなまなざしで見つめるしかない、と私は思うのです。

●ワルトハイム国連事務総長との交流

 翌1975年(昭和50年)1月6日。伸一は早くも今度は、米国に飛びます。10日には国連本部を訪問して、ワルトハイム事務総長と会談しました。ここでは、核兵器絶滅の道、人口問題の見解、国連大学の方向性などについての見解を書簡にして手渡すと共に、1000万人を超える『戦争絶滅、核廃絶を訴える署名』簿をも手渡しました。この背後には、平和を願う青年たちの努力に精いっぱい報いたいとの伸一の熱い思いがありました。(364-366頁)

 この時、伸一は「国連を守る世界市民の会」の提起をしていることが注目されます。〝人類は戦争という愚行と決別し、同じ地球民族として、力を合わせて生きねばならない。それには国家や、民族、宗教等々の枠を超えて、国連を中心に、世界市民として団結し、地球の恒久平和をめざすことだ〟との信念と決意が、その背景にありました。

 国家と国家がエゴをツノ突き合わせる事態は、ますます強まる一方です。そうした時に国家を超えた市民の連帯の渦こそ、重要だとの思いが伸一にはあったのです。当時、既に創価学会SGIの動きも底流にはありました。その確かなる手応えがこうした発言の背後にあったと思われます。それから50年足らず、分断の動き強まり、国連の危機は一段と激しさを増すばかり。伸一の先見の明は明らかなのです。

●キッシンジャー米国務長官との語らい

 ついで、キッシンジャー米国務長官との初の会談がワシントンD.C.で行われます。4年前の1971年(昭和46年)に、米中対立改善への流れを作ったニクソンの電撃的訪中の舞台回しをしたのが、同氏でした。米ソ戦略兵器制限交渉、ベトナム戦争の米軍漸次撤退の動きなどにおける彼の平和への屈強な信念を、伸一は見逃しませんでした。世界の平和に向けて語り合う日を待っていたのです。その思いが遂に実現しました。中東情勢をめぐって、2人は深い語らいをします。

 私は、この1年間における伸一の民間外交にこそ、世界平和を希求する真骨頂を見る思いがします。国家を担う政治家でも、外交の衝にあたる官僚でもない、こんな人物がこれまでこの世界にいたろうか、と深い尊敬の念を抱きます。(2022-8-11)

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【79】「歴史の逆転」は許されない──小説『新・人間革命』第20巻「懸け橋」の章から考える/8-3

●全ては、祈りから始めるとの行動原則

 中国からソ連(現、ロシア)へ。中ソ対立の懸案を解決すべく伸一は、1974年(昭和49年)9月8日、モスクワ大学の招待を受けて、かの国を初訪問します。10日間の滞在でした。大目的は世界の平和を確立することでありますが、その実現には教育・文化交流を通して、人間と人間を友情と信頼の絆で結ぶことしかないというのが伸一の信念でした。その旅のスタートにおける伸一と峯子の行動が読むものの心を打ちます。(172-173頁)

  【伸一と峯子は、荷物を整理すると、すぐに唱題を始めた。祈りから始める──それが彼らの信念であり、行動の原則であった。祈りは誓いであり、決意である。小声ではあるが、真剣な唱題であった。二人は、ソ連の人々の幸福と平和を、そして、いつの日か、地涌の菩薩がこの地にも誕生し、乱舞することを懸命に祈り、念じた。】

 祈りから始めるということは、これまで幾たびか先輩から聞かされてきました。あれこれと思い悩むよりも、まず仏壇の前に座り、ことの成就を祈念するとの原則です。若き日より、観念論に陥りがちであった私は、どうしても「祈り」=観念という定番のパターンを思い浮かべがちでした。それを打ち砕くには、「祈り即行動」との方式に慣れることだと、思い定めて挑んできました。それには祈りの中で、具体的な行動の順序立てを組み立てたり、成功へのイメージを思い描くなどの工夫もしてきたのです。

 また、昔と違って、集合住宅暮らしになり、どうしても小声にならざるをえぬため、元気が出ないと思うことも。それを覆すには、真剣さで熱中するしかないことに気づきました。大声であげられることに越したことはありませんが、小声もまた〝没我で代替〟出来ると、今は思うに至っています。

●「教育」こそ国家の反目を乗り越える力を持つ

 モスクワ大学を訪問した伸一一行は、大学200周年の記念に北京大学から送られたという、横幅2メートルにも及ぶ見事な織物を発見します。国家間の対立はあっても、人民同士の交流は揺るがないとの言葉を聞いて、伸一は直観します。

 【〝これだ!これなんだ!教育交流のなかで育まれた友情と信頼は、国家の対立にも揺らいではいない。この流れを開いていくのだ!彼は小躍りしたい気持ちであった。もう一度、織物を見上げた。教育の大城が、中ソ紛争という国家と国家の反目を、見下ろしているように思えた。】(184頁)

 【教育は未来を創る。伸一が教育に力を尽くしてきたのも、それこそが、新時代建設の原動力であると考えたからだ。】(199頁)

 「教育」の重要性は、様々な機会に目にし、耳に聞きます。それは人間を創ることに通じるからでしょう。 モスクワ大学と北京大学、二つの国を代表する教育の殿堂である大学相互を結ぶ文化の交流は、少々の反目にはびくともしない強固さがあるといえるのです。

 私は、国会で、「外交・安全保障」の分野に一貫して取り組んできましたが、ある時、大学時代の恩師で中国問題の権威であった中嶋嶺雄先生から「外交や防衛も大事だけど、教育はある意味でもっと大事だよ。そろそろ君も国会議員として『教育』に取り組むべきだね」と言われました。その先生はご自身、長く中国問題に通暁されていて、晩年秋田の地でユニークな大学経営に取り組まれる変身を遂げられただけに、重みのある一言でした。その思いに応えられないまま、永遠のお別れしてしまったのは極めて残念なことでした。

●「戦争を起こさないことが大前提」とのコスイギン首相発言

 モスクワ滞在の最終盤で、伸一はコスイギン首相との会談に挑みます。その中で、同首相に伸一は「あなたの根本的なイデオロギーは何か」と問われて、即座に次のように答えます。

 「それは平和主義であり、文化主義であり、教育主義です。その根底は人間主義です。」と。そう聞いた同首相は、「山本会長の思想を私は高く評価します。その思想を、私たちソ連も、実現すべきであると思います。今、会長は『平和主義』と言われましたが、私たちソ連は、平和を大切にし、戦争を起こさないことを、一切の大前提にしています。」(274-275頁)

  池田先生は中ソ対決の真っ只中で、ソ連の指導者から、平和を大事にし戦争は起こさないとの言質をとりました。こうしたやりとりが背景にあり、かつ、のちのゴルバチョフ大統領のペレストロイカという英断もあって、ソ連はロシアへと変貌を遂げました。しかし、それから約30年。プーチンのロシアは隣国・ウクライナに侵略戦争を仕掛けてしまい、もう5ヶ月も悲惨な戦争が続いています。

 歴史の逆転──様々な言い分はあれ、プーチン大統領の行動は、かのヒトラーにも匹敵する無残なものです。これを押し戻すために、私たちは「平和主義」を貫き通さねばならないと、心底から思います。(2022-8-3)

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